1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

1月31日・ジョン・ライドンの光

2023-01-31 | 音楽
1月31日は、作家、大江健三郎が生まれた日(1935年)だが、ロックミュージシャンのジョン・ライドン(またはジョニー・ロットン)の誕生日でもある。伝説のパンク・ロック・バンド「セックス・ピストルズ」を率いたヴォーカリストである。

ジョン・ライドンは、1956年1月31日、英国ロンドンで、貧しいアイルランド移民の息子として生まれた。アイルランド系、ジャマイカ系の貧困層が暮らす、犯罪の多い地区で育った。7歳のころ、ジョンは髄膜炎をわずらい1年ほど入院した。その期間、幻覚や吐き気、頭痛に悩まされつづけた。
学校へ通うようになったジョンは、ひじょうに恥ずかしがりで内気な少年で、体罰がこわくて、授業中「トイレに行きたい」と言いだせず、ズボンのなかに便をもらして、そのまま一日中がまんしていたこともあったという。
19歳のとき、ジョンは、ピンク・フロイドのTシャツに、自分で「おれは嫌いだ」と書き足したものを着て街を歩いていてスカウトされた。
ピストルズは、企画され、作られたバンドである。ジョンはボイス・トレーニングのレッスンに通い、スタジオで練習を重ねた後、20歳のとき、ロック・バンド「セックス・ピストルズ」としてデビュー。その荒々しい音楽と反体制的な歌詞で、圧倒的な注目を集めた。
21歳のとき、ピストルズのデビューアルバム「勝手にしやがれ(原題は『安心しろ、キンタマ』といった意味)」を発表。収録された楽曲は煽情的、反抗的な歌詞のオンパレードで、作詞はすべてジョニー・ロットンによる。ジョンは巻き舌で歌った。
「おれは反キリストだ。おれは無政府主義者だ」(アナーキー・イン・ザ・UK)
「英国の夢に未来ない。おまえたちに未来はない」(ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン)
彼らの楽曲は物議をかもした。ゲリラライブを敢行し、逮捕されたこともある。
ジョンたちの反体制的なスタイルは商業上の営業戦略だったが、保守的な人々の怒りを買った。ジョンはロンドン街を歩いていてナイフで切りつけられ、ナタでひざを割られた。
ピストルズは一世を風靡したが、短命だった。バンドが米国ツアー中の1978年、ジョンが、22歳になる直前、バンドからの脱退を宣言。バンドは空中分解となった。
セックス・ピストルズのボーカリストだったころは、ジョニー・ロットン(「腐ったジョニー」の意味)と呼ばれていたジョンは、ピストルズを脱退して、ジョン・ライドンになった。彼はパブリック・イメージ・リミテッド(PiL)を結成。パンクとは異なる、知的に構成された新しい音楽を追求しだし「メタル・ボックス」「ライブ・イン・東京」などを発表。そのスマートな知性と、時代の何年も先をゆくセンスを示した。

セックス・ピストルズをはじめてテレビで観たときの衝撃は忘れられない。騒音的なサウンド。両手を重ねてマイクをにぎり、マイクスタンドにすがりつくように、足をふらつかせ、目と歯をむき出して憎々しげに歌うジョニーのヴォーカルスタイルは斬新だった。一語一語の音を誇張し、ドイツ人のような巻き舌で歌う英語も特徴的だった。
すぐに「勝手にしやがれ」を買い、夢中になって聴いた。不良で、頭がよくて、獣のようにしなやかで。ジョニー・ロットンは青春の光だった。
(2023年1月31日)



●おすすめの電子書籍!

『ロック人物論』(金原義明)
ロックスターたちの人生と音楽性に迫る人物評論集。エルヴィス、ディラン、レノン、マッカートニー、ペイジ、ボウイ、スティング、マドンナ、ビョークなど31人を取り上げ、分析。意外な事実、裏話、秘話、そしてロック・ミュージックの本質がいま解き明かされる。


●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1月30日・ブローティガンの生

2023-01-30 | 文学
1月30日は、マンガ「サザエさん」の作者、長谷川町子が生まれた日(1920年)だが、作家、リチャード・ブローティガンの誕生日でもある。

