1日1話・今日の話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『誇りに思う日本人たち』
『ビッグショッツ』
『黒い火』ほか

11月30日・マーク・トウェインの跳躍

2017-11-30 | 文学
11月30日は、『ガリバー旅行記』を書いたジョナサン・スウィフトの誕生日(1667年)だが、文豪マーク・トウェインの誕生日でもある。トム・ソーヤーの生みの親である。

マーク・トウェインは、1835年、米国ミズーリ州のフロリダで生まれた。本名は、サミュエル・ラングホーン・クレメンズ。父親は雑貨店の経営者だった。
サミュエルが12歳のころ、父親が借金を残して没した。サミュエル・クレメンズは、印刷工見習いになり、10歳年上の長兄が出版をはじめた新聞を手伝った。
17歳のときに印刷工として、ニューヨークやフィラデルフィア、セントルイスなどで働いた後、ミシシッピー川を上り下りする蒸気船の運転手の資格をとり、船を先導する水先案内人になった。
後に彼のペンネームとなった「マーク・トウェイン」は「水深二尋」という意味の船乗り用語で、二尋は約3・66メートルを表す。この深さが、蒸気船が座礁しないぎりぎりの水深だという。
南北戦争時の従軍をへて、クレメンズは30歳のときに、ニューヨークの週刊誌にユーモア小説を発表した。『その名も高きキャラヴェラス郡の跳び蛙』という短編がそれで、これが好評を呼び、以後、彼は新聞の編集をしながら、小説や旅行の紀行を書くようになり、しだいに文名は高まった。
40歳のころ『トム・ソーヤーの冒険』、45歳のころ『王子と乞食』、50歳のころ『ハックルベリー・フィンの冒険』を発表。世界的に知られた米国の文豪となった。
アメリカ反帝国主義連盟のメンバーとして、米国のフィリピン併合に反対した後、 1910年4月に、コネチカット州レディングで没した。74歳だった。

『ハックルベリー』を読んだときの感動は忘れられない。まさにいっしょにミシシッピーの大河をいかだで下る旅をしたような、大きな感動だった。ヘミングウェイが、
「すべての現代米国の文学は、マーク・トウェインが書いた一冊の本『ハックルベリー・フィンの冒険』からきている」
と言ったのも、もっともだとうなずける。米国文学の大地にはたくさんの高峰がひしめいているけれど、やはり『ハックルベリー』である。

マーク・トウェインは、本が売れたので、お金持ちになったけれど、一方で彼は発明好き、製品開発好き、事業好きで、新しいタイプライターや印刷機の開発、あるいは出版社経営に注ぎ込んで、お金をなくし、ばくだいな借金も負ってしまった。
いまのお金で8百万ドル(8億円)くらいの私費を事業に投入して、失ったというから、さすがに大作家は、やることが大きい。
それで、借金返済のために彼はハワイ、フィジー、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、インドといった国々を講演旅行してまわった。
トウェインの話は、目茶苦茶におもしろく、大好評だったらしい。

マーク・トウェインの名ジョークで、いちばん好きなのは、これである。
「禁煙はこの世でもっともかんたんなことだ。わたしはもう何千回もやった」
(2017年11月30日)



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11月29日・オルコット父娘

2017-11-29 | 文学
11月29日は、「右手の法則・左手の法則」で知られる物理学者、ジョン・フレミングが生まれた日(1849年)だが、『若草物語』を書いたルイーザ・メイ・オルコットの誕生日(1832年)でもある。

小説『若草物語』はたしか、米国東部の、冬は雪が積もる寒い土地の話で、一家の主である父親が、南北戦争に従軍してでかけてしまい、その留守を、母親とその娘の4人姉妹が守る、そんな女ばかりの家庭を中心にした話だった。
4人姉妹のうちの二番目の娘がジョーで、物書きになるのだが、ジョーのモデルは、作者ルイーザ・メイ・オルコット本人である。
つまり『若草物語』は自伝的小説なのだけれど、米コミュニティー研究が専門である自分としては、この女流作家より、彼女の父親のほうにずっと親しみを感じてきた。
実際に4人の娘の父親だった、父アモス・ブロンソン・オルコットの誕生日がまた、次女と同じ11月29日なのである(父親は1799年、米マサチューセッツ生まれ)。

