1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

10月31日・マリー・ローランサンの夢

2013-10-31 | 美術
10月31日は、ハロウィン。この日は、『ねじ式』を描いたマンガ家、つげ義春が生まれた日(1937年)だが、画家のマリー・ローランサンの誕生日でもある。
自分がローランサンのことを知ったのは、詩人アポリネールの恋人としてだけれど、彼女の絵を見て、すぐに好きになった。

マリー・ローランサンは、1883年、仏国のパリで生まれた。彼女は、裁縫や刺しゅうで生計を立てている未婚女性が生んだ私生児で、父親は税務関係の役人だった。
マリーは21歳のころ、画塾に入り、本格的に絵画の勉強をはじめ、23歳の年にパブロ・ピカソ、マックス・ジャコブの仲間に加わった。
24歳になる年に、ローランサンは、ピカソの紹介で、詩人のギヨーム・アポリネールに会った。ピカソはアポリネールにこう紹介したという。
「きみのフィアンセに出会ったよ……」(フロラ・グルー著、工藤庸子訳『マリー・ローランサン』新潮社)
ローランサンとアポリネールは恋に落ちた。アポリネールは三歳年下のローランサンに毎日のように詩を書いて送り、彼女の画才をあちこちで宣伝してまわった。ローランサンはアポリネールの部屋へ出かけ、愛を交わしては、母親といっしょに住んでいる家へ帰った。そのうちに、アポリネールは詩人として評価されだし、ローランサンは画家として売れはじめ、ローランサンが29歳のころ、二人は別れた。このときアポリネールが作った詩が、シャンソンにもなった「ミラボー橋」である。
その後、彼女はアポリネールとよりをもどそうとしたこともあったらしいが、二人はすれちがい、彼女は30歳のときドイツ人画家と結婚した。
アポリネールは、第一次大戦に出征し、前線で頭を負傷して帰還した後、彼女が35歳のときに死亡した。そして、彼女は39歳の年に夫と離婚した。
ローランサンは、キュビズムの時代をへて、パステルカラーの淡い色調で、水彩画のように油彩で描く独特の画風に到達し、売れっ子画家となった。彼女は絵を描くときは、いつも白かバラ色のエプロンをつけて描いたという。
上流階級の人々から殺到する肖像画の依頼に応え、彼女は舞台衣裳の分野でも活躍した後、1956年6月、心臓発作のため、パリのアパルトマンで没した。72歳だった。

ローランサンには、風景画もあるそうだが、ほとんど人物画ばかり描いた画家である。でも、明るい、優しい絵画をたくさん描きながら、画家の心はそんなに楽しくはなかった、そんな気がする。65歳のころ、彼女はノートにこんな詩を書きつけている。
「おまえの恋人たちは みな行ってしまった
 おお美しき女よ じつは美しかったことなど
 一度もなかったのだけれど
 なにがおまえに残されていると言うの?
 ほとんど灰になった髪
 そしておそらくは 夢」(同前)

埋葬の際、ローランサンの遺体は、彼女の遺言にしたがって、純白のドレスをまとい、手に一輪のバラをにぎり、胸にはアポリネールからの手紙が載せられた。
(2013年10月31日)




●おすすめの電子書籍!

『8月生まれについて』(ぱぴろう)
アポリネール、ブローデル、バーンスタイン、マドンナ、ヘルタ・ミュラー、シャネル、モンテッソーリ、ゲーテ、マイケル・ジャクソン、宮本常一、中坊公平、北原怜子、宮沢賢治など8月誕生31人の人物論。8月生まれの人生とは? ブログの元になった、より深く詳しいオリジナル原稿版。


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10月30日・「フランス映画」クロード・ルルーシュ

2013-10-30 | 映画
10月30日は、天才サッカー選手、ディエゴ・マラドーナが生まれた日(1960年)だが、フランス映画のクロード・ルルーシュ監督の誕生日でもある。
ルルーシュ監督は、自分がもっとも敬愛する映画監督のひとりで、彼の作品は、
「観ておいてほんとうによかった」
と思わなかったことがない。日本で「フランス映画みたいな」とか「映画みたいな恋」とか言うとき、要するにそれは「ルルーシュ監督の映画のような」という意味だと思う。