リチャード・ブローティガンは、1935年、米国ワシントン州タコマで生まれた。
父親は工場労働者で、母親はウェイトレスだった。両親はリチャードが生まれる8カ月前に別れ、誕生したリチャードはべつの男と暮らす母親といっしょに暮らし、育った。
子どものころ、ブローティガンの家はとても貧しく、生活保護を受けていた。何日も食べ物なしですごしたこともあるという。
しかし、彼は大きくなった。ブローティガンの身長は193センチメートルあり、高校時代は、学校新聞の記者をしながら、バスケットボール部でも活躍した。
20歳のとき、ブローティガンは警察署の窓に石を投げこんで、現行犯逮捕された。これは、刑務所に入って食事にありつこうという魂胆からの犯行だったが、彼の目論見に反して、彼は25ドルの罰金を課された上、病院に入れられた。
精神科の医師は、偏執性の統合失調性と抑鬱症と診断を下し、ブローティガンは電気ショック療法を12回受けたという。
やがて退院したブローティガンは、いったんオレゴンの母親と、母親の再婚相手のもとで、いっしょに暮らした後、ひとり家をでてサンフランシスコに住み着いた。
サンフランシスコで、ミニコミ紙などに記事を書いていたブローティガンは、詩や小説を書きため、22歳のときに最初の詩集を出版した。そして、29歳のとき、小説『ビッグ・サーの南軍将軍』を発表。
32歳のとき、小説『アメリカの鱒釣り』を出版。この作品は全世界で400万部以上を売るベストセラーとなり、ブローティガンの名を一躍高らしめた。以後、
『西瓜糖の日々』
『愛のゆくえ』
『芝生の復讐』
『バビロンを夢見て』
『東京モンタナ急行』
『ハンバーガー殺人事件』
『不運な女』
などを発表した後、1984年9月、カリフォルニア州ボリナスで自殺した。49歳だった。

1970年代の米国文学の風、カート・ヴォネガットとブローティガンは、どちらもユーモアと風刺精神に満ちた「新しい小説」を書く作家だった。ヴォネガットのほうが、より厭世的、皮肉的であるのに対し、ブローティガンのほうが、より楽観的、感傷的である。村上春樹や高橋源一郎らは彼らに強い影響を受けた。

ブローティガンはアルコール依存と抑鬱症に苦しみ、自殺したいといつも口にしていた人だった。彼は、ひとり暮らしの自宅で、44口径のマグナム銃で自分の頭を撃ち抜いた。遺体が発見されたのは、自殺してひと月以上たってからだった。

ブローティガンは、2度結婚し、2度とも離婚していて、2度目の奥さんは日本人女性だった。いずれの結婚生活も長くはつづかなかった。やはりアルコール依存と不安定な精神状態が障害になったようだ。『愛のゆくえ』の原題は、The Abortion (人口中絶)である。
ブローディガン文学のやさしさは、重たく苦い生に裏打ちされていた。
(2023年1月30日)



●おすすめの電子書籍!

『世界文学の高峰たち 第二巻』(金原義明)
世界の偉大な文学者たちの生涯と、その作品世界を紹介・探訪する文学評論。サド、ハイネ、ボードレール、ヴェルヌ、ワイルド、ランボー、コクトー、トールキン、ヴォネガット、スティーヴン・キングなどなど三一人の文豪たちの魅力的な生きざまを振り返りつつ、文学の本質、創作の秘密をさぐる。


●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1月29日・ロマン・ロランの神

2023-01-29 | 文学
1月29日は、神秘思想家エマーヌエル・スヴェーデンボルグ1688年が生まれた日だが、作家、ロマン・ロランの誕生日でもある。世界文学の最高峰『ジャン・クリストフ』『魅せられたる魂』の作者である。

