1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

1月31日・ジョン・ライドンの光

2019-01-31 | 音楽
1月31日は、作家、大江健三郎が生まれた日(1935年)だが、ロックミュージシャンのジョン・ライドン(またはジョニー・ロットン)の誕生日でもある。伝説のパンク・ロック・バンド「セックス・ピストルズ」を率いたヴォーカリストである。

ジョン・ライドンは、1956年1月31日、英国ロンドンで、貧しいアイルランド移民の息子として生まれた。アイルランド系、ジャマイカ系の貧困層が暮らす、犯罪の多い地区で育った。7歳のころ、ジョンは髄膜炎をわずらい1年ほど入院した。その期間、幻覚や吐き気、頭痛に悩まされつづけた。
学校へ通うようになったジョンは、ひじょうに恥ずかしがりで内気な少年で、体罰がこわくて、授業中「トイレに行きたい」と言いだせず、ズボンのなかに便をもらして、そのまま一日中がまんしていたこともあったという。
19歳のとき、ジョンは、ピンク・フロイドのTシャツに、自分で「おれは嫌いだ」と書き足したものを着て街を歩いていてスカウトされた。
ピストルズは、企画され、作られたバンドである。ジョンはボイス・トレーニングのレッスンに通い、スタジオで練習を重ねた後、20歳のとき、ロック・バンド「セックス・ピストルズ」としてデビュー。その荒々しい音楽と反体制的な歌詞で、圧倒的な注目を集めた。
21歳のとき、ピストルズのデビューアルバム「勝手にしやがれ(原題は『安心しろ、キンタマ』といった意味)」を発表。収録された楽曲は煽情的、反抗的な歌詞のオンパレードで、作詞はすべてジョニー・ロットンによる。ジョンは巻き舌で歌った。
「おれは反キリストだ。おれは無政府主義者だ」(アナーキー・イン・ザ・UK)
「英国の夢に未来ない。おまえたちに未来はない」(ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン)
彼らの楽曲は物議をかもした。ゲリラライブを敢行し、逮捕されたこともある。
ジョンたちの反体制的なスタイルは商業上の営業戦略だったが、保守的な人々の怒りを買った。ジョンはロンドン街を歩いていてナイフで切りつけられ、ナタでひざを割られた。
ピストルズは一世を風靡したが、短命だった。バンドが米国ツアー中の1978年、ジョンが、22歳になる直前、バンドからの脱退を宣言。バンドは空中分解となった。
セックス・ピストルズのボーカリストだったころは、ジョニー・ロットン(「腐ったジョニー」の意味)と呼ばれていたジョンは、ピストルズを脱退して、ジョン・ライドンになった。彼はパブリック・イメージ・リミテッド(PiL)を結成。パンクとは異なる、知的に構成された新しい音楽を追求しだし「メタル・ボックス」「ライブ・イン・東京」などを発表。そのスマートな知性と、時代の何年も先をゆくセンスを示した。

セックス・ピストルズをはじめてテレビで観たときの衝撃は忘れられない。騒音的なサウンド。両手を重ねてマイクをにぎり、マイクスタンドにすがりつくように、足をふらつかせ、目と歯をむき出して憎々しげに歌うジョニーのヴォーカルスタイルは斬新だった。一語一語の音を誇張し、ドイツ人のような巻き舌で歌う英語も特徴的だった。
すぐに「勝手にしやがれ」を買い、夢中になって聴いた。不良で、頭がよくて、獣のようにしなやかで。ジョニー・ロットンは青春の光だった。
(2019年1月31日)



●おすすめの電子書籍!

『ロック人物論』(金原義明)
ロックスターたちの人生と音楽性に迫る人物評論集。エルヴィス、ディラン、レノン、マッカートニー、ペイジ、ボウイ、スティング、マドンナ、ビョークなど31人を取り上げ、分析。意外な事実、裏話、秘話、そしてロック・ミュージックの本質がいま解き明かされる。


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http://www.meikyosha.com


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1月30日・ブローティガンの生

2019-01-30 | 文学
1月30日は、マンガ「サザエさん」の作者、長谷川町子が生まれた日(1920年)だが、作家、リチャード・ブローティガンの誕生日でもある。

