1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

9月22日・ファラデーのローソク

2024-09-22 | 科学
9月22日は、映画女優アンナ・カリーナが生まれた日(1940年)だが、科学者マイケル・ファラデーの誕生日でもある。半ペニー硬貨を使ったボルタ電池を作った人である。

マイケル・ファラデーは、1791年、英国イングランド、ロンドンに近いニューイントン・バッツで生まれた。父親は鍛冶屋で、マイケルは4人きょうだいの3番目の子だった。
父親がからだが弱く、貧しかったため、マイケルたち子どもは早くから働きに出た。
13歳のとき、近所の文具屋の小僧になったマイケルは、1年勤めた14歳で同じ文具店がやっていた製本所の徒弟になった。そこで7年間の年季奉公をするあいだに、彼はいろいろな本を読み、化学者の講義を聴きに行くなど、化学への関心を深めていった。
21歳で年季が明けたマイケルは、晴れて職人として雇われることになったが、就職先の親方が怒りっぽいのに閉口し、べつの道を模索しだした。そのとき、以前講義を聴いた王立協会のサー・ハンフリー・デビーに、講義を聴いてとった分厚いノートを同封して就職の希望を書いた手紙を出したのが縁で、彼は王立研究所の助手となった。
ファラデーはサー・デビーの助手として新発見をつぎつぎと成し遂げた。
32歳のとき、塩素の液化に成功。34歳でベンゼンを発見。40歳のとき、電磁誘導を発見。
そのほか、ファラデーの電気分解の法則の確立、電気分解の法則の発見、物質が磁場に対して反発する反磁性の発見、電磁場によって光の偏光面が回転するファラデー効果の発見などなど、さまざまな分野で目覚ましい業績をあげた。
41歳のとき、オックスフォード大学の名誉博士号となり、スウェーデン王立科学アカデミーの外国人会員や、フランス科学アカデミー外国人会員にも選ばれたファラデーは、67歳のとき、実験の現場から引退し、王室のはからいで用意されたロンドン郊外にある宮殿で余生を送った後、1867年8月、同宮殿内の自宅で椅子にもたれて没した。75歳だった。

身分差別のはげしい英国のことで、ファラデーは科学者として認められても、貴族階級に差別を受け続けた。師匠の妻、デビー夫人はファラデーを同じ食事のテーブルにつかせず、移動する際も彼を馬車の馭者台にすわらせた。
ファラデーが30歳のころから、実験の功績をめぐって彼と師サー・デビーは仲たがいし、以後、師は弟子に嫉妬するようになった。ファラデーが王立協会会員に推薦されると、師匠は猛反対した。しかし、結局ファラデーは協会のフェローに選ばれ、34歳のとき、サー・デビーの後任として英国王立実験所長の職に就いた。サー・デビーはファラデーが38歳のとき、亡くなっている。

高校のとき、物理学の先生からファラデーについて教わった。コイルのそばで磁石を動かすとそのコイルに電圧が生じるという電磁誘導を発見したファラデーは数学的教養がほとんどなかったが、そのおかげで自由な発想ができ、実験によって新しい科学的偉業をつぎつぎと打ち立てた。ニュートン力学にしばられた数学のできる学者たちは最初彼を笑ったが、すぐに笑えなくなった。ファラデーによって、人類はニュートン力学の外へはじめて一歩を踏みだしたのである、と先生はおっしゃった。
岩波文庫のファラデー著『ロウソクの科学』を読んだ。ロウソクの芯の先だけが燃えて、なぜ芯が燃え進まないのか、といったところから話がはじまり、実験と考察が積み重ねられ、終わりのほうに日本製のロウソクをとても褒めて書いてあった。

ファラデーはナイトの勲章授与の話をことわったそうだ。いまは亡きデヴィッド・ボウイも勲章授与の打診があったが、ことわっている。そんなことも思いだす。
(2024年9月22日)



