1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

6月7日・プリンスの心

2024-06-07 | 音楽
6月7日は、画家のポール・ゴーギャンが生まれた日(1848年)だが、米国のミュージシャン、プリンスの誕生日でもある。

プリンス・ロジャーズ・ネルソンは、1958年、米国ミネソタ州のミネアポリスで生まれた。父親は作曲家でジャズピアニスト、母親はジャズシンガー。下にひとり妹がいた。
「プリンス」の名は、父親の芸名からとったもので、父親はこうコメントしている。
「わたしが息子をプリンスと名付けたのは、自分がやりたかったことをみんな、息子にやってほしいと思ったからさ。(I named my son Prince because I wanted him to do everything I wanted to do.)」
プリンスは7歳ではじめて曲を作った。彼が10歳のとき、両親が離婚すると、プリンスは、父親の家と、母親と母親の再婚相手の家とを行ったり来たりして生活した。
高校生のころ、友だちと共に、いとこのバンドに参加。本格的に音楽活動を開始した。
バンド活動のかたわら、作曲もしたプリンスは、17歳のとき、マネージャー契約を交わし、マネージャーは彼のデモテープをもってレコード会社をまわった。そうして、興味を示したレコード会社のなかのひとつ、ワーナー・ブラザーズと、プリンスは19歳のときに契約を交わした。創作活動を自分で管理できる好条件の契約だった。
作詞、作曲、編曲をこなし、楽器のマルチプレイヤーで、みずから歌うシンガーでもあるプリンスは、20歳のとき、ひとりでデビューアルバム「フォー・ユー」を作り上げた。以後「愛のペガサス(Prince)」「戦慄の貴公子(Controversy)」などを発表。
24歳で発表したアルバム「1999」で人気を高まりだし、26歳でみずから主演した同名映画のサウンドトラック「パープル・レイン」でその人気を決定的なものとした。
その後も「アラウンド・ザ・ワールド・イン・ア・デイ」「サイン・オブ・ザ・タイムズ」「バットマン」「イマンシペイション」など名作を次々に発表。
36歳のころ、レコード会社と衝突し、一時期「以前プリンスと呼ばれていたアーティスト」を名乗って活動していた時期もあったが、43歳のとき「プリンス」にもどり、旺盛な創作意欲をもって音楽活動を再開した。
2016年4月、ミネアポリスにある自分のレコーディングスタジオ内のエレベーターで倒れた遺体となって発見された。57歳だった。死因は、モルヒネの100倍の鎮痛効果がある薬品フェンタニルの過剰摂取とされる。

プリンスはデビュー当時から注目していた。デビュー当時は「ゲイ・パワー」のシンボルとして紹介されていた。
よく聴くようになったのは「1999」からで、「パープル・レイン」「アラウンド・ザ・ワールド~」「サイン・オブ・ザ・タイムズ」などの愛聴盤はなんど聴いたかしれない。東京ドームへコンサートを観にいったこともある。訃報に接したときは絶句した。

プリンスの音楽の魅力は、平安のプレイボーイ、在原業平(ありわらのなりひら)に通じる。
『古今和歌集』の序文で紀貫之が、業平の和歌についてこう書いている。
「在原業平は、その心あまりて言葉たらず。しぼめる花の、色なくてにほひ残れるがごとし。」
プリンスは演奏し、歌い、踊って、全身全霊で表現するのだけれど、まだ思いが表しきれていない、伝わらないもどかしさに身悶えする、そんな「心あまりて」が魅力のアーティストだった。
(2024年6月7日)



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5月31日・ジョン・ボーナムの破壊

2024-05-31 | 音楽
5月31日は、米国の国民的詩人、ウォルター・ホイットマンが生まれた日(1819年)だが、ロックバンド「レッド・ツェッペリン」のドラマーのジョン・ボーナムの誕生日でもある。ロック界の最高のドラマーの一人である。