リチャード・ブローティガンは、1935年、米国ワシントン州タコマで生まれた。
父親は工場労働者で、母親はウェイトレスだった。両親はリチャードが生まれる8カ月前に別れ、誕生したリチャードはべつの男と暮らす母親といっしょに暮らし、育った。
子どものころ、ブローティガンの家はとても貧しく、生活保護を受けていた。何日も食べ物なしですごしたこともあるという。
しかし、彼は大きくなった。ブローティガンの身長は193センチメートルあり、高校時代は、学校新聞の記者をしながら、バスケットボール部でも活躍した。
20歳のとき、ブローティガンは警察署の窓に石を投げこんで、現行犯逮捕された。これは、刑務所に入って食事にありつこうという魂胆からの犯行だったが、彼の目論見に反して、彼は25ドルの罰金を課された上、病院に入れられた。
精神科の医師は、偏執性の統合失調性と抑鬱症と診断を下し、ブローティガンは電気ショック療法を12回受けたという。
やがて退院したブローティガンは、いったんオレゴンの母親と、母親の再婚相手のもとで、いっしょに暮らした後、ひとり家をでてサンフランシスコに住み着いた。
サンフランシスコで、ミニコミ紙などに記事を書いていたブローティガンは、詩や小説を書きため、22歳のときに最初の詩集を出版した。そして、29歳のとき、小説『ビッグ・サーの南軍将軍』を発表。
32歳のとき、小説『アメリカの鱒釣り』を出版。この作品は全世界で400万部以上を売るベストセラーとなり、ブローティガンの名を一躍高らしめた。
以後、『西瓜糖の日々』『愛のゆくえ』『芝生の復讐』『バビロンを夢見て』『東京モンタナ急行』『ハンバーガー殺人事件』『不運な女』などを発表した後、1984年9月、カリフォルニア州ボリナスで自殺した。49歳だった。

1970年代の米国文学の風、カート・ヴォネガットとブローティガンは、どちらもユーモアと風刺精神に満ちた「新しい小説」を書く作家だった。ヴォネガットのほうが、より厭世的、皮肉的であるのに対し、ブローティガンのほうが、より楽観的、感傷的である。村上春樹や高橋源一郎らは彼らに強い影響を受けた。

ブローティガンはアルコール依存と抑鬱症に苦しみ、自殺したいといつも口にしていた人だった。彼は、ひとり暮らしの自宅で、44口径のマグナム銃で自分の頭を撃ち抜いた。遺体が発見されたのは、自殺してひと月以上たってからだった。

ブローティガンは、2度結婚し、2度とも離婚していて、2度目の奥さんは日本人女性だった。いずれの結婚生活も長くはつづかなかった。やはりアルコール依存と不安定な精神状態が障害になったようだ。『愛のゆくえ』の原題は、The Abortion (人口中絶)である。
ブローディガン文学のやさしさは、重たく苦い生に裏打ちされていた。
(2019年1月30日)


●おすすめの電子書籍!

『世界文学の高峰たち 第二巻』(金原義明)
世界の偉大な文学者たちの生涯と、その作品世界を紹介・探訪する文学評論。サド、ハイネ、ボードレール、ヴェルヌ、ワイルド、ランボー、コクトー、トールキン、ヴォネガット、スティーヴン・キングなどなど三一人の文豪たちの魅力的な生きざまを振り返りつつ、文学の本質、創作の秘密をさぐる。


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1月29日・ロマン・ロランの神

2019-01-29 | 文学
1月29日は、神秘思想家エマーヌエル・スヴェーデンボルグ1688年が生まれた日だが、作家、ロマン・ロランの誕生日でもある。世界文学の最高峰『ジャン・クリストフ』『魅せられたる魂』の作者である。

ロマン・ロランは、1866年、フランスのクラムシーに生まれた。父親は公証人で、ロマン・ロランが14歳のとき、一家はパリに引っ越した。高等師範学校をでたロランは、歴史や美術史、芸術史を学校で教えながら、雑誌に文章を発表。
33歳のとき『ベートーヴェンの生涯』を発表。
好評だったこの評伝を足掛かりに、ベートーヴェンをモデルとした音楽家を主人公に据え、彼の生まれてから死ぬまでの一生を描ききる大長編小説を書くことを決意。それが、38歳から46歳のころにかけて書きつづけた長編『ジャン・クリストフ』である。
『ジャン・クリストフ』を執筆後は、教師をやめ、執筆に専念した。
49歳のとき、ノーベル文学賞受賞。
56歳から67歳にかけて、長編『魅せられたる魂』を執筆。
生涯を通じ一貫して、戦争反対、ファシズム反対、ヒューマニズムを訴え、国際社会に向けて発言しつづけた。日本の満州侵略はもちろん非難したし、ナチスが台頭していたドイツからのゲーテ賞授与を拒否した。
シュバイツァー、アインシュタイン、ヘルマン・ヘッセ、マハトマ・ガンジー、タゴールらと交友関係をもち、ラーマクリシュナや、ヴィヴェカーナンダなどインドの聖人についての評論も書いた後、1944年12月、フランスのヴェズレーで没した。78歳だった。
作品は上記のほかに『ミケランジェロの生涯』『ラーマクリシュナの生涯』などがある。