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9月18日・レオン・フーコーの振り子

2024-09-18 | 科学
9月18日は、映画女優グレタ・ガルボが生まれた日(1905年)だが、物理学者レオン・フーコーの誕生日でもある。

ジャン・ベルナール・レオン・フーコーは、1819年、フランスのパリで生まれた。父親は出版業をしていた。からだが弱かったため、学校に通えず、もっぱら家庭教師に学んだジャンは、はじめ医師を目指したが、血を見るのが怖く、また体力がないこともあって、断念し、物理学や光学を学び、科学ライターになった。
教科書や新聞に科学記事を書きながら、フーコーはさまさざまな実験をした。
26歳のとき、太陽表面の詳細な写真撮影にはじめて成功。
30歳のときには、光の測定実験をおこない、光の速度を、秒速31万3000キロメートルと求めた。(現在、光速は真空中で約30万キロメートルとされている)
31歳で、空気中の光は、水中よりも速く進むことを証明。
32歳で「フーコーの振り子」の実験により、地球が自転していることを証明した。
そのほか、鏡面の製作法を考案したり、大きな反射望遠鏡主鏡を製作したりした後、1868年2月、多発性硬化症のため、パリで没した。48歳だった。

哲学者のミシェル・フーコーとはちがう。
「フーコーの振り子」を知っている人は多いかもしれない。
東京の上野にある国立科学博物館は、太古からの化石や動物の剥製から隕石や月の石まである、静かな、とてもすてきなところだけれど、あそこに「フーコーの振り子」がある。
建物の何階ぶんかを打ち抜いた、とても高いところから長いワイヤーで、大きな金属の球が吊り下げられ、その球がすごくゆっくりとしたペースで地上すれすれを振れている。これが「フーコーの振り子」で、ちょっと見にはわからないけれど、その振れる軌道面がわずかずつ回転している。これが地球の自転を示す証拠で、地球が自転しているから、振り子の振動面が自転と逆方向に回転していくのである。
32歳のフーコーは、パリのパンテオンで、長さ67メートルのワイヤーで直径30センチメートルの鉄球を吊り下げて振り子とし、これを揺らせ、その振動面がしだいに回転していくのをこの公開実験によって証明して見せた。

じつは、振動面が回転していくことは、それ以前から知られていたらしい。でも、これが地球の自転の証明になるとは、フーコー以前には誰も気づかなかった。毎日見ているものの意味を気づかぬまま死んでいく人は、限りなく多い。

高校生のとき、物理の授業で振り子の実験をした。精密さを期するため、実験室の窓、カーテンを閉め切って、息をかけないようマスクをしておこなった。振り子の球を揺らせるのにも、指で振らせると、横揺れが起きるので、糸で作った輪に球をひっかけ、糸の先を横の器具に結わえておいて、ぴんと張ったその糸を、ライターの火で焼き切って、振り子をスタートさせた。
振り子というと、なんだか懐かしい。
(2024年9月18日)



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9月12日・ガトリングの発明

2024-09-12 | 科学
9月12日は、サッカー選手、長友佑都(ながともゆうと)が生まれた日(1986年)だが、米国の発明家、リチャード・ガトリングの誕生日でもある。クランクをまわしながら連射できる機関砲「ガトリングガン」を発明した人である。

リチャード・ジョーダン・ガトリングは、1818年、米国ノースカロライナ州のハートフォード郡で生まれた。父親は奴隷を所有する農場主だった。父親は機械の発明家で、彼が綿の種まき機を作るのを息子リチャードは手伝った。
学校を卒業したリチャード・ガトリングは、学校教師、商人などをしながら発明にとりくみ、綿の種まき機をベースにして、米や小麦など、ほかの穀物の種子をまく機械を考案した。彼は発明した種まき機を製造する会社を興し、この事業は軌道に乗り、成功をおさめた。彼が発明した種まき機は、米国の農業に革命をもたらしたと言われる。
20代で天然痘にかかったのを契機に医学に興味をもちだし、彼はオハイオ医学大学に通って、32歳で医学博士となった。同年、麻の粉砕機を発明し、39年のときには、蒸気機関で動く鋤機を発明し、医者にはならなかった。
彼が43歳になる年に南北戦争がはじまると、ガトリングは、もっと速く弾丸が連射できる機関砲が作れたらとひらめき、開発に取り組んだ。そうして、44歳のとき、1分間に350発の弾丸を発射できる手回し式のガトリング砲(ガトリングガン)を完成した。
完成したときには南北戦争はすでに終わっていたが、政府軍に採用され、同機を製造する彼のガドリングガン・カンパニーは急成長を遂げた。
彼は75歳のとき、それまで手回しだったガドリングガンを電気モーター駆動に替え、1分間に3000発の弾丸を発射できるように改良した。
機関砲以外にも、ガトリングは羊毛の蒸気洗浄や、圧縮空気による動力機関など、さまざまな発明をした後、1903年2月、ニューヨークで没した。84歳だった。

