四旬節に

2012-02-28 12:35:23 | インポート
昔、自分で書いた「終課」という物語をgoo ブログのどこに入れたのか自分でも忘れてしまってちょっと探し回ったわけだが、お陰で自分でも古い作品を読み直して、色々と考えさせられてしまった。

カトリック教会では四旬節の間、各教会で信徒のための一日黙想会やカルメル会の教会の上野毛教会のように毎年この季節の日曜日に連続の四旬節の講話を開催するところもある。毎週の金曜日は十字架の道行きが行われ、特に一年のこの期間は告解(心の洗濯ですね)も勧められる(カトリック信者の数少い義務ですが)。

つまり、このような季節毎の大きな宗教的行事がなければ、普通のカトリック信者の場合、よほど自分からミサに行ったり黙想会に参加したり、信仰講座に参加したり、教会の奉仕をしたり、聖歌隊に参加したりとかしていなければ、日常の一般世間での生活に流されて教会も信仰も日曜日だけとか、へたをすると殆ど教会に行かない卒業信者になったりするわけだ。

しかし、観想修道会の生活を伺うとこちらは一日中、細かく時間から時間まで区切られていて全体が祈りの生活に向けられているということになっている。現実はそれも人間の生活だから天使の生活とはいかないにしても、生活自体が祈りに向けられているというのは羨ましいことだと思う。実際に体験してみた方の話では時間で区切られている生活だから忙しくて考えたり悩んだりする暇などなかったそうだ。慣れてしまえばまた違ってくるのだろうが、他の会のシスターも似たようなことをおっしゃっていた。

それをどうのこうのというのではないが、問題を感じるとすれば、カトリックの場合、一般信者と修道生活の間の差が大き過ぎるのではないだろうか。いや、カトリックの国々の場合はそれでも歴史や伝統があるから、信者には信者の家庭での躾の中で親や周囲からの霊的教育も受けて育つわけで、自然に身に付いているものも多い筈だと思う。日本の特に宗教的環境にない一代目の信者の場合、それを求めて修道会に入ってみたりするのではないかという気がしてしまう。

それはそれでよいのだが、いつまでたってもちゃんとした二代目、三代目の信者の増加にはつながらない。何かが欠けている気がしてならない。一般信者の霊的生活の養成というのももっともっと必要なのではないのか。それができる指導者も必要なのだろう。今のところ、まあまあ、あまり問題なく機能しているように思うのはなんといっても伝統のあるフランシスコ会やカルメル会の教会(当方自身が実際に見ているのがそれだけなので)だろうか。昔からの第三会の養成の伝統のあるグループは名前は変わっても世にある信者の育成は忘れてはいないようだ。問題は特定の霊性につながらない信者の方々はやはり取り残しされていることか?その先が問題なのだがこれ以上は個人の思いではどうにもならない。