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聖書に学ぶ神のみことば

teacherが感じ、思ったことなどをいろいろと綴ります。聖書の一節をちょっと添えて。

エッ・・石油ですか??~ピリピ4章へ~

2006-03-02 22:25:39 | みことば
 日本の「アラビア」に果たしてなれるかな??
 
 江別市東端に位置する豊幌地区に石油と天然ガスの試掘場が突如出現。人間の欲は深いものです。地下4000メートルまでボーリングして石油と天然ガスを掘り出そうなんていうのだから。

 資源に恵まれない日本にとって、内国産資源の開発はとても大切なことはわかるけど、自宅から車で15分も走れば着いてしまうような場所で、こういった人の所業をみてしまうと、なんだかとてもやりきれない。

 北海道は地下資源の宝庫。きっと天然ガスは噴出するのではないかと言われているものの、果たして石油が潤沢に出て、この地が、日本の「アラビア」になるわけもないだろう。

 実は、この試掘場の周辺は、川あり湖ありで、野鳥の宝庫。10年以上この地をみてきているが、宅地が増え、湿地が減り、河川の無駄な「乱開発」がとめどなく行なわれてきた結果、アオサギなどの生息地は確実に減っています。きっと、この試掘場の存在も野鳥の生息域を狭める結果となるでしょう。
 北海道版の“Silent Spring”が来ないことを祈るばかりです。ちなみに、この地は、昭和56年の石狩川大洪水で一度水没してしまった地区。そこから四半世紀の時をかけて、人は農地を再整備し、自然回復を図ってきた場所なのです。原油が高くてたいへんな世相になっているけど、「アラビア」のようになれるわけもない土地での開発がさらなる自然破壊を生むと思うと、人間の過ちはどこまで突き進むのかと嘆かずにはいられない。

「ピリピ人への手紙」4章から4~7節
 4節 いつも主にあって喜びなさい。
5節 あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。
6節 何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
7節 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

 今日は、このことばが与えられました。
懸案だった会議も乗り越えました。主に感謝あるのみです。

 ピアニスト内田光子がついに、ベートーベンのソナタのCDを出した!30番の演奏は特に神の域だと思う。宇宙に吸い込まれていきそうな感覚を覚える。
 CD情報はこちらへ

 夜10時半にベートーベンのソナタを聴いている男もあまりいない・・かな??

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明日から「ワールドベースボールクラシック」だっていうのだけど、まったくピンとこないな~どうなるんだろう。

またまた予報。

2月26日 第四主日~春を告げる嵐雨?~

2006-02-26 21:59:13 | みことば
 主よ、あなたの恵みにあふれた一日をありがとうございます。

EXAMINERの仕事は無事終りました。昨夜、温泉行った成果なのか、右肩と腕の調子も昨日よりずっとよくなり、いい時の流れが与えられたことに心から感謝です。

 教会からFAXされてきた週報によれば、今日は引き続き、「エペソ人への手紙」がメッセージテーマになっていました。(エペソ3:1-13)

 これまで説いてきたとおり、「エペソ」の中に込められたパウロのメッセージは、とても熱いものがあり、3章では、12節にまずその「熱き思い」が集約されていると思います。

 エペソ:3:12 「私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。」

 もうここがわかれば、17節にあるパウロの、「こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。」 という思いは、キリストが心の中に永住してほしいという願いであることがすぐ理解できます。

 私たちは、何か失望があると、「確信を持った祈り」そのものに疑いを持ち、「失望を希望に変えていく祈り」が確かにあることを否定しがちになります。しかし、パウロが3章19節で「人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。」という祈りの言葉を示しているように、キリストの愛は、「確信を持った祈り」にふさわしいものです。

 私たちキリスト者の生活が、神の愛の中に根を張るものでありますように、祈りを強くしていきたいと思わずにいられません。

 お昼過ぎから、風速20メートル近い風と強い雨。これが春を告げる嵐雨であればいいのですが、どうやら3月に向けてまた雪に変わるようです。3月1日の卒業式は、どうかいいお天気に恵まれますように。

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トリノ五輪まもなく閉幕。その前に、一番の楽しみ!アイスホッケー男子決勝。僕はアイスホッケー男子決勝にこそ、男の「意地」のすべてが集約されているように思う。今大会、意外にも金メダルのないフィンランド(ホッケー界では伏兵)がんばれ!

