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聖書に学ぶ神のみことば

teacherが感じ、思ったことなどをいろいろと綴ります。聖書の一節をちょっと添えて。

ヨブ記その後~ヨブの心境に私は到達できるか~

2006-02-03 22:03:08 | みことば
ヨブ記42章から~「自分では悟りえない」こと~

 ヨブ記は42章まであります。その42章は、意外やあっさり終ります。最終的には、「神への無条件のアクセスこそが信仰」ということが、この物語の究極的結論だからです。
 
42:1 ヨブは主に答えて言った。
42:2 あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。
42:3 知識もなくて、摂理をおおい隠す者は、だれか。まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を。
42:4 さあ聞け。わたしが語る。わたしがあなたに尋ねる。わたしに示せ。
42:5 私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。
42:6 それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています。

42:5 My ears had heard of you but now my eyes have seen you.

ちょっとだけ脱線。うわさを耳できいたのが「過去完了」そして、目で見たのが「現在完了」。これって、英語の完了形を学ぶ最高の教材。
 
 ヨブ記を読んで、私は、42:5のような心境に本当に到達できるのか、いま一度、自分にとっての神との関係、自分の信仰のあり方を見つめなおす機会をいただきました。旧約聖書は、ある意味、こんな点で、まさに「福音の書」といえると思います。知恵文学が背徳的内容で筋道がつけられ、それが「福音理解」へと発展する、そんな魅力がヨブ記にはあります。

 2世紀中盤、マルキオンが旧約の神を否定した背景にはどんな事情があったのでしょう。かえって、そこにも興味が沸いてきます。

 ヨブは、Job。 jobは英語で「仕事」。語源的に関係がありますね。きっと義人であったJobから「job=仕事」に発展しているはずです。(でも最近は、jobに「麻薬を打つ」なんていうスラングもあるから困りもの)

 もういいかげんにしなよ、と言いつつ、もうちょっとだけ聖書に目を通して寝ます。

 写真は、福豆の袋の裏面。ぜんぜんヨブ記と関係ないね・・・・・・。

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ヨブ記その後

2006-02-02 23:29:20 | みことば
旧約聖書「ヨブ記」~背徳的文学でもあると思うのです

 ヨブ記は、「知恵文学」と称されますが、よく考えてみると、とても背徳的な場面設定になっています。サタンと神が自慢比べをしつつ、その傍らでヨブが苦難、患難の底に突き落とされるとは、いったいなんという「背徳」なのでしょうか。「知恵文学」にすべく、これこそがヨブ記を書いた作者の文学テクニックだなどと言われますが、そうした「背徳的」なメッセージ性を作品に持たせなければならなかったイスラエルの時代背景をまずしっかりと勉強しなければ、ヨブ記の本質的理解は難しいと思われます。

 「全くの無条件で神を信じ、神に従うこと」
最終的には、このことが「ヨブ記」を通じて、私たちに示されているわけですが、ただ通り一遍“読みこなす”だけではなく、物語の深層から得る信仰の大切さという視座に到達するための「知恵」も前もって学ばねばならない書だといえます。

 明日、また「ヨブ記」について進めます。

いや~本当に寒い…いったいどうなってるんだろう??明日も最高気温がマイナス八度だっていうんだから。道はツルツルだし、もうお天気さん、いいかげんにしてねっていう感じです。

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明日は、まただそうです。

 


1月29日・第5主日礼拝から~ヨブ記は「神義論」の書~

2006-01-30 22:43:28 | みことば
人生の問題は、すべて神理解に帰着する!!

 昨日の礼拝後、また風邪がぶり返したのか体調悪。鼻水が止まらないせいか、頭痛がひどい・・やはり暖房のない職場で土曜日に5時間も過ごしたツケがきたようだ。(サービスで勤務しているのに、暖房が入らないというのは、やはり酷い。といっても、ひどい電気設備の職場なんで、電気ストーブ1000Wくらいコンセントオンにすると、ブレーカーが飛んでしまって、仕事どころではなくなってしまうのですよ・・・)

 知恵文学の最高傑作とされるヨブ記。これを単なる「文学」と読むのは間違い。主人公ヨブの生き方を通して、神の義、神の愛を考える神義論ともいえる書なのであります。

 川崎牧師は、よく言います。「人生の問題はすべて神理解に帰着する」と。
主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。(ヨブ記1章21節)
The Lord gave and the Lord has taken away; may the name of the Lord be praised.

 この1章21節には、苦難の中で人が立ち上がれる帰結がみてとれます。これは、間違いなく確信の言葉であって、決してあきらめの言葉ではないのです。いつも神にゆだねるという点で、神の前に義なる人であったヨブのすべてをあらわしているといっていいと考えます。
 ヨブ記を読んでいくと、2章9節に、ヨブの妻自身がヨブに向かって、「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。」とまで言う場面があります。旧約の世界には、いわゆる男尊女卑の思考がかなり生きている時代観がありますので、この妻のセリフはかなり異様であって、いかにヨブが信仰にあつい人であったかが理解できます。

 いつも神にゆだねること。これが信仰です。ヨブの生き方は、私たちの信仰生活に問いかける部分が多々あります。

 「ヨブ記」の通読は、やはり必須のことです。信仰を強める鍵が明らかにこのヨブ記には書かれています。

 明日はまた出そうな・・・今日は今日で3月中旬の暖かさ。この寒暖差も風邪が完全に治らない原因かな~夕方医者へ行ったら、高い高い抗生物質が投薬されました。まあ、いつもたいていはその薬で治ってきているので、しっかり飲むことといたしましょうか。

 明日で1月終わり。こんなペースが続いたら2006年どうなっていくんだろう。不安。そう、ゆだねるしかないのです。

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1月第五主日~ヨブ記(旧約)は最高の知恵文学~

2006-01-29 00:38:59 | みことば
 ヨブ記1章13節~22節 「ゼロからのスタート」 

 大雪だけが会話のネタだった1月もそろそろ終っていきます。
今日は、川崎牧師から、「ゼロからのスタート」というメッセージがあります。

 最高の知恵文学とされるヨブ記。箴言も知恵文学というジャンルですが、箴言はよく読むと、功利主義、実利主義的な勧めが数多く忍び込んでいるのに対して、「ヨブ記」は最も経験で正統な信仰を語っているといわれます。

 さて、礼拝に向けて、睡眠です。


コリント第二 9章6節と7節

2006-01-28 23:34:46 | みことば
献金を考える~コリント第二9章から~

 <コリント第二 9章6節>
 私は、こう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。
 <同7節>
 ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。

 あいの里学園通りキリスト教会では、献金の時に、司会者がこの箇所をお読みすることにしました。(明日の礼拝から)捧げる恵みを、礼拝出席者にお奨めする必要からという趣旨です。

 明日の私の司会奉仕が、主に在って豊かに祝福されますように!!

 外はまた雪模様・・・よく降るというか、あきれるほど。

 今日は土曜日だというのに、午後から職場で孤独な作業でした・・暖房なしで寒かったのでした・・・。




新約聖書がいつでも読める時代に考える

2006-01-26 23:45:53 | みことば
黎明期のキリスト教に「正典」はなかった!

 ああ、さっきしっかり書き込んだのに、ミスあって全文消えてしまいました・・ 書き直し。

 「正典」としての新約聖書。クリスチャンは信仰生活上とても大切にしています。ところが、四世紀後半に至るまで、現在の新約聖書27文書が「正典」と確定することはなかったですし、それまで「正統的」教会と「異端」の間で、「正典」をめぐる対立があったことは歴史が教えてくれています。

 「正典」作成の意図をもって歴史に登場したのは、AD140年頃、マルキオンという人でした。彼は、キリスト教の再ユダヤ化を恐れており、旧約の神を否定する立場をとったのですが、これが「異端」として退けられていくところから、「正典」作成の歴史が始まるといっていいようです。

 この話、また明日!

外を見たら、また雪・・・よく降るね~。

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明日27日は、西村由紀江さんコンサート。楽しみ!!

 


「ガラテア人への手紙」から再び

2006-01-25 23:35:17 | みことば
ガラテヤ3:28 「なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」

 新約聖書の時代というのは、よく考えれば、キリスト者が迫害されていた時代です。キリスト者が、あがないの主としてイエス・キリストを信じ生きていくには多くの困難があったことが容易に想像されます。

 ガラテヤ3:28 前段は、「ユダヤ人も、ギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら・・・・」となっています。

 つまり、民族差別、社会的差別、性差別、身分の隔たりなどをすべて乗り越えて、「キリストにおいて一つ」という愛と平等を求める包括的なコミュニティを形成しようと、パウロは述べていると考えられます。

 これは、教会が力をもっている今日でも説得力を持つ言葉です。社会の発達に伴って、私たちクリスチャンの間にも、なんだかおかしな隔たり、壁、垣根が存在します。それをすべて乗り越えて、「キリストにおいて一つ」と心から言えるそんな信仰が今日求められているような気がしてなりません。

 風邪悪化・・今回は、何年振りでしょうか、肺の手術跡がうずきます。左半身の肋間神経痛がずきずきとひどくて、パソコンのキーをたたくのも大変。参っちゃうな~。
 神の癒しをお祈りするしかありません。




1月22日 第四主日 「雪のように白くする」

2006-01-22 22:21:11 | みことば
イザヤ書 1章13節~20節 「雪のように白くする」

 イザヤ書は、旧約聖書の福音書とも言われることがあります。新約聖書への引用も多く、イエス・キリストのあがないに結びつく預言が多いからでもあります。

 昨日からの体調不良を押して礼拝に出席した価値があるメッセージでした。疲労による体調不良、風邪薬による眠気、雪かきの毎日がもたらした筋肉痛。これでもし発熱していたら礼拝を休もうと思いましたが、なんとかこうしてまた主が教会へと導いてくれたのです。ありがとうございます。主に在って感謝します!!

「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい紅のように赤くても、羊の毛のようになる」(イザヤ1:18)
Though your sins are like scarlet, they shall be as white as snow; though they are red as crimson, they shall be like wool.

イザヤ書の1章を読んでいくと、いかにイスラエルに人々が神に背信的な生活を送っているかが書かれていることに気づきます。1節から延々と、人が腐敗している様子が描かれているからです。

 13節に入り、「もう、むなしいささげ物を携えて来るな」というところは、形だけ神を敬うような偽の信仰は要らないと神が言っているわけです。

 ただ、18節に入り、冒頭示したみことばのように、神の恵みによって一方的に罪が白く赦される(もちろん、十字架のあがないで)と言ってくださるわけです。
キリストの家族、隣人として証していける存在でありたいものです。雪のように罪を白くする十字架の力は本当に大きいのです。

 関連して、新約聖書ガラテア2章20節。パウロはこう述べています。「私は、キリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」
I have been crucified with Christ and I no longer live, but Christ lives in me.

私たちは、いつも神を悲しませるような生活をしています。そう、繰り返し繰り返し、罪を犯しているのです。そんな私たちを、神はいつも真実に愛してくださることをもっと謙虚に感謝する気持ちが必要です。

 人間が持つ「罪」という性質を取り除くことが極めて難しいことは、たとえばエレミヤ書13:23などに書かれていますが、それはまた通読を通してみていきたいと思います。

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原稿出稿!!

2006-01-17 00:00:04 | みことば
ご臨在に感謝! 原稿出稿となりました!

 1月10日から取り組み出した論文原稿。依頼されてから一ヶ月余り。まったく手をつけないまま〆切まであと10日というところで書き始めたという計画性の無さ。
 そんな私についていてくださり、励ましてくれた聖なる方がいるのです。
 本当に感謝そして賛美です。

 5回自己校正を済ませ、いよいよ明日出稿です。〆切の2日前には先方に着きます。なんだかとても気分がいいですよ!!

 気分は

 ライブドアが捜索受けましたね。それこそ「バブル企業」なんですよ、あそこは。必ず痛いしっぺ返しがくるのです。「お金がすべて」という幻想を作った罪は大きいと正直思います。あまり、人を叩きたくはないのですが…。こういうのもまた罪ですね。至らぬクリスチャンであります。私は…。

 
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詩篇100 感謝の賛歌

2006-01-16 23:37:34 | みことば
詩篇100 その真実は代々に至る

1 全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。 
2 喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。 
3 知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。

4 感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に入れ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。 
5 主はいつくしみ深く その恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る。


 5節にあるよう、本当に主はいつくしみ深く、恵みはとこしえにわたってあります。なんだか勇気がわきます!!

5 For the LORD is good and his love endures forever; his faithfulness continues through all generations.

 

「赦しのプレゼント」 イザヤ書43章22節から44章8節まで

2006-01-15 23:11:48 | みことば
「赦しのプレゼント」 神は赦してくださる! 
なんとすばらしいことなのでしょうか!


プロテスタント教会では、聖餐式が行なわれますね。これをただ漫然と行なっている教会があります。聖餐式の目的は、イエス様、贖いの主を覚えるために行なうということをまず確かめておきたいとおもいます。

 神は聖なる方です。罪の問題を人間が解決できないことを知っています。その代わり、神は、「赦し」を与えてくださいます。

 イザヤ書43章22節以下、切々と「祈り不足」をヤコブやイスラエルの人々に神が呼びかけているのです。人は神を呼び求めるよりも、無関心であることが多い実に自己中心的な生き物です。でも同じく、25節以下で神は、だから「あなたを裁く」とは言わないのです。神ご自身のために罪を赦してくれるというすばらしい「赦しのプレゼント」を与えてくれているのです。

 礼拝は、神に感謝をささげる為にあります。43章25節をしっかり読むと、次のように書いてあります。

イザヤ書43:25 わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。 I, even I, am he who blots out your trangressions, for my own sake, and remembers your sins no more.

「わたし」が3回強調されて使われていることが、神の赦しを示しています。
何という素晴らしいプレゼントなのでしょう!!

