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1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

6/30・チェスワフ・ミウォシュの詩情

2013-06-30 | 文学
6月30日は、米国のプロボクサー、マイク・タイソンが生まれた日(1966年)だが、ポーランドの詩人、チェスワフ・ミウォシュの誕生日でもある。
ノーベル賞詩人のミウォシュの詩や小説を、自分はすこし読んだことがある。東欧から仏国、米国へと渡ったインテリだから、とくに詩など難解なのだろうなぁ、と警戒しつつ読んでみると、意外に平易で、さらにユーモアが豊かなのに驚いた。

チェスワフ・ミウォシュは、1911年、リトアニアのシェティニェ村(当時はロシア帝国の一部だった)で生まれた。父親は技術者だった。チェスワフは、当時ポーランド領だったヴィリニュスの高校を卒業後、大学では法律学を専攻した。
23歳のとき、処女詩集を出版し、仏国パリに1年間、フェローの資格で滞在した。
帰国後は、ラジオのコメンテイターを務めていた。
1939年、彼が28歳のとき、ポーランドは、ナチス・ドイツとソビエト連邦の双方から侵略され、ミウォシュはルーマニアに逃れた。
29歳のとき、ナチス・ドイツ占領下のワルシャワに移り、地下組織の活動に従事した。
第二次大戦が終わると、ミウォシュはポーランドの外交官としてパリ大使館に勤務。
40歳のとき、仏国へ亡命。ソ連の衛星国だったポーランドの状況を描いた小説『囚われの魂』を発表。
47歳のとき、米国へ渡り、大学でポーランド文学の講義をし、69歳のとき、ノーベル文学賞受賞。70歳のとき、30年ぶりにポーランドへ帰国。
2004年8月、ポーランドのクラクフで没。93歳だった。
英語、仏語、露語に堪能で、英語による著作もあるが、生涯を通じてポーランド語で詩を書きつづけた詩人だった。

20世紀のポーランドというのは、ナチス・ドイツとソ連と、両側から侵略され、戦争が終わってようやく解放されたと思ったら、今度はソ連が管理する共産主義体制に支配され、と、ひどい目にあってきたわけで、そんな嵐の時代を生き抜き、ポーランド語の詩人であることにずっとこだわってきたのが、チェスワフ・ミウォシュである。
その人生経緯自体が綱渡りのようで、すごい。不屈の魂の人、という感じがする。

ミウォシュは、72歳のとき、来日していて、訪れた京都のことを詩に書いている。
「京都でわたしは幸せだった。なぜならば、過去は消え去り、未来は計画も願望もなくそこにあったから。まるで朝、コウライウグイスの鳴き声を聴きながら目を覚まし、日が暮れるまで駆けまわっている少年の過ごす七月の一日のようだった。」(小山哲訳「(京都でわたしは幸せだった)」『チェスワフ・ミウォシュ詩集』成文社)

チェスワフ・ミウォシュのこういう明るく朗らかなところが、自分は好きだ。
彼の詩には、ユーモアがあり、笑いがあると思う。ジャン・コクトーは、偽物のポエジーは笑いを恐れるが、本物のポエジーは豊かな笑いを含むものだ、というようなことを言っていたけれど、ミウォシュの詩には、そういう笑いの詩情があると思う。
彼のきびしい戦いの人生を考えると、それは筋金入りの笑いである。
(2013年6月30日)


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『ポエジー劇場 子犬のころ2』
カラー絵本。かつて子犬だったころ、彼は泣いているリスに出会って……。友情と冒険の物語。


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6/29・飛行家、サン=テグジュペリ

2013-06-29 | 文学
6月29日は、『湖畔』を書いた洋画家、黒田清輝(1866年)の誕生日だが、仏国の作家、サン=テグジュペリの誕生日でもある。
自分が、サン=テグジュペリの『星の王子さま』を読んだのは、大人になってから、20代の半ばごろだった。世界的に有名な物語だけれど、自分にはあまりぴんとこず、彼の出世作である『夜間飛行』や『人間の土地』の、当時の飛行気乗り事情のシビアな内容のほうが心に響いた。