アモス・ブロンソン・オルコットは、詩人のラルフ・エマーソンや、思想家のヘンリー・デイヴィッド・ソーローの友人で、彼らは超絶主義者の仲間だった。
超絶主義の人たちは、人間が生まれもった善の性質を信じていて、彼らは政治政党や教会といった社会組織には重きをおかなかった。
そういう組織は、結局は人間をだめにしてしまうもので、人間はひとりひとりが自立し、個人主義を大切にしてこそ、本来もっている善の性質が生きてくると考えた。
彼らは奴隷制廃止論者で、人は共同生活をするべきだと考えた。
アモス・ブロンソンは、マサチューセッツのハーバードに「フルーツランド」というコミュニティー(共同生活体)を作って、家族をひき連れて住みこんだ。
ひとつ財布でみんなが暮らす、ユートピア志向の農村型共同生活体である。
そこでの生活は、肉を食べず、飲み物は水だけで、電灯を使わず、風呂はつねに冷たい水風呂という、独特の思想に基づいた、変わったものだった。
ルイーザ・メイも幼少の一時期、そういうところで暮らしたのである。
フルーツランドは数カ月で空中分解したが、ウォールデンの森でひとり暮らしたソーローといい、このブロンソン・オルコットといい、この時代のマサチューセッツの人たちの行動力はずぬけている。

ルイーザ・メイに物語を書くよう勧めたのは父アモスで、ルイーザ・メイははじめ気が進まなかったらしいが、やがて気が変わって書きだし、それが『若草物語』になった。小説中、父親が南北戦争に従軍して留守をしたというのは、ルイーザ・メイの創作である。

アモス・ブロンソン・オルコットや、エマーソン、ソーローといった人たちの考え方は、たとえば現代の日本にもってきたとしても、ぜんぜん先をいっているし、大きくどっしりとして揺るがない。21世紀現代に生きるていたらくを反省する。
(2017年11月29日)



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ドキュメント。ツイン・オークス、ガナス、ヨーガヴィル、ロス・オルコネスなど、世界各国にある共同生活体「コミュニティー」を実際に訪ねた経験をもとに、その仕組みと生活ぶりを具体的に紹介する海外コミュニティー探訪記。人と人が暮らすとは、どういうことか?

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11月28日・宇野千代の平気

2017-11-28 | 文学
11月28日は、構造主義の社会人類学者、レヴィ=ストロースが生まれた日(1908年)だが、日本の女性版スタンダール、作家・宇野千代の誕生日でもある。

宇野千代は、1897年、山口の岩国で生まれた。父親は放蕩者で、草競馬を主催するバクチ打ちだった。母親は千代を産んだ後、間もなく亡くなり、後妻がきたが、幼いころ、千代は継母に連れられて、警察の留置場にいる父親のもとへ差し入れに行った記憶があるという。(宇野千代『倖せを求めて生きる』海竜社)
千代は17歳の年に、故郷の小学校の教員となったが、翌年同僚の教師と恋愛関係になり、村のうわさとなったため、身をひいて退職。朝鮮半島へ渡り、しばらくして帰国し、19歳のころから、まだ学生だった従兄と同棲をはじめ、22歳のころに結婚。夫が北海道の銀行勤務になったため、いっしょに北海道へ移った。
24歳の年に、新聞の懸賞小説に応募し、一等となり、作家デビュー。そのときの二等が後にベストセラー『人生劇場』を書いた尾崎士郎、選外佳作には後に「小説の神様」と呼ばれた横光利一がいたという。
25歳のころ、東京の雑誌社へ小説を売り込むために、夫を北海道において単身上京した。そして東京で尾崎士郎と出会い、意気投合し、そのまま同棲をはじめた。その後、北海道の夫と離婚し、尾崎と結婚。しかし、尾崎とも30歳のころには別居し、33歳の年に、宇野は画家の東郷青児と同棲をはじめ、尾崎と離婚した。
30代の後半から、小説家の北原武夫とともに、ファッション雑誌を創刊し、編集者としても活躍した。東郷とは数年間同棲した後、別れ、宇野は42歳のとき、北原武夫と結婚した。小説『色ざんげ』『おはん』『生きていく私』などを書いた宇野は、1996年6月に没した。98歳だった。

