1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

4月1日・マズローの説

2025-04-01 | 科学

エイプリル・フールの4月1日は、映画監督、若松孝二が生まれた日(1936年)だが、心理学者アブラハム・マズローの誕生日でもある。

アブラハム・ハロルド・マズローは、1908年、米国ニューヨーク市で生まれた。両親は帝政ロシアの迫害から逃れてきたユダヤ人移民で、アブラハムは7人きょうだいのいちばん上だった。貧しい環境ながら教育を尊ぶ両親のもとで育ったアブラハムは、読書好き、勉強熱心な少年として成長した。
彼はニューヨーク市立大学で法律を学んだ後、ウィスコンシン大学へ移り、心理学を修め、22歳で同大を卒業。26歳で心理学の博士号をとり、ニューヨーク市立大学で教授を務めた後、マサチューセッツ州のブランダイス大学で61歳まで教鞭をとった。
自尊心、自己実現、創造性など、当時としては斬新な人間性心理学の研究を進め、画期的な活躍をした。ヒューマニスティック心理学会を設立し、アメリカ心理学会の会長を務めた後、1970年6月に、カリフォルニア州メンローパークで心臓発作のため没した。62歳だった。

「マズローの欲求階層説」は有名である。これは人間の欲求をピラミッド型の5階層に分けて理解しようとする考え方である。

彼の考えによれば、ピラミッドのいちばん底の層、つまり人間のベースとなる欲求としてまず生理的欲求が横たわっている。これは、呼吸、食べること、睡眠など、これがないと生きていられないという人間の生存を支える欲求である。

二段め。生理的欲求の層の上にくるのは、安全の欲求である。これは身の安全、健康、財産の安全、収入などを指していて、生理的欲求が満足された人間は、つぎにこの安全がほしくなる、というのである。

その上、三段階めの層には、愛と所属の欲求がのっかってくる。ここには友情、家族、肉体関係があてはまる。

四段階めに人間が目指すものは、自尊心の欲求である。この第四層には、自尊心のほか、自信、他者への尊敬の念や、他者から尊敬されることが入ってくる。

以上が満たされた人間が、さらに求める五層め、ピラミッドの頂点にあるのが、自己実現の欲求で、道徳、創造、偏見の克服、現実の受容などがこの段階になる。

このように、人間は生理的欲求からはじまり、ある欲求が満たされると、さらに上の欲求を満たそうとするという考え方で、また、人間はある欲求が満たされた状態に慣れてくると、それにありがたみを感じなくなってくるものらしい。

なるほど、一般論としてはその通りかもしれない。
ただ、これは万人にあてはまるわけではなく、たとえば、ある時期のペスタロッチ、ゴッホ、ゴーギャンは下の四層の欲求を無視していきなり最上層の自己実現だけをつかもうとした。例外もあるということだ。いまの自分がどの欲求を感じるかを考えると、自己理解に役立つ。
マズローの欲求階層説は、根拠が希薄だとして批判もあるが、この安定感のあるピラミッド型の発想は独創的で理解しやすい。秀逸である。
(2025年4月1日)



