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同窓会

中学時代の同窓会に参加した。四谷第一中学校1981年卒業。

中学を卒業したのは1981年だから、ほとんどの人との再会が、なんと28年ぶりだった。
28年って・・・すごい。

顔を見てもしばらく名前を思い出せない人がたくさん居て、でもしばらく顔を見ていると、
中学生当時の顔が思い出されてくる。・・・と、名前も浮かんできて、ああ懐かしい!
とじわじわと感じてきた。
名前って言っても思い出すのはなぜかあだ名で、本名は聞いても、あ、そうだったっけ?
みたいな感じなんだけど。

でも不思議だなぁと思う。
40歳も過ぎると、今の3年間ってあっという間に過ぎてしまうし、その間に知り合った人
なんて、あんまり覚えていないもの。
だけど、中学校なんかの”3年間”って、一番多感な時期だったっていうのもあるのだろ
うけれど、ものすごくいろんな事や感情がよっぽど凝縮されているのだろう。
30年近く前のことでも、よーく覚えてたりするし、忘れていてもちゃんと思い出せる。
それがすべて、何らかの感情を伴っているから不思議だ。たった3年間なのに。

卒業してから長い月日、それぞれにいろいろな出来事があり、それぞれの人生があった
のだろうし、私自身にもたくさんの出来事があったのだけれど、そんな事もすーっと消えて、
無条件に、対人間、として子供ながらに一生懸命になってつきあってきた時代の友達が、
なんとなくそこに居た。

そんな事を考えながらみんなの顔を見ていたら、なんだか胸がいっぱいになって、
嬉しくなってしまった。
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荒木町 金丸稲荷神社

先週の土曜日の「出没!アド街ック天国」で、四谷 荒木町を取り上げていた。
荒木町は生まれ育った町である。どれどれ。

しかーし。
どうもアド街ック天国って、食べ物屋さんばっかりをやるようになってしまったよ
うな気がするのは私だけだろうか???

しかも、最近出来たようなニューオープンの店ばかりを取り上げているような・・・

荒木町と言えば、かつて花街だったことから芸者さんが多く居た町で、そんな
昔を思い起こさせるような古い町並み、石畳の小路などがいまだに存在し、
猫がそぞろ歩くような、小粋な小さな店が立ち並んでいるような、そんな町なの
で、もっと歴史を思わせるようなモノを紹介するべきなのではないか!などと
思ってしまった。お店だって、もっともっと古くから愛されているバーやスナック
や食堂があるのだ!

たとえば、通称「かっぱ池」として住民には親しまれている策(むち)の池なんか
は、第19位とやらでさらーっと紹介されるにとどまっていたし・・・・・
なんだかなー。

とはいえ、救いだったのは、第2位は、荒木町の真ん中に鎮座?する商売繁盛
の神様と言われる「金丸稲荷神社」だったことだ!
この神社、何でも天和3年(1683年)美濃高須藩藩組の松平摂津守義行が、現在
の新宿区荒木町一帯を幕府から拝領し、上屋敷とした。その藩主の守護神として
設立された、という歴史があるそうだ。

なにより。玉垣(神社などを囲む石造りの垣)には、寄進者の名前などが彫りつけ
られているのだが、その玉垣の彫りつけこそ、四谷で石屋を営んでいた、私の祖父が
移築の際に手がけたものだ。\(^o^)/ 
(こんな細かいことまでTVではやるわけないけど)

何度目の移築だか改築だかわからないけれど、とにかく、現在残っている玉垣を
作っているとき、私たち孫は、祖父の仕事を見ながら、その周りを遊びまわっていた
ものだった。

何はともあれ、久しぶりに生まれ育った町を、散策したくなった。
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盆踊り

生まれ育った四谷では、表通りの四谷三丁目交差点、また、裏通りの荒木町
で、夏になると盆踊りがおこなわれていた。
今もやっているのかなああ?

