ヨブ記を以前読んだときは、互いが自分の正しさを信じて疑わず、それぞれの正しさを主張し合っているように見えて辟易した記憶がある。
だが今回読んでみると、ヨブの訴えは真摯で、それを詩という形で語っているせいか、叙事詩のような味わいさえ感じられてそれなりに楽しく読めた。
内容に共感できるかはともかくとしても、印象としてはポジティブである。
ヨブは正しい人として知られていたが、理不尽なまでの不幸に見舞われる。
彼はその不幸を呪い、自分の無罪を神に向かって訴える。
そんなヨブの主張を聞いて、ほかの三人はそれぞれ異見を口にする。
神の判断にゆだねよ、神に間違いはなく理不尽な目にあったのはそれだけの理由があるからだ。つまりはそういう内容だ。
しかしそんな主張はヨブには届かない。
なぜならヨブは自分の正しさを確信しているからだ。
そしてヨブが望むのは三人の言葉ではなく、神との直接的な会話なのだからだ。
だからこそヨブは神に向かって訴えることをやめず、正当に扱われていないと不平を叫ぶ。
そして神に対して、なぜこのような扱いを受けているのか、という意味のことを問う。
それを狂信的と昔の私は思ったし、意地悪な見方をするならば、現世利益の追求ではないかという疑念も抱いた。
でも今回私はその主張にヨブの真摯な思いを見出した。
それが感じられる以上、狂信的という一語で片付けるのも気の毒な気分にもなる。
少なくともヨブには神に向かって訴えるにあたり相応の覚悟がうかがえるからだ。
その確信は少し強すぎる気もするし、自分を疑うことをしないのだろうか、とつっこみたくもなる。
だけど自分の正しさを疑っていないヨブは、それを主張できるほどの強い自信があるのだろう。
しかしそれだけ強い確信があるせいか、自己憐憫も強く、友人に信じてもらえないことに対する絶望も強い。
ヨブの確信には共感できないまでもその嘆きと主張と思いはすさまじく、怒りに近しいものを感じる。
そしてそれは神の沈黙への怒りとも言えるのではないだろうか。
そういう目線で見れば、これはヨブだけの問題ではなく、世の理不尽に対する著者の怒りとも言えるのかもしれない。さすがにうがちすぎかな。
そんなヨブに対して絶対者としての神はようやくヨブに報いてくれる。
だがそれがハッピーエンドには見えないのは、その神の言葉に神らしい傲慢を見るからだ。
絶対者として存在する神を前にしたヨブは、その絶対性に圧倒されて自分の主張を退ける。
少なくとも私にはそう見えて、もう少し抵抗しろよとも感じた。
しかしそれがヨブの選択である以上、仕方がない。
内村鑑三は『ヨブ記講演』の中で、そういったヨブと神との関係の中に、新約的な神の救いを見出しているけれど、私にはそこまでの深読みはできなかった。
私にとって、この本の中の神は傲岸で、ヨブはその傲岸なまでの絶対性に圧倒されて、屈しざるを得なかったとしか見えない。
そこにもどかしい気持ちもあるのだけど、ヨブの内部に生じた感情の揺れとドラマは心に届いた次第だ。
『聖書(旧約聖書) 新共同訳』
『聖書(新約聖書) 新共同訳』
『創世記』
『出エジプト記』
『民数記』
『申命記』
『ヨシュア記』
『士師記』
『ルツ記』
『サムエル記』
『列王記』
『歴代誌』
『エズラ記』
『ネヘミヤ記』
『エステル記』
『ヨブ記』
だが今回読んでみると、ヨブの訴えは真摯で、それを詩という形で語っているせいか、叙事詩のような味わいさえ感じられてそれなりに楽しく読めた。
内容に共感できるかはともかくとしても、印象としてはポジティブである。
ヨブは正しい人として知られていたが、理不尽なまでの不幸に見舞われる。
彼はその不幸を呪い、自分の無罪を神に向かって訴える。
そんなヨブの主張を聞いて、ほかの三人はそれぞれ異見を口にする。
神の判断にゆだねよ、神に間違いはなく理不尽な目にあったのはそれだけの理由があるからだ。つまりはそういう内容だ。
しかしそんな主張はヨブには届かない。
なぜならヨブは自分の正しさを確信しているからだ。
そしてヨブが望むのは三人の言葉ではなく、神との直接的な会話なのだからだ。
だからこそヨブは神に向かって訴えることをやめず、正当に扱われていないと不平を叫ぶ。
そして神に対して、なぜこのような扱いを受けているのか、という意味のことを問う。
それを狂信的と昔の私は思ったし、意地悪な見方をするならば、現世利益の追求ではないかという疑念も抱いた。
でも今回私はその主張にヨブの真摯な思いを見出した。
それが感じられる以上、狂信的という一語で片付けるのも気の毒な気分にもなる。
少なくともヨブには神に向かって訴えるにあたり相応の覚悟がうかがえるからだ。
その確信は少し強すぎる気もするし、自分を疑うことをしないのだろうか、とつっこみたくもなる。
だけど自分の正しさを疑っていないヨブは、それを主張できるほどの強い自信があるのだろう。
しかしそれだけ強い確信があるせいか、自己憐憫も強く、友人に信じてもらえないことに対する絶望も強い。
ヨブの確信には共感できないまでもその嘆きと主張と思いはすさまじく、怒りに近しいものを感じる。
そしてそれは神の沈黙への怒りとも言えるのではないだろうか。
そういう目線で見れば、これはヨブだけの問題ではなく、世の理不尽に対する著者の怒りとも言えるのかもしれない。さすがにうがちすぎかな。
そんなヨブに対して絶対者としての神はようやくヨブに報いてくれる。
だがそれがハッピーエンドには見えないのは、その神の言葉に神らしい傲慢を見るからだ。
絶対者として存在する神を前にしたヨブは、その絶対性に圧倒されて自分の主張を退ける。
少なくとも私にはそう見えて、もう少し抵抗しろよとも感じた。
しかしそれがヨブの選択である以上、仕方がない。
内村鑑三は『ヨブ記講演』の中で、そういったヨブと神との関係の中に、新約的な神の救いを見出しているけれど、私にはそこまでの深読みはできなかった。
私にとって、この本の中の神は傲岸で、ヨブはその傲岸なまでの絶対性に圧倒されて、屈しざるを得なかったとしか見えない。
そこにもどかしい気持ちもあるのだけど、ヨブの内部に生じた感情の揺れとドラマは心に届いた次第だ。
『聖書(旧約聖書) 新共同訳』
『聖書(新約聖書) 新共同訳』
『創世記』
『出エジプト記』
『民数記』
『申命記』
『ヨシュア記』
『士師記』
『ルツ記』
『サムエル記』
『列王記』
『歴代誌』
『エズラ記』
『ネヘミヤ記』
『エステル記』
『ヨブ記』