1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

7月11日・ジョルジオ・アルマーニの転身

2021-07-11 | ビジネス
7月11日は、シンガーソングライターのスザンヌ・ヴェガが生まれた日(1959年)だが、「ジャケットの帝王」ジョルジオ・アルマーニの誕生日でもある。

ジョルジオ・アルマーニは、1934年、イタリア北部の町、ピアチェンツァで生まれた。彼には上に兄と姉がいた。彼はもともと医師志望で、ミラノ大学の医学部に入った。しかし、19歳のとき、医学部の途中で軍隊に召集され、医学のキャリアは頓挫した。彼は医学生だったために、ヴェロナの診療所に配属されたが、そこで医療現場を経験するうちに、あるときとつぜんべつの道へ進もうと思い立った。
軍隊を退役した22歳のころ、アルマーニは、ミラノのデパートのショーウィンドウのデザインの職についた。ここでファッション業界のビジネスの見聞を広めたのをステップに、彼は20代の半ばに、ファッション・メーカーへ転職し、男性服のデザインを担当した。
その後、彼はメーカーを退社し、フリーのデザイナーとして仕事をはじめ、30代のなかばに建築デザイナーのセルジオ・ガレオッティと出会い、意気投合した。
39歳のとき、ガレオッティのすすめでミラノにデザイン事務所を開き、さまざまなデザイナー・ブランドと組んで仕事をし、経験を積んだ。そして41歳で、ついに自分のブランド「ジョルジオ・アルマーニ」のオフィスをミラノにオープンさせた。
46歳のとき、ハリウッド映画「アメリカン・ジゴロ」で、リチャード・ギアの衣装を担当し、これをきっかけにアルマーニは広く知られるようになり、53歳のときにはケビン・コスナーやショーン・コネリーが出演した映画「アンタッチャブル」の衣裳を担当した。ハリウッドの映画俳優をはじめとする多くの有名人がアルマーニを愛用する、世界でもっとも成功したファッション・デザイナーのひとりと言われている。

医者になろうとしていた医学生が、とつぜんファッション業界へ志望を変更するとは、おもしろい人生である。ゲバラも医者からゲリラへの転身組だった。人生、意外な道を行くと、意外な花が咲いているものなのかもしれない。
アルマーニは、ジャンフランコ・フェレや、ジャンニ・ヴェルサーチと合わせて「ミラノの3G」と呼ばれたが、ほかの二人が没した2017年現在、現役の唯一のGとなった。けばけばしい感じのヴェルサーチに対して、シックなアルマーニ、という印象がある。

アルマーニは言っている。
「ひときわすぐれたものを創り出すためには、わずかな細部にまできびしく注意をはらう精神を持たなくてはならない」
(2021年7月11日)



●おすすめの電子書籍!

『ブランドを創った人たち』(原鏡介)
ファッション、高級品、そして人生。世界のトップブランドを立ち上げた人々の生を描く人生評論。エルメス、ティファニー、ヴィトン、グッチ、シャネル、ディオール、森英恵、サン=ローランなどなど、華やかな世界に生きた才人たちの人生ドラマの真実を明らかにする。


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http://www.meikyosha.jp


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7月10日・マルセル・プルーストの命

2021-07-10 | 文学
7月10日は、ゴロ合わせで「納豆の日」。この日は、宗教改革者ジャン・カルヴァンが生まれた日(1509年)だが、仏国の作家、マルセル・プルーストの誕生日でもある。長編小説『失われた時を求めて』の作者である。

ヴァランタン=ルイ=ジョルジュ=ウジェーヌ=マルセル・プルーストは、1871年、仏国パリで生まれた。父親は医者で、母親は裕福なユダヤ人の娘だった。
生まれつき病弱だったマルセルは、10歳のとき、森を散歩中に喘息の発作を起こした。以後、彼は生涯にわたって喘息につきまとわれることになり、花粉や外気を敬遠して遠出できなくなった。
18歳のころ、一年間の兵役義務を果たし、入学した大学では哲学と法律学を学んだ。大学を出たプルーストは、職らしい職にはつかず、裕福な資産をつかって生活した。
彼が32歳から34歳のころにかけて、弟が結婚して家を出、父親と母親が相次いで亡くなり、彼は広すぎる大邸宅から、パリの町中のアパルトマンに引っ越した。そうしてひとりになった彼は、長編小説『失われた時を求めて』の執筆と、その推敲に専心し、1922年11月に没した。51歳だった。

