1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

9月30日・「熱狂」マーク・ボラン

2013-09-30 | 音楽
9月30日は、『ティファニーで朝食を』を書いた作家、トルーマン・カポーティが生まれた日(1924年)だが、ロック・バンド「T・レックス」のマーク・ボランの誕生日でもある。
自分の学生時代の友人に、T・レックスのレコードを集めているファンがいて、彼にカセットテープに録音してもらって、よく聴いた。マーク・ボランの熱狂的な演奏スタイルは彼独特のもので、彼はまったく唯一無二のロックスターだったと思う。

マーク・ボランは、1947年、英国イングランドのロンドンで生まれた。本名は、マーク・フェルド。一家はユダヤ系で、父親は肉屋だった。
9歳のとき、エルヴィス・プレスリーを聴き、夢中になったというマークは、10歳のころからバンドを組んで学校や地元のカフェでライブ演奏をしていた。
11歳で中学に入るが、入学した初日から学校を抜け出す不良ぶりで、授業をさぼっては、音楽と読書に明け暮れる生活を続けた。
マークは10代後半には、ファッション・モデルの仕事をしながら、レコード会社のオーディションを受けていたが、18歳になるすこし前に、芸名を「マーク・ボラン」とし、契約したデッカ・レコードからシングル曲「魔法使い(The Wizard)」でデビュー。続けて第二弾シングルを出したが、曲はいずれもヒットしなかった。
20歳の年に、自分のグループ「ティラノザウルス・レックス」を結成し、20歳のとき、ティラノザウルス・レックスとしての最初のシングル「デボラ」が発売され、ヒットチャート入りした。
23歳のとき、バンドの名前を「T・レックス」と短く改めた。
24歳の年に出したアルバム「電気の武者(Electric Warrior)」が全英チャートでナンバーワンを獲得し、全世界で大ヒットを記録し、T・レックスは第二のビートルズと騒がれた。化粧をし、奇抜で派手な衣裳をまとって演奏する彼らのスタイルは「グラム・ロック」と呼ばれ、当時のロンドンの通りには、メイキャップをし、底の熱いブーツをはき、スパンコールやラメ入りの衣裳で美しく着飾った若者であふれた。そのグラム・ロックのブームは、ボランが24歳のときに出したT・レックスのアルバム「ザ・スライダー」によって最高潮を迎え、T・レックスは「ゲット・イット・オン」「メタル・グルー」「テレグラム・サム」「20センチュリー・ボーイ」などの楽曲を立て続けに大ヒットさせた。
1977年9月16日、朝方にクラブから家に帰る途中、ボランは事故にあった。彼は、恋人が運転するミニの助手席に乗っていたが、恋人がハンドル操作を誤り、街路樹に激突。恋人は重傷を負い、ボランは即死した。ボランは生前「自分は30歳まで生きられないような気がする」とコメントしていたが、事故は彼が30歳になる2週間前のことだった。

ずっと昔、「すみれ September Love」を書いた一風堂の土屋昌巳が、
「マーク・ボランが活躍した時期に、ロックはある頂点に達して、完成されてしまった。それ以降にそれ以上のものはない、そういう気がする」
という意味のことをテレビで発言していたが、自分もそうかもしれないと思う。
マーク・ボランは元祖「ヴィジュアル系」で、天才的なソングライターで、かつ情熱的なステージを繰り広げる最高のパフォーマーだった。「メタル・グルー」を聴きながら目を閉じれば、たちまち、あのきらびやかな時代の熱狂が胸にこみ上げてくる。
(2013年9月30日)




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『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句』(越智道雄選、金原義明著)
「ティファニーで朝食を」「風と共に去りぬ」から「ハリー・ポッター」まで、英語の名作の名文句(英文)を解説、英語ワンポイン・レッスンを添えた新読書ガイド。


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9月29日・ミゲル・デ・セルバンテスの女神

2013-09-29 | 文学
9月29日は、フランス・スペイン連合艦隊を撃破した英国海軍のネルソン提督が生まれた日(1758年)だが、スペインの作家、セルバンテスの誕生日でもある。『ドン・キホーテ』の作者である。
自分は小学校4年生のときに『ドン・キホーテ』を、少年少女向けの文学全集で読んだ。主人公ドン・キホーテが風車に向かって突っ込んでいく有名なくだりは、さすがに印象深かった。自分はこの物語で、ひとりのお姫さまに忠誠を誓って戦う騎士という存在を、はじめて知った。

ミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラは、1547年、スペインのアルカラ・デ・エナーレスで生まれた。父親は外科手術をする床屋だった。
引っ越しの多い少年時代をすごしたミゲルは、23歳のころには、スペイン海軍の兵隊となっていた。
1571年、ギリシアのレパント沖で、スペイン、ヴェネツィア、ジェノヴァなどのカトリック連合軍側と、オシマン・トルコ軍が衝突したレパントの海戦に、24歳だったセルバンテスも従軍した。そのときの戦いで、彼は砲撃により左腕を失った。
片腕を失った名誉の負傷を誇りとしたセルバンテスは、半年ほど病院で過ごした後、まだ傷が完全に癒えないまま、イタリアの戦場に出て戦った。彼の働きに感じた総司令官は、スペイン国王の弟だったが、セルバンテスの昇進を推薦する手紙を彼に与えた。
28歳のとき、スペインへ帰る途中、セルバンテスの乗った船は、アルジェリア人の海賊に襲われた。戦闘がおこなわれ、乗組員の多くが殺され、セルバンテスは捕虜となった。
そのとき、セルバンテスが国王への推薦状をもっていたことが、一兵卒にしかすぎない彼を、ひどく身分の高い人物に見せた。海賊は、とても払えない高額の身代金をセルバンテスの家族に要求し、そのためにセルバンテスはアルジェリアで5年間、奴隷生活を送ることになった。この経緯について、ドイツの詩人、ハインリッヒ・ハイネはこう評している。
「逸材と認められたことでさえ、彼にとっては新たな不幸の種にすぎなかったことになる。またこういう次第で、あの恐ろしい女、(幸運の)女神フォルトゥナは、最期の日まで彼を嘲ったのである。女神は、自分の贔屓(ひいき)なくして名声や名誉に到達することをけっして天才に許しはしないのだった。」(兼田博訳「『ドン・キホーテ』への助言」『ハイネ散文作品集 第5巻』松籟社)
いく度か脱走を試みては失敗し、最終的にカトリックの慈善団体によって身請けされ、セルバンテスはようやく故国スペインへもどった。
故郷でお金に困った彼は、いろいろな商売を試した後、徴税人の仕事に就いた。しかし、集めた税金を預けておいた銀行が破産し、そのお金と追徴金を含めて多額の負債を負う羽目になった。負債を払えず、セルバンテスは50歳のとき、投獄された。その牢獄のなかで構想したのが『ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ(ラ・マンチャの騎士・キホーテ卿)』だった。
出獄後、58歳のときに『ドン・キホーテ』は出版され、大ベストセラーとなった。しかし、原稿料は印税でなく、買い取り契約だったため、セルバンテスの暮らしはなかなか楽にならなかった。
セルバンテスは1616年4月、マドリードで没した。68歳だった。

長編小説『ドン・キホーテ』は、中世の騎士物語を読みふけって、ついに自分が騎士のつもりになって馬にまたがり、飛びだしていき、行った先々でいろいろな騒動を起こす、頭のいかれた男、ドン・キホーテの滑稽話である。
中世の騎士ものがたりの息の根を止め、近代小説の道を開いたと言われる傑作だけれど、この作品以上に、書いた作者の人生のほうが、まさに真実の冒険で、傑作である。
セルバンテスの生きざまを見ると、英雄の人生というのは苦難の連続であり、それをつぎつぎと乗り越えていくところに英雄たるゆえんがあるのだとわかる。苦難を乗り越えることで輝きを増してくる、それが人生なのかもしれない。
(2013年9月29日)



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『12月生まれについて』(ぱぴろう)
ハイネ、ディートリッヒ、ゴダール、ディズニーなど、12月誕生の31人の人物評論。人気ブログの元となった、より長く深いオリジナル原稿版。12月生まれの取扱説明書。


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9月28日・プロスペル・メリメの腕前

2013-09-28 | 文学
9月28日は、テニス選手のクルム伊達公子が生まれた日(1970年)だが、仏国の作家、プロスペル・メリメの誕生日でもある。
『カルメン』の作者、メリメは、おそらく世界の文学史上もっとも上手な小説の書き手の人だと思う。自分がはじめて読んだメリメ作品は短編小説『マテオ・ファルコーネ』だった。文庫本で20ページほどの短い話だけれど、その強烈な印象といったらなかった。小学校のときに読んで、その内容やいくつかのせりふは頭に残り、何十年たっても離れなかった。