若いころに『ジャン・クリストフ』を読んだ。大長編を読み終えた後の、あの大きな感動はちょっとことばにできない。
『クリストフ』の、主人公クリストフの青年時代を描いたくだりにたしか、彼が神さまの声を聞く場面があった。クリストフが、どうして自分はこんなに苦しみ、悩まなくてはならないのか、と苦悶していると、そこへ神さまの声が聞こえてくる。神さまはこういう意味のことを語りかけていた。
「クリストフ、悩みなさい。苦しみなさい。悩み、苦しむむこと。それこそが、わたしがおまえに望むことなのだ」

長編を書くには強靱な体力と精神力を要求される。ロマン・ロランはそういう力のたくましい人だった。
(2019年1月29日)



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『世界文学の高峰たち』(金原義明)
世界の偉大な文学者たちの生涯と、その作品世界を紹介・探訪する文学評論。ゲーテ、ユゴー、ドストエフスキー、ドイル、プルースト、ジョイス、カフカ、チャンドラー、ヘミングウェイなどなど。文学の本質、文学の可能性をさぐる。


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1月28日・コレットの先駆

2019-01-28 | 文学
1月28日は、日本SF界の巨匠、小松左京が生まれた日(1931年)だが、女流作家コレットの誕生日でもある。

シドニー=ガブリエル・コレットは、1873年、スランス、ブルゴーニュ地方のサン=ソーヴル=アン=ピュイゼーで生まれた。父親は戦闘で片足を失った元陸軍軍人だった。
小さいころからバルザック、ジョルジュ・サンドを読んでいたガブリエルは、学校を出て20歳のときに批評家のウィリー(本名アンリ・ゴーチェ=ヴィラール)という14歳年上の中年男と結婚し、パリで暮らしはじめた。
立派な口ひげをたくわえたウィリーは、自分では書かず、何人かのゴーストライターに指示して演劇批評や音楽評論、小説を書かせ、上がってきた原稿を手直しして「ウィリー著」として発表する著述業をしていたが、彼があるとき、妻ガブリエルが書き散らしたノートを見つけた。ノートは、彼女が学校時代を思いだして書いたものだった。
「そして彼はノートのひとつをパラパラとめくりながら『悪くないぞ』。さらに一冊、また一冊、と開いてゆき……ついにこう叫んだ、『いやあ! 俺はなんて間抜けなんだ!」。そして、額の平べったい帽子をむんずとつかみ、出版社にむけて駆けていった。もっともあとで、方言や、子供の悪戯や、レスビエンヌの雰囲気をいくらか加筆して、『ちょっと刺激的な』物語にすることをすすめたのだったが。」(ハーバート・ロットマン著、工藤庸子訳『コレット』)
ウィリーの新作として発表された小説『学校のクロディーヌ』は、1900年、ガブリエルが27歳のときに発表された。主人公クローディーヌをめぐる少女たちや教師たちの同性愛を含む性愛模様を描いた小説は大好評を博し、ウィリーは一躍人気作家となった。
自分で書かないウィリーは、妻ガブリエルを部屋に閉じ込め、続編を書かせ、クローディーヌ・シリーズは大ヒットし、クローディーヌの化粧クリームやキャラクター商品までが出まわる人気となった。妻に原稿を書かせ、夫ウィリーは愛人と浮気を楽しんでいた。
31歳のとき、彼女は「コレット・ウィリー」と自分の名前が入ったはじめての著書『動物の対話』を出版。そして33歳のとき、彼女はウィリーと離婚し、恋愛関係にあった男爵夫人の家に身を寄せた。コレットはパントマイムの舞台に立って稼ぎながら、小説を書いた。彼女のパントマイム劇「柔肌」には、けんかをする男がコレットの服を引き裂き、彼女の乳房が観客の前に現れるというセンセーショナルな場面があり、地元警察からは胸を隠すよう通達があり、舞台は公演に行った先々で絶賛の嵐を呼んだ。
舞台の仕事で生活を支えながら、彼女は小説を書きつづけ、37歳のとき『さすらいの女』を発表。その後も、コレットは同性とも異性とも関係をもち、結婚と離婚を繰り返しながら、体験をベースにした創作『きずな』『シュリ』『シュリの最期』『シド』『ジジ』『牝猫』などを書いた。パリでたまたま見かけたオードリー・ヘップバーンを米ブロードウェイで舞台化された『ジジ』の主役に抜擢したコレットは、アカデミー・ゴンクールの会長を務め、レジオン・ドヌール勲章を受けた後、1954年8月、パリで没した。81歳だった。国葬が営まれた。

コレットは、いろいろな面で、ずいぶん先を歩いていた先駆者だった。未来からやってきた女性、という気さえする。
(2019年1月28日)


●おすすめの電子書籍!

