2015年10月3日(土)、一関市博物館主催の平成27年度「史跡めぐり~磐井の石めぐり」第1回 舞草・長島方面が、市のバスを使い、舞草史跡調査会と舞草神社の協力のもと実施されました。
最初の訪問地は、「上(うえ)の山の屏風石」(一関市舞川字穴倉・佐藤家の裏側)で、次は篭石(関市舞川字境)、その次は様石(ためしいし)・日光石(一関市舞川字榎木)でした。
4番目は観音山と呼ばれている所にある白山妙理大権現(一関市舞川字吉祥)でした。バスに戻ってさらに東参道 を登って行きます。車1台が通れるだけの細い道なので怖いほどでした。
儛草神社(以後「舞草神社」とも表記、一関市舞川字大平5番地)の髄身門(仁王門)の前に着きましたが、ここで駐まらず、先に「大部ケ岩」を見学しました。
「大部ケ岩」を見学してから儛草神社に戻って、拝殿をお借りして昼食休憩しました。
延喜式内・儛草神社:社名は、「まいくさ」と呼び、「もくさ」とも呼ばれる神社で、「延喜式」成立時(927年)に既にあった、古い由緒をもつ神社である。
一説によれば創建は 奈良時代にまで遡るが、社伝によれば、大同2年(807)に坂上田村麻呂が蝦夷征伐成就の返礼として、この一画に観音を建立したのが事実上の始まりで、その後奥州藤原氏の帰依を受けて「吉祥山東城寺」と称する一大寺院にまで発展したといわれている。(神仏習合思想により神社とお寺が併存)。古くは白山岳に鎮座していたという伝承もある。
白山岳周辺には、鍛冶遺跡があり、舞草鍛冶として有名で、全国の刀工の祖神としての崇敬も篤いという。
仁王門(現在は「随身門」)から移した2体の仁王像が安置されている吉祥山東城寺跡に向かいました。髄身門の前から続いている砂利敷きの道を200mほど歩いて下って行きました。
このお堂を管理している隣家(千葉家)に鍵を開けて貰って、仁王像を見せていただきました。
観音山には、以上のほかにも三吉山の正現石、舞草神社境内の手懸(掛)石、休石、雨乞石などがあるそうですが、今回は割愛されて見学できませんでしたので、主催者が参加者に配布した資料から写真を掲載します。
(上)三吉山の正現石:観音山は、小戸(おど)山ともいい、その山頂は「三吉山」と呼ばれ岩が露出しているので、これが正現石のひとつとも考えられる。なお、観音山は平泉町との境になっており、小嶋村の風土記にも、小戸山の名石が2つ書き上げられている。
正現石二ツ 場所:おと山観音堂地、大きさ:高1丈、幅1丈。高1丈、幅1丈。由来相知れず候。(1丈=10尺=約3.03m、1尺=30.3㎝)[舞草村の安永風土記(「風土記御用書出」安永4年『宮城県史』所収)。
正現石 場所:三吉山山頂、 大きさ:300×240㎝、高250㎝[舞草史跡調査会による調査]
(上)手懸石 場所:おと山観音堂地、大きさ:高1丈、幅1丈、高1丈、幅1丈。由来相知れず候。[舞草村の安永風土記(「風土記御用書出」安永4年『宮城県史』所収)。
手掛石 場所:舞草神社表参道、大きさ:230×240㎝、高160㎝。[舞草史跡調査会による調査]
(上)休石 場所:おと山観音堂地、大きさ:高5尺、幅1丈5尺。由来相知れず候。[舞草村の安永風土記(「風土記御用書出」安永4年『宮城県史』所収)。
休石 大きさ:300×280㎝、高200㎝。[舞草史跡調査会による調査]
(上)雨乞石 場所:舞草神社表参道中段より東側180mの平場。大きさ:300×400㎝、高180㎝。[舞草史跡調査会による調査]
(上)平石 場所:一関市舞川字平石 大きさ:530×330㎝、厚:70㎝。[舞草史跡調査会による調査]地名の由来となった石である。