小さい頃は、盆踊りが楽しみで、夕方になると浴衣を着せてもらい、大急ぎで
やぐらのある公園に走っていったものだ。
決して豪華ではないけれど、なんとなく提灯と灯できらびやか(に見えた)やぐら
の上には、太鼓をたたく人。
やぐらの周りには、やぐらを丸く囲んで、盆踊りを踊る人たち。
なんだかワクワクしたものだ。

誰に習ったわけではないけれど、輪の中に入り、そこで踊る大人たち、特に
踊りが上手な叔母さん(多分踊りのお師匠さんだったりしたのかな)たちの後に
続き、まねをしながら踊る。
よく見ると、輪の中には、子供も大人も、おじさんもおばさんも、若いお兄ちゃん
も、・・・いろんな人がまざって、皆思い思いに、だけどちゃんと形通りに踊りなが
ら、ぐるぐるとやぐらの周りを踊りまわっている。

好きな曲(例えば、オバQ音頭とか?)がかかると、踊りの輪を抜けていても、
わーっとまた輪の中に戻る。難しい曲がかかると、またすーっと輪を抜ける。
「八木節」なんかかかると、とても難しい踊りだったように思うが、にぎやかに
なってワクワクした覚えがある。
逆に「松の木小唄」なんかは、なんとなく、大人の唄、と言う感じで、子供達は
さーっと輪から居なくなった。

ああ、今これを書きながら、いろいろな盆踊りの曲を思い出してきた。
「ドンパン節」「炭鉱節」「花笠音頭」「東京音頭」・・・なつかしいなあ。
ピンクレディーの踊りじゃないけれど、今でもきっと踊れるような気がする。
体が覚えているような気がする。

盆踊りは、500年以上も続く、日本の民族芸能の文化だそうだ。
その踊りもスピードも形も、時代や地域によってまちまちだだという。

やぐらの灯や、盆踊りの音、太鼓の音をきくと、亡くなったおじいちゃんや
おばあちゃんを思い出して、切なくなる。

盆踊りの季節。
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霞ヶ浦へ鮒釣りに

春だ。
何年ぶり、いや、何十年ぶりだろうか、家族で釣りに行った。

久しぶりに1歳になる子供を連れて北海道から帰ってきた兄たちと、
お弁当を持って、霞ヶ浦に、ぷらりとフナ釣りにでも行こう、という
ことになったのだ。

霞ヶ浦の田んぼの用水路(ホソ)で、釣竿をたれての、のんびりと
した釣り。兄は、スノーボーダーでありながら、小さな頃から、釣り
少年でもあった。やはり釣り好きの祖父に連れられて、ここ霞ヶ浦
には、何度も足を運んだっけ。そんな祖父はもう居ない。

私の記憶の中の霞ヶ浦は、土と草の土手、そして、田んぼ。
祖父や兄たちが釣りをしている間、私達子供たちは、土手でどろ
んこになって遊んだっけ。
本当に久しぶりに行った霞ヶ浦は、道路が舗装され、なんとなく
記憶の中のほのぼのさは少し失われていたけれど、やっぱり
昔なつかしい匂いがした。

雨続きで肌寒い日が続いていたが、今日は何とか晴れて、暖かい。
少し風は強いけれど、おべんとう日和ではある。

父と兄は、子供のように竿を手に、ホソをうろうろ。私達はホソの
脇にマットを敷いて、おいしい空気を吸い、風の音を聞いていた。
連れていった我が家の犬たちも、嬉しそうだ。

寒い日が続いたせいか、結局、魚はおらず、兄が2匹ほどの鮒を
吊り上げただけであったけれど、田んぼの匂い、土、草、川の匂い
の中でのおべんとうは、なつかしい味がした。
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四谷三丁目 『好音堂』

久しぶりに生まれ育った街、四谷三丁目に行きました。
四谷三丁目の交差点は、昔とは少し様変わりしているけれど、
昔(私が子供の頃だから、相当昔の話。30年以上昔かな)から
ある店も、数多く残っている。