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3月20日・スキナーの資質

2025-03-20 | 科学

3月20日は、詩人フリードリヒ・ヘルダーリンが生まれた日(1770年)だが、心理学者B・F・スキナーの誕生日でもある。

バラス・フレデリック・スキナーは、1904年、米国ペンシルヴェニア州サスケハナに生まれた。父親は弁護士だった。
若いころ、スキナーは作家志望だった。ハミルトン・カレッジの学生だったころ、彼は詩人のロバート・フロストと知り合い、短編小説を見てもらった。フロストから「印象深い」という評価をもらったスキナーは、大学を出た後、ニューヨークのグレニッチヴィレッジに下宿して小説を書きつづけた。彼は、父親に紹介してもらった石炭会社での苦情処理係の仕事の経験を題材にした小説『無煙炭会社の苦情処理委員会』という処女作を出版したが、ぱっとしなかった。
スキナーは、自分に作家として表現すべきものがないと悟り、進路を変えた。彼は、自分がずっと人間の行動に興味をもっていたことを思い出し、また、バートランド・ラッセルの『哲学』や、イワン・パブロフの『条件反射』を読んで、こう考えた。自分のするべきことは人間の行動を正確に描くことで、それは文学でなく、科学である。
スキナーはハーヴァードの大学院へ入学し、人間行動の反射について研究した。
27歳のとき、ハーヴァード大学で博士号を取得したスキナーは、ミネソタ大学、インディアナ大学で教え、そして41歳からハーヴァード大学で教鞭をとり、斬新な発想による実験や理論をつぎつぎと打ち出し、新しい行動主義心理学を構築した。20世紀でもっとも影響力のあった心理学者の一人とされる。
44歳のとき、彼は小説『ウォールデン2』(邦題は「心理学的ユートピア」)を発表した。これは、行動主義の理論にしたがって注意深く設計された環境下に人間をおくのなら、そこに住む人間はおのずと善をおこなう、創造的で魅力的な人間になっていく、という行動主義の主張を物語化したもので、小説では、千人の住む大規模な共同生活体「コミュニティー」の生活ぶりが描かれている。
『ウォールデン2』は、ロングセラーとなり、この本の読者たちがツイン・オークス・コミュニティーやロス・オルコネスなど、実際にコミュニティーを立ち上げ、それらは現在でも続いている。スキナーは、1990年8月、白血病により没した。86歳だった。

スキナー博士の名は「オペラント条件づけ」で有名である。
ここに、てこを押すと、えさが出てくる仕掛けのついた箱「スキナー・ボックス」を用意し、ねずみを入れる。あるとき、ねずみが偶然てこに触れ、えさが出てくる。これが何度か繰り返されるうち、ねずみは自分から進んでてこを押すようになる。これが「積極的な強化」である。逆に、てこに触れると電気ショックが走る仕掛けだと、ねずみはてこに触れなくなっていく。これが「消極的な強化」で、このように、みずからの行動の結果に影響されて行動を起こすようになる条件反射を「オペラント条件付け」と呼ぶ。学校で、いい成績をとった生徒を教師がほめるのは積極的な強化であり、悪い点数の生徒をしかるのは消極的な強化で、オペラント条件付けの理論は教育現場でよく応用される。

スキナー博士は言っている。
「教育とは、学習したことがらが忘れ去られたとき、なお残っているところのものである」(Education is what survives when what has been learnt has been forgotten.)
(2025年3月20日)



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3月14日・アインシュタインの力

2025-03-14 | 科学

3月14日は、円周率のゴロ合わせから「数学の日」だが、物理学者アルベルト・アインシュタインの誕生日でもある。

アルベルト・アインシュタインは、1879年、ドイツ南部の町、ウルムで生まれた。アインシュタイン(「ひとつの石」の意)はユダヤ人で、父親はセールスマン、技術者だった。
アイシュタインは5歳ごろまでほとんどしゃべらない子どもだった。一説に、彼はディスレクシア(難読症、読字障害)だったと言われる。ダ・ヴィンチやトマス・エジソン、ジョン・レノンなども同じ障害を抱えていたとされる。
話しはじめは遅かったが、学業成績はよく、とくに数学系が秀でていた。
21歳でチューリッヒ連邦工科大学を卒業したアインシュタインは、保険外交員や家庭教師のアルバイトをして暮らした。翌年、スイス国籍を取得し、スイスの特許庁に勤めだした。
1905年、26歳のアイシュタインは、「特殊相対性理論」「光量子仮説」「ブラウン運動の理論」に関連する5つの重要な論文を立て続けに発表した。
「特殊相対性理論」はもともと博士号をとるための博士論文として書かれたものだったが、むずかしすぎて受け入れられず、仕方なくアインシュタインはべつの論文を用意したという。彼の「相対性理論」が発表された当時、これを理解できる人が世界にいく人いたか。
31歳の年にプラハ大学教授、33歳の年に母校、チューリッヒ連邦工科大学の教授に就任。
37歳のとき、一般相対性理論を発表。
その後、ナチス・ドイツがユダヤ人を迫害したため、アインシュタインはヨーロッパを脱出し、米国に帰化した。
アインシュタインは、第二次大戦がはじまると、米国大統領への、原子力の軍事兵器への利用をうながす科学者たち連名の手紙に署名した。が、ヒロシマ、ナガサキの原爆投下に衝撃を受け、戦後は、一転して核兵器の廃絶運動に力を注いだ。
1955年4月、動脈瘤の破裂のため、ニュージャージー州プリンストンにて没。76歳だった。

