私的感想:本/映画

映画や本の感想の個人的備忘録。ネタばれあり。

ウィリアム・シェイクスピア『ロミオとジュリエット』

2014-07-16 21:08:32 | 戯曲

モンタギュー家の一人息子ロミオは、キャピュレット家の舞踏会に仮面をつけて忍びこんだが、この家の一人娘ジュリエットと一目で激しい恋に落ちてしまった。仇敵同士の両家に生れた二人が宿命的な出会いをし、月光の下で永遠の愛を誓い合ったのもつかのま、かなしい破局をむかえる話はあまりにも有名であり、現代でもなお広く翻訳翻案が行われている。世界恋愛悲劇の代表的傑作。
中野好夫 訳
出版社:新潮社(新潮文庫)




恋愛悲劇の古典として有名な作品なのだが、読む前にもっていたイメージと違っていて、ただ驚くばかりだ。

僕の『ロミオとジュリエット』のイメージはもう少しロマンチックで、耽美的な味わいさえあると思っていた。
だけど、実際は饒舌でスピーディで、情緒不安定気味っていう印象を強く抱く。
ロマンスとしてはあまりに余韻がない、っていうのが率直な感想だ。



そう感じた要因は展開が速すぎるってのが大きいような気がする。

ロミオはそれまで気になる女がいたようだが、もぐりこんだパーティでジュリエットを見て一目ぼれする。そしてジュリエットもまたロミオに一気に惹かれることになる。
まあ別にいいのだけど、ちょっと都合良すぎるんでないの、とまじめにつっこみたくなるような展開だ。


そこからのお話の進行はとにかく速い。
ロミオもジュリエットも視野狭窄的に行動するから、よけいそう感じるのかもしれないが、あんまりに二人は突っ走りすぎているように見える。
最後のふたりの死も、結局恋している自分たちにうっとりしすぎた結果と見えてならない。

言うなれば、恋愛ゆえの感情過多な暴走である。
はっきり言って、子供の恋愛としか見えない。
そのため読んでいる間は引いてしまう面もある。

もちろん二つの家の対立が生んだ悲劇である面は否定しない。
だがそれでもこの感情過多は僕には馴染めず、正直なところ、お話に入っていけなかった。


加えてあまりに饒舌すぎるセリフのやり取りに、日本人の僕としてはうんざりしてしまう。
一言で言うならば、僕と『ロミオとジュリエット』は合わないということなのだろう。
世界的に著名な作品のため、ちょっと自分にがっかりだ。


そんな中で、中野好夫は訳をがんばっているという印象を受ける。
日本語にしづらい作品を、作品の雰囲気を損なうことなく、訳出しようとしているのが伝わり、そこは好印象。

だがその努力が前に出過ぎている分、使う日本語がすでに古びている面は否めない。
できれば新訳でもう一度読んでみたい。少なくともそう感じさせてはくれた。

評価:★(満点は★★★★★)
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ウィリアム・シェイクスピア『リア王』

2014-07-03 20:38:36 | 戯曲

とつぜん引退を宣言したリア王は、誰が王国継承にふさわしいか、娘たちの愛情をテストする。しかし結果はすべて、王の希望を打ち砕くものだった。最愛の三女コーディリアにまで裏切られたと思い込んだ王は、疑心暗鬼の果てに、心を深く病み、荒野をさまよう姿となる。
安西徹雄 訳
出版社:光文社(光文社古典新訳文庫)




シェイクスピアの四大悲劇に挙げられる作品だが、確かに悲劇としか言いようのない結末である。
その結末には予定調和がなく、それだけに軽いショックを受け、心をゆさぶられた。
そういう点、いい作品だと思うのだ。



主人公のリア王は、三姉妹に国を分割するため、自分への愛を確かめるような言葉を娘たちに言わせる。それに対して末娘のコーディリアは、父に従うが、嫁いだ以上は夫にも愛情を向けなければならない、と素直に自分の心を告げる。

誠実な言葉だが、リア王はその言葉に激怒してしまう。
この感情の激しさには辟易するほかなかった。ちょっと怒りすぎだろ、と思うほどだ。
そしてその直情的な性向ゆえに、リアは末娘の真の愛情にも気づくことはできないのだ。
挙句、国を分け与えた途端、上の娘たちから冷たい対応を取られてしまう始末である。


その悲劇的な流れは、リア王にも責任の一端はあろう。
彼は直情的で、横柄なところもある人だ。
確かに王だから偉いのは当然だが、人の反発を買いかねない態度だなとは読んでいて感じた。だから自業自得の部分もある。

だがそれにしたってゴネリルたちが非情すぎるのは言うまでもない。
その結果、リア王は発狂をしてしまう。惨い流れとしか言いようがない。

そして他者の野心がせめぎ合う中、さらに悲惨な隘路へと迷い込んでいく。



そんな中で、コーディリアたちフランス王は、リア王のために立ち上がる。
旧主に従う人たちも現れていると言うし、普通に考えれば、リアとコーディリアの軍勢が勝つと思うのが筋だろう。

しかしそうならないところが、この劇のすごいところだ。
まったく予定調和に陥らない、悲劇の徹底ぶりには感心する。

そしてその後には、さらに残酷な結末が待ちうけている。
これを悲劇と言わずして何と言おうか。


老王に訪れるのは、あくまで悪夢のような現実だ。
そのため彼は精神もぼろぼろになっていく。
人生では、ほんの些細なミスが、時として人の運命を狂わせていく、のかもしれない。

ともあれ、残酷な人間世界の一端を示すような作品である。
深く心に突き刺さる作品だ。

評価:★★★★(満点は★★★★★)



そのほかのウィリアム・シェイクスピア作品感想
 『ジュリアス・シーザー』
 『リチャード三世』
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ウィリアム・シェイクスピア『リチャード三世』

2014-06-28 22:31:58 | 戯曲

身体に障害を負った野心家グロスター公リチャードは、兄のエドワード四世王が病に倒れると、王劇を狙い、その明晰な知能と冷徹な論理で、次つぎに残忍な陰謀をくわだて、ついに王位につく―。魔性の君主リチャードを中心に、薔薇戦争へといたるヨーク家の内紛をたどり、口を開いた人間性のおそろしい深淵に、劇詩人シェイクスピアが、真っ向からいどんだ傑作史劇である。
福田恆存 訳
出版社:新潮社(新潮文庫)




イギリス史の予備知識を必要とする作品である。

この作品は、いわゆる薔薇戦争の時代を扱っており、その時代のことを知っていないと混乱することも多い。
僕の場合だと、薔薇戦争の知識は、ランカスター家とヨーク家の争いという程度だったので、ずいぶん混乱してしまった。

特にわかりにくいのが、ランカスター家とヨーク家の関係だ。
ランカスター家の国王ヘンリー六世の妻マーガレットと、ヨーク家のリチャード三世の関係などは、よくわからなくて混乱する。
それにつけても、登場人物が多いので、血縁関係がわかりづらい。

だがある程度のところまで読み進むと、流れに乗ることができるのだ。
その後は単純に物語のおもしろさを堪能することができた。


この作品の良さは、世評でも言われている通り、リチャード三世のキャラクターに依る所が大きい。

せむしの彼は、権力を得るためにあらゆる後ろ暗い手段に手を染めていく。
その非道っぷりは圧巻の一言だ。

自分が殺した政敵の女を妻にし、兄をだまして暗殺し、兄の死を王妃のせいにするなど権謀術数を費やしていく。
自身が国王となるためなら、幼い子供を殺すことにもためらいはない。
権力を得るため利用していた仲間を殺すなど、その外道な行動は感服する他なかった。