宇野千代は、90代でなお元気に健筆をふるい、
「わたし、なんだか死なない気がする」
といい放った。その人生、人生観が太く、大きい。

事業家で、デザイナーで、作家。会社を作って大成功させたり、倒産して借金取りから逃げまわったり、結婚と離婚を繰り返したり、そのたびに家を建てたりした。いいときと、悪いときの差がはげしいジェットコースターのような、目茶苦茶といえば目茶苦茶な人生だった。
宇野千代は、スタンダールの墓碑銘「書いた 愛した 生きた」を地でいった人である。

以前読んだ随筆のなかで、たしか彼女は、こういう意味のことをいっていた。
生きてきて、もうだめだと思うときもあったが、なんとか切り抜けてきた。そういう窮地におちいったときは、平気なふりをしていると、またなんとかなるものだ、と。
平気なふりを決め込もう。
(2017年11月28日)




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『女性解放史人物事典 ──フェミニズムからヒューマニズムへ』(金原義明)
平易で楽しい「読むフェミニズム事典」。女性の選挙権の由来をさぐり、自由の未来を示す知的冒険。アン・ハッチンソン、メアリ・ウルストンクラフトからマドンナ、アンジェリーナ・ジョリーまで全五〇章。人物事項索引付き。フェミニズム研究の基礎図書。また女性史研究の可能性を見通す航海図。


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11月27日・ブルース・リーの魅力

2017-11-27 | 映画
11月27日は、天才ギタリスト、ジミー・ヘンドリックスの誕生日(1942年)だが、この日は不世出の映画スター、ブルース・リーの誕生日(1940年)でもある。

同じ誕生日で、ジミヘンのほうがまる2年だけ年下。でも、年下のジミヘンのほうが先に死んでいて(1970年)、ブルース・リーのほうが後で亡くなっている(1973年)。
ブルース・リーも早死にだったけれど、ジミヘンはその上をいった。

ブルース・リーは、1940年、米国サンフランシスコで生まれた。出生時の名前は、李振藩
(リー・チェンファン)。父親は演劇の役者で、家族連れで米国巡業中に
生まれた振藩は、5人きょうだいの4番目の子だった。
赤ちゃんのときに、李小龍(リー・シャオロン)の芸名で中国映画に出演した彼は、子役として映画出演しながら、武道の教室に通った。
18歳のとき、息子はきびしい環境のなかで育つべきだと考える父親の命により単身渡米。小龍は苦学しながら学校に通い、武術の道場を経営しながら、アクション・スターを目指した。
米国のテレビ番組「グリーン・ホーネット」にレギュラー出演。準主役である日系空手家、ミスター・カトーの役を演じた。
31歳のとき、香港映画「ドラゴン危機一発」に主演し、武道を生かした斬新なアクションシーンの連続で観客を魅了し、一躍、香港一の大スターとなった。
その後、「ドラゴン怒りの鉄拳」などに主演。
33歳の年に、米国・香港合作の主演映画「燃えよドラゴン」に出演。この映画は全世界で大ヒットし、ブルース・リーの名は世界にとどろきわたり、世界映画界のアクション・シーンをカンフー一色で塗りつぶした。
1973年7月、香港の女優の家で急死。32歳だった。葬儀の際には、リーの柩を、武術教室の弟子だったジェームズ・コバーン、スティーブ・マックイーンといった大スターたちが担いだ。

「燃えよドラゴン」のブルース・リーの魅力たるや、ものすごいもので、みれば一目瞭然、なんの注釈、解説もいらない、大人でも子どもでも、みんな誰でもわかる、圧倒的魅力のかたまりといった性質のものである。
「燃えよドラゴン」ほど全世界の映画に衝撃を与えた作品は、空前絶後だろう。
ブルース・リーの登場は、全世界の映画をがらりと変えた。香港映画が一気に世界のマーケットに躍り出たし、ブルース・リー以後の映画は、ハリウッド映画も、インド映画も、日本映画も、みな彼を意識せずにはアクション・シーンが撮れなくなった。