アインシュタインは、晩年、生まれ変わったら、鉛管工になりたいと答えた。頭のいい人生は、凡人が想像するほど楽なものではないのかもしれない。

「E=mc2(二乗)」
これがアインシュタインが書いた質量とエネルギーの関係式で、E はエネルギー、m は質量、そして、c は高速である。これは、たとえば、手にのせたひとかたまりの石炭のかけらのもつすべてのエネルギーを燃やしたら、米国全土で消費する何カ月かぶんの電力がすべてまかなえるだけのエネルギーが得られることを表している。

アインシュタインは言った。
「When a man sits with pretty girl for an hour, it seems like a minute. But let him sit on a hot stove for a minute, and it's longer than any hour. That's relativity.(男性がきれいな女性と1時間いっしょにいたとする。それは1分くらいに感じられるだろう。しかし、彼を熱いストーブの上に1分間すわらせてみたまえ。それは1時間よりもっと長く感じられるだろう。これが相対性である。)」
(2025年3月14日)


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3月8日・宮城音弥の冷静

2025-03-08 | 科学

3月8日は、「国際女性デー」。この日は『ゲゲゲの鬼太郎』のマンガ家、水木しげるが生まれた日(1922年)だが、心理学者、宮城音弥(みやぎおとや)の誕生日でもある。

宮城音弥は、1908年、東京で生まれた。両親ともに教師だった。
中学のころ「霊魂はあるのか」という問題について悩みだした宮城少年は、心理学を志すようになり、京都大学の哲学科に進み、心理学を専攻した。
大学卒業後、就職先のなかった宮城は、フランス政府の留学生採用の試験を受けてこれに合格。フランスのストラスブール大学に2年間留学した。フランスでは心理学者は医学も同時に専攻するのが常識で、犯罪心理学についての講義は刑務所でおこなわれたという。
帰国後は、慶応大学の神経科の助手として勤務。その後、昭和医専で臨床医学を学び、医師免許を取得。第二次大戦中は、慶応病院に医師として勤務しながら、海軍の技術研究所にも嘱託で勤めた。世間一般が食料難の戦時でも、海軍の研究所では食べ物が豊富で、彼は昼食に出たパンをポケットに隠して家族ために持ち帰った。
戦後、東京工大の教授となり、東大や教育大の講義もしながら、60歳の定年まで勤め上げた。定年退職後は、日本大学の歯学部の教授に就任した。
1952年の、翻訳小説『チャタレイ夫人の恋人』が、わいせつか否かが争われた「チャタレー事件」では、宮城は弁護側証人として出廷。うそ発見器による実験をおこなった実験データを示して、件の小説がわいせつとは認められない旨を論証した(でも、裁判では結局、わいせつであると判決された)。
論文、翻訳のほか、一般向けの心理学書を多く執筆し、日本に心理学を広く知らしめるのに功績があった。著書に『精神分析入門』『性格』『神秘の世界』『天才』『人間性の心理学』『夢』『日本人の生きがい』『日本人とは何か』などがある。2005年11月没。97歳だった。

宮城の著書で、最初に読んだのは、岩波新書の『天才』だった。本のなか、西洋の天才たちがつぎつぎと登場し、その異常ぶりが冷静かつ簡潔につづられていた。
「もっとも典型的な天才の家系の特徴は、性格的の遺伝的関係がありながら、その天才以外には天才と称せられるものが出現しない(集積しない)ところにある。
天才の家系は一つの立派な花を咲かすために、多くのムダ花を作る木に似ている。ゲーテもベートーベンも、バイロンもそうであった。
ゲーテの父はきまった職もない人で、晩年は動脈硬化による精神病にかかり、ゲーテのキョウダイの五人のうち、三人はコドモのときに死に、六歳まで生きた弟は、のろまで、わがままな性格異常児、オトナになるまで生きていた妹は精神病者であった」(『天才』岩波新書)

