1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

7月31日・柳田國男の珠

2022-07-31 | 文学
7月31日は、「ハリー・ポッター」の作者、J・K・ローリングが生まれた日(1965年)だが、民族学者の柳田國男(やなぎたくにお)の誕生日でもある。

柳田國男は、1875年、兵庫の辻川で生まれた。父親は儒学者で医者だった。國男は八人兄弟の六男だった。小さいころから読書家で博覧強記だった國男は、東京帝国大学で農政学を学び、卒業後、農商務省に入省。全国の農山村を歩き、実態調査をするようになった。以後、法制局参事や貴族院書記官など役人をしながら、『遠野物語』『山の人生』などを書き、雑誌「郷土研究」を創刊し、民俗学の発展に努めた。またエスペラント語の普及にも尽力した。
1962年8月、東京の自宅で、心臓衰弱のため没した。87歳だった。

柳田國男は13歳のころ、こんな経験をしたと書いている。
そのころ、柳田少年は医者になった長兄の家に身を寄せていたが、となりに蔵書家の小川家があった。読書好きの柳田は小川家へ日参し、本を読ませてもらっていた。
小川家には奥に土蔵があって、土蔵の前に小さな石の祠(ほこら)があった。ある日の昼間に、柳田少年はこっそり祠の石の扉を開けてみた。すると、そこにひと握りの大きさの、きれいなろうせきの珠が納められてあった。
柳田少年はそれを見て興奮し、なんとも言えない気持ちになって、しゃがんで空を見上げた。すると、数十の星が見えた。
「昼間見えないはずだがと思つて、子供心にいろいろ考へてゐた。そのころ少しばかり私が天文のことを知つてゐたので、今ごろ見えるとしたら自分の知つてゐる星ぢやないんだから、別にさがしまはる必要はないといふ心持を取り戻した。
 今考へ直してみても、あれはたしかに異常心理だつたと思ふ。(中略)そんなぼんやりした気分になつてゐるその時に、突然高い空で鵯(ひよどり)がピーッと鳴いて通った。さうしたらその拍子に身がギュッと引きしまつて、初めて人心地がついたのだつた。あの時に鵯が鳴かなかつたら、私はあのまま気が変になつてゐたんぢやないかと思ふのである。
 両親が郷里から布川へ来るまでは、子供の癖に一際違つた境遇におかれてゐたが、あんな風でながくゐてはいけなかつたかも知れない。幸ひにして私はその後実際生活の苦労をしたので救はれた。」(「故郷七十年」『定本 柳田國男集 別巻第三』筑摩書房)

引用部分の終わり「幸ひにして私は……」が味わい深い。
祠にあった石の珠は、小川家の亡くなったおばあさんが、晩年にいつも手で撫でまわしていた形見だったという。
『山の人生』や『遠野物語』もいいけれど、柳田國男というとまず『故郷七十年』を思い出す。
(2022年7月31日)



●おすすめの電子書籍!

『オーロビンドとマザー』(金原義明)
インドの神秘思想家オーロビンド・ゴーシュと、「マザー」ことミラ・アルファサの思想と生涯を紹介。オーロビンドはヨガと思索を通じて、生の意味を追求した人物。その同志であるマザーは、南インドに世界都市のコミュニティー「オーロヴィル」を創設した女性である。「生きる意味」とは?


●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp

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7月30日・ヘンリー・フォードの神

2022-07-30 | ビジネス
7月30日は、『嵐が丘』を書いた英国の女流作家、エミリー・ブロンテが生まれた日(1818年)だが、「自動車王」ヘンリー・フォードの誕生日でもある。

ヘンリー・フォードは、1863年、米国ミシガン州のディアボーンで生まれた。父親は英国イングランド由来のアイルランド移民で、農場経営者だった。母親はベルギー系の移民の娘だった。13歳のとき、ヘンリーは父親から懐中時計をプレゼントされ、それを分解し、組み立てた。父親は彼を農場の後継者として期待していたが、ヘンリーは技術者志望で、母親が亡くなると16歳で家を出、近郊の都市デトロイトに出て、機械工の見習いになった。働きながら簿記の学校に通ったフォードは、28歳でエジソン照明会社の技術者となった。
フォードは働きつつ余暇を利用して内燃機関の研究をし、四輪自動車を試作した。発明王トマス・エジソンはそんな彼のクルマへの夢を励ましたという。
36歳のとき、フォードは資金を出してくれるパトロンを見つけ、独立。自動車会社を興した。しかし、自動車は売れず、フォードが38歳になる年に会社は解散した。
その後、自動車を試作してはレースに参加し、新会社を設立しては自社から追いだされる苦闘の時期をへて、40歳になる年にフォード・モーター・カンパニーを設立。
彼が45歳のときに発売された大衆車T型フォードは、常識破りの低価格と、かんたんな運転法と修理法の画期的な自動車で、大々的に広告が打たれ爆発的ヒットとなった。
フォードはその後も、資源の再生利用などコスト削減を工夫し、クルマの値下げを実施し、50歳のころ、ベルトコンベアによるライン生産方式を完成させた。
一方で、社員が自社製品を買えない状況では真の繁栄は実現されないと、51歳のとき英断を下し、従業員の賃金を1日平均2ドル40セントから、最低でも5ドル以上へと一気に倍額以上にアップさせ、世界をあっと言わせた。
低価格の製品を大量生産しながら労働者の高賃金を維持する経営思想を、フォードの名をとって「フォーディズム」という。生産効率と労働意欲を同時に高め、労働者の購買力も高めるという現代資本主義の代表的モデルである。
裸一貫から世界的企業を築き上げたフォードは、1947年4月、脳内出血のため、ディアボーンで没した。83歳だった。