ジョン・ヘンリー・ボーナムは、1948年、英国イングランドのレディッチで生まれた。
父親は建築会社を経営していた。5歳で空箱やコーヒー缶で自分でドラムセットを創って叩いていたジョンは、10歳のとき、母親にスネアドラム(サイドドラム)を買ってもらい、15歳のとき、父親にドラムセットを贈られた。
16歳で義務教育を終えたジョンは父親の会社で大工の見習いになった。見習いをしながら、地元のいくつかのバンドにドラマーとして参加し、ドラムを叩いた。
ボーナムはドラムのレッスンを受けたことがない自己流のドラマーだった。あまりに激しく叩くので、ドラムヘッド(ドラムの打面の皮)を破ったり、やかましすぎてクラブから出入り禁止になったりし、英国一大きな音で叩くドラマーと呼ばれた。
20歳のとき、新しく結成するいバンドのためのドラマーをさがしていたギタリストのジミー・ペイジと出会い、ペイジに惚れ込まれた。ボーナムは気が進まず、加入を断っていたらしい。ボーカル担当のロバート・プラントは、ボーナムに8通の電報を打って口説き、バンドのマネージャーが、それに追い打ちをかけ、ボーナムに40通の電報を送りつけて口説いた。ついに口説き落とされたジョン・ボーナムと、ベーシストのジョン・ポール・ジョーンズを加え、新バンド「レッド・ツェッペリン」が結成された。
たしか、バンド名「レッド・ツェッペリン(鉛の飛行船)」は、ロックバンド「ザ・フー」のドラマー、キース・ムーンがよく言っていた、
「鉛の飛行船みたいに、どうせすぐ落ちるさ」
というジョークからの命名だったと記憶する。
ボーナムが20歳のとき結成されたツェッペリンは、北欧や米国をライブ・ツアーしてまわり、ライブで評判を高め、アルバムを売っていったライブバンドだった。それまでのシングルヒットを出して有名になっていく方法論とは、まったくちがった売り出し方をしたバンドだった。ツェッペリンは世界的なバンドとなり、世界をツアーしてめぐった。一台のバスドラムで叩いているとは信じられない高スピードで打ち鳴らされるボーナムのドラムは世界のロックファンのあいだで大評判となり、とくに三連符の一拍目を抜かした「頭抜き3連」はボーナムの代名詞となった。
ところで、ボーナムは飛行機恐怖症だった。彼は飛行機に乗る恐怖を忘れるために、アルコールに頼るようになり、飲酒量はしだいに増え、アルコール依存症になった。
1980年9月、ボーナムはウォッカを浴びるほど飲んで練習スタジオ入りし、リハーサルの後に入ったジミー・ペイジの家でも飲みつづけた。正体をなくして寝かされたベッドで翌日、吐瀉物をのどを詰まらせ窒息死した遺体となって彼は発見された。32歳だった。
バンドの柱だったボーナムの死により、伝説のロックバンド「レッド・ツェッペリン」はただちに解散した。

ツェッペリンの音楽を聴くたびに、ジョン・ボーナムはすごいドラマーだったと、あらためて痛感する。彼が亡くなったのは、ジョン・レノンが射殺される3カ月前で、1980年の後半はロックファンにとって悪夢が続いた。悪いことは、続く。
(2024年5月31日)



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5月30日・ベニー・グッドマンの響き

2024-05-30 | 音楽
5月30日は、芸術家ヒロ・ヤマガタ(1948年)が生まれた日だが、「キング・オブ・スウィング」ベニー・グッドマンの誕生日でもある。

ベニー・グッドマンは、1909年、米国のシカゴで生まれた。本名は、ベンジャミン・デイヴィッド・グッドマン。父親はワルシャワからやってきたユダヤ人移民だった。貧しい家庭の、12人きょうだいの9番目の子として生まれたベニーは、11歳のころからクラリネットを習いだし、やがてバンドで演奏をはじめた。
12歳の年にプロ・デビュー。高校に入学する前の年のことだった。
高校時代も、タンスホールのバンドメンバーとして演奏を続け、17歳のときにはじめてレコーディングに参加した。
そのころ、もともと洋服の仕立屋だった彼の父親は、家畜処理場で精製前のラードをすくう仕事についていて、それはひどいにおいがからだにつく、ひどく消耗する仕事だったので、ベニーは、自分たち子どもが稼げるようになったのだから、その仕事を辞めるように勧めていた。しかし父親は、
「お前は自分のことは自分で面倒みろ。おれも自分のことは自分で面倒みるさ」
と言って、仕事を辞めなかった。そんな矢先、父親は路面電車を降りたところをクルマにはねられ、死亡した。ベニーが17歳のときだった。
ベニーは19歳のころ、所属する楽団とともにニューヨークへ本拠地を移し、その後、ベニーは楽団を離れてソロとなって活動をはじめた。
1929年の大恐慌に際して、20歳のグッドマンは友人であるフレッチャー・ヘンダーソンを助け、彼の楽譜を買いとり、彼のバンドメンバーを雇い入れた。そうして、しだいにヘンダーソンのバンドは、グッドマンのバンドとなっていった。
28歳のとき、グッドマンはバンドを率い、カーネギー・ホールでコンサートを開催。この有名なホールで、ジャズコンサートをおこなった最初のミュージシャンとなった。
ラジオ放送やコンサートなどで人気を博し、スイングの全盛時代を担い、「キング・オブ・スウィング」と呼ばれた。
最晩年まで演奏を続けたグッドマンは、1986年6月、心臓発作により、ニューヨークの自宅で没した。77歳だった。
代表的な楽曲に「シング・シング・シング(Sing Sing Sing)」「身も心も」「サヴォイでストンプ」「素敵なあなた」「可愛い娘をみつけた」「その手はないよ」などがある。
「シング・シング・シング」は、日本人にとって、戦後間もない時代、米国文化、デモクラシーの象徴である。