「オカルト」と聞くと、ヒステリックになって拒絶する学者はすくなくない。オカルトに理解のあった小林秀雄も、雑誌掲載時に書いたオカルト的な記述を、注意深く削除してから単行本化した。しかし、宮城は、料簡のせまい科学者ではなく、科学からはみだした分野の問題、たとえば霊魂や心霊現象、死後の世界、超能力、テレパシーといったことがらについても理解を示し、冷静に発言している。そうしたところも、尊敬に値する。
(2025年3月8日)



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2月12日・ダーウィンの魅力

2025-02-12 | 科学
2月12日は、第16代米大統領エイブラハム・リンカーン(1809年)の誕生日だが、ちょうど同じ同年同月同日に、英国では生物学者チャールズ・ダーウィンが誕生した。

チャールズ・ロバート・ダーウィンは、英国イングランドのシュルーズベリーで生まれた。父親は医師で、母親は陶器で有名なウェッジウッド家の出身だった。
子どものころから、博物学に興味があり、植物や鉱物を収集していたダーウィンは、父親の意向をくみ、エジンバラ大学の医科に進んだ。しかし、成績は芳しくなく、そこで今度は牧師になるようケッブリッジに移って神学を勉強した。
22歳のとき、英国海軍の測量船ビーグル号に乗船し、世界周航に出発。この乗船について父親は猛反対したが、叔父のとりなしで、ダーウィンは船に乗りこむことができた。
南アメリカ大陸の測量を主な目的とするこの航海は、英国プリマス港を出航、アフリカ沖のカナリア諸島をかすめて大西洋を渡り、南米ブラジルの海岸沖を南下し、マゼラン海峡をへて太平洋にで、ガラパゴス諸島へ寄り、オーストラリアのシドニーをへて、インド洋を渡り、喜望峰をまわって大西洋にでて横断し、測量の補足のためふたたび南米へ寄ってから、大西洋をとって返して本国英国へもどるという約5年がかりの大航海だった。
ビーグル号船上でのダーウィンの役割は、はじめ船長の話し相手、後に船医といったものだったが、船がいかりを下ろし、上陸した土地土地で彼は精力的に植物、動物、鉱物、化石など大量の標本を採集し、記録をとりつづけた。
帰国後、ダーウィンはもち帰った標本の研究を進め、『ビーグル号航海の動物学』『ビーグル号航海の地質学』『ビーグル号航海記』を出版し、好評を博した。
ダーウィンをもっとも偉大ならしめているのは、帰国したころすでに彼が着想を得ていた「自然選択」という考え方である。当時は(現在でも米国の半数以上の人々には)、人間を含め、すべての生物は神が作ったもので、それぞれの種は、まったくべつの、不変のものである、と考えられていた。しかし、ダーウィンはガラパゴス諸島の生態系など、航海中に得てきたさまざまな見聞により、種は環境に適応して、種が生き残る方向へとしだいに変異した者が生き残っていく、つまり、種は変わっていく、という結論を得た。
これが「自然選択」説であり、進化論の骨子である。
ダーウィンは、この理論に説得力をもたせるために、約20年間にわたって、さまざまな証拠を集め、研究を重ねた。そうして50歳のとき『種の起源』を発表。このセンセーショナルな書は、発売当日に完売し、即座に増刷され、大反響を呼んだ。ダーウィンはその後も動植物などの研究、論文執筆をつづけ、1882年4月に没し、国葬が営まれた。73歳だった。

若いころから『ビーグル号航海記』を読み返してきた愛読者で、彼の知力、忍耐力、情味、時代を超えた良識と、全き円的な人格には、いまも魅了されつづけている。

ダーウィンは、コペルニクス、フロイトと並び、人類の思想を根本からひっくり返した大天才のひとりとされる。でも、その人となりはきわめて平凡で、ダーウィンは家庭内ではよき夫、父であり、外ではよき友人であり、おだやかな晩年を送った。哲学の祖ソクラテスの酒飲みで、家庭をかえりみず、挙句の果てに毒を飲んで死んだ乱調人生とは対照的である。
(2025年2月12日)



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2月11日・エジソンの一歩

2025-02-11 | 科学
2月11日は、神武天皇が即位した日を新暦に換算して決めた旧「紀元節」を、戦後に名称変更した「建国記念の日」だが、この日は発明王トーマス・エジソンの誕生日でもある。