『女性解放史人物事典 ──フェミニズムからヒューマニズムへ』(金原義明)
平易で楽しい「読むフェミニズム事典」。女性の選挙権の由来をさぐり、自由の未来を示す知的冒険。アン・ハッチンソン、メアリ・ウルストンクラフトからマドンナ、アンジェリーナ・ジョリーまで全五〇章。人物事項索引付き。フェミニズム研究の基礎図書。また女性史研究の可能性を見通す航海図。


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1月27日・モーツァルトの才

2019-01-27 | 音楽
1月27日は、「マゾヒズム」の名称の由来である作家ザッヘル・マゾッホが生まれた日(1836年)だか、至上の音楽家、モーツァルトの誕生日でもある。

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは、1756年、神聖ローマ帝国(現在のオーストリア)のザルツブルグで生まれた。父親は宮廷音楽家で、ヴォルフガングは7人きょうだいの末っ子だった。
音楽家の父親によって、その才能を見いだされたモーツァルトは、幼いころから音楽の英才教育を受け、父親といっしょにヨーロッパ各地を演奏旅行してまわった。
6歳のときには、宮殿で帝国の女王、マリア・テレジアの前で演奏した。演奏後、宮殿内でころんだ彼のところへ、やさしく手を差し伸べてくれた7歳の皇女マリー・アントワネットに、感激したモーツァルトは結婚を申し込んだという。
モーツァルトは、王族や貴族、聖職者からの作曲の依頼や、演奏会、音楽の家庭教師、オペラの作曲、楽譜の出版などで生計を立てて生きた。
本人も天分に恵まれていることを認める、自他ともに許す音楽の天才だった。彼はいちど聴いた曲を完全に覚えていて、後で楽譜に書きだせた。目隠ししてもピアノが演奏できた。
本人は作曲に関しては長い時間の研究と思考を捧げたと告白しているが、一方で、作曲する際には、最初から全曲の全パートの譜面が頭のなかに浮かび、あとはそれを紙の上に書き写すだけでよかったとも言われる。
「アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク(小夜曲)」など数々の室内楽の名曲、3大交響曲といわれる交響曲第39番、第40番、第41番のほか、オペラでは「フィガロの結婚」「ドン・ジョヴァンニ」「魔笛」、そして未完成の「レクイエム」などを書いた後、1791年12月、ウィーンで没。共同墓地に埋葬された。35歳だった。

モーツァルトの若すぎる死については、ライバルの音楽家による毒殺説もあり、それを映画化したのが、ミロス・フォアマン監督の映画「アマデウス」である。この映画でモーツァルト役を演じた俳優トム・ハルスは、軽薄で快活、冗談好き、猥談好きなモーツァルトを再現しようとして、米国のテニス・プレイヤー、ジョン・マッケンローの試合中の落ち着きのない行動を、テレビ録画で繰り返し見てまねたという。

日本人は、モーツァルトが大好きである。それは、その音楽の美しさもさることながら、誰もが認める「天才」ということで、安心して聴ける「安全商品」だからかもしれない。とくに最近は、モーツァルトを聴くと頭がよくなるとか、頭のいい子に育つとかいう評判もあって、モーツァルトのCDを買いあさって、片っ端から子どもに聴かせている親というのも、すくなからずいるようだ。動機はどうあれ、もちろん悪いことではない。
(2019年1月27日)


●おすすめの電子書籍!

『大音楽家たちの生涯』(原鏡介)
古今東西の大音楽家たちの生涯、作品を検証する人物評伝。彼らがどんな生を送り、いかにして作品を創造したかに迫る。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ショパンから、シェーンベルク、カラヤン、ジョン・ケージ、小澤征爾、中村紘子まで。音の美的感覚を広げるクラシック音楽史。