プロスペル・メリメは、1803年、仏国のパリで生まれた。裕福なブルジョワ家庭の出身で、父親は絵画を描き、文章家でもあり、母親も絵を描いた。
プロスペルは法律を専攻し、弁護士の資格を取得した後に、役人になった。通商省、海運省などをへて、歴史記念物監督官に就任したが、そうして公務員として勤めながら、ヨーロッパ各地を旅行し、サロンに出入りして、戯曲や史伝を書き、また、時々の恋仲の女性に捧げるべく小説を書いた。
メリメはこう言っている。
「わたしは生涯、けっして公衆のためなどに書きはしなかった。いつも特定のある人のために書いた」(佐藤功「解説」『メリメ全集3』河出書房新社)
22歳のとき『ララ・ガスルの戯曲集』でデビューし、ゲーテに激賞された。
25歳のとき、『マテオ・ファルコーネ』を雑誌に発表。メリメの文名は一気に高まった。以後、『トレドの真珠』『エトルリアの壺』など「珠玉の短編」と呼ばれる作品群を発表し、長編『コロンバ』を書いた後、40歳でアカデミー・フランセーズの会員に選ばれ、42歳のとき『カルメン』を発表した。
45歳のころから彼はロシア語を猛烈に勉強しだし、プーシキンの『スペードの女王』をフランス語に訳し、ゴーゴリの『死せる魂』『検察官』を抄訳し仏国に紹介した。
ロシア文学研究のほか、考古学、美術史の研究にも力を入れたメリメは、1870年9月、滞在先の南仏カンヌで没した。66歳だった。

自分は社会人になって『メリメ全集』を買い、それはいまでも本棚に並んでいる。
『マテオ・ファルコーネ』は、イタリアのコルシカ島を舞台に展開する父と子の、信頼と裏切りと裁きの物語で、熱い、衝撃的な作品である。
代表作と言われる『コロンバ』『カルメン』の、忘れがたい「宿命の女」。
三島由紀夫が『文章読本』のなかで短編小説の模範として取り上げた『トレドの真珠』。
泉鏡花がうまいと唸った『シャルル十一世の幻想』。
メリメ自身が自分の最高傑作と自負していたという怪奇小説『イールのヴィーナス』。
そして、切ない恋の読後感がずっと尾をひく『エトルリアの壺』。
63歳のころに、旅に同行していた皇后の前で朗読するために一気に書き上げたという『青い部屋』。
メリメの小説は、一つひとつ味わいが異なるけれど、どれもため息がでるほど上手いという点で共通している。
ゲーテが「練達の士」と呼び、芥川龍之介が「天七宝の柱」と呼んだのも、「ごもっとも」である。

文章の書きぐあいは、つねに冷静。いっさいの無駄を省いて簡潔、さりげないのだけれど、読んだ者の胸にものすごく熱いものが燃え上がる。職業作家でなかったメリメは、そんな魔法のようなことができる「作家のなかの作家」だったと思う。
(2013年9月28日)



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『1月生まれについて』(ぱぴろう)
村上春樹、三島由紀夫、デヴィッド・ボウイ、モーツァルトなど1月誕生の31人の人物評論。人気ブログの元となった、より長く、深いオリジナル原稿版。1月生まれの教科書。


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9月27日・アルバート・エリス博士のバナナ

2013-09-27 | 科学
9月27日は、サッカーの小野伸二選手が生まれた日(1979年)だが、米国の心理学者、アルバート・エリスの誕生日でもある。
エリス博士は論理療法の権威で、自分がとても尊敬している心理学者のひとりである。自分は博士が89歳のときにテレビ番組に出演していたのを見た。折れそうに細い、きゃしゃなからだながら、高齢者らしからぬ、元気なはきはきしたしゃべり方でインタビューに応じていたのが印象的だった。

アルバート・エリスは、1913年、ペンシルベニア州ピッツバーグで生まれた。ユダヤ系の家庭で、父親は出張の多いビジネスマンだった。
アルバートは病気がちの子どもで、5歳から7歳のあいだに、腎臓病や扁桃炎、あるいは細菌感染のために8回入院し、そのうちの一回の入院は1年近くの長きにわたった。彼の両親はどちらも子どもに対して愛情を見せることがすくなく、めったに病室に顔を出さなかったという。
青年時代、女性に対しててとも恥ずかしがり屋だったアルバートは、自分に対する行動心理学的処方として自分に、ひと月のあいだに百人の女性に声をかけるという課題を課し、それやり遂げた。ひとりとしてデートに応じてくれる女性はいなかったが、彼の女性恐怖症の傾向はだいぶ減じられた。
21歳で、ニューヨーク市立大学を卒業したアルバート・エリスは、34歳のとき、コロンビア大学で臨床心理学の博士号を得た。
博士となったエリスは、その後、精神分析の訓練を受け、心理カウンセラーをしていたが、精神分析の方法論にいい効果を見出せなかった。
そこで彼は、42歳のころ、独自の論理療法(Rational Therapy)を考案。46歳のとき、ニューヨーク州にアルバート・エリス研究所を設立し、神経症やコンプレックス、恐怖症など、さまざまな心的問題を抱える人々の治療にあたった。
90歳を越えてもなお、本の執筆、後進の指導、クライエント(来談者、client)との治療などで一日16時間働いていたエリス博士は、92歳のときに肺炎を起こし、病院とリハビリ施設を行ったり来たりする生活をしていたが、2007年7月、ニューヨークのアルバート・エリス研究所の上の階にある自宅で没した。93歳だった。