アントワーヌ・マリー・ジャン=バティスト・ロジェ・ド・サン=テグジュペリは、1900年、仏国のリヨンで生まれた。貴族の子息で、アントワーヌは5人きょうだいのまん中だった。
18歳のとき、第一次世界大戦の休戦を迎えたサン=テグジュペリは、建築学の聴講生などをした後、21歳のとき、志願して陸軍の軽騎兵連体に入隊した。彼は派遣された駐屯地で、個人的に飛行機の操縦を習い、これをもって後に陸軍から空軍へ移り、飛行機のパイロットとなった。しかし、飛行機事故を起こしたことから、家族に飛行機乗り稼業を反対され、空軍をやめ、しばらく地上で職についた。
26歳のとき、郵便輸送飛行パイロットの先駆けのひとりとなり、29歳のとき、みずからの飛行体験をもとに書いた小説『南方郵便機』を発表。
31歳のとき『夜間飛行』、39歳のとき『人間の土地』を発表して、筆名は一気に高まった。
39歳のとき、第二次世界大戦がはじまり、召集を受けて飛行教官を務めた後、偵察機に乗るようになった。ナチス・ドイツに屈し講和を結んだ仏国の動員解除によって、サン=テグジュペリもいったんは空軍を離れ、米国へ亡命したが、43歳のとき、亡命先の米国からふたたび志願して前線の偵察部隊に参加した。
1944年7月、仏国内部を偵察するため、コルシカ島の基地を飛び立ったが、彼の偵察機は地中海上で行方不明となった。44歳だった。

一説に「世界の三大ベストセラー」と言われる三冊の書があって、それは『聖書』、マルクスの『資本論』、それからサン=テグジュペリの『星の王子さま』なのだそうだ。では、『コーラン』や『毛沢東語録』はどうなのか、という疑問も出てくるけれど、それはさておき、『星の王子さま』はそれほど世界じゅうで読まれているらしい。
『星の王子さま』は、第二次大戦中、サン=テグジュペリが43歳のときに英語圏で発売されたもので、彼の母国、仏国で出版されたのは、終戦後の1945年11月だという。そのとき著者はすでにいなかった。

『星の王子さま』は、現在の自分にはむずかしすぎる。子どものころに読んでおかなくてはならない本だった、そういう気がする。

サン=テグジュペリは、空を飛ぶことにこだわりつづけて生きた「空に憑かれた人」だった。飛行機の事故で何度死にそうになっても、飛ぶことをやめなかった。かつてアンジェリーナ・ジョリーが、
「飛行機の操縦は最高。セックスよりすばらしい」
という意味のことを言っていたが、やはり空にはすごい魅力があるのだろう。

サン=テグジュペリのことばに、こういうものがある。
「行動を起こす時は、いまである。なにかをするのに、遅すぎることはない」
(2013年6月29日)



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『ポエジー劇場 大きな雨』
カラー絵本。ある日、降りはじめた雨は、いつまでもやまずに……。不思議な雨の世界。


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6/28・佐野洋子の率直

2013-06-28 | 文学
6月28日は、仏国の思想家、ルソーが生まれた日(1712年)だが、絵本作家、佐野洋子(敬称略)の誕生日でもある。名作絵本『100万回生きたねこ』の作者である。
自分は近年になるまで、佐野洋子をよく知らなかった。あるとき、ラジオを聴いていたら、本の話をしていた女性DJが、唐突にこう言った。
「エッセイといえば、佐野洋子さんですよね。ここまで書くか、と。とにかく、すごい」
それで、自分はあわてて佐野洋子のエッセイを集めて読み出した。それから彼女の本業である絵本も何冊か読んだ。だから、自分は「エッセイスト佐野洋子」から入ったファンである。読んでみると、DJの言う通りだった。すごい。

佐野洋子は、1938年、中国の北京で生まれた。父親は満州鉄道の調査部員で、洋子は7人きょうだいの上から2番目で、長女だった。
洋子は7歳で終戦を迎え、一家は終戦後、日本へ引き揚げてきた。
佐野洋子は美術大学に進学。大学を卒業後、デパート勤務をへて、デザイン、イラストの仕事をはじめ、絵本作家としてデビューし、後にエッセイストとしても活躍した。
2010年11月、乳がんにより没。72歳だった。
絵本に『おじさんのかさ』『おぼえていろよおおきな木』、エッセイに『ラブ・イズ・ザ・ベスト』『私はそうは思わない』『覚えていない』『シズコさん』などがある。

絵本『100万回生きたねこ』は、ため息の出るような名品で、何度読んだか知れない。その物語もさることながら、自分は佐野洋子の絵に感心した。きれいに見せようとか、うまく描こうとかいう野心をなるたけ排除した、どかんっとページに居すわった絵。最初にまず、強いインパクトがある。なんだこれは、という違和感もあるが、しだいに慣れ、見れば見るほど味わいが出てくる。