そしてそのために口達者に相手を説き伏せていく姿も、見事だった。
弟や息子や夫を殺され、自分を憎んでいるはずのエリザベスの心に迷いを生じさせていくところなどは、ぞくぞくとしてしまう。

こういったところも含め、リチャード三世の悪役としての存在感は際立ったものがある。


だがそのために彼が取った方法は、やはり露骨だったことはまちがいない。
裏で暗殺をしながら、皆の前では茶番を演じるなど、その白々しさはない。

そして彼は多くの人を殺し過ぎたのだ。それゆえ後に待っているのは転落しかないのだ。


彼の最期のシーンは圧巻だった。
自分が殺した者たちの亡霊に悩まされたせいか、絶望的な戦況になってからのリチャード三世の姿には鬼気迫るものがあった。

「馬をくれ! 馬を! 代りにこの国をやるぞ、馬をくれ!」の絶叫は本当に狂っているとしか思えず、ぞわりとする。
そういう意味、死に際も含めて、強烈なインパクトを残すキャラクターと言えよう。


そんな外道の男の行動と言動が、忘れがたい作品である。
シェイクスピア劇の中でも、トップクラスのおもしろさと思った次第だ。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)



そのほかのウィリアム・シェイクスピア作品感想
 『ジュリアス・シーザー』
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バーナード・ショー『ピグマリオン』

2013-12-25 20:45:10 | 戯曲

強烈なロンドン訛りを持つ花売り娘イライザに、たった6カ月で上流階級のお嬢様のような話し方を身につけさせることは可能なのだろうか。言語学者のヒギンズと盟友ピカリング大佐の試みは成功を収めるものの…。英国随一の劇作家ショーのユーモアと辛辣な皮肉がきいた傑作喜劇。
小田島恒志 訳
出版社:光文社(光文社古典新訳文庫)




本作を元につくられた映画、『マイ・フェア・レディ』については未見である。
せいぜい知っていることと言えば、田舎娘が様々な訓練を経て淑女に生まれ変わるといった程度のものでしかない。まあベタなラブストーリーなのだろうな、と漠然と思っていた。

しかし原作は、そんな大衆の期待とは裏腹のラストとなっており印象に残る。
付された「後日譚」といい、作者のこだわりを見るような作品だ。



花売り娘のイライザは激しい訛りを持った女性だ。
山出し娘といった感じがまるだしで、奇妙な泣き声と言い、見ている分にはおもしろい。

言語学者ヒギンズらは、そんなイライザに上流階級のしゃべり方や作法を身につけさせようと賭けを行なう。
作法がまだ板についていない第三幕は笑ってしまう。
とってつけたように上品なしゃべり方をするけれど、簡単に地が出てしまうところなどはユーモラスだ。喜劇の良さが出ていてなかなか楽しい。


そんな彼女は持ち前の耳の良さもあって、上流階級の話し方を習得するに至る。
そして事件はその後に起こるのだ。

イライザが求めているのは、必ずしも上流階級の地位や名誉ばかりではない。
ただ周囲の人間から普通の人間として扱ってほしいという極めてまっとうなものなのだ。
それは自尊心を尊重してほしいということなのだろう。

しかしヒギンズという人に、それは通じない。
彼は傲慢で、人の心を慮るのが下手で、周囲をよく傷つけている。
そしてそれは彼が育てたイライザに対しても同じなのだ。


イライザは一人の人間として自分を見てほしいだけなのに、ヒギンズは下女か何かのようにイライザを扱い、ときには無視して素通りもする。
ヒギンズとしてはそういう意図はないらしいが、少なくともそうイライザに思わせるような態度であることはまちがいない。
彼自身は、自分の行動に無自覚なだけにそれは性質が悪い。
そこにあるのは価値観と認識の差である。

ヒギンズは結局そういう態度しか取れない人なのだと思う。
そしてそれがどこか彼の孤独を思わせるようで、悲しくもあるのだ。
劇のラストの哄笑は、彼の救いのなさを見るような気がして、切ない思いにさせられた。



個人的にはこのラストで終わるのがベストで、後日譚は蛇足だと感じる。
作者がそれを書いた意図は理解するけれど、やっぱりよけいだ。
それが少し不満だが、戯曲単品として見るなら、なかなかおもしろいと感じた次第である。

評価:★★★★(満点は★★★★★)
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『あ・うん 向田邦子シナリオ集Ⅰ』 向田邦子

2012-06-05 21:06:37 | 戯曲

昭和十年、東京・芝三光町あたり―。製薬会社勤めでつつましく暮らす水田仙吉一家を、軍需景気で羽振りのいい鋳物工場社長の門倉修三が迎えた。一対のこま犬のような二人の友情を軸に、ふた家族六人と、お妾さんに子供、山師仲間と謎の親戚らが織り成す人間模様。戦争間近の情景と、ユーモアあるセリフ、秘めたる性の表現を、十八歳の一人娘さと子の目線で描ききる。高視聴率を記録した、向田邦子最後の長編ドラマ。関連資料付。
出版社:岩波書店(岩波現代文庫)




『あ・うん』は向田邦子の代表作の一つとみなされているらしい。
だから期待して読んだのだけど、正直合わない作品だった。

それもこれも、本作の肝でもある仙吉と門倉の友情が、最後まで感覚的に受け入れることができなかったからだ。
こんな友情は存在するのか、という疑問がどうしても去らず、物語に入り込めない。
これはもう相性というほかないのだろう。


仙吉と門倉の友情はいびつである。

寝台戦友というきずなで結ばれた二人は、軍隊を離れてからも友情を育んでいる。
だが門倉は妻がありながら、仙吉の妻のたみのことを思っている。しかし門倉は最後までたみには手をつけない。そして仙吉も門倉の想いを知りながら、それを黙認している。
そんな三角関係で成り立っているのが、仙吉と門倉の友情だ。

別にそういった設定そのものは悪くないと思う。
どう見てもいびつではある。けれど、ふしぎな距離感自体はおもしろそうだ。

にもかかわらず、仙吉と門倉の友情を最終的に受け入れられなかったのは、大枠の部分ではなく細部にある。


たとえば1話目の「こま犬」。
門倉は数年ぶりに東京に戻ってくる仙吉一家のために、家の世話までして、風呂を沸かしたりするなど、かいがいしく働いている。
また仙吉とたみとの間に、子どもができるのだが、門倉は仙吉に対し、女の子ができたら養子にくれ、と言い、仙吉もそれに応じたりしている。
門倉は仙吉のためにかいがいしく動き、仙吉も門倉のために、彼の望むことをしてやろうと、一心に思っている。

そういうのを麗しい友情と見る向きもあるのだろう。こういう友情を育む人たちもいるのかもしれない、とも感じる。
しかし、その二人のやり取りがどうしても納得いかないのだ。

それは、そこに描かれた友情が、卑屈と表裏一体にすぎる、と見えてならないからだ。
男の友情とは、果たしてそういう性質のものだろうか。
ちがうんじゃないの、という気持ちが、感覚的な意見だが、最後まで抜けない。


個人的には、初太郎と、イタチと金歯の関係の方が、よほど男の友情らしく感じられた。
三人は文字通りの悪友で、金を騙し取ったりして、ひどいことをしている関係だけど、なんだかんだで腐れ縁的な仲のよさはあり、ちょっと互いに突き放した感じもあるけれど、それでいて一周忌には顔を出す程度の義理堅さもある。
こういうタイプの友情の方が、僕の乏しい経験から見ると、自然だ。

