朝ドラ『ちむどんどん』が描く「モノはないけど満ち足りた生活」の圧倒的な魅力 おおらかでやさしい空気
(堀井 憲一郎 2022/04/29 06:00 )
モノはない、でも満ち足りた生活
朝ドラ『ちむどんどん』の物語は昭和39年の沖縄から始まった。
沖縄本島の北部地域、山の多い「ヤンバル」エリアでの子供たちの生活が描かれる。
自然が美しい。
モノは、あまりない。
令和のいまから見れば、ほとんど何もないような生活に見える。
徳川時代の生活のようでもある。
でも彼女たちの生活は、それはそれで満ち足りているようでもある。
主人公・暢子の少女時代は、ゆったりと時間が流れている。
『ちむどんどん』の最初の2週間はヒロインの少女時代だった。
10話までを子役・稲垣来泉が演じていた。
沖縄の田舎では、あまり大きな出来事が起こらない。
日常の些細な風景が描かれていた。
一週目に起こったことといえば、たとえばヒロイン暢子の4つ上の兄・賢秀(ケンシュー)が「宇宙パワーのスーパーバンド」を買ってもらったとか、東京から来た中学生の和彦がとても愛想が悪いとか、その和彦と一緒に山にいった暢子が足を挫いたとか、そういう出来事くらいである。
和彦の父子と一緒に、暢子一家が那覇のレストランに行ったというのもあった。
そのなかでもっとも大きな事件は、飼っていたブタの一頭・アババを客人の接待のために、子供に黙ってつぶしたこと、ではないだろうか。ブタの世話は賢秀と暢子がやっていた。
その日の客は、和彦父子であった。
食卓に供されたブタ肉を見て和彦の父(青柳史彦:演じるは戸次重幸)が「ブタはどこで買うんですか」と聞いたところ、父は「ブタ肉はふだんは近所でつぶしたのをお裾分けしてもらって…」と説明していた。
つまり、このあたりでは、そしてこのころは、ブタ肉はふつうに買うものではない、ということのようだ。
何気ないようで、昭和半ばの沖縄の暮らしをしみじみ感じさせる描写である。
ここは、金さえ出せば何でも手に入るという世界ではないのだ。
もちろん、暢子の家はあまりお金を持っていないということもあるが、もし潤沢に持っていたとしても、そもそも物品がそんなに出まわっていない。沖縄本島の端っこのほうまではモノがやってこないのだから、手に入れようがない。
家も自分で作ってしまう
村には村民の共同経営の売店がひとつあるだけで、そこではブタ肉はふだんは売ってないのだろう。
足りないものは、自分たちの工夫と、近在の者たちとの協力で補って生きていくことになる。
暢子たちの父は、三線(さんしん・沖縄三味線)を手作りで作っているし、そもそも住んでいる家もまた自分で作ったらしい。
『北の国から』でもゴローさん(田中邦衛)は家を、富良野近郷の人の力を借りながら、自分で作り上げていた(それが純の不注意で燃えちゃうわけですけど)、あれと似たようなものだろう。
近郷の人の手伝いがとても大きい。
貧しいから、近郷の人たちとないまぜになって一緒に生きていくのが、沖縄にかぎらずこの列島ではふつうのことであった。
おそらく1000年以上むかしからやっていたシステムが、昭和の半ばすぎにはまだ僻地にはしっかり残っていた。
それがさり気なく描かれている。
そして、子たちは伸びやかである。
その姿が『ちむどんどん』では見られる。
母のおおらかなやさしさ
また、大きいのは母の存在である。
仲間由紀恵演じる母「比嘉優子」は、その名のとおり、優しい人である。
このドラマでは名前にはそれぞれわかりやすい意味を持たせてあって、末妹の「歌子」は歌がとても好きだし、長女の「良子」は勉強がよくでき、学級委員をつとめるような真面目な良い子である(たぶん)。
母の優子は優しい。
身を削ってでも人を助けようとする。
貧しい生活をしていても、でも、心豊かに見えるのは、この母のおおらかなやさしさによるものであろう。
畑仕事の昼休みに、近所の「砂川豆腐店」の子らがやってくると、この家は比嘉の家よりもさらに貧しく、豆腐と芋しか食べてないような家であったので、優子は、何の屈託もなく「お食べ」と自分たちの昼飯のおにぎりを子たちにやってしまう。
一緒に働いている叔父の賢吉(石丸謙二郎)は、人がいいのもええ加減にせえ、と繰り返しここの夫婦に言っていた。
叔父(優子の夫の叔父)はドラマのなかでは、やや憎々しげに見える役どころであるが、でも落ち着いて見てみると、彼の言っていることはごくふつう、まっとうなことである。自分たちを守るためにやらなければいけないことを最低限やれと言ってるだけであって、この叔父が厳しすぎるわけではない。
ただ、優子(仲間由紀恵)がひたすら、人にやさしいだけである。
すごい御馳走をお裾分けしてもらったとき、子供たちがその豪華さに歓声を上げているなか、これは砂川さん家に持っていってあげよう、と母は言い出す。
