1日1話・今日の話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『誇りに思う日本人たち』
『ビッグショッツ』
『黒い火』ほか

12月18日・トムソンの実験

2018-12-18 | 科学
12月18日は、ザ・ローリング・ストーンズのギタリスト、キース・リチャーズが生まれた日(1943年)だが、物理学者ジョセフ・ジョン・トムソンの誕生日でもある。電子を発見した人である。

ジョセフ・ジョン・トムソンは、1856年、英国イングランドのマンチェスターで生まれた。父親は古書店の経営者だった。ジョゼフは2人兄弟の兄だった。
小さいころから頭脳優秀で科学に興味を示したジョゼフは、オーエンズ・カレッジ、ケンブリッジ大学と進み、28歳の年にケンブリッジ大学の物理学教授となった。
41歳のとき、トムソンは、真空管に工夫を凝らして真空放電の実験をおこなった。
真空管のなかの電極に強い電圧をかけると真空放電が起き、陰極から陰極線が放射される。陰極線は管の反対側にぶつかり、ガラスには陰極線が当たると光るように燐光物質が塗ってあるので、真空管は美しく光る。
この真空管の途中に、トムソンは電場や、磁場をこしらえて実験をおこなった。
すると、電場や、磁場を通過した陰極線は曲がって進むことがわかった。電場や磁場を設けると、陰極線がぶつかる反対側のガラスの光る位置がずれるのだった。
この結果により、陰極線が負の電荷を帯びた質量のある粒子であるという確証が得られた。
それまで、物質の最小単位は原子であって、それ以上細かく分割することはできないと考えられていたが、ここに原子よりもさらに小さい、電荷を帯びた「電子」が発見されたのだった。
トムソンはさらに実験を重ねて、電子の質量が、原子のうちでもっとも軽い原子である水素原子の約2000分の1であると計算した。
トムソンは、50歳のとき、ノーベル物理学賞を受賞し、ナイトの称号を受け、トリニティ・カレッジの学長を務めた後、1940年8月にケンブスリッジで没した。

トムソンは指導者としても優秀で、彼の研究室からはノーベル賞受賞者が続出している。物理学教授の職を継いだ弟子のアーネスト・ラザフォードをはじめとする、なんとトムソンの7人の教え子がノーベル賞を受賞した。さらに、トムソンの息子ジョージ・パジェット・トムソンも電子の波動性の証明でノーベル物理学賞を受賞している。

高校生のとき、物理の授業でトムソンのことを教わった。古代ギリシアの哲学者デモクリトスが言った、それ以上分けられない「原子」という概念に、科学的なアプローチが加えられるようになったのは、トムソンからである、と。
それから原子物理学は、永岡半太郎、ラザフォード、湯川秀樹……と発展していく。

トムソンの実験は、人間、工夫が肝心、そして実行が大切、と教えてくれる。
(2018年12月18日)



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12月5日・ハイゼンベルクの不確定

2018-12-05 | 科学
12月5日は、「ディズニーランド」の生みの親ウォルト・ディズニーが生まれた日(1901年)だが、まったく同年同月同日に物理学者ハイゼンベルクも誕生している。