たぶん、「運がなかった」とか「自分の真価が理解されない」とか、かんたんにこぼしてはいけないのだろう。ブルース・リーのような圧倒的な魅力の前では、誰もみな、ことばを失う。誰の目にも明らかなところまでつきつめるべきなのだろう。
(2017年11月27日)



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『映画の英語名ゼリフ』(金原義明)
英語映画の名作から、元気になる名ゼリフ、癒される名文句の数々をピックアップして原語(英語)を解説。英語ワンポイン・レッスンを添えた新スタイルの映画紹介。「アナと雪の女王」「ハリー・ポッター」「バック・トゥ・ザ・フューチャー」「ブレードランナー」「燃えよドラゴン」「ローマの休日」「シェーン」「カサブランカ」「風と共に去りぬ」などなど歴代の名作が目白押し。これだけは聞き取りたいという輝く英語フレーズが満載。これであなたも映画英語の通人。


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11月26日・アームストロングの大砲

2017-11-26 | ビジネス
11月26日は、ゴロで「いい風呂」の日。この日は、言語学者のフェルディナン・ド・ソシュールが生まれた日(1857年)だが、アームストロング砲で有名なウィリアム・アームストロングの誕生日でもある。

ウィリアム・アームストロングは1810年、英国イングランドのニューカースルで生まれた。父親はトウモロコシ商人で、後にニューカースル市長になった。
学校をでたアームストロングは、弁護士事務所に弟子入り、25歳から35歳くらいまでは弁護士として働いていた。そんなある日、釣りをしていて、水力を利用した機械を思いつき、技術者に転身。水力のクレーンの製作をはじめて成功し、作った水力クレーン会社も大きくなった。
つぎに彼の会社は兵器製作に乗り出し、アームストロング砲を製作した。
それまで大砲は、弾がでる砲身の前から弾を詰めて、どかんっと撃っていたところ、彼が作ったアームストロング砲は、大砲の後ろから弾をこめる後装式で、これは画期的な発明だった。弾は後ろからこめられるほうが、作業が手早くおこなえ、また速い弾が撃てるのである。
ただし、後部を密閉して、どかんっと撃ったときの爆発の衝撃を受け止め、かつ、開閉がきいて、つぎの弾がこめれられるという頑丈で便利な装置を作るのには、当時の技術は幼すぎたとみえ、アームストロング砲は欠陥品で、これを採用した英国海軍は、地球の裏側の極東で困るはめにおちいった。
日本の薩摩藩と戦った薩英戦争(1863年)で、アームストロング砲が砲身内で爆発する事故があいついだ。このため、こりた英国海軍はこの採用をとりやめ、前から弾ごめするタイプの大砲にいったんもどした。
司馬遼太郎の短編小説に『アームストロング砲』があって、佐賀藩がアームストロング砲を購入し、自藩でもこれを試作した旨が書かれている。佐賀藩は、江戸幕府と薩長連合のあいだで長らく中立を保っていたが、最後には薩長の説得をいれ、戊辰戦争に参戦、官軍の江戸攻撃に加わった。佐賀藩は、英国製のアームストロング砲2門を江戸へ運び、江戸・上野の寛永寺に立てこもった彰義隊の陣地へ打ち込んで、膠着していた戦況にたちまちかたをつけた。彰義隊の側でも、フランス製の大砲を7門もっていたが、射程距離と破壊力が格段にちがったのである。

ウィリアム・アームストロング本人は、会社の経営者の地位には長くい続けたが、50代前半にはほとんど実務を離れ、イングランド北部のいなかにクラッグサイドという大きな屋敷を買ってそこの手入れに熱中したり、寄付活動をしたりしてすごした。
1900年12月、ウィリアム・アームストロングは、クラッグサイドで没した。90歳だった。

「ものごとを人間の意図にしたがわせるのが、われわれ技術者の本分であり、われわれが供給した手段を正しく適用することについては、その使う側に責任がある。」
アームストロングはそう述べて、兵器産業に関わる自分の立場について、後ろめたさはないと胸を張った。リアリストとして貫徹した一生だった。
(2017年11月26日)