佐野洋子のエッセイの魅力は、率直にほんとうのことを言ってくれるところにあると思う。たとえば、こういう文章のように。
「お金ってすごいものだ。これなしでは現代人は一日たりとも生きて行けない。世の中で人が自分のものでありながら明らさまに口にしないのが自分の貯金額で、もう一つは自分の愛の生活だと思う。ペラペラしゃべる奴がいたら少し変な奴で、絶対に馬鹿にされる。遠まわしに言ったけど『愛の生活』ってセックスライフの事である。つきつめたら、世の中金と愛の生活が二本柱と言っていい」(「『お金』の問題」同前)
この大胆さ。精神が健康で、人間が大きい者のみがなせる業である。

佐野洋子は、異なる世代に寛容で、未来に関する見通しも、とても楽観的で楽しい。
「私は心配しない。たとえパンティーを小父さんに五千円で売る少女が居ても、受験以外のことにまるで白痴のような少年が居ても。若い人達はしたたかに生きてこの世を作っていく。私達がなしてきたのとは全く別の感受性を持って新しい世界を作っていく。どんな世の中になろうとそれが世界なのである」(「過去の子供、未来の子供」同前)
未来を思い描くと、どうしても悲観的なものになりやすい。それは現代に不安の種がたくさん見つかるからでもあるが、もうひとつには、悲観的な未来のほうが想像しやすいから、楽だから、でもある。
佐野洋子のような、図太い、たくましい想像力を持ちたいものだと思う。
(2013年6月28日)



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カラー絵本。いたずら好きな天使たちの生活ぶりを、詩情豊かな絵画で紹介。巻末にエッセイを収録。


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6/27・エマ・ゴールドマンの痛烈

2013-06-27 | 歴史と人生
6月27日は、「奇跡の人」ヘレン・ケラーが生まれた日(1880年)だが、女性活動家、エマ・ゴールドマンの誕生日でもある。
自分がエマ・ゴールドマンを知ったのは、伊藤野枝を経由してだった。
自分は一時期、平塚らいてうから雑誌「青鞜」を受け継いだ、あの伊藤野枝の文章をまとめて読んでいて、そのなかにゴールドマンの文章の翻訳があって、それでゴールドマンを知った。調べてみると、この女性は、なかなかはげしい人生を生きた人で、驚いた。

エマ・ゴールドマンは、1869年、リトアニアのカウナスで生まれた。一家はユダヤ系で、エマの父親は、子どもが言うことを聞かないとすぐに暴力をふるう男だった。子どものなかでもとくに反抗的だったエマに対してはムチも使ったという。
一家は、エマが7歳のとき、プロシアへ引っ越し、13歳のとき、ロシアのサンクトペテルブルグへ移った。エマは学校へ行かせてほしいと父親に訴えたが、父親は、女は家庭にいるべきで、教育など必要ないとして、娘を下着屋で働かせ、15歳で結婚させようとした。
15歳のとき、エマは父親から逃れ、異父姉といっしょに米国へ渡った。
縫製工場で働きだしたエマは、しだいに階級闘争に目覚めていった。
20歳のころには、アナキストの活動家として、労働者の集会出で演説するようになっていた。労働争議を応援し、スト破りする者を殺害しようとして未遂に終わり、投獄されたこともあった。また、仲間とともに機関紙を発行し、女性の自由を訴え、社会の矛盾を糾弾する論陣を張った。
その後も、労働運動や反戦運動のために逮捕、投獄されたエマは、50歳のとき、米国から国外追放処分にあった。エマはソビエト連邦へ身を寄せ、その後、英国、仏国、カナダへと渡り、67歳のときには、内戦の勃発したスペインへ渡り、フランコ政権に抵抗するアナキストたちを支援した。
1940年5月、カナダのトロントで脳卒中のため没した。70歳だった。
強烈なアナキスト兼フェミニストの生涯だった。

エマ・ゴールドマンの生涯は、まさに世界をまたにかけた活躍で、痛烈である。
東欧の貧しい境遇に育ったユダヤ人の一少女が、米国と欧州を広く駆けめぐって生きた。その影響は、西洋にとどまらず、日本にも影響を与えた。彼女が米国で開いた、大逆事件(幸徳秋水らを処刑した事件)に対する抗議集会は、日本政府をあわてさせ、彼女が書いた論文は、伊藤野枝に啓示を与え、日本の女性解放運動に刺激を与えた。
エマ・ゴールドマンの生きざまを見ると、あらためて感じる。
「人生は、境遇ではない、当人の意志しだいだなぁ」と。

ゴールドマンの文章は、その生きざまと同様、痛烈である。辛辣で刺激的な表現に富んでいて、自分はとても感心した。
「一般の娘等は大抵幼少から結婚が彼女の最終目的であると語られる。だから彼女の訓練と教育とはその目的に向つて導かれなければならない。口のきけない動物がの為めに肥らせられるやうに、彼女はその為めに用意される」(伊藤野枝訳『結婚と恋愛』)
彼女の文章表現は、思いきりひきしぼった弓を放ち、痛烈に正鵠を射ぬき貫いた鋼鉄の矢、といった感じがする。
(2013年6月27日)