効果あったな~南幌温泉です。




「喜ばれてなんぼ」~マタイ7:12~

2006-02-23 21:31:33 | みことば
 カトリックのラーメン屋主人による示唆~「もうけてなんぼ」ではない!

 札幌のススキノにあるラーメン横丁でラーメン店を営むご主人は、カトリック信者。新聞コラムに面白いことを書いていました。(道新2006.2.22夕刊)

 世俗的な仕事と信仰は相反するといわれるが、マタイ7:12は、決してそうではないことを伝えているといいます。

 イエス様はこう言われています。
マタイ7:12 「それで何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。」(新改訳)
マタイ7:12 「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」(新共同訳)
Therefore,whatever you want men to do to you, do also to them, for this is the Law and the Prophets.(NKJ Version)

「もうけてなんぼ」の仕事はダメだということだ。みこころに沿った働きとはいえないのだ。このラーメン店主いわく、「もうけてなんぼ」ではなく、当店は「よろこばれてなんぼ」で行くと宣言していますが、こういうお店にこそ足を運んでみたくなります。

 ラーメン横丁なんて何年行ってないだろうかな~。以前、小澤幹雄氏(指揮者、小澤征爾さんの弟さん)が仕事で来札された折、食べに連れていってから足を運んでいない。6~7年くらいのご無沙汰だろうか…正直、高いからね~ラーメン700円は高いよ。

 航空自衛隊長沼駐屯地の巨大レーダーが山頂にある長沼町の馬追山。ここは夕陽の名所であるとともに、外来の害獣、アライグマが北海道一繁殖している町であります。馬追山ふもとのメロン農家さん、今年は、アライグマの被害に遭いませんように。アライグマの一団が一晩でメロン畑のメロン全てを食いつぶす!農協いわく、数億円の被害が毎年出ているそうです。

 ちなみに、僕の住む江別市も、アライグマの「宝庫」であります!!(一度、この目でみたいと思っているんだが、まだ目撃したことはないんです・・)

 明朝のフィギュアスケートに備えて寝ます。

外食産業も出入り烈しく~第二コリント4:18につなげて~

2006-02-21 22:51:24 | みことば
 不況と外食産業を通して聖書をみる

 僕が住む札幌の隣市、江別市は、人口12万4千人。札幌まではJR快速で15分。札幌市内各区の端に住んでいるよりもずっと便利な町である。
 不況なのに、どういうわけか国道沿いに外食産業ばかりが進出するという構図は今に始まったことではないが、江別市の場合、出店と閉鎖の繰り返しが多く、最近も、十勝から進出した国道沿いの豚丼屋さんが閉鎖になっていた。これも、石油業界のリストラで閉鎖されたGSの跡地に開店したもので、およそ1年半での撤退である。

 本当に不思議なのは、収入的には「安定業界」に安住している僕のような人間でさえ、新しく出現するお店に対して「そう長くない」と内心思ってその推移をみていると、ほぼ僕が予期したとおり、撤退していく。「民間の知恵」という点では僕なんかよりもずっとずっと長けているはずの人たちが、リスキーな商いをしていることにいつも違和感を感じているのである。

 それにしても、不況、不景気といいながら、外食産業だけは際限のない新規出店が相次ぐ。そんなに旨みのある業界なのだろうか。たとえば、ラーメンの新規出店のうち、60%は開店から一年以内に閉鎖というデータがある。
 そもそも、「不況」とか「財政難」ということは、労働者個々に収入が少ないということを意味している。それなのに、なぜ外食産業はリスクをとってでも新規出店を繰り返しているのであろうか。「儲かる」という幻想か。それとも「儲けたい」という欲得か。

 おそらくその両者であろう。自分自身は仕事柄いわば「無産階級」だけれども、どうしたことか、「このお店はそう長持ちしないな」という直感はよくあたる。いわば素人の感覚でもわかるのに、リスクをあえてとる人たちの幻想と欲得は、それをもってキリスト教義的に「罪」に相当するのではないか。僕はずっとそんなことを考えている。

 コンビニ、大型店、それらが未来永劫に渡り隆盛だという幻想に、こんにちの僕らは浸ってしまっているけど、決してそうではない。「見える物」ばかりを追求していく人間の欲得を、どこかで抑え断ち切っていく意識がなければ、社会は疲弊していくのではないだろうか。
 「大都会」にはなりきれない「田舎都市」に住んでいると、そのことがしっかり見えてくる。

 1年後には撤退を表明している大型店の2Fにまもなく新規出店する有名100円ショップ。いったい何を考えているの??

 今日は、社会評論になってしまいましたが、これは、聖書でいうと、第二コリント4章18節につながるのです。

 第二コリント4:18
私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。




今日はこれだけを・・・

2006-02-20 23:25:37 | みことば
私の神、主よ。私はとこしえまでも、あなたに感謝します。(詩篇30:12)

 また、「エペソ人への手紙」なのですが、パウロの祈りはいつも感謝で満ちていることに、とても勇気をもらいます。(エペソ5:20)

 神に惜しまず感謝する気持ちをずっと持ち続けたいと、心から思う2月20日でありました。


2月19日・第3主日 「神の家族としての教会」

2006-02-19 16:19:55 | みことば
エペソ人への手紙2章19節~22節が示すもの

 「今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。」(19節後段)

 「エペソ人への手紙」のテーマが「教会」であることは確認してきましたが、2章の11節から18節までは、ユダヤ人と異邦人との和解について書かれている。そこでは、ユダヤ人とか異邦人(割礼を受けていない人々)という区別は、イエス様の十字架の贖いによって不要になったのだということを示しており、それを受けて、19節につながっていきます。

19節すべてを書き出していくとつぎのようになります。
 「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。」

イエス様を長子として互いに神の家族として助け合うことの必要性が、こうして19節から22節にかけて記されています。私たちは、キリストの体の一部です。そこから神の栄光を表していくことが求められています。そしてその普遍的な基準は、「聖書に戻る」ことであり、「教会に戻る」ことです。
 神の栄光を表す役割を与えられている私たちは、いまいちど、教会の役割を再認識していきたいものです。

 今日はときどきときどきという
落ち着かないお天気。でも暖かかったのであります。確実に春が近づいている感じがします。

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あれま・・明日午前中の会議の資料つくってないってね~不毛なことばかり繰り返している職場にいると、もうこの時期は、本当にエネルギーが残っておりません。



マタイ5:21-22から示唆を受けて

2006-02-18 22:51:48 | みことば
マタイ5:21-22「怒り」についての示唆

イエス様は、こう言っています。

5:21 昔の人々に、「人を殺してはいけない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。」と言われたのを、あなたがたは聞いています。
5:22 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。

 イエス様は、腹を立てることが「殺人」に等しいと言われています。そこには、もちろん、「正当な理由もなく腹を立てることは良くない」という含意があると思われますが、第一ヨハネ3:15でパウロが、「兄弟を憎む者はみな、人殺しです。」とも記していることから、こうしたみことばに照らしていくと、私たちはみな神の赦しとあわれみが必要な殺人者となってしまうようです。
 先日、雪まつり会場で、転倒した老人を介抱しない若い警察官の態度に腹を立てたこと、これも人として謙虚さの足りない「殺人的行為」なのかもしれません。怒りは、危険な行為の一つなのでしょうが、それを抑えられないのがまた人間です。神のみこころに沿う生き方を忘れずにしたいものです。

 明日の礼拝は司会。明朝は雪ふらないようです。

お天気も、昼間は気温がプラス4度くらいになるようです。ああ、今日も日本選手陣は、メダルが取れず。きっとこのままだと。、ゼロかも??