何か小姑のようにネチネチとネガティブなことばかり書いたが、物語の根幹とも言うべき、仙吉と門倉の関係に、納得いかない、ということは否定できそうにないらしい。


だがそれさえ除けば、本作がレベルの高い作品ということは確かなのだ。

まずエピソードが豊富で飽きさせない、という点が良い。
仙吉と門倉とたみの三角関係に、君子や禮子のように門倉の妻や愛人の問題、まり奴と仙吉と門倉の問題、などの、男と女の関係を描くことで、仙吉、たみ夫婦と門倉の、微妙で、不可思議で、壊れそうで、その実安定した距離感と関係性をあぶり出している点はさすがである。
そこに、仙吉と初太郎の親子の関係、一人娘の恋愛問題などもからませつつ、物語を盛り上げていくあたりも、かなり上手い。

この作品の根幹である、仙吉と門倉の関係を受け入れられなかったが、それが受け入れられたら、もう少し本作を楽しめたのだろうな、とすなおに感じられる。

僕にとって、この作品はいろんな意味で、本当に残念な作品であった。

評価:★★(満点は★★★★★)



そのほかの向田邦子作品感想
 『阿修羅のごとく 向田邦子シナリオ集Ⅱ』
 『思い出トランプ』
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『セールスマンの死』 アーサー・ミラー

2012-05-23 20:53:21 | 戯曲

かつて敏腕セールスマンで鳴らしたウイリー・ローマンも、得意先が引退し、成績が上がらない。帰宅して妻から聞かされるのは、家のローンに保険、車の修理費。前途洋々だった息子も定職につかずこの先どうしたものか。夢に破れて、すべてに行き詰った男が選んだ道とは……家族・仕事・老いなど現代人が直面する問題に斬新な手法で鋭く迫り、アメリカ演劇に新たな時代を確立、不動の地位を築いたピュリッツァー賞受賞作
倉橋健 訳
出版社:早川書房(ハヤカワ演劇文庫)




平凡である、という事実を受け入れるのは、時においては難しい。
本作の主人公ウイリー・ローマンもそれは同じであるようだ。


ウイリーはサラリーマンで、家のローンの完済も間近く、息子たちは家を出ている。
言うなれば普通の男のわけだが、彼には彼なりのプライドがあり、セールスマンとしてしっかり働いてきた、という自負がある。
しかし息子たち、特に長男のビフは職を転々としており、それがウイリーをやきもきさせている。戯曲の世界をまとめるなら、そういった感じだ。


ビフに対するウイリーの期待は極めて高い。
むかしはすばらしい生徒だったこともあり、いつまでもそのときの幻想を引きずり、大人になっても息子にその影を重ねているような始末だ。

しかし、当のビフ本人は、どこにでもいるような平凡な男でしかない。
だからこそ、いつまでも優秀な生徒だったときの影を、自分に求める父に反発している。
後半になって、ビフがウイリーに向かって、「お父さんはぼくがどんな人間か見ようとしないんだから、議論してもしょうがない」と怒鳴るけれど、そういう風に言いたくなる気持ちだってわかるというものだ。

だが、ウイリーとしては、期待が大きい分、息子が大した人間ではない、という事実を見つめたくないのだろう。
ウイリーは、理想からはずれた、ありのままの事実でなく、幻想を追い求めたい人なのだ。
その姿が、読んでいると痛ましく感じられつらい。

だけど、そんなウイリーの姿こそ、彼自身の弱さを体現してもいる。


ウイリーはビフのことに限らず、弱い男だ。
実際精神的にまいっていることをうかがわせる場面は多く登場する。
独り言は多いし、頻出するフラッシュバックには病的な印象すら受ける。

彼の心をそのように追いつめているのは、理想と現実との間にギャップがあるからだろう。
もちろんその理由は、ビフによる面もあるけれど、当人であるウイリー自身、自分が思い描く理想から乖離していることが何よりも大きい。

ウイリーは顔の広い、売れっ子のセールスマンで、かつては販路も拡大してきた。
だが現在の彼はむかしのようなサラリーマンではない。
過去の伝手を切れてしまったし、いまでは解雇手前の状況で、斡旋されている再就職先も(おそらくプライドから)蹴ろうとし、借金も残っている。
それが、彼の理想と大きくかけ離れていることは想像に難くない。


ウイリーが理想としているのは、自分の兄であるベンのようだ。
兄のベンはアラスカに行き、事業を成し遂げるのだが、ウイリー自身は手伝ってくれ、という兄の申し出を、過去に断ったことがある。

理想に挑み続け、財産を残したベン。
平凡な道を選択し、一時は成功したものの、やがては袋小路に陥り、何かを築くこともできないまま、没落しようとしている自分。
その大きなギャップが、ウイリーに現実を直視することを避け、過去に逃げる遠因にもなっていることがうかがえる。
ビフにやたら理想を賭けるのも、そんな自分のギャップも大きいのかもしれない。

もちろん、満たされなかった想いを押し付けられる息子としては、たまったものじゃない。
だが、そういう方向に逃げざるをえないウイリーがただただ悲しく、どうにも痛い。


ウイリーには、もっとシンプルな解決法があったはずだ。
たとえば、ありのままの自分自身を受け入れ、ビフの生き方も認めることができたのならば、ウイリー自身、楽になれたことだろう。

だがウイリーは自分の弱さゆえ、その弱さを受け入れることを拒み、ちがう方向に強さを発揮してしまった。
そんなウイリーをただただ哀れに思う。

はっきり言って、痛ましさと暗さを感じさせる作品だが、胸の奥に深く突き刺さる力がある。
優れた戯曲、そう言ってもいい作品であった。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)
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『シラノ・ド・ベルジュラック』 エドモン・ロスタン

2012-04-10 21:34:50 | 戯曲

ガスコンの青年隊シラノは詩人で軍人、豪快にして心優しい剣士だが、二枚目とは言えない大鼻の持ち主。秘かに想いを寄せる従妹ロクサーヌに恋した美男の同僚クリスチャンのために尽くすのだが……。1世紀を経た今も世界的に上演される、最も人気の高いフランスの傑作戯曲。
渡辺守章 訳
出版社:光文社(光文社古典新訳文庫)




本作の良さを語る上で欠かせないのは、語りの勢いと、主人公シラノのキャラクターだ。

表記は韻文分かち書きという特殊な形態を取っているけれど、語りは古典とは思えない勢いがあり、新訳の良さが存分に出た格好だ。

特に、シラノの語りが抜群にいい。
彼の語る詩は臨場感に富んでいて、勢いがべらぼうにいいのだ。
その言葉のテンポに乗せて、場面を追っていくのは、非常に楽しい体験だった。
訳注などを読む限り、訳者も演出家としての視点から、かなりプライドをもって訳しているのがわかり好ましい。


そんな彼の語りに依る面も大きいが、このシラノ・ド・ベルジュラックという男は、最高に魅力的なやつでもある。

シラノは鼻が異様に大きな醜い男だが、容貌にとどまらず、すべてにおいてキャラが濃い。
最初の登場シーンからして、むちゃくちゃだ。
役者の演技が下手だ、と野次を飛ばして芝居を台無しにするし、相手の顔をいきなりぶん殴るような喧嘩っ早いところもある。無頼であること甚だしい。
この人はひでえな、と感じてしまい、少し引いてしまうときもあった。