トーマス・アルバ・エジソンは、1847年、米国オハイオ州ミランで生まれた。父親はオランダ系で、カナダで政府刷新を狙った反乱に参加し、それが失敗したために合衆国に逃げてきた革命家だった。
7人きょうだいの末っ子だったトーマスは、幼いときから好奇心旺盛で、にわとりの卵を自分で温めようとしたとか、学校では授業などうわの空で、教師を授業と直接関係のない質問攻めにして授業の妨げになるので、学校をやめさせられたなどの伝説があるが、一説によると、学校の教師があるとき、エジソンのことを「腐ったやつ」と呼んでいるのをエジソンが聞いてしまい、それで学校へ行かなくなったともいう。
いずれよせよ、家庭で母親が教師がわりになり、エジソンは勉強し、成長することができた。エジソンはこう回想している。
「母がわたしを作った。母はとても誠実で、わたしを信頼してくれた。それで、わたしは、自分が生きてゆくための何かをもっていると、感じることができたのだ」
7歳のとき、彼の家族は、ミシガン州ポートヒューロンへ引っ越した。そこでエジソンは、列車のなかの売り子になった。キャンディーや新聞を乗客に売って歩く仕事だった。
そんなあるとき、3歳の子どもを暴走列車にはねられる寸前に助けたところから、その子の父親である駅長から感謝され、エジソンは彼に電信の技術を教わる。それからエジソンは電信技師となり、比較的忙しくない夜間シフトを希望して、仕事中に読書や実験を繰り返していた。それから実用的な機械を発明しては、特許をとり、それをお金にして、さらにそれを実験に注ぎ込んでは発明を重ねていった。
21歳のとき、電気投票記録機を発明。22歳のとき、株式相場表示機。
30歳のとき、電話機と、蓄音機。32歳のとき、電球。
33歳のとき、発電機。44歳のとき、のぞき眼鏡式映写機。
63歳のとき、トースター。エジソンは生涯に約1300件の発明をし、ゼネラル・エレクトリック社など14の会社を創設した。そして80歳をすぎてもなお、1日16時間のペースで働きつづけたというタフな発明王は、1931年10月、84歳で没した。

エジソンは、自分で発明するだけでなく、他人が発明した技術を改良したり、買い取ったり、あるいは盗んだり、部下の発明を横取りしたり、といったこともさかんにしたようだ。
そういった、よくない風評や批判を差し引いても、エジソンのなし遂げた業績はなお偉大で、ことばもない。それに、数々の発明の実績もさることながら、エジソンの生きざまには、常人にはちょっとまねできない、強烈な魅力がある。
エジソンはこう言っている。
「I am not discouraged, because every wrong attempt discarded is another step forward.(わたしはがっかりしない。だって、まちがった試みは捨ててきたけれど、それらはすべて、前へ進むつぎの一歩となるのだから。)」(e StoryPost)
(2025年2月11日)



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世界の偉人たちの人生を描く伝記読み物。エジソン、野口英世、ヘレン・ケラー、キュリー夫人、リンカーン、オードリー・ヘップバーン、ジョン・レノンなど30人の生きざまを紹介。意外な真実、役立つ知恵が満載。人生に迷ったときの道しるべとして、人生の友人として。


