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こころは魔もの。暗い地下でとどろくマグマのような…。

「親愛」の育てかた

2007年07月02日 | Weblog
人間関係の形成は、ときに苦しい闘いである。関わりを持つことが極端にむずかしい場合もある。何の共通点もない人々と、どうしたらつながりを持てるだろうか。

関わりを持つことがむずかしい人々の場合には、まず、双方が同意できることを1パーセントでいいから見つける。これはほとんどの人に対して可能である。

だが困ったことに、たいていの人は無意識のうちに逆の関わり方、つまり違いを見つけることで(相手の人に)近づこうとする。

なぜか。

生来の競争意識もあるだろう。だれしも優位に立ちたいものだ。あるいは目立ちたいという意識もあるだろう。また相手に脅威を感じたために、違いを強調することもあるだろう。

しかし、人と関わるためには、そうしないで、共通の土台を見つけることが大切である。

見つけようと思えば、誰もがたくさんの共通点を持っている。どれほど風変わりな相手でも、何か同意できることを見つけられるはずだ。

そういう共通点を見つけたら、そのことに対して100パーセントの力を注ぐ。

違いが大きければ大きいほど、同意した1パーセントに集中することがますます大切になってくるし、よりたくさんの努力が必要だ。

常に簡単にいくというわけではないが、明らかに努力する価値はある。




(「その他大勢を味方につける25の方法」/ ジョン・C・マクスウェル・著)

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「困ったことに、たいていの人は無意識のうちに逆の関わり方、つまり違いを見つけることで(相手の人に)近づこうとする」。

これは人間関係への鋭い観察ですよね。

これから書くことは、すでにあるていどの共通点を見いだせた人間関係についてですが、

人に話しかけたり、意見を言うに際しても、とにかく相手を否定することから、あるいは相手を訂正しようとすることから始められることがとても多いようにわたしは感じています。

人が、自分の意見、日ごろ内心で思っていることを人前で話すのは、その人に対して心をよりいっそう広く開いたことを表しています。心理学でいうところの「自己開示」です。

関心を持った人に自己開示するのは、当の相手の人なら自分の意見に共感ないしは承認を与えてくれるだろう、という期待を持っているからです。

ところが、それを真っ向から否定する言動や、訂正させようとする言動に出くわすとなると、話したほうはむっとせざるを得ません。人間関係を深めたいというつもりで自分の内面のちょっと深いところまで相手にさらけ出したのに、相手の人はあたかも討論や議論を開始するかのように反応するのですから。

人間関係は、学術上の討論ではないし、政策や企画を議論することでもありません。自分を受け入れてもらい、相手をも受け入れる、そうして内面を近づけあい、可能なところまでよりそい合うこと、それがプライベートな人間関係なのです。

それが理解できていない人が、近ごろとくに多くなっているように思います。

面識の薄い人に近づいていく際に、共通点を見いだそうとすると、相手の人を受け入れたいという意思を表明したことになります。また相手の人の言うことや反応にまずうなずくのも同じです。共通点を見いだそうとする努力、とにかくまず相手を肯定する=受け入れる努力を見せるのは、「あなたと打ち解けたいと思っています」というメッセージです。いわばキャッチボールにおいて、最初に、ストライクゾーンの真ん中にスローボールを投げること、です。相手が受け取りやすいアクションを起こすわけです。

ところが上記引用文の中では、違いを明らかにすることでアプローチをかける人が多い、と述べられています。それは相手と対立し、対峙し、あるいは排除しようとするメッセージを持つアクションなのです。当人は相手の人を従わせようと思っていなくてもそういうアプローチを習慣的に取るならば、それは間違ったアクションである、と著者は言っておられるのです。相手の人と近づきになるには、相手との違いを前面に出すのではなく、共通点を探しあうように努めること、これが「近づきになりたい」というメッセージの示し方である、ということです。



でも、あえて初対面の人に、暗黙のうちに拒絶のメッセージを出すこともよく行われます。

わたしがエホバの証人だったころ、よその会衆から兄弟が移って来られたんです。わたしのいた群れだったので、集会が終わったあと、軽食で歓迎会を開いたんですね。

司会者の奥さまである姉妹はちょうどそのころ、脳梗塞で入院されていました。引っ越してこられた兄弟は司会者である書記の長老兄弟に、「姉妹は入院されているそうですね。どこか悪いんでしょうか」と、会話を始めようとするボールをまず投げたんです。自分のほうから司会者に近づいていこうとされたわけです。そこで司会者から返ってきた返事が、「どこか悪いから入院してるんですよ」という、突き放すものでした。

なぜこの司会者はこんな反応をするのでしょうか。こんな反応を受けたら誰でも、「意地の悪い人だな」と感じるのです。なぜこのような反応をするのか、引用文の著者はこう推測しています。