グッドマンは、大学などの教育機関を資料で検討して、ひそかに寄付を続けていた。なぜ寄付を秘密にするのかと問われると、グッドマンはこう答えたという。
「おおやけにすると、大学関係者が資料を持って殺到してくるからね」

グッドマンが全盛だった1930年代当時の米国では、ジムクロウ法による人種隔離政策をとる南部ではもちろん、北部でも、白人と黒人が同じバンドで演奏をすることはなかった。しかし、グッドマンはその習慣を打ち破り、黒人のドラマーやギタリストを採用して、自分のバンドでいっしょに演奏した。こうした勇気ある行動は、野球のメジャーリーグに初の黒人選手ジャッキー・ロビンソンが登場する10年以上も前で、画期的なものだった。
(2024年5月30日)



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5月26日・マイルス・デイヴィスの顔

2024-05-26 | 音楽
5月26日は、「ルパン三世」のマンガ家、モンキー・パンチが生まれた日(1937年)だが、「モダン・ジャズの帝王」マイルス・デイヴィスの誕生日でもある。

マイルス・デューイ・デイヴィス三世は、1926年、米国イリノイ州のアルトンで生まれた。父親は歯医者で、母親は音楽教師だった。
生まれてすぐイーストセントルイスへ引っ越したマイルスは、13歳の誕生日にトランペットを誕生プレゼントとしてもらった。これが彼の人生を決定した。
高校生のころからセントルイスのクラブで演奏していた彼は、18歳のころ、セントルイスへやってきた天才サックスプレイヤーのチャーリー・パーカーとはじめて共演。マイルスはニューヨークに出て、パーカーをさがしだした。すると、6歳年上だったパーカーのほうが、裕福なマイルスの部屋に転がりこんで同居をはじめた。そうしてマイルスはジャズ・ミーュージックにいよいよ深くのめりこんでいった。
19歳ではじめてレコーディングに参加し、以後、ドラムのアート・ブレイキー、サックスのジョン・コルトレーンなど、さまざまなジャズ・ミュージシャンと共演した。20代なかばに麻薬中毒のため挫折しかけたが、立ち直り、セッションに復帰。
31歳でフランス映画「死刑台のエレベーター」の音楽を即興演奏で録音。
クール・ジャズ、ハード・バップ、モード・ジャズ、エレクトリック・ジャズ、フュージョンなど、演奏スタイルを変化させ、つぎつぎと新しい境地を切り開き、「クールの誕生」「ウォーキン」「カインド・オブ・ブルー」「マイルス・イン・ザ・カイ」などを発表したマイルスは1991年9月、肺炎のため、ニューヨークで没した。65歳だった。

マイルスは、ジャズの代名詞である。ジャズの顔である。

マイルス・デイヴィスが61歳のとき発表した「TUTU」というアルバムで、このレコード・ジャケットをデザインした日本人デザイナー石岡瑛子が、グラミー賞の最優秀パッケージを受賞した。レコード・ジャケットいっぱいに、マイルスの顔のアップがモノクロ写真であるシンプルかつインパクトのあるデザインだった。それをきっかけに、マイルスを聴くようになった。

マイルスがジャズを新たに展開させた功績のひとつに、モード・ジャズということがある。これは、それまでコード進行によって演奏されていたジャズを、モード(旋法)で演奏していこうとするもので、これによって、独奏がより自由にできる可能性が広がった。コードからモードへ。その記念碑的アルバムが「カインド・オブ・ブルー」である。
はじめて聴いたときは、ぴんとこなかったけれど、いまは、こんなにいい音楽があるとは、とうっとりして聴く。
遅れてやってきた者にとっては、いよいよこれからがマイルスの時代である。
(2024年5月26日)



