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こころは魔もの。暗い地下でとどろくマグマのような…。

民主主義の基本、幸福の基本

2007年07月30日 | Weblog
みんなで話し合う。議論することで、何がより正しいかを考える。
 それが法の世界の基本であり、民主主義の基本です。


伊藤真 法学舘館長、伊藤塾塾長。著書、「憲法の力」より。

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わたしは司法試験を受験する人のための学校「伊藤塾」を主宰し、自ら教壇に立ち、またさまざまな人たちを相手に日々「法」について指導しています。塾だけでなく、大学へ行って講義をすることもありますし、中学校や高校に呼ばれて話をすることもあります。

子どもたちや若い学生たちに接して感じるのは、あるテーマについてみんなで話しをする、議論することに慣れていないなあ、ということです。私は中学時代をドイツで過ごし、外国人の友人も多くいるのですが、彼らと比べると、多くの日本人は自分の考えを否定されることをとても怖れているようです。

「自分の意見が人と違っていたらどうしよう」
「こんなことを言って、“空気の読めないヤツだ”と思われたらどうしよう」と、
まわりに同調しなければ、という強迫観念に駆られている気がします。

言い換えると、「今、この場でどういう意見を述べるのが、『正解』なのだろうか」ということを気にするあまり、自分の意見が自由に言えなくなっている、自分の意見を持てなくなっているようにも思えます。その結果、何も考えずにすましてしまっているのです。

みんなで話し合う。議論することで、何がより正しいかを考える。それが法の世界の基本であり、民主主義の基本です。

もし「正しい答え」が最初から決まっているのだとしたら、それを見つければいいだけで、話し合いは必要なくなります。驚いたことに、司法試験をめざそうとしている学生でさえも、そういった民主主義の基本を理解していない人が少なくないのです。「自分の意見は控える」「大勢に従う」といった態度が、「大人だ」とか「日本人らしさ」だと誤解しているのではないか、と危惧してしまうほどです。

ですから、伊藤塾の最初の講義では「各人がそれぞれの意見や考えを持ち、それを話し合うことで深め、何が正解なのかをみんなで見つけだしていくことが民主主義である。異なった意見を述べることは、議論を深める上で価値がある。人と違っていようがどんどん自分の意見を言うべきである」という、基本中の基本から教えなければなりません。

「まわりを気にするあまり、異なった意見が述べられない」、それはなにも若い人や学生、子どもだけの話ではないようです。最近は大人の世界でも感じます。

北朝鮮の拉致問題やテポドン発射についての言説、ライブドア前社長の堀江貴文さんが逮捕された前と後でのメディアの反応など、マスコミや大人たちの行動を見ていると、「これが正しいんだ」といった一つの意見が、わっと日本全体を覆ってしまい、反対意見や異論が述べられなくなってしまう傾向があると思います。それは健全な社会の姿とは言えず、民主主義でもありません。

民主主義とは、選挙で政治家を選ぶとか、多数決で何かを決めるということだけをいうのではありません。何が正しいか、何が正解かわからないから、みんなで多様な意見を出し合って、議論をして、より正しい答えを導き出してゆく、というものです。だから議論の過程がとても重要であり、自分とは異なる意見を尊重することがとても重要なのです。


(「憲法の力」/ 伊藤真・著)

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「空気を読む」ことが大切と、近ごろはよく言われます。でもわたしはそれには危険な側面があるように感じられます。相手の感情に配慮を払う、という意味ならそれはとても良いことだと思うのですが、誰かの体面を気にしなければならないとか、誰かの言い分を否定してはならない、何かの教理を疑ってはならないということならば、それはファシズムに通じる考え方であると思うのです。

人それぞれの感じ方や意見を暗に抑えこむ目的で「空気を読め」と言うのは、結局エホバの証人思考を立派に継承していることになります。エホバの証人は、組織の偉い人たちの体面を最重要視して、また組織の作成した教理への批判を抑えこむ目的で「謙遜さ」とか「円熟」とかいう用語が用いられ、信者は思考をコントロールされます。「自分の意見を控え、無条件に大勢に従う」ことが「円熟」であり、そのように順化された人が、「特権」を割り当てられるにふさわしい「霊的大人」とみなされます。これはマインド・コントロールなのです。少数の人間が多数の人々を従えるための教化なのです。このような「順化」から脱出して、自分の主張をどんどんするようになって初めて、人はエホバの証人のマインド・コントロールから解脱できたといえるのだと、わたしはそう信じています。

自分を高めるために、あるいは自分に従わせるために、「空気を読め」と暗黙のうちに命じたり、村八分という精神的虐待によって、自分を主張する態度を摘み取ってしまうのは人間への甚だしい冒涜です。エホバの証人や旧共産党などのカルト的組織からほうほうのていで逃れてきた人は、自分を主張するということができず、結局、エホバの証人に代わって、「方向を定めてくれる」人や宗教を探し求めるようになります。それではエホバの証人によってつけられた傷から永久に逃れられないのです。

人間を幸福にするのは、自分という、他の誰とも異なったユニークな存在を認められるとき、また自分とは異なるユニークな存在としての相手をそのままで受容するとき、得ることができるものです。ですから近代民主主義が必要なのです。近代民主主義は個々の尊厳を、そのままで尊重しようというところから始まり、またそこで終わるものだからです。

自分の意見を言う、というのは相手を否定することではありません。ここを誤解している人も多いようです。相手を否定するということは、相手を自分に従わせる、さもなければ自分たちから排除する、ということです。ですからそれはエホバの証人思考であり、ファシズムの発想でもあるのです。違いを尊重しながら共存する、それを達成するためには、支配欲を放棄しなければなりません。相手を支配していないと心の平静を保てないのは、実は愛情に飢えているのです。自分が愛されているという経験を実際にしていないか、愛され受け入れられているという実感を持てないでいるかのどちらかです。そういう欠落は自分をも不幸にするし、相手をも不幸にします。力で人を抑えこむことは、人格改造であり、相手の人間性の完全な否定だからです。

ですから、自分の見解を主張すること、支配者の意向を気にかけなければならないという「空気」を読んで順じてしまわないこと、それが自分を成長させ、自分の人生に充足を与えることなのです。古代ローマの皇帝マルクス・アウレリウスはこのように薦めています。

「意見をつくる能力を畏敬せよ。自分の自然なありようを否定し、自分の個性を否定して、他者の奴隷になろうとするような考えが自分の心の中に生じないようにすることは、ひとえにこの能力にかかっている。またこの能力こそ、われわれが軽率になるのを防ぎ、人間に対する親しみと神々に対する敬意をつくるのである」(「自省録」/マルクス・アウレリウス)。