クロード・バリュック・ジョゼフ・ルルーシュは、1937年、フランスのパリで生まれた。
父親は、アルジェリアからやってきたユダヤ系移民だった。
クロードは、バカロレア(大学入学資格試験)に失敗したとき、失意をなぐさめようとした父親に、はじめて撮影用カメラを買い与えられた。クロードはこれでルポタージュ作品を撮った。そして23歳のころ、初の長編監督作品「人間の本質」を発表した。しかし、作品は酷評され、興行的にも失敗した。ルルーシュはほぼ破産状態へ追い込まれた。
打開策に詰まった彼はひとりでクルマに乗り、考えにふけりながらひたすら運転し、英仏海峡に面したドービルの海岸に午前2時に着いた。疲れ切った彼はそのままクルマのなかで眠った。目を覚ますと、海岸を散歩している人影に気づいた。女と子どもと犬が、引き潮の波打ち際を、午前六時の早朝に散歩しているのだった。
「どういう事情をもった人なのだろう」
ルルーシュは自分の悩みを忘れて、彼女らの背負った事情、生活を想像した。すると、夫を失い、わが子を寄宿学校に預けている母親、というイメージが浮かんできた。さらに、彼女と同じような境遇の、子連れの男が、子どもの寄宿舎で彼女と出会い、恋に落ちるというストーリーが頭のなかにできあがった。
彼は1カ月半で脚本を書き、1カ月で俳優やスタッフ、資金を集め、配給会社も決まらないまま、3週間で撮影、3週間で編集を仕上げ、長編映画「男と女」を作り上げた。
29歳の年に発表されたこの作品は、カンヌ映画祭でグランプリをとり、アカデミー賞の外国語映画賞に輝き、世界中で大ヒットした。
破産寸前だった無名のルルーシュは、一躍引っ張りだこの人気監督となり、新鮮なみずみずしさに満ちた映像表現で、恋の映画をつぎつぎと作り、世界的巨匠となった。
作品に「白い恋人たち」「パリのめぐり逢い」「あの愛をふたたび」「続・男と女」「夢追い」「愛と哀しみのボレロ」「レ・ミゼラブル」などがある。
自分としては「男と女」「夢追い」をとくにおすすめしたい。

ルルーシュは、撮影の前に音楽の録音をすませておく珍しい監督で、その音楽を出演者に聴かせて、そのシーンのイメージをもってもらうのだという。そして、セリフは決めず、俳優たちにはそのシーンの意味だけを伝え、彼らが好きにしゃべるのにまかせ、恋人たちが語らうシーンとして、望遠レンズで遠くから撮る。撮影直前のリハーサルはおこなわず、同じシーンを2度撮ることもしない。それで、ああいう、新鮮な感動に満ちた、一期一会的な、生き生きとした恋の映画ができあがるのである。

ルルーシュは、映画撮影についてこういう意味のことを言っている。
「映画は、物語と同じ時間で撮影されるべきだ。たとえば、3週間の物語は、3週間で撮る、というように」
この考えは、とても味わい深いものがあると自分は思う。
(2013年10月30日)



●おすすめの電子書籍!

『12月生まれについて』(ぱぴろう)
ゴダール、ディートリッヒ、ディズニー、ジェーン・フォンダ、ハイネ、伊藤静雄、尾崎紅葉、埴谷雄高など、12月誕生の31人の人物評論。人気ブログの元となった、より深く詳しいオリジナル原稿版。12月生まれの取扱説明書。


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10月29日・エドモンド・ハレーの予言

2013-10-29 | 科学
10月29日は、実業家の「ホリエモン」こと堀江貴文が生まれた日(1972年)だが、ハレー彗星の出現を予言した天文学者、エドモンド・ハレーの誕生日でもある。
ハレー彗星の話は、小学校の低学年のころからいろいろ聞いていた。ずっと昔、ハレー彗星が近づいてきたとき、一時的に地球の空気が吸い取られ、またもどるといううわさが広まり、その空気がない時間帯をやりすごすため、タイヤのチューブが売れた(チューブ内の空気を吸って生き延びるという魂胆らしい)とか、『ハックルベリイ・フィンの冒険』を書いたマーク・トウェインは、ハレー彗星が来た年に生まれ、「自分はハレー彗星が来たときに死ぬ」と言っていたが、その通りになった、とか。

エドモンド・ハレーは、1656年、英国イングランドのロンドンで生まれた。父親は石けんを製造していて、裕福な家庭だった。
エドモンドは、セント・ポール・スクールをへて、17歳の年にオックスフォード大学に入学した。大学在学中に彼は、太陽系惑星と黒点に関する論文を書いた。
19歳のころ、グリニッジ天文台の天文学者の助手になった。
20歳になる年から、後にナポレオンの流刑地として有名になる南大西洋のセントヘレナ島に滞在して天体観測をおこない、帰国後にその南半球で観測した三百以上の恒星のある天球図を発表した。この功績により、ハレーは王立学会のフェローに選ばれた。
ハレーは天文学だけでなく、物理学、気象学、数学、統計学など、幅広い分野でめざましい足跡を残した。死亡統計から割り出した終身年金の論文を書き、大西洋を航海、観測して地磁気の海図を作り、海底調査用の潜水器具を発明した。
49歳のころ、彼は彗星の周期に関する論文を発表した。これは過去の観測記録を綿密に検討した結果、ハレーが26歳だった1682年に天空に現れたほうき星は、1456年、1531年、1607年に現れたほうき星と同じもので、周期が約76年であるため、つぎは1758年に現れるであろう、と予言したものだった。
64歳の年に、ハレーグリニッジ天文台長となった。そうして生涯にわたって天文観測を続けた後、1742年1月に没した。85歳だった。
そして、彼が没した16年後、ハレーの予言した通り、空に彗星が現れた。