しかし先にも触れたように、言葉は達者なのである。
詩のような言葉を流麗に操るところは、はっきり言ってかっこいい。

それに加え、物売り娘に見せる態度など、粋っ!と叫びたくなるほど気風が良いし、戦場の場面で青年隊に対して、ウィットに富んだ返答をするところなどは、頭の良さを感じさせて、おもしろい。
それでいて、要望の醜さから、ロクサーヌに思いを伝えられずもじもじするところなどは、うぶか? と言いたくなるほどにかわいらしいのだ。
クリスチャンに対する思いをロクサーヌが吐露する場面もおもしろかった。はあ!っていうセリフなんかは、彼の間の抜けた素の部分も出ていて、笑えてしまう。

シラノは、基本的に直情径行なのだろう。
それゆえ感情表現は豊かで、その、人としてのまっすぐさが、僕の心にぐいぐいと届き、彼の強い個性に魅了されてしまう。

そんな性格もあってか、シラノは男気というポイントも満点である。
特にクリスチャンに対する態度は、彼の善意がにじみ出ているようだ。
両思いのクリスチャンとロクサーヌのため、恋の仲立ちをしたり、クリスチャンの代わりに、自分の思いを抑え、手紙を書くところなどは、シラノのいい人っぷりがうかがえてすばらしい。
第四幕の最後などは、彼の優しさと悲壮さがうかがえて、じんわりと胸に響いてくる。


というわけで、全編にわたり、シラノの「心意気」に満ち満ちているような作品だった。
百年以上前の作品だが、主人公の存在が、現在においても燦然たる魅力を放っている。
古典の魅力を再発見できる、古典新訳文庫の名に恥じぬ一品である。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)
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『サド公爵夫人・わが友ヒットラー』 三島由紀夫

2012-03-31 08:11:42 | 戯曲

獄に繋がれたサド侯爵を待ちつづけ、庇いつづけて老いた貞淑な妻ルネを突然離婚に駆りたてたものは何か?――悪徳の名を負うて天国の裏階段をのぼったサド侯爵を六人の女性に語らせ、人間性にひそむ不可思議な謎を描いた『サド公爵夫人』。独裁政権誕生前夜の運命的な数日間を再現し、狂気と権力の構造を浮き彫りにした『わが友ヒットラー』。三島戯曲の代表作二編を収める。
出版社:新潮社(新潮文庫)




常識的に見て、まちがったこと、ゆがんだこと、悪いこととは知っているけれどついやってしまうこと、大仰な言葉を使うなら、悪もしくは背徳に惹かれる人は少なからずいる。
程度の大小や、事象の種類にこだわらなければ、ある程度の人はそういう感情を持っていると思う。
少なくとも、そういったことを想像するくらいならたいていの人はする。

だが人が悪や背徳に惹かれるのは何に依るのだろうか。
背徳的な行為そのものに惹かれるのか、それとも道徳からはずれた自分自身に惹かれているのだろうか。それとも背徳を行なう人物に惹かれ、自分もその世界に踏み込むのか。
そんないろいろなことを本作を読むと考えてしまう。


表題作『サド公爵夫人』はサディズムの語源にもなった、マルキ・ド・サドを妻や姑たちの視点から描いた物語だ。

内容は最後こそ文学的でやや小難しいが、物語としてはなかなか楽しい。
サド公爵夫人ルネをはじめとして女性たちは鬼気迫るものがあるし、感情のぶつかり合いは恐ろしく、そのこわさがおもしろい。

特にルネの存在が印象的だ。
ルネは夫が退廃的であることは重々承知している。
自分という妻の存在がありながら、夫が妹と逃亡していることも知っているし、それを容認もしている。また後年にはサドの、文字通りサディスティックな行為も受け入れている。

しかし表向き、彼女はあくまで貞淑な妻なのだ。その二面性が少しこわい。
「おまえが貞淑というと妙にみだらにきこえる」と母親が言うのも当然だと思う。


だが人間は常に多面的な存在でもある。その恐ろしい二面性もまた人の真実だろう。
だから、貞淑を体現しながら、同時に背徳に惹かれているのは、人間のあり方とは自然だろうし、業であるのかもしれない。

そして同時に、貞淑をやたらに強調するのは、貞淑であるほどそんな自分の背徳的行為が際立つから、行なっているのかもしれないなとも思えてしまう。


そんなルネの姿は、見ようによっては、自己陶酔の側面が強いよな、なんて思う。

特にラストのサドに対する賛美の言葉はその思いを強くさせる。
彼女はその場面で、背徳を突き詰めて、独自の世界に至るサドを絶賛している。
だがそれは実際の生身のサドそのものに対する賛美ではないのだ。ルネが淫しているのは、背徳という行為の概念にすぎないのではないだろうか。

そしてそれは裏返すと、背徳という行為に走り、それに惹かれる己自身に対する自己愛なのではないか、と僕には見えてならない。
そしてそんな彼女の姿もまた、人、という存在そのものなのかもしれない。

ともあれ文学的香気に満ちた、優れた戯曲である。

 ※

もう一方の表題作、『わが友ヒットラー』は、「長いナイフの夜」と呼ばれるナチスヒトラーによる粛清事件を背景に描いた戯曲だ。

そこで描かれるヒトラーをめぐる人物たちの各人の思惑がおもしろい。
政敵であるシュトラッサーに、ヒトラーの友人にしてだんだん疎ましい存在になりつつあるレーム、ナチスに取り入るべきか判断を留保している死の商人クルップなど、それぞれの思惑と権力闘争の様がおもしろい。


個人的にはレームが強く印象に残った。
彼は粗暴な性質もあり、自己顕示欲も強く、自分の軍隊を大きくしようと考えるあまり、大局も読めていない。それでも友人を無邪気に信じる側面もある。

基本的に彼は純粋なのだろうな、という風に感じる。
そしてそれゆえ、子どもじみた態度を取り、ときに愚かしい結末を迎えるに至るのだ。それがとても悲しい。


ヒトラー自身、レームを殺すことには迷いがあったことはうかがえる。
だけど権力という装置の中心にいる彼にも、そういったレームを排除する動きを止めることはできないのだろう。

最後の言葉はだからこそ、恐ろしいまでの皮肉を感じざるをえない。
「政治は中道を行かなければなりません」と言ったヒトラーは、その後、中道とは真逆の極論へ走ることとなる。

そういった狂気じみた政策を推し進めたのは、ヒトラー個人の思考によるものではある。
だが同時に、それを推し進めていくのは、権力という装置の悪魔的な側面によるところが大きかったのかもしれない。
そう読み終えた後に感じた次第だ。

評価:★★★★(満点は★★★★★)



そのほかの三島由紀夫作品感想
 『春の雪 豊饒の海(一)』
 『奔馬 豊饒の海(二)』
 『暁の寺 豊饒の海(三)』
 『天人五衰 豊饒の海(四)』
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『動物園物語/ヴァージニア・ウルフなんかこわくない』 エドワード・オールビー

2011-06-01 20:45:35 | 戯曲

ある日公園でピーターはジェリーという男に出会う。問われるまま家族や仕事のことを話す。やがて饒舌なジェリーに辟易し、遂に…不条理な世界に巻き込まれた常識人を描くデビュー作「動物園物語」。
パーティ帰りの真夜中、新任の夫婦を自宅に招いた中年の助教授夫妻。やがて激しい罵り合いが…幻想にすがる人間の姿、赤裸々な夫婦関係を描く「ヴァージニア・ウルフなんかこわくない」。
現代演劇の第一人者の傑作二篇。
鳴海四郎 訳
出版社:早川書房(ハヤカワ演劇文庫)




『ヴァージニア・ウルフなんかこわくない』が圧倒的におもしろかった。
というよりも、むちゃくちゃこわかった。

内容としては夫婦ゲンカの話で、主人公であるジョージとマーサ夫婦は冒頭から口ゲンカをしており、ラスト近くに至るまでケンカをやめない。
それが本作をこわいと感じた理由であろう。