夫は、そうきたかー、とゆっくりと認め、これは食べたいという子たちも説得して、すべて砂川さんの家に届けた。半分とか、一部ではなく、御馳走すべてを届けるというところが優子さんである。ちょっとすごい。
もらったほうもさほど卑屈にはならず、特に小さい子らは何の遠慮もなく、腹が減っている子供というのはそういうものだけれど、もらったものをすぐさま食べているばかりである。責任感の強い長男の智くんはきちんと頭をさげているが、子らの伸びやかな無邪気な遠慮のなさが、これまた心地いい。
やさしさを分担する人たち
こういう、自ら損をしても、人に親切にする人というのは、現実にもいる。
むかしの共同体にはそういう「やさしさを分担する人」がたぶんいまより多くいたのだろうと何となく気づき、見ていて私たちは嬉しくなる。
叔父が心配するように、こういう人たちは騙されやすいし、また、たぶん金持ちにはなれないだろう。
でも、こういう心持ちで生きていくほうが、いろんなところが心地いいだろうな、というのはわかる。
家の気分をこの優子が決しているのが、このドラマの基本にあるようにおもう。
彼女はあまり口うるさくない。ただひとりで動いているだけである。でもそこにはいろんな教えがふくまれている。
人は自分のことだけのために生きてはいけない。
貧しい生活をしているからこそ、もっと貧しい人を見ればそれを助ける。
そういう精神がこのドラマの底に流れている。
つまり、「いつかお金持ちになったら、自分が安定したら、そのときには人を助けよう」という気持ちそのものも入れ替えたほうがいいねえ、と、この母は無言で語っていることになる。
だから、子たちは伸びやかである。
こういう暮らしでは、日が落ちると、できることが少ない。
やっと最近になって通ったらしい電気で、何とか明かりは点いているが、いまと比べるとはるかに暗い。
日が暮れると、父の手作りの三線を取り出し末娘と一緒につまびき、ふたり静かに「椰子の実」を歌っていたりする。兄姉たちがそれを聞いている。ときに興が乗ると、みんなで踊る。そういう夜を過ごす。
「椰子の実」は「名も知らぬ遠き島より、流れ寄る椰子の実ひとつ」から始まる島崎藤村の詩である。その詩に歌がつけられ唱歌となった。
「わかる人にはわかる」遊び
知られるように、これは藤村の友人であった柳田国男の経験をもとに、詩人の島崎藤村が作ったものである。
柳田国男はのち「民俗学」の泰斗となる。
ドラマの2話で、父と末娘が「椰子の実」を歌っているとき、東京から来た学者の青柳史彦(戸次重幸)が比嘉家を訪れてきた。
この、青柳史彦は民俗学の研究者だという。
のち「海上の道」を著し日本人ルーツを南方に求めた民俗学者の柳田国男、彼の着想からなる「椰子の実」が歌われているとき、東京からの民俗学者・青柳史彦(戸次重幸)が比嘉の家を訪れたというのは、かなり、興味深いシーンであった。
最近の朝ドラは、そういう「わかる人にはわかる」という遊びを入れていて、なかなかあなどれない。気づくと、少し楽しい。
人間が「自然の一部」だった時代
暢子たちの暮らしは、物質的にはあまり恵まれていなかったようだが、でも、見ようによっては豊かな生活だったとも言える。
ヒロインたちは、自然と一緒に暮らしている。妹が熱を出すと山の奥のほうに熱冷ましの植物を採りにいき、またシークワーサーはそのへんになっているものを取って、それを囓っている。東京から来た和彦に「野性人!」と呼ばれているように、彼女たちもまた自然の一部であった。雄大でのびやかであり、そして南方の自然は何となく優しい気配がある。
タイトルバックが胸打たれるように美しい。
沖縄の自然が映し出される。
リアル映像ではない。おそらくリアルな美しい映像は、そこそこ消費されているからなのだろう、自然の風景をもとに、より強く着色した「フルアニメーション」になっている。
沖縄の美しさをうまく切り取り、その美しさが誇張されたような色使いがあり、だからこそ、いろんなものが強く訴えかけられてくる。
タイトルバックの美しさが、ずっと胸を打ち続ける。
自然もまた、永遠に続くものではない。
そのことをフルアニメーションで描くことによって示唆しているようである。
アニメーションだからこそ、より美しく見えるということが、かえって「そこはかとない哀しさ」を感じさせる。
そういう自然に生きることと、その行く末を描くのがこの『ちむどんどん』のひとつのテーマなのだろう。
4話では自然の中で戯れる子供たちが描かれ、そこにやさしげな音楽が流れ(エミ・エヴァンスの歌)、まさに幸せそのものな風景が展開した。見ているだけで幸せな気分になった。ヒロインの少女時代のピークのようであった。
だから却って見ている者は不安になるわけだが、案に違わず、5話で父が倒れた。