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1月26日・盛田昭夫の楽観

2019-01-26 | ビジネス
1月26日は、タレントの所ジョージが生まれた日(1955年)だが、ソニーの共同創立者、盛田昭夫の誕生日でもある。

盛田昭夫は、1921年、愛知県の造り酒屋の家に生まれた。昭夫が店を継げば、第15代目当主となるはずの古い家柄だった。
23歳で大阪帝国大学の理学部物理学を卒業した盛田は、海軍の技術中尉となり、24歳のときに、海軍で井深大(いぶかまさる)と知り合った。知り合ってすぐ敗戦となり、敗戦翌年の1946年、井深と盛田は東京通信工業という会社を興した。これが現在のソニーで、SONYの名前は、英語の「音(sound, sonic)」の語源であるラテン語の「Sonus」と、アメリカで男の子を呼ぶときの「ソニー(Sonny)」をかけ合わせたものだという。
ソニーの井深と盛田は、海軍時代の経験から、国家プロジェクトと結びついた巨大企業に戦いを挑むことを避け、民間向け、一般消費者向けの製品開発を目指した。
開発費や社員の給与など、メーカーの研究費、維持費は莫大で、はじめのころは、ソニーの社員の給料は、盛田の実家からでていたともいう。そうやってやりくりして、ソニーは、日本初のテープレコーダーを作り、日本初のトランジスタラジオを作った。
ソニーはアメリカへ進出。39歳のとき、盛田はソニー・アメリカの社長となり、日本の企業としてはじめてアメリカで株式を発行した。そして、42歳のとき、彼は家族を連れてニューヨークへ引っ越し、アメリカの市場開拓に真剣にとりくみだした。
ウォークマンの大ヒット、ベータマックスの法廷闘争などをへて、ソニーを世界企業に育て、アップルのスティーブ・ジョブズが教えを乞いに来るなど、世界でもっとも尊敬される企業にした盛田昭夫はソニーの社長、会長を歴任し、1999年10月、肺炎のため没した。78歳だった。

盛田昭夫は、日本国内だけでなく、世界の人々から敬愛されたビジネスマンだった。
理学部物理科出身の技術者なのに、セールスマンとして先陣をきって世界市場を駆けまわった。スポーツマンで、社交家で、勉強家だった。
よくテレビのドキュメンタリー番組などにも出演し、快活で、よくしゃべる、スマートな人物だった。盛田は言っている。
「私は楽観主義者である。われわれがそのためにベストをつくして努力しさえすれば、平和で偉大な未来は必ずわれわれのものとなるだろう」(盛田昭夫他『MADE IN JAPAN』朝日文庫)
彼の楽観論は「そのうちなんとかなるだろう」という「果報は寝て待て」論ではなく、
「強い意志をもち、努力をつづけるなら、かならず未来はよくなる」
という信念である。現代日本では見失われがちな信念である。
(2019年1月26日)



●おすすめの電子書籍!

『ビッグショッツ』(ぱぴろう)
伝記読み物。ビジネス界の大物たち「ビッグショッツ」の人生から、生き方や成功のヒントを学ぶ。フェイスブックのマーク・ザッカーバーグ、ソフトバンクの孫正義から、デュポン財閥のエルテール・デュポン、ファッション・ブランドのココ・シャネル、金融のJ・P・モルガンまで、古今東西のビッグショッツ30人を収録。大物たちのドラマティックな生きざまが躍動する。

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1月25日・北原白秋の魔術

2019-01-25 | 文学
1月25日は、作家サマセット・モームが生まれた日(1874年)だが、詩人、北原白秋の誕生日でもある。

北原白秋こと、北原隆吉は、1885年、福岡県の柳川で生まれた。家は江戸時代からつづく海産物問屋の大店で、酒の醸造と米の精米をする地方有数の商家だった。
ほんとうは白秋の上に長男がいたが、生後間もなく死んだので、隆吉は「トンカ・ジョン(良家の長男の意)」と呼ばれ、長男として育てられた。
文学好きの隆吉は、16歳のときに雅号を「白秋」と決めた。そのころ、町の62戸が消失したという大火事に巻き込まれ、彼の家の酒倉が全焼するという災難に見舞われた。酒だけに火ははげしく延々と燃えた。北原家では、借金をして、新たに酒倉を再建したが、このときの借金が重くのしかかり、北原家はしだいに傾きだした。
白秋は19歳のとき上京。早稲田大学の予科に入り、学報や同人誌などに詩を投稿し、いよいよ詩人としての活動を開始した。24歳のとき、処女詩集『邪宗門』を出版。官能的、耽美的なこの象徴詩によって文学界に衝撃が走った。
同じ年、柳川の実家が破産。家族は白秋を頼って上京してきた。
26歳のとき、第二詩集『思ひ出』出版。この詩集は、日本文学史上、もっとも成功した詩集ともいわれ、白秋の名声は一気に高まった。
27歳のとき、人妻と恋愛関係ともち、相手の夫から姦通罪で訴えられ、白秋は2週間拘置所に入った。出所した白秋は、自殺しに神奈川県の三浦三崎へ行った。2週間滞在したが、結局自殺は果たせなかった。白秋はこのときの心境についてこう述べている。
「どんなに突きつめても死ねなかつた、死ぬにはあまりに空が温く日光があまりに又眩しかつた」(「ザンボア後記」『新潮日本文学アルバム北原白秋』新潮社)
このどん底の状況から、白秋は書きはじめた。
以後、歌集『桐の花』、詩集『白金之独楽』、歌集『雲母集』、詩集『水墨集』、詩集『海豹と雲』などを出版。並行して数多くの童謡を書き、関西学院大学、大正大学、同志社大学、駒澤大学ほか多数の大学、学校の校歌を作詩した。
52歳のとき、糖尿病と腎臓病の合併症による眼底出血により視力喪失。以後は口述筆記で詩歌を詠んだ。1942年11月、糖尿病、腎臓病の悪化により死去。57歳だった。
困難と闘った苦闘の人生であり、才能を華々しく輝かせた人生でもあった。

