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静御前と郡山市(その1)

2007年08月18日 | 平家物語-一般

私が生まれ育った福島県郡山市
実家の近所には,不思議と「静御前」にまつわる史跡が存在します。
今回はそのうち,郡山市静町に存在する「静御前堂」をご紹介します。

源義経の愛妾として有名な静御前ですが,鎌倉に対する反逆者として追われることとなった義経一行と行動を別にした静御前は,吉野の山中において鎌倉の追っ手に捕らえられます。
「義経記」によれば,鎌倉に護送された静御前は,当時義経の子を身ごもっており,生まれた子が男子であったため,頼朝は後の憂いを絶つためにその子を命を奪います。
挙げ句の果てに,鶴岡八幡宮において,頼朝らの面前で舞いを披露させられる屈辱を受けることになります。
(男子の命を奪われるのが先か,鶴岡八幡宮で舞いを披露したのが先かは,文献及び各小説等で異なりますが,古典「義経記」や大河ドラマ「義経」はこの流れでした。)
頼朝の前で堂々と義経を慕う舞いを披露した静御前の姿に共感したのか,頼朝の妻政子は静御前に褒美を取らせ,静御前は釈放されることになりました。

ここまでは誰もがご存じの話かと思われますが,その後の静御前の消息は様々な伝説が残るのみで,確定的なものは無いようです。
そのような背景の中で,この郡山の地に一つのアナザーストーリーが存在するのです。

この「静御前堂」の由来につき,本堂の前に設置してある説明板には次のとおり解説があります。

「静御前堂は里人が静御前の短い命をあわれみ,その霊を祭ったのがこのお堂であると言い伝えられています。
 静御前は,平家滅亡後,頼朝に追われて奥州の藤原秀衡のもとに下った義経を慕って北に向かい,この地までたどりつきましたが,すでに義経は平泉にたったと聞きとほうにくれてついに池に身を投じたという言い伝えがあります。(以下略)」

なんとなくわかるようで,しかしイマイチ不自然かつ不明確な解説であります。

なぜ愛する義経に生きて再会するためはるばるここまでやってきた静御前が,今さら義経が「平泉にたった」ことを聞いて「とほうにくれ」て「身を投げ」なければならなかったのか,この解説だけでは辻褄があいません。
次回,勝手に静御前の行動を検証したいと思います。

余談ですが,私の学生時代は,このお堂のある場所は細い道路しかない閑静な住宅地であり,よく「人魂を見た」とか「幽霊を見た」とかいう都市伝説が絶えない場所であったのですが,今は開発により,お堂の前には巨大な幹線道路が横たわり,もはや人魂が出てくれそうな環境ではなくなっています。

郡山観光協会のサイトはこちらをクリック



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2 コメント

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義経伝説と静御前の墓 (おかにゃん)
2007-08-19 12:09:29
こんにちは。東京は相変わらず暑いです
さて,静御前伝説も結構全国にいろいろありますね。埼玉にも「静御前の墓」と言われる場所があります(大利根か栗橋あたり)。ただ,他にも静御前の墓と言われる場所はたくさんあります。
本物か否かは別にして,やはり静御前や義経は庶民から慕われていた存在だったといえるでしょうね。

ちなみに,義経伝説も同じようなノリかもしれませんが,義経が死んだあとも足跡が残るような遺跡がかなり残っています。そして,それが北海道で消えているという不可思議な状態にあります。
っていうことは,やはり「ジンギスカン伝説」もあながち,って感じかもしれませんね。
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>おかにゃんさま (ぴえる)
2007-08-19 22:06:19
コメントありがとうございました!
福島には,平泉で燃えたとされる義経の身代わり首となった人の史跡が残されています。
何にせよ,追っ手から逃げるには,死んだことにしておくことの方が都合が良いでしょうね。

こんど埼玉の静御前の史跡も見に行きたいです♪
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