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聖書に学ぶ神のみことば

teacherが感じ、思ったことなどをいろいろと綴ります。聖書の一節をちょっと添えて。

聖書通読part14 ピリピ人への手紙

2006-03-24 23:36:28 | 聖書通読
 「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」(ピリピ4:4)

 「ピリピ人への手紙」は、主にある喜びが熱くつづられており、4章を勢いよく読めるパウロ渾身の手紙である。(少なくとも、僕はそう思う。)その意味で、4章4節は、「ピリピ人への手紙」の象徴的一節となる。

 殉教がそう遠くないと知って獄中にいたパウロがどうして「熱く」語れるのか。
漫然とそして単純に、「主に在って」とは容易に言えるが、究極の感謝と祈りに溢れたこの「ピリピ人への手紙」には、読む者の胸に響くすばらしいことばが各章にしっかり散りばめられている。

1:21 私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。

2:3 何事も自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。
2:4 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。
2:14 すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。

3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。

僕は、このパウロのことばに惹きつけられる。自分はここまでのことばで信仰を証できるであろうかと。何度でも、このパウロのことばに立ち返って、生きていければいいと思う。4:11では、こんなふうにも言います。

4:11 乏しいからこう言うのではありません。私はどんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。

 毎日、愚痴や後ろ向きに生きていないだろうか・・・僕は。一歩でもパウロに近づき、そして主にあって神の祝福をいただこう!そんな勇気もくれる一節である。

 4:6 何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

 「人事異動」という煩いに巻き込まれた僕ですが、このことばがどれだけ勇気の源となったでしょうか。

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明日は、札幌ドームでプロ野球開幕。札幌移転後、初めての満席予想が出ている。内野自由席回数券で入場を敢行するが、はたして入場できるやら。
 ファイターズの快心の勝利を
 

聖書通読part13 テサロニケ第一を読んで

2006-03-13 20:37:12 | 聖書通読
しばらくぶりの「通読」ですが・・・ずっと通読はしています

   
 「通読」というタイトルは2月16日以来。でも、ずっと通読は重ねています。

 この第一テサロニケには、ぼくのクリスチャンとしての歩みをふり返るうえで、決して忘れることはない箇所があります。

 4章3節 神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避け、
 4章4節 各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、
 4章5節 神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、
 4章6節 また、このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしないことです。なぜなら、主はこれらすべてのことについて正しくさばかれるからです。これは私たちが前もってあなたがたに話し、きびしく警告しておいたところです。
 4章7節 神が私たちを召されたのは、汚れを行なわせるためではなく、聖潔を得させるためです。
 4章8節 ですから、このことを拒む者は、人を拒むのではなく、あなたがたに聖霊をお与えになる神を拒むのです。

 聖書が7節のように言ってくれていることが、どれだけ心強いことでしょう。まさしく、「恵み」。それは、受ける資格の無いものに向けられる神の優しい心遣いともいえます。

 聖書という良書には、各人いろいろ惹かれる箇所が存在しますが、ぼくのクリスチャン生活は、ここが起点になっているといって構いません。
 第一テサロニケは、さらに第5章でも勇気をくれます。

 5章9節 神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。
 5章10節 主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。

 聖書というものは、えてして解釈に困難をかかえる箇所があったり、いくつかのパラドックス性に対して理解に窮する部分があったりするものですが、こんなにまで直球勝負で人に迫る部分はないのではないでしょうか。

 パウロは、「兄弟たち、私たちのためにも祈ってください。」(5:25)、「すべての兄弟たちに、聖なる口づけをもってあいさつをなさい。」(5:26)、「この手紙がすべての兄弟たちに読まれるように、主によって命じます。」(5:27)、というように熱い願いを込めて、この手紙を締めくくっています。

 テサロニケ第一を読むとき、神と完全にひとつになるために祈ることができているかどうか試されている自分がいることに気づきます。ぼくにとって、とても大きな意味を持っている「手紙」なのです。

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寒い寒い月曜日でした。3月13日になって「真冬日」。明日は今日より寒いそうです。


聖書通読part12 エペソ人への手紙を読んで

2006-02-16 22:18:59 | 聖書通読
「~しなさい」&「~してはならない」をどう受け止めるか

 エペソ全6章を読むと、やたらと繰り返される「~しなさい」と「~してはならない」に辟易する人も、実のところ多いのではなかろうか。人生経験の少ない若者には、ある意味、嫌われてしまう書といえるかもしれない。

 しかし、どの章のどの節も、ほぼ古今東西変わらないであろう人の至らなさを見事なまでに、異なった言葉で描き、抉り出しているのが「エペソ人への手紙」である。僕には、いくつ該当しているものがあるだろうか。数えてみると、なんだかゾッとする。

 パウロが6章後半の14~15節で、
14節 では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、
15節 足には平和の福音の備えをはきなさい。

 といった部分。邪心ばかりの自分には随分とグサリと響いてくる言葉です。押し付けがましい「~しなさい」式の表現が多用される「エペソ人への手紙」ですが、これをどう受け止めるかは、自分の信仰をふり返るうえで、ある意味では「試験紙」になるのではないでしょうか。

 トリノ五輪~ダメだね…女子のスケート団体がどうなるだろうか。道産子4人娘にがんばってほしいのだけど、世界は強い!!