それを知らせに近所のおじさんが学校にかけつけ、四兄妹に、すぐ帰れ! と怒ったような大声で知らされる。
四兄妹が走る。
懸命に走る。
必死で駆ける暢子、遅れていく歌子、それに声を掛ける良子。その姿が胸を打つ。
そして、そういうときでさえ、沖縄の風景が美しい。
「止めてください」という名ゼリフ
一週目(5話まで)は平和でのどかな沖縄の生活が描かれ、二週目からは一転する。
喪失のドラマになる予感に満ちていた。
ヒロイン暢子は、ひとり、東京の親戚に引き取られることになった。10話で本土へ渡るため、きれいな格好をしてバスに乗り込む。
このとき、『ちむどんどん』は家族そのものを喪っていく物語になりそうだった。
ところが、一転する。
走って追いかける兄姉妹を見て、暢子はバスの運転手に「止めてください!」と叫ぶ。
バスは止まり、暢子は家族のもとへ駆け戻った。そのまま沖縄の家族といることになった。
これで、悲壮な喪失の物語ではなくなった。
暢子の「止めてください」のひとことで悲壮さも止まってしまったのだ。
見ていて驚いたが、いや、これが沖縄か、と安堵もした。こういうのがいい。
常に海が映り込んでいるドラマである。
遠くに開放している気配がある。
それでいて、見えない哀しみもずっと感じられる。
明るく、前向きで、それでいてどこかに哀しみも秘めている。
そういうドラマになりそうである。
© Copyright(C) 2022 神戸新聞社 All Rights Reserved. レンゲが咲き誇る酒米用の田畑=明石市魚住町金ケ崎
兵庫県明石市魚住町金ケ崎の「西海酒造」の田んぼで、レンゲが満開になっている。安全・安心の酒造りを掲げ、酒米を化学肥料を一切使わず、減農薬で育てる。畑一面にピンクの愛らしい小花が春風に揺れている。(松本寿美子)
西海酒造の創業は1716(享保元)年と伝わる。清酒「空の鶴」や「鶴」「翁之盃(おきなのさかずき)」などを製造する。
田んぼは酒蔵近くのJR線沿いにある約1・3ヘクタール。20年以上前からレンゲを肥料代わりに使い、山田錦と兵庫北錦を栽培する。毎年9~10月に稲を刈り、レンゲの種をまく。発芽後に冬を越し、3月末ごろから少しずつ咲くという。
レンゲはマメ科で、根に寄生する根粒菌が植物に重要な栄養素である窒素を固定させるため、肥えた土になるという。
9代目西海太兵衛社長(78)は「化学肥料だと土が固まり、根の張り具合が悪くなるが、レンゲをすき込むことで弾力性のある土になり、根に活力が出る」と話す。
今年の開花具合はまずまず。5月には米ぬかをまき、6月の田植えまでに3回、土にすき込む。
© 産経新聞 見頃を迎えたイチハツの花=京都市上京区
京都市上京区の上御霊神社で、群生するイチハツが見頃を迎えている。青空が広がった28日も、鮮やかな紫の花が参拝者の目を楽しませた。
イチハツの名は、アヤメ科の中でいち早く咲くことに由来する。神社では、約20年前に氏子らで作る「いちはつの会」がイチハツを植え、ボランティアで世話をしてきた。今ではイチハツがデザインされたお守りや苗が授与されており、神社の象徴になっている。
小栗栖元徳(おぐるすもとのり)宮司(78)は「清らかで明るい花なので、見ていて気持ちが和む」。毎年イチハツを見に来るという同市北区の自営業、河窪昇さん(63)は「紫の花と緑の茎のコントラストがいいですね」と話していた。
神社では5月1~18日、御霊祭が営まれるが、10日ごろまではイチハツも楽しめるという。(太田優)
© 読売新聞 (写真:読売新聞)
長崎県対馬市で自生する「ヒトツバタゴ」が純白の花を咲かせ、見頃を迎えている=写真=。
モクセイ科の落葉高木。朝鮮半島など大陸系の樹木で、4月下旬から5月上旬にかけて白い花が咲く。珍しい花のため「ナンジャモンジャ」とも呼ばれている。
同市上対馬町鰐浦(わにうら)には、山の斜面地などに約3000本が育ち、日本最大の群生地として知られる。30日は現地で「ひとつばたご祭り」が3年ぶりに開かれる予定で、出店もある。
© 朝日新聞社 潮風に揺れるハマヒルガオ=2022年4月22日午前11時22分、高知県大月町柏島、笠原雅俊撮影
エメラルドグリーンの透明な海が広がる高知県大月町の柏島で、ハマヒルガオの花が咲いた。潮騒が聞こえる砂浜で、花径5センチほどの淡いピンクの小さな花が潮風に揺れる。
「初夏の訪れを告げる」とも言われるハマヒルガオは、海岸の砂浜などに自生するヒルガオ科の多年草。砂地に茎を伸ばして広がる。柏島橋のたもとでは、花の向こうの青い海を船が静かに進む。
同町観光協会の担当者は「今年も、かわいい花が咲きました。これから柏島はダイビングやシュノーケリングにとてもいい季節です」と話している。(笠原雅