ヴェルナー・カール・ハイゼンベルクは、ドイツのバイエルン州ヴュルツブルクで生まれた。父親は高校の語学教師で、ドイツでただ一人の中世・現代ギリシャ語の教授だった。
ミュンヘン大学に学んだヴェルナーは、23歳のとき、デンマーク・コペンハーゲンに留学し、量子力学の天才ニールス・ボーアの下で学んだ。
26歳のとき、不確定性原理を証明し、31歳の若さでノーベル物理学賞を受賞した。
彼が32歳になる1933年に、ドイツではヒトラーが首相となり、ユダヤ人迫害が進み、多くの科学者が国外へ去った。しかし、ハイゼンベルクは、軍拡・侵略路線を突き進むドイツが、近い将来に破滅することを予想しつつ、破滅後のドイツ復興のためにと、ドイツにとどまり、量子論の研究を続けた。
ナチス政権下では、ユダヤ人物理学者を擁護する立場をとり、非難、追及され、召集されて、いやいやながら原爆開発に協力した。
40歳のとき、ハイゼンベルクはドイツの占領下にあったデンマークの師ボーアを訪ねて、原爆製造は今回の戦争中には間に合わないと告げた。
ドイツ敗戦後は、英国の諜報部MI6の監視下に軟禁された。彼は英国で、広島・長崎の原爆投下のニュースに驚き、そんなことは不可能だと言ったという。
第二次世界大戦後は、彼はケンブリッジ大学で講義をし、マックス・プランク財団の研究所所長やヨーロッパ会議の原子力研究所所長などを努め、超伝導や宇宙線、プラズマ研究などに寄与した後、1976年2月、当時西ドイツだったミュンヘンで没した。74歳だった。

高校生時代、ハイゼンベルクの不確定性原理を知った。ある物質の位置と運動量など、二つの事象を同時に正確には把握できないということを数式で証明した。
たとえば電子の位置が分かれば運動量はつかめず、運動量を求めると位置は厳密にはわからない、という量子力学の問題である。

ソニーの創始者のひとり、盛田昭夫は戦争末期、海軍の研究所にいて、米国が日本より先に原子爆弾を作るだろうが、それはまだ数年後のことだろうと予想していたところ、ヒロシマ・ナガサキの原爆投下の報を聞いて驚いたそうだ。欧州でハイゼンベルクも盛田と同じ予想をしていた。ただ、ドイツの科学は日本よりずいぶん進んでいた。
海軍で盛田たちが計算尺を使っていたとき、米国ですでにコンピュータを開発していた。フォン・ノイマンの勝利である。京都への原爆投下を主張したあのノイマン。

圧倒的に生産力で勝る大国に無謀な戦いを挑んだ太平洋戦争では、日本は兵隊が足りなくなり学徒出陣となった。文系の学生は前線へ送られたが、理系の学生は日本にいられた。
すると、なにやらきな臭くなってきた昨今、これから進学する子どもたちは理系を専攻したほうが身のためである。
(2018年12月5日)



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11月29日・フレミングの法則

2018-11-29 | 科学
11月29日は、『若草物語』のルイーザ・メイ・オルコットが生まれた日(1832年)だが、「右手の法則・左手の法則」で知られる物理学者ジョン・フレミングの誕生日でもある。

ジョン・アンブローズ・フレミングは、1849年、英国イングランドのランカスターで生まれた。父親は会衆派教会の牧師だった。
子どものとき、ラテン語が苦手で、数学が得意だったジョンは、技師志望で、自分でアルバイトをしてお金を貯めては材料を買い、カメラや模型などを自作した。
ケンブリッジ大学に進んだ彼は、34歳のとき、同大学のフェローとなった。
彼はエジソン電灯会社で電気技師をしたり、さまざまな大学で教鞭をとったりしたが、大学で学生に電磁誘導について教えるときに考案したのが有名な「フレミング右手の法則」と「フレミング左手の法則」だった。
48歳のとき、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの研究所の所長に就任。企業への科学アドバイザーをし、発電所の設計などをした。
55歳のとき、フレミングは二極真空管を発明した。これは世界初の真空管であり、このとき人類の電子工学がはじまった。フレミングの二極管はやがて、トランジスタに替わり、半導体に替わっていった。
フレミングはアメリカテレビジョン学会の初代会長となり、ナイトの称号を授与された後、1945年4月、英国イングランドのシドマスの自宅で没した。95歳だった。

「フレミング左手の法則」は、中学の理科の授業で教わった。これはファラデーの世紀の大発見「コイルのなか、またはコイルの近くで磁石を動かすとコイルに電流が流れる」という現象の、方向をわかりやすく示したもので、左手の親指が力、人差し指が磁界、中指が電流の、それぞれ方向を示すというものである。
科学を象徴する美しい指の形で、テスト中に左手の3本の指を立てた覚えがある。
才人というのは、いるものだ。