1986年にハレー彗星が接近したとき、自分はそれを見るためにオーストラリアへ行くことを真剣に検討した。日本からでは、ハレー彗星は水平線の下に隠れてしまい、見られないからだ。で、結局、八丈島まで行って、泊まった旅館のご主人の双眼鏡を借りて、夜明け前の水平線ぎりぎりに見えるほうき星を、ようやく見ることができた。つぎにハレー彗星がやってくるのは、2061年の夏だそうで、それを見ることは、おそらく自分にはかなわないだろう。

自分の死後に起こることを、確信をもって言い当てて死ねる、というのは、すごいことだと思う。神さまみたいである。
(2013年10月29日)


●おすすめの電子書籍!

『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句』(越智道雄選、金原義明著)
「ハックルベリイ・フィンの冒険」「風と共に去りぬ」から「ハリー・ポッター」まで、英語の名作の名文句(英文)を解説、英語ワンポイン・レッスンを添えた新読書ガイド。


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10月28日・ビル・ゲイツの構想力

2013-10-28 | ビジネス
10月28日は、柔道家の嘉納治五郎が生まれた日(1860年)だが、実業家、ビル・ゲイツの誕生日でもある。Windowsの米マイクロソフト社の創業者で、世界一のお金持ちである。
自分は、Windows95の入ったパソコンを買ってから、ビル・ゲイツの本を何冊か読んだ。『ビル・ゲイツ未来を語る』という彼の著書も読んだが、そのモーレツ・ビジネスマンぶりと、1996年の時点で、すでに情報ハイウェイや電子化社会といった未来イメージを構築している、その構想力には脱帽した。

ビル・ゲイツこと、ウィリアム・ヘンリー・ビル・ゲイツ三世は、1955年、米国ワシントン州のシアトルで生まれた。父親は英国系の血をひく弁護士だった。
13歳で、はじめて三目並べゲームのプログラムを書いたゲイツは、高校生のとき、二つ上級のポール・アレンらと組んで、企業からデータ集計や給与計算用ソフトなどのプログラミングを請け負う仕事をはじめた。
17歳のとき、ハーバード大学に入学。大学性になっても、アレンら仲間とともにプログラム開発を続けていたが、19歳のとき、大学に休学届けを出し、アレンとともにマイクロソフト社を設立した。
会社を立ち上げたゲイツたちは、昼夜兼行でプログラムを書きつづけ、ピザやハンバーガーをかじって、その辺で仮眠をとり、また起きてパソコンに向かうというハードなスタイルで働きつづけ、商談に向かうにもぎりぎりまでパソコンにしがみついていて、猛スピードでクルマを飛ばして、空港までの最短時間記録に挑戦するといった調子だった。
ゲイツのマイクロソフト社は、マイクロソフト社は、MS-DOS、Wndowsなどのオペレーション・システムだけでなく、Word、Excel、Power Point、Internet Explorerといったアプリケーション・ソフトも自社製品をそろえ、しばしば強引な商法も交えながら他社を圧倒し、各分野の市場で圧倒的シェアを確立した。
ゲイツの資産の評価額は莫大なものにふくれあがった。ゲイツは20世紀の終わりからずっと世界一の大金持ちでありつづけた。彼は、52歳でビジネスの第一線からは身を引き、夫人とともに設立した慈善基金を通じて、数々の慈善事業に力を注ぐようになった。

自分は1990年代前半に、友人に誘われて日本マイクロシステム社の新戦略の説明会に行ったことがある。説明のほとんどはチンプンカンプンだった。説明会でもらってきた、四色に塗り分けられた窓のマークの入った紙袋をながめながら、世の中には自分のわからないことがどんどん出てきているのだなあ、と思ったものだった。
その数年後、Windows95が発売され、はじめてパソコンを買った。それから、世の中のなにもかもが急速に、めまぐるしく変わっていった。
ビル・ゲイツは、アップルの創始者スティーブ・ジョブズと並び、まさに世界を変えてしまった男だと思う。

ビル・ゲイツは、2013年の春、Windowsパソコンを再起動する際に、キーボード上の「Ctrl, Alt, Delet」の三つのキーを同時に押すやり方について、
「あれは失敗だった」
とコメントしたそうだ。ほんとうは、もっとかんたんな操作にできたし、そうしたかったのだけれど、開発当時のクライアントだったIBM社の意向を優先させたのだ、と。
未来を構想する知力とともに、こういう彼の機智に富む点も、見習いたいものだと思う。

ビル・ゲイツはこう言っている。
「世界の誰とも自分を比べてはならない。もし比べるなら、 それは自分自身を侮辱することになる。(Don't compare yourself with anyone in this world...if you do so, you are insulting yourself.)」
(2013年10月28日)



●おすすめの電子書籍!