トヨタをはじめ世界の自動車の大手メーカーは、みなフォードのまねから出発し、いまもその影響下にあると言える。フォードは言う。
「人間の努力は、危機に際し、ときにそれに相応する力を突然、奮い起こし、一つの過程を完遂したり、不利に見える状況を都合のよい方向に向けてくれるように思われる。人間の経験を振り返るとき、いつの時代を見てもこの点はあまりにも明白であり、それについて疑問をはさむ余地はほとんどあるまい。
しかし、神は弱者の召使いではない。神は全力を出しきった者のために存在するのである。そうした人はその瞬間には弱者であるかもしれない。しかし、そうなるのはその人が生まれつき弱いからではなく、むしろ本来その人が強いからであり、その強さをある目的や仕事にすべて捧げてしまったからなのである。最後の力をふりしぼって糸をつかみ、神に呼びかけるとき、その力を惜しまず、その瞬間に持てる力をまったく使い果たしてしまったこの強き人の前に、神が現れ、その人を助けるのである。」(ヘンリー・フォード著、竹村健一訳『藁のハンドル』)
(2022年7月30日)


●おすすめの電子書籍!

『大人のための世界偉人物語2』(金原義明)
人生の深淵に迫る伝記集 第2弾。ニュートン、ゲーテ、モーツァルト、フロイト、マッカートニー、ビル・ゲイツ……などなど、古今東西30人の生きざまを紹介。偉人たちの意外な素顔、実像を描き、人生の真実を解き明かす。人生を一緒に歩む友として座右の書としたい一冊。


●電子書籍は明鏡舎。
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7月29日・アルマウェル・ハンセンと差別

2022-07-29 | 思想
7月29日は、ミズーリ号艦上で太平洋戦争の降伏文書に日本全権代表として署名した重光葵(しげみつまもる)が生まれた日(1887年)だが、医学者、アルマウェル・ハンセンの誕生日でもある。ハンセン病(らい病)を研究した人である。

ゲルハール・ヘンリック・アルマウェル・ハンセンは、1841年、ノルウェーのベルゲンで生まれた。現在のオスロ大学で医学を修め、医師となり、ダニエル・コルネリウス・ダニエルセンと共同でハンセン病の研究をした。
当時、らい病は遺伝性の病気か、あるいは特別な悪い空気による病気だと考えられていたが、ハンセンは細菌によるものではないかと考えた。
32歳のとき、調べたすべての患者から「らい菌」を発見したことを発表。
しかし、彼に対する医学界の評価は低かった。
その後、ハンセンが病気に感染した組織の標本を渡したアルバート・ナイサーが、らい病の病原菌をつきとめたと発表し、菌を発見したハンセンと、病源を特定したナイサーとのあいだで功績をめぐる争いが起きた。
また、ハンセンが女性の患者に、了承を得ることなく、病原菌に感染させようとした事実が発覚し、実害はなかったものの、ハンセンはスキャンダルにまみれた。
ハンセンは、1912年2月、心臓病のため、没した。70歳だった。
らい病、レプラなどと呼ばれていた病気は、彼の名をとって「ハンセン病」「ハンセン氏病」などとよばれるようになった。

ハンセン病は、世界でも、日本でも、患者が不当に差別されてきた病気である。神経が麻痺し、骨や皮膚が変形して、外見が露骨に変わるため、患者は忌み嫌われ、隔離されてきた。病気にかかった患者の鼻汁や体液によって感染することがあるが、感染力はひじょうに弱く、免疫力によって、成人にはほとんど感染しないという。ハンセン病はまた、治療できる病気だが、日本でも差別意識は根強く、患者を不当に差別しようとする、1953年の「らい予防法」が撤廃されたのは1996年のことだった。