スーパーの丸正もそうだし、喫茶店の風月堂、ケンタッキー、
茶巾寿司の「八竹」、喫茶店「オレンジ」、錦松梅、宮古書店、
粕漬けの「魚久」、きしめん「尾張屋」、うどん「木屋」、とんかつ
「かつ新」・・・・・

その中のひとつに、このレコード店(今はCDショップというのかな)
の『好音堂』がある。

私が小学生や中学生の頃。当時は、今のようにTSUTAYAが
あるわけでもなく、HMVがあるわけでもなく、とにかくレコードを
買う、というと、この『好音堂』だった。街の小さなレコード屋である。

お小遣いで買うので、もっぱらお目当てはEPレコード、ドーナツ盤。
インデックスを見ながら、パラパラとめくって探したものだ。
今見ても、そんなに広くない店内だけれど、その小さいスペース
には、とにかくわくわくするようなモノがいっぱいあったように思う。

レコードや、カセットテープ、楽譜や、それからハーモニカや縦笛
なんかもあったな。レジの傍には、なんだか大事そうにレコード針
も売っていた記憶がある。

久しぶりに外から店内を見てみると、そこに並んでいるのは、もう
レコードではなくて、CDだ。ただ、店内のレイアウトは、ほぼ昔
と変わっていないようだ。嬉しかった。

何でも揃う大型のCDショップも魅力的だけれど、やっぱりこうした
街の小さな店には、大型店にはない味わいがある。

誰にでも、そんな街の”レコード店”にはたくさんの思い出がある
のではないでしょうか?
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神楽坂 『五十番』 肉まん

神楽坂の中ほどにある中華料理の「五十番」。
ここの肉まんがお気に入りだ。

小さな頃から、ここの肉まんを食べていた。
20年ほど前に亡くなった祖父の大好物でもあり、
住んでいた四谷の町からも、神楽坂はバスで気軽に行け
ることから、祖父は何かと、この五十番の肉まんを
孫達にお土産に買ってきた。

そう言えば、祖父は亡くなる前、ちょうど四谷の家と、五十番の
中間地点になる牛込柳町の病院に入院しており、そこで息を
引き取ったのだけれど、私と祖父が最後に交わした会話は、
この「五十番」の肉まんの話だった。

病院にお見舞いに行き、そのついでに五十番の肉まんを買って
帰るのだ、と祖父に言うと、祖父は嬉しそうに、五十番の場所や
バスに乗っての行き方を、私に説明した。
帰りに、気をつけて行くんだよ、とベッドの中から祖父が言った。

そうか。
いつも、五十番の肉まん、と言うと祖父を思い出し、その思い出
がなんだか少し哀しかったのは、それが理由だったのだ。
祖父との最後の会話。

今は、おいしい肉まんが世の中にはたくさんある。
五十番の肉まんも、とっても美味しいとは言っても、数あるおい
しい肉まんのうちのひとつかもしれない。

けれど、私にとっては、祖父の思い出も詰まっていて、とても
優しい味の美味しい美味しい、特別な肉まんだ。
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大事なもの

久しぶりに、生まれ育った四谷の町を歩いた。

四谷に暮らしていたのは、13歳まで。その後も、祖父祖母親戚
がそのまま四谷に暮らしていたので、頻繁に訪ねている。
今でも、1年に何回かは行くのだけれど、この間は、なんとはなし
に、周りの景色を眺めながら、ゆっくりと歩いてみた。