セルジオ・コルブッチ監督のイタリア映画「続・荒野の用心棒(原題は「ジャンゴ」)」というマカロニ・ウエスタンの名作がある。フランコ・ネロ演じる主人公ジャンゴというガンマンが、なぜか棺桶をロープでひきずって旅している。死体が入っているのだろう、重たそうにロープで引きずって歩く。とても不気味。その後、彼は何十人もの敵に取り囲まれ、絶体絶命のピンチにおちいる。すると彼は棺桶のふたを開け、なかからガトリングガンを取りだし、クランクをまわしながら、ダダダダ……と片っ端からなぎ倒すように撃ち、敵をみな殺しにしてしまうのである。
世の中には恐ろしい兵器もあったものである。

興味深いことに、ガトリングは、南北戦争で多くの兵士が撃ち合い、負傷し、それがもとで病死していくのを知って、ひとりで百人ぶんも撃てるような兵器があれば、兵士もすくなくてすみ、結果的に病死者も減るにちがいないと考えて、この大量殺戮の開発に取り組んだという。まるでノーベルが、自分の発明したダイナマイトがテロや戦闘に使われるのに心を痛め、もっと強力な圧倒的な破壊力をもった兵器を作れば、それが抑止力になって戦争が終わるだろうと考えて、最終兵器の開発に取り組んだのと似ている。
(2024年9月12日)



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『大人のための世界偉人物語2』(金原義明)
人生の深淵に迫る伝記集 第2弾。ニュートン、ゲーテ、モーツァルト、フロイト、マッカートニー、ビル・ゲイツ……などなど、古今東西30人の生きざまを紹介。偉人たちの意外な素顔、実像を描き、人生の真実を解き明かす。人生を一緒に歩む友として座右の書としたい一冊。


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8月26日・ラヴォアジエの頭脳

2024-08-26 | 科学
8月26日は、詩人アポリネールが生まれた日(1880年)だが、化学者ラヴォアジエの誕生日でもある。質量保存の法則を発見した「近代科学の父」である。

アントワーヌ=ローラン・ド・ラヴォアジエは、1743年に仏国パリで生まれた。父親は裕福な弁護士だった。アントワーヌが5歳のとき、母親が没し、彼は莫大な遺産を相続した。
彼はパリ大学の法学部に進み、21歳で弁護士の試験に合格、高等法院の弁学士になった。
法律を専攻しながら、ラヴォアジエは学生時代から地質学、鉱物学、化学、天文学などを積極的に学び、地図の作成に協力したり、各地の石膏の比較研究をしたりしていた。
23歳のとき、フランスの科学アカデミーが「都市の街路にもっとも適する夜間照明の方法」という懸賞論文に応募し、一等を受賞。ルイ15世から金メダルを授与された。
24歳の若さで科学アカデミーの会員となったラヴォアジエは、国王に納める税金を市民から取り立てるという徴税請負人の仕事をはじめ、この仕事から得られる高収入を自分の実験費用にあて、化学実験を繰り返した。そうして、正確な実験により、当時信じられていた学説をつぎつぎと打ち破り、新しい科学理論を打ち立てた。
27歳のころ、お金を支払って貴族となったラヴォアジエは、28歳で同じ徴税請負人仲間の娘と結婚。30歳のとき、化学反応の前と後とで質量は変化しないことを実験で証明し、「質量保存の法則」を発見した。
32歳の年に火薬硝石公社の火薬管理監督官となり、そこに多くの化学者を集めて、さまざまな実験をおこなった。
1789年、46歳のラヴォアジエは『化学原論』を出版し、現在の元素表に相当する物質のリストを発表した。それより長く、この本はヨーロッパの科学の教科書となったが、同じ年、バスティーユ監獄が襲撃され、フランス革命がはじまった。
50歳のとき、ラヴォアジエは革命政府によって指名手配され、自首した。市民から税金を取り立てる徴税請負人として憎まれた彼は革命裁判所で有罪とされ、1794年5月、35分間に26人の首が切り落とされるという流れ作業のギロチンの犠牲者のひとりとなった。50歳だった。同時代の科学者はこういって嘆いた。
「この頭を切り落とすのは一瞬だが、これと同じ頭脳が現れるに、人類は百年は待たなければならないだろう」

米国の3大財閥の一角、デュポン家のことをかつて調べていて、ラヴォアジエにぶつかった。火薬実験室でラヴォアジエが教えた弟子のひとりがエルテール・デュポンで、デュポンは騒乱のフランスから米国へ逃げだし、新大陸で師ラヴォアジエから教わった火薬技術を生かして弾薬生産会社を創業し、兵器産業のデュポン財閥を築いた。

また、英国の科学者ジョン・ドルトンの伝記を読んでいて、同時代の科学者ラヴォアジエに行き当たった。ラヴォアジエは若くしてヨーロッパ中に名を知られた華やかな天才科学者だったが、革命騒ぎに巻き込まれて処刑されてしまった。一方、ドルトンはおよそ派手とは縁のない、地道な観測を続け、生涯独身を通し、地味ながら穏やかな人生を送った科学者だった。二人はとても対照的で、この対照はいろいろなことを考えさせる。
(2024年8月26日)



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8月14日・エルステッドの磁場

2024-08-14 | 科学
8月14日は、『シートン動物記』の作家、アーネスト・シートンが生まれた日(1860年)だが、物理学者、ハンス・エルステッドの誕生日でもある。

ハンス・クリスティアン・エルステッドは、1777年、デンマークのランゲラン島で生まれた。父親は薬局の経営者だった。ハンスには、アナスという弟がいた。
子どものころから父親の薬仕事を手伝っていたハンスは、科学に興味をもちだした。ハンスが16歳のとき、もっぱら家で独学していたハンスとアナスの兄弟は、コペンハーゲン大学を受験してみた。すると、2人とも飛び抜けた成績で合格した。
ハンスは美学と物理学で賞をとり、哲学者カントについての論文で博士号を取得。
24歳のころから3年かけてヨーロッパを巡った後、29歳でコペンハーゲン大学の物理学教授になった。
43歳のころ、ハンス・エルステッドは大学での授業中に実験器具をいじっていて、あることに気がついた。電池のスイッチを入れたり切ったりすると、近くにあった方位磁石が南北以外の方角を指すのだった。
以前から、電気と磁気になにか関係があるのではないかとにらんでいたエルステッドは、それから研究を重ね、電流の流れる線の周囲に、円形の磁場ができることを発見し、これを発表した。
電流が流れると、そこに磁力が発生する、これを発見したのである。
48歳のときには、彼は人類史上はじめてアルミニウムの分離に成功した。それ以前に、すでにアルミニウムと鉄の合金は分離に成功していたが、純粋なアルミニウムの分離にまではいたっていなかった。
エルステッドはデンマーク工科大学の元となる学校を創設した後、1851年3月、コペンハーゲンで没した。73歳だった。

中学のとき、理科の授業で、エルステッドが明らかにした電流と磁場の関係を、砂鉄や方位磁石を使って調べる実験をした覚えがある。教科書にもそれを図式化した図版が載っていた。
電磁波の研究は発展し、その後の無線技術、レーダー、携帯電話、医療のMRIなどへとつながっていく。全人類がエルステッドの恩恵をこうむっている、と言っていいだろう。
(2024年8月14日)


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8月12日・シュレーディンガーの猫

2024-08-12 | 科学
8月12日は、神秘思想家のブラヴァツキー夫人が生まれた日(1831年)だが、理論物理学者、シュレーディンガーの誕生日でもある。「シュレーディンガー方程式」の天才である。

エルヴィン・ルードルフ・ヨーゼフ・アレクサンダー・シュレーディンガーは、1887年、オーストリアのウィーンで生まれた。父親は、遺産相続した蝋布工場の所有者で、余暇を利用して動植物学会で論文を発表する学者肌の資産家だった。母親は科学者の娘だった。裕福で教養の高い家庭で育ったエルヴィンは、両親と家庭教師に教わり、11歳まで学校へ通わなかった。
ウィーン大学に進み、物理学を専攻したシュレーディンガーは、卒業後、講師になったが、第一次世界大戦に際しては、27歳から4年間兵役についた。
戦後、イエナ大学、チューリッヒ大学、ベルリン大学などで教鞭をとり、物理学教授となった。
39歳のとき、量子力学を波動形式でとらえた「波動力学」を提唱。シュレーディンガー方程式を発表し量子力学を一段と発展させた。
46歳の年、ヒトラーがドイツ首相となり、ユダヤ人物理学者が弾圧されるようになると、これを嫌って、ベルリン大学を辞職。英国のオクスフォードへ移った。
同年、英国の理論物理学者ポール・ディラックとともにノーベル物理学賞を受賞。
48歳のとき、思考実験「シュレーディンガーの猫」を発表。
米国、ベルギー、アイルランドなど、さまざまな国の大学で教授職を務めた後、69歳のとき、ウィーン大学へもどり、1961年1月、ウィーンで没した。73歳だった。

ニュートン力学の時代には、初速、空気抵抗、投てき角度がわかれば、投げられた玉は何秒後にこの地点に落下する、と予測ができた。宇宙のすべてのものの未来を計算できた。
しかし、20世紀に入り、相対性理論と量子力学が現れると、予測不能になった。
とくに原子核をまわる電子や中性子といった微細な量子を扱う量子力学の分野では、物体はとつぜん消え、べつの場所に現れるという忍者のような現象があることがわかった。それはいるかもしれないし、いないかもしれない、それを見た人にもよる、という摩訶不思議な世界で、もはや確率でしか表せない、あいまいでよくわからないものになった。
それを風刺したのが「シュレーディンガーの猫」だった。
ここに一個の、ふたで隠された箱を用意して、そのなかにラジウムとガイガーカウンター、青酸ガスの発生装置と、一匹の猫を入れておく。ラジウムから放射能がこぼれれば、仕掛けが反応して、青酸ガスが発生し、猫は死ぬ。けれども、放射能がまだ出ていなくてガスが出なければ、猫は生きている。さて、いま、猫は生きているか死んでいるか? というと、ふたで見えないわけで、つまり、猫は生と死の二つの可能性が重なった二重の状態にある。量子力学とは、そういうものではないか、と、シュレーディンガーは皮肉った。

量子物理学から思想を深めていったシュレーディンガーは、自然の姿に、インドのウパニシャッドに通じるものがあると考えるようになった。シュレーディンガーが57歳のときに出版した『生命とは何か』を読んだけれど、その結論はすごい。
「私は『原子の運動』を自然法則に従って制御する人間である。つまり、私は神である。人と天は一致する」
天才科学者の発言はつねに刺激的だけれど、シュレーディンガーはその最右翼である。
(2024年8月12日)



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7月26日・カール・ユングの夢

2024-07-26 | 科学
7月26日は、劇作家、バーナード・ショーが生まれた日(1856年)だが、心理学者、カール・ユングの誕生日でもある。

カール・グスタフ・ユングは、1875年、スイス、ボーデン湖畔のケスヴィルで生まれた。父親はプロテスタントの牧師だった。
バーゼル大学の医学部に進んだカールは、ゲーテ、カント、ニーチェなど著作を読みふける学生だった。彼は精神医学を専攻し、チューリッヒ大学のブルクヘルツリ精神病院の助手になり、27歳のころ『いわゆるオカルト現象の心理と病理』を出版。
病院の精神科医局長だった31歳のとき、当時、批判の的だったジクムント・フロイトを弁護する論文を発表し、学者たちから非難されたが、これをきっかけにフロイトとの文通がはじまった。
その後、ユングはフロイトといっしょにアメリカ旅行をする親しい間柄となったが、やがてユングはフロイトの学説に異を唱えだし、37歳で『リビドーの変容と象徴』を出版。精神病の原因を性欲に求めるフロイトの解釈を、原因の一部にすぎないと批判。
38歳のとき、ユングはフロイトから訣別状を受けとり、二人の決裂は決定的となった。
ユングは精神病者の妄想と神話との類似性を比較し、アフリカを旅行し、易や道教など中国の思想に触れ、ヨーロッパ以外の文化に触れることで、無意識の領域について研究を深めていった。スイス連邦工業大学やバーゼル大学の教授を務め、ハーバード大学やジュネーヴ大学の名誉博士号を受け、1961年6月、チューリッヒで没した。85歳だった。

フロイトはそれまで意味がないとされていた夢を検討し、無意識の世界に光をあてたが、ユングはそれを発展させ、無意識の領域を広げた。ユングによれば、わたしたちは無意識の領域で、人類の太古の記憶や未来ともつながっているという。

「グレート・マザー」「シンクロニシティ」など、ユングが提議した問題には興味深いものが多いけれど、読んだなかでは、つぎのエピソードがいちばん強く印象に残っている。

「私の同僚の医師の場合です。彼は私よりもすこし年上で、たまに一緒になると、きまって私の『夢判断』をからかっておりました。ある日街で出会いますと、彼は私にこう話しかけました『やあ、お元気ですか。相変らず夢判断ですか。ときに、ぼくはこの間馬鹿馬鹿しい夢を見ましたよ。こいつもなにかの意味があるんですかな。』彼が見た夢は次のようなものでした。『私は高山の険しい雪渓の上を登っていた。だんだん上へ登ってゆく。すばらしい快晴だ。登るにつれて、いよいよ気分がよくなる。こうしていつまでも登りつづけられたらなあ、と私は思った。頂上へへたどりついたときの幸福感と優越感は実に大したもので、天まで登れそうな気がしてきた。事実、私は空中を登っていった。わたしは完全な恍惚感の中で目がさめた。』
 私は彼にこう答えました。『困りましたね。あなたはどうやら登山は止められないようです。今後独りでゆくことだけは、ぜひとも止めて下さいよ。ゆくときには、案内人を二人連れていって下さい。案内人には絶対服従を誓うことですね。』彼は笑い出して、『むずかしい相談ですね。』といって別れました。」(カール・グスターフ・ユング著、江野専次郎訳『ユング著作集3 こころの構造』日本教文社)
同僚は、ユングから忠告を受けた三カ月後、案内人を連れずに登山して転落死した。
(2024年7月26日)



●おすすめの電子書籍!

『心を探検した人々』(天野たかし)
心理学の巨人たちとその方法。心理学者、カウンセラーなど、人の心を探り明らかにした人々の生涯と、その方法、理論を紹介する心理学読本。パブロフ、フロイト、アドラー、森田、ユング、フロム、ロジャーズ、スキナー、吉本、ミラーなどなど。われわれの心はどう癒されるのか。


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7月22日・ベッセルの視差

2024-07-22 | 科学
7月22日は、「フォークの神さま」岡林信康が生まれた日(1946年)だが、天文学者、ベッセルの誕生日でもある。宇宙の彼方の恒星までの距離をはじめて計算した人である。

フリードリヒ・ヴィルヘルム・ベッセルは、1784年、ドイツのミンデンで生まれた。父親は役所に務める公務員だった。
14歳でブレーメンの貿易会社に奉公に出たフリードリヒは、そこで貨物船の航行技術に接するうち、数学への興味を深めた。また、船の位置を決定する根拠となる天文学に関心をもつようになった。
貿易会社を辞めたベッセルは、ブレーメンに近い天文台の助手に転職した。彼はそこで3千個以上の恒星の位置を測定する観測、研究に関わった。
この業績が買われ、彼は25歳でケーニヒスベルク天文台の所長に任命された。この天文台で観測、研究を続け、彼は5万個以上の恒星の位置を測定した。
1846年3月、ケーニヒスベルクで後腹膜腫瘍により没した。

ベッセルが、恒星までの距離を算出した方法は、おおよそこういう手順らしい。
彼はまず「大気差」というものを精密に測った。「大気差」とは、恒星からの光が宇宙を伝わってきて、地球の大気圏に入ると、光が屈折し、見かけの高度が、実際の高度より大きくなる現象のことで、この差は水平線近くに見える恒星ほど大きくなる。大気差は大気の温度や気圧などによっても変化するので、現在でも各天文台ごとに観測データをもとに独自の「大気差」を算出しているのが実情だというが、ケーニヒスベルク天文台の所長となったベッセルは、膨大な観測データから求めた「大気差」を発表した。
つぎにベッセルは「視差」を計算した。
たとえば、はくちょう座61番星の位置をある日に観測したとすると、その半年後、地球が太陽のちょうど反対側にまわったときに、いま一度61番星を観測する。すると、2度の観測の角度の差が求められるわけで、この角度に、さらに地球が太陽をまわる軌道の直径を底辺とした三角形を想定すれば、恒星までの距離が計算できる。
こうやって、恒星までの距離は求められた。

もちろんベッセルだけが恒星の距離を計算していたわけではなく、当時の天文学者たちは競争で算出にしのぎを削っていたけれど、ベッセルの業績は突出していた。
現在では、宇宙に打ち上げられたヒッパルコス衛星による観測で、より正確な恒星までの距離が求められているが、ベッセルが算出した値はいい線をいっていたらしい。

ベッセルはまた、天体の運動を観測して得たデータのずれを発見して、そのすぐそばに、まだ見つかっていない星が隠れていると推測していて、それが後に発見されたりもしている。その功績により、小惑星や月面のクレーターに「ベッセル」の名が冠せられている。

日本では江戸幕府の水野忠邦が天保の改革をおこなっていた時代に、こうやって宇宙の彼方の一点をじっと見つめていた人がいるのだと思うと、不思議な心持ちがする。
(2024年7月22日)



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7月11日・ゴーズミットの回転

2024-07-11 | 科学
7月11日は、「ジャケットの帝王」ジョルジオ・アルマーニが生まれた日(1934年)だが、物理学者サミュエル・ゴーズミットの誕生日でもある。

サミュエル・ゴーズミット(ハウトスミット)は、1902年、ネーデルランド(オランダ)のハーグで生まれた。一家はユダヤ系だった。
ネーデルランドのライデン大学で物理学を学んだゴーズミットは、23歳のとき、ジョージ・ウーレンベックとともに電子のスピンを発見。
25歳で博士号を取得し、渡米。米国に帰化し、ミシガン大学の教授に就任した。
第二次大戦中は、MIT(マサチューセッツ工科大学)でレーダーの研究をした。
また大戦中、連合軍側の原爆開発プロジェクト「マンハッタン計画」の一部である、アルソス・ミッションにも携わった。これは、ナチス・ドイツ側の原爆開発の進捗状況をさぐろうとするもので、ゴーズミットはヨーロッパへおもむき、ドイツ側の研究者であるヴェルナー・ハイゼンベルクやオットー・ハーンらと接触することに成功した。
ゴーズミットは43歳のとき終戦を迎えた。
44歳でミシガン同大学を辞めた後は、ノースウェスタン大学、ネバダ大学、あるいは研究機関に勤め、スペクトルの微細構造を研究する一方で、科学雑誌「物理学レビュー」の編集にも携わった。
1978年12月、ネバダ州リノで没した。76歳だった。

ゴーズミットらが発見した電子のスピンは、おおまかに言うと、こういうものだ。
まず、ナトリウム原子を、通常の環境下で発光させ、それをスペクトル分析すると、A線、B線、C線、D線、E線、F線などの線が見える。
しかし、磁場のかかった環境下にナトリウム原子をおいて、同じようにスペクトルを見ると、D線が複数に分かれている。
これを発見したのがネーデルランドの物理学者ピーター・ゼーマンで、彼の名前をとって、これを「ゼーマン効果」と呼ぶ。
この現象がどうして起きるのかわからなかったのだけれど、これを説明したのが、ゴーズミットとウーレンベックの「電子のスピン」説で、彼らは、原子核のまわりをまわっている電子は、原子核のまわりを公転する軌道角運動量のほかにも運動量をもっているのではないかと疑った。そして、電子が大きさを持ち、電子自身がくるくると自転しているのではないか、という仮説をたてた。電子が自転することで角運動量をもち、電子ごとに自転の回転方向がちがうために、エネルギー準位が異なることになり、それでスペクトルが複数に分かれて表れたのではないか、と。

それまで、電子には、たいして自由が許されていなかった。電子はただ点として、その位置と動きまわる速度によって運動量があるだけの存在だった。
ところが、ゴーズミットらによって、電子にはそれぞれの自由があって、彼らは自分でくるくるとスピンしている、という主張がなされた。
ここに、ごく小さい粒子を扱う量子力学は、大きな一歩を進んだわけである。
願わくば、われらに、スピンする自由を。
(2024年7月11日)



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6月26日・トムソンの絶対

2024-06-26 | 科学
6月26日は、作家パール・バックが生まれた日(1892年)だが、物理学者のウィリアム・トムソンの誕生日でもある。絶対温度の提案者である。

ウィリアム・トムソンは、1824年、英国北アイルランドのベルファストで生まれた。父親は大学の数学教授で、ウィリアムは2人兄弟の下のほうだった。
ウィリアムはまれにみる秀才で、わずか10歳のとき、父親が教授を務めるグラスゴー大学への入学を許可された。
同大学をへて、ケンブリッジ大学などで学んだ後、22歳の若さでグラスゴー大学の教授に就任。英国の大学で初となる物理学実験室を作った。
トムソンは、24歳のとき、絶対温度目盛を導入し、27歳で熱力学の第二法則を定式化し、28歳でジュール=トムソン効果を発見し、42歳のときには、大西洋横断電信ケーブルを敷設した。
この大事業を成し遂げた功績により、トムソンはナイトの称号を受け、サー・ウィリアム・トムソンとなった。
68歳のとき、男爵の爵位を受け、「ケルヴィン卿」となった。絶対温度の単位を「ケルヴィン(K)」というのは、これに由来する。
古典物理学のほぼすべての分野に業績を残したトムソンは、グラスゴー大学の総長を務めた後、1907年12月、スコットランドのラーグスで没した。83歳だった。

絶対零度というのは、摂氏マイナス273.15度のことで、温度はこれ以上下がることはない。
この絶対零度を0度として、目盛りをつけたのがトムソンが使った絶対温度(単位はK、ケルヴィン)で、目盛りは摂氏と同じ幅なので、273.15Kが摂氏0度になる。

古典力学の範囲内で言えば、絶対零度のとき、すべての熱運動は止まってしまう。
高校生のとき、物理の先生が液体窒素を魔法瓶に入れてもってきて見せてくれた。バラの花をそのなかにちょっとつけて取り出すと、もうカチンカチンで、軍手をはめた手でさわると、かわききったクロワッサンの皮のように、花びらがパリパリと砕けるのだった。
液体窒素の沸点が77K、摂氏マイナス196度だというから、絶対零度の世界というのは、これよりまだ77度低い世界なのである。

もちろんかなわない夢だけれど、絶対零度の世界に放りこまれて、まったく運動のない世界というのを、一度体験してみたい。
いったいどんな感じがするだろう。想像するだけで、甘美な心持ちになる。
トムソンのような頭のいい人は、逆に想像的な夢に欠けているようで、「空気より重たい機械が空を飛ぶはずがない」と飛行機の可能性を否定し、X線はうそだと言い切っていたというから、人の頭には向き不向きがあるのだ。
(2024年6月26日)



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