ハンセン病と聞くと、無知、そして、差別意識ということを連想する。
日本人は(または人間は)、ほんとうに無知で、差別が好きな生き物である。
人種とか、国籍とか、文化とか、肌の色とか、信仰とか、病気とか、性別とか、やたらと、なにかちがっている点を見つけては少数派を差別したがる。
自分は子どものころから、差別が嫌いで、周囲のそういう態度とは一線を画すよう努力してきたつもりだが、でも、だからといって、自分が無知でないとか、差別主義者でないとかいうのでもない。
ずっと昔「自分は差別主義者か」ということを深刻に考えたことがあって、考えぬいた結果、根本のところでは、完全にはどうしても差別意識を拭い去れないと悟った。あきらめた。でも、だから、せめて、なるたけ差別反対者でありたいと願うようになった。
現代は差別主義者、排他主義者たちの時である。日本で、世界で、彼らの声が大きなうねりとなってこだましている。
(2022年7月29日)



●おすすめの電子書籍!

『科学者たちの生涯 第二巻』(原鏡介)
宇宙のルール、現代の世界観を創った大科学者たちの生涯、達成をみる人物評伝。ハンセン、コッホから、ファインマン、ホーキングまで。知的感動のドラマ。


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7月28日・是川銀蔵の花

2022-07-28 | ビジネス
7月28日は、元駐日米国大使、キャロライン・ケネディの母親であるジャクリーン・ケネディが生まれた日(1929年)だが、「最後の相場師」と呼ばれた是川銀蔵(これかわぎんぞう)の誕生日でもある。株式投資の神さまである。

是川銀蔵は、1897年、兵庫県は赤穂で生まれた。本名は小山銀蔵。家は漁師で、銀蔵は7人きょうだいの末っ子だった。
14歳で貿易会社の丁稚奉公に出た銀蔵は、中国や日本国内で金属資源の売買をして大儲けしたり大損したりした後、30歳のころから3年間、図書館に通いつめて資本主義経済について独自の研究を深め、ついに資本主義についてある確信を得た。
34歳のころから株式投資をはじめ、成功して得た資金を元手に朝鮮半島で製鉄会社を興した。太平洋戦争中は内閣への入閣も打診されたほどの大物だった。
戦後、戦犯として逮捕されたが、朝鮮半島住民の嘆願運動により命を救われた。
63歳のころ、土地投機で大金を手に入れ、株式投資に乗りだし、80歳前後には株式市場の仕手戦を演じてその名を馳せ、86歳の年に長者番付で一位となった。
1992年9月、没した。95歳だった。

是川銀蔵の自伝『相場師一代』はまえがきからしてふるっている。
「これまでいくつもの出版社から、自伝の出版を依頼されたが、どのような申し出に対しても断ってきた。わたしが自伝を世に出すことは、大勢の犠牲者を出すことになるという自戒から出版を避けてきたのである。ところが、あるライターが止めるのも聞かず、私の投資一代記なるものを出版してしまった。(中略)それを真に受け株は大儲けできるものと錯覚し、危険も省みずに株式投資に大金をつぎ込み、人生を棒にふるような人達が出てきては困る。(中略)そこで私は自らの人生を自らの手で綴ることにより、株で成功することは不可能に近いという事実を伝える使命があると思い、筆をとることにした。」(『相場師一代』小学館文庫)
そうやって警鐘を鳴らすのだと言って書きだしながら、本を読み進んで彼の人生をたどっていくと、自分は株式投資で大成功を収めた、自分には研究があり実績がある、自信がある、株をやるならこういう投資方針でやれ、という展開になるのである。

それはともかく、太平洋戦争直後、GHQのマッカーサー元帥が、日本の適性人口は4千万だと布告したのに反発を覚え、是川が、
「よし、ワシは人口が一億人になっても食料は自給できる体制を作ってやる」(同前)
と決意し、米の二期作の研究に没頭した話は感動的だった。その農業研究にひと区切りつけた後、彼は大相場師としてふたたび株式市場に乗りだしたのである。

自画自賛のオンパレードで、どこまで信じていいのやら判断に迷う。べつの書物によれば、是川は税務署に狙い撃ちにされ、晩年はそうとう窮していたとも聞く。
しかし、さすが忠臣蔵の伝統を受け継ぐ土地柄出身で、豪快、痛快な人生を生きたことはまちがいない。こんな風に派手に、大きく自分自身にスポットライトをあてて生きた人生はみごとで、花のある男というのはいるものである。
(2022年7月28日)