四谷、舟町。私の生まれ育った家は、外苑東通りに面しており、
わりと大きな通りのその道沿いは、私の暮らしていた時とはずい
分様変わりしてしまっている。

小さな家が並んでいたところは、大きなマンションやビルが建ち、
果物屋や米屋だったご近所は、コンビニや、しゃれたレストラン
になっている。

実際に私の暮らしてきた家も、もうずいぶん前にビルになり、
小さな子供だった頃の面影は、ない。

だけど、大通りからチラっと入った横丁の路地は、昔のままの
塀や、坂道がそのまま残っていたりする。
そんな路地を見ながら、こんなに道が狭かったかな、こんなに
塀が低かったかな、こんなに坂がゆるやかだったかな、と、あらた
めて、びっくりするのだ。

小さかった私達の目には、町は大きく広く、小さな家は大きく写って
いたのだろう。

もうかれこれ30年ほども昔の風景をどこかで探しながら、見つけた
時には懐かしさに胸がいっぱいになり、見つけられないときには
少しの寂しさで胸がいっぱいになる。

やっぱり思い出の風景が失われていくことは、とっても寂しいことだ。
みんな、新しいモノになっていく・・・

写真は、甥っこ。この子が大きくなった時に、小さな頃から傍に
あったモノや景色が変わらない、そんな世界があって欲しいなあ、
などと思ったり。
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『おばー部屋』とおじいちゃん

小さい子供だった頃住んでいた四谷の家は、鍵もないような家。
鍵をかける必要もないほど、常に玄関は開け放されれていた。

いつでも人が何だか出入りしていて、ゴチャゴチャしていた。
家の1階ではレストランをしていたり、おじいちゃんは職人で石屋
をしていた、というせいもあるだろうけれど、どにかく、いつでも人が
居て、本当にゴチャゴチャしていた。人や犬や猫。

子供達は、そんなゴチャゴチャしている家の中でも、「おばー部屋」
と呼んで遊び場にしていたおじいちゃんとおばあちゃんの部屋が
大好きで、外で遊んでいた記憶以外は、この「おばー部屋」で過ご
した時間が、子供の頃の記憶の多くをしめているような気がする。

今は四谷の家自体、建て替えてしまって跡形もないけれど、当時の
おばー部屋には、今思うと楽しいモノがあった。今思うとおそらく6畳
一間だったおばー部屋。
その中には職人さんであり手先の器用なおじいちゃんの遊び道具
がたくさん置いてあったっけ。

もちろん石屋としての仕事の道具ももちろん、釣りをこよなく愛すおじ
いちゃんの釣り道具。釣り道具を作る何かの道具。それから山に
入り鉄砲撃ちをしていたおじいちゃんの鉄砲も、あった。
考えるとすごいことだけれど、おじいちゃんは鉄砲撃ちに行く前には、
孫たちが遊んでいるおばー部屋で、薬莢をつめたり鉄砲を磨いたり、
時にはそれらを孫たちに触らせたりしていた。驚きだ。

とにかく、おばー部屋にはいろいろな刺激があったわけだ。
だからわたしたち孫たちは、おばー部屋で遊ぶのが好きで、おじい
ちゃんのそんな姿に触れていることも大好きだったのだ。
楽しかった。

おばー部屋とおじいちゃん。
2世帯で暮らすことも少なくなってしまった今、あんなゴチャゴチャ
した生活をすることももうないだろう。
だけど、あの頃のおばー部屋での様々な経験が、今の私には、
大きな大きな何かを残しているように思うのだ。

大切な大切な思い出。
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さよなら四谷の文化放送

文化放送 文化放送 JOQR ♪

本日13時までの放送をもって、文化放送が四谷の局舎を離れ、
港区浜松町に移転する。
四谷の局舎は取り壊され、マンションが建つそうだ。

四谷で生まれ育った私としては、なんとなく寂しい限りです。

文化放送が四谷にあったからどうだ、ということではなかった
けれど、お祭りの神社のそばに、通学路に、何気なくあったあの
白い塔の文化放送がなくなってしまう。そう思うと、一抹の寂しさが。