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1月8日・ホーキングの運命観

2025-01-08 | 科学
1月8日は、デヴィッド・ボウイが生まれた日(1947年)だが、物理学者のホーキング博士の誕生日でもある。

スティーヴン・ウィリアム・ホーキングは、1942年、英国イングランドのオックスフォードで生まれた。父親は医学研究者で、母親は医学研究所で秘書として働いていた。戦争中でロンドン爆撃を避け、母親はオクスフォードへ避難し、そこでスティーヴンを産んだ。彼には妹が2人いる。
スティーヴンは頭脳優秀で、17歳の若さで奨学金を得てオックスフォード大学に入学した。大学では、講義内容がかんたんすぎ、しらけていたが、やがて気を取り直して、ボート部に入り、舵とり役のコックスを務めた。
オクスフォード大を卒業し、ケンブリッジ大学大学院に進んだホーキングは、そこで応用数学と理論物理を研究した。が、21歳のとき、筋萎縮性側索硬化症と診断された。これは筋肉がしだいる麻痺して死にいたる病で、彼は医師にあと2、3年の命だと宣告された。
絶望の底に突き落とされたホーキングだったが、やがて生きる意志に目覚め、23歳のときに結婚。25歳のときには長男が生まれた。
32歳のとき「ブラックホールの蒸発理論」を発表。ビッグバンによる宇宙のはじまりについて科学的説明をし、宇宙理論の世界的権威となった。
筋萎縮性側索硬化症は、ほとんどの患者が5年以内に死亡する難病だったが、ホーキングの場合は病状の進行が弱まり、彼の寿命は続いた。とはいえ、病状はしだいに進んで、歩行が困難となって車椅子生活となり、通常の発声も困難になってコンピュータの合成音声で話すようになったが、世界的理論物理学者として、精力的に研究や発言を続け、59歳のときには来日し、東京大学で講演をおこなった。
そして2018年3月、ケンブリッジの自宅で没した。76歳だった。医者の宣告より半世紀ほど長く生きたことになる。

テレビではじめて見たときには、すでに彼は口を動かさず、車椅子のなかにぶかぶかのスーツを着てしおれて収まり、電子音声でインタビューに応えていた。日本の古株の科学者には肉声時代のホーキング博士と議論した人もいる。

ホーキング博士は、貧弱なからだと対照的に、言うのに度胸のいる鋭い発言をぽんぽん吐く大胆不敵さで、強烈な印象がある。宇宙の創造について、博士は「神」なしでちゃんと説明できるとして、宗教界から批判された。
宇宙人との接触については、ヨーロッパ人によってネイティブ・アメリカンが南北アメリカ大陸で大量虐殺された歴史を参照して、接触しないほうがいいと言った。
人類の未来について、文明は高度に進むほど加速度的に自滅に向かう、とシニカルな意見を述べた。たぶん、博士から見ると、人類はサルのように見えるのかもしれない。

ホーキング博士は「運命論」について、科学の見地から言っている。
「全てのことは予めどうなるかが定められているのだろうか。答えは、イエスです。しかしノーといった方がよいのかも知れません。なぜならば、どのように決められているのかを知ることはできないのですから。(Is everything determined? The answer is , Yes, it is. But it might as well not be, we can never know what is determined. That is all.)」(S・W・ホーキング著、佐藤勝彦監訳『時間順序保護仮説』NTT出版)
このクールさがたまらない。
(2025年1月8日)



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12月22日・ラマヌジャンの身体

2024-12-22 | 科学
12月22日は、「蝶々夫人」「トゥーランドット」を書いた作曲家プッチーニが生まれた日(1858年)だが、インドの天才数学者ラマヌジャンの誕生日でもある。

シュリニヴァーサ・アイヤンガー・ラマヌジャンは、1887年に、南インドのタミル・ナードゥ州クンバコナムに生まれた。生家は貧しいバラモンの家で、身分は高かったが、近所の人に食べ物をわけてもらわなくては生きていけないくらい貧しかった。
小さいときから学校の成績のよかったラマヌジャンは、15歳のときに『純粋数学要覧』という本に出会った。英国の数学者ジョージ・カーが書いたその本は、数学の定理が6000個近く並べられた本だった。一つひとつの定理について、くわしい解説はない。
ラマヌジャンは、この本に夢中になり、そこに並んだ定理を片っ端から証明していった。そうして、数学一辺倒の人間になっていった。
17歳のとき、ラマヌジャンはクンバコナム大学に入学するが、数学しかやる気がないために、1年で退学。ラマヌジャンは数学の勉強だけを続け、自分で発見した定理をノートにせっせと書きためていった。
彼は家庭教師をしたり、経理の仕事をしたりして食いつなぎながら、数学の論文を書いた。それが数学の学会誌に掲載された。ラマヌジャンはさらに自分の発見した定理を、インドの学者に見せ、宗主国であった英国の学者にも送った(インドは英国の植民地だった)。
こうした手紙はほとんど無視されたが、送りつけられた学者のひとり、ケンブリッジ大学の学者、ゴッドフレイ・ハーディはそれに目を通した。ハーディは、ラマヌジャンの定理の数々に驚いた。
「これまで、これにすこしでも似たものを見たことがない」
ハーディはラマヌジャンを英国へ呼び寄せるよう手配した。