フレミングというと、ジェイムズ・ボンドの生みの親のイアン・フレミング、抗生物質ペニシリンの発見者アレクサンダー・フレミングもいて、まぎらわしい。英国人は似た名前、名前が多い。

ジョン・フレミングは言っている。
「発展とは、根拠がなく、とても信用できないものである。(Evolution is baseless and quite incredible.)」(Brainy Quote: http://www.brainyquote.com/ 9
(2018年11月29日)



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11月20日・ハッブルの宇宙

2018-11-20 | 科学
11月20日は、ハチの「8の字ダンス」の発見者カール・フォン・フリッシュが生まれた日(1886年)だが、天文学者ハッブルの誕生日でもある。

エドウィン・パウエル・ハッブルは、1889年、米国ミズーリ州のマーシュフィールドで生まれた。父親は保険会社の役員だった。
9歳のころ、ハッブル一家はイリノイ州ウィートンに引っ越し、エドウィンはそこで育った。少年時代は勉強よりもスポーツに秀でていたエドウィンは、走り高跳びの州記録保持者だった。彼はシカゴ大学に入学し、数学と天文を学んだが、学生時代はボクシングの名選手としても活躍した。
大学卒業後、英国のオックスフォード大学の奨学生に選ばれて渡英。法学を修め、3年間の留学を終えて帰米してからは、法律事務所に勤め、高校教師などをした。
第一次世界大戦中、ハッブルは従軍。戦後はシカゴ大学の天文学研究室にもどり、30歳のとき、カーネギー研究所所属のウィルソン山天文台の職員となった。
35歳のとき、ハッブルはわれわれがいる銀河系の外にも銀河があると論文に書いた。そして、40歳のころ、外の銀河からの光が赤方偏移していることを発見。あわせて、現在「ハッブルの法則」と呼ばれている法則を発見した。
第二次世界大戦中、ハッブルはふたたび従軍したが、その期間を除いて、ハッブルはずっと天文台で天体の観測と研究をして生きた。そして1953年9月、ハッブルは心不全のため、カリフォルニア州のサンマリノで没した。63歳だった。

ハッブルの名前を、ハッブル宇宙望遠鏡によって知った。大天文学者ハッブルの名前をとって、ロケットで打ち上げられた宇宙望遠鏡はそう名付けられたと。

赤方偏移と宇宙の膨張について知ったときは、ショックだった。
赤方偏移というのは、銀河系の外にある遠い星からの光をスペクトル分析してみると、光の帯全体が赤いほうへずれて映るもので、これはその光を放つ物体が遠ざかっていることを示している。
スペクトルのずれ方をよく調べていくと、銀河系の外にある2つの銀河のあいだの距離が大きくなればなるほど、たがいに離れる相対速度も比例して大きくなっていくということがわかった。これが「ハッブルの法則」である。
つまり、夜空に見える星たちはどんどん遠のいている。宇宙はどんどん広がっている、ということである。これを逆算して、時間の流れを逆上れば、宇宙の最初にたどりつくことになる。それが最初の大爆発「ビッグバン」で、以来、星はどんどん遠ざかり、宇宙は膨張を続けている、という。

ハッブル宇宙望遠鏡が写した写真を見ると、感慨深い。
人類がはじまって何万年かたって、ようやく人類も宇宙に望遠鏡を浮かべて、遠くの宇宙を見る目をもった。しかし、この宇宙望遠鏡をもってしても、見えるのは宇宙のはじめに近いころに生まれた銀河の光がせいぜいで、いちばん最初に生まれた星の光はもう見えないくらい遠くなってしまった。われわれは宇宙の新参者で、宇宙の田舎者。遅れてきた生物である。
(2018年11月20日)



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11月14日・ベークランドの発明

2018-11-14 | 科学
11月14日は、印象派「光の画家」クロード・モネが生まれた日(1840年)だが、合成樹脂「ベークライト」を発明したレオ・ベークランドの誕生日でもある。