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キャスリーン・キンケイド著、金原義明訳
『ツイン・オークス・コミュニティー建設記』
米国ヴァージニア州にあるコミュニティー「ツイン・オークス」の創成期を、創立者自身が語る苦闘と希望のドキュメント。


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6/26・運命のパール・バック

2013-06-26 | 文学
6月26日は、ゴロ合わせで「露天風呂の日」。この日は長州の雄、木戸孝允こと桂小五郎が生まれた日(天保4年・1833年)だが、米国の女流作家、パール・バックの誕生日でもある。
中学生のころ、となりのクラスに、成績と体格と元気がいい女生徒がいた。自分は選ばれて、彼女といっしょに英語スピーチの学校代表として、何度かステージで英語会話のやりとりを演じた。そんな自分たちの仲を、同級生たちが冷やかした。それで、もともとクラスがべつだったこともあって、彼女とはほとんど話さなくなってしまったのは残念だった。あるとき、彼女がパール・バックの『大地』を読んでいるのを知って、007シリーズや木枯紋次郎を愛読していた自分は、はっとした。
「彼女は、立派な小説を読むのだなあ」
以来、パール・バックは、自分にとって、高いところにある特別な存在になった。

パール・サイデンストリッカー・バックは、1892年、米国ウェスト・ヴァージニア州ヒルスボロで生まれた。父親は長老派教会の宣教師で、それまで10年間、中国で伝道活動をしていて、10年ぶりの休暇をもらって帰郷していた、そのときにパールが誕生した。
パールが生後3カ月のころ、家族は中国へ引き返した。パールは中国語と英語を話すバイリンガルの環境で育った。彼女は周囲にいる中国人やインド人、日本人など、さまざまな人たちから、身の上話を聞くのを楽しみにしていた。
18歳のとき、いったん米国へもどり、大学卒業後、また中国へもどった。
25歳のとき、米国人の学者と結婚し、29歳のとき、女児を出産したが、この子が先天的に障害があって、後に米国の施設預けることになった。母親のパールはひとつには、この娘の養育費を捻出するためもあって、評論や小説に力を入れた。
35歳のとき、中国国民党軍が、彼女のいた南京に侵入してきて、彼女たち一家は、日本の長崎の雲仙に疎開した。
38歳のころ、長篇小説『大地』を発表。戦乱の近代中国を背景に、王一族の生きざまが描かれるこの作品はピュリッツァー賞を受賞。
1973年3月、米国ヴァージニア州ダンビーで、胆のう炎の手術後に没。80歳だった。

自分は最近「中国共産党」という米国製テレビ・ドキュメントのDVDを手に入れた。清朝の末期から、義和団事件、抗日戦争、日本敗戦後の中国の内戦までの歴史が語られるのだけれど、そのなかに歴史の証言者として、パール・バックが登場するので驚いた。彼女は子供のころに体験した思い出を語っていた。
西太后の命令で、中国国内にいる白人がいっせいに殺されたことがあって、とくに山東省ではひどく、女、子ども、宣教師や商人まで殺された。しかし、彼女がいた江蘇省では、総督が勇気をもって命令にそむき、白人を殺さなかった。それで命が助かった、と。
インタビュー当時、彼女はおそらく60代。器量の整った美しい婦人だった。

パール・バックは、名前からして「真珠」と親日的だが、戦後の貧しい時代の日本に生まれた、日米混血の浮浪児の救済にも尽力した。
パール・バックは、その著書『私の見た日本人』のなかで、日本の混浴の習慣について、だんだん減りつつあるとしながら、こう言っている。
「日本の男女が慎ましさや自意識に欠けるということではありません。むしろ裸体は恥ずかしいことでも、きまり悪いことでもなく、恥じらいや自意識の原因はほかにあります。不謹慎なことは男でも女でも裸体を見つめることです。身体の特定の部位を注視したり、裸を特別な目で見ることです」(小林政子訳『私の見た日本人』国書刊行会)
興味深い指摘だと思う。
もっと早く、中学のころに読んでいて、あのころ、となりのクラスの彼女と、パール・バックについて語り合っていたら、自分の人生もまたちがっていたかもしれない。
(2013年6月26日)


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『2月生まれについて』
スティーブ・ジョブズ、村上龍、桑田佳佑など、2月誕生の29人の人物評論。人気ブログの元となった、より長く、味わい深いオリジナル原稿版。2月生まれの必読書。