二人のケンカには一つの攻撃パターンがある。
妻のマーサは自分の父親を引き合いに出して、夫の無能をなじり、夫のジョージはそんなことを平気で述べる妻を、軽蔑を浮かべながら、目一杯の憎しみをこめてののしっている。

二人の言葉は、相手の心を傷つけることを意図して口にされた言葉ばかりだ。
おかげで読んでいるこっちの心まで傷つかずにいられない。
何でこんな口にしてはいけないことばかり、互いに言い合うのだろう、と思い、寒気を覚えてしまう。

圧巻は第二幕、ジョージの小説の内容をマーサが暴露するところから、ニックとハネーの結婚の秘密をジョージがばらすまでのところだ。
そのシーンを短くまとめるならば、残酷かつ醜い、であろう。
おかげで読んでいる僕まで、いたたまれないような気分になってしまう。

二人はただ互いが抱えている憎しみを、相手に向かってぶつけあっているだけなのだ。
それだけに二人の姿が、むちゃくちゃ恐ろしく見えてならない。


そんなジョージとマーサ夫妻の間には、子どもが一つのネックとなっているらしいことが徐々にわかってくる。
それに対するオチは正直言って読めてしまう。
だがそれを抜きにしても、この夫婦がここまでねじれてしまった理由に思いを馳せずにはいられないのだ。

その子どもというキーワードからは、
相手を責めずにはいられない心情。
ののしられる自分を甘んじて受け入れる感情。
相手が不貞を働いてもそれを黙認する卑屈さ。
そして相手を思いやらず、真剣に向き合うことを避ける卑怯。
相手の自由にすればいいさ、という相手のことを尊重するふりをしながら、相手の感情から目を背け続けるずるさ、などが見えてくる。

それらは本当に悲しいことだ。
その結果として、こんな形で夫婦が憎みあうのだとしたら、それはあまりに悲惨で残酷ではないか。


そんな夫婦は、ラストに至り、一つの破局を迎えることとなる。
それは見ようによっては残酷かもしれない。だがこの憎み合う二人にはぜひとも必要な破局だったのだろう。

そのような形で、ある種の終わりを迎えた夫婦に、どのような未来が待ち受けるかはわからない。
だけどその終焉をきっかけに、現実というものに目を向け始めた彼らは、自分たちの現状をいまよりも真正面から受け入れられるのではないか、と思うのだ。

読んでいる間、暗い気分にもなったが、そのシーンには微妙に希望が感じられる。
そしてそのはっきりしない希望が、シーンと深く胸に響き、僕の感情に強く訴えかけてくる。

ドキドキしながらも心は沈み、読んでいる間、眉をひそめることもあったりする。
だけど本当に困ったことだが、この作品はそれにもかかわらず、傑作なのかもしれない。



『動物園物語』もおもしろい。
かみ合わない二人の会話から、ジェリーの孤独が少しずつ明らかになる様はお見事。
コミュニケーションというものについて考えずにいられない作品である。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)
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『カリギュラ』 アルベール・カミュ

2011-02-16 20:41:39 | 戯曲

“不可能!おれはそれを世界の涯てまで探しに行った。おれ自身の果てまで”。ローマ帝国の若き皇帝カリギュラは、最愛の妹ドリュジラの急死を境に、狂気の暴君へと変貌した。市民の財産相続権の剥奪と無差別処刑に端を発する、数々の非道なるふるまい。それは、世界の根源的不条理に対する彼の孤独な闘いだった…『異邦人』『シーシュポスの神話』とともにカミュ“不条理三部作”をなす傑作、新訳で復活。
岩切正一郎 訳
出版社:早川書房(ハヤカワ演劇文庫)




ローマ帝国の暴君カリギュラを主人公にした演劇だが、その人物像にはカミュらしさがあるように感じる。
僕が読んだカミュの作品は『異邦人』と『ペスト』だけだし、実存主義のことを正しく理解しているとは言いがたいから、その直感が正しいかはわからない。
ただこの作品には、自分の行為と、存在に対する不安が描れており、それが僕にはカミュっぽく感じられた。


ローマの皇帝カリギュラは妹の死を境に、悪逆非道の虐殺行為を始めるようになる。それが物語のメインの流れだ。

カリギュラがそのような残虐な行為に走ったのは、愛人でもある妹の死に打ちのめされたから。というのが表面的な理由だ。
だが本作の主人公カリギュラは、自分が打ちのめされている理由を、そのように単純化して受け止めたりはしない。彼は妹の死を見つめた結果、彼女の死の中に世界の不条理を見出すのである。
そして妹の死を通して、カリギュラが悟ったことは以下の通りだ(と僕は受け取った)。

人は結局最終的には死ぬよりほかなく、世界は死を前にしている以上、無意味でしかない。

そういうことだ。その結果、カリギュラはそんな世界の不条理に抗い、対峙しようと試みる。
言っては悪いが、カリギュラ――かなりめんどくさい。


彼がまず手始めに行なったことは、自分が不条理を与える側になることだ。
世界には不可能と虚無と無意味があふれている。だからこそ、彼は自分がその無意味を生み出す側に立とうと、行動する。
そうすることで、彼は自分なりに世界の不条理を克服しようとしているのだ、と思う。

それはめんどくさい上に、かなり破滅的な行動だ。論理的には飛躍も甚だしいし、考え方はあまりに危うい。
しかしそれが彼なりの世界に対する叛逆であるらしい。


だがそんな論理についてくる人間はそうそういるわけではない。
カリギュラは、理不尽な要求を他人につきつけ、ときにはその相手に向けて、死を迫る。
言うまでもなく、そんな不条理な状況に、人間は耐えることなどできない。

その状況に人が耐えられないのは、命が惜しいからという即物的な理由があることは言うまでもない。
だが同時に、理由もなく殺されることに人は耐えられないという点も大きいのだろう。
たとえ殺されるにしても、せめて理由くらいはほしいと考える。第二幕のケレアのセリフなどがいい例だ。

人間は虚無の中で生きていられるほど強くなく、たとえ無意味に見える人生にさえ、何かと理由をつけたがる。
人は、物事に対してとかく意味を求める種族なのだ。


だけど人間はときどきカリギュラ的な思想に陥ることもある。
第三幕のカリギュラとケレアの会話がそれを象徴している。
何もかもこわしてしまいたいと思うような破れかぶれの感情が湧いてくる瞬間だって、人間、一度くらいはあるものだ。

そして、その感情を理性的に説明することは、なかなかできない。
それでも、人はそういう理性で説明しきれない感情を抱えて生きざるを得ない生き物でもある。
あるいは、そういう理性で説明できない感情を抱えているからこそ、何かと物事に意味を付けたがるのかもしれない。


では不条理を生み出す側に立ち、破れかぶれの時間を生きる、当のカリギュラは不条理を克服できたかと言うと、実際のところ、そうでもない。

カリギュラ自身、第四幕のラストを見てもわかる通り、その不条理に耐えることはできていない。
最後の方になって、彼は死という絶対的な理不尽の前で恐怖を感じている。
自分が属する世界も、自分に湧いてくる恐怖という感情ですらも、死んでしまえばすべては無意味になる。
それはカリギュラでさえ、重たい事実なのだ。
人はやはりどれほどがんばっても弱い生き物であるらしい。


世界に意味なんてない。その認識から出発したカリギュラの行動は、はっきり言って無謀な行動でしかないのだろう。
しかしその無謀を無謀と思わずに突き進んでいく、カリギュラの姿は、形はどうであれ、妙に心に残り、強いインパクトを残す。