バラモンには海を渡ってはいけないという戒律のしばりがあった。その戒律を破ると、バラモンのコミュニティーから追放されてしまう。
ラマヌジャンの周囲では「行ってはいけない」「いや、行くべきだ」とすったもんだがあって、結局ラマヌジャンとその支持者が、ヒンドゥー教の神さまの「行ってよろしい」というご宣託を受け、ラマヌジャンは晴れて渡英した。

ラマヌジャンは、ケンブリッジに約5年間いた。ハーディは無神論者で、数学においては証明の厳格さを重んじていた。一方、ラマヌジャンは信仰心厚く、数学においては直感に頼っていた。それで、二人の共同作業は、ラマヌジャンが毎日もってくる新定理の数々を、ハーディが証明し論文を書く、というものになった。
しかし、寒い英国の気候がからだに合わず、宗教上の理由から食事の栄養が偏り、栄養不足になりがちで、さらに英国の習慣からくるストレスが重なり、彼は病気で倒れた。ラマヌジャンは、結局、31歳のときにインドへ帰っていった。
その凱旋は地元に人々に大歓迎されたが、彼の健康は回復することなく、ラマヌジャンは1920年4月、マドラスチェットペットで、没した。32歳の若さだった。
死因は結核、ビタミン欠乏症、肝炎など諸説がある。
頭の天才とからだの弱さ。天は二物を与えずということはあるものだ。
(2024年12月22日)



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『オーロビンドとマザー』(金原義明)
インドの神秘思想家オーロビンド・ゴーシュと、「マザー」ことミラ・アルファサの思想と生涯を紹介。オーロビンドはヨガと思索を通じて、生の意味を追求した人物。その同志であるマザーは、南インドに世界都市のコミュニティー「オーロヴィル」を創設した女性である。われわれ人間の「生きる意味」とは? その答えがここに。


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12月21日・ファーブルの後半

2024-12-21 | 科学
12月21日は、映画女優ジェーン・フォンダが生まれた日(1937年)だが、生物学者ジャン・アンリ・ファーブルの誕生日でもある。

ジャン=アンリ・カジミール・ファーブルは、1823年、南仏アヴェロン県の寒村サン・レオンで生まれた。畑をもたず、これといった技術ももたなかった父親は、近所の家を手伝ったり、雑用を請け負ったりし、母親は手袋作りの内職をしていた。
ジャンの下に弟が生まれると、ジャンは口減らしのため、祖父母の家に預けられた。このとき3歳だったジャンは、まともな道さえない荒れ地を20キロメートルも離れた祖父母の村まで歩いていったという。
大自然のなかで育ったジャンは、7歳のときに父母の家へもどり、サン・レオンの小学校に入学した。
ジャンが10歳のとき、一家はサン・レオンを離れ、アヴェロン県の県庁のあるロデズに引っ越していき、父親はそこでカフェを開いた。
貧しかったジャンは、教会の手伝いをすることで学費を免除されて中学に通い、ラテン語やギリシャ語など語学で優秀な成績を修めた。
しかし、父親のカフェ経営はうまくいかず、一家は離散状態となり、ジャンは15歳のころ、学校を中退して、肉体労働をしながら独学で勉強するようになった。
17歳のとき、ファーブルはアヴィニョンの師範学校に入学。19歳の年に小学校教師の免許をとり、カルパントラで数学と物理学の教師になった。
その後コルシカ島の大学で数学を研究した後、ファーブルはアヴィニョンにもどり、博物館の館長を務め、染料の研究などをしたが、市民に対しておこなった彼の生物学の講義が宗教界から非難を受け、ファーブルはアヴィニョンを追いだされる恰好となった。
56歳のとき、セリニアンに移り住んだファーブルは、自宅の裏に1ヘクタールの庭を作り、そこに世界中から取り寄せたさまざまな植物を植えて、昆虫の研究をはじめた。そうして研究、観察しつつ書きつづけられたのが『昆虫記』全10巻で、セリニアンの村では「虫好きの変な老人」でしかなかったファーブルの名声は、この本の出版により、フランス全土でしだいに高まっていった。
ファーブルはレジオンドヌール勲章を受賞した後、1915年10月、老衰と尿毒症のため、セリニアンで没した。91歳だった。