ロマン・ロランは、1866年、フランスのクラムシーに生まれた。父親は公証人で、ロマン・ロランが14歳のとき、一家はパリに引っ越した。高等師範学校をでたロランは、歴史や美術史、芸術史を学校で教えながら、雑誌に文章を発表。
33歳のとき『ベートーヴェンの生涯』を発表。
好評だったこの評伝を足掛かりに、ベートーヴェンをモデルとした音楽家を主人公に据え、彼の生まれてから死ぬまでの一生を描ききる大長編小説を書くことを決意。それが、38歳から46歳のころにかけて書きつづけた長編『ジャン・クリストフ』である。
『ジャン・クリストフ』を執筆後は、教師をやめ、執筆に専念した。
49歳のとき、ノーベル文学賞受賞。
56歳から67歳にかけて、長編『魅せられたる魂』を執筆。
生涯を通じ一貫して、戦争反対、ファシズム反対、ヒューマニズムを訴え、国際社会に向けて発言しつづけた。日本の満州侵略はもちろん非難したし、ナチスが台頭していたドイツからのゲーテ賞授与を拒否した。
シュバイツァー、アインシュタイン、ヘルマン・ヘッセ、マハトマ・ガンジー、タゴールらと交友関係をもち、ラーマクリシュナや、ヴィヴェカーナンダなどインドの聖人についての評論も書いた後、1944年12月、フランスのヴェズレーで没した。78歳だった。
作品は上記のほかに『ミケランジェロの生涯』『ラーマクリシュナの生涯』などがある。

若いころに『ジャン・クリストフ』を読んだ。大長編を読み終えた後の、あの大きな感動はちょっとことばにできない。
『クリストフ』の、主人公クリストフの青年時代を描いたくだりにたしか、彼が神さまの声を聞く場面があった。クリストフが、どうして自分はこんなに苦しみ、悩まなくてはならないのか、と苦悶していると、そこへ神さまの声が聞こえてくる。神さまはこういう意味のことを語りかけていた。
「クリストフ、悩みなさい。苦しみなさい。悩み、苦しむむこと。それこそが、わたしがおまえに望むことなのだ」

長編を書くには強靱な体力と精神力を要求される。ロマン・ロランはそういう力のたくましい人だった。
(2023年1月29日)



●おすすめの電子書籍!

『世界文学の高峰たち』(金原義明)
世界の偉大な文学者たちの生涯と、その作品世界を紹介・探訪する文学評論。ゲーテ、ユゴー、ドストエフスキー、ドイル、プルースト、ジョイス、カフカ、チャンドラー、ヘミングウェイなどなど。文学の本質、文学の可能性をさぐる。


●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp



コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1月28日・小松左京の巨大

2023-01-28 | 文学
1月28日は、女流作家コレットが生まれた日(1873年)だが、日本SF界の巨匠、小松左の誕生日でもある。

小松左京(本名、小松実)は1931年、大阪で生まれた。14歳で敗戦を迎えた小松少年は、その後、京都大学の文学部でイタリア文学を専攻。大学時代には、マンガを描いて雑誌に投稿し掲載されたという。
マスコミ志望だったが、就職試験に失敗したため、雑誌の記者や、新聞のレビュー記事、漫才の台本など、さまざまなジャンルの文章を書いて生計を立てた。
SF雑誌の小説コンテストに応募し、それをきっかけにSF小説家としてデビュー。
以後、
『日本アパッチ族』
『果しなき流れの果に』
『日本沈没』
『復活の日』
『エスパイ』
『首都消失』
など、話題作、ベストセラーをつぎつぎと発表した。
1970年、39歳のとき、大阪で開かれた万国博覧会において、テーマ館のサブ・プロデューサーを務め、また同年、アーサー・C・クラークほか、海外の著名なSF作家を日本へ招き、「国際SFシンポジウム」を主宰した。
49歳のときには、日本SF作家クラブ会長として「日本SF大賞」の創設に尽力。
2011年7月、肺炎により没。80歳だった。

日本SF作家クラブにはその昔、こういう会則があったと聞いた。
「星新一より背が高い者、筒井康隆よりハンサムな者、小松左京より太っている者は、入会不可」
すこしちがったかもしれないが、いずれにせよジョークで、こうやって日本のSF作家の御三家をたたえたのである。日本の文学界は伝統的にSF作家には冷たいようで、この3人のビッグネームでさえ、ついに芥川賞も直木賞も受賞していない。

膨大な数の著作があるけれど、小松左京の代表作といえばまず、大ベストセラーとなり、テレビ化、映画化された傑作『日本沈没』。当時の『日本沈没』ブームをよく覚えている。誰もがこの書名を知っていた。日本全国がこの作品といっしょに踊っている感じだった。
それから、長編では、
『日本アパッチ族』
『果しなき流れの果に』
『復活の日』
など名作である。それから短編だと、
『ゴルディアスの結び目』
『霧が晴れた時』
『くだんのはは』
なども世評が高い。
それにしても、もの知りで、想像力が豊かで、体力と気力が充実した人物だった。姿が大きい。天下の京都大学をでていながら、就職できなかったという逸話も(もちろん時代背景もあるけれど)、うなずける気がする。
だから、学校を出て、就職できない者こそ、みどころがある、ということにもなる。
若い小松左京にとっては、就職活動の失敗はつらかったろうけれども、やはり、社会のため、そして本人の巨大な才能を生かすためにも、彼は就職できなくてよかった、という逆説も成り立つ。まったく、日本人にはめずらしい、スケールの大きな作家だった。いわば、
世界的なスケールの作家だった。アメリカ人として生まれていたら、スティーブン・キングなどよりさらに巨大なベストセラー作家になっていたのではないか。
(2023年1月28日)



●おすすめの電子書籍!

『世界文学の高峰たち 第二巻』(金原義明)
世界の偉大な文学者たちの生涯と、その作品世界を紹介・探訪する文学評論。サド、ハイネ、ボードレール、ヴェルヌ、ワイルド、ランボー、コクトー、トールキン、ヴォネガット、スティーヴン・キングなどなど三一人の文豪たちの魅力的な生きざまを振り返りつつ、文学の本質、創作の秘密をさぐる。読書家、作家志望者待望の書。


●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1月27日・モーツァルトの才

2023-01-27 | 音楽
1月27日は、「マゾヒズム」の名称の由来である作家ザッヘル・マゾッホが生まれた日(1836年)だか、至上の音楽家、モーツァルトの誕生日でもある。

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは、1756年、神聖ローマ帝国(現在のオーストリア)のザルツブルグで生まれた。父親は宮廷音楽家で、ヴォルフガングは7人きょうだいの末っ子だった。
音楽家の父親によって、その才能を見いだされたモーツァルトは、幼いころから音楽の英才教育を受け、父親といっしょにヨーロッパ各地を演奏旅行してまわった。
6歳のときには、宮殿で帝国の女王、マリア・テレジアの前で演奏した。演奏後、宮殿内でころんだ彼のところへ、やさしく手を差し伸べてくれた7歳の皇女マリー・アントワネットに、感激したモーツァルトは結婚を申し込んだという。
モーツァルトは、王族や貴族、聖職者からの作曲の依頼や、演奏会、音楽の家庭教師、オペラの作曲、楽譜の出版などで生計を立てて生きた。
本人も天分に恵まれていることを認める、自他ともに許す音楽の天才だった。彼はいちど聴いた曲を完全に覚えていて、後で楽譜に書きだせた。目隠ししてもピアノが演奏できた。
本人は作曲に関しては長い時間の研究と思考を捧げたと告白しているが、一方で、作曲する際には、最初から全曲の全パートの譜面が頭のなかに浮かび、あとはそれを紙の上に書き写すだけでよかったとも言われる。
「アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク(小夜曲)」など数々の室内楽の名曲、3大交響曲といわれる交響曲第39番、第40番、第41番のほか、オペラでは「フィガロの結婚」「ドン・ジョヴァンニ」「魔笛」、そして未完成の「レクイエム」などを書いた後、1791年12月、ウィーンで没。共同墓地に埋葬された。35歳だった。

モーツァルトの若すぎる死については、ライバルの音楽家による毒殺説もあり、それを映画化したのが、ミロス・フォアマン監督の映画「アマデウス」である。この映画でモーツァルト役を演じた俳優トム・ハルスは、軽薄で快活、冗談好き、猥談好きなモーツァルトを再現しようとして、米国のテニス・プレイヤー、ジョン・マッケンローの試合中の落ち着きのない行動を、テレビ録画で繰り返し見てまねたという。

日本人は、モーツァルトが大好きである。それは、その音楽の美しさもさることながら、誰もが認める「天才」ということで、安心して聴ける「安全商品」だからかもしれない。とくに最近は、モーツァルトを聴くと頭がよくなるとか、頭のいい子に育つとかいう評判もあって、モーツァルトのCDを買いあさって、片っ端から子どもに聴かせている親というのも、すくなからずいるようだ。動機はどうあれ、もちろん悪いことではない。
(2023年1月27日)



●おすすめの電子書籍!

『大音楽家たちの生涯』(原鏡介)
古今東西の大音楽家たちの生涯、作品を検証する人物評伝。彼らがどんな生を送り、いかにして作品を創造したかに迫る。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ショパンから、シェーンベルク、カラヤン、ジョン・ケージ、小澤征爾、中村紘子まで。音の美的感覚を広げるクラシック音楽史。


●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1月26日・盛田昭夫の楽観

2023-01-26 | ビジネス
1月26日は、タレントの所ジョージが生まれた日(1955年)だが、ソニーの共同創立者、盛田昭夫の誕生日でもある。

盛田昭夫は、1921年、愛知県の造り酒屋の家に生まれた。昭夫が店を継げば、第15代目当主となるはずの古い家柄だった。
23歳で大阪帝国大学の理学部物理学を卒業した盛田は、海軍の技術中尉となり、24歳のときに、海軍で井深大(いぶかまさる)と知り合った。知り合ってすぐ敗戦となり、敗戦翌年の1946年、井深と盛田は東京通信工業という会社を興した。これが現在のソニーで、SONYの名前は、英語の「音(sound, sonic)」の語源であるラテン語の「Sonus」と、アメリカで男の子を呼ぶときの「ソニー(Sonny)」をかけ合わせたものだという。
ソニーの井深と盛田は、海軍時代の経験から、国家プロジェクトと結びついた巨大企業に戦いを挑むことを避け、民間向け、一般消費者向けの製品開発を目指した。
開発費や社員の給与など、メーカーの研究費、維持費は莫大で、はじめのころは、ソニーの社員の給料は、盛田の実家からでていたともいう。そうやってやりくりして、ソニーは、日本初のテープレコーダーを作り、日本初のトランジスタラジオを作った。
ソニーはアメリカへ進出。39歳のとき、盛田はソニー・アメリカの社長となり、日本の企業としてはじめてアメリカで株式を発行した。そして、42歳のとき、彼は家族を連れてニューヨークへ引っ越し、アメリカの市場開拓に真剣にとりくみだした。
ウォークマンの大ヒット、ベータマックスの法廷闘争などをへて、ソニーを世界企業に育て、アップルのスティーブ・ジョブズが教えを乞いに来るなど、世界でもっとも尊敬される企業にした盛田昭夫はソニーの社長、会長を歴任し、1999年10月、肺炎のため没した。78歳だった。

盛田昭夫は、日本国内だけでなく、世界の人々から敬愛されたビジネスマンだった。
理学部物理科出身の技術者なのに、セールスマンとして先陣をきって世界市場を駆けまわった。スポーツマンで、社交家で、勉強家だった。
よくテレビのドキュメンタリー番組などにも出演し、快活で、よくしゃべる、スマートな人物だった。盛田は言っている。
「私は楽観主義者である。われわれがそのためにベストをつくして努力しさえすれば、平和で偉大な未来は必ずわれわれのものとなるだろう」(盛田昭夫他『MADE IN JAPAN』朝日文庫)
彼の楽観論は「そのうちなんとかなるだろう」という「果報は寝て待て」論ではなく、
「強い意志をもち、努力をつづけるなら、かならず未来はよくなる」
という信念である。現代日本では見失われがちな信念である。
(2023年1月26日)



●おすすめの電子書籍!

『大人のための世界偉人物語』(金原義明)
世界の偉人たちの人生を描く伝記読み物。エジソン、野口英世、キュリー夫人、リンカーン、オードリー・ヘップバーン、ジョン・レノンなど30人の生きざまを紹介。意外な真実、役立つ知恵が満載。人生に迷ったときの道しるべとして、人生の友人として。