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5月22日・リヒャルト・ワーグナーの借金

2024-05-22 | 音楽
5月22日は、国際生物多様性の日。この日は推理作家のアーサー・コナン・ドイルが生まれた日(1859年)だが、作曲家、リヒャルト・ワーグナーの誕生日(1813年)でもある。

ヴィルヘルム・リヒャルト・ワーグナーは、1813年、ドイツ(当時はザクセン王国)のライプツィヒで生まれた。父親は警察勤務の官吏だった。音楽好きの一家のなかで、早くから音楽に親しんだヴィルヘルムは、ベートーヴェンを聴いて音楽家を志した。
18歳でライプツィヒ大学に入学し、音楽を学んだが、やがて中退。合唱や劇団や劇場の指揮者を務めながら、ヴュルツブルク、マグデブルク、ドレスデン、リガ(現在のラトビア)などを転々とした。長く続く貧困生活から逃げだし、26歳のとき、仏国パリへ出た。
パリでは小説を書き、歌劇「さまよえるオランダ人」を書いたが、認められなかった。
29歳でザクセン王国のドレスデンへもどったが、それからも借金取りから逃げまわるような放浪生活が続いた。32歳のとき「タンホイザー」、35歳で「ローエングリン」を作曲したが、なかなか評価と収入は上がらなかった。
36歳のとき、ドレスデンのドイツ三月革命に加担したのが裏目に出て、ワーグナーは指名手配され、スイスへ脱出した。この亡命中に、ワイマールでは「ローエングリン」が演奏され、評価が高まったが、作曲者本人がそれを聴けないのは皮肉だった。
46歳で「トリスタンとイゾルデ」を書き、冒頭の「トリスタン和音」で和声学の革命を起こしたワーグナーは、50歳のとき、コンサート出演料を得て、ようやく当面の借金を清算した。すると、まだ手元にかなりの大金があった。ワーグナーはウィーンに大邸宅を借り、室内装飾に贅を尽くし、使用人を雇い入れた。足りない費用は高利貸しから借りた。なかには年利200パーセントを超える借入金もあったという。
ふたたび巨大な負債を背負ったワーグナーは、51歳のとき、あてにしていたロシア公演旅行がキャンセルになると、絶望し、恋人への手紙にこう書いた。
「ぼくは苦悩の最後の段階に足を踏み入れた。もうじき終わるだろう。最後にあと一つ残った悲しい骨折りがすめば、この世の苦しみから解放される」(ゲルハルト・ペラウゼ著、畔上司、赤根陽子訳『天才たちの私生活』文春文庫)
しかし彼は自殺せず、逃げた。ウィーンを出、ミュンヘン、シュトゥットガルトへと移った。そしていよいよ奇跡でも起きなければもう破滅だ、と覚悟を決めかけたまさにそのとき、バイエルン国王ルートヴィヒ二世の秘書が訪ねてきた。
19歳のルートヴィヒ二世は、52歳のワーグナーをバイエルンに高給で迎え、作曲料や年金を上乗せし、楽劇「ニーベルンゲンの指輪」を完成させるよううながした。かねてからワーグナーの音楽に心酔していた国王は、国庫を傾けてでもワーグナー芸術を実現させようとしたのだった。
序夜「ラインの黄金」、
第1夜「ワルキューレ」、
第2夜「ジークフリート」、
第3夜「神々の黄昏」と、
全部上演するのに4日かかるという巨大な楽劇「指輪」のために、バイロイト祝祭劇場が建設され、ワーグナーが63歳のときに「指輪」が上演された。「ニュルンベルクのマイスタージンガー」「パルジファル」を書いたワーグナーは、1883年2月、イタリアのヴェネツィアを旅行中、心臓発作のため、没した。69歳だった。

ワーグナーで最も有名なのは歌劇「ローエングリン」中の「結婚行進曲」かもしれない。メンデルスゾーンのそれと並んで結婚行進曲の双璧である。

ワーグナーが音楽史上に残した足跡は巨大だけれど、その経済生活も豪快だった。
一寸先は光。
(2024年5月22日)