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『ビッグショッツ』(ぱぴろう)
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11月25日・カーネギーの陰陽

2017-11-25 | ビジネス
11月25日は、三島由紀夫が没した(1970年)憂国記だが、この日は米国の鉄鋼王アンドリュー・カーネギーの誕生日でもある。米国の「鉄鋼王」である。

カーネギーは、1835年に英国スコットランドのダンファームリンで、手織り工の家に生まれた。不況のため、アンドリューが13歳の年に、一家は移民として米国へ渡った。ペンシルヴェニア州のアレゲーニーの貧しい地区に落ち着いたカーネギーは、13歳のころから綿糸工場で週6日、毎日12時間働きはじめた。15歳のころ、ピッツバーグの電信会社のメッセンジャーボーイに転職。持ち前の勤勉さを発揮して、自分の電信技術を磨き、たちまち突出した有能さを発揮して、出世の糸口をつかんだ。やがて、労働者から経営者、資本家の側にまわり、製鉄業に進出し、ついにカーネギーは大富豪となった。彼は、現在のUSスチールの前身を作り、ミシシッピー川に鉄橋をかけた。
そして、66歳で事業を売却してからは、慈善事業に専念した。大統領から一般庶民向けまで、さまざまな年金基金を作り、全米に図書館を作りまくり、ニューヨークのマンハッタンにある、あのカーネギー・ホールを作った。
52歳のとき、22歳年下の女性と結婚し、ようやく庶民並みの幸福な生活を知った後、1919年8月、肺炎により、マサチューセッツ州レノックスで没した。83歳だった。
彼は生きているあいだに3億5千万ドルを寄付していて、それは2010年現在の貨幣価値に換算すると、48億ドル(約4800億円)に相当するという。

アメリカ史をすこし勉強したので、彼が自伝で書いているような立派なことずくめの人生を歩いてきたのではないことも知っている。
引退後のカーネギーはたしかに慈善家だったろうが、現役時代の彼は、お金に関してシビアで、買収も強引だし、とくに労働者に対しては冷酷きわまりなかった。
自分の会社の労働者がストを起こそうものなら、ピンカートン探偵社を雇って、ストつぶしをしたり、労働者のリーダーをリンチしたり、始末したりということもあった。そうやって、血も涙もない金の亡者となり、なにふりかまわずお金をかき集め、引退した後は急に仏のようになって慈善事業をはじめた、との見方もある。
毀誉褒貶がある。でも、
「富をもったまま死ぬのは不名誉なこと」
と、自腹をきって社会貢献したのは立派である。まず冷徹に金儲け、引退後は慈善事業という、アメリカ富豪のライフ・スタイルの標準をカーネギーは作った。
ビル・ゲイツやウォーレン・バフェットも、カーネギーにならった。
日本のお金持ちにも、そういう人はすこしいるけれど、もっと増えたらいい。
儲けるだけ儲けて、カジノでつかい果たそうかなどと公言している連中には、すこし見習ってほしい。でも、はじめから慈善事業を考えているような手合いだったら、お金儲けがうまくないのかもしれず、なかなかむずかしい。
われわれが求める「やさしいお金儲け上手」は、その定義自体に無理がある、スフィンクスのような存在不可能な存在だろうか?
(2017年11月25日)



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11月24日・バーネットの動機

2017-11-24 | 文学
11月24日は、仏国の画家、ロートレックが生まれた日(1864年)だが、女流作家バーネットの誕生日でもある。『小公子』『小公女』『秘密の花園』の作者である。