「生来の競争意識もあるだろう。だれしも優位に立ちたいものだ。あるいは目立ちたいという意識もあるだろう。また相手に脅威を感じたために、違いを強調することもあるだろう」。

その司会者の、突き放したような反応は、つまりは「自分はあなたと打ち解ける意図は今のところはない。なれなれしくされたくない」という暗黙のメッセージをことばに出さないで、しかし露骨に表明するものでした。その背後にある考えはなんでしょう。エホバの証人用語を使えば、司会者のそのときの「霊」はどんなものだったのでしょう。

司会者の人間性を、その越されてきた兄弟よりはよく知るわたしは、こう判断します。

①生来の競争意識から、優位に立とうとした。
②また相手に脅威を感じたために、違いを強調した。

越されてきた兄弟はかなり有能であるという評判だったのです。引越ししてきた兄弟姉妹には以前いた会衆の長老団から申し送りが来ます。それにもとづいて、長老姉妹経由でその評判がすでに噂されていたのです。それに対して、ウチの群れの司会者は、それを脅威に感じ、自分たちの優位性を保守しようとした、というわけです。

どうです、しんどい人間関係じゃありませんか、この司会者をめぐる人間関係というのは…。これがエホバの証人の誇る「霊的パラダイス」の実情なのです。ウチの会衆は主宰監督が一種の偶像だったので、書記の兄弟は「取り巻き根性」で主宰監督の顔を守ろうとしたのでしょう。

エホバの証人が、野外で宣伝するように、「愛の組織」をほんとうに築きたいのなら、こういう反応をする人は「長老職」からどんどん外してゆかなければならないでしょう。



エホバの証人の組織にいた時間が長ければ長いほど、人間関係には守らなければならない「縦の序列」があるという精神が染みついています。しかし、豊かな人間関係、癒される人間関係、それゆえに長く続く人間関係というのは「横並び」の関係、対等の関係、つまりは民主主義的なつながりなのです。これはわたしは「断言」します。交流分析ではこれは「win-win」の関係と名づけられています。双方がともに立てられ、双方がともに尊厳を高められる関係です。

一方、縦の序列にこだわる関係は、経済学でいうところのトレードオフのような関係です。人間関係には必ず立てられる者と従えられる者がいなければならない、という意識が鉄則のように基礎に横たわっているのです。トレードオフとは、誰かが儲ければかならず誰かが損をしている、という法則です。

こういう人間関係が、とくに従わせられる側の人間に不満を募らせ、しかしその不満を表現すれば孤立させられるという「処罰」を受けるから、黙って従い続ける、それが重いストレスとなってうつ病を引き起こしたり、あるいはより弱い立場の人々に陰湿な「いじめ」を行うようななったり、というようないびつな人間関係をつくってしまうのです。また「立てられる」側の人も、自分の影を薄くする人が現れると、それらの人に対して密かに失脚の機会をうかがい、自分への求心力が弱まるのではないかという怖れを抱きます。これも重いストレスなのです。そういうストレスから「力」で人々を従わせる「恐怖支配」が行われるようになります。


(※)エホバの証人の恐怖体制も、このようにして作り出されたものです。なぜって、人々が離れてゆく理由が多いですから。教理のいい加減さや、輸血拒否や学校のカリキュラムへの根拠のはっきりしない聖書解釈にもとづく拒否、果ては文化・文明への否定的態度etc...。


エホバの証人の人間関係っていびつだったでしょう? それは長老や巡回監督、支部の「偉い人たち」をヨイショしなければならないために、成員個人個人の個性や素質が押しつぶされていたからです。人間の幸せは、豊かで温かく、互いに包みあうような人間関係にこそあります。それがあればほかのどんな「重荷」も乗り越えてゆけるのです。現代日本人の悲劇というのは、あまりにも「競争で勝つこと」を叩き込まれてきたために、親友を持てないということにあると思います。とくに男性は、ね。

みなさん、人生は一度かぎりです。幸せに生きたいじゃありませんか。ではどうすればいいか。友だちを作りましょう。真の友を。そのために、相手を従えようとするのではなく、また相手を打ち負かそうとするのでもなく、とにかく相手の人を認めてあげましょう。多くの場合、あなたが下に出るので、人はつけあがるでしょう。あなたを下に置こうとするかもしれません。そういう人はどんどん切り捨ててゆきましょう。そうやって下手な鉄砲式に当たってゆけばかならず、あなたを認めようとする人が現れます。その人こそ親友になるにふさわしい人なのです。

これは方法や理論は違っても、あらゆる心理カウンセラーや民主的な精神科医が述べるところの「共通点」です。


 



 教会 :牧師が神を崇め、女たちが牧師を崇める場所。
          (「悪魔の辞典」/ アンブローズ・ビアース・著)