『失われた時を求めて』の全集を買いそろえてすこし読んだ。はじめのほうで、主人公が、紅茶にひたしたプチ・マドレーヌ菓子を口にした、その味覚から、古い記憶がよみがえってきて、追憶の物語が展開していく有名なくだりまで読んだ。でも、通読していない。サミュエル・ベケットなど、夏休みを利用して、この本を二度通読したというから、すごい。

詩人ジャン・コクトーは、プルーストより18歳年下だが、プルーストの友人であり賛美者で、彼の詩的精神をあらわすエピソードとしてこんな話を紹介している。
「私はプルーストと一緒にホテル・リッツから外へ出ようとしているところだった。彼はその時までに気の向くままにボーイ達にチップとして自分のポケットにあるお金を全部与えてしまっていた。ドア・ボーイの前まで来た時、プルーストはそのことに気づき、五十フラン貸して貰えまいか、とそのボーイにきいた。
『でもそれは』とプルーストはボーイが急いで財布を開けようとしていた時に言いたした。『とっといてくれ、君にやるためなんだ』」(牛場暁夫訳「マルセル・プルースト」『ジャン・コクトー全集第四巻』東京創元社)
ウィットに富んだプルーストは、笑いが大好きだった。コクトーに言わせれば、プルーストは現像液に浸かるかのように笑いのなかに浸っていた、という。

喘息もちの病弱な人間が、あのような巨大な芸術作品を築き上げた、そのことに偉大さを感じる。自分の肉体が死ぬのと、作品が仕上がるのと、どちらが先かと怪しみながら『失われた時を求めて』を書きつづけた。ラテン語の格言にいう、
「急ぎなさい、ゆっくりと(Festina lente!)」
である。自分の身の丈と、自分が目指すところの見極め。そして、ほかの一切を思い切って捨てること。それは、実生活上、至難の業である。
(2021年7月10日)



●おすすめの電子書籍!

『世界文学の高峰たち』(金原義明)
世界の偉大な文学者たちの生涯と、その作品世界を紹介・探訪する文学評論。ゲーテ、ユゴー、ドストエフスキー、ドイル、プルースト、ジョイス、カフカ、チャンドラー、ヘミングウェイなどなど。文学の本質、文学の可能性をさぐる。


●電子書籍は明鏡舎。
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7月9日・細野晴臣の魂

2021-07-09 | 音楽
7月9日は、作家ディーン・クーンツ(1945年)が生まれた日だが、ミュージシャン、細野晴臣(ほそのはるおみ)の誕生日でもある。はっぴいえんど、イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)の「細野さん」である。

細野晴臣は、1947年、東京都港区で生まれた。父親は橋梁など大規模建築をおこなう現場監督だった。この父方の祖父は鉄道官僚で、ロシア留学の帰りに、タイタニック号に乗船し、同船の沈没に際し、救命ボートに乗って九死に一生を得た人物だった。晴臣の父親が誕生したのは、祖父が帰国して後のことだった。
晴臣は、少年時代から外国の音楽にひかれ、バンドを組みだしたロック少年であり、また漫画家志望でもあった。
大学時代にベースの演奏をはじめ、22歳のときにバンド「はっぴいえんど」に参加。メンバーは細野と、大瀧詠一、松本隆、鈴木茂だった。「はっぴいえんど」は日本語のロック・ミュージックの出発点とされる伝説的なバンドとなった。
26歳のころ、「はっぴいえんど」が解散し、細野はソロ活動をはじめたが、31歳のとき、高橋幸宏、坂本龍一と組み、YMOを結成。徹底的にコンピュータによる音作りにこだわったテクノ・サウンドで、YMOは大成功した。
36歳のとき、YMOは解散(散開)し、以後、細野はポップ・ミュージック、ワールド・ミュージック、アンビエント・ミュージックの分野で活躍を続けてきた。
エレキベースのほか、キーボード、ギター、ピアノ、ドラムス、三味線など数多の種類の楽器を演奏するマルチ・プレイヤーでもあり、ボーカルをとった楽曲も多い。

細野晴臣こそ、じつはYMOとはもっとも縁遠い人なのかもしれない。彼はYMOをはじめるときのことを、こう回想している。
「YMOをやるときは、実は、YMOをやるか、高野山に行くかで迷っていたんだよ。(中略)ぼくのアイドルはその当時、お釈迦さまだったんだ。お釈迦さまは二十九歳のときに出家したんだよ。で、三十六歳か三十七歳のときに悟りを開いた。その頃、ちょうどぼくは同じ年頃だったから、『今だったらできるな』と思ったんだ。京都のお寺に通っていたし、お坊さんとも知り合いだったから、本気で得度しようと思ったらできたかもしれない。その思いを抱えながら、YMOを始めたの。でも、結局YMOが売れちゃったから、そっちに引っ張られるならそっちでもいいやという感じで続けたのさ。」(「頂上」『細野晴臣 分福茶釜』平凡社)