レオ・ヘンリカス・アーサー・ベークランドは、1863年、ベルギーのヘントで生まれた。父親は靴屋で、母親は家政婦だった。
レオはヘント大学で化学を学び、化学の準教授を勤めた後、26歳で米国へ移った。
当時すでに写真の新しい引き延ばし方法を発明していたベークランドは、写真会社に2年ほど勤めた後、化学コンサルタントとして独立した。
彼は2年間の研究をへて、「ベロックス」という印画紙を発明した。これは、従来はできなかった、室内の人工光のもとで写真の引き延ばしができる画期的なもので、ベークランドは35歳のとき、この特許をコダック社に750,000ドルで売った。
特許を売って得た資金でニューヨークに私設研究所を建て、彼はその後も研究を続け、44歳のとき、人工合成樹脂「ベークライト」を作りだすことに成功し、その特許を取得した。
ベークライトは、フェノールとホルムアルデヒドを原料とした熱硬化性樹脂の一つで、人工的に合成されたプラスチックである。
ベークランドは47歳のとき、ジェネラル・ベークライト社を設立してベークライトの販売をはじめ、彼は特許をめぐる法廷闘争に勝ち、競合他社を吸収して会社を発展させた。
彼の発明したプラスチックは、電話機、ラジオ、電気機器の絶縁体、風呂桶、食器、さまざまな商品ののカバーなど生活のあらゆる部分に使われるようになり、ベークランドは億万長者となった。
年をとるにつれか彼は偏屈になり、76歳のとき会社を売却して引退し、フロリダの邸宅の庭園造りに熱中しながら、缶入りの食糧ばかりを食べて暮らした。
1944年2月、ベークランドは入院中だったニューヨーク州のサナトリウムで脳出血のため没した。80歳だった。

なぜ合成樹脂の分野に手をつけたのかと問われて、ベークランドはこう答えた。
「お金をもうけるため」

プラスチックこそは世紀の発明で、それはわたしたちの身の回りをちょっと見まわせば、一目瞭然である。コンセント、時計、ケータイからクルマ、航空機部品にいたるまで、わたしたちの生活はひと言で言えばプラスチック製である。よくも悪くも、プラスチックによって、人類の生活は、より安価に、より軽量に、より画一的になった。
(2018年11月14日)


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『ビッグショッツ』(ぱぴろう)
伝記読み物。ビジネス界の大物たち「ビッグショッツ」の人生から、生き方や成功のヒントを学ぶ。フェイスブックのマーク・ザッカーバーグ、ソフトバンクの孫正義から、デュポン財閥のエルテール・デュポン、ファッション・ブランドのココ・シャネル、金融のJ・P・モルガンまで、古今東西のビッグショッツ30人を収録。大物たちのドラマティックな生きざまが躍動する。


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11月9日・カール・セーガンの夢

2018-11-09 | 科学
11月9日は、細菌学者、野口英世が生まれた日(1876年)だが、天文学者でSF作家のカール・セーガンの誕生日でもある。

カール・エドワード・セーガンは、1934年、米国ニューヨーク市で生まれた。父親はウクライナからやってきたユダヤ系移民で、服を作る職人だった。
カールは、小さいころから空想小説をよく読み、宇宙を想像する子どもだった。彼は奨学金を得て、17歳の年にシカゴ大学に入り、物理学を学んだ。さらに26歳で天文学と天体物理学の博士号を取得した後、カリフォルニア大学バークレー校の研究員となった。
28歳の年からはスミソニアン天体物理観測所で研究員となり、ハーバード大学、コーネル大学などで教鞭をとった。
彼は宇宙生物学、天体生物学のパイオニアで、地球外に知的生命体がいるかどうかをさぐる宇宙探索計画を推奨し、NASAと組み、惑星探査機、マリナー、バイキング、ボイジャー、ガリレオの実験など多くの宇宙計画に関わった。34歳からは科学雑誌「イカロス」の編集長となり、一般の人もおもしろく読める科学記事を書き、核戦争が起き起こす「核の冬」を訴えた。
彼の著書『コスモス』はテレビでシリーズ化され、彼のSF小説『コンタクト』は映画化された。
セーガンは骨髄異形成症候群のため、1996年12月、ワシントン州シアトルで没した。62歳だった。