 


聖書通読Part11 ガラテヤ人への手紙を読んで

2006-01-24 22:09:33 | 聖書通読
「ガラテヤ人への手紙」が語るもの

 6章から成る「ガラテヤ人への手紙」を通読してみました。あちこちの節が、いろいろな著作、説教に引用される手紙ですが、6章を通して読むことで、そのメッセージ性をしっかり理解できるものとなっています。

 2章16節 ここは、私たちの信仰が、ただイエス・キリストを信じることによって在るのだということを、ストレートに物語るものです。

しかし、人は律法の行ないによって義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。(ガラテヤ2:16)

5章19節-21節 そこには、文明と便利さになれきってしまった私たち現代人に対しての大いなる警鐘が描かれています。
 
 「肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。(中略)こんなことをしている者たちが、神の国を相続することはありません。」

 さて、自分はどうだろう。いくつか当てはまるものがあります・・しかし、22節と23節に、「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」とあるように、こちらにもいくつかあてはまる自分がいます。

 そう、僕はまだまだ至らない人間にすぎません。

 25節ー26節でパウロは、こう励ましてくれています。
25節 もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。
26節 互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。

 聖書は、いつも私たちに教えてくれます。いつも「君はそんなに大きい存在かい?」と自省的な問いかけをいつもしてくれています。

おのおの自分の行ないをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう。(ガラテヤ6:4)

 これは、逮捕されていま拘置所にいる堀江さんにそのまま読んでほしい言葉となってしまいました。神に背く「肉」だけの生活では、人間らしい生活とはいえないのです。聖書は、こうした毎日迫ってくる世俗的事件にすら重ね合わせられる部分を持ち、すごい説得力を持って存在しているのです。

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聖書通読part10 死刑判決に思う~第二テサロニケを読んで~

2006-01-18 00:05:47 | 聖書通読
そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。(第二テサロニケ1:9)

 今日、M被告が17年もの年月に渡る裁判の最終判決を受けた。「死刑」。つまり国家が人を「合法的」に殺すという判決である。自分を人道主義者だなどと全く考えていないけれども、僕は死刑に反対である。いかなる冷酷非道な犯罪を犯した者にも死刑は赦されないと考えている。人が人を殺すという行為そのものが死刑なのだから。
 
 そんな判決をきいて、ふと聖書を読んでみた。第二テサロニケ1:9は、イエス様を救い主とする私たちにとって、極めて正統的なことを確認しているだけの一節ともいえる。「そのような人々」とは、8節にある「神を知らない人々、私たち主イエスの福音に従わない人々」である。

 M被告は、もしかしたら、死刑囚が暮らす拘置所で教戒師の訪問を受け、「神の赦し」について話をされるかもしれない。彼はそこで「改心」するのであろうか。ふとそんなことを思った。
 死刑囚が死刑を待つ期間に、聖書を読むようになるとよく言う。(日本でも)M被告は実は僕と同じジェネレーションである。(もう最終判決は出た。M被告とは呼ばず、M死刑囚というべきなのだろうが・・)たしか昨年死刑台に散ったTもM死刑囚そして僕と同じジェネレーション。この世代はどうしてこうした極端な犯罪に走る蛍傾向があるのだろう。(この世代によるケチな犯罪も多いが)
 僕は思う。この世代は、戦後の高度経済成長による豊かさとそこに至るまでの貧しさもぎりぎり知っている世代なのだ。きっとそのことが犯罪に走る一つの要因ではないかと推察する。この世代の犯罪は、ここ数年、大小を問わずあまりにも多すぎる。

 僕は導かれ、聖書に出会い、神の愛を知ったが、MやTもその機会が与えられていれば・・・阪神大震災の犠牲者を追悼しつつ、そんな複雑な思いで過ごした1月17日の午後であった。

 Mは17年間拘置所で何を思い、過ごしてきたのか?そして死刑台の下に散っていくまでに何を思うのか。聖書に出会ってほしいと思うのだが・・・叶わぬ願いだろうか。心ある教戒師が彼のもとに導かれるよう、僕は祈りたい。

 死刑囚のために祈るなんて、よくないことだろうか。僕は決してそう思わない。

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明日も まいったな~最高気温がマイナス6度だってさ・・(では、最低気温は何度になるの、いったい?この冬の寒さと雪は異常だな~~)


聖書通読日記~久しぶり^^Part8 第一ペテロ

2006-01-14 23:29:00 | 聖書通読
「ペテロの手紙」第一 全ての節が強烈なメッセージ!!