北原白秋こそわが「詩聖」である。『邪宗門』『思ひ出』の復刻版をペーパーナイフで切り開きつつ読んでいる。巡礼として九州・柳川の白秋生家も訪ねた。

「われは思ふ、末世の邪宗、切支丹(きりしたん)でうすの魔法。
黒船の加比丹(かひたん)を、紅毛の不可思議国を、
色赤きびいどろを、匂鋭(にほひと)きあんじやべいいる、
南蛮の桟留縞(さんとめじま)を、はた阿刺吉(あらき)、珍た(ちんた)の酒を。」(「邪宗門秘曲」『邪宗門』)

白秋は日本語の魔術師だった。
(2019年1月25日)



●おすすめの電子書籍!

『出版の日本語幻想』(金原義明)
編集者が書いた日本語の本。問題集の編集現場、マンガ編集部、書籍編集部で、本はどんな風に作られているのか? そこの日本語はどんな具合か? 涙と笑いの編集現場を通して、出版と日本語の特質、問題点を浮き彫りにする出版界遍歴物語。「一級編集者日本語検定」収録。


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1月24日・ホフマンの不屈

2019-01-24 | 文学
1月24日は、1848年のこの日に米国の現在のカリフォルニア州コロマで、金が発見され、ゴールドラッシュがはじまった日だけれど、作家ホフマンの誕生日でもある。

エルンスト・テオドール・アマデウス・ホフマンは、1776年、プロイセン王国のケーニヒスベルクに生まれた。出身地は現在はロシア領となっている土地である。
法律家の家系に生まれたホフマンは、司法試験に合格し、裁判所の判事となった。転勤していった各地の法廷で、判事の仕事をこなしながら、絵画を描き、オペラを作曲した。
30歳のとき、彼は妻子とともにワルシャワにいたが、そこへフランスのナポレオン軍が進駐してきた。これによって、プロイセン行政府の役人はみな失職し、ホフマンもとうぜん失業した。ホフマンは、妻子を縁者のもとに残し、単身ベルリンへでたが、そこもまたナポレオンの支配下にあり、ホフマンの生活は困窮した。
一文なしの彼は、友人に借金を重ね、それでもしばしば飢え死にしそうになった。そして、妻のもとにいた娘が亡くなったという報せを受けたのもこのころだった。
人生のどん底にいた32歳のとき、彼は妻をともなってバンベルクへ引っ越し、そこで劇場の音楽指揮者の職についた。
33歳のとき、小説『騎士グルック』を発表し、これによってようやく運が開けてくる。
ホフマンは劇場の音楽の仕事のかたわら、文筆活動も活発におこなうようになり、彼のオペラの代表作「ウンディーネ」を作曲し、『黄金の壺』を書いた。
その後、音楽の仕事をやめたホフマンは、38歳のとき、ふたたび判事にもどった。
そうして、法律関係の官僚として働きながら著述もつづけ、1822年6月、ベルリンで没した。46歳だった。

ホフマンの人生は、彼の書いた小説のように幻想的で起伏に富んでいる。
13歳のとき起こったフランス革命のあおりで、社会状況が激変をつづけるなか、しょっちゅう失業し、無一文の絶望的な状況に追い込まれたこともあった。それでも、法律、音楽、また法律と業種を変えて働きながら、並行して旺盛な筆力でたくさんの作品を書き残した。
多才で、けっしてくじけない、前へ進む強い意志の人である。
ちなみに、ホフマンの名前にある「アマデウス」は、天才音楽家アマデウス・モーツァルトへのオマージュとして、ホフマン自身が自分で付け加えたものである。

若いころから幻想小説が好きで、泉鏡花はもちろん、渋沢龍彦とか、ハウプトマンとか、あるいは、このホフマンなどを読んでいた。
ホフマンだと『黄金の壺』『砂男』『スキュデリー嬢』『くるみ割り人形とねずみの王様』『ブランビラ姫』『牡猫ムルの人生観』などを読んだ。『牡猫ムルの人生観』を意識して、おそらく夏目漱石は『吾輩は猫である』を書いたのだろう。

ホフマン作品は、まず構想が奇想天外で、文章に、読者にページをめくらせる腕力のようなものが感じられる。小説に勢いがある。知人のドイツ文学の教授は『砂男』が好きだと言っていた。それと、やはり『黄金の壺』をおすすめしたい。
(2019年1月24日)



●おすすめの電子書籍!

