そもそもの出発点を振り返って

2012-02-10 10:25:41 | インポート

たぶん、ひとりの人の人格というものは、誰の場合でも実はさまざまな面を持った集合体なのだということを忘れるべきではないのだろう。ある部分だけを見ていてもそれがその人のすべてとは限らない。表もあれば裏もあるというわけだ。1+1は2とは限らない。それを忘れると、自分をひどい目にあわせてくれた相手をいつまでも許せないことになるだけだ。

腹の立つ相手も別の人には良き理解者、保護者だったりするのだ。出来るだけ総合的に相手を良く見て判断したいと思う。初めに思い込みありきということが多すぎるのだが、年月が経つと真実が表面化してくる。これがわかってくるまでやっぱり、50年も60年もかかってやっと人間の心は少し成長してくるらしい。これはほかの人の問題ではなく、自分自身の問題だ。せっかくの人としての一生だ。生きているうちにどれだけ人間として成長できるか、還暦以降の人生の課題なのだろう。

その昔、まだ小学生の時、自分の部屋で一人で、いったい本当の神様というのはどんな方だろう、と考えていて想像の目で地球全体より大きく、太陽系よりさらに大きく、銀河系よりさらにさらに大きく、宇宙の果ての果てを更に超えた広い広い大きな大きな世界よりも大きい存在を想像してみたのだ。まるで目がくらむようだった。

実はそれ以来、本当の神様は人間の考えるようなちっぽけなお方ではないと確信したのだ。その方を探してたどり着いたのがキリスト教だった。だから教会で何が起こっても、この物凄く大きな神様だけは真実だと思っていたから、いろいろなことがあっても教会自体からは離れたりしなかったわけだ。

けれども、そうこうしているうちに62才になってしまったわけで、若いころには考えてもいなかった腰痛に股関節やひざの不調(元々、子供のときから股関節の開きは悪かった)、と足腰に問題が出てきて、そこに去年の大地震だ。あれ以来どうも外出嫌いになった。ちょっと前までは毎日行っていたミサや聖書研究会、聖書の集いも実は駅の階段の上り下りや、歩く距離を考えると、寒くて冷える日や、天気の悪い日は行く気がしなくなっている。それが今の現実だ。

これから先のことを考えなくてはならないのだが、何がどこまで可能なのか少々とまどっているところだ。神様を信じていることと、自分がしなくてはならないこと、すべきことをこの先どうまとめたらよいのだろう。