「同世代の人たちよりも若い世代の方に自分は似ていると思う。たとえばひきこもりとかニートとか。そういう問題、自分との共通点がある。今の若者の犯罪なんかを見てると人ごととは思えなかったりするから、むしろ団塊世代のほうが距離感があるんだ。」(「団塊」同前)

細野は、ライブ演奏のとき、からだだけがステージにいて、自分の魂は海を見渡す浜辺にいたりすると告白している。細野自身が、もっとも売れず孤独な時期だったと言っている20代の終わりごろの作品「トロピカル・ダンディー」「泰安洋行」が好きで、彼の発言を聞いていると、なんだか他人のような気がしない。
(2021年7月9日)



●おすすめの電子書籍!

『ロック人物論』(金原義明)
ロックスターたちの人生と音楽性に迫る人物評論集。エルヴィス・プレスリー、ボブ・ディラン、ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ミック・ジャガー、キース・リチャーズ、ジミー・ペイジ、デヴィッド・ボウイ、スティング、マドンナ、マイケル・ジャクソン、ビョークなど31人を取り上げ、分析。意外な事実、裏話、秘話、そしてロック・ミュージックの本質がいま解き明かされる。


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7月8日・フレデリック・パールズの心

2021-07-08 | 科学
7月8日は、実業家ジョン・D・ロックフェラーが生まれた日(1839年)だが、精神分析医フレデリック・パールズの誕生日でもある。ゲシュタルト療法の開発者である。

フリッツ・パールズことフレデリック・サロモン・パールズは、1893年、ドイツのベルリンで生まれた。ユダヤ系で、両親は彼に法律家になることを期待したが、フリッツは医学を学んだ。
彼が21歳のときに第一次世界大戦がはじまると、彼は学業を中断して、ドイツ軍兵士として従軍し、前線で戦った。そしてドイツが敗戦すると、25歳の彼はベルリン大学へもどり、医学を修め直した。医学博士の資格をとり、脳外科医として働きだしたパールズの興味は、しだいに精神分析のほうへと向かった。彼は34歳のとき、ウィーンへ行き、ウィルヘルム・ライヒのもとで本格的に精神分析を学びだした。
37歳のとき、ローレ・ポスナー(後のローラ・パールズ)と結婚。しかし、パールズが40歳のとき、ドイツではヒトラーが政権を掌握し、ユダヤ人迫害が強まった。
パールズ一家はドイツを逃げだし、ネーデルランド(オランダ)をへて南アフリカへ移り、現地で精神分析の研究施設を設立した。
第二次大戦中の49歳のとき、彼は南アフリカ軍の精神分析医になった。彼は南ア軍の軍医として4年間勤務したが、このころ、彼は「全体性、統一」という概念について考えを深めたと言われる。
第二次大戦後は、米国へ移り、58歳のとき『ゲシュタルト療法』を発表した。
パールズ夫妻は、ニューヨークでゲシュタルトの研究やセッションをおこなっていたが、67歳のとき、パールズは西海岸ロサンゼルスへ移り、70歳のころからはカリフォルニア州ビッグ・サーにあるエサレン研究所でゲシュタルト療法のセラピーや研究を続けた。
69歳のときに来日し、京都の大徳寺にふた月逗留して座禅を組んだりした後、1970年3月、心不全のため、イリノイ州シカゴで没した。76歳だった。

ゲシュタルトのワークショップに以前参加した。そこで、
「そこの松の木になってみて、どう感じますか」とか、
「あなたの心臓は、あなたになんと言っていますか」
とかいう禅問答みたいな自問自答をした。
「ゲシュタルト(Gestalt)」はドイツ語で「かたち、形象」という意味で、つまり「全体性をもった形態」。パールズのゲシュタルト療法は、ばらばらになっている自己の全体性を回復することで、その人の精神面の問題を解決していこうとする心理カウンセリング方法である。気づきによる回復を目指すゲシュタルト療法では、「今、ここで」ということをとても重要視する。いま、ここで、自身が統一した存在となる体験が大切なのである。

パールズがセッションの際に参加者みんなで唱えさせた「ゲシュタルトの祈り」というのはこういうものである。
「私は私のために生き、あなたはあなたのために生きる。私はあなたの期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない。そしてあなたも、私の期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない。もしも縁があって、私たちが出会えたのならそれは素晴らしいこと。出会えなくても、それもまた素晴らしいこと。」
(2021年7月8日)



●おすすめの電子書籍!