『2月生まれについて』(ぱぴろう)
スティーブ・ジョブズ、ジョージ・フェリス、ロベルト・バッジョ、ジョン・フォード、マッケンロー、ルドルフ・シュタイナー、志賀直哉、村上龍、桑田佳佑など、2月誕生の29人の人物評論。人気ブログの元となった、より長く、味わい深いオリジナル原稿版。2月生まれの必読書。

『新入社員マナー常識』(金原義明)
メモ、電話、メールの書き方から、社内恋愛、退職の手順まで、新入社員の常識を、具体的な事例エピソードを交えて解説。


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10月27日・リキテンスタインの分析と洗練

2013-10-27 | 個性と生き方
10月27日は、ミシンの改良者、アイザック・シンガーが生まれた日(1811年)だが、芸術家、ロイ・リキテンスタインの誕生日でもある。
近年は、リキテンシュタインは自分のもっとも好きな画家のひとりで、画集も何冊かもっている。あの画面構成の単純明快さがいいと思う。

ロイ・リキテンスタインは、1923年、米国のニューヨークで生まれた。ユダヤ系の家庭で、父親は不動産屋だった。ロイには、姉がひとりいた。
ロイが通学した高等中学には美術の授業がなかったため、彼は十代になると、デッサンや油彩画を独学で学んだ。
リキテンスタインは画家志望だったが、芸術で生計を立てていけるか危ぶんだ両親が教職免許をとるよう勧めたこともあって、17歳になる年に、美術学士課程のあるオハイオ州立大学の美術学部に入学。22歳で卒業。修士課程をへて、25歳で大学の美術講師になった。
グループ展や個展で作品を発表する一方で、大学での教鞭もとりつづけ、27歳のとき、ニューヨーク州立大学の助教授に就任した。
33歳の年に、リトグラフ「10ドル紙幣」を発表。
37歳のとき、ミッキー・マウスとドナルド・ダックを描いた油彩画「ごらん、ミッキー」、広告写真をデフォルメした油彩画「ボールをもつ少女」を発表。広告イメージを作品化し、また、マンガをひとコマを拡大、変形し、くっきりした輪郭線と、写真製版のような丸い網点、そして少ない色数で表現する作画法を確立し、ひと目見ればリキテンスタインの作品とわかるポップ・アートを創り出した。
同様の作画法で、マンガを題材にした作品のほか、絵の具の絵筆の軌跡をデザイン化した「ブラッシュストローク」や、ゴッホやピカソ、モネなどの名作をいかに機械的に描くかに挑戦した模写的作品群、あるいは、反射光をポップ・アートで表現した「鏡」シリーズなどを制作した。
1997年9月、肺炎のため、ニューヨークで没した。73歳だった。

東京都現代美術館にあるリキテンスタインの「ヘア・リボンの少女」を見た。1990年代に東京都が約6億円で購入し、「マンガに6億円」「相場より高値で買った」などと物議をかもした作品である。
122センチ四方の正方形のキャンバスいっぱいに、金髪女性が振り向いた顔が米国マンガ風にアップで描かれた絵で、画面のすみに髪のリボンが見えている。構図といい、色調といい、リキテンスタインの最高傑作のひとつかもしれないと思った。使われている色彩は、黒、赤、黄、青、白の5色のみ。シンプルさと、強いインパクト。顔の傾きも絶妙の角度だと思う。

リキテンスタインの生前に作られたドキュメンタリー映画を見たことがある。68歳のリキテンスタインは、こういう意味のことを言っていた。
「わたしは自分描いた絵を、誰かににもって、飾っていてもらいたいのです」
そのことばを聞いて、自分はリキテンスタインがどうしてああいう作品を作るのか、すこしわかった気がした。彼の絵は、オフィスやホテル、家の壁にかけておくにふさわしい明るさ、洗練、デザイン性に富んでいる。
リキテンスタインは、大衆性と洗練、そして明快な個性という現代芸術に求められるポイントを押さえた、まさに現代的な巨匠だったと思う。
(2013年10月27日)



●おすすめの電子書籍!

『ポエジー劇場 天使』(ぱぴろう)
カラー絵本。いたずら好きな天使たちの生活ぶりを、詩情豊かな絵画で紹介。巻末にエッセイを収録。


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10月26日・織田作之助の才筆

2013-10-26 | 文学
10月26日は、フランス革命の政治家、ジョルジュ・ダントンが生まれた日(1759年)だが、作家、織田作之助の誕生日でもある。『夫婦善哉』を書いた人である。
自分は若いころ『六白金星』『勝負師』など「オダサク」の書いたものをすこし読み、とても感心した。名人芸で、筆のすべり具合が絶品だと思った。

織田作之助は、1913年、大阪で生まれた。作之助は5人きょうだいの唯一の男の子で、姉が三人、妹が一人いた。生家は魚屋を営んでいたが、作之助が4歳のころには、店舗を失い、一家は長屋暮らしとなり、父親は銭湯の前に屋台の魚屋を出していたという。
作之助は成績優秀で、第三高等学校(現在の京大教養部)に入学した。貧困家庭の彼の学費は、嫁にいった長姉夫婦が負担してくれた。
20歳のとき、織田は三高の卒業試験の最中に喀血して倒れた。結核を発症したのである。療養後に復学したが、急激に勉学への興味を失い、結局中退して卒業しなかった。
22歳のころ、カフェのウェイトレスと同棲をはじめ、女の収入に頼って暮らしながら、小説を書きだした。スタンダール、西鶴に影響を受けた作之助は、25歳のころから同人誌に小説を発表し、同棲相手と結婚。このころ同人誌に発表した『俗臭』が芥川賞候補となり、注目を集めだし、26歳で発表した『夫婦善哉』で認められ、作家生活に入った。
織田は大阪に縁のある小説を多く書き、無頼派の作家「オダサク」として活躍したが、33歳のときに大量喀血し、1947年1月、結核のため、入院先の東京の病院で没した。33歳だった。

織田作之助というと、太宰治とともに「小説の神様」志賀直哉に嫌われたので有名で、二人とも「神様」に反発し、志賀直哉批判の文章を書いている。
「志賀直哉とその亜流その他の身辺小説家は一時は『離れて強く人間に即(つ)く』やうな作品を作つたかも知れないが、その後の彼等の作品がますます人間から離れて行つたのは、もはや否定しがたい事実ではあるまいか。彼等は人間を描いてゐるといふかも知れないが、結局自分を描いてゐるだけで、しかも、自分を描いても自分の可能性は描かず、身辺だけを描いてゐるだけだ。」(織田作之助「心境小説的私小説を駁す」「文芸 臨時増刊号」1956年4月)
自分は、志賀直哉も太宰治も織田作之助も、みんな好きなので、こういう対立を見ると、なんとも言えない気持ちになる。それぞれの言うことはすべてもっともだとわかるし、それぞれの好悪の感情もよくわかるので、アンビバレントに陥り、困ってしまうのである。

織田作之助が書いたものは平易で、しかも、どれもそのときどきの書き手の気持ちがまっすぐに述べられていて、とても読みやすい。また、その時代の庶民の視線で書かれていて、その時代の世情、風俗のひじょうにわかりやすい記録となっている。「小説」がもともと「正史」に対する「稗史」であるなら、織田作之助の小説は、小説道のまさに王道を行った作品だと思う。
それにしても、織田作之助は一代の文章家だった。『夫婦善哉』のあの文章の運びは、彼独特のもので、絶品、名人芸だと思う。もっと長生きして、あの文章スタイルで、彼が賞賛する「アラビアンナイト」や「デカメロン」のような大伽藍を築き上げてほしかった。早世が惜しまれる才筆だった。
(2013年10月26日)




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『2月生まれについて』(ぱぴろう)
志賀直哉、村上龍、桑田佳佑、ロベルト・バッジョ、ジョン・フォード、マッケンロー、スティーブ・ジョブズ、ルドルフ・シュタイナーなど、2月誕生の29人の人物評論。人気ブログの元となった、より長く、味わい深いオリジナル原稿版。2月生まれの必読書。



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10月25日・パブロ・ピカソの生命力

2013-10-25 | 美術
10月25日・パブロ・ピカソの生命力

10月25日は、夭逝した天才数学者、エヴァリスト・ガロアが生まれた日(1811年)だが、画家、パブロ・ピカソの誕生日でもある。
ピカソの名前は、自分は小学校低学年のころから知っていた。当時、ピカソはまだ元気に絵を描いていた。この世界のすみの極東の島国の片田舎の子どもにさえ、名前を知られている現役画家とは! その存在の巨大さは、推して知るべしである。

パブロ・ピカソは、1881年、スペインのマラガで生まれた。本名は「パブロ」と「ピカソ」のあいだにたくさん聖人や血族の名が入る長いものである。父親は画家で、美術教師だった。パブロは3人きょうだいのいちばん上で、下に妹が2人いた。
小さいころから絵を描いていたピカソは、10歳になる年に美術学校に入学したが、そのころには、すでにプロの画家レベルの正確なデッサンを描いていた。
ピカソが13歳になったとき、父親は息子の偉大な才能に脱帽し、絵画の道具をすべて息子に譲った。そうして以後、生涯絵筆を握らなかったという。
バルセロナ、マドリードで美術を学んだピカソは、授業に失望し、16歳のとき、王立の美術アカデミーをやめた。
19歳のとき、仏国のパリで初の個展を開き、パリで暮らしはじめた。このころがピカソの「青の時代」と呼ばれる時期で、彼は青を基調とする、貧しい人々の絵を描いた。
その後、明るい色調で統一された「ばら色の時代」をへて、25歳のとき、アフリカの民芸美術に影響を受けた「ガートルード・スタインの肖像」を発表。
26歳で、「アビニヨンの娘たち」を発表した。この作品は、いろいろな視点から見た画像をひとつにまとめて表現する手法、キュビズムの出発点となり、
「これが芸術か?」
と世界の美術界に大論争を巻き起こした。
それから、モデルの形のおもしろさと、豊かな量感に特徴のある「新古典主義」の後、物を単純化し象徴的に描いた「シュルレアリスム」の時代に突入した。
56歳のとき、スペイン内戦に介入したドイツ空軍がスペインの町、ゲルニカを爆撃した事件に触発された大作「ゲルニカ」を発表。
生涯にわたって、つぎつぎと作風を変え、それがそのまま20世紀美術の革命となった。彼は絵画のほかにも、彫刻や版画など、さまざまな表現手段で亡くなる寸前まで意欲的に創作を続け、1973年4月、南仏のムージャンで、肺水腫により没した。91歳だった。

ジャン・コクトーが「美よりも早く走る」と評したピカソ。自分はピカソが大好きで、美術館に行けば、いつもピカソ作品の前でしばらく足をとめるし、ピカソ展があればかならず観に行く。両手でないと持てない重たい画集も持っている。ピカソの好きなところは、絵を観ていると「人間っていいなあ」と思われてくるところである。生きていると、つまらない失敗や後悔や、つらいこと、悲しいこともあるけれど、そうしたもろもろを踏み越えて、なお前へ歩きつづけるピカソの生命力のようなものが、彼の作品を通して感じられ、その人間としてのたくましさに打たれるのである。逆に言えば、ある程度気力が充実しているときでないと、ピカソ鑑賞はつらい。ピカソの作品は、自分にとって、元気がないときはこちらが打ち負かされてしまう
、元気なときにはこちらの元気が倍増させられる、そんな不思議な力をもった芸術だと思う。
(2013年10月25日)



●おすすめの電子書籍!

『2月生まれについて』(ぱぴろう)
ガートルード・スタイン、ロベルト・バッジョ、ジョン・フォード、マッケンロー、スティーブ・ジョブズ、ルドルフ・シュタイナー、志賀直哉、村上龍、桑田佳佑など、2月誕生の29人の人物評論。人気ブログの元となった、より長く、味わい深いオリジナル原稿版。2月生まれの必読書。

『ポエジー劇場 大きな雨』(ぱぴろう)
カラー絵本。43枚の絵画による絵物語。ある日降りだした雨。あたりは大洪水に。女の子は舟に乗り、不思議な旅に出るのでした。


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10月24日・ブルーノ・ムナーリの問い

2013-10-24 | 個性と生き方
10月24日は、作家、渡辺淳一が生まれた日(1933年)だが、イタリアの芸術家、ブルーノ・ムナーリの誕生日でもある。ムナーリは絵画、彫刻、仕掛け絵本、家具や工業製品など、いろいろなものを作った人で、ひと言でいえば、前衛芸術家だった。
自分がムナーリのことを知ったのは、ごく最近のことで、彼が作った「役に立たない機械」のことを知り、おもしろいなあ、と思った。

ブルーノ・ムナーリは、1907年、イタリアのミラノで生まれた。
20歳のころ、芸術家フィリポ・マリネッテが率いる未来派芸術運動に加わり、展覧会で作品を発表しはじめ「役に立たない機械」のいくつものバリエーションを発表した。
26歳のころには、仏国のパリで、シュールレアリスムの詩人であるルイ・アラゴンやアンドレ・ブルトンと会った。
28歳からグラフィック・デザイナーとして活動しはじめ、32歳のころからは出版社のブックデザイナー、雑誌のアート・ディレクターを務めるようになった。また彼は息子が生まれたことをきっかけに、子どものための仕掛け絵本も作るようになった。
30代以降、ムナーリは工業デザインを多く手がけるようになり、照明器具、灰皿、テレビ、コーヒーメーカー、おもちゃなど、さまざまなものをデザインした。
42歳のとき「読めない本」。44歳で「ぎくしゃくした機械」。52歳のとき「2000年の化石」を発表した。50代のころにはしばしば来日したムナーリは、美術評論家の瀧口修造と親交をもち、日本文化への造詣を深めた。そうして、世界各国で子どものための造形ワークショップを開催し、最後まで創作意欲を失わず作品を作りつづけた後、1998年9月、ミラノで没した。90歳だった。

米国の前衛芸術家にアレクサンダー・カルダーという人がいて、「モビール」と呼ばれる、大きな造形作品を作った。なかにモーターが入っていて、作品の部分がゆっくりとまわるものだった。
ムナーリの「役に立たない機械」は、これに似ていて、天井から細い糸で吊るされた棒や薄い板に、また糸で板が吊るされていて、風に吹かれて揺れ、まわる。それぞれの板は互いに触れ合わないように設計されている。
カルダーのほうは、
「彫刻が動いたらどんなに楽しいだろう」
という衝動が作品の前面で出ているのに対して、ムナーリのほうは、
「役に立つ、立たないとはどういうことか」
「機械とはいったい何か」
という問いを発することが、作品の存在意義になっていると思う。タイトルによって、作品が作品を見る者に、考えることを要求してくるのである。

ムナーリのような前衛芸術は、それ以前の芸術、たとえばダ・ヴィンチの「モナ・リザ」や、フェルメールの「窓辺で手紙を読む女」のような作品がもっていたたくさんの要素のなかの「謎」の部分だけを抜き出し、デフォルメ、図形化して作品にしたものだという気がする。
こういう前衛作品は、目先のにんじんに振りまわされがちな日常生活に、レモンのひとしぼりをふりかけてくれる。時折は、ムナーリの作品をながめ、ふだん考えていなかったことについて考えたり、また、その作品を純粋に楽しんだりする機会を、ぜひもちたいものだと思う。
(2013年10月24日)



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『ポエジー劇場 ねむりの町』(ぱぴろう)
カラー絵本。ある日、街のすべての人が眠りこんでしまった。その裏には恐るべき秘密が……。サスペンス風ファンタジーの世界。


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10月23日・ペレの苦手克服

2013-10-23 | スポーツ
10月23日は、世界ではじめて全身麻酔を使って外科手術をした江戸の医師、華岡青洲が生まれた日(宝暦10年、1760年)だが、「サッカーの王様」ペレの誕生日でもある。
自分は静岡県の磐田出身で、小学校のころはサッカーばかりやっていた。ブラジルの英雄、ペレは、そのころの自分にとっては、すでに生きた神話だった。サッカー少年にとっては、「王様」というより「神様」に近い存在だったと思う。

ペレは、1940年、ブラジルのトレス・コラソンエスで生まれた。本名は、エドソン・アランチス・ドゥ・ナシメント。「エドソン」の名は、米国の発明王、トマス・エディソンにちなんで名付けられたものだという。彼の父親はアフリカ系のブラジル人で、サッカー選手だった。
貧しい家計を助けるため、小さいころ靴磨きをしていたエドソンは「ペレ」という愛称で呼ばれ、父親にサッカーの手ほどきを受け、14歳のときに地元クラブチームの下部組織に入団。15歳のとき、ブラジルを代表する名門サッカークラブのひとつ、サントスFCに入団した。デビューした親善試合でいきなり初得点するなど、すぐに活躍しだした。相手チームの選手6人をドリブルで抜いてゴールを決める、ボールを落とさず、空中で操りながら相手のマークをかわしシュート、ゴールするなど、華麗なテクニックで勝利に貢献し、南米王者、クラブ世界一など、チームを数々の栄冠に導いた。
ペレは34歳の年に引退するまで、サントスの主力選手として、ずっとブラジル国内でプレイしつづけた。欧州のビッグクラブからの誘いもあったが、ペレをはこれを断り、これがブラジル国内での彼の人気をさらに高めた。
35歳になる年に、「サッカー不毛の地」と言われた米国のサーカーリーグのチームに移籍。西ドイツからはフランツ・ベッケンバウアーもやってきて、米国のサッカーリーグを盛り上げた。
国の代表がぶつかるサッカー・ワールドカップは4年ごとにおこなわれるが、ペレはブラジル代表として4度のワールドカップに出場し、3度優勝した。
現役選手を引退した後は、国際サッカー連盟(FIFA)の大使、国際連合児童基金(ユニセフ)の親善大使を務め、55歳のころから3年間、ブラジル政府のスポーツ大臣を務め、スポーツ施設や、スポーツ選手の権利を守る法律の整備に尽力した。

現代では、ペレ以上のテクニックをもったサッカー選手は世界にたくさんいると思うけれど、そうした現代のテクニックは、ペレが編み出し、やって見せ、それが広まり、さらに進化していった結果だと言える。
味方からきたパスを胸でトラップ(受け止め)し、そのボールが落ちる前に蹴ってゴールを決めるとか、蹴ったボールが大きく曲がった軌道を描くバナナ・シュートなど、ペレがやって見せた技は、当時のサッカーファンの度肝をぬく斬新なものだった。
彼の肉体には俊敏さと強さがあったが、とくにしなやかさがずば抜けていたと思う。