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『マネーマントラ』(天野たかし)
つぶやくだけでグングン金運が上昇、ウホウホお金が儲かってしまうという魅惑の呪文「マネーマントラ」の本。成功する呪文の本。貧富の原因は口ぐせにあった。あなた向きのマントラをさぐる診断テスト付き。


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7月27日・デュマ・フィスの体験

2022-07-27 | 文学
7月27日は、『路傍の石』の作家、山本有三(1887年)が生まれた日だが、仏作家、アレクサンドル・デュマ・フィスの誕生日でもある。小デュマとも呼ばれる。

アレクサンドル・デュマ・フィスは、1824年、フランスのパリで生まれた。父親は『モンテ・クリスト伯(巌窟王)』『三銃士』を書いた文豪アレクサンドル・デュマで、父子が同じ名前なので識別のために、「大デュマと小デュマ」、あるいは「デュマ・ペール(父)とデュマ・フィス(息子)」などと呼ばれる。
デュマ・フィスの母親はお針子で、フィスは私生児だった。
「この世のどこかに五百人からの子どもがいると思う」
と豪語する父親の、数多いる息子のひとりだったが、デュマ・フィスは父親に息子として認知され、かわいがられた。寄宿舎つきの私塾に入り、そこで「私生児」といじめられた彼は、学校を出ると父親に引き取られ、この父ならではの英才教育を受けた。
「お前もアレクサンドル・デュマの息子ともなると、いろいろな世間の体面というものがあるんだぜ。まず、一流の料亭に顔を出さなくてはならない。遊びごとはどんなものでも断ってはならない。誰もがうらやむような情婦たちをもたなくてはならない。つまり、新聞に名の出るような人間の仲間にならなくてはいけないのだ。頼むから、人目につかないような人間になって、おやじに恥をかかしてくれるなよ」(ガイ・エンドア著、河盛好蔵訳『パリの王様』創元社)
デュマ・フィスは父親の期待に応え、父親のくれるお金を湯水のように使い、借金をして放蕩を尽くす遊び人となった。そうして、20歳のとき彼は、劇場でマリー・デュプレシーという同い年の女性と出会い、恋に落ちた。マリーは金持ちや貴族の愛人をへて高齢のロシア貴族に養われていた娘で、二人は恋仲となった。
そのころ、デュマ・フィスは借金返済のために小説を書いては、うまくいかず落胆していた。そして好きあっていたマリーと21歳のとき別れてしまった。彼は別れの手紙に書いた。
「ぼくはじぶんの望むとおりにあなたを愛するほど金持ちでもありませんし、あなたの望まれるとおりにあなたを愛するほど貧乏でもありません」(デュマ・フィス著、西永良成訳『椿姫』「年譜」角川文庫)
彼が22歳のとき、結核のためマリーが危篤となり、それを伝え聞いた彼は旅先から見舞いの手紙を書き送ったが、ほどなくしてマリーは没した。
24歳のときデュマ・フィスは、マリーとの恋を題材にした小説『椿姫』を一カ月で書きあげた。これを発表すると、すなわち、大ベストセラーとなった。
成功した作家となったデュマ・フィスは、『椿姫』を戯曲化し、戯曲『半社交界』『金銭問題』『私生児』『放蕩親父』を書き、レジオン・ドヌール勲章を受け、アカデミー・フランセーズ会員となり、政変のあおりを受けて破産した父親の晩年の面倒をみた。そうして、1895年11月、パリ西方のマルリー=ル=ロワで没した。71歳だった。

『椿姫』は子どものころ読み、感銘を受けた。グレタ・ガルボ主演の映画もみた。みるたびに感動する。デュマ・フィスは言っている。
「ものを書くのはたやすいことだ。二十歳のとき少し辛い体験をする。それだけで充分だ。あとは体験の辛さをそのまま語ればいい」(同前『椿姫』「解説」)
そうはいうものの、無論たやすい業ではない。
(2022年7月27日)



●おすすめの電子書籍!

『世界文学の高峰たち』(金原義明)
世界の偉大な文学者たちの生涯と、その作品世界を紹介・探訪する文学評論。ゲーテ、ユゴー、ドストエフスキー、ドイル、プルースト、ジョイス、カフカ、チャンドラー、ヘミングウェイなどなど。文学の本質、文学の可能性をさぐる。