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6/25・「男一匹」本宮ひろ志

2013-06-25 | マンガ
6月25日は、建築家、アントニ・ガウディが生まれた日(1852年)だが、漫画家、本宮ひろ志の誕生日でもある。若い世代にとっては『サラリーマン金太郎』かもしれないが、本宮ひろ志は自分にとっては、まず『男一匹ガキ大将』の作者である。
自分は、小学生のころ、『男一匹ガキ大将』に熱中した。毎週掲載誌が出るのを待ちかねて読んだ。ああいう漫画体験は特殊なもので、おそらく作品の熱と、時々の読み手の熱と、その時代の熱とがちょうど重なり化学反応を起こした、その結果だという気がする。

本宮ひろ志(本名、 本宮博)は、1947年、千葉県千葉市で生まれた。父親は縫製会社を経営していて、酒飲みですぐ暴力をふるった。中学を出た博は、乱暴な父親から逃れるため、少年航空自衛隊に合格、入隊したが、上官の命令がすべての規律にがまんできず、
「マンガ家になります」
と宣言して除隊、実家へもどった。(本宮ひろ志『天然まんが家』集英社文庫)
それから、家で漫画を描いていた後、自動車部品工場で住みこみで働いたり、金属加工会社に勤めたり、あるいは志を同じくする仲間たちを頼ったりしながら、漫画家を目指した。漫画雑誌の新人賞に募集し、出版社への持ち込みを繰り返した末、21歳のころ、当時隔週雑誌だった「少年ジャンプ」に読み切り漫画がついに採用された。
その後、『男一匹ガキ大将』が同誌に連載され、『男一匹ガキ大将』はテレビ・アニメ化されるにいたって、爆発的大ヒット作品となった。永井豪の『ハレンチ学園』など、他の連載漫画と並んで「週刊少年ジャンプ」の黄金時代を作り出した。
その後も、『硬派銀次郎』『俺の空』『天地を喰らう』『サラリーマン金太郎』など、大ヒット・シリーズを放ちつづけている漫画界の巨匠である。

『男一匹ガキ大将』は、主人公の戸川万吉が、けんかに明け暮れながら成長していく物語で、全編暴力描写の連続ではあったが、あっけらかんと明るかった。現代のいじめのような陰湿な雰囲気は皆無だった。そしてなにより、ほとんどすべての登場人物に「男気」があった。

本宮ひろ志は、まったく自分で自分の運命を切り開き、日本の社会に新しい風を起こした天才のひとりだと思う。読者へのサービス精神、作品のドラマを盛り上げようと注ぎ込む情熱、そしてわかりやすい明解さにおいて、卓越した人だと思う。
彼が、昔から絵が下手だったというのは、興味深い。
「漫画っていうのは、絵の上手下手は関係ない」
本宮ひろ志が実証して見せたのは、それだと思う。大事なのは「熱」があるかどうか、である。本宮ひろ志は、絵が下手だったからこそ、彼はよけいに多くの熱情を自作に注ぎ込むことになり、絵がきれいでない分、作品に込められた熱がよけいに際立った、そういうことなのだろう。

本宮ひろ志には、やはり漫画家志望だったお兄さんがいて、その存在が、弟をして漫画の道へ進ませたきっかけになったらしい。この兄のほうは、晩年は酒びたりの性格を送り、54歳で亡くなった。この兄の遺児たちには、本宮ひろ志は、こう諭している。
「子供にとって親なんてのはな、いい親だろうと悪い親だろうと、しょせんは乗り越えていくだけの存在よ」「右へ行ったら右、左へ行ったら左で、力一杯やるしかねぇんだけどな。分岐点を振り返って、自分の失敗を悔やんでいたら、やっぱり負け犬だぞ」(同前)
このことばに、現実世界で生きる「男一匹ガキ大将」本宮ひろ志の真骨頂があると思う。
(2013年6月25日)



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『ポエジー劇場 子犬のころ』
カラー絵本。かつて子犬だったころ、彼は、ひとりの女の子と知り合って……。愛と救済の物語。


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6/24・ジェフ・ベックの向上心

2013-06-24 | 音楽
6月24日は、『悪魔の辞典』を書いた作家、アンブローズ・ビアスが生まれた日(1842年)だが、英国のギタリスト、ジェフ・ベックの誕生日でもある。
自分がジェフ・ベックの音楽をはじめて聴いたのは、高校生の授業中だった。正課クラブに「音楽クラブ」という授業があって、生徒のひとりがおすすめのLPレコードを持ってきてかけ、みんなで聴く、というのんびりした授業だった。ある日、当番の上級生がもってきてかけたのが、ジェフ・ベックの「ワイアード」だった。「しぶいなぁ」と思った。