ファーブルの名は、牧野富太郎とともに小学校のころから馴染んでいた。
ファーブルの研究は、厳密さに欠け、しばしば誤った認識があると生物学の専門家から批判されるけれど、それを差し引いてもファーブル昆虫記のおもしろさは圧倒的で、ファーブルが全世界の子どもたちを生物学の道へといざなった功績は絶大である。

ファーブルが昆虫研究に本腰を入れたのが、50代後半からで、それから30年以上も昆虫三昧の生活を続け、それがファーブルをファーブルたらしめているというのは興味深い。
ファーブルはまた、最初の妻を亡くした後、64歳のとき、23歳の娘と再婚し、3人の子をもうけている。小林一茶と同様「老いてますます盛んなり」のみごとな後半生だった。
(2024年12月21日)



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『科学者たちの生涯 第二巻』(原鏡介)
宇宙のルール、現代の世界観を創った大科学者たちの生涯、達成をみる人物評伝。ハンセン、コッホから、ファインマン、ホーキングまで。知的感動のドラマ。


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12月18日・トムソンの実験

2024-12-18 | 科学
12月18日は、ザ・ローリング・ストーンズのギタリスト、キース・リチャーズが生まれた日(1943年)だが、物理学者ジョセフ・ジョン・トムソンの誕生日でもある。電子を発見した人である。

ジョセフ・ジョン・トムソンは、1856年、英国イングランドのマンチェスターで生まれた。父親は古書店の経営者だった。ジョゼフは2人兄弟の兄だった。
小さいころから頭脳優秀で科学に興味を示したジョゼフは、オーエンズ・カレッジ、ケンブリッジ大学と進み、28歳の年にケンブリッジ大学の物理学教授となった。
41歳のとき、トムソンは、真空管に工夫を凝らして真空放電の実験をおこなった。
真空管のなかの電極に強い電圧をかけると真空放電が起き、陰極から陰極線が放射される。陰極線は管の反対側にぶつかり、ガラスには陰極線が当たると光るように燐光物質が塗ってあるので、真空管は美しく光る。
この真空管の途中に、トムソンは電場や、磁場をこしらえて実験をおこなった。
すると、電場や、磁場を通過した陰極線は曲がって進むことがわかった。電場や磁場を設けると、陰極線がぶつかる反対側のガラスの光る位置がずれるのだった。
この結果により、陰極線が負の電荷を帯びた質量のある粒子であるという確証が得られた。
それまで、物質の最小単位は原子であって、それ以上細かく分割することはできないと考えられていたが、ここに原子よりもさらに小さい、電荷を帯びた「電子」が発見されたのだった。
トムソンはさらに実験を重ねて、電子の質量が、原子のうちでもっとも軽い原子である水素原子の約2000分の1であると計算した。
トムソンは、50歳のとき、ノーベル物理学賞を受賞し、ナイトの称号を受け、トリニティ・カレッジの学長を務めた後、1940年8月にケンブスリッジで没した。

トムソンは指導者としても優秀で、彼の研究室からはノーベル賞受賞者が続出している。物理学教授の職を継いだ弟子のアーネスト・ラザフォードをはじめとする、なんとトムソンの7人の教え子がノーベル賞を受賞した。さらに、トムソンの息子ジョージ・パジェット・トムソンも電子の波動性の証明でノーベル物理学賞を受賞している。

高校生のとき、物理の授業でトムソンのことを教わった。古代ギリシアの哲学者デモクリトスが言った、それ以上分けられない「原子」という概念に、科学的なアプローチが加えられるようになったのは、トムソンからである、と。
それから原子物理学は、永岡半太郎、ラザフォード、湯川秀樹……と発展していく。

トムソンの実験は、人間、工夫が肝心、そして実行が大切、と教えてくれる。
(2024年12月18日)



●おすすめの電子書籍!

『科学者たちの生涯 第一巻』(原鏡介)
人類の歴史を変えた大科学者たちの生涯、達成をみる人物評伝。ダ・ヴィンチ、コペルニクスから、ガロア、マックスウェル、オットーまで。知的探求と感動の人間ドラマ。


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https://www.meikyosha.jp


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