昔、小学校のころの担任教師があるとき、こんなことを言った。
「サッカーの王様、ペレが子どものころ、サッカーをはじめて、最初に練習したのは、きき足でない、左足でもボールを蹴られるようにすることだったんだって」
それを聞いて自分は、
「ペレというのは、えらい少年だったのだなあ」
と感心したものだった。
(2013年10月23日)



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『2月生まれについて』(ぱぴろう)
ロベルト・バッジョ、ジョン・フォード、マッケンロー、スティーブ・ジョブズ、ルドルフ・シュタイナー、村上龍、桑田佳佑など、2月誕生の29人の人物評論。人気ブログの元となった、より長く、味わい深いオリジナル原稿版。2月生まれの必読書。


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10月22日・サラ・ベルナールの粋

2013-10-22 | 芸術
10月22日は、写真家のロバート・キャパが生まれた日だが(1913年)、大女優、サラ・ベルナール(1844年)の誕生日でもある。
自分は、サラ・ベルナールの名前を、アルフォンス・ミュシャのポスターで知った。装飾的な画風で知られるミュシャは、ベルナールの公演のポスターを頼まれ、洗練されたデザインで描いた。これがミュシャの出世作となった。

サラ・ベルナールは、1844年、フランスのパリで生まれた。本名は、アンリエット・ロジーヌ・ベルナールで、彼女は未婚の母親が生んだ私生児だった。
寄宿学校をへて、修道院へ入ったアンリエットは、尼僧になるつもりでいたが、彼女が16歳のころ、家に招かれてきた来客のひとりの貴族が、アンリエットは演劇学校に入って、将来女優になったらいいと勧め、それで急に進路が変わった。
修道院をやめ、国立音楽演劇学校の試験に合格した彼女は、優秀な成績で学校を卒業し、すぐにコメディ・フランセーズに採用、と、舞台女優のエリートコースを進み、サラ・ベルナールとして演劇界にデビューした。コメディ・フランセーズは、ルイ14世やナポレオンに庇護され、俳優たちに報酬のほか年金もつく劇団だった。
17歳で初舞台を踏んだベルナールは、19歳のとき、先輩女優とのいざこざから、かっとなって劇団を飛びだした。彼女は、ほかの劇団に入り、また劇団を移りながら、喜劇を演じ、しだいに名声を得ていった。やがて本格的な悲劇も演じ、無声映画に出演するようになったベルナールは、36歳のとき、自分の一座を率いるようになり、自分で俳優を育てながら、自分で劇場や演目を選べるようになった。アメリカ大陸へ公演旅行に出かけ、その名声は世界的なものとなった。
51歳のクリスマスの日、ベルナールは彼女主演の「ジスモンダ」のポスターを、挿絵画家だったアルフォンス・ミュシャに依頼した。できあがった作品は、ミュシャを一夜にして有名にし、彼はアール・ヌーヴォーの代表的作家になった。
ベルナールは意地っ張りで、いたずら好きな女優だった。大当たりしている演目を急に打ち切りにして、以前不入りだった演目をリベンジとばかり舞台にかけたりした。また、劇の最中で、脚本とはちがう脱線をして、共演者たちをよく困らせた。小デュマ作の『椿姫』は、最後のところでヒロインの椿姫が亡くなり、悲恋物語の幕となるのだけれど、ベルナールは椿姫を演じていて、ときどき、
「『あたしは、まだ、死なないよ』
 と呟いてなかなか息を引き取らず、臨終を取巻く俳優たちを狼狽させるようないたずらをやった。」(本庄桂輔『サラ・ベルナールの一生』角川書店)
亡くなる寸前まで女優として演技を続けたベルナールは、1923年3月、腎不全により、パリで没した。78歳だった。パリ市の市葬がとりおこなわれ、空前絶後の人出だった。また、人気の高かった英国ではウェストミンスター寺院で追悼式がおこなわれた。

サラ・ベルナールは、ユゴー、ワイルドなど、時代の最高の作家たちと交際し、かんしゃくもちだけれど、困っている人にはすすんで救いの手を差し伸べる、面倒見がいい姐御肌の大女優だった。
サラ・ベルナールは、女優という枠にはおさまらない、大人物だったという気がする。
亡くなる前、彼女の家の前は、彼女の安否をうかがうマスコミ関係者で人だかりがしていた。それを知った彼女は周囲にこう言っていたらしい。
「今まで、さんざん、あたしを悩ました新聞記者を、今度はあたしが苦しめてやる……あたしはなかなか死なないよ」(同前)
粋なせりふを吐く女性だったと思う。
(2013年10月22日)






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『9月生まれについて』(ぱぴろう)
シェーンベルク、アガサ・クリスティ、ツイッギー、アンナ・カリーナ、ブルース・スプリングスティーン、ハイデガー、メリメ、マーク・ボラン、棟方志功、長友祐都、矢沢永吉、正岡子規など、9月誕生の30人の人物論。人気ブログの元になった、より詳しく深いオリジナル原稿版。9月生まれの人生がわかる。


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