文化放送の建物は、白い塔があったり、正面玄関が透かしレンガ
だったり、と、なんとなくあのヘン(幹線道路から一歩入った住宅街)
ではやはり変わった場所であった。
調べてみると、その昔、文化放送の母体はカトリック聖パウロの
修道会であったそうだ。カトリック放送局を目指したけれど認可がお
りず、1951年に局舎をたて、宗教とは関係のない「日本文化放送協会」
として放送を始めたとか。

半世紀以上の歴史を刻む、四谷 文化放送。
ああ、あのヘンはまた静かになってしまうのだろうか。

この何とも言えない寂しさは、数年前にも体験した。
1997年に、これまた地元である新宿区河田町(曙橋)からフジテレビ
がお台場に移転してしまったときだ。
子供の頃からいつでもアタリマエのように身近にあったテレビ局。
なんだか変わった雰囲気でおもしろくて、よく遊びに行った遊び場だった。

こうやって地元から、自分達の遊び場であった重要な「基地」???
が少しずつなくなっていく。自分達の「文化」がなくなっていくような気が
して、とても寂しい。

四谷の文化放送、お疲れ様でした。
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新宿区立四谷第四小学校

新宿区立四谷第四小学校

かれこれ30年近くまえ!!に私が卒業した小学校です。
私が何年生か、のときに、70周年のお祝いをやった記憶がありますが、
来年にはなんと開校100周年を迎えるそうです。
http://academic1.plala.or.jp/yotsuyon/

↑学校のHPなんてのがあるんですね。アタリマエなのかもしれないけ
ど、何となく不思議。
そのHPで見てみると、私達の時代でさえ、児童の数が減っている、と
言われていたけれど(それでも1学年は3クラスあり、それぞれのクラス
には40名程度の児童が居たと記憶しています)今では、何と1学年1クラス!
しかもその1クラスには20~30名の生徒、というから、これは四谷の小学校
の合併は仕方がないかな、とも思うのです。

とうとう、四谷第一小学校、第三小学校、第四小学校の3校が合併し、新しく
「四谷小学校」として生まれ変わるります。
2007年3月に開校されるそうで、場所は四谷第一小学校の跡地。
これって、かなり寂しいことだし、何よりも気になるのが、100年の歴史をほこる
その間外壁塗装や耐震補強の工事はしても、ほぼ改築をしていない四谷第四
小学校のあの歴史ある校舎がどうなってしまうのか!
解体されてしまうのだろうけれど、それはいつなのか???!!

四谷第四小学校には、校舎と校庭の間に、シンボルとも言える「ランプ坂」とい
う坂があります。校庭から校舎の2階まで行ける坂。
校舎の真ん中に堂々と鎮座する坂です。学校の校舎に坂?考えてみるととても
ユニークなことだと思います。

この坂では、多分、どの生徒も一度くらいは転んだことがあるだろうなあ。
私と18歳はなれている叔母も、その転んだ生徒の1人です。
とにかく、第四小学校、と言えば、ランプ坂。
そんな校舎がなくなってしまうのは、本当に寂しいし、悲しいことです。
子供時代の幼稚園の時代2年間、小学校の時代6年間。合計8年間を過ごした
学び舎。
解体については、その時期を調べ、校舎が消えてしまう前に、一度はカメラを
片手に、思い出を残しに行きたいと思っています。

100年の間に、12584人(平成18年4月現在)の卒業生を送り出してきた
四谷第四小学校。もちろん、私の母も叔母も兄弟もみな、卒業生です。
滅多に思い出すこともないわが小学校ではあるけれど、それはいつ戻っても
そこに存在するからであって、消えてしまうとなると、その存在感はとてつもなく
大きくて、心にぽっかりと穴が開いてしまいそうです。
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東京タワーがついてくる