カリギュラの高い哲学性、そして強烈なキャラクターのおかげで、読後には深い余韻を感じることができる。
新潮文庫では絶版になってしまったようだが、それが惜しいと思えるような、深い一品である。

評価:★★★★(満点は★★★★★)
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『父と暮らせば』 井上ひさし

2010-09-22 21:59:38 | 戯曲

「うちはしあわせになってはいけんのじゃ」愛する者たちを原爆で失った美津江は、一人だけ生き残った負い目から、恋のときめきからも身を引こうとする。そんな娘を思いやるあまり「恋の応援団長」をかってでて励ます父・竹造は、実はもはやこの世の人ではない――。「わしの分まで生きてちょんだいよォー」父の願いが、ついに底なしの絶望から娘をよみがえらせる、魂の再生の物語。
出版社:新潮社(新潮文庫)




以前、宮沢りえ主演の同名映画を見たことがある。
演出にいくらかのまだるっこしさを感じたものの、ラストのじゃんけんのシーンはすなおに泣きそうになったことを記憶している。
基本的にはいい映画だった。


今回シナリオの方を読んでみて、映画版の方よりも、楽しんで読むことができた。
理由はいくつかあるけれど、父娘のやり取りのテンポが良かったのが大きいのかもしれない。

ここに出てくる父娘のやり取りは非常におもしろい。
広島弁が全編にわたって使われているためか、会話に独特のリズムが生まれている。

しかも話している内容が、普通に笑えるのだ。
娘と木下を何とかくっつけようとする竹造の、饅頭に意味を求めすぎる口調とか、入れ歯のオチのところとか、木下を家に招くに当たっての、父親のおせっかいとしか思えない気遣いとか、どれもこれもおもしろい。
笑いのセンスは抜群で、楽しませてもらった。


だけど、戦後の広島が舞台である以上、雰囲気は明るいばかりというわけにもいかない。
そこには原爆の記憶が確かに存在する。

原爆のことを思い出すから、原爆関連の資料を何も残したくない、と語る美津江の独白は、非常に切実だし、原爆を落としたことに対する恨みを込めた、原爆瓦に関する竹造のセリフには胸の詰まるものがある。それに、三津江が原爆病を抱えていることも示される。

原爆は、確実に彼らの心と体をむしばんでいるのだ。
そりゃあ生きている以上、明るく、笑える瞬間も訪れるだろう。でも暗い気持ちが湧いてくることだってある。
それが読んでいて、とっても苦しい。


そんな時折見せる暗さの中で、もっと根深い暗さは、三津江のトラウマにある。
彼女は、原爆後の世界に、自分ひとりが生き延びた。そのことにずっと負い目を持っているのだ。

一番の親友である昭子を原爆で失い、その昭子の母からは恨み節を聞かされたこともあった。
それに被爆直後、まだ生きていた父親を見捨てざるをえなかった。
その記憶が、生き延びてしまった彼女をとことん苦しめ、後ろ暗い思いを抱かせている。

その果てに、自分は幸せになってはいけないのだ、と思いつめている。その心情がとっても悲しい。

だがそんな苦しむ娘のことを、父親の竹造は心配している。そしてただ娘の幸せを願っている。
その親の心遣いが胸に響いてならない。ラストは静かな感動を覚える。


まとまりを欠いたが、笑いあり、涙あり、で、すなおに楽しめる作品である。
それでいて、人間の苦しみについても思いを馳せずにいられない。
すべてにおいて、高水準の、非常にすばらしい戯曲であった。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)
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『ゴドーを待ちながら』 サミュエル・ベケット

2010-06-30 20:32:37 | 戯曲

田舎道。一本の木。夕暮れ。エストラゴンとヴラジーミルという二人組のホームレスが、救済者・ゴドーを待ちながら、ひまつぶしに興じている―。
「不条理演劇」の代名詞にして最高傑作。
安堂信也/高橋康也 訳
出版社:白水社




以下の文章は自分の無知を棚上げして、相手を非難し、難癖をつける文章である。
人によっては不愉快かもしれないことを先に述べておく。


さて、ベケットである。
本書『ゴドーを待ちながら』はいまさら言うまでもなくベケットの代表作であり、世界的に見てもかなり有名な作品である。

だがはっきり言って、僕はこの作品の意義を理解できなかった。


もちろん、通り一編に、わかったふりをして、何かを語ることは可能である。

元々、この作品は虚無的な雰囲気が漂っていることだけは理解できるものの、それ以外は、実りのないとしか思えない会話が続くというだけの話だ。
そのため、読み手(もしくは観客)は、その実りのない会話の意味を埋めるために、想像力を駆使しなければならなくなる。
言うなれば、受け手の想像力の入る余白は多い作品とも言えよう。
そのため、解釈は否応なく、多義的になる。


それを抜きにしても、この作品、いかにも思わせぶりなセリフが多い。

たとえば、「悔い改めることにしたらどうかな?/(略)/生まれたことをか?」っていう部分とか、
キリストに悪態をついた(もしくはキリストに救われた)泥棒の話、
「つまるところ、何を頼んだんだい?/(略)/まあ一つの希望とでもいった。/そうだ。/漠然とした嘆願のような。」っていうゴドーに関する話や、
「縛られてるのかって聞いているんだ/(略)/ゴドーに? ゴドーに縛られてる?」っていう部分などは、いかにもメタファーですよ、と言いたげである。
ほかにも、ああメタファーなんだろうな、と感じるセリフは多い。

そのためじっと読んでいると、このセリフについて考えてみろ、と読み手(観客)に向かって訴えているようにすら感じられる。
何様? って問いたくなるくらいに、受け手に哲学的思考を強制している雰囲気が、鼻についてならない。

ラッキーの長ゼリフなどは強くそう感じる。
僕個人は、そのシーンを、理不尽で不可知的な状況を考える(あるいは考えざるをえなくなる)ことで精神的に追いつめられ、狂気と紙一重のところまで追いやられる、人間の姿を(皮肉混じりに)描いているように感じられた。
その解釈の正しさはともかくも、この作品には、いろんな読み解き方が可能だということなのだろう。


そして、トータルの内容を、自分なりの解釈で書くとしたら、以下のように僕は受け止める。

それは本作が、自分の存在(実存)について苦しみ、その重たさに悩んでいる人間を描いているということである。
だが、存在について考えても答えはなく、その答えのなさゆえ、人間は結果的に狂気へと追いやられてしまう。
ゴドーとは、そんな実存の重たさから救ってくれるもの(神という言葉は使いたくない)の暗喩なのだろう、と感じた。あるいは、いつ来るともしれない抽象的な希望とも言えるのかもしれない。
だがゴドー、つまり希望のようなものは、いつ来るともしれず、ことによると永遠に来ないものかもしれない。
だけども、人は、自分がここに存在しているという重たさから逃れるために、来るともしれない希望を待たざるをえないし、待っていたいと願う生き物でもある。
そして人は、それと気づかぬうちに無為に時間を過ごさざるを得なくなる。

そういう事実を、本書は象徴的に描いたものだと受け取った。それが正しいかどうかは、知らないけれど。


本書はそのメタファーの多さから、深い意味を隠し持った作品だ、と言えるかもしれない。
見た目以上に物語構造は大きく、優れたつくりである、とも言えるのかもしれない。

だけど、だ。そこまで考えて、僕ははたと考えてしまうのだ。
で、だから何だというのだ、と。


この本を読者が読み、この作品はもっと深いものだと考え、想像力を駆使して、この作品の解答を求め、これはこれこれこうなのだろうな、と思ったとする。
だが、そこに何の意味があるのだろう、という気もしなくはない。
作者がどのようなことを言いたかったか知らないが、もっと別の形で言うことはできなかったのだろうか。

僕はこの作品のテーマを自分なりに受け取り、そのテーマ自体は(合っているかは別として)、すてきだと思った。全編に漂う絶望の空気も悪くないとも思う。

だがそのテーマを、俺の作品を知りたければ頭を使え、とでも強要するかのようなスタイルで語って、何が楽しいのだろう、という気もしなくはない。
こんなのはただの自己満足じゃないのか? 

おまえの趣味の問題だと言われれば、そうだね、としか答えようがないけれど、読み終わった後、僕には何も届いてこなかった。

あるいは読んでいる間、これは頭のいい人のための読み物だ、と感じたことが大きかったのかもしれない。
かなり感情的だが、頭の悪い僕は、そのいかにもって感じのインテリ臭が癇に障った。


うん、何にしろ、やっぱり僕はこの作品がこのようなスタイルである意義を理解できないのだ。
読み終えて日が浅いから、冷静な判断がでてきていないのかもしれない。
だが、理性的ではない、感情的で、生理的な感性を優先して語るならば、やっぱり僕は、『ゴドーを待ちながら』はつまらない作品と思うのである。

評価:★★(満点は★★★★★)
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『阿修羅のごとく 向田邦子シナリオ集Ⅱ』

2010-03-30 20:36:32 | 戯曲

穏やかに暮らしているはずの実家の父と母。しかし、その父に愛人がいるとわかり、四姉妹は急に色めきたった。未亡人でお花の先生をする長女綱子、主婦の次女巻子、独身の図書館員三女滝子、ボクサーと同棲する四女咲子。母のために女性との関係を清算させようと相談をするが、表向きの顔とは別に、姉妹それぞれがのっぴきならない男と女の問題を抱えている。猜疑心強い阿修羅になぞらえ女の姿を軽妙に描いた、向田作品の真骨頂。
出版社:岩波書店(岩波現代文庫)



これはとんでもない傑作なのではないか。
そんなことを『虞美人草』までを読んでいるときは、何度も思った。テレビで言えば、パートⅠの部分である。
個人的な趣味で言うと、パートⅡである『花いくさ』以降は失速してしまった感は強いのだが、前半部の勢いは鮮やかで、胸に響く面が多い。


特に目を引くのが、キャラのつくりがべらぼうに上手いことだ。

一話の『女正月』などは本当にすばらしい。
何気ない行動や、セリフで、その人物の性格を的確に表現する手腕に、心の底からしびれてしまう。
三女の滝子はわかりやすいくらいマジメであることがよくわかるし、次女の巻子はいやなことから目をそむけていたいという性格が伝わってくる。また四女の咲子は派手好きで一言よけいだということが、少ないやり取りの中からきっちり浮かび上がっている。
その技術はいま読んでも古びず色褪せていない。これは本当に見事なことだ。


キャラだけでなく、場面の緩急のつけ方も本当にすばらしい。

やはり『女正月』を例に挙げるが、この中で、父親が浮気しているかもしれないということを、四姉妹で話し合う場面がある。
その場面は、内容だけ聞けば、まちがいなくシリアスだ。自分の父親の浮気のことを、実の娘たちが話し合う。重くならないわけがない。
なのに、向田邦子はここでコメディに持っていくのだ。これには読んでいて、本当にびっくりしてしまった。
これは場面を重たくしすぎないための、向田邦子の計算であり、サービス精神なのだろう。

この緩急のつけ方は、はっきり言って神がかっている。
とんでもない書き手がいたものだ、と読みながらほとほと感心した。


キャラ設定、緩急のつけ方。どれもきれいに描かれているが、それをもっとも象徴するのが、母親であるふじだろう。

さっきから『女正月』ばかり例に挙げているが、この中でふじは、「でんでん虫」を歌いながら、夫の服を整理する場面がある。
そこでふじは夫の服からミニカーを見つける。それは夫の浮気の証拠でもあるものだ。
それを見つけた途端、ふじをミニカーをふすまに投げつけている。さながら阿修羅のような形相で。
そしてそれから、ふじは何ごともなかったかのように、再び「でんでん虫」を歌い始めるのである。

このシーンが本当に読んでいてこわかった。
そこからは夫に浮気された妻の激しい嫉妬がうかがえ、印象的だ。
それに「でんでん虫」のようなのんびりした歌から、ミニカーを投げつける展開の緩急も鮮やかである。

だが、ふじは夫の浮気を知っていても、表面上はそ知らぬ顔を続けている。恐ろしいほどの嫉妬を抱えているにもかかわらずだ。
そこにはふじのキャラクターと、複雑な感情もうかがえて、忘れがたい。


ふじに限らず、この四姉妹と父母にはそれぞれ複雑な感情が絡み合っている。
そして、それは家族だから、という理由が大きいように思える。

家族とはいえ、知らない部分はあるし、知りたくもない部分も出てくる。家族だから激しい感情をぶつけてしまうこともあるものだ。
だけど家族だから無視できない部分もまたあるのだろう。

滝子はある場面でこんなことを言っている。
きょうだいって、へんなものね。
ねたみ、そねみも、すごく強いの。そのくせ、きょうだいが不幸になると、やっぱり、たまんない――

これは別に姉妹に限らず、夫婦に置き換えてもいいのだろう。
家族は、距離が近い分厄介なのかもしれない。しかし家族だから、相手を大事に思う部分もあるのだ。
その一筋縄でいかない感情を描いていて忘れがたい。

向田邦子という作家のすごさを知ることができる一品である。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)



そのほかの向田邦子作品感想
 『思い出トランプ』
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『かもめ・ワーニャ伯父さん』 チェーホフ

2009-08-24 21:29:16 | 戯曲

恋と名声にあこがれる女優志望の娘ニーナに、芸術の革新を夢見る若手劇作家と、中年の流行作家を配し、純粋なものが世の凡俗なものの前に滅んでゆく姿を描いた『かもめ』。
失意と絶望に陥りながら、自殺もならず、悲劇は死ぬことにではなく、生きることにあるという作者独自のテーマを示す『ワーニャ伯父さん』。
チェーホフ晩年の二大名作を、故神西清の名訳で収録する。
神西清 訳
出版社:新潮社(新潮文庫)



今回『かもめ』を読んだことで、チェーホフの四大劇をすべて読んだことになる。
その四つの作品に共通するのは、ごくごく普通の平凡な人物が、ままならない現実に苦しむ、っていったところかなと個人的には思った。そしてそれゆえに、全体のトーンはどこか悲しいのである。


『かもめ』の方で言うなら、トレープレフとニーナがそのテーマを象徴している。

トレープレフは何者かになりたいという思いを強く持った人物だ。
母親が才能ある女優ということもあってか、息子として劣等感を抱いているし、自分の才能が認められないことに苛立ち、成功者に対して嫉妬めいた感情を覚え、ときに卑屈になる。

ニーナも、女優になりたいと夢を見ている。憧れの世界にいつか近づいていきたいと、衝動と情熱にまかせて、行動しようとしている。
それは憧れによる世間知らずな要素も結構強い。

だが、そういった二人の姿は、決して特殊のものではない。
若いうちなら、彼らのような思いを持つことはままあることだし、何より若者らしくまっすぐなのがいい。
だがそうは言っても、彼らの思いが、恐らく破綻するだろうことは目に見えている。

実際ニーナの方などは悲惨だ。
好きになり駆け落ちした男には捨てられ、破れかけた女優への夢をいまだに引きずって生きている。
だが彼女は挫折手前まで来ているけれど、あくまで前向きだ。
でも前向きであるだけに、どこか一抹の悲しさがあることは否定できない。