自分は、四千円近くするエリス博士の著書『論理療法』を買って読み、いまも持っている。さすが「論理療法」で、ひじょうにもっともなことが書いてある。誰もが読めば、おっしゃる通り、と考えるだろうことばかりである。けれど、この「もっとも」なことが、人間はなかなか行動に移せない。
博士の研究所では、なにかの恐怖症をもったクライエントに対して、こういう体験をさせていた。バナナを腰にぶらさげて通りを歩くとか、地下鉄に乗って、大声で「つぎは42番ストリートです」と大きな声で言うとか。クライエントは最初、
「そんなこと、恥ずかしくてできない」
と思う。でも、仕方なく言われた通りやってみる。すると、なんでもなかったりする。まわりの人も、おや、とちょっとこちらを見たりするが、それだけである。気にもとめない人もいる。
そういう体験を積んで、いままでは自分が自意識過剰だっただけで、自分で自分をしばっていただけなのだ、自分はもっと自由にふるまっていいのだという、頭では理解できる論理的思考を、行動実験によって裏付け、恐怖心を取り除いていこうとするのである。
劇団の俳優などが、舞台度胸をつけるために、通りなどで大声でなにかしゃべったり、演技したりするのと通じるかもしれない。
自分も、バナナをぶらさげて歩かなくては、と思うことは多い。
(2013年9月27日)




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『8月生まれについて』(ぱぴろう)
ブローデル、バーンスタイン、マドンナ、ヘルタ・ミュラー、シャネル、モンテッソーリ、アポリネール、ゲーテ、マイケル・ジャクソン、宮本常一、宮沢賢治など8月誕生31人の人物論。8月生まれの人生とは?


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9月26日・ハイデガーの人間存在

2013-09-26 | 思想
9月26日は、米国の作曲家、ジョージ・ガーシュウィンが生まれた日(1898年)だが、実存主義哲学者、マルティン・ハイデガーの誕生日でもある。
自分は電車に乗っているとき、他人が本を読んでいると、その書名が気になるが、そのとき、きれいな女性が、むずかしそうな本を読んでいると、不思議なことに、その女性がよけいにきれいに見えてくる。マルクス『賃銀・価格および利潤』とか、ニーチェの『善悪の彼岸』など、いい。ハイデガーの『存在と時間』など読んでいる女性を見たら、もう絶世の美女すぎて、倒れてしまうかもしれない。

マルティン・ハイデガーは、1889年、独国バーデン州のメスキルヒで生まれた。父親は教会の堂守り兼職人だった。マルティンは、ギムナジウム(中高一貫校)をへて、修道院に入ったが、病弱で修道院のきびしい修行生活についていけず、2週間後には退院。大学の神学部に入り直した。
23歳の年に哲学科に転部したハイデガーは、哲学研究に没頭し、学位論文の評価を「最優秀」で博士号を取得した。
第一次世界大戦中は、召集され、軍務についた。
戦後は、大学で教えながら、論文を書いた。34歳のころに、トートナウベルクに山荘を建て、そこにこもって代表作『存在と時間』を書いた。
1933年、ハイデガーが43歳のとき、ドイツにヒトラー政権が誕生し、ハイデガーはフライブルク大学の総長に選ばれた。ナチスのユダヤ人迫害により、まわりの学者がつぎつぎと職を奪われ、外国へ避難、亡命していくなか、ハイデガーはナチス党に入党した。しかし、彼は大学で孤立し、就任一年後に総長の職を辞任した。
第二次世界大戦後は、一時期、大学を退職させられていたが、62歳の年に復帰が認められ、ふたたび大学の講義、講演、論文執筆などをおこなった。
1976年5月、フライブルクの自宅で没した。86歳だった。

自分は高校生のときからハイデガーの名は知っていたが、その本をちゃんと読んでいない。だから、ハイデガーについての理解は高校生のときのままだけれど、それによると、ハイデガーは彼が38歳のときに発表した『存在と時間』のなかで、われわれが存在するとは、どういうことか? ということを考えようとしたらしい。
この世に存在しているののなかでも、人間は、ほかの存在とはちがって、みずから自分の存在を問題とする存在である。これを「現存在」と呼んで、ほかの存在と区別する。
現存在の人間は、自分で選んでこの世界に飛び込んだわけではなく、知らぬ間に放りこまれていた存在であるため、世界内存在として生きているとき、いつも不安につきまとわれている。それで、人間はこの不安から逃避しようとして、好奇心にとらわれ、曖昧さをもつようになる。……
というようなことをハイデガーは考えたらしい。
自分は、あまりむずかしいことはわからないのだけれど、ときどきこういう問題について考えてみるのが好きである。現代日本人の多くの人が念頭においている経済効率だとか現世利益だとかは、まったく関係のないことで、人によっては、
「なんのことやら?」
「なんの得にるの?」
「ばかじゃない?」
と考える人もいるかもしれない。でも、自分はぜんぜんそうは考えない。
ハイデガーはこう言ったそうだ。
「人間は存在するものの支配者ではない。人間は、存在するものの羊飼いなのだ。」
(2013年9月26日)




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『4月生まれについて』(ぱぴろう)
ブッダ、カント、ランボルギーニ、忌野清志郎、吉田拓郎など4月誕生の30人の人物論。短縮版のブログの元となった、より長く、味わい深いオリジナル原稿版。4月生まれの存在意義に迫る。


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9月25日・ウィリアム・フォークナーの根気

2013-09-25 | 文学
9月25日は、ピアニストのグレン・グールドが生まれた日(1932年)だが、米国の文豪、ウィリアム・フォークナーの誕生日でもある。
自分がフォークナーを知ったのは、大人になってからだった。「ヘミングウェイのライバル」で「哲学者サルトルが高く評価した」という評判を聞いて、すこし読んだ。南部の、素朴ながら複雑な事情を背負った人々が登場する、長い小説を書く人である。

ウィリアム・カスバート・フォークナーは、1897年、米国ミシシッピ州のニュー・オールバニーで生まれた。父親は鉄道会社に勤めていた。ウィリアムが14歳のころ、一家はとなりの郡オクスフォードへ引っ越し、ここを終生のふるさととした。
勉強に興味がわかず、高校を中退したウィリアムは、文学青年の大学生たちと交際して 文学的教養を身につけていったが、20歳のころ、失恋したのをきっかけに、米国陸軍の航空隊に志願した。当時は第一次世界大戦中で、米国も参戦していたが、フォークナーは、きゃしゃで身長が低かったため、入隊できなかった。
そこで彼は英国人になりすまし、英国空軍に志願した。すると、こちらには合格した。が、戦場へ出る前に終戦となり、除隊となった。故郷へもどった彼は、しばらく英国軍将校の服を着て、杖をつき、負傷兵のまねをして歩いていたという。
22歳の年に、戦時の特別措置によってミシシッピ大学に入学。彼は大学の学生新聞に詩や小説を発表するようになった。が、やがて学生をやめて、書店や大学構内の郵便局で働きだした。そして27歳のとき、職務怠慢で郵便局をクビになった。
その後、彼は小説を書いては出版社に売り込みをかけ、29歳のころから作品が出版されるようになった。『サンクチュアリ』『八月の光』『アブサロム、アブサロム!』といった作品は、フランスの一部知識人のあいだでは評価されたが、本国では売れず、つぎつぎに絶版になった。彼は生活のため、ハリウッドに行って映画の脚本を書いた。
48歳のとき、絶版になっていたフォークナーの作品を集めて『ポータブル・フォークナー』というアンソロジーが編まれ出版された。
フォークナーは自分の故郷をモデルにして、ヨクナパトーファ郡という架空の土地を設定し、そこで展開されるさまざまな人間ドラマを、たくさんの小説群にして生みだしていった。その「ヨクナパトーファ・サーガ」と呼ばれる一連の小説群が、このアンソロジーによって概観することができるようになり、再評価された。
1949年、52歳のときにノーベル文学賞受賞。
1962年7月、心臓発作のため、ミシシッピ州バイヘーリアで没した。64歳だった。

フォークナーの『八月の光』は、拙著『名作英語の名文句2』でも取り上げた。
それにしても、フォークナーの経歴をながめると、興味深い人生だなあ、と思う。気取り屋で根気が続かず、なにをやってもうまくいかなかったのが、物語を書くことだけは猛烈な情熱を注ぎ込むことができた。それだけは根気が続いた。しかし、それもぱっとせず、ついに日の目を見ずに終わりそうになったところ、アンソロジーによって再評価され、ノーベル賞をもらうことになった。
あきらめずに、なにかに打ち込みつづけることは、大事だなぁ、とあらためて思う。
(2013年9月25日)




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『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句2』(金原義明)
「八月の光」「ガリヴァ旅行記」から「ダ・ヴィンチ・コード」まで、名著の名フレーズを原文で読む新ブックガイド。第二弾!