1970年代に米国で宇宙探査機が相次いで打ち上げられた。宇宙探査機パイオニア10号、11号には、人類のことを絵や図で紹介した金属板が搭載され、ボイジャー1号、2号にはメッセージを記録したレコード盤が積まれていた。いつか宇宙のどこかで、どこかの星の生物が、これを見るか聞くかして、宇宙の片すみに地球があり、人類がいるということを知ってくれることを願って。
この地球外知的生命体をさぐる試みの提唱者がセーガンだった。
子どものときに想像した夢を、そのままロケットに積み込んで発射したようで、すばらしい。技術開発とか軍事競争とかばかりでは、科学も疲弊してしまう。やっぱり夢がないと。夢を忘れていないだろうか、と自身を振り返る。
(2018年11月9日)


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『大人のための世界偉人物語』(金原義明)
世界の偉人たちの人生を描く伝記読み物。野口英世、エジソン、ヘレン・ケラー、キュリー夫人、リンカーン、オードリー・ヘップバーン、ジョン・レノンなど30人の生きざまを紹介。意外な真実、役立つ知恵が満載。人生に迷ったときの道しるべとして、人生の友人として。

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11月8日・ロールシャッハのインク

2018-11-08 | 科学
11月8日は、『風と共に去りぬ』の作家マーガレットミッチェルが生まれた日(1900年)だが、精神分析学者のヘルマン・ロールシャッハの誕生日でもある。

ヘルマン・ロールシャッハは、1884年、スイスのチューリッヒで生まれた。父親は美術教師で画家で、ヘルマンは3人きょうだいのいちばん上で、下に妹と弟がいた。父親はヘルマンに、絵画やデッサンを通して自分を表現するよう勧め、彼は小学校のころからいつも絵を描き「クレック(Kleck、水などのはねやしみ)」というあだ名で呼ばれていた。
はじめは芸術家志望だったが、進路を変え、20歳のとき、チューリッヒ大学に入り、精神医学を学んだ。
チューリッヒ大学には、当時異端視されていたフロイトを擁護しフロイトにユングを紹介した精神科医オイゲン・ブロイラー教授がいて、ロールシャッハは彼の弟子になった。ロールシャッハはまた同大学でユングの講義も聴き、ロシア語を勉強してロシアを訪ねたりした。精神分析学を学んでいたこのころから、同じインクのしみを見ても、人によって何に見えるかがちがうことに興味を感じ、インクのしみのカードを作っては被験者を使って実験していた。
28歳のとき、論文『反応性幻覚と類似現象』を発表。
29歳の年に大学を卒業し、翌年からスイスのヘーリザウの精神病院に勤務しだした。
37歳になる年に、主著で『精神診断学』を発表。このなかで「ロールシャハテスト」について言及した。しかし、翌年の1922年4月、虫垂炎が悪化し腹膜炎を起こし、ロールシャッハはヘリザウで没した。37歳の若さだった。
彼の死後、アルフレッド・ビネー、ジョン・E・エクスナーなど仏米の学者がロールシャハの方法を発展、整理して、ロールシャッハテストの方法論が確率された。

ロールシャハテストは、左右対称のインクのしみからできた絵が描かれた10枚のカードを被験者に見せて、それが何に見えるか、どうしてそのように見えるのか、などを尋ね、その反応の数、時間、拒絶などの様子をチェックし、結果をいったん記号化して分析し、被験者の精神状態を解釈していくものである。性格分析より、むしろ精神面の病理をつきとめる方法のひとつである。

この世は大きなロールシャハテストである。
なぜなら、同じ世界なのに、見る人によって、ぜんぜんちがって見えているから。
イスラム教原理主義者の目に見えている世界と、キリスト教原理主義者が見るそれとは、天と地ほどにちがう。海に浮かんだひとつ同じ島を見ても、中国の人と日本人とでは、ぜんぜんちがう風に見える。
もちろん自然世界に罪はない。とすれば、人間が病気なのだろう。われわれはみな、病んでいる。
(2018年11月8日)


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『ねずみ年生まれの本』~『いのしし年生まれの本』(天野たかし)
「十二支占い」シリーズ。十二支の起源から、各干支年生まれの性格、対人・恋愛運、成功のヒント、人生、開運法まで。


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11月7日・コンラート・ローレンツの生活

2018-11-07 | 科学
11月7日は、ポロニウム、ラジウムを発見したマリー・キュリーが生まれた日(1867年)だが、動物学者コンラート・ローレンツの誕生日でもある。

コンラート・ツァハリアス・ローレンツは、1903年、オーストリア=ハンガリー帝国のウィーンにほど近いアルテンベルクで生まれた。両親ともに医者だった。
子どものころから動物に対して異常なまでに愛情をもっていたコンラートは、父親の希望をいれてウィーン大学医学部に入り、25歳のとき医師博士となった。解剖学研究上の助教授になった彼は30歳で動物学の博士号も取得。ガチョウの研究をはじめ、このころから戦争の一時期を除いて、生涯にわたって魚類、鳥類、哺乳類など動物の行動の研究を一貫してつづけ、動物行動学という新しい学問分野を開いた。
35歳のとき、ナチスに入党し、37歳でケーニヒスベルク大学の心理学の教授に就任。
第二次世界大戦がはじまると、ローレンツは41歳のとき、ドイツ国防軍に徴兵され、軍医として配属。ソ連軍の捕虜となり、39歳から45歳のころまで捕虜収容所にいた。捕虜時代にも医者として働いた。45歳で収容所から解放され、収容所内で書いた原稿と、ペットのムクドリを持って彼はアルテンベルクに帰ってきた。
戦後はドイツのブルデンに設立されたマックス・プランク協会の行動生理学研究所の所長となり、動物の研究を続け、70歳の年にローレンツは、同僚であるニコ・ティンバーゲン、カール・フォン・フリッシュと共にノーベル医学生理学賞を受賞した。ニコ・ティンバーゲンは最初のノーベル経済学賞を受賞したヤン・ティンバーゲンの弟である。
71歳のとき、ローレンツはオーストリアにもどり、科学アカデミー動物社会科学研究所の所長を務めた後、1989年2月、アルテンベルクで没した。85歳だった。

ハヤカワ文庫からローレンツの『ソロモンの指輪』(日高敏隆訳)が出たときに買って読み、感銘を受けた。ローレンツが鳥のことばを話せるのもすごいけれど、彼の家はネズミや鳥を放し飼いにし、オウムは干してあるシャツのボタンを片っ端から食いちぎり、ガンは夜になると寝室に入ってきてローレンツ夫妻といっしょにすごし、朝になると窓から出ていくといった生活風景に打たれた。ローンツ以上に彼の奥さんに頭が下がった。それから『動物行動学』『攻撃』『人イヌにあう』などローレンツの本を読んだ。
同じ水、砂、水草、魚を同じ複数のアクアリウムに入れて同じ条件に保っておくと、それぞれがまったくちがった水槽世界になっていくこととか、ローレンツが飼い犬のスージーとドナウ川を泳いで渡った話などなど印象に残っている挿話は多い。