 夕方、差し迫った原稿のすべての推敲も終わり、脱力感に襲われましたが、一方、ひさしぶりにゆっくり聖書を読む時が与えられました。

 さあ、「ペテロの手紙第一」!!これは、5章すべての節が強烈なメッセージとなって、僕に襲いかかってきています。
 
 1章17節に、、「また、人をそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら、あなたがたが地上にしばらくとどまっている間の時を、恐れかしこんで過ごしなさい。」 とあるように、身を慎まねばならない自分がそこにいることを本当にイエス・キリストを通して、多彩に教えてくれているのが、「ペテロの手紙第一」です。

 5章10節 「あらゆる恵みに満ちた神、すなわちあなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」

 「不動の者」などとは、言えない恥ずかしい自分ですが、そこに向かっていこうという「不動の信仰心」はしっかり保った生活を心がけたいものです。







聖書通読日記part7 詩篇65

2006-01-08 23:25:23 | 聖書通読
 詩篇65から

 詩篇は全部で150編。第65編だけ読んで「通読」とはいかにもおかしいのですが…。
 とにかく詩篇については、余計なコメントは不要ですね。
 疲れたときに、ふと読めば癒される「詩篇」。でも単純な「癒し」に解消されない、烈しく信仰を求めることばさえ溢れかえっている書です。

 詩篇65:3 咎が私を圧倒しています。しかし、あなたは、私たちのそむきの罪を赦してくださいます。
 When we were overwhelmed by sins, you forgave our transgressions.

65:5 私たちの救いの神よ。あなたは、恐ろしい事柄をもって、義のうちに私たちに答えられます。あなたは、地のすべての果て果て、遠い大海の、信頼の的です。
 You answer us with awesome deeds of righteousness, O God our Savior,
the hope of all the ends of the earth and of the fastest seas,

まだ降り積もる雪…あと2時間もしたら、除雪車がまたやってきそうな気配です。
明日は成人の日。多くの成人の門出を「晴れ」で祝ってあげたいのですが・・教会の奏楽者ハンナ姉もめでたく成人式。


聖書通読日記No6続き~「ヤコブの手紙」から~

2006-01-07 22:41:42 | 聖書通読
今日の世相に見事に通じている「ヤコブの手紙」

 今日、「勝ち組」とか「負け組」ということばで、いわゆる社会階層差が肯定される実に嫌な時代がたしかに到来しています。金にまつわっての「拝金主義」はもう行き着くところまで行き着いた感すらある、この国。
 「ヤコブの手紙」は、こんな時代にあって、ひたすら「欲」という世に流されていく私たちをぐっと引きとめるものを持っています。
 
 何度読み返しても、至らない自分の存在をいやというほど知らされる書です。ぼくは、世間的に「センセイ」と呼ばれる職業についていますが、「センセイ」と呼ばれることに鈍感にならないよう、高ぶりをじっと自己抑制できるよう、この「ヤコブの手紙」を必読書としています。

 3章1節 私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。
 同2節 私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。
1 My bretheren, let not many of you become teachers, knowing that we shall receive a stricter judgment.
2 For we all stumble in many things. If anyone does not stumble in word, he is a perfect man, able also to bridle the whole body.

ここでの「教師=teacher」が今日の学校教員そのものをさしているわけではないでしょうが、2節にあるよう、人はみな失敗するのです。教える側の人間も失敗する単なる一人の人に過ぎません。「教育」の目標は「人格の完成」ですが、完成しないからこそ教育たりうるという面もあるのです。人間がコントロールできない何かがあるからこそ、私たちの日常があるということをもっと謙虚に受け止めていく必要性を感じる今日このごろです。

 「センセイ」と呼ばれることに慣れきっている僕ですが、その「慣れ」がときに罪を生むこともあることを頭に刻み、これからも何かにつけ場面場面で、「ヤコブの手紙」に立ち戻っていければいいなと思うのです。

 いや~お昼からずっと雪・雪・雪・・・・明日の礼拝行けるかな~というくらいの雪です。お祈りして寝ます。


聖書通読日記No6 胸に響く「ヤコブの手紙」

2006-01-06 23:55:15 | 聖書通読
「ヤコブの手紙」に込められたメッセージ

 以前から、「ヤコブの手紙」はよく読んできました。ある意味、新約聖書の中でも「お気に入り」なのですが、改めて通読すると、胸にズシリと重く、自分はどうしてこう罪多き存在なのかと思ってしまいます。

 2章17節 それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。
 Thus also faith by itself, if it does not have works, is dead.