ジェフ・ベックこと、ジェフリー・アーノルド・ベックは、1944年に英国ロンドンのウォリントンで生まれた。6歳のとき、ジェフはラジオから流れてくる、レス・ポールが弾くエレキギターの音を聞いて、母親に尋ねた。
「これはなに ?」
「エレキギターっていうくだらないものよ」
すると、ジェフはこう言ったという。
「これは、ぼくのためのものだ」
10歳で教会の合唱隊に入っていたベックは、やがて、葉巻の箱をボディにして弦を張り、ギターを自作しては弾くようになり、母親についにエレキギターを買ってもらった。
16歳でウィンブルドン芸術カレッジに入学したベックは、学校の仲間とバンドを組み、地元のクラブで演奏するようになった。
19歳のとき、本格的にバンドのリードギタリストとして活動をはじめ、レコード録音のセッションに参加するようになった。
20歳のとき、ヤードバーズというバンドに加入し、その後、ジェフ・ベック・グループをへて、ソロのギタリストとして録音、ライブ活動を続け、様々なアーティストとのセッションに参加した。そしてロック・ミュージック界最高のギタリストのひとりとして、広く尊敬を集める存在となった。アルバムに「ブロウ・バイ・ブロウ」「ゼア・アンド・バック」「ギター・ショップ」「エモーション・アンド・コモーション」などがある。

ジェフ・ベックのかっこよさは、独特のものだと思う。熱心なファンではない自分でさえ、アルバムをけっこう聴いたし、CDも何枚か持っている。高校生のとき、そのかっこよさに衝撃を受けた「ワイアード」など、数えきれない回数聴いた。

ジェフ・ベックのえらいところは、ギターがうまいのはもちろんだけれど、ギタリストとして、つねに向上しようとしてやまない、その姿勢だと思う。
たしか1980年代、彼が30代後半のころ、それまでピックを使ってギターの弦を弾いていたジェフ・ベックが、急に指で弾きはじめた。当時の音楽雑誌のインタビューで、彼はその理由について、こういう意味のことを語っていた。
「五本の指を使うことで、ギター演奏の可能性がさらに広がると思うから」
えらい人だなあ、と自分は感心した。

日本のギタリスト、Char(チャー)によると、ジェフ・ベックは演奏中、エレキギターを縦方向に押してみたり、ボディをたたいてみたり、いろいろなことを試すのだそうだ。ほんとうに、ギター可能性をとことんまで追求しようとしている人なのである。
ジェフ・ベックは、クルマいじりが好きで、いつも爪が油汚れでまっ黒なのだそうだ。世界的なロックスターの爪がまっ黒。そんなところも、おもしろいと思う。
(2013年6月24日)



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『出版の日本語幻想』
編集者が書いた日本語の本。編集現場、日本語の特質を浮き彫りにする出版界遍歴物語。「一級編集者日本語検定」付録。


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6/23・リチャード・バックの空

2013-06-23 | 文学
6月23日は、仏国のサッカー選手、ジネディーヌ・ジダン(1972年)が生まれた日だが、米国の作家、リチャード・バックの誕生日でもある。『かもめのジョナサン』の作者である。
『かもめのジョナサン』はとても有名で、自分も子どものころから聞いて知ってはいたが、実際に読んだのは学生になってからだった。読んでみると、なかなかおもしろかった。1970年代らしさというか、自由を尊ぶ、あの時代特有の空気感があると思う。

リチャード・バックは、1936年、米国イリノイ州のオークパークで生まれた。彼自身が訴えるところによれば、彼は音楽の父、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの子孫だという。
学校を出た後、バックは米空軍の予備役に入り、24歳のころには仏国に駐屯していた。
彼は飛行機好きで、空軍予備役や、その後に入ったニュージャージー・ミリシャ(国民軍)でさまざまな戦闘機を操縦した。曲芸飛行気乗りをしていた時期もあり、飛行機会社の技術書を書いたり、飛行機雑誌の編集をしたりと、さまざまな職を転々とした。
1970年、彼が34歳のとき、『かもめのジョナサン(Jonathan Livingston Seagull)』を発表。これはジョナサンという一羽のかもめが、食べ物を求めて生きる生き方に飽きて、純粋に飛ぶことを追求することに目覚めるという寓話で、著者の飛行体験や人生哲学がそのなかに凝縮されている。
この短い本は、ハードカバーとして出版されると、驚異的な売り上げを示し、それまで『風と共に去りぬ』がもっていたハードカバーの売り上げ記録を塗り替えてしまった。
その後、バックは『イリュージョン』『ワン』などの作品を発表。これらは日本語にも訳出されている。
2012年、76歳のバックは、飛行機を着陸させようとして事故を起こした。天地さかさまに着陸して、頭部と肩に重傷を負ったが、生命に異状はなかった。彼は、この事故によって『かもめのジョナサン』の続編のインスピレーションを得たという。2013年には『パフとの旅(Travels with Puff)』を発表した。