学生時代、同じ下宿に理学部生物学科の先輩が住んでいて、その先輩はカミキリムシを研究していた。大学の生物学研究室にカミキリムシの世界的権威がいて、その愛弟子だった。時々遊びにいった彼の部屋はすごかった。本が積まれ、ピンでとめられた虫の並ぶ標本箱が山と積まれ、いたるところにカミキリムシの住むガラスケースが置かれていた。ユゴーの『レ・ミゼラブル』を愛読する大酒飲みで、後輩にやさしかった。
世の多くの親たちはわが子にこういう人になってもらいたくないと思うかもしれないし、そういう人生は当人にとっては不便や困難も多いだろう。けれど、やっぱり好きな道を進んでいる人は、すてきである。ローレンツの本を読むと、先輩のことを思いだす。
(2018年11月7日)


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10月25日・ガロアの流儀

2018-10-25 | 科学
10月25日は、画家パブロ・ピカソが生まれた日(1881年)だが、天才数学者エヴァリスト・ガロアの誕生日でもある。

エヴァリスト・ガロアは、1811年、フランスのパリ郊外の町ブール=ラ=レーヌで生まれた。父親は寄宿学校の校長だった。エヴァリストは3人きょうだいのまん中で、上に姉、下に弟がいた。
学校では成績優秀ながら反抗的で、やがて数学に熱中しだし、ほかの教科をかえりみなくり、中学生のときには難解な数学書を小説でも読むようにすらすらと読んでいた。
17歳で最初の論文「循環連分数に関する一定理の証明」を書き、数学の学者に託したが、それは黙殺され紛失してしまった。また同時期に父親が、教会から誹謗中傷を受けてノイローゼにおちいった末、自殺した。
そんなときに、理工科学校の入学試験を受けたエヴァリストは、口頭試問の試験官に腹を立て、試験官の頭にチョークを投げつけて退出してしまった。
ガロアは師範学校に進み、奨学金を受けてそこに通いだした。
勉学のかたわら、ガロアは数学の論文をフランス学士院に提出したが、それが担当者が亡くなる不運にみまわれ、また紛失してしまった。
ガロアは荒れ、不満を現行の政治体制にぶつけるべく、急進的な共和派の政治結社に加わり、政治活動に力を入れだした。
学校の体制にも批判的だったガロアは、19歳のときに放校処分となった。彼は書店で週に一度、代数学の講義を開きながら、さらに政治活動に身を入れた。
ガロアは解散させられた国民軍の制服を着て歩いたために逮捕され、禁固刑を受けた。刑務所内でも数学の論文を書いていたガロアは、20歳のとき仮釈放された。
出所したガロアは、若い女に恋をした。彼は言い寄ったが、女に拒絶され、女の情夫と、女の従兄との二人から決闘を申し込まれた。
死を予感したガロアは、決闘を前に徹夜し、数学論文を推敲し、数学のさまざまなアイディアをノートに書き綴った。その最後の余白にこう記して決闘場所へ向かった。
「もう時間がない」(L・インフェルト著、市井三郎訳『ガロアの生涯』日本評論社)
早朝の決闘で腹部を撃たれたガロアは、その場に放置され、数時間後に通りかかった農婦によって病院へ担ぎ込まれた。病院へ駆けつけた弟にガロアはこう言った。
「泣くな。ぼくも、ずいぶん、勇気が要る。二十歳で、死ぬんだ、からな。」(同前)
ガロアは決闘の翌日の1832年5月31日に没した。弱冠20歳だった。

数学の芸術的作品とされるガロアの群論は、あまりに時代に先駆けていたために当時の数学者たちには理解できず、ガロアの論文が評価されはじめたのは、彼の死後ようやく半世紀がたってからのことだった。

当時はフランス産業革命の時代であり、王政と市民がぶつかり、仏国内は騒然としていた。ガロアが熱烈な共和主義者だったこと、彼がたてつづけに2件の決闘を予定していたこと、負傷して放置されたことなどから、謀殺説も存在する。
はげしい生きざまだった。秀才ならいざ知らず、天才は生きるのがむずかしい。
(2018年10月25日)



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『おひつじ座生まれの本』~『うお座生まれの本』(天野たかし)
おひつじ座からうお座まで、誕生星座ごとに占う星占いの本。「星占い」シリーズ全12巻。人生テーマ、ミッション、恋愛運、仕事運、金運、対人運、幸運のヒントなどを網羅。最新の開運占星術。


