社説(2008年6月21日朝刊)
享年二十三歳、二十四歳、二十五歳、二十六歳…。異国の地で志半ばで戦死した若き画学生らの死亡時の年齢が並ぶ。二十一歳の名前も見える。沖縄で戦死した者の作品もある。
戦没画学生の遺作を集めた私設美術館「無言館」(長野県上田市)の収蔵作品などを展示する「情熱と戦争の狭間で」が県立博物館・美術館で開かれている。二十九日まで。
東京美術学校、帝国美術学校の学生や、独学で学んでいた絵描きの卵たちだった。
「無言館」は、太平洋戦争や日中戦争で戦死した百人余の画学生の遺作・遺品六百点余りを収蔵している。今回展示しているのは約百二十点。スケッチ帳や愛用していた絵の具、婚約者や家族あての手紙も。
「無言館」館主の窪島誠一郎氏が、仲間を戦争で失った画家野見山暁治氏とともに日本各地の遺族を訪ね、収集したものだ。
窪島館主は一九九七年五月の開館の日に痛切な思いを詩に託した。「遠い見知らぬ異国で死んだ 画学生よ/私はあなたを知らない/知っているのは あなたが遺したたった一枚の絵だ/その絵に刻まれた かけがえのないあなたの生命の時間だけだ」
画家への夢を抱いていた若者たちが一片の召集令状で戦地に駆り出された。
生きられる時間が刻々と狭められる中で、無我夢中で絵筆を握り、愛する人たちや思い出の故郷を一心不乱に描いた。「生きた証し」を残すために。生を無念のうちに中断させられた人たちの声なき声が胸に迫ってくる。
フィリピン・ルソン島で二十七歳で戦死した鹿児島県の若者は出征が決まった日「桜島」を描いた。「出来るなら、あと五分でも、あと十分でも絵を描いていたい」
サイパン島で二十五歳で戦死した愛媛県の若者は、出征する三日前、義姉に「もし戦場から生きて帰ったらパリに留学させてくれないか。もっともっと絵の勉強をしたいから」と頼んだという。
「生きていればきっと活躍していたはず」。二十一歳でマリアナ諸島で戦死した長野県の若者の妹弟は無念さを隠せない。可能性に満ちた未来が待っていたかもしれないのだから。
父親に「祖国のために戦うことは男子の本懐」と言っていた島根県の若者はフィリピンで二十五歳で戦死。出征の日に母親と姉が営舎を訪れたときには「出来ることなら行きたくない。生きのこって鋳金の作品をつくりたい」と目に涙を浮かべつぶやいたという。
彼らは身に迫る戦場での死をどの程度、予感していたのだろうか。会場を訪れる人たちは、残された生の時間を賭して描いた作品を通して、画学生らの生と死に向き合うことになる。
「生の証し」そのものともいえる絵に対していると、画学生らのあまりに短い生と沖縄戦の犠牲者の生が二重写しになる。
戦争につながる一切のものを否定しなければ、とあらためて思う。若者が希望をむしり取られる時代を再びつくってはならない。
沖縄タイムス
享年二十三歳、二十四歳、二十五歳、二十六歳…。異国の地で志半ばで戦死した若き画学生らの死亡時の年齢が並ぶ。二十一歳の名前も見える。沖縄で戦死した者の作品もある。
戦没画学生の遺作を集めた私設美術館「無言館」(長野県上田市)の収蔵作品などを展示する「情熱と戦争の狭間で」が県立博物館・美術館で開かれている。二十九日まで。
東京美術学校、帝国美術学校の学生や、独学で学んでいた絵描きの卵たちだった。
「無言館」は、太平洋戦争や日中戦争で戦死した百人余の画学生の遺作・遺品六百点余りを収蔵している。今回展示しているのは約百二十点。スケッチ帳や愛用していた絵の具、婚約者や家族あての手紙も。
「無言館」館主の窪島誠一郎氏が、仲間を戦争で失った画家野見山暁治氏とともに日本各地の遺族を訪ね、収集したものだ。
窪島館主は一九九七年五月の開館の日に痛切な思いを詩に託した。「遠い見知らぬ異国で死んだ 画学生よ/私はあなたを知らない/知っているのは あなたが遺したたった一枚の絵だ/その絵に刻まれた かけがえのないあなたの生命の時間だけだ」
画家への夢を抱いていた若者たちが一片の召集令状で戦地に駆り出された。
生きられる時間が刻々と狭められる中で、無我夢中で絵筆を握り、愛する人たちや思い出の故郷を一心不乱に描いた。「生きた証し」を残すために。生を無念のうちに中断させられた人たちの声なき声が胸に迫ってくる。
フィリピン・ルソン島で二十七歳で戦死した鹿児島県の若者は出征が決まった日「桜島」を描いた。「出来るなら、あと五分でも、あと十分でも絵を描いていたい」
サイパン島で二十五歳で戦死した愛媛県の若者は、出征する三日前、義姉に「もし戦場から生きて帰ったらパリに留学させてくれないか。もっともっと絵の勉強をしたいから」と頼んだという。
「生きていればきっと活躍していたはず」。二十一歳でマリアナ諸島で戦死した長野県の若者の妹弟は無念さを隠せない。可能性に満ちた未来が待っていたかもしれないのだから。
父親に「祖国のために戦うことは男子の本懐」と言っていた島根県の若者はフィリピンで二十五歳で戦死。出征の日に母親と姉が営舎を訪れたときには「出来ることなら行きたくない。生きのこって鋳金の作品をつくりたい」と目に涙を浮かべつぶやいたという。
彼らは身に迫る戦場での死をどの程度、予感していたのだろうか。会場を訪れる人たちは、残された生の時間を賭して描いた作品を通して、画学生らの生と死に向き合うことになる。
「生の証し」そのものともいえる絵に対していると、画学生らのあまりに短い生と沖縄戦の犠牲者の生が二重写しになる。
戦争につながる一切のものを否定しなければ、とあらためて思う。若者が希望をむしり取られる時代を再びつくってはならない。
沖縄タイムス
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