自分は、『かもめのジョナサン』より先に、バックの次の作品である『イリュージョン』を読んだ。なぜ読んだかというと、これは村上龍が翻訳していたからで、読んでみから、とてもおもしろかった。それで、前作の『ジョナサン』を読んだという逆の順序になった。彼の作品は、邦訳されたものはすべて読んでいると思う。

『イリュージョン』は傑作だと思った。30年くらい前に読んだおぼろげな記憶を頼りに言うのだけれど、たしか、現代にイエス・キリストみたいな救世主がいて、でも、その救世主は怠惰で世の中に退屈していて、引退を考えている、というような話だったと思う。やはり空を飛ぶことに関係のある話だった気がする。現代の神話と呼ぶべき物語である。

リチャード・バックは、空を飛ぶことに、人生の意味を投影して、物語を編んでいく、独特の軽みをもった作家である。
彼は自分の日常生活をおおやけにせず、露出を避け、なるたけ読者から距離を置き、正体を隠そうとしてきた作家である。しかし、その作品は、とても暖かく人間的で、逆に読者にとてもやさしく、近しい。彼の作品には、生を愛する心があり、自由への憧れがあり、人を許す包容力があると思う。
(2013年6月23日)



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『コミュニティー 世界の共同生活体』
ドキュメント。ツイン・オークス、ガナスなど、世界各国にある共同生活体「コミュニティー」を具体的に説明、紹介。


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6/22・アン・リンドバーグの精神性

2013-06-22 | 歴史と人生
6月22日は、『樅ノ木は残った』を書いた小説家、山本周五郎が生まれた日(1903年)だが、女流飛行家、アン・リンドバーグ(リンドバーグ夫人)の誕生日でもある。
自分がはじめて「リンドバーグ」の名を知ったのは、小学生のときに、FBIの犯罪ドキュメントを読んでいてだった。リンドバーグ夫妻の1歳8カ月になる長男が誘拐され、遺体となって発見された事件である。そこから、被害者の父親のリンドバーグは、ニューヨーク=パリ間をはじめて無着陸で飛び、大西洋横断飛行をなし遂げた有名なパイロットだと知った。さらにその後で、夫人について知った。リンドバーグ家の人々に関する自分の知識吸収の順序は、すこしおかしいかもしれない。

後にリンドバーグ夫人となる、アン・スペンサー・モロウは、1906年、米国のニャージャージー州エングルウッドで生まれた。父親はJPモルガンの共同経営者で、母親は詩人で教師だった。
米国東部の名門七女子大のひとつ、スミス・カレッジに入学したアンは、在学中の21歳のとき、大西洋横断飛行を成功させたばかりの25歳のチャールズ・リンドバーグに出会った。
二人は結婚し、彼女はアン・モロウ・リンドバーグ(リンドバーグ夫人)となった。彼女が23歳になる直前のことだった。
結婚後、アンは空を飛びだした。グライダー免許を取得し、夫の副操縦士として、また、ナビゲーター、通信係、航空地図作成者として活躍した。リンドバーグ夫妻は単発エンジンの飛行機で、まだ未知の航空路だったカリブ海域のルートを切り開き、「カナダ・アラスカ・日本・中国」ルートを飛び、北大西洋と南大西洋の航空地図を作った。
夫とのあいだに6人の子をもうけたアンは、飛行機乗り稼業のほか、大戦後は欧州の戦地の罹災者の救援活動に従事し、また、紀行やエッセイ、小説を書く文筆家としても活躍した。
アン・リンドバーグは2001年2月、脳卒中のためバーモント州で没した。94歳だった。

1950年代のはじめごろ、40代のなかばだったアン・リンドバーグは、フロリダ州のカプティバ島で休暇をすごした際、浜辺の貝を取り上げては話しかけるというスタイルで、米国女性の人生、生き方、恋、結婚、平穏、孤独についてのかなり抽象的な思考をつづった。それが随想録『海からの贈物(Gift from the Sea)』で、この書は発売されると世界的なベストセラーになった。この書は、澄んだ冷たい水のなかから取り上げた水晶のかけらを思わせる名品で、自分などは、心に染み渡るような精神性を感じる。拙著『名作英語の名文句』でも取り上げた。