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7月26日・カール・ユングの夢

2022-07-26 | 科学
7月26日は、劇作家、バーナード・ショーが生まれた日(1856年)だが、心理学者、カール・ユングの誕生日でもある。

カール・グスタフ・ユングは、1875年、スイス、ボーデン湖畔のケスヴィルで生まれた。父親はプロテスタントの牧師だった。
バーゼル大学の医学部に進んだカールは、ゲーテ、カント、ニーチェなど著作を読みふける学生だった。彼は精神医学を専攻し、チューリッヒ大学のブルクヘルツリ精神病院の助手になり、27歳のころ『いわゆるオカルト現象の心理と病理』を出版。
病院の精神科医局長だった31歳のとき、当時、批判の的だったジクムント・フロイトを弁護する論文を発表し、学者たちから非難されたが、これをきっかけにフロイトとの文通がはじまった。
その後、ユングはフロイトといっしょにアメリカ旅行をする親しい間柄となったが、やがてユングはフロイトの学説に異を唱えだし、37歳で『リビドーの変容と象徴』を出版。精神病の原因を性欲に求めるフロイトの解釈を、原因の一部にすぎないと批判。
38歳のとき、ユングはフロイトから訣別状を受けとり、二人の決裂は決定的となった。
ユングは精神病者の妄想と神話との類似性を比較し、アフリカを旅行し、易や道教など中国の思想に触れ、ヨーロッパ以外の文化に触れることで、無意識の領域について研究を深めていった。スイス連邦工業大学やバーゼル大学の教授を務め、ハーバード大学やジュネーヴ大学の名誉博士号を受け、1961年6月、チューリッヒで没した。85歳だった。

フロイトはそれまで意味がないとされていた夢を検討し、無意識の世界に光をあてたが、ユングはそれを発展させ、無意識の領域を広げた。ユングによれば、わたしたちは無意識の領域で、人類の太古の記憶や未来ともつながっているという。

「グレート・マザー」「シンクロニシティ」など、ユングが提議した問題には興味深いものが多いけれど、読んだなかでは、つぎのエピソードがいちばん強く印象に残っている。

「私の同僚の医師の場合です。彼は私よりもすこし年上で、たまに一緒になると、きまって私の『夢判断』をからかっておりました。ある日街で出会いますと、彼は私にこう話しかけました『やあ、お元気ですか。相変らず夢判断ですか。ときに、ぼくはこの間馬鹿馬鹿しい夢を見ましたよ。こいつもなにかの意味があるんですかな。』彼が見た夢は次のようなものでした。『私は高山の険しい雪渓の上を登っていた。だんだん上へ登ってゆく。すばらしい快晴だ。登るにつれて、いよいよ気分がよくなる。こうしていつまでも登りつづけられたらなあ、と私は思った。頂上へへたどりついたときの幸福感と優越感は実に大したもので、天まで登れそうな気がしてきた。事実、私は空中を登っていった。わたしは完全な恍惚感の中で目がさめた。』
 私は彼にこう答えました。『困りましたね。あなたはどうやら登山は止められないようです。今後独りでゆくことだけは、ぜひとも止めて下さいよ。ゆくときには、案内人を二人連れていって下さい。案内人には絶対服従を誓うことですね。』彼は笑い出して、『むずかしい相談ですね。』といって別れました。」(カール・グスターフ・ユング著、江野専次郎訳『ユング著作集3 こころの構造』日本教文社)
同僚は、ユングから忠告を受けた三カ月後、案内人を連れずに登山して転落死した。
(2022年7月26日)



●おすすめの電子書籍!

『心を探検した人々』(天野たかし)
心理学の巨人たちとその方法。心理学者、カウンセラーなど、人の心を探り明らかにした人々の生涯と、その方法、理論を紹介する心理学読本。パブロフ、フロイト、アドラー、森田、ユング、フロム、ロジャーズ、スキナー、吉本、ミラーなどなど。われわれの心はどう癒されるのか。


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7月25日・バイエルの影響

2022-07-25 | 音楽
7月25日は、ピアニスト、中村紘子(なかむらひろこ)が生まれた日(1944年)だが、ドイツのピアニスト、フェルディナント・バイエルの誕生日でもある。

フェルディナント・バイエルは、1806年、当時ザクセン王国であったドイツのクヴェアフルトで生まれた。
父親は仕立て屋の親方で、母親はパイプオルガン演奏者だった。
祖父が教会のパイプオルガン演奏者で、母親もオルガニストという音楽エリートの家系に生まれたフェルディナントは、ライプツィヒの神学校で神学を学び、聖職者のコースを進んだが、神学と並行して和声学やオルガン、ピアノの教育も受けた。
16歳のとき、父親が没し、これを機に父系から母系へ、音楽のほうへ身を入れ出した。
20代のころは、作曲家と演奏者として、各地を演奏してまわっていた。
28歳のころ、マインツに引っ越し、結婚したために経済的安定をはかる必要もあり、ピアノ教師になった。
その後、音楽出版社と契約して、そこの専属の作曲家となった。
バイエルは、オリジナル作品の楽譜を書くとともに、既存の楽曲をアレンジ(編曲)して、子どものピアノレッスン用の楽譜など、一般向けに編曲したピアノ曲の楽譜をたくさん書いた。
軽音楽、大衆音楽をピアノに取り入れた彼は成功した編曲者として生き、1863年5月に没した。56歳だった。