フランシス・イライザ・ホジソンは、1849年、英国イングランドのマンチェスターに生まれた。父親は裕福な金物商で、家には召使もいた。フランシスは5人きょうだいのまんなかで、上に2人の兄、下に2人の妹がいた。
彼女が4歳のころ、父親が脳卒中で亡くなり、母親が家業を切り盛りした。
フランシスは祖母の世話をよくし、祖母ために本を買いにいき、本に親しむ文学少女に育っていった。
米国の南北戦争が勃発し、米国南部から綿が入ってこなくなると、綿織物産業に大きく依存していたマンチェスターの産業は急速にしぼみだし、ホジソン家の家業も大きく傾いた。
未亡人のホジソン夫人は一大決心をし、フランシスが16歳のころ、彼女の一家はアメリカのテネシー州ノックスヴィルへと移住した。
米国にやってきたフランシスは家計を助ける必要から、物語を書いては、雑誌に投稿するようになった。そうして、19歳の年に、女性向け月刊雑誌に物語を発表。
24歳の年に医者のスワン・バーネットとワシントンDCで結婚し、フランシス・イライザ・ホジソン・バーネット(バーネット夫人)となった。
40歳のころ、『小公子』(Little Lord Fauntleroy)を発表。これは児童向けの物語だったが、母親達に大いに人気を博した。当時で50万部以上も売れ、主人公の男の子のロングカールの髪型と、オスカー・ワイルドの扮装をヒントにしたベルベットの「フォントルロイ・スーツ」が大流行した。
その後、『小公女』『秘密の花園』などを書き、1924年10月、ニューヨーク州プランドームで没した。74歳だった。

バーネットは英国生まれだが、家族とともに引っ越していったアメリカで作家デビューし、アメリカで活躍したアメリカの作家といえる。米国の市民権も得ている。
バーネットの『小公女(A Little Princess)』は映画化され、ハリウッドの天才子役シャーリー・テンプルが主演した。

バーネットというと、成功へのモチベーション(動機)について考えさせられる。
バーネットの家は貧乏だったので、その貧困から脱出するべく、小説を書きだし、17歳のころに雑誌に投稿した小説でデビュー。原稿に添えられた編集部あての手紙には、
「わたしはお金が欲しいのです」
とあったという。
こういうはっきりした動機というのが、成功のカギなのだろう。
007号ジェイムズ・ボンドの生みの親イアン・フレミングも、歌手の吉田拓郎も、矢沢永吉も、みんなお金がモティベーションになっていると公言している。

米国の鉄鋼王カーネギーが、成功の条件として「貧乏な境遇から出発すること」と言ったのも、このモティベーションに通じる。
(2017年11月24日)



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11月23日・サイ・ババの功

2017-11-23 | 思想
11月23日は、テレビ番組「ハンナ・モンタナ」でブレイクしたアイドル、マイリー・サイラスが生れた日(1992年)だが、インドの霊能師、サイ・ババの誕生日でもある。

サティヤ・サイ・ババは、1926年、インド南部アーンドラ・プラデーシュ州のプッタパルティで生れた。本名は、サティヤ・ナーラーヤナ・ラージュという。
13歳のとき、サイ・ババはとつぜん自分の使命に目覚め、
「自分はシルディ・サイ・ババの生まれ変わりで、シヴァ神とシャクティの化身である。人々の悩みを取り払うために降臨した」
と宣言した。このときから、彼は「サイ・ババ」となった。「サイ・ババ」とは「聖なる父」という意味らしい。
彼は家を出て、説法の旅をした。病気を治したり、奇跡をおこなったりするという評判が評判を呼び、その信奉者はインド国内のみならず、世界中に増えていった。日本では、青山圭秀が書いた『理性のゆらぎ』『アガスティアの葉』などがベストセラーとなった。
その後、20世紀の終わりごろには、インターネットやマスコミで、サイ・ババはペテン師だというような批判、中傷が盛んに流され、一時期人気にかげりが見えたが、21世紀に入ると、彼が率いた病院や学校、水道の整備などの社会奉仕事業が再評価されるようになった。タミル・ナドゥ州のチェンナイに、クリシュナ川から上水道をひいてくるプロジェクトを推進し、成功させたのは、76歳のサイ・ババだった。
2011年4月、呼吸器不全のため没した。84歳だった。

生前のサイ・ババの姿をテレビで見たことがある。それはバラエティ番組で、はじめからサイ・ババのうそを見抜くという目的で作られた番組で、映像では、サイ・ババが砂をすこしてのひらにとり、にぎって、それを相手の手の上で開くと、腕輪や腕時計になっている、というような奇跡が流れた。そのフィルムをリピートしたり、部分を拡大したりし、番組ではこれはタネのある手品だと分析していた。