●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1月25日・北原白秋の魔術

2023-01-25 | 文学
1月25日は、作家サマセット・モームが生まれた日(1874年)だが、詩人、北原白秋の誕生日でもある。

北原白秋こと、北原隆吉は、1885年、福岡県の柳川で生まれた。家は江戸時代からつづく海産物問屋の大店で、酒の醸造と米の精米をする地方有数の商家だった。
ほんとうは白秋の上に長男がいたが、生後間もなく死んだので、隆吉は「トンカ・ジョン(良家の長男の意)」と呼ばれ、長男として育てられた。
文学好きの隆吉は、16歳のときに雅号を「白秋」と決めた。そのころ、町の62戸が消失したという大火事に巻き込まれ、彼の家の酒倉が全焼するという災難に見舞われた。酒だけに火ははげしく延々と燃えた。北原家では、借金をして、新たに酒倉を再建したが、このときの借金が重くのしかかり、北原家はしだいに傾きだした。
白秋は19歳のとき上京。早稲田大学の予科に入り、学報や同人誌などに詩を投稿し、いよいよ詩人としての活動を開始した。24歳のとき、処女詩集『邪宗門』を出版。官能的、耽美的なこの象徴詩によって文学界に衝撃が走った。
同じ年、柳川の実家が破産。家族は白秋を頼って上京してきた。
26歳のとき、第二詩集『思ひ出』出版。この詩集は、日本文学史上、もっとも成功した詩集ともいわれ、白秋の名声は一気に高まった。
27歳のとき、人妻と恋愛関係ともち、相手の夫から姦通罪で訴えられ、白秋は2週間拘置所に入った。出所した白秋は、自殺しに神奈川県の三浦三崎へ行った。2週間滞在したが、結局自殺は果たせなかった。白秋はこのときの心境についてこう述べている。
「どんなに突きつめても死ねなかつた、死ぬにはあまりに空が温く日光があまりに又眩しかつた」(「ザンボア後記」『新潮日本文学アルバム北原白秋』新潮社)
このどん底の状況から、白秋は書きはじめた。
以後、歌集『桐の花』、詩集『白金之独楽』、歌集『雲母集』、詩集『水墨集』、詩集『海豹と雲』などを出版。並行して数多くの童謡を書き、関西学院大学、大正大学、同志社大学、駒澤大学ほか多数の大学、学校の校歌を作詩した。
52歳のとき、糖尿病と腎臓病の合併症による眼底出血により視力喪失。以後は口述筆記で詩歌を詠んだ。1942年11月、糖尿病、腎臓病の悪化により死去。57歳だった。
困難と闘った苦闘の人生であり、才能を華々しく輝かせた人生でもあった。

北原白秋こそわが「詩聖」である。『邪宗門』『思ひ出』の復刻版をペーパーナイフで切り開きつつ読んでいる。巡礼として九州・柳川の白秋生家も訪ねた。

「われは思ふ、末世の邪宗、切支丹(きりしたん)でうすの魔法。
黒船の加比丹(かひたん)を、紅毛の不可思議国を、
色赤きびいどろを、匂鋭(にほひと)きあんじやべいいる、
南蛮の桟留縞(さんとめじま)を、はた阿刺吉(あらき)、珍た(ちんた)の酒を。」(「邪宗門秘曲」『邪宗門』)

白秋は日本語の魔術師だった。
(2023年1月25日)



●おすすめの電子書籍!

『世界大詩人物語』(原鏡介)
詩人たちの生と詩情。詩神に愛された人々、鋭い感性をもつ詩人たちの生き様とその詩情を読み解く詩の人物読本。ゲーテ、バイロン、ハイネ、ランボー、ヘッセ、白秋、朔太郎、賢治、民喜、中也、隆一ほか。彼らの個性、感受性は、われわれに何を示すか?


●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1月24日・ホフマンの不屈

2023-01-24 | 思想
1月24日は、1848年のこの日に米国の現在のカリフォルニア州コロマで、金が発見され、ゴールドラッシュがはじまった日だけれど、作家ホフマンの誕生日でもある。

エルンスト・テオドール・アマデウス・ホフマンは、1776年、プロイセン王国のケーニヒスベルクに生まれた。出身地は現在はロシア領となっている土地である。
法律家の家系に生まれたホフマンは、司法試験に合格し、裁判所の判事となった。転勤していった各地の法廷で、判事の仕事をこなしながら、絵画を描き、オペラを作曲した。
30歳のとき、彼は妻子とともにワルシャワにいたが、そこへフランスのナポレオン軍が進駐してきた。これによって、プロイセン行政府の役人はみな失職し、ホフマンもとうぜん失業した。ホフマンは、妻子を縁者のもとに残し、単身ベルリンへでたが、そこもまたナポレオンの支配下にあり、ホフマンの生活は困窮した。
一文なしの彼は、友人に借金を重ね、それでもしばしば飢え死にしそうになった。そして、妻のもとにいた娘が亡くなったという報せを受けたのもこのころだった。
人生のどん底にいた32歳のとき、彼は妻をともなってバンベルクへ引っ越し、そこで劇場の音楽指揮者の職についた。
33歳のとき、小説『騎士グルック』を発表し、これによってようやく運が開けてくる。
ホフマンは劇場の音楽の仕事のかたわら、文筆活動も活発におこなうようになり、彼のオペラの代表作「ウンディーネ」を作曲し、『黄金の壺』を書いた。
その後、音楽の仕事をやめたホフマンは、38歳のとき、ふたたび判事にもどった。
そうして、法律関係の官僚として働きながら著述もつづけ、1822年6月、ベルリンで没した。46歳だった。