『心を探検した人々』(天野たかし)
心理学の巨人たちとその方法。心理学者、カウンセラーなど、人の心を探り明らかにした人々の生涯と、その方法、理論を紹介する心理学読本。パブロフ、フロイト、アドラー、森田、ユング、フロム、ロジャーズ、スキナー、吉本、ミラーなどなど。われわれの心はどう癒されるのか。


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7月7日・マルク・シャガールのリズム

2021-07-07 | 美術
7月7日は七夕。この日は、作曲家のグスタフ・マーラーが生まれた日(1860年)だが、画家、マルク・シャガールの誕生日でもある。

マルク・シャガールは、1887年、当時帝政ロシアだったヴィテプスクのユダヤ人の家庭に生まれた。父親は魚屋で働き、母親は自宅で雑貨商をしていた。マルクは9人きょうだいのいちばん上だった。
19歳のとき、美術学校に入学。それから学校を何度か変えて、絵を学びつづけ、23歳のとき、仏国パリに出た。「私と村」はこのパリ時代、24歳のときの作品である。キュービズムの影響を受けたシャガールは、すでにパリで彼独特の、自由な色彩と画面構成による幻想的な画風を確立していた。
27歳のとき、シャガールはベルリン、ロシアへ旅行に出た。パリへもどるつもりだったが、第一次大戦がはじまり、もどれなくなった。それで、彼は故郷へ帰った。
28歳のとき、ベラと結婚。妻のベラはシャガールのモデルとなって、彼の作品によく登場するようになった。
第二次大戦がはじまると、シャガールは米国へ亡命。妻ベラは大戦中に米国で病死した。
戦後、シャガールはフランスへもどり、フランス国籍を取得して仏国に住んだ。
73歳のとき、当時仏国の文化大臣だった作家のアンドレ・マルローが、シャガールにパリ・オペラ座の天井画を依頼。シャガールはこれを77歳のときに完成させた。
86歳のとき、ニースに「マルク・シャガール美術館」が開館。
1985年3月、南仏のサン・ポールで没した。97歳だった。

シャガールの画集やポストカードをもっている。自伝も読んだ。「誕生日」「私の窓から見たパリ」「花嫁花婿とエッフェル塔」「ヴィテプスク上空のヌード」「恋人たちと雄鶏」など、みんな好きで、シャガール展があると聞くと出かけていく。「私と村」はニューヨークのMoMA(ニューヨーク近代美術館)にあるが、行くたびにその絵の前に長いこと立つ。

シャガールの絵の色彩は、青がまず印象的で、ついで赤、そして白。フランスの三色旗の色である。

シャガールの絵のなかでは、建物や人や動物といった要素によって画面が構成されているのとはべつに、もうひとつ、色彩の塗りわけによって画面が構成されている。
でも、その構成が、ある大きなリズムをもって配置されているために、全体がやわらかく調和して、絵に破綻が感じられることがない。
たとえば、道を歩く農夫に対して、道を案内する女性が天地逆さまだったりするけれど、二人のあいだにはちゃんと構図上のリズムが通っていて、一体感が感じられる。
(2021年7月7日)



●おすすめの電子書籍!

『芸術家たちの生涯----美の在り方、創り方』(ぱぴろう)
古今東西の大芸術家、三一人の人生を検証する芸術家人物評伝。彼らの創造の秘密に迫り、美の鑑賞法を解説する美術評論集。会田誠、ウォーホル、ダリ、志功、シャガール、ピカソ、松園、ゴッホ、モネ、レンブラント、ミケランジェロ、ダ・ヴィンチまで。芸術眼がぐっと深まる「読む美術」。


●電子書籍は明鏡舎。
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7月6日・フリーダ・カーロの独創

2021-07-06 | 美術
7月6日は、俵万智が「この味がいいねと君が言ったから七月六日はサラダ記念日」と歌った「サラダ記念日」。この日は、ダライ・ラマ14世が生まれた日(1935年)だが、メキシコの女流画家、フリーダ・カーロの誕生日でもある。

マグダレーナ・カルメン・フリーダ・カーロ・イ・カルデロンは、1907年、メキシコの首都メキシコシティに近いコヨアカンで生まれた。父親はユダヤ系ドイツ人の写真家で、母親はネイティブ・アメリカンとスペイン人の血を引いていた。
6歳のとき、フリーダは小児麻痺にかかり、右足の発育が遅れ、左足に比べて細くなってしまった。このため、彼女はずっと長いスカートを愛用しつづけた。
15歳の年に、フリーダは、国立予科高等学校へ入学した。このメキシコ最高の教育機関に女性が入学したのは、彼女らの学年がはじめてだった。この学校在学中に、フリーダは、政治や絵画に傾倒するようになった。
18歳のとき、彼女は乗っていたバスが路面電車と衝突するという大事故に遭遇した。この事故で、彼女のからだは押しつぶされ、脊柱、鎖骨、肋骨が折れ、右足の骨が11カ所で砕け、鉄製の手すりが腹部に突き刺さり、彼女の子宮を貫くという重傷を負った。一命はとりとめたものの、3カ月の入院生活を余儀なくされ、35回の外科手術を受けることになった。ふたたび歩けるようにはなったが、彼女は後遺症による激痛に生涯つきまとわれることになり、子どもが産めなくなった。
21歳のときメキシコ共産党に入党したフリーダは、巨漢の壁画画家、ディエゴ・リベラと知り合い、恋に落ちた二人は結婚した。フリーダ22歳、リベラ43歳、21歳の歳の差婚で、その見た目から、二人は「美女と野獣カップル」と呼ばれた。
リベラは漁色家として有名な男で、結婚してからもその癖は治らず、間なしに女性と関係をもちつづけ、フリーダの妹にまで手を出した。一方、フリーダはバイセクシュアルで、同性とも異性とも関係をもった。彼女が同性と関係をもつことには、リベラは目をつぶったが、男との関係については嫉妬したと言われる。フリーダは、アメリカ人彫刻家のイサム・ノグチや、ソビエト連邦から追われてきた革命家のトロツキーとも関係があった。フリーダは子を身ごもったこともあったが、流産した。
フリーダの絵画が評価されだし、画家としての活動が忙しくなってくると、彼らの夫婦仲は疎遠になっていき、フリーダが32歳のとき、二人は離婚した。
彼女の体調が悪化し、創作活動が困難になってくるに及び、彼女はリベラに再婚を打診し、リベラはそれを受け入れた。二人は、離婚した翌年、ふたたび結婚した。
46歳のとき、フリーダは、壊疽が進んだ右足を切断。義足を使用するようになった。
生涯を病気と事故による激痛に苦しめられつづけたフリーダは、1954年7月に没した。47歳だった。死因は肺炎による病死とされているが、自殺説も存在する。検屍はおこなわれていない。

見る者に強烈な印象を与えるフリーダの絵画は、ピカソも絶賛し、こう言った。
「彼女の絵は、ほかの者にはけっして描けない」
まったくその通りで、フリーダ・カーロは、まったくの個人的な事情を、超現実主義的な自画像にして芸術にまで昇華させた画家で、いわば「自分へこだわり」が美術史上にそびえ立っているのである。
(2021年7月6日)



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古今東西の大芸術家、三一人の人生を検証する芸術家人物評伝。彼らの創造の秘密に迫り、美の鑑賞法を解説する美術評論集。会田誠、ウォーホル、ダリ、志功、シャガール、ピカソ、松園、ゴッホ、モネ、レンブラント、ミケランジェロ、ダ・ヴィンチまで。芸術眼がぐっと深まる「読む美術」。


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7月5日・ジャン・コクトーの素

2021-07-05 | 文学
7月5日は、ファッションデザイナー、ポール・スミスが生まれた日(1946年)だが、詩人ジャン・コクトーの誕生日でもある。

ジャン・コクトーは、1889年、仏国パリ郊外の別荘地メゾン=ラフィットで生まれた。父親は47歳の元弁護士で、ジャンの母親と結婚した33歳のころから働かずに暮らす金利生活者だった。ジャンは、姉と兄がいる三人きょうだいの末っ子で、裕福な環境のなかで両親に偏愛されて育った。
8歳のとき、父親がピストル自殺した。動機について真相は不明らしい。
ジャンは利発な少年だったが、集中力に欠け、移り気な少年だった。授業をさぼってはスケート場や遊技場にでかけ、演劇に通っては舞台女優と恋愛事件を起こした。バカロレア(大学入学資格試験)に二度失敗したコクトーは、受験を断念し、読書三昧の生活に入った。十代の後半は、デッサンや詩を書き、社交界に出入りしていた。
19歳のとき、彼の才能を買った人の主催で、コクトーの詩の朗読会が開かれ、パリの著名人を集めて会は大成功を収めた。20歳のとき、詩集『アラディンのランプ』を出版し、若き天才詩人として、コクトーはパリ社交界の寵児となった。
24歳になる年、コクトーは、ストラヴィンスキー作曲、ニジンスキー振り付けによる、ロシア・バレエ団の『春の祭典』を見て衝撃を受け、それまでの自分と決別することを決意。デッサンや詩や譜面や散文で構成された、まったく新しい小説『ポトマック』の執筆にとりかかった。翌年、それを完成すると、コクトーはそれ以前に自分に発表した三冊の詩集をすべて絶版にし、著者目録からも削除した。
そこから「脱皮した詩人」コクトーの活躍がはじまる。
彼はバレエ「パラード」の脚本を書き、画家のピカソ、作曲家のサティと組んで舞台にかけ、ごうごうたる非難を浴び、第一次大戦に強引に参加して奇跡的に生還し、小説『大胯びらき』『山師トマ』『恐るべき子供たち』を書き、映画「詩人の血」「永劫回帰」「美女と野獣」「オルフェ」「オルフェの遺言」を撮った。
1963年10月、かねて心臓発作のため静養中だったところ、歌手エディット・ピアフ死去の報せに衝撃を受け容態が急変し没。74歳だった。