サイ・ババは、自分の名を出した商売を禁じていたそうだ。たしかに、サイ・ババの開運ビデオやキャラクター・グッズ、お守りなどの商品は、見た覚えがない。
彼は、おのれの名声を、社会のためになる事業に生かした。サイ・ババの霊能力がほんとうかうそかはわからないが、ただすくなくとも、彼の自分の名声の使い方は、とてもクリーンだったと言えるのではないだろうか。
(2017年11月23日)


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『思想家たちの生と生の解釈』(金原義明)
「生」の実像に迫る哲学評論。ブッダ、カント、ニーチェ、ウィトゲンシュタイン、フーコー、スウェーデンボルグ、シュタイナー、クリシュナムルティ、ブローデル、丸山眞男など大思想家たちの人生と思想を検証。生、死、霊魂、世界、存在について考察。わたしたちはなぜ生きているのか。生きることに意味はあるのか。人生の根本問題をさぐる究極の思想書。


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11月22日・ボリス・ベッカーの太陽

2017-11-22 | スポーツ
11月22日は「いいふうふ」の語呂合わせで「夫婦の日」。この日は、仏作家アンドレ・ジイド(1869年)が生まれた日だが、ドイツのテニス選手ボリス・ベッカーの誕生日でもある。

ボリス・フランツ・ベッカーは、1967年、当時の西ドイツのライメンで生れた。父親は建築家、母親はチェコスロバキアで育った女性で、ボリスは一人っ子だった。父親はライメンにテニス・クラブを創設していて、ボリスはそこでテニスを習った。
子どものころはむしろサッカーに夢中だったというボリスは、14歳のころ、テニスに転向し、17歳になる年にプロとなり、すぐにミュンヘンの男子ダブルスで優勝し、翌年の1985年には全英オープン「ウィンブルドン」で優勝してしまった。17歳と7カ月での快挙で、無論、史上最年少優勝記録となった。
ウィンブルドンでは、翌1986年にも優勝して連覇を遂げた。
また、1987年のデビスカップでは、西ドイツ・チームを率いて戦い、米国代表のジョン・マッケンローと、6時間22分という伝説的な長い試合を戦った。ゲームは、4-6、15-13、8-10、6-2、6-2でベッカーが勝った。その年のデビスカップは決勝に進めなかったが、翌年から1989年、1990年と、西ドイツを優勝に導いた。
ベッカーは、全豪オープン2勝、ウィンブルドン3勝(準優勝4回)、全米オープン1勝という記録を残し、1999年に現役を引退した。
41歳からプロのポーカー・プレイヤーとなり、46歳から世界王者ノバク・ジョコビッチ選手のコーチを3年間務めた。

いまの若い人たちは知らないかもしれないけれど、ベッカーは現代のビッグ・サービス時代を開いたパイオニア的な選手である。

1985年のウィンブルドン大会の決勝、ベッカー対ケビン・カレン(南ア)の試合は、見る者に、テニス新時代の幕開けを鮮やかに印象づけた。
スピード・サーバー同士の決勝。それまでの優勝経験者であるコナーズやマッケンローはすでに敗退して姿を消していて、ニュー・ヒーロー同士の対決だった。
「ブンブン・ベッカー」「ブンブン・サーブ」などと呼ばれた。
ネットに出たとき、相手の放ったパッシングショットに、横っ飛びに飛びついて、よくコートに転んだ。若さだった。
ベッカーは、太陽の子だった。髪から濃いうぶ毛まで、すべて輝くような金髪で、まつげも金色なので、まつげにほこりが積もっているように見えた。そして予選から勝ち抜いてきた17歳の新鋭ボリス・ベッカーが、カレンを破り、ついに優勝を果たした。太陽神アポロンの息子が地上に舞い降り、テニス界に君臨した瞬間だった。

ベッカーは、少年時代はずっとサッカーをやっていて、ほんの3年前にテニスをはじめたばかりだった。
それを聞いて、当時、テニスをはじめて2年目だった知人はつぶやいたものだ。
「道理で。おれも来年には、きっとうまくなっているはずだ」
(2017年11月22日)


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『しあわせの近道』(天野たかし)
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11月21日・ヴォルテールの栗