バイエルは、ショパン、シューマン、ワーグナーといった音楽家たちと同時代の人である。すると、ロマン派の時代にポピュラーを志向した音楽家ということなる。
バイエルが40代半ばのころに発表した「バイエル教則本」は、子どもなど、はじめてピアノを学ぶ初心者のための楽譜が100曲以上収められた本だった。
これが米国に伝わり、それが明治時代に米国人によって紹介され、「バイエル教則本」として日本に伝えられた。
おそらくこの時点ですでに、バイエルがドイツで出版したものからだいぶ内容が変わり、アメリカナイズされていたであろうが、これが日本人音楽家たちによってさらに、さまざまに編集され、曲が削られたり、別の曲が加えられるなどして日本仕様となって進化しつつ「バイエル」は極東の島国に普及していった。
第二次大戦後の復興時代から日本が立ち上がり、高度成長期となり、ピアノが普及していくのと並行して「バイエルピアノ教本」も日本列島に浸透していった。
教則本はほかにもあるが、やはりピアノをはじめて学ぶ日本人は、バッハでもモーツァルトでもベートーヴェンでもショパンでもなく、「バイエル」から、ということになった。
そういう意味では、日本のピアニストにもっとも影響力があった西洋音楽家は、じつはフェルディナント・バイエル、その人なのかもしれない。

ちゃんと「バイエル」で習ったことがない。
そんな自己流で弾く自分でも(家がせまいのと、お金がないので)電子ピアノをもっていて、ときどき弾く、というよりは触るのだけれど、おびただしい回数のミスタッチでポピュラーを弾きながら、自分もバイエルの影響下にあるのかなぁなどとぼんやり考える。
左手で伴奏、右手でメロディーを引くスタイルは、バイエル教本の特徴だそうである。
いや、いまの自分にバイエルを語る資格はない。ちゃんと語れるよう、バイエルからはじめなくては。
(2022年7月25日)



●おすすめの電子書籍!

『大音楽家たちの生涯』(原鏡介)
古今東西の大音楽家たちの生涯、作品を検証する人物評伝。彼らがどんな生を送り、いかにして作品を創造したかに迫る。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ショパンから、シェーンベルク、カラヤン、ジョン・ケージ、小澤征爾、中村紘子まで。音の美的感覚を広げるクラシック音楽史。


●電子書籍は明鏡舎。
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7月24日・アレクサンドル・デュマの決算

2022-07-24 | 文学
7月24日は、日本の文豪、谷崎潤一郎が生まれた日(1886年)だが、フランスの文豪「パリの王様」アレクサンドル・デュマの誕生日でもある。

アレクサンドル・デュマは、1802年に、フランスのヴィレール・コトレで生まれた。
クレオール(白人と黒人の混血)だった父親は、その腕力と勇敢さを軍隊で発揮し、折からのフランス革命で、将軍にまで出世した。しかし、ナポレオンに反乱分子とみなされ、元将軍の父親は不遇のうちに、アレクサンドルが4歳のとき、世を去った。
アレクサンドルの母親はタバコと塩の販売店を営んで子どもたちを養った。
勉強は苦手だったが、本好きで活発な少年だったアレクサンドルは、17歳のとき、ソワッソンの街で「怪奇ハムレット」という芝居を観て感動。戯曲家になることを決意。役場の見習いをしながら、デュマは文学や歴史を勉強した。
20歳のとき、50フランの全財産をポケットに入れて、デュマはパリに出た。頼りは、持参してきた生前の父親宛ての手紙の束で、その手紙の送り主をさがし、訪ねては就職を頼んだ。熱心な就活の甲斐あって、デュマは貴族の秘書の仕事にありつき、書類の清書をしながら、歴史と演劇の勉強をし、時間を見つけては戯曲を書いた。
27歳のとき、戯曲『アンリ三世とその宮廷』が劇場にかかり、デュマは喝采を浴びた。続いて『クリスティーヌ』『アントニー』を書き、演劇界で彼は大成功を収めた。
一方でデュマは、新聞紙上に『モンテ・クリスト伯(巌窟王)』『三銃士』『王妃マルゴ』『王妃の首飾り』などを連載し、彼の小説が載った新聞はどれも飛ぶように売れた。
デュマはべつの執筆者に原稿を書かせ、自分が手を入れて仕上げるという共同作業によって膨大な作品群を生産していった。彼はまたみずから劇場経営にも乗りだし、莫大な収入を得たデュマは、豪邸を建て、そこに毎夜おおぜいの客を呼んでは、贅の限りをつくした料理と酒とでもてなし「パリの王様」と呼ばれた。
しかし、やがて政情が変化し、演劇が下火になると、金回りは急に悪化し、巨額の負債を抱えるようになり、49歳の年には裁判所から破産宣告を受けた。
58歳のころ、出版契約で思わぬ大金を手にすると、彼はそのお金で船を建造し、19歳の愛人を連れて地中海をイタリアへ向けて出航した。彼らはシシリア島でガリバルディ軍の歓迎を受け、もともと人民解放主義者だったデュマは感激し、船と大金をガリバルディ軍に提供し、みずからガリバルディの赤シャツ隊に加わった。その後、ガリバルディが、自分の治世下にあったナポリやシシリアを王に献上し、王政の下にイタリア統一が成ると、デュマは裏切られた失意のうちに、追われるようにフランスへ帰国した。
ほとんど無一文になったデュマは息子の家に身を寄せた。息子は、父親と区別するために「小デュマ」と呼ばれる『椿姫』の作者である。外出しなくなった大デュマは、外出用の服のポケットにナポレオン金貨一枚と小銭があるのを見つけ、息子にこう言った。
「いいかい、それは五十年前にお父さんがパリにやってきたときに持っていたのと同じ金額なんだよ。だから、五十年間さんざんぜいたくをしてきたが、一文も減らなかったことになる。昔も今も同じだけ財産があるんだ。そのおれを浪費家などといって非難するやつは誰だ!」(ガイ・エンドア著、河盛好蔵訳『パリの王様』講談社)
1870年12月、デュマは没した。68歳だった。

小学校のころ『三銃士』『鉄仮面』などを愛読していた。胸をわくわくさせながらページをめくったあの感覚は、いまでも忘れない。でも作者デュマの人生はそれ以上だった。デュマほど魅力的な生き方をした人はめったにいない。
(2022年7月24日)



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『世界文学の高峰たち 第二巻』(金原義明)
世界の偉大な文学者たちの生涯と、その作品世界を紹介・探訪する文学評論。サド、ハイネ、ボードレール、ヴェルヌ、ワイルド、ランボー、コクトー、トールキン、ヴォネガット、スティーヴン・キングなどなど三一人の文豪たちの魅力的な生きざまを振り返りつつ、文学の本質、創作の秘密をさぐる。


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7月23日・幸田露伴の知

2022-07-23 | 文学
7月23日は、推理作家、レイモンド・チャンドラーが生まれた日だが、文豪、幸田露伴の誕生日でもある。

幸田露伴は、慶応3年7月23日(1867年8月22日)に江戸で生まれた。本名は幸田成行(しげゆき)。幼名を鉄四郎といった。父親は江戸幕府の家臣だった。
小さいころ、病弱だった成行は、塾に通って素読を学び、草双紙、読本を愛読した。中学では尾崎紅葉と同級生だったが、家計が苦しくなり退学。
後に、現在の青山学院大学の前身である東京英学校に入学したが、これも中退した。
14歳のころ、給費生として入学した電信技術の学校をへて、電信技師の公務員として北海道の余市に勤務した。
しかし、文学への思いやまず、20歳のとき、とつぜん辞職し、蒸発した。
「身には疾あり、胸には愁あり、悪因縁は逐へども去らず、未来に楽しき到着点の認めらるるもなく、目前に痛き刺激物あり、欲あれども銭なく、望みあれども縁遠し、よし突貫して此逆境を井でむと決したり。五六枚の衣を売り、一行李の書を典し、我を愛する人二三にのみ別をつげて忽然出発す。」(「突貫紀行」『露伴全集 第十四巻』岩波書店)
放浪しながら東京にたどりつき、父親がやっていた紙屋を手伝いながら、読書をし、小説を書いた。
22歳のとき海外を舞台にした小説『露団々』を発表。これが出世作となり、続けて『風流佛』『五重塔』など、文学史上に残る名作を書いて、大作家となった。明治の一時期は、かつての同級生、尾崎紅葉とともに絶大な人気を誇り「紅露時代」と呼ばれた。
小説のほか、史伝、評論、注釈書も多く著し、41歳の年から乞われて京都帝国大学で教鞭をとり、国文学を講義したが、辞職。以後、研究と執筆に専念した。
広く尊敬を集めていた幸田露伴は、1937年(昭和12年)に文化勲章が設けられると、その第1回の受賞者に選ばれた。
1947年7月、千葉の市川で没した。80歳だった。

