1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

10月25日・ガロアの流儀

2024-10-25 | 科学
10月25日は、画家パブロ・ピカソが生まれた日(1881年)だが、天才数学者エヴァリスト・ガロアの誕生日でもある。

エヴァリスト・ガロアは、1811年、フランスのパリ郊外の町ブール=ラ=レーヌで生まれた。父親は寄宿学校の校長だった。エヴァリストは3人きょうだいのまん中で、上に姉、下に弟がいた。
学校では成績優秀ながら反抗的で、やがて数学に熱中しだし、ほかの教科をかえりみなくり、中学生のときには難解な数学書を小説でも読むようにすらすらと読んでいた。
17歳で最初の論文「循環連分数に関する一定理の証明」を書き、数学の学者に託したが、それは黙殺され紛失してしまった。また同時期に父親が、教会から誹謗中傷を受けてノイローゼにおちいった末、自殺した。
そんなときに、理工科学校の入学試験を受けたエヴァリストは、口頭試問の試験官に腹を立て、試験官の頭にチョークを投げつけて退出してしまった。
ガロアは師範学校に進み、奨学金を受けてそこに通いだした。
勉学のかたわら、ガロアは数学の論文をフランス学士院に提出したが、それが担当者が亡くなる不運にみまわれ、また紛失してしまった。
ガロアは荒れ、不満を現行の政治体制にぶつけるべく、急進的な共和派の政治結社に加わり、政治活動に力を入れだした。
学校の体制にも批判的だったガロアは、19歳のときに放校処分となった。彼は書店で週に一度、代数学の講義を開きながら、さらに政治活動に身を入れた。
ガロアは解散させられた国民軍の制服を着て歩いたために逮捕され、禁固刑を受けた。刑務所内でも数学の論文を書いていたガロアは、20歳のとき仮釈放された。
出所したガロアは、若い女に恋をした。彼は言い寄ったが、女に拒絶され、女の情夫と、女の従兄との二人から決闘を申し込まれた。
死を予感したガロアは、決闘を前に徹夜し、数学論文を推敲し、数学のさまざまなアイディアをノートに書き綴った。その最後の余白にこう記して決闘場所へ向かった。
「もう時間がない」(L・インフェルト著、市井三郎訳『ガロアの生涯』日本評論社)
早朝の決闘で腹部を撃たれたガロアは、その場に放置され、数時間後に通りかかった農婦によって病院へ担ぎ込まれた。病院へ駆けつけた弟にガロアはこう言った。
「泣くな。ぼくも、ずいぶん、勇気が要る。二十歳で、死ぬんだ、からな。」(同前)
ガロアは決闘の翌日の1832年5月31日に没した。弱冠20歳だった。

数学の芸術的作品とされるガロアの群論は、あまりに時代に先駆けていたために当時の数学者たちには理解できず、ガロアの論文が評価されはじめたのは、彼の死後ようやく半世紀がたってからのことだった。

当時はフランス産業革命の時代であり、王政と市民がぶつかり、仏国内は騒然としていた。ガロアが熱烈な共和主義者だったこと、彼がたてつづけに2件の決闘を予定していたこと、負傷して放置されたことなどから、謀殺説も存在する。
はげしい生きざまだった。秀才ならいざ知らず、天才は生きるのがむずかしい。
(2024年10月25日)



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『科学者たちの生涯 第一巻』(原鏡介)
人類の歴史を変えた大科学者たちの生涯、達成をみる人物評伝。ダ・ヴィンチ、コペルニクスから、ガロア、マックスウェル、オットーまで。知的探求と感動の人間ドラマ。


●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp


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10月5日・ロバート・ゴダードの苦難

2024-10-05 | 科学
10月5日は、大百科事典『百科全書』の編者ドゥニ・ディドロが生まれた日(1713年)だが、「ロケットの父」ロバート・ゴダードの誕生日でもある。

ロバート・ハッチングズ・ゴダードは、1882年、米国マサチューセッツ州ウースターで生まれた。少年時代にH・G・ウェルズの『宇宙戦争』を読んで、宇宙ロケットへの関心を強めた彼は、クラーク大学、プリンストン大学に入り、スミソニアン協会から資金援助を受けてロケット・モーターの設計に取り組んだ。
37歳で月飛行の可能性について論じ、44歳の年には、マサチューセッツ州内で初の液体燃料ロケットを打ち上げ実験をおこなった。液体燃料で推進力を得る人間の腕くらいの大きさのロケットは、2.5秒で41フィート(約12メートル)の高さまで飛んだ。まだ複葉機の戦闘機が飛んでいた第一次大戦が終わったばかりのころの話である。
その後、実験場をニューメキシコ州ロズウェルに移してロケット研究を続けた。
第二次世界大戦中は、ゴダードは海軍のためにロケット工学の研究を行ったが、海軍は彼の研究の価値がほとんどわからなかったという。ただし、ゴダードのロケット研究は、海軍の艦艇から飛行機を発進させるカタパルト技術に生かされた。これが、現代においてなお、米軍が極秘中の極秘の軍事機密として同盟国にも明かさないカタパルト技術となって受け継がれている。
ゴダードは喉頭ガンのため、第二次大戦が終わる直前の、1945年8月10日に没した。62歳だった。ゴダードが発明した214件の全特許は、彼の死後、合衆国政府が未亡人から買い取った。

ゴダードの頭脳は時代の先を行き過ぎていたために、当時の人々には理解されなかった。彼は真空の宇宙空間でもロケットは推進できると主張したが、科学者やマスメディアから嘲笑された。
また、ロケットの発射実験をした際にも、目標の高度を達成したのにもかかわらず、その後、落下してきたロケットが地面にぶつかって壊れたのを見た新聞記者が、「ロケットは空中分解した」と誤報を書き立て、それがもとで実験中止に追い込まれたこともあった。
ゴダードはしだいに人を信用しなくなり、たったひとりで実験を続けるようになった。
ため息の出る話である。先をゆく人というのは、苦労する。

ゴダードはこう言っている。
「何が不可能かを言うのはむずかしい。昨日の夢は、今日の希望となり、また、明日の現実となるのだから。(It is difficult to say what is impossible, for the dream of yesterday is the hope of today and the reality of tomorrow.)」(QuotationsPage.com and Michael: Moncurhttp://www.quotationspage.com/)
(2024年10月5日)



●おすすめの電子書籍!

『ビッグショッツ』(ぱぴろう)
伝記読み物。ビジネス界の大物たち「ビッグショッツ」の人生から、生き方や成功のヒントを学ぶ。フェイスブックのマーク・ザッカーバーグ、ソフトバンクの孫正義から、デュポン財閥のエルテール・デュポン、ファッション・ブランドのココ・シャネル、金融のJ・P・モルガンまで、古今東西のビッグショッツ30人を収録。大物たちのドラマティックな生きざまが躍動する。

●電子書籍は明鏡舎。
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9月22日・ファラデーのローソク

2024-09-22 | 科学
9月22日は、映画女優アンナ・カリーナが生まれた日(1940年)だが、科学者マイケル・ファラデーの誕生日でもある。半ペニー硬貨を使ったボルタ電池を作った人である。

マイケル・ファラデーは、1791年、英国イングランド、ロンドンに近いニューイントン・バッツで生まれた。父親は鍛冶屋で、マイケルは4人きょうだいの3番目の子だった。
父親がからだが弱く、貧しかったため、マイケルたち子どもは早くから働きに出た。
13歳のとき、近所の文具屋の小僧になったマイケルは、1年勤めた14歳で同じ文具店がやっていた製本所の徒弟になった。そこで7年間の年季奉公をするあいだに、彼はいろいろな本を読み、化学者の講義を聴きに行くなど、化学への関心を深めていった。
21歳で年季が明けたマイケルは、晴れて職人として雇われることになったが、就職先の親方が怒りっぽいのに閉口し、べつの道を模索しだした。そのとき、以前講義を聴いた王立協会のサー・ハンフリー・デビーに、講義を聴いてとった分厚いノートを同封して就職の希望を書いた手紙を出したのが縁で、彼は王立研究所の助手となった。
ファラデーはサー・デビーの助手として新発見をつぎつぎと成し遂げた。
32歳のとき、塩素の液化に成功。34歳でベンゼンを発見。40歳のとき、電磁誘導を発見。
そのほか、ファラデーの電気分解の法則の確立、電気分解の法則の発見、物質が磁場に対して反発する反磁性の発見、電磁場によって光の偏光面が回転するファラデー効果の発見などなど、さまざまな分野で目覚ましい業績をあげた。
41歳のとき、オックスフォード大学の名誉博士号となり、スウェーデン王立科学アカデミーの外国人会員や、フランス科学アカデミー外国人会員にも選ばれたファラデーは、67歳のとき、実験の現場から引退し、王室のはからいで用意されたロンドン郊外にある宮殿で余生を送った後、1867年8月、同宮殿内の自宅で椅子にもたれて没した。75歳だった。

身分差別のはげしい英国のことで、ファラデーは科学者として認められても、貴族階級に差別を受け続けた。師匠の妻、デビー夫人はファラデーを同じ食事のテーブルにつかせず、移動する際も彼を馬車の馭者台にすわらせた。
ファラデーが30歳のころから、実験の功績をめぐって彼と師サー・デビーは仲たがいし、以後、師は弟子に嫉妬するようになった。ファラデーが王立協会会員に推薦されると、師匠は猛反対した。しかし、結局ファラデーは協会のフェローに選ばれ、34歳のとき、サー・デビーの後任として英国王立実験所長の職に就いた。サー・デビーはファラデーが38歳のとき、亡くなっている。

高校のとき、物理学の先生からファラデーについて教わった。コイルのそばで磁石を動かすとそのコイルに電圧が生じるという電磁誘導を発見したファラデーは数学的教養がほとんどなかったが、そのおかげで自由な発想ができ、実験によって新しい科学的偉業をつぎつぎと打ち立てた。ニュートン力学にしばられた数学のできる学者たちは最初彼を笑ったが、すぐに笑えなくなった。ファラデーによって、人類はニュートン力学の外へはじめて一歩を踏みだしたのである、と先生はおっしゃった。
岩波文庫のファラデー著『ロウソクの科学』を読んだ。ロウソクの芯の先だけが燃えて、なぜ芯が燃え進まないのか、といったところから話がはじまり、実験と考察が積み重ねられ、終わりのほうに日本製のロウソクをとても褒めて書いてあった。

ファラデーはナイトの勲章授与の話をことわったそうだ。いまは亡きデヴィッド・ボウイも勲章授与の打診があったが、ことわっている。そんなことも思いだす。
(2024年9月22日)



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9月18日・レオン・フーコーの振り子

2024-09-18 | 科学
9月18日は、映画女優グレタ・ガルボが生まれた日(1905年)だが、物理学者レオン・フーコーの誕生日でもある。

ジャン・ベルナール・レオン・フーコーは、1819年、フランスのパリで生まれた。父親は出版業をしていた。からだが弱かったため、学校に通えず、もっぱら家庭教師に学んだジャンは、はじめ医師を目指したが、血を見るのが怖く、また体力がないこともあって、断念し、物理学や光学を学び、科学ライターになった。
教科書や新聞に科学記事を書きながら、フーコーはさまさざまな実験をした。
26歳のとき、太陽表面の詳細な写真撮影にはじめて成功。
30歳のときには、光の測定実験をおこない、光の速度を、秒速31万3000キロメートルと求めた。(現在、光速は真空中で約30万キロメートルとされている)
31歳で、空気中の光は、水中よりも速く進むことを証明。
32歳で「フーコーの振り子」の実験により、地球が自転していることを証明した。
そのほか、鏡面の製作法を考案したり、大きな反射望遠鏡主鏡を製作したりした後、1868年2月、多発性硬化症のため、パリで没した。48歳だった。

哲学者のミシェル・フーコーとはちがう。
「フーコーの振り子」を知っている人は多いかもしれない。
東京の上野にある国立科学博物館は、太古からの化石や動物の剥製から隕石や月の石まである、静かな、とてもすてきなところだけれど、あそこに「フーコーの振り子」がある。
建物の何階ぶんかを打ち抜いた、とても高いところから長いワイヤーで、大きな金属の球が吊り下げられ、その球がすごくゆっくりとしたペースで地上すれすれを振れている。これが「フーコーの振り子」で、ちょっと見にはわからないけれど、その振れる軌道面がわずかずつ回転している。これが地球の自転を示す証拠で、地球が自転しているから、振り子の振動面が自転と逆方向に回転していくのである。
32歳のフーコーは、パリのパンテオンで、長さ67メートルのワイヤーで直径30センチメートルの鉄球を吊り下げて振り子とし、これを揺らせ、その振動面がしだいに回転していくのをこの公開実験によって証明して見せた。

じつは、振動面が回転していくことは、それ以前から知られていたらしい。でも、これが地球の自転の証明になるとは、フーコー以前には誰も気づかなかった。毎日見ているものの意味を気づかぬまま死んでいく人は、限りなく多い。

高校生のとき、物理の授業で振り子の実験をした。精密さを期するため、実験室の窓、カーテンを閉め切って、息をかけないようマスクをしておこなった。振り子の球を揺らせるのにも、指で振らせると、横揺れが起きるので、糸で作った輪に球をひっかけ、糸の先を横の器具に結わえておいて、ぴんと張ったその糸を、ライターの火で焼き切って、振り子をスタートさせた。
振り子というと、なんだか懐かしい。
(2024年9月18日)



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9月12日・ガトリングの発明

2024-09-12 | 科学
9月12日は、サッカー選手、長友佑都(ながともゆうと)が生まれた日(1986年)だが、米国の発明家、リチャード・ガトリングの誕生日でもある。クランクをまわしながら連射できる機関砲「ガトリングガン」を発明した人である。

リチャード・ジョーダン・ガトリングは、1818年、米国ノースカロライナ州のハートフォード郡で生まれた。父親は奴隷を所有する農場主だった。父親は機械の発明家で、彼が綿の種まき機を作るのを息子リチャードは手伝った。
学校を卒業したリチャード・ガトリングは、学校教師、商人などをしながら発明にとりくみ、綿の種まき機をベースにして、米や小麦など、ほかの穀物の種子をまく機械を考案した。彼は発明した種まき機を製造する会社を興し、この事業は軌道に乗り、成功をおさめた。彼が発明した種まき機は、米国の農業に革命をもたらしたと言われる。
20代で天然痘にかかったのを契機に医学に興味をもちだし、彼はオハイオ医学大学に通って、32歳で医学博士となった。同年、麻の粉砕機を発明し、39年のときには、蒸気機関で動く鋤機を発明し、医者にはならなかった。
彼が43歳になる年に南北戦争がはじまると、ガトリングは、もっと速く弾丸が連射できる機関砲が作れたらとひらめき、開発に取り組んだ。そうして、44歳のとき、1分間に350発の弾丸を発射できる手回し式のガトリング砲(ガトリングガン)を完成した。
完成したときには南北戦争はすでに終わっていたが、政府軍に採用され、同機を製造する彼のガドリングガン・カンパニーは急成長を遂げた。
彼は75歳のとき、それまで手回しだったガドリングガンを電気モーター駆動に替え、1分間に3000発の弾丸を発射できるように改良した。
機関砲以外にも、ガトリングは羊毛の蒸気洗浄や、圧縮空気による動力機関など、さまざまな発明をした後、1903年2月、ニューヨークで没した。84歳だった。

セルジオ・コルブッチ監督のイタリア映画「続・荒野の用心棒(原題は「ジャンゴ」)」というマカロニ・ウエスタンの名作がある。フランコ・ネロ演じる主人公ジャンゴというガンマンが、なぜか棺桶をロープでひきずって旅している。死体が入っているのだろう、重たそうにロープで引きずって歩く。とても不気味。その後、彼は何十人もの敵に取り囲まれ、絶体絶命のピンチにおちいる。すると彼は棺桶のふたを開け、なかからガトリングガンを取りだし、クランクをまわしながら、ダダダダ……と片っ端からなぎ倒すように撃ち、敵をみな殺しにしてしまうのである。
世の中には恐ろしい兵器もあったものである。

興味深いことに、ガトリングは、南北戦争で多くの兵士が撃ち合い、負傷し、それがもとで病死していくのを知って、ひとりで百人ぶんも撃てるような兵器があれば、兵士もすくなくてすみ、結果的に病死者も減るにちがいないと考えて、この大量殺戮の開発に取り組んだという。まるでノーベルが、自分の発明したダイナマイトがテロや戦闘に使われるのに心を痛め、もっと強力な圧倒的な破壊力をもった兵器を作れば、それが抑止力になって戦争が終わるだろうと考えて、最終兵器の開発に取り組んだのと似ている。
(2024年9月12日)



●おすすめの電子書籍!

『大人のための世界偉人物語2』(金原義明)
人生の深淵に迫る伝記集 第2弾。ニュートン、ゲーテ、モーツァルト、フロイト、マッカートニー、ビル・ゲイツ……などなど、古今東西30人の生きざまを紹介。偉人たちの意外な素顔、実像を描き、人生の真実を解き明かす。人生を一緒に歩む友として座右の書としたい一冊。


●電子書籍は明鏡舎。
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8月26日・ラヴォアジエの頭脳

2024-08-26 | 科学
8月26日は、詩人アポリネールが生まれた日(1880年)だが、化学者ラヴォアジエの誕生日でもある。質量保存の法則を発見した「近代科学の父」である。

アントワーヌ=ローラン・ド・ラヴォアジエは、1743年に仏国パリで生まれた。父親は裕福な弁護士だった。アントワーヌが5歳のとき、母親が没し、彼は莫大な遺産を相続した。
彼はパリ大学の法学部に進み、21歳で弁護士の試験に合格、高等法院の弁学士になった。
法律を専攻しながら、ラヴォアジエは学生時代から地質学、鉱物学、化学、天文学などを積極的に学び、地図の作成に協力したり、各地の石膏の比較研究をしたりしていた。
23歳のとき、フランスの科学アカデミーが「都市の街路にもっとも適する夜間照明の方法」という懸賞論文に応募し、一等を受賞。ルイ15世から金メダルを授与された。
24歳の若さで科学アカデミーの会員となったラヴォアジエは、国王に納める税金を市民から取り立てるという徴税請負人の仕事をはじめ、この仕事から得られる高収入を自分の実験費用にあて、化学実験を繰り返した。そうして、正確な実験により、当時信じられていた学説をつぎつぎと打ち破り、新しい科学理論を打ち立てた。
27歳のころ、お金を支払って貴族となったラヴォアジエは、28歳で同じ徴税請負人仲間の娘と結婚。30歳のとき、化学反応の前と後とで質量は変化しないことを実験で証明し、「質量保存の法則」を発見した。
32歳の年に火薬硝石公社の火薬管理監督官となり、そこに多くの化学者を集めて、さまざまな実験をおこなった。
1789年、46歳のラヴォアジエは『化学原論』を出版し、現在の元素表に相当する物質のリストを発表した。それより長く、この本はヨーロッパの科学の教科書となったが、同じ年、バスティーユ監獄が襲撃され、フランス革命がはじまった。
50歳のとき、ラヴォアジエは革命政府によって指名手配され、自首した。市民から税金を取り立てる徴税請負人として憎まれた彼は革命裁判所で有罪とされ、1794年5月、35分間に26人の首が切り落とされるという流れ作業のギロチンの犠牲者のひとりとなった。50歳だった。同時代の科学者はこういって嘆いた。
「この頭を切り落とすのは一瞬だが、これと同じ頭脳が現れるに、人類は百年は待たなければならないだろう」

米国の3大財閥の一角、デュポン家のことをかつて調べていて、ラヴォアジエにぶつかった。火薬実験室でラヴォアジエが教えた弟子のひとりがエルテール・デュポンで、デュポンは騒乱のフランスから米国へ逃げだし、新大陸で師ラヴォアジエから教わった火薬技術を生かして弾薬生産会社を創業し、兵器産業のデュポン財閥を築いた。

また、英国の科学者ジョン・ドルトンの伝記を読んでいて、同時代の科学者ラヴォアジエに行き当たった。ラヴォアジエは若くしてヨーロッパ中に名を知られた華やかな天才科学者だったが、革命騒ぎに巻き込まれて処刑されてしまった。一方、ドルトンはおよそ派手とは縁のない、地道な観測を続け、生涯独身を通し、地味ながら穏やかな人生を送った科学者だった。二人はとても対照的で、この対照はいろいろなことを考えさせる。
(2024年8月26日)



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8月14日・エルステッドの磁場

2024-08-14 | 科学
8月14日は、『シートン動物記』の作家、アーネスト・シートンが生まれた日(1860年)だが、物理学者、ハンス・エルステッドの誕生日でもある。

ハンス・クリスティアン・エルステッドは、1777年、デンマークのランゲラン島で生まれた。父親は薬局の経営者だった。ハンスには、アナスという弟がいた。
子どものころから父親の薬仕事を手伝っていたハンスは、科学に興味をもちだした。ハンスが16歳のとき、もっぱら家で独学していたハンスとアナスの兄弟は、コペンハーゲン大学を受験してみた。すると、2人とも飛び抜けた成績で合格した。
ハンスは美学と物理学で賞をとり、哲学者カントについての論文で博士号を取得。
24歳のころから3年かけてヨーロッパを巡った後、29歳でコペンハーゲン大学の物理学教授になった。
43歳のころ、ハンス・エルステッドは大学での授業中に実験器具をいじっていて、あることに気がついた。電池のスイッチを入れたり切ったりすると、近くにあった方位磁石が南北以外の方角を指すのだった。
以前から、電気と磁気になにか関係があるのではないかとにらんでいたエルステッドは、それから研究を重ね、電流の流れる線の周囲に、円形の磁場ができることを発見し、これを発表した。
電流が流れると、そこに磁力が発生する、これを発見したのである。
48歳のときには、彼は人類史上はじめてアルミニウムの分離に成功した。それ以前に、すでにアルミニウムと鉄の合金は分離に成功していたが、純粋なアルミニウムの分離にまではいたっていなかった。
エルステッドはデンマーク工科大学の元となる学校を創設した後、1851年3月、コペンハーゲンで没した。73歳だった。

中学のとき、理科の授業で、エルステッドが明らかにした電流と磁場の関係を、砂鉄や方位磁石を使って調べる実験をした覚えがある。教科書にもそれを図式化した図版が載っていた。
電磁波の研究は発展し、その後の無線技術、レーダー、携帯電話、医療のMRIなどへとつながっていく。全人類がエルステッドの恩恵をこうむっている、と言っていいだろう。
(2024年8月14日)


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8月12日・シュレーディンガーの猫

2024-08-12 | 科学
8月12日は、神秘思想家のブラヴァツキー夫人が生まれた日(1831年)だが、理論物理学者、シュレーディンガーの誕生日でもある。「シュレーディンガー方程式」の天才である。

エルヴィン・ルードルフ・ヨーゼフ・アレクサンダー・シュレーディンガーは、1887年、オーストリアのウィーンで生まれた。父親は、遺産相続した蝋布工場の所有者で、余暇を利用して動植物学会で論文を発表する学者肌の資産家だった。母親は科学者の娘だった。裕福で教養の高い家庭で育ったエルヴィンは、両親と家庭教師に教わり、11歳まで学校へ通わなかった。
ウィーン大学に進み、物理学を専攻したシュレーディンガーは、卒業後、講師になったが、第一次世界大戦に際しては、27歳から4年間兵役についた。
戦後、イエナ大学、チューリッヒ大学、ベルリン大学などで教鞭をとり、物理学教授となった。
39歳のとき、量子力学を波動形式でとらえた「波動力学」を提唱。シュレーディンガー方程式を発表し量子力学を一段と発展させた。
46歳の年、ヒトラーがドイツ首相となり、ユダヤ人物理学者が弾圧されるようになると、これを嫌って、ベルリン大学を辞職。英国のオクスフォードへ移った。
同年、英国の理論物理学者ポール・ディラックとともにノーベル物理学賞を受賞。
48歳のとき、思考実験「シュレーディンガーの猫」を発表。
米国、ベルギー、アイルランドなど、さまざまな国の大学で教授職を務めた後、69歳のとき、ウィーン大学へもどり、1961年1月、ウィーンで没した。73歳だった。

ニュートン力学の時代には、初速、空気抵抗、投てき角度がわかれば、投げられた玉は何秒後にこの地点に落下する、と予測ができた。宇宙のすべてのものの未来を計算できた。
しかし、20世紀に入り、相対性理論と量子力学が現れると、予測不能になった。
とくに原子核をまわる電子や中性子といった微細な量子を扱う量子力学の分野では、物体はとつぜん消え、べつの場所に現れるという忍者のような現象があることがわかった。それはいるかもしれないし、いないかもしれない、それを見た人にもよる、という摩訶不思議な世界で、もはや確率でしか表せない、あいまいでよくわからないものになった。
それを風刺したのが「シュレーディンガーの猫」だった。
ここに一個の、ふたで隠された箱を用意して、そのなかにラジウムとガイガーカウンター、青酸ガスの発生装置と、一匹の猫を入れておく。ラジウムから放射能がこぼれれば、仕掛けが反応して、青酸ガスが発生し、猫は死ぬ。けれども、放射能がまだ出ていなくてガスが出なければ、猫は生きている。さて、いま、猫は生きているか死んでいるか? というと、ふたで見えないわけで、つまり、猫は生と死の二つの可能性が重なった二重の状態にある。量子力学とは、そういうものではないか、と、シュレーディンガーは皮肉った。

量子物理学から思想を深めていったシュレーディンガーは、自然の姿に、インドのウパニシャッドに通じるものがあると考えるようになった。シュレーディンガーが57歳のときに出版した『生命とは何か』を読んだけれど、その結論はすごい。
「私は『原子の運動』を自然法則に従って制御する人間である。つまり、私は神である。人と天は一致する」
天才科学者の発言はつねに刺激的だけれど、シュレーディンガーはその最右翼である。
(2024年8月12日)



●おすすめの電子書籍!

『科学者たちの生涯 第二巻』(原鏡介)
宇宙のルール、現代の世界観を創った大科学者たちの生涯、達成をみる人物評伝。ハンセン、コッホから、ファインマン、ホーキングまで。知的感動のドラマ。


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7月26日・カール・ユングの夢

2024-07-26 | 科学
7月26日は、劇作家、バーナード・ショーが生まれた日(1856年)だが、心理学者、カール・ユングの誕生日でもある。

カール・グスタフ・ユングは、1875年、スイス、ボーデン湖畔のケスヴィルで生まれた。父親はプロテスタントの牧師だった。
バーゼル大学の医学部に進んだカールは、ゲーテ、カント、ニーチェなど著作を読みふける学生だった。彼は精神医学を専攻し、チューリッヒ大学のブルクヘルツリ精神病院の助手になり、27歳のころ『いわゆるオカルト現象の心理と病理』を出版。
病院の精神科医局長だった31歳のとき、当時、批判の的だったジクムント・フロイトを弁護する論文を発表し、学者たちから非難されたが、これをきっかけにフロイトとの文通がはじまった。
その後、ユングはフロイトといっしょにアメリカ旅行をする親しい間柄となったが、やがてユングはフロイトの学説に異を唱えだし、37歳で『リビドーの変容と象徴』を出版。精神病の原因を性欲に求めるフロイトの解釈を、原因の一部にすぎないと批判。
38歳のとき、ユングはフロイトから訣別状を受けとり、二人の決裂は決定的となった。
ユングは精神病者の妄想と神話との類似性を比較し、アフリカを旅行し、易や道教など中国の思想に触れ、ヨーロッパ以外の文化に触れることで、無意識の領域について研究を深めていった。スイス連邦工業大学やバーゼル大学の教授を務め、ハーバード大学やジュネーヴ大学の名誉博士号を受け、1961年6月、チューリッヒで没した。85歳だった。

フロイトはそれまで意味がないとされていた夢を検討し、無意識の世界に光をあてたが、ユングはそれを発展させ、無意識の領域を広げた。ユングによれば、わたしたちは無意識の領域で、人類の太古の記憶や未来ともつながっているという。

「グレート・マザー」「シンクロニシティ」など、ユングが提議した問題には興味深いものが多いけれど、読んだなかでは、つぎのエピソードがいちばん強く印象に残っている。

「私の同僚の医師の場合です。彼は私よりもすこし年上で、たまに一緒になると、きまって私の『夢判断』をからかっておりました。ある日街で出会いますと、彼は私にこう話しかけました『やあ、お元気ですか。相変らず夢判断ですか。ときに、ぼくはこの間馬鹿馬鹿しい夢を見ましたよ。こいつもなにかの意味があるんですかな。』彼が見た夢は次のようなものでした。『私は高山の険しい雪渓の上を登っていた。だんだん上へ登ってゆく。すばらしい快晴だ。登るにつれて、いよいよ気分がよくなる。こうしていつまでも登りつづけられたらなあ、と私は思った。頂上へへたどりついたときの幸福感と優越感は実に大したもので、天まで登れそうな気がしてきた。事実、私は空中を登っていった。わたしは完全な恍惚感の中で目がさめた。』
 私は彼にこう答えました。『困りましたね。あなたはどうやら登山は止められないようです。今後独りでゆくことだけは、ぜひとも止めて下さいよ。ゆくときには、案内人を二人連れていって下さい。案内人には絶対服従を誓うことですね。』彼は笑い出して、『むずかしい相談ですね。』といって別れました。」(カール・グスターフ・ユング著、江野専次郎訳『ユング著作集3 こころの構造』日本教文社)
同僚は、ユングから忠告を受けた三カ月後、案内人を連れずに登山して転落死した。
(2024年7月26日)



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『心を探検した人々』(天野たかし)
心理学の巨人たちとその方法。心理学者、カウンセラーなど、人の心を探り明らかにした人々の生涯と、その方法、理論を紹介する心理学読本。パブロフ、フロイト、アドラー、森田、ユング、フロム、ロジャーズ、スキナー、吉本、ミラーなどなど。われわれの心はどう癒されるのか。


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7月22日・ベッセルの視差

2024-07-22 | 科学
7月22日は、「フォークの神さま」岡林信康が生まれた日(1946年)だが、天文学者、ベッセルの誕生日でもある。宇宙の彼方の恒星までの距離をはじめて計算した人である。

フリードリヒ・ヴィルヘルム・ベッセルは、1784年、ドイツのミンデンで生まれた。父親は役所に務める公務員だった。
14歳でブレーメンの貿易会社に奉公に出たフリードリヒは、そこで貨物船の航行技術に接するうち、数学への興味を深めた。また、船の位置を決定する根拠となる天文学に関心をもつようになった。
貿易会社を辞めたベッセルは、ブレーメンに近い天文台の助手に転職した。彼はそこで3千個以上の恒星の位置を測定する観測、研究に関わった。
この業績が買われ、彼は25歳でケーニヒスベルク天文台の所長に任命された。この天文台で観測、研究を続け、彼は5万個以上の恒星の位置を測定した。
1846年3月、ケーニヒスベルクで後腹膜腫瘍により没した。

ベッセルが、恒星までの距離を算出した方法は、おおよそこういう手順らしい。
彼はまず「大気差」というものを精密に測った。「大気差」とは、恒星からの光が宇宙を伝わってきて、地球の大気圏に入ると、光が屈折し、見かけの高度が、実際の高度より大きくなる現象のことで、この差は水平線近くに見える恒星ほど大きくなる。大気差は大気の温度や気圧などによっても変化するので、現在でも各天文台ごとに観測データをもとに独自の「大気差」を算出しているのが実情だというが、ケーニヒスベルク天文台の所長となったベッセルは、膨大な観測データから求めた「大気差」を発表した。
つぎにベッセルは「視差」を計算した。
たとえば、はくちょう座61番星の位置をある日に観測したとすると、その半年後、地球が太陽のちょうど反対側にまわったときに、いま一度61番星を観測する。すると、2度の観測の角度の差が求められるわけで、この角度に、さらに地球が太陽をまわる軌道の直径を底辺とした三角形を想定すれば、恒星までの距離が計算できる。
こうやって、恒星までの距離は求められた。

もちろんベッセルだけが恒星の距離を計算していたわけではなく、当時の天文学者たちは競争で算出にしのぎを削っていたけれど、ベッセルの業績は突出していた。
現在では、宇宙に打ち上げられたヒッパルコス衛星による観測で、より正確な恒星までの距離が求められているが、ベッセルが算出した値はいい線をいっていたらしい。

ベッセルはまた、天体の運動を観測して得たデータのずれを発見して、そのすぐそばに、まだ見つかっていない星が隠れていると推測していて、それが後に発見されたりもしている。その功績により、小惑星や月面のクレーターに「ベッセル」の名が冠せられている。

日本では江戸幕府の水野忠邦が天保の改革をおこなっていた時代に、こうやって宇宙の彼方の一点をじっと見つめていた人がいるのだと思うと、不思議な心持ちがする。
(2024年7月22日)



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