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9月22日・ファラデーのローソク

2018-09-22 | 科学
9月22日は、映画女優アンナ・カリーナが生まれた日(1940年)だが、科学者マイケル・ファラデーの誕生日でもある。半ペニー硬貨を使ったボルタ電池を作った人である。

マイケル・ファラデーは、1791年、英国イングランド、ロンドンに近いニューイントン・バッツで生まれた。父親は鍛冶屋で、マイケルは4人きょうだいの3番目の子だった。
父親がからだが弱く、貧しかったため、マイケルは同様、早くから働きに出た。
13歳のとき、近所の文具屋の小僧になったマイケルは、1年勤めた14歳で同じ文具店がやっていた製本所の徒弟になった。そこで7年間の年季奉公をするあいだに、彼はいろいろな本を読み、化学者の講義を聴きに行くなど、化学への関心を深めていった。
21歳で年季が明けたマイケルは、晴れて職人として雇われることになったが、就職先の親方が怒りっぽいのに閉口し、彼はべつの道を模索しだした。そのとき、以前講義を聴いた王立協会のサー・ハンフリー・デビーに、講義を聴いてとった分厚いノートを同封して就職の希望を書いた手紙を出したのが縁で、彼は王立研究所の助手となった。
ファラデーはサー・デビーの助手助手として新発見をつぎつぎと成し遂げた。
32歳のとき、塩素の液化に成功。34歳でベンゼンを発見。40歳のとき、電磁誘導を発見。
そのほか、、ファラデーの電気分解の法則の確立、電気分解の法則の発見、物質が磁場に対して反発する反磁性の発見、電磁場によって光の偏光面が回転するファラデー効果の発見などなど、さまざまな分野で目覚ましい業績をあげた。
41歳のとき、オックスフォード大学の名誉博士号となり、スウェーデン王立科学アカデミーの外国人会員や、フランス科学アカデミー外国人会員にも選ばれたファラデーは、67歳のとき、実験の現場から引退し、王室のはからいで用意されたロンドン郊外にある宮殿で余生を送った後、1867年8月、同宮殿内の自宅で椅子にもたれて没した。75歳だった。

身分差別のはげしい英国のことで、ファラデーは科学者として認められても、貴族階級に差別を受け続けた。師匠の妻、デビー夫人はファラデーを同じ食事のテーブルにつかせず、移動する際も彼を馬車の馭者台にすわらせた。
ファラデーが30歳のころから、実験の功績をめぐって彼と師サー・デビーは仲たがいし、以後、師は弟子に嫉妬するようになった。ファラデーが王立協会会員に推薦されると、師匠は猛反対した。しかし、結局ファラデーは協会のフェローに選ばれ、34歳のとき、サー・デビーの後任として英国王立実験所長の職に就いた。サー・デビーはファラデーが38歳のとき、亡くなっている。

高校のとき、物理学の先生からファラデーについて教わった。コイルのそばで磁石を動かすとそのコイルに電圧が生じるという電磁誘導を発見したファラデーは数学的教養がほとんどなかったが、そのおかげで自由な発想ができ、実験によって新しい科学的偉業をつぎつぎと打ち立てた。ニュートン力学にしばられた数学のできる学者たちは最初彼を笑ったが、すぐに笑えなくなった。ファラデーによって、人類はニュートン力学の外へはじめて一歩を踏みだしたのである、と先生はおっしゃった。
岩波文庫のファラデー著『ロウソクの科学』を読んだ。ロウソクの芯の先だけが燃えて、なぜ芯が燃え進まないのか、といったところから話がはじまり、実験と考察が積み重ねられ、終わりのほうに日本製のロウソクをとても褒めて書いてあった。

ファラデーはナイトの勲章授与の話をことわったそうだ。いまは亡きデヴィッド・ボウイも勲章授与の打診があったが、ことわっている。そんなことも思いだす。
(2018年9月22日)


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