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9月24日・「万能の天才」ジェロラモ・カルダーノ

2013-09-24 | 科学
9月24日は、『グレート・ギャツビー』を書いたフィッツジェラルドが生まれた日(1896年)だが、イタリアの万能の天才、ジェロラモ・カルダーノの誕生日でもある。
自分はべつのことを調べていて、たまたまカルダーノについて知った。万能の天才、レオナルド・ダ・ヴィンチと同時代のイタリアに、こんなすごい男がいたのかと驚いた。

ジェロラモ・カルダーノは、1501年、イタリアのパヴィアで生まれた。彼は私生児で、ミラノの住人だった母親は、ペストの流行を避けてパヴィアへ行き、彼を生んだ。父親は弁護士で、ダ・ヴィンチの友人だったという。
19歳のとき、ジェロラモはパヴィア大学に入学し、医学を学んだ。彼は大学卒業後、けんか腰の変わり者だという評判と、非嫡出の事実がついてまわり、なかなか定職に就けなかった。ミラノの医科大学に勤めたが、正式採用はされなかった。
44歳のとき代数学の論文『偉大なる術(Ars Magna)』を出版。このなかで、彼は3次方程式と、4次方程式の解き方を示した。この解法は、それぞれべつの数学者が発見したのを教わったもので、そのことはまえがきや本文にも記されているそうが、この本が画期的だったのは、当時は数学の解き方というのは、数学の師匠から弟子へ秘伝として伝えられるのが常識であったのを、こうやって学術論文として広く公表してしまった点だった。この旧習打破によって、どれだけ西洋科学の進歩が速まったか計り知れない。もちろんすくならかぬ非難や衝突があった。
また、この本のなかで、カルダーノは人類ではじめて、掛け合わせてマイナスになる数「虚数」の概念を示した。これも数学史の上で革命的なことだった。
52歳のとき、スコットランドのジョン・ハミルトン大司教を治療した。病に臥した大司教が治療不可能と思われていたのを治癒したことから、彼の名声は一気に高まった。
生涯にわたり生活が安定しなかったため、ギャンブルやチェスの試合を収入源にしていたカルダーノは、63歳のとき『チャンスのゲームの本(Liber de ludo aleae)』を執筆した。彼の死後に出版されたこの本は、はじめて書かれた体系的な確率論とされる。
カルダーノの業績は多岐に及び、流体力学の研究で功績があったほか、何桁かの数字を組み合わせで開くカギ「コンビネーション・ロック」の発明、ジャイロスコープのもととなるジンバルの発明、方向を変えて回転動力を伝えられるユニバーサル・ジョイント付きのドライブ・シャフトの発明など、現代でも用いられている発明が数々ある。
占星術家でもあった彼は、53歳のころにイエス・キリストのホロスコープを作図して出版していたが、その過去を69歳のときになってとがめられ、カルダーノは異端審問にかけられ、数カ月間投獄された。これは、3次方程式の解法を彼に教え、それを公表されて恨んでいた数学者タルターリアの陰謀だともいわれているが、カルダーノは教授職から身をひくことを余儀なくされ、釈放された後はローマへ移り、法王から年金をもらって暮らした。しかし、医師としての治療行為は亡くなるまで続け、1576年9月、ローマで没した。74歳だった。ということになっているが、没年については議論があり、彼はもっと後まで生きていたという異説も存在する。

英国の劇作家、バーナード・ショーのことばにこういうものがある。
「訳のわかった人は、自分を世の中に適合させる。分らず屋は自分に世の中を適合させようと頑張る。だからすべての進歩は分らず屋のお蔭である。」
カルダーノの生涯を見ると、まったその通りだなぁ、という気がする。
(2013年9月24日)




●おすすめの電子書籍!

『4月生まれについて』(ぱぴろう)
ダ・ヴィンチ、ブッダ、カント、ランボルギーニ、忌野清志郎、吉田拓郎など4月誕生の30人の人物論。短縮版のブログの元となった、より長く、味わい深いオリジナル原稿版。4月生まれの存在意義に迫る。

『7月生まれについて』(ぱぴろう)
バーナード・ショー、フリーダ・カーロ、プルースト、ジャクリーン・ケネディ、黒沢清、谷崎潤一郎など7月誕生の31人の人物論。7月生まれの存在意義とは。


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9月23日・ブルース・スプリングスティーンの火薬

2013-09-23 | 音楽
9月23日・ブルース・スプリングスティーンの火薬

9月23日は、音楽ユニット「B'z」のボーカル、稲葉浩志が生まれた日(1964年)だが、米国のシンガーソングライター、ブルース・スプリングスティーンの誕生日でもある。
自分がスプリングスティーンをはじめて聴いたのは学生のころで、すぐれているといううわさを耳にして、LPレコードの「明日なき暴走」を視聴もせず、いきなり買ってきて、聴いてみたのだった。すぐれていた。良心に訴えてくる音楽だと思った。

ブルース・フレデリック・ジョゼフ ・スプリングスティーンは、1949年、米国ニュージャージー州のロングブランチで生まれた。おとなしくて内向的な子どもだったという彼は、7歳でエルヴィス・プレスリーを聴き、ロック・ミュージックに目覚め、13歳のとき、ギターを弾きだし、16歳のころからバンドを組み、ライブ活動をはじめた。
レコード会社のオーディションを受け、23歳のときにファースト・アルバム「アズベリーパークからの挨拶」でデビュー。25歳の終わりに発表したサード・アルバム「明日なき暴走(Born to Run)」が大ヒットし、彼の人気は決定的なものとなった。
34歳のときに発表した7枚目のアルバム「ボーン・イン・ザ・U.S.A.(Born in the U.S.A.)」は世界中で大ヒットを記録し、スプリングスティーンは米国のみならず、世界を代表するロック・スターとなった。以後、活発に音楽活動を続け、アフリカの飢餓救済を目的とした「USA for AFRICA」の楽曲「ウィ・アー・ザ・ワールド」や、「アパルトヘイトに反対するアーティストたち」の楽曲「サン・シティ」に参加した。

