goo

奥山貴宏さんの代わりに・・・

久しぶりに、ザワザワと哀しい気持ちになった。
背筋が寒くなり、がっかりした。何てひどい世の中だろう、
と、思った。

勝谷誠彦氏のコラム「勝谷誠彦の××な日々。」
http://www.diary.ne.jp/user/31174/ 8/6分を読んだ。たまに覗き見る。
そこに勝谷さんの怒りとともに書かれていた内容は、
私のこのブログ(7/22)でも書いた、作家の故 奥山貴宏さんについて、
池田晶子という女性が、週刊新潮のコラムで、めちゃくちゃにこき下ろし
ている、というのである。その内容があまりにもひどい、というのである。

そして、その池田晶子という人の文章を見て、唖然としてしまった。
池田晶子という方、哲学に関する著書がある”哲学者”だそうだが、
ご自分の著書もあり、週刊誌に連載コラムもある。で、それらは、このような
素人が書いた日記などとは違い、文章に重みがあってしかりだし、多少
の責任も伴うわけだし、とにかく影響力があるわけだ。

奥山さんについては、ここでもう書くことはなく、彼の著書や残されれた日記
などを読めば、彼の生きた証を見ることができる。
http://www.publiday.com/blog/adrift/

この池田晶子という人は、まず、勝谷さんも書いているが、間違いなく奥山
さんの本も日記も読んでいない。ただ、NHKで放送された奥山さんの姿を
ちらと見て、それだけで、公に、文章で、痛烈に、こきおろしてしまってい
るのだ。

奥山さんと同じく文章を書く人として、それを公にする人として、哲学者
(そもそもそれって何?)として、あまりにも軽々しい文章に、悪意のある
文章に、なぜか、ポカンとしてしまった。人を批判したりこきおろすのは、
自由かもしれない。奥山さんに共感しない人だって、居るだろう。そんなことは、
いい。

でも、この人、奥山さんを知らないのに、テレビで見ただけで、恐らく、物書きと
も知らないのだろうが、知らないのに、ここまでヒステリックに文章を書けるって
どういうことなんだろう?
もう、反論することも(多分生きていてもしないだろうけど)できない奥山さんに
なぜこれほど無責任な批判をするのだろう。哀しい。
公に文章を書くということは、そんなものなのか?

ただただ、物書きとして、作家として、必死に死んで行った、かっこよく死にた
い、と強がって、死への恐怖と戦いながら、最後まで文章と生きた奥山さんに、
あらためて敬意を表させてください。

もの言えぬ奥山さんの代わりに、少しでも反論させてください。

週刊新潮 8月11・18日夏季特大号(330円) 
より池田晶子さんの言葉を箇条書きにして抜粋しました。

見られて死にたい」 池田晶子
●「31歳で癌になった青年が、2年後に亡くなるまでの風変わりな闘病生活を、
ドキュメンタリーで放映」
●「個人のあられもない内面を、得体も知れない誰かに向けて吐露したいと
いうその心性が、理解できない。気持が悪い。」
●「この人がそこで吐露しようとしているのは、生きるか死ぬか、どうなるか
の話である。そういう個人の大事なことは、他人に報告するより先に、自分で
考えるべきことではなかろうか。」
●「ありきたりの闘病記では「カッコ悪い」のだそうだ。」
●「この人何勘違いしているのだろうと、私は思った。」
●「病状は深刻、でもオレは元気だぜ、といった類の、「演出された」言葉ばか
りである。」
●「それをカッコよく「ウリ」にしようと決意したものだろう。最後まで、
「見て見て、オレを見て!」とやっていた。」
●「大事な時に、大事なことを、深く徹底的に語り合う友というのを、この世代
の人々は欲しないのだろうか。」
●「結局この人は、自分の最期をイベントに仕立てて他人に見てもらうことに、
最後の生き甲斐を見出して死んだわけだ」
●「他人がいなければ独りで普通に死ぬことができない人類の出現である。」
●「まあ要するに、そういうことが黙って独りで考えることができない人類で
ある。」
●「その人生で、この人は、自分を生きたことになるのだろうか。生ききった
ように見えて、じつは生き損なったのではなかろうか。」


何の権利があって、この人は、死者の魂、プライドを踏みにじっている
のだろうか・・・
・・・・・・
絶句です。今日はもう書くことなし。

「ETV特集 オレを覚えていてほしい」の再放送が決定しました。
8月28日(日)26時 (翌午前2時)~27時31分
NHK総合
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )