1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

8月31日・青木功の人間観

2024-08-31 | スポーツ
8月31日は、教育者マリア・モンテッソーリが生まれた日(1870年)だが、プロゴルファー、青木功(あおきいさお)の誕生日でもある。

青木功は大戦中の1942年、千葉の我孫子で生まれた。生家は小さな畑をもつ貧しい農家だった。家族のなか、ひとりだけからだが大きかった功は、元気な田舎のわんぱく少年で、中学時代には百メートルを11秒台で走った。理科と数学が得意だった青木は、家庭の経済的事情から高校進学をあきらめ、地元のゴルフクラブのキャディになった。その時点で、ゴルファーになろうとはまったく考えていなかった。それが、ゴルフバッグを背負って見ているうち、プロゴルファーの仕事がお金になるらしいと知った。彼は人のクラブを借りて、見よう見まねでゴルフを練習しはじめた。
父親に、当時は高級品だったゴルフクラブを買ってもらい、19歳のとき、はじめてプロテストを受けた。惨憺たる結果で、青木は酒を飲んで荒れた。
22歳のとき、再挑戦した2度目のプロテストで合格。
しかし、プロの資格を得てからも、長らく泣かず飛ばずが続いた。トーナメントに出場しても、予選が通過できない。自分にはゴルフの才能がないのではないかと泥酔し、二日酔いになり、さらに自己嫌悪におちいる日々が続いた。
3年続けて予選落ちしていた関東プロの大会に4年目ではじめて予選通過し、本戦に出場。そして、28歳のとき、同じ大会で優勝し、プロ入り7年目で初優勝を果たした。
その翌年の同大会で、ゴルフ人気を一身に背負っていたスーパースター「ジャンボ」尾崎将司と同点でプレーオフとなり、この一騎討ちを制して2勝目をあげ、青木功の名は一気に有名になった。
38歳の年には、全米オープンで「帝王」ジャック・ニクラスと4日間いっしょにラウンドして死闘を繰り広げた。結果、ニクラウス優勝、青木2位と敗れたが、その名を世界に知らしめた。
41歳の年に、米ハワイアン・オープンと、欧州のヨーロッパオープンに優勝。
47歳の年に、豪州コカ・コーラクラシックに優勝し、世界四大ツアー (日米欧豪) 優勝を達成。その後も、年配者向けのシニアツアーやゴルフ解説者として活躍している。

以前、テレビの英語番組に出演した青木功が、英語がほとんどわからないと告白し、こんな風に言っていた。
「こんなときは、ナイス・トゥ・ミーチュとか言うんだろう?」
あれで、ジャック・ニクラウスと和気あいあいと交際し、オーストラリアのグレッグ・ノーマンの家に泊まりに行く。人間・青木の偉大さである。

彼の味わい深い人間観がうかがわれる発言がある。青木功はこう言っている。
「人間というものが、過去の教訓に学んであまりに早く自己改造をして、お利口になっていってしまったのでは、世の中、賢人ばかりになってひとつもおもしろくないのではないか。そう思うのだ。いつまでたっても利口になれず、同じ過ちを繰り返しておれは馬鹿かと悩んだり、いくら努力してもひとつもうまくいかずに自分の才能に疑いを抱いたりするからこそ、人間は人間なのではないだろうか」(『青木功 ゴルフ自伝』小学館文庫)
(2022年8月31日)



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8月3日・カール・ゴッチのへび

2024-08-03 | スポーツ
8月3日は、ファッションデザイナーのアン・クラインが生まれた日(1923年)だが、「プロレスの神様」カール・ゴッチの誕生日でもある。

カール・ゴッチは、1924年、ベルギーのアントワープで生まれた。本名はカール・イスターツ。一家はドイツのハンブルクへ引っ越し、カールはそこで育った。
レスラーを志したカールは、アマチュア・レスリングのグレコローマンと、フリースタイルの両分野でベルギーチャンピオンとなり、24歳のとき、ベルギー代表選手としてロンドン・オリンピックに出場した。
27歳のころ、英国イングランドのランカシャー地方にあるビリー・ライレー・ジムを訪ね、そこの師範代とスパーリング(練習試合)をおこなった。すると、ものの1分ほどで赤子の手をねじるようにフォールド(からだを固定されること)を決められてしまい、そのジムに入門することを決意した。このジムはランカシャー・レスリングの中心で、このジム所属の男たちは倒されてもあきらめず執拗に攻撃してくるところから「へびの穴(Snake Pit)」と呼ばれていた。「へびの穴」で3年間をすごし、卒業したカールは、カナダをへて、35歳の年に米国へ進出。ドイツ人レスラーとしてデビューし、米国の名プロレスラーのフランク・ゴッチにあやかってリングネームを「カール・ゴッチ」とした。反則をしないクリーンで、きれのある正統派ストロングスタイルのプロレスラーとして活躍し、神技ジャーマン・スープレックス・フォールドを完成させた。
この技は、相手レスラーの背後にまわりこんだゴッチが、相手の胴体に腕をまわし、そのまま抱え上げ、いっしょに後ろへのけぞり、相手を抱えたままブリッジを決めるというもので、相手は後頭部をマットに打ちつけ、そのまま両肩をマットに押しつけられて、3カウントされるのだった。この技は、プロレスの芸術品と称される美技で、「ジャーマン(ドイツ人の)」は無論ゴッチのことである。
当時の世界王者「鉄人」ルー・テーズと何度も名勝負を繰り広げながら、ついにチャンピオンベルトを奪えず、ゴッチは「無冠の帝王」と呼ばれた。
44歳のとき、米国に帰化。日本にもたびたび来日し、力道山やアントニオ猪木らと試合をおこなった。日本ではプロレス・コーチとして日本人プロレスラーの指導にあたり、アントニオ猪木に卍固めを伝授した猪木の先生でもある。
2007年7月、米国フロリダ州のタンパで没した。82歳だった。

昔の人気マンガ「タイガーマスク」に出てきたプロレスラー養成所「虎の穴」のモデルは、カール・ゴッチがいた「へびの穴」である。原作の梶原一騎はゴッチの経歴を参考に、想像をふくらませたのだろう。
「へびの穴」では、もちろんマンガの、レスラーが訓練中にばたばた死んでいくような目茶苦茶なトレーニングはなかったろうけれど、かなり荒々しいものだったらしい。そうした訓練の上に、あのゴッチのきれのある美技が成った。
(2024年8月3日)



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6月1日・山下泰裕の断定

2024-06-01 | スポーツ
6月1日は、映画女優のマリリン・モンローが生まれた日(1926年)だが、柔道家の山下泰裕(やましたやすひろ)の誕生日でもある。

山下泰裕は、1957年、熊本の上益城、阿蘇山のふもとで生まれた。実家は魚屋だった。泰裕は小さいころ、からだが弱く、祖父がスパルタ方式できたえた。魚の骨を粉にしてごはんにかけて食べさせ、銭湯にいっしょに行っては、幼い孫に水を浴びせ、肌を叩いてきたえた。近所の人は言ったという。
「お前は孫を殺す気か」
きたえられた甲斐あって、保育園に入るころには、泰裕は飛び抜けてからだの大きい子どもになっていて、まわりの子どもをいじめるがき大将になっていった。
小学校3年生のころから道場に通って柔道をはじめ、そのころから道場や学校の指導者に導かれて、弱い者いじめをしなくなった。
小学6年で柔道の県大会で優勝。以後、中学、高校、大学と、圧倒的な強さを発揮し、大学2年の11月から、山下は国内外で負けなしの無敵の柔道家となった。
山下が23歳のとき、ソビエト連邦のモスクワでオリンピックが開催された。このとき、ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議して、西側諸国はそろって五輪をボイコット。日本もボイコットにならい、山下は心待ちにしていた五輪出場を断念した。
27歳のとき、米国でロサンゼルス五輪が開催された。このときは、前回の報復として東側諸国が不参加だったが、山下は無差別級代表として念願の五輪出場を果たした。
ロサンゼルス大会で山下は、2回戦で右足に肉離れを起こした。山下は棄権せず、試合にも出場し、足を引きずりながら勝ちつづけ、ついに決勝に進んだ。
決勝の相手はエジプト代表のモハメド・ラシュワン選手。ラシュワン選手は、痛めた山下の右足を攻めなかったとされ、スポーツマンシップが讃えられる名勝負となった。
結果は、寝わざにもちこみ、押さえこみの一本勝ちで、山下が優勝。表彰式で、2位のラシュワン選手の助けを借りながら表彰台にのぼる山下泰裕選手の姿は、世界中に感動のうずを巻き起こした。
山下は7年半にわたって、引き分け7回をはさむ203連勝という大記録を打ち立て、負なしのまま、28歳になる年に全日本選手権で優勝し現役引退。東海大学の副学長、同大学柔道部監督、日本オリンピック委員会会長、国際オリンピック委員などを歴任している。

以前、オリンピックの柔道の中継で、山下泰裕が解説をしていたとき、アナウンサーが彼に、こう尋ねたことがあった。
「これだけ世界柔道が、姑息でもなんでも、とにかくポイントをとって勝つ、という方向できているなか、それでも日本柔道は、技によって一本勝ちを目指す、そういう十字架を背負っていかなくてはならないのでしょうか?」
山下ははっきりした口調でこう答えていた。
「はい、そう思います」
このことばに、彼の大きさをあらためて感じた。
(2024年6月1日)



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4月24日・ルー・テーズの本物

2024-04-24 | スポーツ

4月24日は、植物学者、牧野富太郎が生まれた日(文久2年・1862年)だが、プロレスの神様「鉄人」ルー・テーズの誕生日でもある。

ルー・テーズは、1916年、米国ミシガン州のバナットで生まれた。父親はハンガリーからやってきた靴修理職人の移民で、セントルイスで靴修理をしていたところ、バナットの田舎へ引っ越して、農場をはじめた。そこの山小屋で生まれたのがルーだった。ルーは4人きょうだいの3番目で、彼のほかはみんな女のきょうだいだった。農地開墾はうまくいかず、ルーが2歳のころ、一家はセントルイスへもどり、父親も靴修理にもどった。
小さいころ、ルーは吃音に悩まされていた。さらに彼は生まれつき左利きで、当時左利きは無理やり右利きに矯正されたため、苦しい少年時代をすごした。
8歳のころから、父親はルーにレスリングを教えだした。数百回の腕立て伏せ、スクワット、ブリッジからはじまるきびしいレッスンだったが、ルーはそれを楽しんだ。彼のおこづかいはすべてプロレスラーの公開練習見学に注ぎ込まれた。
14歳のときに学校をやめ、靴の修理工となり、仕事を5時に終えると、午後9時までレスリングのトレーニングをした。近くの高校のレスリング部といっしょに練習するようになり、テーズはいよいよ熱中した。
15歳からコーチにつき、19歳からプロレス巡業に参加した。当時は大恐慌が尾を引く不況期だったが、生活を節約して転戦し、タイトルマッチへの権利を得、彼は21歳の若さでNWA世界王者となった。通常のチャンピオンより10年若い王者の誕生だった。
第二次大戦中は徴兵され、兵士たちに格闘技を教える教官を務めた。
戦後、軍務から解放されたテーズは、世界王者に返り咲いた。相手を背後から抱え上げ、からだを添えてのけぞりながら、目にも止まらぬ速さで相手の後頭部を後方のマットへ打ちつけるバックドロップで連戦連勝を重ね、30代の全盛期には約8年間にわたって936連勝という大記録を打ち立てた。
テーズは、力道山、ジャイアント馬場、アントニオ猪木といった日本のプロレスラーとも試合をし、何度も来日した。74歳のとき、47歳年下の蝶野正洋と戦った試合を最後に現役を引退し、2002年4月、心臓発作のため、フロリダ州オーランドの病院で没した。86歳だった。

「打倒、ルー・テーズ。わたしを強くしてくれたのは、この悲願、この執念だ」
それが力道山の口ぐせだったという。

ルー・テーズの自伝を読むと、とても同じ人間と思えない。超人とは彼のことである。
自伝によると、テーズが信条にしていたことばはこうである。
「オーセンティック(authentic、正真正銘の、本物の、確実な)」
戦後はテレビ時代となり、派手なガウンをまとい、派手なアクションをするプロレスラーが人気を浴びるようになった。プロのレスラーとして生きていくには、この時代の流れに順応していかなくてはならないが、大事なのは「オーセンティック・レスリング」を忘れずに精進することだと、亡くなった先輩レスラーが彼に言い残した。以来、テーズは「オーセンティック」という形容詞を肝に銘じて忘れないという。
そう、オーセンティック、である。
(2024年4月24日)


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3月17日・ボビー・ジョーンズの闘い

2024-03-17 | スポーツ
3月17日は、「小説の神様」横光利一が生まれた日(1898年)だが、ゴルフ界の「球聖」ボビー・ジョーンズの誕生日でもある。

ボビー・ジョーンズこと、ロバート・タイアー・ジョーンズ・ジュニアは1902年、ジョージア州のアトランタで生まれた。父親は弁護士で、幼少時からからだの弱かったボビーにゴルフをすすめ、ボビーはゴルフに早くから親しんだ。6歳で子どもゴルフ大会で優勝し、14歳のとき、ジョージア州のアマチュア大会で優勝した。
彼はジョージア専門技術学校で機械工学を学び、ハーヴァード大学で英文学を修め、24歳のときロースクールに入り、弁護士の資格をとって、父親の事務所で働きはじめた。そうした学業、弁護士業のかたわら、アマチュアのゴルフプレイヤーとしてゴルフ・トーナメントに出場しつづけ、数々の大会で優勝した。
28歳のとき、当時の世界4大タイトルである全米アマチュア、全英アマチュア、全米オープン、全英オープンの各大会で優勝し「年間グランドスラム」の快挙を達成した。グランドスラムを成し遂げたボビー・ジョーンズは、そのまま競技ゴルフから引退した。
その後は、法律の仕事に専心したが、世界的有名人であるジョーンズにはつねに衆目が集まり、ジャーナリズムに追いかけられた。彼は野次馬から逃れ、友人たちとプライベートにゴルフを楽しめるゴルフクラブを作りたいと、ジョージア州オーガスタに土地を購入し、アリスター・マッキンジーとともにゴルフコースを設計した。それがオーガスタ・ナショナル・コースで、ジョーンズが31歳のときオープンし、32歳のときからそこでマスターズ・トーナメントが開催されるようになった。
第二次世界大戦中は、ジョーンズは米国空軍の士官となり、英国で勤務した。仏国ノルマンディーに上陸し、捕虜の尋問にあたった。そのとき、オーガスタのゴルフコースは、家畜たちが草を食べる放牧場として開放されていた。
戦後、46歳のとき、ジョーンズは脊髄空洞症の診断を受けた。彼は痛みと麻痺の症状に苦しめられ、ついには車椅子生活を余儀なくされた。そして、1971年12月、アトランタで没した。69歳だった。

ボビー・ジョーンズはプロにならず、アマチュア・ゴルファーを通した。フェアプレイで有名だった。23歳のときに出場した全英オープンの際、或るパー4のコースで、第一打をラフに打ち込み、第二打でグリーンに乗せ、2パットしてパーをとった。運営側が「ジョーンズ氏、4打」とアナウンスすると、ジョーンズはこう修正申告した。
「それはちがう。ラフで構えたとき、足元のボールがすこし動いた。だから5打だ」
その結果、ジョーンズはべつのゴルファーと同点首位となった。二人のあいだでプレイオフがおこなわれ、ジョーンズはプレイオフに負け、準優勝になった。

ボビー・ジョーンズはこう言っている。
「競技ゴルフは主に5インチ半の幅のコースのなかでおこなわれる……それは耳と耳のあいだである。(Competitive golf is played mainly on a five-and-a-half-inch course... the space between your ears.)」

ゴルフを、自分自身との闘いだと考えていた彼らしいことばである。
(2024年3月17日)



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『アスリートたちの生きざま』(原鏡介)
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2月20日・長嶋茂雄の底

2024-02-20 | スポーツ
2月20日はプロレスのアントニオ猪木(1943年)、そして、プロ野球界の「ミスター」長嶋茂雄の誕生日である。
落語家の立川談志が生前、石油危機が叫ばれていたころ、こう言っていた。
「石油がなくなるって世の中で騒いでますがねぇ、もしも石油がなくなったら、アントニオ猪木とか、長嶋茂雄とか、燃える男を燃しゃあいいんですよ」
2月20日は「燃える男」が生まれる日である。

長嶋茂雄は、1936年、千葉の、現在の佐倉市で生まれた。父親は町役場に勤める役人で、茂雄は4人きょうだいの末っ子だった。
野球少年だった茂雄は、「物干し竿」と呼ばれた長いバットで打ちまくる強打者、藤村富美男の大ファンで、藤村の所属する阪神タイガースのファンだったという。彼は手縫いのボールとグローブ、手製のバットで野球の練習をした。
高校時代には野球部の4番打者として活躍した。卒業にあたり、社会人野球やプロ野球の読売ジャイアンツからも誘いがあったが、父親がすべて断り、茂雄を大学へ進学させた。
立教大学に入学した長嶋は、野球部に入部。六大学リーグのホームラン記録を作った。
卒業後、22歳で読売ジャイアンツに入団。大型新人だったが、開幕デビュー戦では、国鉄の金田正一投手に完全に抑えられ、4打席すべてを連続三振した。その後はヒットとホームランを量産しだし、プロ野球の新人ホームラン記録を作った。
「4番、サード、長嶋」とアナウンスされる長嶋は、サードゴロを猛ダッシュしてとりにいき、フルスイングで空振りする「見せる野球」で人気者になった。ジャイアンツの主軸メンバーとなり、3番打者「一本足打法」の王貞治とともに「ON砲」と呼ばれた。
38歳のとき、現役選手を引退。引退セレモニーのスピーチで、
「我が巨人軍は永久に不滅です」
とあいさつした。彼の背番号「3」は永久欠番となった。現役引退後は、読売の監督、オリンピック代表チームの監督などを務め、77歳のときに国民栄誉賞を受賞した。2021年、まともに歩けぬリハビリ中の体をおして東京オリンピックの聖火ランナーを務めた。

野球にうといので、ひいきの球団をめぐってファンがケンカしたニュースなどを聞くと、どうして他人の商売をあれだけ熱心に応援できるのか不思議な気がする。どういう選手がいるかもよく知らない。けれど、それでも、王貞治、長嶋茂雄、野茂英雄、イチロー、大谷翔平といった選手たちのレベルになると、すこしは知っている。そんな野球界に名選手は数多いるが、「ミスター」と敬称されるのは、長嶋茂雄ただひとりである。

その昔、江夏豊投手がテレビのトーク番組で語っていた。江夏投手は当時、米国のメジャー球団の入団テストを受けてきたところだったのだけれど、米国の選手たちが、練習前のロッカールームで音楽を大音響で鳴らして、素っ裸になって踊りはじめ、びっくりした、という話を江夏がした。すると、司会者が、
「長嶋茂雄選手だったら、そういうのにも入っていけますかね?」
と尋ねた。すると、江夏投手は、すこし考えてから答えた。
「うん、ミスターだったら、裸になって、いっしょに踊りだすかもしれない」
(2024年2月20日)



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11月22日・ボリス・ベッカーの太陽

2023-11-22 | スポーツ
11月22日は「いいふうふ」の語呂合わせで「夫婦の日」。この日は、仏作家アンドレ・ジイド(1869年)が生まれた日だが、ドイツのテニス選手ボリス・ベッカーの誕生日でもある。

ボリス・フランツ・ベッカーは、1967年、当時の西ドイツのライメンで生れた。父親は建築家、母親はチェコスロバキアで育った女性で、ボリスは一人っ子だった。父親はライメンにテニス・クラブを創設していて、ボリスはそこでテニスを習った。
子どものころはむしろサッカーに夢中だったというボリスは、14歳のころ、テニスに転向し、17歳になる年にプロとなり、すぐにミュンヘンの男子ダブルスで優勝し、翌年の1985年には全英オープン「ウィンブルドン」で優勝してしまった。17歳と7カ月での快挙で、無論、史上最年少優勝記録となった。
ウィンブルドンでは、翌1986年にも優勝して連覇を遂げた。
また、1987年のデビスカップでは、西ドイツ・チームを率いて戦い、米国代表のジョン・マッケンローと、6時間22分という伝説的な長い試合を戦った。ゲームは、4-6、15-13、8-10、6-2、6-2でベッカーが勝った。その年のデビスカップは決勝に進めなかったが、翌年から1989年、1990年と、西ドイツを優勝に導いた。
ベッカーは、全豪オープン2勝、ウィンブルドン3勝(準優勝4回)、全米オープン1勝という記録を残し、1999年に現役を引退した。
41歳からプロのポーカー・プレイヤーとなり、46歳から世界王者ノバク・ジョコビッチ選手のコーチを3年間務めた。

いまの若い人たちは知らないかもしれないけれど、ベッカーは現代のビッグ・サービス時代を開いたパイオニア的な選手である。

1985年のウィンブルドン大会の決勝、ベッカー対ケビン・カレン(南ア)の試合は、見る者に、テニス新時代の幕開けを鮮やかに印象づけた。
スピード・サーバー同士の決勝。それまでの優勝経験者であるコナーズやマッケンローはすでに敗退して姿を消していて、ニュー・ヒーロー同士の対決だった。
「ブンブン・ベッカー」「ブンブン・サーブ」などと呼ばれた。
ネットに出たとき、相手の放ったパッシングショットに、横っ飛びに飛びついて、よくコートに転んだ。若さだった。
ベッカーは、太陽の子だった。髪から濃いうぶ毛まで、すべて輝くような金髪で、まつげも金色なので、まつげにほこりが積もっているように見えた。そして予選から勝ち抜いてきた17歳の新鋭ボリス・ベッカーが、カレンを破り、ついに優勝を果たした。太陽神アポロンの息子が地上に舞い降り、テニス界に君臨した瞬間だった。

ベッカーは、少年時代はずっとサッカーをやっていて、ほんの3年前にテニスをはじめたばかりだった。
それを聞いて、当時、テニスをはじめて2年目だった知人はつぶやいたものだ。
「道理で。おれも来年には、きっとうまくなっているはずだ」
(2023年11月22日)



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11月6日・ネイスミスの発明

2023-11-06 | スポーツ
11月6日は、『特性のない男』を書いた作家、ローベルト・ムージルが生まれた日(1880年)だが、体育教育者ジェームズ・ネイスミスの誕生日でもある。

ジェームズ・ネイスミスは、1861年、カナダのオンタリオ州で生まれた。両親はスコットランドからの移民で、父親は木材をのこぎりでひく職人だった。
農場で育ったネイスミスは、子どものころ、キャッチボールやかくれんぼ、「ダック・オン・ア・ロック(duck on a rock)」をして遊んだ。「ダック・オン・ア・ロック」というゲームは、敵と味方に分かれてたたかい、たがいに敵の陣地にある大きな石を目標とし、それに小さな石をぶつけると得点になるというものだった。味方チームと敵チームは、たがいに敵の攻撃から自分の大きな石を守ろうとするが、この遊びをよくやっているうちに、ネイスミスは、小石を直線的に投げつけるよりも、ふんわりとロビングを上げて大石の上に落とすほうが効果的であることに気がついたという。
21歳のとき、モントリオールの大学に入ったネイスミスは、スポーツ万能の学生として、カナディアン・フットボール、ラクロス、ラグビー、サッカーなどの球技や体操で活躍し、たくさんのメダルを獲得した。
大学卒業後は、米国マサチューセッツ州のスプリングフィールドにあるYMCA国際トサーニング・センターの体育教師となった。
寒さのきびしい冬季期間、センターでは屋内で運動をおこなったが、荒っぽい連中が屋内に集まると、衝突が起こりやすく、ネイスミスは頭を痛めていた。そんなとき、体育教育科のトップから、屋内用のゲームをなにか考案するようにとの課題が与えられた。そこでネイスミスは、それほど広いスペースを必要とせず、場所を荒らさず、誰もが公平にチャンスをもつことのできる、荒っぽくないゲームを、と、案を練った。
それで、ボールをもって走ってはならない、相手のからだに触れてはならないというルールをもち、ゴールに殺到して選手同士がぶつかり合わないようゴールが高い位置に設置されたバスケットボールが考案された。ここに子ども時代の遊びの経験が生かされた。
史上最初のバスケットボールのゲームがおこなわれたのは、1891年の12月、ネイスミスが30歳のときだった。対戦するチームは9人対9人で、サッカーボールを用い、ゴールには、桃の収穫用のかごが利用された。
こうして、バスケットボールが発明された。
ネイスミスはその後、カンザス大学の教授となり、同大学のバスケットボールクラブの監督などを務めた後、1939年11月、脳出血のため、カンザス州ローレンスの自宅で没した。78歳だった。

近年、「スラムダンク」「黒子のバスケ」などのバスケットボール・マンガが人気で、米国のプロ・バスケットボール・リーグ、NBAにはスター・プレイヤーたちがひしめき、彼らはオリッピックでも活躍してよく話題にのぼる。スター選手たちの年収は軒並み高額で、なかには6000万ドル(約60億円)以上の年棒をとる選手もいるというからすごいけれど、こうしたバスケットボールの隆盛も、この人がいなかったらすべてなかったことを思えば、ネイスミスの遺産の大きさにあらためて驚かされる。
(2023年11月6日)



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10月23日・ペレの克服

2023-10-23 | スポーツ
10月23日は、世界ではじめて全身麻酔を使って外科手術をした江戸の医師、華岡青洲が生まれた日(宝暦10年、1760年)だが、「サッカーの王様」ペレの誕生日でもある。

ペレは、1940年、ブラジルのトレス・コラソンエスで生まれた。本名は、エドソン・アランチス・ドゥ・ナシメント。「エドソン」の名は、米国の発明王、トマス・エディソンにちなんで名付けられたものだという。彼の父親はアフリカ系のブラジル人で、サッカー選手だった。
貧しい家計を助けるため、小さいころ靴磨きをしていたエドソンは「ペレ」という愛称で呼ばれ、父親にサッカーの手ほどきを受け、14歳のときに地元クラブチームの下部組織に入団。15歳のとき、ブラジルを代表する名門サッカークラブのひとつ、サントスFCに入団した。デビューした親善試合でいきなり初得点するなど、すぐに活躍しだした。相手チームの選手6人をドリブルで抜いてゴールを決める、ボールを落とさず、空中で操りながら相手のマークをかわしシュート、ゴールするなど、華麗なテクニックで勝利に貢献し、南米王者、クラブ世界一など、チームを数々の栄冠に導いた。
ペレは34歳の年に引退するまで、サントスの主力選手として、ずっとブラジル国内でプレイしつづけた。欧州のビッグクラブからの誘いもあったが、ペレをはこれを断り、これがブラジル国内での彼の人気をさらに高めた。
35歳になる年に、「サッカー不毛の地」と言われた米国のサーカーリーグのチームに移籍。西ドイツからはフランツ・ベッケンバウアーもやってきて、米国のサッカーリーグを盛り上げた。
国の代表がぶつかるサッカー・ワールドカップは4年ごとにおこなわれるが、ペレはブラジル代表として4度のワールドカップに出場し、3度優勝した。
現役選手を引退した後は、国際サッカー連盟(FIFA)の大使、国際連合児童基金(ユニセフ)の親善大使を務め、55歳のころから3年間、ブラジル政府のスポーツ大臣を務め、スポーツ施設や、スポーツ選手の権利を守る法律の整備に尽力した。

現代では、ペレ以上のテクニックをもったサッカー選手は世界にたくさんいるけれど、そうした現代のテクニックは、ペレが編み出し、やって見せ、それが広まり、さらに進化していった結果だと言える。
味方からきたパスを胸でトラップ(受け止め)し、そのボールが落ちる前に蹴ってゴールを決めるとか、蹴ったボールが大きく曲がった軌道を描くバナナ・シュートなど、ペレがやって見せた技は、当時のサッカーファンの度肝をぬく斬新なものだった。
彼の肉体には俊敏さと強さがあったが、とくにしなやかさがずば抜けていた。

昔、小学校のころの担任教師があるとき、こんなことを言った。
「サッカーの王様、ペレが子どものころ、サッカーをはじめて、最初に練習したのは、きき足でない、左足でもボールを蹴られるようにすることだったんだって」
それを聞いて、えらい少年もいたものだと感心したものだ。
(2023年10月23日)



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10月12日・三浦雄一郎の純

2023-10-12 | スポーツ
10月12日は、プロボウラーの中山律子さんが生まれた日(1942年)だが、プロスキーヤー、三浦雄一郎の誕生日でもある。

三浦雄一郎は、1932年、青森で生まれた。父親は農林省の役人で、山岳スキーヤーだった。子どものころは病弱で、小学校のころは結核、肋膜炎を患い、長いあいだ入院していたという雄一郎は、親の仕事の都合でたびたび転校した。小学校時代からスキーだけは熱心で、中学、高校のときには、地元のスキー大会や、県下の高校生スキー大会で優勝するなどの記録を残した。
北海道大学の獣医学部に入り、卒業後は、同大獣医学部の助手を務めた。
26歳のとき、助手をやめ、スキー競技に出場したり、一時期は北アルプスで、登山者の荷物を背負って運ぶ歩荷(ボッカ)をしたりしていた後、30歳の年に世界プロスキー選手権に参加。以後、プロスキーヤーとして活躍した。
33歳のときに、ブレーキ用のパラシュートを背負って富士山を直滑降で降りた。
38歳で、エベレスト山の8000メートルス地点からスキーで滑降した。このときは、たまたまあったアイスバーンの穴にはまって、命拾いをしたという。
54歳で、世界七大陸の最高峰からの滑降をやり遂げた後は、冒険からは遠ざかっていたが、90代になってなおモンブランでのスキーに挑もうとする父親や、無酸素でエベレスト登頂に挑む息子などに触発されて、再起を決意。日々鍛練に励み、準備した後、2003年、70歳でエベレストに登頂するという当時の世界最高齢登頂記録を作った。
その後、この記録が塗り替えられたことに発奮し、ふたたび訓練にはげみ、2013年5月の80歳での登頂成功の快挙となった。

80歳になった三浦雄一郎が、エベレストに出かける前、たまたまテレビで、彼が作家・政治家の石原慎太郎と対談しているのを見た。
そのとき、三浦は毎日のトレーニングについて話した。彼は都心に住んでいるが、毎日、重りをつけた靴をはき、何十キロかの重りの入ったリュックを背負って、自転車で青梅街道を走って、高尾山のふもとまで通っていた。片道50キロメートル近い距離である。それからふもとに自転車をおき、標高600メートルの高尾山を登ってくる。そして、都心の自宅まで自転車で帰る。それを毎日の日課にしている、と。これが80歳すぎの人間のやることとは。

対談の発言からすると、三浦は、冒険に挑むなかで死ぬことについては、とくに恐怖を感じないらしかった。まわりにいた登山家やスキーヤーたちが死んでいくのを見ているし、自分も運が悪ければ、いつ死ぬかもしれない。そのときはそのときで、死ぬだけのことだ、と肚をくくっているわけである。もちろん、死にに行くわけではなく、死なずに目標をやり遂げられるよう、できるかぎりの準備はしていく。
何をやるのかがはっきりしていること。それから、恐怖とか不安とか、損得とか欲とかの余計な雑念にかまわず、まっすぐ目標に向かってひたすら努力を重ねていくこと。
このシンプルさが、肝である。
(2023年10月12日)



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