スプリングスティーンは、こうコメントしている。
「俺は元来、孤独を好む傾向がある。金とか住む場所とか暮らし方とは関係なく、心理的な問題だ。親父もそうだった。(中略)ビールの6本入りパックとテレビさえあれば、他人と孤立できる人間はいくらでもいるさ。俺は、もともとその手の人間だったんだ。
 そんなとき音楽と出合い、自分のそういう性格を克服するために音楽にしがみついた。」(ヤン・S・ウェナー他編『「ローリング・ストーン」インタビュー選集』TOブックス)
こういう、本来陰にあるべき孤独な人間性を、無理やり前面に押しだしたアーティスト、それがスプリングスティーンなのだと思う。自分はそこにひかれる。

スプリングスティーンの歌詞は、米国の労働者階級の若者の心を刺激する、ことばの道具だてがみごとにそろっているという気がする。
たとえば「明日なき暴走」では、「アメリカン・ドリーム」「豪邸」「ハイウェイ」「孤独なライダー」「自殺マシーン」「きみの夢を守りたい」「愛」「ワイルド」「おれたちは走るために生まれた」。
いわば火薬のようなことばで、スプリングスティーンはこれを集め、調合するのが上手なのだと思う。でも、スプリングスティーンのすごいところは、そうしたことばを力をふりしぼり、心の底から誠実に歌いあげるところで、それによって歌に魂が吹き込まれる。自分などはその誠実な姿勢に打たれるのだと思う。
いまスプリングスティーンが37歳の年に出した「ザ・ライブ」(レコード5枚組、CDで3枚組)を聴きながら書いているのだけれど、やはり自分の良心は彼の手にわしづかみにされ、はげしく揺さぶられる。
(2013年9月23日)




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9月22日・アンナ・カリーナの眼差し

2013-09-22 | 映画
9月22日は、映画運監督の牧野省三が生まれた日(1878年)だが、映画女優、アンナ・カリーナの誕生日でもある。
自分がはじめてアンナ・カリーナを見たのは、映画「気狂いピエロ」でだった。スクリーンのなか、アンナ・カリーナの存在感は圧倒的で、しかも、彼女が発していたのは、ほかのどの女優にもない新しい種類の個性だった。

アンナ・カリーナは、1940年、デンマークのコペンハーゲンで生まれた。本名は、ハンネ・カリン・バイヤー。父親は船の船長で、母親は洋服店を3軒経営していた。
ハンネが1歳のとき、父親は妻子を捨てて出ていき、それからハンネは母方の祖父に預けられたり、一時的に里子に出されたりした後、再婚した母親のもとへ引き取られ、
落ち着かない幼年期をすごした。中学を中退したハンネは、エレベーターガール、イラストレーターの助手、映画のエキストラなどを務め、18歳のとき、短編映画「靴を履いた少女」に出演した。主人公の彼女のひとり芝居のようなこの作品はカンヌ国際映画祭に出品された。(四方田犬彦『ゴダールと女たち』講談社現代新書)
この作品を撮り終えると、すぐにハンネは母親と大げんかをして家を飛びだした。ヒッチハイクをして仏国パリへ渡った彼女は、ほとんど一文なしだったが、デンマーク人の牧師と知り合い、彼の世話でなんとか泊まる部屋を確保した。フランス語がまったくできなかった彼女は、映画館に入りびたり、同じ映画をわかるまで何べんも繰り返し観てフランス語を覚えた。
街角のカフェにすわっているところを、スカウトされ、彼女はモデルの仕事を得た。ファッション雑誌の撮影のとき、出会ったデザイナーのココ・シャネルが、彼女にこれからは「アンナ・カリーナ」と名乗るといい、とアドバイスをくれた。
アンナ・カリーナになった彼女は、あるとき石けんのテレビCMに出演した。これが映画監督のジャン・リュック・ゴダールの目にとまった。ゴダールは映画「小さな兵隊」で彼女を女スパイ役に起用し、これが彼女の長編映画デビュー作となった。
カリーナはその後、「女は女である」「女と男のいる舗道」「アルファヴィル」と、立て続けにゴダール作品に出演し、25歳のとき、ゴダール監督のカラー作品「気狂いピエロ」に主演した。ベルモンドとカリーナが恋と犯罪の逃避行を続ける映画「気狂いピエロ」は、ヌーヴェルバーグの最高傑作とも言われ、映画史に残る歴史的名作となった。
21歳の年にカリーナはゴダールと結婚。27歳のときに離婚した。
その後も彼女は、ジャック・リヴェット監督の「修道女」、ルキノ・ヴィスコンティ監督の「異邦人」、トニー・リチャードソン監督の「悪魔のような恋人」など多くの映画に出演し、映画監督として「ともに生きる」「ヴィクトリア」などを撮っている。