そしてトレープレフも結果的には悲しい事態に陥ってしまう。
一応彼自身、目標にはある程度達しているし、世間からはそこそこ認められている。けれど、成功したら成功したで、別の苦しみに直面する羽目にもなっている。
それはトレープレフにとっては、非常に苦しいものだろう。それは非常にわかるのである。

そしてわかってしまうからこそ、ラストがむちゃくちゃ悲しくてしょうがないのだ。
その結末に、僕は読んでて切なくなってしまう。

二人ともとも、世間一般にはざらにいそうな、ありふれた普通の人である。その結末は、あるいは普通であるがゆえの悲劇と言えるのかもしれない。
それだからこそ『かもめ』は、普通の人である僕の胸に、深く響く作品になりえているのである。


さて、もう一方の『ワーニャおじさん』。
こちらも、ままならない現実に苦しんでいる人物は存在する。
というか、この作品の登場人物は、たいてい自分の現状に満足していない。

セレブリャコーフはとことん自分の現在に不満が多いらしく、自覚はなさそうだが、嫌味をしょっちゅう言う。
エレーナはそんなセレブリャコーフとの夫婦生活に満足を覚えているわけではない。
またワーニャは、かつてセレブリャコーフを尊敬し、一所懸命尽くしたのに、その働きを省みられないことに不満を持っている。またこれまでの人生で、自分が何も成しえていないことに、どうやら絶望しているらしい。
ソーニャは自分が不器量であることにコンプレックスを持っているし、人を好きになっても、相手が彼女をふり向いてくれることはない。

誰もかれも、自分たちを取り巻く現実に不満を持っている。
だがその現実にがんじがらめになっていて、誰も解決する方法を見出すことができないままだ。
誰かに、自分の感情や思いを吐露したとしても、その感情は周囲の人間と悲しいくらいにすれ違うばかり。
その様が本当に悲しくて悲しくて、胸に迫ってならない。

そんな現実に苦しみ、人生に対して嫌気が差したとしても、その感情がまったくわからないわけではない。
「本当の生活がない以上、幻に生きるほかはない」ってことをワーニャは言っているけれど、幻の世界でしか、彼の心が救われないとしたら、それほど悲しいことはないだろう。

だがそんな、つらい現実にあっても、人は生きていかざるをえないのだ。
ラストのソーニャの独白などは、そのテーマの集大成だろう。

基本的に、こうやって直接的にテーマを語る方式は好きじゃないのだけど(実際同じパターンの『三人姉妹』のラストはちょっと鼻についた)、今回はそれもすなおに受け入れることができた。

それはソーニャが、本気でそう信じてそんなことを言っているというようには見えなかったからだ。
その場面で、彼女は一所懸命、前向きなことを言っているけれど、それは自分自身に対して言い聞かせるためのもののようにしか、僕には見えなかった。
そのため、ポジティブなセリフのわりに、切なさすら感じられる。


『かもめ』と『ワーニャおじさん』のラストにおけるベクトルはちがう。
だが、それぞれ悲しい物語となっていて、登場人物が抱える生き辛さが、読み手である僕の胸を打ってならない。
やっぱり、チェーホフは上手い。そんなことを再認識できる作品である。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)



そのほかのアントン・チェーホフ作品感想
 『かわいい女・犬を連れた奥さん』
 『桜の園・三人姉妹』
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『桜の園・三人姉妹』 チェーホフ

2008-10-13 08:47:52 | 戯曲

急変してゆく現実を理解せず華やかな昔の夢におぼれたため、先祖代々の土地を手放さざるを得なくなった、夕映えのごとくに消えゆく貴族階級の哀愁を捉えて、演劇における新生面の頂点を示す『桜の園』、単調な田舎生活の中で、モスクワに行くことを唯一の夢とする三人姉妹が、仕事の悩みや不幸な恋愛などを乗り越え、真に生きることの意味を理解するまでの過程を描いた『三人姉妹』。
神西清 訳   
出版社:新潮社(新潮文庫)


「桜の園」はとにかくキャラクターのつくり方が上手い作品だ。
ある没落した地主の家で繰り広げられる人間模様を描いているが、その複雑に絡み合う人間関係を明確なキャラ設定で織り上げていく手腕はとにかく見事で、読んでいてもおもしろい。

ラネーフスカヤの金を浪費せずにはいられない性情やむかしの男のことを引きずっている姿、全般的に痛々しいくらいに奔放で明るい様は何か見ていてもハラハラしてしまい、もう少し冷静になれよ、と言いたくもなる。この主人公設定は社会的敗者のにおいを漂わせているが、なかなか魅力的ではないだろうか。
理想主義的なトロフィーモフとアーニャの恋愛模様もなんだかんだでおもしろいし、ロパーヒンを愛していながら、ふり向いてくれない姿に傷付いているワーリャは切ない。ドゥニャーシャとヤーシャの関係はありがちとはいえ、男の薄情さが見ていてもつらい。
とにかくどのキャラクターも立っている。

そんな中で、個人的にもっとも心を引いたのはロパーヒンだ。
彼がラネーフスカヤに恋をしていたことは明白だろう。しかし当然と言えば当然だが、ラネーフスカヤは彼には興味はなく、桜の園に関するロパーヒンの提案にも耳を傾けない。
その手痛い仕打ちを受けてから、桜の園を買おうという展開は、屈折した心理を見るようで、興味深い。彼はそうすることでしか、傷を負わされた自分の心に折り合いをつけることはできなかったのかもしれないな、と読んでいて僕は思った。そう考えるとなんとも切ない限りじゃないか。
最終的に彼はワーリャをふったが、そこには中途半端な妥協をしなかった矜持のようなものを見ることができる。もちろん、ワーリャはあまりにかわいそうなのだけど、彼にとっては絶対ゆずれない一線だったのだろう。
それゆえに他者にとって、彼は厄介で残酷に映るのかもしれない、と僕は思った。


一方の「三人姉妹」は「桜の園」と違い、軍人たちのキャラクターがさほど立っておらず、区別もつきにくくて、最初は読みづらい感があった。
しかし、現実と理想のギャップに苦しむ三姉妹やアンドレイの悲しい姿が立ち上がってくるにつれて、脇役のキャラクターとか細かい点は徐々に気にならなくなっていく。特に姉妹がそれぞれの苦しみを吐き出すシーンがすばらしい。
そこまで心を揺さぶる展開に持っていくチェーホフの手腕には圧巻である。

特に僕の目を引いたのはイリーナだ。
イリーナは最初のうちこそ、人間は労働をしなければならない、と考えているが、実際に労働をするとそのつらさに馴染めず、ただモスクワを夢見ることだけで終わっていくような生き方をしている。
夢を見ることは容易で、理想は彼女にとって常に優しいだろう。だが、現実は決して容易に乗り切れる類のものではない。
その事実が全般的に重くのしかかっているような気がする。

最後の方でテーマを直接的にしゃべりすぎているきらいがあるが、それこそチェーホフがどうしても伝えたかったことなのだろう。
どれだけ人は夢を見ようと、生活に追われ、それに身をすり減らされていく。理想が叶わないことだって珍しくない。結局人が何を目的としているかなんて、最後まで知ることができなくもある。
けど人間は生きていくしかないのだろう。
その苦みが深い余韻を残す一品である。


二作品とも優れた作品である。チェーホフの上手さを再認識させられた形だ。

評価:★★★★(満点は★★★★★)


そのほかのアントン・チェーホフ作品感想
 『かわいい女・犬を連れた奥さん』
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