『世界文学の高峰たち』(金原義明)
世界の偉大な文学者たちの生涯と、その作品世界を紹介・探訪する文学評論。ゲーテ、ユゴー、ドストエフスキー、ドイル、プルースト、ジョイス、カフカ、チャンドラー、ヘミングウェイなどなど。文学の本質、文学の可能性をさぐる。


●電子書籍は明鏡舎。
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1月23日・ジャイアント馬場の奮起

2019-01-23 | スポーツ
1月23日は、至上の作家スタンダールの誕生日(1783年)だが、プロレスラー、ジャイアント馬場の誕生日でもある。

「ジャイアント馬場」こと馬場正平(ばばしょうへい)は、1938年、新潟県の三条市で生まれた。4人きょうだいの末っ子で、兄がひとり、姉が2人いた。年の離れた兄は、正平が5歳のとき、ガダルカナル島で戦死した。
生家の家業は八百屋で、残った男手である正平は、子どものころから早起きして、母親がリヤカーにくだものや野菜を積んで朝市へ行くのを押して手伝った。小学校三年生のころから急に背が伸びだした正平は、野球に熱中した。
苦しい家計を助けるために、正平は中学卒業後に就職を希望したが、母親に説得され、地元の実業高校に進学した。高校入学時、身長が190センチメートルあった。
高校二年のとき、馬場正平は甲子園出場を逃したが、新潟県内でも注目される大物ピッチャーとなり、プロ野球の読売ジャイアンツからスカウトされた。そこで彼は高校を二年で中退し、巨人軍に入団、上京した。
巨人軍の二軍に入った馬場の身長は2メートル9センチあった。二階から投げ下ろす剛球で頭角を現し、一軍の試合に出た。そんな矢先、急に眼が悪くなり、検査の結果、脳腫瘍と診断された。脳内にできた腫瘍が視神経を圧迫していたのだった。
99パーセント失敗すると医師に言われた手術を受けると、手術は奇跡的に成功、馬場は球団の練習にもどった。が、馬場は球団から解雇された。ただちに他球団の入団テストを受け、採用の内定を受けたが、風呂場で大けがをし、内定はご破算になった。

プロ野球選手の道をあきらめた馬場は、途方に暮れた。が、実家へ帰ってこいという母親の誘いは断った。ふと彼は大きなからだをプロレスで生かすことを思いつき、日本にプロレスブームを巻き起こしていた力道山を訪ね、弟子入りを直談判した。力道山は入門試験として、馬場にヒンズースクワットを百回やるよう命じた。なんとかやりとげ、馬場は弟子入りを許された。馬場、22歳。5つ年下のアントニオ猪木と同期生となった。
力道山の猛烈なしごきに耐え、リングデビューを果たした馬場は、23歳で単身米国へ武者修行に旅立った。まだ反日感情が強く残る米国で、馬場は反則に頼らない正統派ストロングスタイルのレスラーであることを貫いた。流血と生傷の絶えない武者修行を続けた結果、「ジャイアント馬場」の名は広く知られ、彼は異国での信用を得、人脈を広げた。
師・力道山が39歳という若さで急逝すると、ジャイアント馬場は、豊登(とよのぼり)や、アントニオ猪木とともに日本プロレスの看板選手として日本プロレス界を支えた。その後、プロレス団体が分裂しだすと、馬場は34歳で全日本プロレスを立ちあげ、スター選手として、また興行をおこなうプロレス会社の社長として活躍しつづけた。
世界最高峰のNWA世界ヘビー級王座に3度輝き、60歳までリングに上がりつづけ、生涯で通算5769試合を戦ったこのプロレス界の巨人は、1999年1月、入院していた東京の病院で没した。死因は大腸がんの転移による肝不全。61歳だった。

巨体と卓越した運動神経、それに鍛錬の人だった。しかし、肉体以上に、精神がタフだった。運命のいたずらでいく度も絶望のどん底に突き落とされたが、そのたびに奮起し、そこから這い上がった。苦難から立ち上がる闘志。そして、つねに変わらぬ、他人への誠実さ。そうしたものが大きな背骨を支えていた。真に巨人と呼ぶべき人物だった。
(2019年1月23日)




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『アスリートたちの生きざま』(原鏡介)
さまざまなジャンルのスポーツ選手たちの達成、生き様を検証する人物評伝。嘉納治五郎、ネイスミス、チルデン、ボビー・ジョーンズ、ルー・テーズ、アベベ、長嶋茂雄、モハメド・アリ、山下泰裕、マッケンロー、本田圭佑などなど、アスリートたちの生から人生の陰影をかみしめる「行動する人生論」。


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1月22日・ストリンドベリの腕力

2019-01-22 | 文学
1月22日は、英国ロマン派の詩人バイロン卿が生まれた日(1788年)だが、スウェーデンの劇作家ストリンドベリの誕生日でもある。

ヨハン・アウグスト・ストリンドベリは、1849年、スウェーデンの首都ストックホルムで生まれた。父親はもとは裕福な商人だったが、ヨハンが生まれたころにはすっかり落ちぶれていた。父親は元女中だった女性に次々と子どもを産ませながら、籍も入れずにいたが、4人目のアウグストが誕生するにおよんでようやく、彼の母親を妻として入籍した。
飢えとムチの体罰におびえながら育ったアウグストは、多感で激情的な子どもとなり、9歳のとき学校校長の娘に恋心を抱き、自殺しようとして剃刀を持ちだした。12歳で20歳の女性に夢中になり、13歳で母親を亡くした後、15歳のとき30歳の女性を熱烈に恋した。
彼は18歳でウプサラ大学に入学したが、仲の悪かった父親から学資を得られず、いったん小学校の教師になった。しかし、向学心抑えがたく、医者になろうと大学へ舞い戻った。そしてシラーの『群盗』を読んで感激し、急に俳優になろうと志望を変えた。劇団に加わったが、配役の不満と自分の素質のなさに絶望し、阿片を飲んで自殺をはかった。
かろうじて命が助かったストリンドベリは、強い創作意欲に目覚め、劇の脚本を書きだした。そうして21歳のとき、自作の悲劇『平和なき者』が上演され、国王から学資金を与えられた。大学をやめ、保険新聞の記者や電信技手などをへて、図書館に助手として勤めながら小説『学生物語』『赤い部屋』を発表すると、彼の筆名は高まった。
28歳のときに結婚した元男爵夫人との結婚生活のにがい経験を題材にした衝撃の戯曲『父』を発表し、さらに戯曲『令嬢ジュリー』『仲間』『債鬼』を書き、自然主義劇作家としてストリンドベリの名声は確固たるものになった。
小説では、自分の結婚生活を赤裸々につづった暴露小説『痴人の告白』や、ニーチェとの親交から生まれた長編小説『大海のほとり』を書いた後、12年以上連れ添い、あいだに3人の子どもをもうけていた元男爵夫人と離婚。
その後は、ドイツや英国、フランスなどに居を転々と移しながら、女流画家や女優と、結婚・離婚を繰り返しつつ、戯曲、小説、童話を書きつづけ、自作上演のための劇場を作ったりもした。思想的には、ニーチェの超人思想に傾倒した後、スウェーデンボルグの神秘思想に傾き、一時期は錬金術に凝り、いかさま師呼ばわりされ、発狂と自殺衝動の精神的危機にたびたびおちいった。
スウェーデン一の文豪であるストリンドベリに、スウェーデン・アカデミーがノーベル文学賞を授けないのを不服として、63歳の誕生日に、有志が募った寄付金が彼に贈られ、祝賀会が催されたが、彼はその4カ月後の1912年5月、胃がんのため没した。63歳だった。

映画「令嬢ジュリー」は映画史に残る名作だと小学生のころから聞いていた。戯曲『令嬢ジュリー』『父』、童話『真夏の頃』、小説『痴人の告白』などを読んだが、いずれも、読者の首根っこをつかみ、強引に引っ張ってゆく作者のエキセントリックな腕力が感じられる傑作である。現代の日本人には、おそらくストリンドベリは斬新に感じられるだろう。

文豪・山本周五郎は、ストリンドベリのこんなことばを座右の銘にしていたそうだ。
「苦しみつつなお働け、安住を求めるな、この世は巡礼なればなり」
(2019年1月22日)



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『世界文学の高峰たち 第二巻』(金原義明)
世界の偉大な文学者たちの生涯と、その作品世界を紹介・探訪する文学評論。サド、ハイネ、ボードレール、ヴェルヌ、ワイルド、ランボー、コクトー、トールキン、ヴォネガット、スティーヴン・キングなどなど三一人の文豪たちの魅力的な生きざまを振り返りつつ、文学の本質、創作の秘密をさぐる。読書家、作家志望者待望の書。


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