「忍耐が第一であることを海は我々に教える。忍耐と信仰である。我々は海からの贈物を待ちながら、浜辺も同様に空虚になってそこに横たわっていなければならない」(吉田健一訳『海からの贈物』新潮文庫)

「我々が誰かを愛していても、その人間を同じ具合に、いつも愛している訳ではない。そんなことはできなくて、それができる振りをするのは嘘である。しかしそれにも拘らず、我々はそういうふうに愛されることを要求していて、我々は生活や、愛情や、人間的な関係の満ち引きに対してそれほど自信がないのである」(同前)

ソローの『ウォールデン(森の生活)』から百年以上たってようやく、同じ米国に、今度は森でなく海辺で、女性の手によって、その精神性を受け継ぐ書が現れた、という気がする。1955年に発表されたこの本のあちこちに、60年代、70年代に花開くことになる女性解放運動の芽が、すでにほころびはじめているのを自分は見る。
(2013年6月22日)



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6/21・「巨大な知性」ライプニッツ

2013-06-21 | 科学
6月21日には、仏国の実存主義哲学者サルトルが生まれた日(1905年)だが、独国の天才、ライプニッツが誕生した日でもある(ユリウス暦による)。
人類史上、誰がいちばん頭がよかったか、と考えるとき、アリストテレスとか、ダ・ヴィンチとか、ゲーテ、ニュートン、アインシュタインなど、いろいろな候補が頭に浮かぶけれど、自分など「やっぱりこの人かな」と思うのが、ライプニッツである。ほかの偉人たちの頭脳の大きさが、おおよそこれくらいかなと推し量られるのに対して、ライプニッツの頭脳は、いまだ誰にも見当がつけられない、それほどスケールの大きな人である。

ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツは、1646年、独国のライプツィヒで生まれた。倫理哲学の大学教授だった父親は、ゴットフリートが6歳のときに没し、息子は母親に教育を受けて育った。彼は父親が残した膨大な蔵書を、7歳から読みはじめた。多岐の分野にわたる蔵書の多くはラテン語で書かれていたが、12歳のころにはなんの苦もなく読めるようになっていたという。
神童として知られたライプニッツは、15歳の年に、ライプツィヒ大学に入学し、哲学を専攻した。後に法学も修めたが、学者にはならず、官吏、外交官の道を選んだ。哲学や数学、論理学、形而上学など、幅広い分野で著作をしつつ、マインツ、ハノーヴァーなどの宮廷に使えた。ヨーロッパを広く行き来し、ニュートンやスピノザとも親交があり、微積分法の発見については、ニュートンと、その第一発見者の名誉を争った。
晩年には貴族に列せられたが、政治的な後ろ楯を失い、冷遇され、1716年11月、70歳のとき、ハノーファーで没した。葬儀は近しいものだけでひっそりとおこなわれ、没後50年以上、彼の墓には墓碑銘がなかったという。

自分は学生時代、哲学概論の講義が好きだったけれど、なかでもライプニッツの考え方について、興味深く聞いた。たとえば、ライプニッツは「単子論」で有名である。宇宙のすべては、モナド(単子)という最小単位のものが集まってできている。モナドは、物質の最小単位であるアトム(原子)とはちがう。モナドは、生命や精神の原理をも含む概念である。そういうところから話を進めて、ライプニッツは、宇宙や神といった大きな存在まで、この世にあるものすべてを定義づけ、体系づけていく。そんなことを勉強しながら、自分は思った。
「ライプニッツという人は、おもしろい考え方をする人だなあ」

ライプニッツは、数学、哲学など、自分の多岐にわたる研究を、ひとつの大きな学問体系にまとめようとする考えを持っていたようだ。この辺、ドイツ人気質を感じる。しかし、ライプニッツは多忙のため、その体系をまとめきれなかった。ライプニッツには未完の著作が多く、また、18世紀からずっと刊行が続けられている彼の全集は、21世紀に入った現在も刊行中で、まだ日の目を見ていない彼の著作は山のようにあるらしい。だから、彼がなにを目指していたのか、誰にもわからない。
ライプニッツが生きた時代、とくに哲学や科学の分野では、英仏が先行していて、独国は後進国扱いされていた。それで余計に、周囲に理解者がなく、苦しんだ面もあったようだ。彼を率先して評価したのは、むしろフランスの学者たちだった。
恵まれない環境のなかでも、優秀な人はかならず頭角を現してくるし、そういう人は、周囲の理解を得られなくても、遠くに知己を求めたり、ひとり勉学を深めたりして、かならずみずからを成長させていくものだ。ライプニッツの生涯は、そういうことを教えてくれていると思う。
(2013年6月21日)


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