 これは新約聖書でも、ローマ5:6-8、エペソ2:8-10に端的に示されています。イエス様を信じて受け入れれば、神の赦しが与えられます。十字架の死は、私たちの生なのです。「ありがとうございます。」と素直に言えることで、イエス様は必ず一緒に歩んで下さいます。

 明日は予報…しかも寒そうだ~。でも「神の赦し」を胸の中に収めていると、なぜか温かいのです。




1月15日 第三主日 <教会集合写真!>

2006-01-15 22:59:47 | みことば
2006年 教会集合写真を撮りました!!



 2006年1月も半月が過ぎました。今日は、礼拝後、出席者全員で集合写真を撮りました。みんないい顔をしていますね~今日の教会は、感謝と賛美に満ち溢れていました!!

 礼拝後は、S子姉が作ってくれた「山菜おこわ」で愛さんの時を持つこともできました。このような時が与えられ、神に感謝いたします。

 なお、今日は、Bishop宣教師が来られ、「赦しのプレゼント」というメッセージをいただきました。明日詳しく載せます。Bishop氏は、宣教団のRegional Directorということで、2月からしばらくインドに宣教に出かけられ、秋に日本に帰国されます。Bishop氏の宣教の成功と健康をお祈りし、その間、私たちもしっかりクリスチャンとして「成長」したいなと思います。

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13日からこれで3日間雪かきなし・・一休みだけど明日はまたの予報なのです。雪かきでの筋肉痛が治りません!!降らないでくださ~いと祈るばかりです。



1月第二主日 「深みに漕ぎ出しなさい」

2006-01-13 22:29:15 | みことば
「深み」ってどんなもの??

ルカ福音書5:4 「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」

 1月8日の礼拝は、この2006年聖句がメッセージのテーマでした。「深み」ってどんなものなのでしょう?そして「深みに漕ぎ出す」ってどんなことなのでしょうか?
 みことばは、弱い者を強く「沖」へと押し出してくださる力を持っています。ルカ5章にあるこの「大漁の奇跡」のシーンですが、5章を読んでいくと、実はシモン・ペテロは、イエス様に対してきつい口調で反論しているのです。(5節)

 「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でも、おことばどおり、網をおろしてみましょう。」
Simon answerd, “Master, we've worked hard all night and haven't caught anything. But because you say so, I will let down the nets.”

日本語だと、あまり「反論」的な意図は伝わってきませんが、英語だとbecause you say soという部分に、いかにも「しぶしぶやってみます」という行間が出ています。そして、シモン・ペテロは「Master=先生」とイエス様に呼びかけています。しかし、網にたくさんの魚がかかったことで、8節になると、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」というように、「主よ=Lord」という呼びかけ語に変わるのです。
 これは、みことばを信じることそのもの、つまり信仰は、いつでも誰でもどこでも見出していけるものであり、そのこと自体、それほど難しいことではないことを我々に示してくれています。そして、その信仰をちょっと先に進めて行けば、つまり「深みに漕ぎ出して」みれば、誰でもみことばの力を経験できるということが示されているのだといえます。

 神の臨在にふれるとき、信仰の目が開かれます。どうか、私たちの信仰生活も、日々の生活で全領域にわたってイエス様を賛美できるものでありたいと思います。

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 明日は久しぶりにそうなんだけど・・どうかな??大学は冬休みが終わり、今日から講義があり、疲れました~「学生さんよ~もう少し勉強してね」っていうホンネ でもとりあえず2006年度の大学講義は終了であります。ほっとしました。神が導いてくれた平安と喜びに感謝・感謝であります。





2006年1月1日 元日礼拝

2006-01-01 22:59:29 | みことば
2006年元日礼拝にて

2006年は日曜日スタート。元日&第一主日の朝、教会に兄弟姉妹が集い、「証し礼拝」の時をもつことができました。司会奉仕もできました。主に感謝し、賛美をささげます。
 
 あいの里学園通りキリスト教会の2006年教会標語は、「深みに漕ぎ出す教会」です。これは、ルカ福音書5章4節にある「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」というイエス様がシモンに向かっていったことばからのものです。

 さて、「深み」とはいったいどんなことなのでしょうか。その定義は、一人ひとりにあって違うはずですが、私たちは主をとおして何を学びながら、「深み」を得ていくのでしょうか。そしてその「深み」に向かい、どのように「漕ぎ出して」いくべきなのでしょうか。これを、みことば、みこころを通して学んでいける自覚的な2006年が過ごせればいいなと思います。

 一日に20分聖書を読む時間をとれば、旧約&新約を通読できるそうです。トライしてみたいと思います!通読してこそ、見えてくる何かもあるはずですから。

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