自分は、アンナ・カリーナの出演作では「女と男のいる舗道」と「気狂いピエロ」が印象に強く残っている。とくに「気狂いピエロ」は、アンナ・カリーナのために作られたような映画で、自分は20回以上は見ている。

それにしても、中学中退、十代でお金も持たずに家出し、ヒッチハイクして行った異国でモデルになり、世界的な映画女優になったという人生経緯には驚かされる。人生、一寸先は光。彼女が時代をつかみ、時代がまた彼女をつかんだ、そういうことなのかもしれない。その経歴といい、そのパーソナリティーといい、アンナ・カリーナという存在は、ひとつの奇跡だという気がする。
2000年の夏、59歳の彼女は来日して、リサイタルを開いた。ステージの終わりに、「気狂いピエロ」のなかで歌った「私の運命線」を歌ったそうだ。
(2013年9月22日)




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ブローデル、バーンスタイン、マドンナ、ヘルタ・ミュラー、シャネル、モンテッソーリ、アポリネール、ゲーテ、マイケル・ジャクソン、宮本常一、宮沢賢治など8月誕生31人の人物論。8月生まれの人生とは?


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9月21日・H・G・ウェルズの視覚イメージ

2013-09-21 | 文学
9月21日は、ロックバンド「オアシス」のリアム・ギャラガーが生まれた日(1972年)だが、やはり英国のSF作家、H・G・ウェルズの誕生日でもある。『タイム・マシン』『透明人間』などを書き、「SFの父」と呼ばれた人である。
自分は小学生のころ、SF小説を読み、ウェルズにも親しんだ。近年では『宇宙戦争』をスティーヴン・スピルバーグ監督がトム・クルーズ主演で映画化していて、ウェルズはいまもって新しい作家だが、自分にとっては、とてもなつかしい。

ハーバート・ジョージ・ウェルズは、1866年、英国イングランドのブロムリーで生まれた。父親は庭師をした後に、陶器やスポーツ用品を売る店を経営しだし、地元のクリケットチームでプレイもしていた。ハーバートは、4人きょうだいの末っ子だった。
8歳のとき、足の骨を骨折して寝たきりになったとき、ハーバートは本を読むようになり、それが彼を空想好きの少年にし、書くことへ興味を向けさせた。
奨学金を得て、ロンドンの学校で生物学を修め、ロンドン大学で動物学の学位を取得した後、23歳のころ、私立学校の教師となった。
結核になり、英国南東部の保養地フォークストンで療養した後、ロンドンへもどったウェルズは、「サタデー・レビュー」誌の編集長と知り合い、それが縁で科学ライターとして原稿を書くようになった。雑誌に寄稿しながら、SF小説を書いた。
29歳のとき出版した『タイム・マシン』がベストセラーとなり、ウェルズは一躍売れっ子作家となった。以後、『モロー博士の島』『透明人間』『宇宙戦争』『月世界最初の人間』など、だいたい1年に1作ペースでSF小説を発表していき、仏国のジュール・ヴェルヌと並び称されるSF小説のパイオニアとなった。
36歳のとき、社会主義団体のフェビアン協会に入会。そのころから『アン・ヴェロニカの冒険』『トーノ・バンゲイ』『ポーリー氏の生涯』といった社会問題を扱った風俗小説を書くようになった。
1946年8月、ロンドンで没した。79歳だった。

ウェルズの名作『タイム・マシン』を、自分は『名作英語の名文句』で取り上げた。『タイム・マシン』の冒頭の、科学について紳士たちが議論する風景もいいが、『透明人間』の書きだしも、自分はなつかしい。寒い日、吹雪のなかを、宿屋にひとりの男性客がやってくる。帽子を深くかぶり、サングラスをかけ、顔をマフラーでおおった男は金貨を出して、部屋に案内される。部屋の暖炉に火がともり、暖かくなっても、その男はなかなか帽子も外套も脱ごうとしない。あるとき宿の女将が盗み見ると、帽子をとった男は、頭のてっぺんまで包帯を巻いていた。
透明人間と聞けば、誰もが思い描く、このイメージは、ウェルズが創造したものだった。斬新、かつ、後世に長く読み継がれる古典の視覚イメージは、かくも強烈なものかと感心する。偉大なクリエイターだったと思う。
(2013年9月21日)



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