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2月第二主日礼拝~エペソ2章から~

2006-02-13 21:17:58 | みことば
「神の作品とされた幸い」(エペソ2:10)

 吹雪の中の運転は慣れたものですが、昨日12日の往路の吹雪は半端ではなかった。死ぬかと思って、ひたすら祈りながら教会を目指しました。無事教会に導いてくださったことを、神に心から感謝するのみです。
 
 時に数メートル先も見えなくなるブリザードの中、長年の勘で、「たしか、この付近で信号のはずだ」とブレーキをかけてみると、やはり交差点前で、目の前に車が現れたことが二度。人間の感覚とは大したものです。神から与えられたこうした
giftに感謝あるのみ。

 「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」(エペソ2:10)
For we are His workmanship, created in Christ Jesus for good works, which God prepared beforehand that we should walk in them.

ここが2月第二主日のメッセージテーマでした。
改めて確かめますが、私たちの信仰の原点は、私たちがキリストの十字架を通していただく神の福音に立っている」ということです。「エペソ人への手紙」は、先週みたように、1:23で書かれたとおり、「教会」が中心テーマですが、その2章では、まず1~7節で「死から新しい命へ」が説かれています。つまり、イエス・キリストを知らずに生きているのであれば、「霊的に死んでいる」ということでもあるでしょう。(特に1~3節)キリストにあって、神の救いを受けることができるのであり、私たちの善行ゆえでないということです。
 そして8~10節ですが、「神の作品」とまとめていい箇所かもしれません。私たちは、神の栄光を表す生き方をするように作られたということです。「良い行ない」とは誤解されやすいのですが、何か道徳的にいいことをすることではありません。あくまでも神の御心に沿って生きるということであり、もっといえば神とともに生きるということです。「再創造」と定義してもいいのかもしれません。
 
 教会が神の栄光を表すためにあるのだということを理解しつつ、神の御心に沿って生きることとは何なのか、改めて問い直し、信仰を強める手がかりにしてくれる箇所がエペソ2章といえます。

 いろいろな版やサイズで持っている聖書ですが、川崎牧師の勧めもあり、思いきって、「チェーン聖書」を買うことにしました。

 メダルのない日本選手陣。スケート男子500メートル、どうなるでしょうかね。こんなときに限って、15年間使ってきたソニーのテレビの調子が悪い。

 みことばホームページ

 明日はもしかしたら?という予報もあり。雨だとしたら、昨年の11月以来なんだそうな…札幌がプラス気温になったのも2月になって今日が初だったそうです。異常気象。

礼拝前~外はすごい吹雪模様~

2006-02-12 09:24:59 | みことば
トリノ開幕ですが、主日の朝、吹雪いてます

 トリノ五輪開幕。ジャンプ、原田氏は体重コントロールのミスで失格。なんだか盛り上がらないな~と思って朝起きてみると、猛烈な吹雪。そろそろ礼拝に出かけようと思うけど、教会への無事到着をひたすら祈るしかない、そんな白一色の世界が目前に展開しています。

 自宅から、500メートルほど西に歩いた空き地では、江別市の冬祭り「マシュマロンピック」が昨日から行なわれていますが、この吹雪の中、まともにできるのやら??観客だってこないよ・・この天気では。

 お天気の回復を祈りつつ。

少してくれませんかね??


エペソ5:18を思いつつ

2006-02-09 23:33:41 | みことば
「また、酒に酔ってはいけません。」(エペソ5:18)

 酒に酔って帰ってきました。ただ、エペソ5:18にあるような「そこには放蕩があるからです。」という状態にはなっていません。
 こうしてブログもエントリーできています。

 いい仲間がいて、いい時間が持てて、それもまた神から与えられた機会と時。

 エペソ5:18の最後は、「御霊に満たされなさい。」ですが、お酒の場でわいわいやっていても、「神様ありがとう」という気持ちでいられたことにまた感謝なのであります。

 本日は朝ピーカンの後、天気豹変して、猛烈な吹雪で視界不良でありました。
夕方は、バス来ない、タクシー来ないで、あきらめてJR駅まで徒歩。雪ダルマになって駅に到着。吹雪の中をついて歩いたので、軽い酸欠状態。そんな体で飲んだので、酔うってわけです。
明日は出張で終日会議となります。列車移動。朝、寝坊はできません・・・。

 


旧約聖書のパラドクス性

2006-02-08 23:32:35 | みことば
何ゆえに「聖典」の一つとされるのか?