幸田露伴の小説『運命』『連環記』を読み、世の中にはこんな小説もあるのかと驚いた。名文として名高い『五重塔』の嵐の描写なども空前絶後である。
谷崎潤一郎が、現在の日本で文語文を自由自在に書ける人間は幸田露伴だけなのではないかと書いていたけれど、まったくその通りで、露伴の文語文を読むと、まさに自由闊達に、血わき、肉おどる、感情のこもった文章がおもしろく、また、みごとな美しさでもって並んでいるのだった。もしも一字一句訂正するところのない完璧な文章というものがあるとしたら、幸田露伴の文章を指すのだろう。

日本と中国の古典、歴史に精通する博覧強記の上に、露伴の場合は、自分の頭でちゃんと考えて、古典にこうあるけれど、おそらくこれはこちらの文献を写したもので、もとの文献にしても、これこれこういう理由でまちがっていて、おそらく実情はこうだったろうと推定するというレベルまで突き詰める知性の高さに驚かされる。
(2022年7月23日)



●おすすめの電子書籍!

『小説家という生き方(村上春樹から夏目漱石へ)』(金原義明)
人はいかにして小説家になるか、をさぐる画期的な作家論。村上龍、村上春樹から、団鬼六、三島由紀夫、川上宗薫、江戸川乱歩らをへて、鏡花、漱石、鴎外などの文豪まで。新しい角度から大作家たちの生き様、作品を検討。読書体験を次の次元へと誘う文芸評論。


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7月22日・ベッセルの視差

2022-07-22 | 科学
7月22日は、「フォークの神さま」岡林信康が生まれた日(1946年)だが、天文学者、ベッセルの誕生日でもある。宇宙の彼方の恒星までの距離をはじめて計算した人である。

フリードリヒ・ヴィルヘルム・ベッセルは、1784年、ドイツのミンデンで生まれた。父親は役所に務める公務員だった。
14歳でブレーメンの貿易会社に奉公に出たフリードリヒは、そこで貨物船の航行技術に接するうち、数学への興味を深めた。また、船の位置を決定する根拠となる天文学に関心をもつようになった。
貿易会社を辞めたベッセルは、ブレーメンに近い天文台の助手に転職した。彼はそこで3千個以上の恒星の位置を測定する観測、研究に関わった。
この業績が買われ、彼は25歳でケーニヒスベルク天文台の所長に任命された。この天文台で観測、研究を続け、彼は5万個以上の恒星の位置を測定した。
1846年3月、ケーニヒスベルクで後腹膜腫瘍により没した。

ベッセルが、恒星までの距離を算出した方法は、おおよそこういう手順らしい。
彼はまず「大気差」というものを精密に測った。「大気差」とは、恒星からの光が宇宙を伝わってきて、地球の大気圏に入ると、光が屈折し、見かけの高度が、実際の高度より大きくなる現象のことで、この差は水平線近くに見える恒星ほど大きくなる。大気差は大気の温度や気圧などによっても変化するので、現在でも各天文台ごとに観測データをもとに独自の「大気差」を算出しているのが実情だというが、ケーニヒスベルク天文台の所長となったベッセルは、膨大な観測データから求めた「大気差」を発表した。
つぎにベッセルは「視差」を計算した。
たとえば、はくちょう座61番星の位置をある日に観測したとすると、その半年後、地球が太陽のちょうど反対側にまわったときに、いま一度61番星を観測する。すると、2度の観測の角度の差が求められるわけで、この角度に、さらに地球が太陽をまわる軌道の直径を底辺とした三角形を想定すれば、恒星までの距離が計算できる。
こうやって、恒星までの距離は求められた。

もちろんベッセルだけが恒星の距離を計算していたわけではなく、当時の天文学者たちは競争で算出にしのぎを削っていたけれど、ベッセルの業績は突出していた。
現在では、宇宙に打ち上げられたヒッパルコス衛星による観測で、より正確な恒星までの距離が求められているが、ベッセルが算出した値はいい線をいっていたらしい。

ベッセルはまた、天体の運動を観測して得たデータのずれを発見して、そのすぐそばに、まだ見つかっていない星が隠れていると推測していて、それが後に発見されたりもしている。その功績により、小惑星や月面のクレーターに「ベッセル」の名が冠せられている。

日本では江戸幕府の水野忠邦が天保の改革をおこなっていた時代に、こうやって宇宙の彼方の一点をじっと見つめていた人がいるのだと思うと、不思議な心持ちがする。
(2022年7月22日)



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『科学者たちの生涯 第二巻』(原鏡介)
宇宙のルール、現代の世界観を創った大科学者たちの生涯、達成をみる人物評伝。ハンセン、コッホから、ファインマン、ホーキングまで。知的感動のドラマ。


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