2017-11-21 | 思想
11月21日は、シュルレアリスムの画家、ルネ・マグリットが生まれた日(1898年)だが、仏国の思想家、ヴォルテールが生まれた日でもある。

ヴォルテールは、1694年、仏国のパリで生まれた。本名は、フランソワ=マリー・アルエ。父親は商人だったが、後に会計院の役人となった。
イエズス会の学校で教育を受けたフランソワは、十代のころからさかんに詩集を出版したり、恋愛事件を起こしたりしていた。
22歳のとき、当時の摂政を風刺する文書『わたしは見た』を発行したかどで、逮捕され、バスチーユ監獄に入れられた。この獄中で戯曲『エディプ』を書き、釈放後の24歳のときにこの悲劇が舞台にかかるや、ロングランを記録する大ヒットとなり、彼は一躍成功した劇作家となった。彼はこのころから「ヴォルテール」というペンネームを使いだした。
悲劇や喜劇をつぎつぎと書いては、上演していた流行劇作家ヴォルテールは、31歳のとき、劇場で会った貴族と口げんかをしたのが発端となって、その貴族に襲われるという事件に見舞われた。ヴォルテールは貴族と決闘を望んだが、相手側が先手を打って官憲に手をまわし、平民のヴォルテールはまたもや逮捕、バスチーユに投獄された。
亡命を条件に出獄したヴォルテールは、英国へ渡り、かの国で約3年間を過ごした。
33歳のとき、フランスへもどり、ふたたび演劇作品を書いてヒットを飛ばした。
38歳のとき、『哲学書簡』を英訳版で発表。これは手紙形式の文明批評で、宗教、科学、哲学を論じ、英国と仏国の文化、習慣を比較し、仏国の蒙昧ぶりを痛烈に批判した内容だった。これが本国フランスに逆輸入されて仏語版が出ると、たちまち禁書処分となり、あちこちで彼の本は栗のように焼かれた。出版者は投獄され、ヴォルテールは逃げた。
40歳のころ、パリにもどった。
52歳のとき、賭けカードゲームの席で勝ちつづけていた王族をうっかり「いかさま師」呼ばわりして不興を買い、ドイツへ逃亡した。ドイツではしばらく厚遇されていたが、58歳のころ、王の機嫌を損ね、スイスへ渡った。
その後、ヴォルテールは、ディドロらの『百科全書』に関わり、小説『カンディード』を書き、64歳のころ、仏国内の、スイス国境に近いフェルネーに土地を購入して住んだ。
82歳のとき、パリへもどり、1778年5月、パリで没した。83歳だった。

ヴォルテールは、揺りかごのなかで詩を作ったといわれ、ゲーテ、ライプニッツ、パスカルらと並んでIQがトップクラスの天才とされる。
この天才はあちこちの王さまとぶつかり、投獄と亡命を繰り返した反骨精神あふれる知性で、知性を麻痺させて長いものに巻かれる生き方を潔しとしなかった。
彼は自分の著書が焚書にされると、こう言った。
「うれしい。わたしの本は栗と同じで、焼けば焼くほどよく売れる」

ヴォルテールの『カンディード』『哲学書簡』などを読んだ。沈着冷静な皮肉とエスプリのきいた文体。そして、文章に底流する熱い批判精神に打たれた。

ヴォルテールの時代は「最も開明された世紀」だったとアナトール・フランスが言っている(『知性の愁い』)。現代日本に必要なのは、ひとりのヴォルテールかもしれない。
(2017年11月21日)



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『思想家たちの生と生の解釈』(金原義明)
古今東西の思想家のとらえた「生」の実像に迫る哲学評論。ブッダ、道元、ルター、デカルト、カント、ニーチェ、ベルクソン、ウィトゲンシュタイン、フーコー、スウェーデンボルグ、シュタイナー、オーロビンド、クリシュナムルティ、マキャヴェリ、ルソー、マックス・ヴェーバー、トインビー、ブローデル、丸山眞男などなど。生、死、霊魂、世界、存在、認識などについて考えていきます。わたしたちはなぜ生きているのか。生きることに意味はあるのか。人生の根本問題をさぐる究極の思想書。


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