パラドクス性という表現が適切なのか否かわからないが、男女の肉体賛美ともいえる「雅歌」は、イスラエルの厳しい性モラルとは相容れないものがある。

 「伝道者の書」も、そこに通底しているのは、「退廃」そのもの。たとえば、3章9節、「働く者は労苦して何の益を得よう。」“What does the worker gain from his toil?”という虚無的な修辞疑問はいったい何なのだろうか。

 神の正義というものが機能しない絶望的世界に対して抱く嫌悪感のようなものが切々と怨嗟的に書かれているといってよい「伝道者の書」(コレヘトの言葉)

 ヨブ記も、サタンと神の会話から始まって、ずいぶんと背徳的な記述がありますが、随所にある聖書のパラドクス性をどう感じ、どう読みとっていくのかは、小さな問題とはいえません。

 ああ、いろいろ勉強したいな~と、つくづく思う。もちろん、神学的な勉強が信仰を凌駕してはいけないのだけど。
 「神学部」なんて北海道にはないな…。

明日も 30センチも降るなんて天気予報が言っている。




「ピリピ人への手紙」と「エペソ人への手紙」

2006-02-06 23:33:49 | みことば
より力強い信仰を求める「ピリピ」と「エペソ」

 使徒パウロが書いたのではなく、パウロの名前を使った手紙という説もあるものは、エペソ、コロサイ、テサロニケⅡ、テモテⅠ、テモテⅡ、テトスです。そのあたりの神学上の議論はあまり信仰に関係ないと昨日書きましたが、エペソとピリピを読んでみると、聖書がいわばギリシャ語から英語、英語から日本語という重訳でありながらも(新改訳3版は、ギリシャ語からの原典訳を重視しているとききますが、それはそれとして)、実に重厚な「キリスト・イエス」信仰が語られていることに、すぐ気づきます。

 他の手紙とは違って、ピリピとエペソには、共通の「情熱」が溢れているように僕はいつも感じています。

 ピリピ2:21に、
私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。
For to me, to live is Christ, and to die is gain.

 とあるように、この情熱的記載はかなり強烈な信仰心そのものですし、エペソにも、その2:10で、
 「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」とさえ言い切る箇所があるほどです。

 神学上の諸説云々は置いておき、そこに共通しているかなり高いレベルの信仰心には、学ばねばならないといつも感じています。

 僕は時々、祈りが弱くなると、「ピリピ人への手紙」をよく開いて読みます。エペソの4~6章もよく読みます。謙遜を説くことばは、「先生」と周囲に呼ばれることの多い人間には、信仰の確認とともに、自分に適度な自制心を働かせるいいブレーキ装置となってくれるのです。

 今朝は予想通りの渋滞遅刻・・・それも「事故渋滞」。さいきんは、たいてい、
大きなRV車両の事故なんだよね~荒っぽい運転だからね・・・。

 明日もマーク。いつまで降るのかな~札幌は雪祭りが今日から開催。風邪菌の巣になっている大通り公園。ぼくは行きません。



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ああ、日付が変わってしまう。

Who wrote EPHESIANS? When written?!

2006-02-05 22:42:07 | みことば
「エペソ人への手紙」は獄中書簡?いや偽名文学の一種?いや、そんなことはあまり信仰に関係ないことです。

ほぼ終日、猛烈な北風と吹雪が続いた今日の札幌市内そして江別市。週末、僕は何をしていたのでしょうか・・雪かきで疲れたな~という実感と、聖書からもいろいろ感じたことがあったな~という実感が折り重なっています。

 昨夜のエントリーに、「エペソ人への手紙」は、パウロが書いたものではなく、他人がパウロの名前を使って書いたものという説を提起しておきましたが、神学上、こうした説が強まっているという状況がある一方、ピリピ、コロサイ、ピレモンと同様に、いわゆる「獄中書簡」とする見方もしっかり存在します。

 僕自身は、エペソの場合、翻訳にいささか異質な「行間」を感じます。でも、そんなことは、信仰が基礎となってクリスチャンライフを送っている者には、一つの予備的知識にすぎないのかもしれません。

 「エペソ人への手紙」の大テーマは、いなかる国、いかなる境遇に育った者であっても、キリストにあって一つに集められるという輝かしい神のご計画を示すことです。それは、第1章からしっかり書かれています。
 逆にいえば、今日の教会のメッセージテーマともなった「神にほめたたえられる身分」が示されているともいえるのです。

 神学的には、1章冒頭の書き方がパウロの他の手紙とかなり違うというところから、「獄中書簡」ではないという説が広がりを見せているのでしょうが、そうした神学的解釈の問題は、
エペソ1:23 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

こうした熱いことばで、すべて解消されてしまうといっていいのかもしれません。
エペソ1章では、1章だけで13回も「キリスト」という言葉が登場します。神がこの世に、御子を送ったという永遠のご計画が切々と、そして熱く熱く書かれているのです。
 
 キリストにあって、私たちも、神の偉大な計画に参与する身分を得ています。それがエペソ1章に示された言葉です。「神にほめたたえられる身分」をいただいている私たち。「キリストにあって」というエペソの手紙のキーワードを、しっかり覚えていたいものです。

 それにしても・・・とにかく土日は雪かきで疲れた~。教会の行き帰りもすごい吹雪でした。でも礼拝を守ることができたことに感謝です。司会奉仕もできたことに感謝です。

 明朝も除雪車やってきそう。夕方雪かきしてからまた20センチくらいは降り積もった玄関前。写真は礼拝から帰宅後、雪かき作業前の玄関。明日月曜の朝、車は難儀しそうです。

 お祈りして就寝なり。



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2月5日 ☆第一主日礼拝から☆

2006-02-05 00:26:47 | みことば
エペソ1章1節~14節 神にほめたたえられる身分

 ご存知の人も多いでしょうが、新約聖書「エペソ人への手紙」は、パウロが書いたものではありません。パウロの名前を使った手紙なのです。(AD90年ごろ書かれたようです。パウロはAD60年ごろ殉教の死をとげていますから、死後30年経って手紙は出せないことになります。)どうして、こうした形式がとられて今に伝えられているのかといえば、パウロ殉教後、ヤコブも、ペテロも殉教の死を遂げます。つまりキリスト教の黎明期にあって、ある意味での権威ある使徒が不在となる時代があったため、キリスト者にとって重要な先人であるパウロの権威を借りて手紙を書いた人がいるとされているのです。当時は、「偽名文学」がそう珍しい時代ではなかったという見方もありますが、いずれにせよ、使徒パウロの権威が彼の殉教後も重視され、それが伝道に生かされていたということは事実のようです。

 さて、川崎牧師のメッセージについてはまた後で。

 外はかなりの 排雪終った翌日に、除雪車がやってきそうな気配です。明日、無事に教会に行けますように。

 いま、遠くから除雪車の音がきこえてきました~。写真は、今朝、排雪前のKさん宅前。とにかくスゲェ雪でありました。


詩篇4篇~2月第一主日の交読文です~

2006-02-04 22:08:40 | みことば
急遽、司会役に回る~第一主日礼拝~

 司会担当のS兄が風邪のため、急遽代役が回ってきました。

詩篇4:8 平安のうちに私は身を横たえ、すぐ眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。

詩篇4:3 知れ。主は、ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。私が呼ぶとき、主は聞いてくださる。

 しっかりヨブ記が示す「福音」と重なる言葉です。
明日は、エペソ1:1-14から、「神をほめたたえる身分」と題したメッセージがあります。

 まずは、S兄の体調が癒されますように祈って。
 
 写真は、排雪の終った夕方の自宅前。車が2台すれちがえる広さが確保され、ほっと一息。それにしても、早朝から夕方まで昼休み以外、ずっと重機、ダンプを運転しているプロドライバーへの感謝しかありません。



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