なんだかさっきから、体がゾクゾクします。(風邪かな??)
また明日、つづります。「ヤコブの手紙」は何度読んでも、自分がいかに小さな人間かをわからせてくれます。ある意味では、怖い書です。でも、だからこそ「聖書」の一部なのです。


聖書通読日記No5~ヨハネの手紙第三~

2006-01-05 23:47:48 | 聖書通読
 ヨハネの手紙第三から

 15節しかない短い手紙ですが・・・

11節 愛する者よ。悪を見ならわないで、善を見ならいなさい。善を行なう者は神から出た者であり、悪を行なう者は神をみたことのない者です。
Beloved, do not imitate what is evil, but what is good. He who does good is of God, but he who does evil has not seen God.

「私は善を行なう者」と堂々と言えるかな~昨年9月に映画「マザーテレサ」を見て以来、おなか一杯食事をした後、美味しいものをたくさん食べた後など、「善」と「悪」がほんとうにしばしば頭の中を交錯し、そこから波及していろいろと「善」と「悪」について考えることがあります。
 至らず未熟な自分の不明に恥ずかしくなる毎日。でもいっそう謙虚でいようと思うことができるようになっている自分は少しずつ確かめられるようになってきました。それも信仰あってのことです。主に感謝します!


通読日記No4 ペテロの手紙第二

2006-01-04 00:10:07 | 聖書通読
ペテロの手紙第二から得たこと

 どういうわけか、性格が曲がっている僕は、第一から読まずに、第二を先読みするのであります。

心がガーンと鳴っています……3章7節



3章7節 しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。
But the heavens and the earth which now exist are kept in store by the same word, reserved for fire until the day of judgement and perdition of ungodly men.

 そうですよね…そのくらい一人ひとりの人間は、かなりの「罪人=つみびと」です。

ペテロは手紙の最後、3章19節で、こう言ってくれています。
私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。

 磔刑による血潮で、私たちの罪を贖ってくださったイエス様。無節操な迷路に迷い込むことのないように、僕は努めます。



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通読日記No3 ヨハネの手紙第二

2006-01-03 23:05:44 | 聖書通読
 ヨハネの手紙第二から

 わずか13節だけの短い手紙ですが、第一ヨハネ同様に、シビアな論調で迫っています。(たとえば、10節のように 「~してはいけません」が2回続く箇所など)

 とはいえ、結局シンプルに収まるべき部分は、ここになります。9節です。
「だれでも行き過ぎをして、キリストの教えのうちにとどまらない者は、神を持っていません。その教えのうちにとどまっている者は、御父をも御子をも持っています。」
Whoever trangresses and does not abide in the doctrine of Christ does not have God. He who abides in the doctrine of Christ has both the Father and the Son.

 ホントよく降るね~参っちゃうよ。


通読日記No2 続編 ヨハネの手紙第一から

2006-01-03 22:50:51 | 聖書通読
 ヨハネの手紙第一から

 ヨハネの手紙第一は、かなり激しい論調で書かれていますが、5章14節をピックアップしておきます。

 何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。
Now this is the confidence that we have in Him, that if we ask anything according to His will, he hears us.

 外はさっきから猛吹雪です・・・高速道路も通行止め。ああ、明日は少しばかり職場へ行かねばならんのに…。



通読日記・番外編~使徒パウロの生きた時代を考えつつ~

2006-01-03 08:41:18 | 聖書通読
 使徒パウロの生きた時代を考えつつ

 さっき読んだ「ヨハネの手紙」と関係はないのですが…並行して読んでいた本から得た知識を先行して披見しておきます。 


パウロが生きた時代は、いってみれば、「キリスト教初期」といえます。黎明期のキリスト者たちには、多様な福音理解(罪の理解、十字架による赦しと救いの理解、キリスト理解、復活理解、教会理解など)があったとされ、パウロはその中の一人であったという認識が必要と思われます。

 パウロは、その多くの「手紙」において、All or Nothingという形で一部のキリスト者を批判・排斥していますが、それをもって、彼らが批判されるべき「異端」であると決め付けることはできないと山口雅弘牧師は述べています。(著書『よくわかる新約聖書の世界と歴史』2005年日本キリスト教団出版局)

 パウロが生きた当時の様々なキリスト者の主張や特徴を相対的にみていく必要があると思われます。

  朝から暗い日だ…(珍しく朝5時半おき)