コクトーが47歳のとき来日した際、案内役を務めた堀口大学によれば、コクトーはひじょうに神経質で恥ずかしがりで、日本ペンクラブの歓迎会で、生涯初のテーブルスピーチをするあいだずっと下を向き、顔を上げなかった。また、芸術では万能のコクトーだが、20から8を引くの計算も、指を折って数えないとできないくらい数学が苦手らしい。

小学生ではじめて彼の詩「耳」を読んで以来、コクトーはわが聖域である。
「私の耳は貝の殻
 海の響きをなつかしむ」(堀口大学訳「ポエジーより」『ジャン・コクトー全集第一巻』東京創元社)

ジャン・コクトーは言っている。
「あんまり賢くなるな
 貧乏するのが落ちだから!
 のろまな人間の皮をかぶって、
 君はどこへ行こうと流罪の身だよ。」(澁澤沢龍彦訳「ポトマック」『ジャン・コクトー全集第三巻』東京創元社)
(2021年7月5日)




●おすすめの電子書籍!

『世界文学の高峰たち 第二巻』(金原義明)
世界の偉大な文学者たちの生涯と、その作品世界を紹介・探訪する文学評論。サド、ハイネ、ボードレール、ヴェルヌ、ワイルド、ランボー、コクトー、トールキン、ヴォネガット、スティーヴン・キングなどなど三一人の文豪たちの魅力的な生きざまを振り返りつつ、文学の本質、創作の秘密をさぐる。読書家、作家志望者待望の書。


●電子書籍は明鏡舎。
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7月4日・ガリバルディの器

2021-07-04 | 歴史と人生
7月4日は、「金髪のジェニー」の作曲家フォスターが生まれた日(1826年)だが、イタリア統一の英雄、ガリバルディの誕生日でもある。

ジュゼッペ・ガリバルディは、1807年、フランス領のニースに生まれた。ガリバルディ一家は海運貿易を生業とする一族で、ジュゼッペも早くから船で働き、25歳のときには商船の船長になっていた。26歳のとき、祖国イタリア解放のための結社に参加した。
当時のイタリアは、国内的には北から、ヴェネチア、トスカナ大公国、ローマ教皇領、両シチリア王国と分裂した状態で、対外的には、北からオーストリアやプロシアが侵略の機会をうかがい、西からはフランスが揺さぶりをかけてきている状況だった。
ガリバルディは27歳のとき、北イタリアの反乱に参加したが、失敗し、南米ブラジルへ逃れた。そこで、ポルトガル系の牧童の娘、アニータ(アナ・リベイロ)と出会い、恋に落ちた。ガリバルディは初対面のアニータにこう言ったという。
「きみは、自分のものにならなくてはならない」
ガリバルディ32歳、アニータ18歳。二人は3年後にウルグアイで結婚した。

ガリバルディは南米で、商人や教師をしていたこともあったが、ウルグアイの独立戦争では、仏伊の義勇軍を率いてゲリラ戦を展開し、その勇名を上げた。彼の部隊は赤シャツを着用して目印としたところから「赤シャツ隊」と呼ばれた。馬術に長けたアニータは、南米の牧童ガウチョについてガリバルディに教え、勇敢に戦った。
ガリバルディは41歳のとき、イタリアへもどり、祖国解放の革命に身を捧げた。圧倒的な兵力で寄せてくるナポレオン三世の軍隊を撃退し、ローマを守って、その名声は世界にとどろいたが、再度襲いかかってきた多国籍軍の前に敗走し、前線でともに戦っていた妻アニータはこのとき戦死した。彼女は28歳になる寸前だった。
敗走したガリバルディは、再起の時期を待ち、53歳のころ、南イタリアで起きた反乱に加勢するべく、彼は赤シャツ隊を率いてシチリア島に上陸。勝利を重ねてシチリアを制し、海峡をわたってナポリに進軍した。南イタリアを配下におさめたガリバルディ陣営は、北イタリア側のサルデーニャ王国と対峙するにいたった。敵は、ガリバルディの故郷ニースを、裏取引でフランスへ譲り渡した仇敵だった。ここにイタリアを真っ二つに割る内戦が勃発するかと思われたが、ガリバルディは、北側の国王に会うと、自分の支配下にある領土をすべて国王に献上する旨を宣言し、配下の軍隊に呼びかけた。
「ここにイタリア国王がおられる」
私怨、私欲を捨てたガリバルディの英断によって、戦乱は回避され、ローマとヴェネチアを除くイタリア統一がひとまずなった。

彼が63歳のとき、プロシアとフランスとの戦争がはじまり、フランス軍がローマから撤退した。これに乗じたイタリアは、ローマを中心とした教皇領の奪回に成功し、ついにイタリア統一はなった。この普仏戦争に際してガリバルディは、かつての敵フランスはいまは第三共和制の国であり、自由フランスを支援するべきだとして、義勇兵を募り、フランスに味方して参戦した。晩年は、すべての叙勲や名誉職を辞退して、カプレーラ島の別荘で引退生活を送り、1882年6月、カプレーラ島の別荘で没した。74歳だった。

米国のリンカーン大統領が、ぜひ北軍の司令官にと誘い、チェ・ゲバラもそのゲリラ戦術を参考にしたガリバルディ。収支とか国益とか、損得を言いだすと、どうしても人間が小さくならざるを得ないが、ガリバルディは人間が大きかった。
(2021年7月4日)



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7月3日・ジュリアン・アサンジの暴露

2021-07-03 | 歴史と人生
7月3日は、チェコ出身の作家、フランツ・カフカが生まれた日(1883年)だが、内部告発サイト「ウィキリークス」の創設者、ジュリアン・アサンジの誕生日でもある。

ジュリアン・ポール・アサンジは、1971年、オーストラリアのクイーンズランド州タウンズビルで生まれた。父親は反戦活動家で、母親はヴィジュアル・アーティストだった。
ジュリアンが生まれる前に両親が離婚し、母親はジュリアンが1歳のときに俳優のブレット・アサンジと結婚し、ジュリアンはジュリアン・アサンジとなった。
両親はジュリアンが8歳のころに離婚し、母親は新興宗教の教団員と交際した。その後、ジュリアンは母親に連れられ、引っ越しの多い少年時代を送った。彼と同居生活を送ったことのあるウィキリークスの盟友ダニエル・ドムシャイト-ベルクは言う。
「(ジュリアンは)子ども時代から、一カ所に長く滞在したことがないという。オーストラリアのカルト集団の信者だった父親から逃れるため、母親が引っ越しを繰り返していたのだ。」(赤根洋子、森内薫訳『ウィキリークスの内幕』文芸春秋)
 そしてジュリアンは16歳のころから他者のコンピュータに侵入するハッカーとなった。
天才ハッカーと呼ばれた彼はその後、大学で数学、物理を修め、内部告発サイト「ウィキリークス」を立ち上げた。これは、世界中の情報提供者に内部告発してもらい、国家や企業、団体の秘密をネット上にさらし暴露してしまおうとする革命的な試みだった。
アサンジ率いるウィキリークスは、世界中の金持ちが資産隠しに使っているスイスの個人銀行の内部文書や、ドイツ諜報部の機密文書を公開し、米軍ヘリコプターがイラク民間人やロイター通信のスタッフを銃撃・射殺するビデオを公開した。ほかにも、米国や中国の国家機密をはじめとする世界各国の秘密文書をつぎつぎと公開し、全世界に衝撃を与え、ほとんどすべての先進国を敵にまわした。とくに米国は彼の捕縛にやっきになった。
ウィキリークスは情報提供者の秘匿、安全保護に尽力したが、情報提供者の一部は、真実を暴露された国家によって起訴、拘束された。
アサンジ自身にも各国の追及の手は延び、39歳のとき、彼はスウェーデンで過去に性的暴行があったとして、国際指名手配された。罪状が疑問視されるなか、無罪を主張する彼は英国にあるエクアドル大使館に避難し、そこで7年間を過ごした。
2019年4月、エクアドル政府が方針を変え、48歳のアサンジは逮捕された。2021年7月現在、英国側による身柄拘束、事実聴取がおこなわれている。機密文書をウィキリークスにすっぱ抜かれた米国は執念深くアサンジの身柄引き渡しを英国に要求しているが、それは叶えられていない。一方、アサンジを支援する人々も無論世界中に数多く存在する。