ホフマンの人生は、彼の書いた小説のように幻想的で起伏に富んでいる。
13歳のとき起こったフランス革命のあおりで、社会状況が激変をつづけるなか、しょっちゅう失業し、無一文の絶望的な状況に追い込まれたこともあった。それでも、法律、音楽、また法律と業種を変えて働きながら、並行して旺盛な筆力でたくさんの作品を書き残した。
多才で、けっしてくじけない、前へ進む強い意志の人である。
ちなみに、ホフマンの名前にある「アマデウス」は、天才音楽家アマデウス・モーツァルトへのオマージュとして、ホフマン自身が自分で付け加えたものである。

若いころから幻想小説が好きで、泉鏡花はもちろん、渋沢龍彦とか、ハウプトマンとか、あるいは、このホフマンなどを読んでいた。
ホフマンだと『黄金の壺』『砂男』『スキュデリー嬢』『くるみ割り人形とねずみの王様』『ブランビラ姫』『牡猫ムルの人生観』などを読んだ。『牡猫ムルの人生観』を意識して、おそらく夏目漱石は『吾輩は猫である』を書いたのだろう。

ホフマン作品は、まず構想が奇想天外で、文章に、読者にページをめくらせる腕力のようなものが感じられる。小説に勢いがある。知人のドイツ文学の教授は『砂男』が好きだと言っていた。それと、やはり『黄金の壺』をおすすめしたい。
(2023年1月24日)



●おすすめの電子書籍!

『世界文学の高峰たち』(金原義明)
世界の偉大な文学者たちの生涯と、その作品世界を紹介・探訪する文学評論。ゲーテ、ユゴー、ドストエフスキー、ドイル、プルースト、ジョイス、カフカ、チャンドラー、ヘミングウェイなどなど。文学の本質、文学の可能性をさぐる。


●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1月23日・スタンダールのパルム

2023-01-23 | 文学
1月23日は、ヴァイオリニスト諏訪根自子(すわねじこ)が生まれた日(1920年)だが、作家スタンダールの誕生日でもある。『赤と黒』『パルムの僧院』の作者である。

スタンダールこと、本名マリ=アンリ・ベールは、1783年、フランスのグルノーブルに生まれた。父親は弁護士だった。
スタンダールが6歳のとき、フランス革命がはじまった。
青年となったスタンダールは、陸軍に入り、ナポレオンのイタリア遠征に参加した後、退役。官僚、ジャーナリスト、在イタリアのフランス領事などをしながら、小説や評論を書いた。
39歳のとき、『恋愛論』を発表。
47歳のとき『赤と黒』。
そして56歳のとき『パルムの僧院』を発表。
現在でこそ、スタンダールといえば世界文学の最高峰のひとつとして、全世界で読まれているが、スタンダールの生前は彼の本はまったく売れなかった。その売れなさかげんは、伝説的で、1年間で売れたのが3部とか5部とか、それくらいだったらしい。
スタンダールは1842年3月、パリで没。59歳だった。
墓はパリのモンマルトルにあり、墓碑銘にこう刻まれた。
「ミラノ人アッリゴ・ベイレ 書いた 愛した 生きた」
生粋のフランス人なのだけれど、こよなくイタリアを愛し、イタリア人になりきりたかった人だった。

『パルムの僧院』は自分のもっとも好きな小説のひとつである。小説というのは、結局『パルムの僧院』にとどめをさすのかもしれない。
ふとした折にあの小説中の登場人物たち、ファブリス、サンセヴェリーナ侯爵夫人、モスカ伯爵といった人々のことを、旧友のように思いだし、なつかしくなる。
自分の感じ方とはちがうかもしれないけれど、スタンダリアンの大岡昇平はもちろん、谷崎潤一郎も、小林信彦も、バルザックも、心ある人はみな『パルムの僧院』を絶賛している。

友人だったメリメによると、スタンダールは、そこに女性がいるのなら、とにかく口説いてみるのがすべての男にとっての義務である、と考え、それをつねに実行していた人物らしい。メリメも、好きな女性がいるなら、とにかく彼女をものにしたまえ、とけしかけられたという。(「スタンダール」『メリメ全集 6』河出書房新社)
この辺は、まさにイタリア人気質そのもので、スタンダールの異性に対する積極性がよくうかがえる挿話である。
(2023年1月23日)



●おすすめの電子書籍!

