木下街道(きおろしかいどう)から

2011-11-19 13:51:48 | インポート

今朝は変な時間に目が覚めてしまってこの時間実は眠くて仕方がない。濃いコーヒーのがぶ飲みばかりしている。

明け方、父の「ただいま」と帰ってきた声で目が覚めた。が、父はとうにこの世にいないわけで、父の声を夢で聞いていたわけだ。子供の頃の我が家の生活を思い出しては考えていたので、父の思い出も登場したらしい。

子供の頃の我が家は下総中山から更に歩いて30分以上はかかる若宮というところに住んでいた。便利なのは小学校がすぐそばにあったことだけで、ほかは買い物もすべて大人の足で歩いても10分以上かかる不便な地域で、我が家は木下街道沿いの畑の中に立てられていた。元は先祖代々の畑の一部を父が戦争から帰ってきて母と結婚するとき伯父から譲り受けたとか聞いた。しかし、とにかく回りに畑や田んぼ以外何もないところで、バスも通っていなかったような地域だった。

その代わり、庭は広かったし、昔は木下街道も競馬のあるとき以外は全然車も通らないのどかな田舎道だった。何しろはるか昔はロバが車を引いてパンを売りにきたくらいだった。実にのどかなのどかな子供時代だった。

その時代はまさに薪と炭と七輪にカマドが現役だった時代だ。まだ練炭火鉢が冬の暖房の中心だった。それから自宅に井戸からの簡易水道が引かれ、お風呂場が出来たとき、燃料は薪と石炭になったのだ。中学生、高校生の頃には冬の暖房はプロパンガスのストーブに変わっていた。お風呂の燃料もプロパンガスに変わっていった。

そして、高校2年のとき、父が家を新築してトイレは水洗に、暖房もお風呂も炊飯もどんどん変わっていったのだ。木下街道は車の往来の激しい道路に変わっていった。時が経って父が仕事に失敗して上総一ノ宮に引っ込み、そこで死んで以来私にとっての若宮は本籍だけ残して遠い土地になった。

しかし、あれから数十年、2、3年前に懐かしくなって、昔の我が家のあった土地をたずねて行って見たとき、驚いたことに若宮の商店街はさびれはて、木下街道を走っていたバスの本数は激減し4時間に1本というとんでもないことになっていて、まさに私が子供の頃とおなじような閑散とした道路になっていたのだった。

こうしてみると土地もひとも年月とともにどんどん変化していくもの、今栄えていても、いつまでも変わらないでいるわけではないとつくづくと思わされる。であれば、原子力発電というものも、先々はまた別のものと交代していくのかもしれない。

今はこれしかないと思えても、年月が経つとすべてが変わっていくのだ。いずれはまた新しい、もっとよいものも出てくるに違いない。ただ、その前に今の世界が各国の経済破綻や資源争いで再び大きな戦争の時代になったりしないことを心から願わずにいられない。

でも、せっかく、ファティマのマリア様の導きがあっても、一人一人の人間のすることといったら、どんな不思議なことさえも実は全然信じていなかったし、自分の利益になるように利用するばかりだったではないかと思える。神よりも金や自分の名の方が重要なようではないか。どうも先々は心配の種だらけだ。