アサンジは、ノートパソコン2台が入ったバックパック一つで、知り合いの家を転々とする居候生活を続けてきた変わり者で、食事の際は、人と分け合わず早い者勝ちで、手づかみで食べ、常に尾行を巻くべく街を歩き、一度パソコンの前に座れば何日でも集中していられる、偏執狂的で自己中心的な人物らしい。いかにも世界の大国を敵にまわして闘うウィキリークスの創設者らしい。

ウィキリークスによる「隠されたタブー」の暴露は、事実検証の困難や、責任所在の秘匿など、多くの難題を含む暴挙である。蛮勇である。しかし英雄的行動である。恐るべき頭脳と強靭な反骨精神をあわせもったアサンジは、「王さまは裸だ」と言った咎で十字架にかけられようとしているネット時代の殉教者である。
(2021年7月3日)



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7月2日・ヘルマン・ヘッセの透明

2021-07-02 | 文学
7月2日は、ファッションデザイナーのピエール・カルダンが生まれた日(1922年)だが、独国の詩人・作家、ヘルマン・ヘッセの誕生日でもある。

ヘルマン・ヘッセは、南ドイツのカルプで、1877年に生まれた。父親はロシア人で、プロテスタントの宣教師だった。母親はインドで生まれたドイツ人宣教師の娘で、息子のヘルマンは、4人きょうだいの2番目だった。
彼が7歳のとき、同志社大学を興した新島襄が両親を訪ねてきて、幼いヘルマンに強い印象を残した。ヘッセは生涯覚えていて、晩年それについて語っている。
生まれたときから宣教師になるよう期待されていたヘルマンは、14歳で神学校に入学した。が、13歳のときから、詩人以外の何者にもなりたくないと思い詰めていた本人にとっては、神学校の寄宿舎暮らしは窒息的な生活で、入学して半年すると脱走。いったんは連れ戻されたが、15歳になる前に退学し、牧師のもとに預けられた。
ピストルを買ってきては自殺しようとするヘッセは、べつの高校へ入学しても続かず、1年続かずに脱落。書店で働いて逃げだしたり、庭仕事をしたりした後、17歳のとき、町工場の歯車みがきになった。この時期の、なにをやってもだめな、詩人志望の落ちこぼれ体験が、後に名作『車輪の下』として結実した。
18歳のとき、書店の店員となり、働きながら詩や小説を書くようになった。
27歳のとき発表した『郷愁(ペーター・カーメンチント)』によって、一躍文名が高まり、29歳で『車輪の下』を発表。
35歳のとき、スイスへ移り、以後、『クヌルプ』『青春はうるわし』『デミアン』『シッダールタ』『ガラス玉遊戯』などを発表し、69歳のときノーベル文学賞を受賞。
1962年8月、スイスのモンタニョーラで没した。85歳だった。

学生時代からヘッセは好きで、よく読んでいた。『車輪の下』『婚約』『流浪の果て』など、美しい印象があり、なつかしい。

ヘッセに「春」という詩がある。

「若い雲が静かに青空を走って行く。
 子どもたちは歌い、花は草の中で笑う。
 どちらを見ても、私の疲れた目は、
 本で読んだことを忘れたいと願う。

 ほんとに、本で読んだむずかしいことは
 みんな溶け去って、冬の悪夢に過ぎなかった。
 私の目はさわやかに癒されて、
 新しいわきでる造化を見つめる。

 だが、凡そ美しいもののはかなさについて
 私自身の心の中に書き記されているものは
 春から春へながらえて
 どんな風にも吹き消されはしない。」(高橋健二訳『ヘッセ詩集』新潮文庫)

ヘッセには、透き通った、空中に浮かんだ水の粒のような、そのまま浮かばせてずっととっておきたい、そんな不思議な性質の魅力がある。
(2021年7月2日)



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『世界文学の高峰たち』(金原義明)
世界の偉大な文学者たちの生涯と、その作品世界を紹介・探訪する文学評論。ゲーテ、ユゴー、ドストエフスキー、ドイル、プルースト、ジョイス、カフカ、チャンドラー、ヘミングウェイなどなど。文学の本質、文学の可能性をさぐる。


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