『世界文学の高峰たち』(金原義明)
世界の偉大な文学者たちの生涯と、その作品世界を紹介・探訪する文学評論。ゲーテ、ユゴー、ドストエフスキー、ドイル、プルースト、ジョイス、カフカ、チャンドラー、ヘミングウェイなどなど。文学の本質、文学の可能性をさぐる。

●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1月22日・バイロンのロマンティック

2023-01-22 | 文学
1月22日は、作家、森敦が生まれた日(1912年)だが、詩人バイロン卿の誕生日である。

ジョージ・ゴードン・バイロンは、1788年、英国イングランドのロンドンで生まれた。父親はノルマン系イングランド人の貴族で、母親はスチュワート王家の血をひくスコットランド名門貴族の家系。散財家だった父親は財産目当てに母親と結婚したといわれる。
バイロンの右足は先天性内反足、つまり生まれつき足の部分が曲がっていて、歩くのが不自由だった。バイロンの肖像画が上半身だけのものが多く、全身が描かれていても右足先が隠されていたりするのは、このためだろう。
バイロンが生まれた翌年は、フランス革命がはじまった年で、このとき母親は彼を連れてスコットランドへ引っ越した。一方、父親は借金とりから逃れるために騒乱のフランスへ旅立ち、バイロンが3歳のときにフランスで没した。
6歳のとき、男爵であるバイロン家の相続人が、コルシカで戦死したため、ジョージが相続人となり、10歳のとき、大伯父の第5代バイロン卿が没し、ジョージは正式に第6代バイロン卿となった。
17歳でケンブリッジ大学に入学したバイロンは、高利貸しからお金を借りて遊びまわり、同性や異性との恋にふけり、また詩集をさかんに出版した。21歳のとき、自分の詩集を酷評した批評家を、反対に批判し返す評論を出版し、英国を飛びだした。そうして2年近くをかけてバイロンは、ポルトガル、スペイン、マルタ島、ギリシア、アルバニア、コンスタンチノープルなど地中海沿岸を旅してまわる。旅のなかで、遺跡を訪ね、馬に乗り、海峡を泳いで渡り、さまざまな人々に出会い、恋をし、詩を書きつづけた。
23歳のとき、ロンドンへ帰郷。そのころ、母親が没した。
24歳のとき、旅の途中で書きためた詩集『チャイルド・ハロルドの巡礼』を出版。大反響を巻き起こし、一夜にしてバイロンは有名になった。
「ある朝目覚めると、わたしは自分が有名なのに気がついた。(I awoke one morning and found myself famous.)」
とは、このときのせりふである。
英国社交界の寵児となったバイロンは、さまざまな女性たちと浮名を流し、借金とりに追われたり、ヨーロッパを旅したりしながら、詩を書きつづけ、詩集『邪宗徒』『海賊』『ドン・ジュアン』などを出版。ギリシア独立革命に参加することを決意したバイロンは、35歳のとき、ギリシアに出発し、1824年、ギリシアの地で熱病にかかり、36歳で没した。

ゲーテも絶賛したロマン派詩人の代表格バイロンは、その生きざまも激しくロマンティックなものだった。
バイロン卿には、たくさん名言がある。

「事実はつねに奇妙である。小説よりも奇妙である。(Truth is always strange, stranger than fiction.)」

「もしも書くことで頭のなかを空っぽにできなかったら、わたしは気が狂ってしまう。(If I don't write to empty my mind, I go mad.)」

「いつもできるだけ笑っていなさい。それは安上がりな薬ですよ。(Always laugh when you can. It is cheap medicine.)」
(2023年1月22日)



●おすすめの電子書籍!

『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句2』(金原義明)
「ガリヴァ旅行記」から「ダ・ヴィンチ・コード」まで、英語の名著の名フレーズを原文(英語)を解説、英語ワンポイン・レッスンを添えた新読書ガイド。好評シリーズ!


●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする