1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

7月31日・柳田國男の珠

2018-07-31 | 思想
7月31日は、「ハリー・ポッター」の作者、J・K・ローリングが生まれた日(1965年)だが、民族学者の柳田國男(やなぎたくにお)の誕生日でもある。

柳田國男は、1875年、兵庫の辻川で生まれた。父親は儒学者で医者だった。國男は八人兄弟の六男だった。小さいころから読書家で博覧強記だった國男は、東京帝国大学で農政学を学び、卒業後、農商務省に入省。全国の農山村を歩き、実態調査をするようになった。以後、法制局参事や貴族院書記官など役人をしながら、『遠野物語』『山の人生』などを書き、雑誌「郷土研究」を創刊し、民俗学の発展に努めた。またエスペラント語の普及にも尽力した。
1962年8月、東京の自宅で、心臓衰弱のため没した。87歳だった。

柳田國男は13歳のころ、こんな経験をしたと書いている。
そのころ、柳田少年は医者になった長兄の家に身を寄せていたが、となりに蔵書家の小川家があった。読書好きの柳田は小川家へ日参し、本を読ませてもらっていた。
小川家には奥に土蔵があって、土蔵の前に小さな石の祠(ほこら)があった。ある日の昼間に、柳田少年はこっそり祠の石の扉を開けてみた。すると、そこにひと握りの大きさの、きれいなろうせきの珠が納められてあった。
柳田少年はそれを見て興奮し、なんとも言えない気持ちになって、しゃがんで空を見上げた。すると、数十の星が見えた。
「昼間見えないはずだがと思つて、子供心にいろいろ考へてゐた。そのころ少しばかり私が天文のことを知つてゐたので、今ごろ見えるとしたら自分の知つてゐる星ぢやないんだから、別にさがしまはる必要はないといふ心持を取り戻した。
 今考へ直してみても、あれはたしかに異常心理だつたと思ふ。(中略)そんなぼんやりした気分になつてゐるその時に、突然高い空で鵯(ひよどり)がピーッと鳴いて通った。さうしたらその拍子に身がギュッと引きしまつて、初めて人心地がついたのだつた。あの時に鵯が鳴かなかつたら、私はあのまま気が変になつてゐたんぢやないかと思ふのである。
 両親が郷里から布川へ来るまでは、子供の癖に一際違つた境遇におかれてゐたが、あんな風でながくゐてはいけなかつたかも知れない。幸ひにして私はその後実際生活の苦労をしたので救はれた。」(「故郷七十年」『定本 柳田國男集 別巻第三』筑摩書房)

引用部分の終わり「幸ひにして私は……」が味わい深い。
祠にあった石の珠は、小川家の亡くなったおばあさんが、晩年にいつも手で撫でまわしていた形見だったという。
『山の人生』や『遠野物語』もいいけれど、柳田國男というとまず『故郷七十年』を思い出す。
(2018年7月31日)



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『ねずみ年生まれの本』~『いのしし年生まれの本』(天野たかし)
「十二支占い」シリーズ。十二支の起源から、各干支年生まれの性格、対人・恋愛運、成功のヒント、人生、開運法まで。


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7月30日・ヘンリー・フォードの糸

2018-07-30 | ビジネス
7月30日は、『嵐が丘』の作者エミリー・ブロンテが生まれた日(1818年)だが、「自動車王」ヘンリー・フォードの誕生日でもある。