私の子供の頃。

かれこれ30年以上も前のこと。
車でどこかに出かけるとき、東京タワーのそばを通ることがあった。
おそらく、首都高速でどこかに行ったのだろう。

車の中から東京タワーが見えると、私たち子供たちは、自分たちで
自然と作った歌を、東京タワーが見えなくなるまで歌っていた。

♪東京タワーがついてくる~ 東京タワーがついてくる~
東京タワーがついてくる~ 東京タワ~~ ♪

メロディもはっきりと覚えている。

30年以上も前の東京がどんな風だったかは、たまにテレビで何か
昔の風景を流しているときに知るだけだけれど、おそらく、東京タワー
の側、首都高のまわりには、いま程、高いビルが建っていなかった
のだろう。
東京タワーが見えてから、しばらく走っても、ずっと見えていたんだ
と思う。だから、東京タワーがついてくる、ように思っていたのだ。

先日、やはり首都高を車で走ったときに、車の中から東京タワーを
見た。思わず心の中で、♪東京タワーがついてくる~と、いつもの
ように歌ったが、東京タワーはぜんぜんついてこなかった。

ちらちら、と建物の間から見えるだけだったし、見えたかと思ったら
またすぐ、ビルの谷間に消えていく。
そのうち、全く見えなくなった。

ついてきてくれない東京タワー。
なんだか少し寂しい気持になった。

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四谷 『錦松梅』

『錦松梅(きんしょうばい)』

自分の生まれた場所の「名物」というのは、なかなかあるものではない。
私の生まれ育った町、新宿区四谷三丁目には、それがあるのだ。
『錦松梅』だ。

錦松梅は、ただのふりかけで、特に豪華なものでもない。味だって、もう
本当においしい!!と大声でいうほどのものでもない。
でも実は、それが”ふりかけ”の本質だ!と私は思うのだ。
特別なものではないけれど、いつも食卓にあって、何気なく、パラパラ、
とアツアツごはんにかけて食べたり。何気なく、私たちの生活の中にある。

そんな”ふりかけ”ひとつで、全国的に有名になってしまった錦松梅は、
すごいと思うのだ!

『錦松梅』は昭和7年に創業なのだそうだ。私が物心ついたときから、
四谷三丁目にはお店があって、店の前の通りは錦松梅の匂いがしていた。
地元だから?なのか、我が家の食卓には、年中、錦松梅が住み着いて
いた。子供の頃から、お弁当には、かなりの確立で錦松梅が入っていた
し、実際のところ、えー、また錦松梅?もういいよ!という空気さえ漂って
いたほどだ。

要するに、家族のようなもの、だったもかもしれない。

四谷を離れた今でも、母などは、何かと言うと、錦松梅が食べたいわ、
などと言っている。

たかがふりかけ、されど、ふりかけ。
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四谷 『わかば』 鯛焼き

四谷 『わかば』 の鯛焼き

私が子供の頃から(一体何年前だ!) 鯛焼き、と言えば、
四谷『わかば』である。
生まれ育った町にある、ということももちろん大きいのだが、
とにかく、わかばの鯛焼きは、おいしい!
おいしいので、何年、何十年?たっても、いまだに、鯛焼き
と言えば、「わかば」。

小さな頃には、祖父がいつもおみやげに買ってきてくれた。
中学になると、学校帰りに1匹買って食べた。
高校になると、一旦離れてしまった地元に、わざわざ戻り、
わかばの鯛焼き食べにきた。
今でも、何かあると電車に乗り、わかばへと。
いわば、私にとっては、愛と青春の鯛焼きなのだ。

そして、その何十年?も前から、本当にいつでも店の前に
は人が並んでいる。鯛焼きが焼けるのを待っている。

わかばの鯛焼きは、皮がカリカリ、あんこが鯛焼きの頭から
しっぽまで、ぎっしりと入っている。
そのあんこの味がまた、絶品だ。
実は、あまりあんこがたくさん入った鯛焼きが好きではない。
そこそこに入っていて皮の味も楽しみたい派だ。

しかし、やっぱりわかばの鯛焼きは、あんこびっしり!これが
いい!

そして、わかば、と言えば、鯛焼き焼きのお兄さんだ。
わかばは、鯛焼きを焼く過程が外から見えるようになっている。
(普通そうか)
そして、私の小さい頃から、その鯛焼きの型の前に立って、
もくもくと鯛焼きを焼いているお兄さんが居る。
この間、わかばに行ったら、まだそのお兄さんが居る、鯛焼きを
焼いているではないか!一体何歳なのだ!

慣れた、かなり慣れた手つきで鯛焼きの型にタネを流しいれ、
型をひとつひとつひっくり返し、そして焼き上げた鯛焼きを、
ベルトコンベアーのようなもので一箇所に集める。そして、きわめ
つけ!その不ぞろいに焼きあがった鯛焼きのしっぽを、きれいに
ハサミで切りそろえていくのだ!
このハサミの作業を見るのが、昔から大好きだった。

そのお兄さん(もう、おじさんだ)が、きっと今日も鯛焼きを焼いて
くれている。こういう地道な仕事を、ずっとずっと続けているお兄さん。
わかばの鯛焼きのおいしさには、こんなお兄さんの気持ちも、
きっと入っているに違いない、と思う。

ああ、わかばの鯛焼き食べたい!
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この坂を歩いたのは、一体何年ぶりだろう。

生まれ育った四谷の町の、坂。
私の住んでいた家から、一番の仲良しの子の家へ行く道にある、坂。

最後にこの坂を歩いた時には、まだ私たちは子供だった。
友達には、お父さんがいてお母さんがいて、家に遊びに行けば、
笑顔で「いらっしゃい」と迎えてくれた。

私たちは、何も難しいことなど考える必要がなく、ただただ目先の
くだらない悩みを、うじうじと考えていただけ。
自分の人生や、ましてや親の人生などに思いを馳せることなど、
まるでなかった。幸せで優しい日々だったように思う。

今、坂を歩きながら、そんな暖かかった時代のことを、思い出す。
今はもう、そのお父さんもお母さんも、居ない。
友達には2人の子供ができ、彼女が生れた家に、新しい家族の形で
暮らしている。

この間読んだ『東京タワー』のせいなのか、この間観た『Always
三丁目の夕日』のせいなのか。
こうして、自分の人生や、自分の親の人生。そして、家族のことを、
ぼんやり考える。

何の涙だかわからないけれど、少しだけ、泣いてしまう。



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四谷荒木町とおじいちゃん

明治から昭和のなかほどにかけて、花街三業地として栄えた、四谷荒木町。
生まれ育った町である。

今でも、裏道は、路地があり、坂があり、石畳があり、まるで映画のセットの
ような雰囲気のある町だ。小路には猫がたくさん住んでおり、昼間などは、
石畳で毛づくろいなどしている。
夜は、小さな小料理店やバーなどが、味わいのあるネオンをつける。

新宿と銀座の間にあって、またそのどちらにもない独特の雰囲気を持った、
大人の町。

大通りは、この十数年でずいぶん様変わりしてしまったけれど、この荒木町
の裏路地、店の名前は変わっても、路地のあちこちは、昔と何も変わらない。
その変わらない場所を探して歩く。

四谷で石屋をしていた私の祖父が作った石畳や石垣、石の階段などが、
未だに、その形を残していたいたりする。
祖父がまだそんな仕事をしていた時から、すでに30年近い月日が流れて
いるのに。

小学生の頃、墓石を彫る仕事のほかに、そうやって町のあちこちで仕事を
していた祖父と一緒に居るのが好きだった。その仕事を見ているのが好き
だった。祖父のセメントにまみれたごつい手、セメントの匂い、石を彫ったり、
セメントを塗ったり、カンナを使ったりする、器用な手さばき。
未だに目にやきついているし、それを見ているのが大好きだった気持ちも
覚えている。

荒木町がこのままで、この石畳そのままで在るうちは、私の大事なものも
まだそこにずっとあるような気がして、安心する。

おじいちゃんに会いたいな。
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