ヘンリー・フォードは、1863年、米国ミシガン州のディアボーンで生まれた。父親はもともと英国イングランド由来のアイルランド移民で、農場経営者だった。母親はベルギー系の移民の娘だった。ヘンリーは8人きょうだいの上から二番目だったが、上の子どもは生後すぐに亡くなっていて、長男として育った。
13歳のとき、ヘンリーは父親から懐中時計をプレゼントされ、それを分解し、組み立てた。父親は彼を農場の後継者として期待していたが、ヘンリーは技術者志望で、愛する母親が亡くなると農場に未練はなくなり、16歳で家を出、近郊の都市デトロイトに出て、機械工の見習いになった。働きながら、簿記の学校に通ったフォードは、28歳のとき、エジソン照明会社の技術者となった。
フォードは働きながら、余暇を利用して内燃機関の研究をし、四輪自動車を試作した。発明王トマス・エジソンはそんな彼のクルマへの夢を励ましたという。
36歳のとき、フォードは資金を出してくれるパトロンを見つけ、独立。自動車会社を興した。しかし、自動車は売れず、フォードが38歳になる年に会社は解散した。
その後、自動車を試作してはレースに参加し、新会社を設立しては追いだされるといった苦闘の時期をへて、40歳の年にフォード・モーター・カンパニーを設立。
彼が45歳のときに発売された大衆車T型フォードは、それまでの常識を破る低価格と、かんたんに運転、修理ができる便利性で、大々的に広告が打たれ爆発的ヒットとなった。
フォードはその後も、資源の再生利用などコスト削減を工夫し、クルマの値下げを実施し、50歳のころ、ベルトコンベアによるライン生産方式を完成させた。
また一方で、社員が自社製品を買えない状況では真の繁栄は実現されないと、フォードは51歳のとき、従業員の賃金を、一日平均2ドル40セントから、最低でも5ドル以上へと一気に倍額以上にアップさせ、世界をあっと言わせた。
裸一貫から世界的企業を築き上げたフォードは、1947年4月、脳内出血のため、ディアボーンで没した。83歳だった。

「人間の努力は、危機に際し、ときにそれに相応する力を突然、奮い起こし、一つの過程を完遂したり、不利に見える状況を都合のよい方向に向けてくれるように思われる。人間の経験を振り返るとき、いつの時代を見てもこの点はあまりにも明白であり、それについて疑問をはさむ余地はほとんどあるまい。
 しかし、神は弱者の召使いではない。神は全力を出しきった者のために存在するのである。そうした人はその瞬間には弱者であるかもしれない。しかし、そうなるのはその人が生まれつき弱いからではなく、むしろ本来その人が強いからであり、その強さをある目的や仕事にすべて捧げてしまったからなのである。最後の力をふりしぼって糸をつかみ、神に呼びかけるとき、その力を惜しまず、その瞬間に持てる力をまったく使い果たしてしまったこの強き人の前に、神が現れ、その人を助けるのである。」(ヘンリー・フォード著、竹村健一訳『藁のハンドル』中公文庫)
(2018年7月30日)


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『ビッグショッツ』(ぱぴろう)
伝記読み物。ビジネス界の大物たち「ビッグショッツ」の人生から、生き方や成功のヒントを学ぶ。フェイスブックのマーク・ザッカーバーグ、ソフトバンクの孫正義から、ファッション・ブランドのココ・シャネル、金融のJ・P・モルガンまで、古今東西のビッグショッツ30人を収録。大物たちのドラマティックな生きざまが躍動する。


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7月29日・アルマウェル・ハンセンと差別

2018-07-29 | 科学
7月29日は、ミズーリ号艦上で太平洋戦争の降伏文書に日本全権代表として署名した重光葵(しげみつまもる)が生まれた日(1887年)だが、医学者、アルマウェル・ハンセンの誕生日でもある。ハンセン病(らい病)を研究した人である。

ゲルハール・ヘンリック・アルマウェル・ハンセンは、1841年、ノルウェーのベルゲンで生まれた。現在のオスロ大学で医学を修め、医師となり、ダニエル・コルネリウス・ダニエルセンと共同でハンセン病の研究をした。
当時、らい病は遺伝性の病気か、あるいは特別な悪い空気による病気だと考えられていたが、ハンセンは細菌によるものではないかと考えた。
32歳のとき、調べたすべての患者から「らい菌」を発見したことを発表。
しかし、彼に対する医学界の評価は低かった。
その後、ハンセンが病気に感染した組織の標本を渡したアルバート・ナイサーが、らい病の病原菌をつきとめたと発表し、菌を発見したハンセンと、病源を特定したナイサーとのあいだで功績をめぐる争いが起きた。
また、ハンセンが女性の患者に、了承を得ることなく、病原菌に感染させようとした事実が発覚し、実害はなかったものの、ハンセンはスキャンダルにまみれた。
ハンセンは、1912年2月、心臓病のため、没した。70歳だった。
らい病、レプラなどと呼ばれていた病気は、彼の名をとって「ハンセン病」「ハンセン氏病」などとよばれるようになった。

ハンセン病は、世界でも、日本でも、患者が不当に差別されてきた病気である。神経が麻痺し、骨や皮膚が変形して、外見が露骨に変わるため、患者は忌み嫌われ、隔離されてきた。病気にかかった患者の鼻汁や体液によって感染することがあるが、感染力はひじょうに弱く、免疫力によって、成人にはほとんど感染しないという。ハンセン病はまた、治療できる病気だが、日本でも差別意識は根強く、患者を不当に差別しようとする、1953年の「らい予防法」が撤廃されたのは1996年のことだった。

ハンセン病と聞くと、無知、そして、差別意識ということを連想する。
日本人は(または人間は)、ほんとうに無知で、差別が好きな生き物である。
人種とか、国籍とか、文化とか、肌の色とか、信仰とか、病気とか、性別とか、やたらと、なにかちがっている点を見つけては少数派を差別したがる。
自分は子どものころから、差別が嫌いで、周囲のそういう態度とは一線を画すよう努力してきたつもりだが、でも、だからといって、自分が無知でないとか、差別主義者でないとかいうのでもない。
ずっと昔「自分は差別主義者か」ということを深刻に考えたことがあって、考えぬいた結果、根本のところでは、完全にはどうしても差別意識を拭い去れないと悟った。あきらめた。でも、だから、せめて、なるたけ差別反対者でありたいと願うようになった。
現代は差別主義者、排他主義者たちの時である。日本で、世界で、彼らの声が大きなうねりとなってこだましている。
(2018年7月29日)



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『こちらごみ収集現場 いちころにころ?』(落合三郎述、金原義明記)
ドキュメント。ごみの現場に、ヤクザが、刑事が、死体が? ごみ収拾現場の最前線で働く男たちの壮絶おもしろ実話。「いちころにころ」の真実とは?


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7月28日・是川銀蔵の花

2018-07-28 | ビジネス
7月28日は、元駐日米国大使、キャロライン・ケネディの母親であるジャクリーン・ケネディが生まれた日(1929年)だが、「最後の相場師」と呼ばれた是川銀蔵(これかわぎんぞう)の誕生日でもある。株式投資の神さまである。

是川銀蔵は、1897年、兵庫県は赤穂で生まれた。本名は小山銀蔵。家は漁師で、銀蔵は7人きょうだいの末っ子だった。
14歳で貿易会社の丁稚奉公に出た銀蔵は、中国や日本国内で金属資源の売買をして大儲けしたり大損したりした後、30歳のころから3年間、図書館に通いつめて資本主義経済について独自の研究を深め、ついに資本主義についてある確信を得た。
34歳のころから株式投資をはじめ、成功して得た資金を元手に朝鮮半島で製鉄会社を興した。太平洋戦争中は内閣への入閣も打診されたほどの大物だった。
戦後、戦犯として逮捕されたが、朝鮮半島住民の嘆願運動により命を救われた。
63歳のころ、土地投機で大金を手に入れ、株式投資に乗りだし、80歳前後には株式市場の仕手戦を演じてその名を馳せ、86歳の年に長者番付で一位となった。
1992年9月、没した。95歳だった。

是川銀蔵の自伝『相場師一代』はまえがきからしてふるっている。
「これまでいくつもの出版社から、自伝の出版を依頼されたが、どのような申し出に対しても断ってきた。わたしが自伝を世に出すことは、大勢の犠牲者を出すことになるという自戒から出版を避けてきたのである。ところが、あるライターが止めるのも聞かず、私の投資一代記なるものを出版してしまった。(中略)それを真に受け株は大儲けできるものを錯覚し、危険も省みずに株式投資に大金をつぎ込み、人生を棒にふるような人達が出てきては困る。(中略)そこで私は自らの人生を自らの手で綴ることにより、株で成功することは不可能に近いという事実を伝える使命があると思い、筆をとることにした。」(『相場師一代』小学館文庫)
そうやって警鐘を鳴らすのだと言って書きだしながら、本を読み進んで彼の人生をたどっていくと、自分は株式投資で大成功を収めた、自分には研究があり実績がある、自信がある、株をやるならこういう投資方針でやれ、という展開になるのである。

それはともかく、太平洋戦争直後、GHQのマッカーサー元帥が、日本の適性人口は4千万だと布告したのに反発を覚え、是川が、
「よし、ワシは人口が一億人になっても食料は自給できる体制を作ってやる」(同前)
と決意し、米の二期作の研究に没頭した話は感動的だった。その農業研究にひと区切りつけた後、彼は大相場師としてふたたび株式市場に乗りだしたのである。

自画自賛のオンパレードで、どこまで信じていいのやら判断に迷う。べつの書物によれば、是川は税務署に狙い撃ちにされ、晩年はそうとう窮していたとも聞く。
しかし、さすが忠臣蔵の伝統を受け継ぐ土地柄出身で、豪快、痛快な人生を生きたことはまちがいない。こんな風に派手に、大きく自分自身にスポットライトをあてて生きた人生はみごとで、花のある男というのはいるものである。
(2018年7月28日)



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『マネーマントラ』(天野たかし)
つぶやくだけでグングン金運が上昇、ウホウホお金が儲かってしまうという魅惑の呪文「マネーマントラ」の本。成功する呪文の本。貧富の原因は口ぐせにあった。あなた向きのマントラをさぐる診断テスト付き。

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7月27日・岩崎恭子の金

2018-07-27 | スポーツ
7月27日は、『路傍の石』の作家、山本有三(1887年)が生まれた日だが、かつてバルセロナオリンピックの競泳女子200m平泳ぎで、14歳の岩崎恭子選手が金メダルを獲得した日でもある。

1992年のこの日、スペインのバルセロナで開催されたオリンピックの競泳女子200メートル平泳ぎで、日本の中学生の岩崎恭子選手が、2分26秒65の自己ベストをたたき出し、それがそのままオリンピック新記録となり優勝、金メダルを獲得した。
バルセロナ五輪では日本の期待を一身に背負っていたのは千葉すず選手で、二番手の岩崎選手は世界のトップとの記録が差があり、ほとんど注目されていなかった。それがふたを開けてみれば、14歳で金メダルの快挙だった。
女子200メートル平泳ぎでの日本の金メダルは、1936年ベルリン五輪で、日本人アナウンサーが、
「前畑、勝った勝った勝った勝った……」
と連呼した、あの前畑秀子選手以来、56年ぶり史上2人目の快挙だった。

岩崎恭子選手は、1978年生まれ。静岡は沼津の出身で、地元の中卒業後は高校をへて、大学では心理学を専攻した。熱狂のバルセロナの4年後、18歳のとき、米アトランタ五輪でも200メートル平泳ぎに出場したが、このときは10位だった。
そして20歳のとき、水泳競技から引退。米国へ留学して指導者としての道を進み、水泳指導員、スポーツコメンテーター、日本オリンピック委員会の広報専門委員、日本水泳連盟競泳委員などとして活躍している。

岩崎選手が、レース後のインタビューに答えた名ゼリフ、
「いままで生きてきたなかで、いちばん幸せです」
は流行語になった。日本中が岩崎フィーバーに沸き返る一方で、彼女が某とかいうアイドルタレントのファンだと知れると、同じアイドルに入れ込んでいる女性ファンから脅迫状が届いたりもして物議をかもした。

14歳という若さで名声を得、日本のアイドルとなってしまった人生というのは、うらやましい気もするし、その後のことを憂いて、かわいそうな気もする。
100歳になってから全国のアイドルになった金さん、銀さん姉妹のような人もいれば、14歳でいっきに開花した岩崎選手のような人もいる。
まったく人生はいろいろで、人生というのは、不思議な、妖しいものである。
(2018年7月27日)



●おすすめの電子書籍!

『大人のための世界偉人物語』(金原義明)
世界の偉人たちの人生を描く伝記読み物。エジソン、野口英世、ヘレン・ケラー、キュリー夫人、リンカーン、オードリー・ヘップバーン、ジョン・レノンなど30人の生きざまを紹介。意外な真実、役立つ知恵が満載。人生に迷ったときの道しるべとして、人生の友人として。


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7月26日・カール・ユングの夢

2018-07-26 | 科学
7月26日は、劇作家、バーナード・ショーが生まれた日(1856年)だが、心理学者、カール・ユングの誕生日でもある。

カール・グスタフ・ユングは、1875年、スイス、ボーデン湖畔のケスヴィルで生まれた。父親はプロテスタントの牧師だった。
バーゼル大学の医学部に進んだカールは、ゲーテ、カント、ニーチェなど著作を読みふける学生だった。彼は精神医学を専攻し、チューリッヒ大学のブルクヘルツリ精神病院の助手になり、27歳のころ『いわゆるオカルト現象の心理と病理』を出版。
病院の精神科医局長だった31歳のとき、当時、批判の的だったジクムント・フロイトを弁護する論文を発表し、学者たちから非難されたが、これをきっかけにフロイトとの文通がはじまった。
その後、ユングはフロイトといっしょにアメリカ旅行をする親しい間柄となったが、やがてユングはフロイトの学説に異を唱えだし、37歳で『リビドーの変容と象徴』を出版。精神病の原因を性欲に求めるフロイトの解釈を、原因の一部にすぎないと批判。
38歳のとき、ユングはフロイトから訣別状を受けとり、二人の決裂は決定的となった。
ユングは精神病者の妄想と神話との類似性を比較し、アフリカを旅行し、易や道教など中国の思想に触れ、ヨーロッパ以外の文化に触れることで、無意識の領域について研究を深めていった。スイス連邦工業大学やバーゼル大学の教授を務め、ハーバード大学やジュネーヴ大学の名誉博士号を受け、1961年6月、チューリッヒで没した。85歳だった。

フロイトはそれまで意味がないとされていた夢を検討し、無意識の世界に光をあてたが、ユングはそれを発展させ、無意識の領域を広げた。ユングによれば、わたしたちは無意識の領域で、人類の太古の記憶や未来ともつながっているという。

「グレート・マザー」「シンクロニシティ」など、ユングが提議した問題には興味深いものが多いけれど、読んだなかでは、つぎのエピソードがいちばん強く印象に残っている。

「私の同僚の医師の場合です。彼は私よりもすこし年上で、たまに一緒になると、きまって私の『夢判断』をからかっておりました。ある日街で出会いますと、彼は私にこう話しかけました『やあ、お元気ですか。相変らず夢判断ですか。ときに、ぼくはこの間馬鹿馬鹿しい夢を見ましたよ。こいつもなにかの意味があるんですかな。』彼が見た夢は次のようなものでした。『私は高山の険しい雪渓の上を登っていた。だんだん上へ登ってゆく。すばらしい快晴だ。登るにつれて、いよいよ気分がよくなる。こうしていつまでも登りつづけられたらなあ、と私は思った。頂上へへたどりついたときの幸福感と優越感は実に大したもので、天まで登れそうな気がしてきた。事実、私は空中を登っていった。わたしは完全な恍惚感の中で目がさめた。』
 私は彼にこう答えました。『困りましたね。あなたはどうやら登山は止められないようです。今後独りでゆくことだけは、ぜひとも止めて下さいよ。ゆくときには、案内人を二人連れていって下さい。案内人には絶対服従を誓うことですね。』彼は笑い出して、『むずかしい相談ですね。』といって別れました。」(カール・グスターフ・ユング著、江野専次郎訳『ユング著作集3 こころの構造』日本教文社)
同僚は、ユングから忠告を受けた三カ月後、案内人を連れずに登山して転落死した。
(2018年7月26日)



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『おひつじ座生まれの本』~『うお座生まれの本』(天野たかし)
おひつじ座からうお座まで、誕生星座ごとに占う星占いの本。「星占い」シリーズ全12巻。人生テーマ、ミッション、恋愛運、仕事運、金運、対人運、幸運のヒントなどを網羅。最新の開運占星術。


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7月25日・ルービックキューブの資質

2018-07-25 | 歴史と人生
7月25日は、ピアニスト、中村紘子(なかむらひろこ)が生まれた日(1944年)だが、ルービックキューブが日本で発売された日でもある。

ルービックキューブは、1980年7月25日に、ツクダオリジナルから発売された。
立方体の6つの面がそれぞれ異なった色で色分けされ、それぞれの面が9つの正方形で構成されている。これをねじることで変化させ、各面の色をいったんばらばらのふぞろいにしてからスタートし、各面の色をそろえていくという立体パズルだった。
1980年から1981年には日本中でルービックキューブが大流行し、発売後8カ月で400万個以上が売れ、そのほかに海賊版、模造品のたぐいもおびただしい数が流布した。
ルービックキューブは、もともとハンガリーの建築学者エルノー・ルービックが考案した立方体パズルで、ドナウ川の流れを見ていてひらめいたものだという。
ルービックは「マジック・キューブ」の名前で特許を取得し、まずハンガリーで1977年に発売された。
その後、米国のメーカーが販売権を獲得し、「ルービックキューブ」の名前で世界的に発売され、日本でも発売、という流れだった。
現在でもルービックキューブは売れ続けていて、世界で通算約3億個が売れたとされる。

流行していた当時は、まわりにいるすべての人がキューブをやっていたように見えた。
テレビでも、またたく間に6面すべての色をそろえる達人が登場したし、周囲にも6面をそろえられる者がいた。
タレントの劇団ひとりは、あっという間に6面をそろえる。

ある意味で、ルービックキューブは、踏み絵のようなものかもしれない。
研究を重ねて6面に挑もうとする者と、そうでない者とに、人類を二種類に分ける。
たとえば詩人でも、ランボーなどはすぐに投げだしてしまうけれど、ヴェルレーヌは興味なさそうな顔をしながら、案外隠れてアブサンを飲みながらこつこつ6面に挑んでいるとか。
(2018年7月25日)



●おすすめの電子書籍!

『つらいときに開くひきだしの本』(天野たかし)
苦しいとき、行き詰まったときに読む「心の救急箱」。どうしていいかわからなくなったとき、誰かの助けがほしいとき、きっとこの本があなたの「ほんとうの友」となって相談に乗ってくれます。いつもひきだしのなかに置いておきたいマインド・ディクショナリー。


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7月24日・アレクサンドル・デュマの決算

2018-07-24 | 文学
7月24日は、日本の文豪、谷崎潤一郎が生まれた日(1886年)だが、フランスの文豪「パリの王様」アレクサンドル・デュマの誕生日でもある。

アレクサンドル・デュマは、1802年に、フランスのヴィレール・コトレで生まれた。
クレオール(白人と黒人の混血)だった父親は、その腕力と勇敢さを軍隊で発揮し、折からのフランス革命で、将軍にまで出世した。しかし、ナポレオンに反乱分子とみなされ、元将軍の父親は不遇のうちに、アレクサンドルが4歳のとき、世を去った。
アレクサンドルの母親はタバコと塩の販売店を営んで子どもたちを養った。
勉強は苦手だったが、本好きで活発な少年だったアレクサンドルは、17歳のとき、ソワッソンの街で「怪奇ハムレット」という芝居を観て感動。戯曲家になることを決意。役場の見習いをしながら、デュマは文学や歴史を勉強した。
20歳のとき、50フランの全財産をポケットに入れて、デュマはパリに出た。頼りは、持参してきた生前の父親宛ての手紙の束で、その手紙の送り主をさがし、訪ねては就職を頼んだ。熱心な就活の甲斐あって、デュマは貴族の秘書の仕事にありつき、書類の清書をしながら、歴史と演劇の勉強をし、時間を見つけては戯曲を書いた。
27歳のとき、戯曲『アンリ三世とその宮廷』が劇場にかかり、デュマは喝采を浴びた。続いて『クリスティーヌ』『アントニー』を書き、演劇界で彼は大成功を収めた。
一方でデュマは、新聞紙上に『モンテ・クリスト伯(巌窟王)』『三銃士』『王妃マルゴ』『王妃の首飾り』などを連載し、彼の小説が載った新聞はどれも飛ぶように売れた。
デュマはべつの執筆者に原稿を書かせ、自分が手を入れて仕上げるという共同作業によって膨大な作品群を生産していった。彼はまたみずから劇場経営にも乗りだし、莫大な収入を得たデュマは、豪邸を建て、そこに毎夜おおぜいの客を呼んでは、贅の限りをつくした料理と酒とでもてなし「パリの王様」と呼ばれた。
しかし、やがて政情が変化し、演劇が下火になると、金回りは急に悪化し、巨額の負債を抱えるようになり、49歳の年には裁判所から破産宣告を受けた。
58歳のころ、出版契約で思わぬ大金を手にすると、彼はそのお金で船を建造し、19歳の愛人を連れて地中海をイタリアへ向けて出航した。彼らはシシリア島でガリバルディ軍の歓迎を受け、もともと人民解放主義者だったデュマは感激し、船と大金をガリバルディ軍に提供し、みずからガリバルディの赤シャツ隊に加わった。その後、ガリバルディが、自分の治世下にあったナポリやシシリアを王に献上し、王政の下にイタリア統一が成ると、デュマは裏切られた失意のうちに、追われるようにフランスへ帰国した。
ほとんど無一文になったデュマは息子の家に身を寄せた。息子は、父親と区別するために「小デュマ」と呼ばれる『椿姫』の作者である。外出しなくなった大デュマは、外出用の服のポケットにナポレオン金貨一枚と小銭があるのを見つけ、息子にこう言った。
「いいかい、それは五十年前にお父さんがパリにやってきたときに持っていたのと同じ金額なんだよ。だから、五十年間さんざんぜいたくをしてきたが、一文も減らなかったことになる。昔も今も同じだけ財産があるんだ。そのおれを浪費家などといって非難するやつは誰だ!」(ガイ・エンドア著、河盛好蔵訳『パリの王様』講談社)
1870年12月、デュマは没した。68歳だった。

小学校のころ『三銃士』『鉄仮面』などを愛読していた。胸をわくわくさせながらページをめくったあの感覚は、いまでも忘れない。でも作者デュマの人生はそれ以上だった。デュマほど魅力的な生き方をした人はめったにいない。
(2018年7月24日)



●おすすめの電子書籍!

『世界文学の高峰たち 第二巻』(金原義明)
世界の偉大な文学者たちの生涯と、その作品世界を紹介・探訪する文学評論。サド、ハイネ、ボードレール、ヴェルヌ、ワイルド、ランボー、コクトー、トールキン、ヴォネガット、スティーヴン・キングなどなど三一人の文豪たちの魅力的な生きざまを振り返りつつ、文学の本質、創作の秘密をさぐる。


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7月23日・幸田露伴の知

2018-07-23 | 文学
7月23日は、推理作家、レイモンド・チャンドラーが生まれた日だが、文豪、幸田露伴の誕生日でもある。

幸田露伴は、慶応3年7月23日(1867年8月22日)に江戸で生まれた。本名は幸田成行(しげゆき)。幼名を鉄四郎といった。父親は江戸幕府の家臣だった。
小さいころ、病弱だった成行は、塾に通って素読を学び、草双紙、読本を愛読した。中学では尾崎紅葉と同級生だったが、家計が苦しくなり退学。
後に、現在の青山学院大学の前身である東京英学校に入学したが、これも中退した。
14歳のころ、給費生として入学した電信技術の学校をへて、電信技師の公務員として北海道の余市に勤務した。
しかし、文学への思いやまず、20歳のとき、とつぜん辞職し、蒸発した。
「身には疾あり、胸には愁あり、悪因縁は逐へども去らず、未来に楽しき到着点の認めらるるもなく、目前に痛き刺激物あり、欲あれども銭なく、望みあれども縁遠し、よし突貫して此逆境を井でむと決したり。五六枚の衣を売り、一行李の書を典し、我を愛する人二三にのみ別をつげて忽然出発す。」(「突貫紀行」『露伴全集 第十四巻』岩波書店)
放浪しながら東京にたどりつき、父親がやっていた紙屋を手伝いながら、読書をし、小説を書いた。
22歳のとき海外を舞台にした小説『露団々』を発表。これが出世作となり、続けて『風流佛』『五重塔』など、文学史上に残る名作を書いて、大作家となった。明治の一時期は、かつての同級生、尾崎紅葉とともに絶大な人気を誇り「紅露時代」と呼ばれた。
小説のほか、史伝、評論、注釈書も多く著し、41歳の年から乞われて京都帝国大学で教鞭をとり、国文学を講義したが、辞職。以後、研究と執筆に専念した。
広く尊敬を集めていた幸田露伴は、1937年(昭和12年)に文化勲章が設けられると、その第1回の受賞者に選ばれた。
1947年7月、千葉の市川で没した。80歳だった。

幸田露伴の小説『運命』『連環記』を読み、世の中にはこんな小説もあるのかと驚いた。名文として名高い『五重塔』の嵐の描写なども空前絶後である。
谷崎潤一郎が、現在の日本で文語文を自由自在に書ける人間は幸田露伴だけなのではないかと書いていたけれど、まったくその通りで、露伴の文語文を読むと、まさに自由闊達に、血わき、肉おどる、感情のこもった文章がおもしろく、また、みごとな美しさでもって並んでいるのだった。もしも一字一句訂正するところのない完璧な文章というものがあるとしたら、幸田露伴の文章を指すのだろう。

日本と中国の古典、歴史に精通する博覧強記の上に、露伴の場合は、自分の頭でちゃんと考えて、古典にこうあるけれど、おそらくこれはこちらの文献を写したもので、もとの文献にしても、これこれこういう理由でまちがっていて、おそらく実情はこうだったろうと推定するというレベルまで突き詰める知性の高さに驚かされる。
(2018年7月23日)



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7月22日・ベッセルの視差

2018-07-22 | 科学
7月22日は、「フォークの神さま」岡林信康が生まれた日(1946年)だが、天文学者、ベッセルの誕生日でもある。宇宙の彼方の恒星までの距離をはじめて計算した人である。

フリードリヒ・ヴィルヘルム・ベッセルは、1784年、ドイツのミンデンで生まれた。父親は役所に務める公務員だった。
14歳でブレーメンの貿易会社に奉公に出たフリードリヒは、そこで貨物船の航行技術に接するうち、数学への興味を深めた。また、船の位置を決定する根拠となる天文学に関心をもつようになった。
貿易会社を辞めたベッセルは、ブレーメンに近い天文台の助手に転職した。彼はそこで3千個以上の恒星の位置を測定する観測、研究に関わった。
この業績が買われ、彼は25歳でケーニヒスベルク天文台の所長に任命された。この天文台で観測、研究を続け、彼は5万個以上の恒星の位置を測定した。
1846年3月、ケーニヒスベルクで後腹膜腫瘍により没した。

ベッセルが、恒星までの距離を算出した方法は、おおよそこういう手順らしい。
彼はまず「大気差」というものを精密に測った。「大気差」とは、恒星からの光が宇宙を伝わってきて、地球の大気圏に入ると、光が屈折し、見かけの高度が、実際の高度より大きくなる現象のことで、この差は水平線近くに見える恒星ほど大きくなる。大気差は大気の温度や気圧などによっても変化するので、現在でも各天文台ごとに観測データをもとに独自の「大気差」を算出しているのが実情だというが、ケーニヒスベルク天文台の所長となったベッセルは、膨大な観測データから求めた「大気差」を発表した。
つぎにベッセルは「視差」を計算した。
たとえば、はくちょう座61番星の位置をある日に観測したとすると、その半年後、地球が太陽のちょうど反対側にまわったときに、いま一度61番星を観測する。すると、2度の観測の角度の差が求められるわけで、この角度に、さらに地球が太陽をまわる軌道の直径を底辺とした三角形を想定すれば、恒星までの距離が計算できる。
こうやって、恒星までの距離は求められた。

もちろんベッセルだけが恒星の距離を計算していたわけではなく、当時の天文学者たちは競争で算出にしのぎを削っていたけれど、ベッセルの業績は突出していた。
現在では、宇宙に打ち上げられたヒッパルコス衛星による観測で、より正確な恒星までの距離が求められているが、ベッセルが算出した値はいい線をいっていたらしい。

ベッセルはまた、天体の運動を観測して得たデータのずれを発見して、そのすぐそばに、まだ見つかっていない星が隠れていると推測していて、それが後に発見されたりもしている。その功績により、小惑星や月面のクレーターに「ベッセル」の名が冠せられている。

日本では江戸幕府の水野忠邦が天保の改革をおこなっていた時代に、こうやって宇宙の彼方の一点をじっと見つめていた人がいるのだと思うと、不思議な心持ちがする。
(2018年7月22日)


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