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5月17日・エリック・サティの家具

2024-05-17 | 音楽
5月17日は、アイルランドの音楽家、エンヤが生まれた日(1961年)だが、作曲家エリック・サティの誕生日でもある。

エリック・サティは、1866年、仏国の英仏海峡に面した街オンフルールで生まれた。父親は海運業を営んでいた。母親は英国生まれのスコットランド人だった。
エリックが4歳のころ、父親は事業をたたみ、一家はパリへ引っ越した。父親はパリで役所の翻訳仕事をした。エリックが6歳のとき、母親が没し、エリックは弟とともに、オンフルールの祖父のもとに預けられた。そして6年後にパリの父親のもとへもどった。
13歳でパリ音楽院に入学したエリックは、20歳のとき音楽院を退学し、酒場のピアノ弾きになった。
22歳のとき、ピアノ曲「3つのジムノペディ」を作曲。
24歳のとき、秘密結社「薔薇十字団」の創始者と出会い、入団。ピアノ曲「薔薇十字教団の最初の思想」「バラ十字教団のファンファーレ」などを作曲した。
29歳のころピアノ曲「ヴェクサシオン」を作曲。
48歳のころ、ふたまわり年下のジャン・コクトーと知り合い、彼らは画家のパブロ・ピカソを加えて、脚本コクトー、美術・衣裳ピカソ、音楽サティというトリオを組み、前衛バレエ劇「パラード」を作った。上演すると、非難ごうごうだった。
ラヴェル、ドビュッシーに強い影響を与えたサティは「貧しき者の夢想」「(犬のための)ぶよぶよした前奏曲」「自動記述法」「気むずかしい気取り屋の3つの高雅なワルツ」「官僚的なソナチネ」「不愉快な概要」など、変わった題名の曲を多く発表した後、1925年7月、肝硬変のため、入院先のパリの病院で没した。59歳だった。

サティは演奏会用の楽曲を作る一方で、「家具の音楽」ということを提唱した人でもあった。家具のように、日常にふつうに存在していて邪魔にならない音楽ということで、これは後のブライアン・イーノの環境音楽に通じる。

サティの「ヴェクサシオン」は「嫌がらせ」「しゃくの種」という意味で、1分程度の部分を840回繰り返すという指示が付いていて、世界一長い曲とされる。
こういう曲がめったにコンサートホールで演奏されないのは当たり前で、はじめて「ヴェクサシオン」が演奏されたのは、サティが没して約40年後、沈黙の音楽「4分33秒」の作曲家ジョン・ケージによってだった。演奏に18時間40分かかった。
でも、ジョン・ケージは演奏すると約639年かかる「ASLSP(As SLow aS Possible)」を発表していて、さらに、ショパンのマズルカのなかにも永遠に繰り返す楽曲があって、永久に終わらない曲もあるというから、上には上があるものだ(サティも、永遠に繰り返す曲を書いている)。

サティはこう言った。
「肝腎なのはレジオン・ドヌール勲章を拒絶することではないんだよ。なんとしても勲章など受けるような仕事をしないでいることが必要なんだ。」(曽根元吉訳「サティ万歳」『ジャン・コクトー全集第四巻』東京創元社)
この思想は、現代の資本主義社会の思想ともっとも遠いところにある、現代人が黙して傾聴するべき命題である。
(2024年5月17日)



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5月3日・ビング・クロスビーの遺産

2024-05-03 | 音楽
5月3日、憲法記念日のこの日は、『君主論』の著者マキャヴェリが生まれた日(1469年)だが、「ホワイト・クリスマス」を歌ったビング・クロスビーの誕生日でもある。

ハリー・リリース・クロスビーは、1903年、米国西海岸のワシントン州タコマで生まれた。父親は英国イングランド系の簿記係で、母親はアイルランド系だった。7人きょうだいの上から4番目だったハリーは小さいころから、当時のマンガのキャラクターをとって「ビング」のあだ名で呼ばれていた。
音楽、演劇好きだったビングは、大学時代にジャズ・バンドを組み、23歳のときに楽団に歌手として入り、20代の後半にソロ歌手としてデビュー。1930年代にラジオの普及とともに、クロスビーの人気は広まった。オペラ歌手とはちがう、マイクで集めた声を増幅してスピーカーから出すというマイクロフォン・システムを生かし、クロスビーは抑えた音量でなめらかに歌う歌唱法「クルーナー・スタイル」を確立した。やわらかく温かみのある彼のバリトンは、不況期にあった世界の人々の心を温めた。ラジオ番組「ビング・クロスビー・ショー」で人気を博した彼は、その後、映画に進出し、世界的な人気を博した。
1977年10月、英国での公演を終えた後、スペインでゴルフ・プレイ中に心臓発作を起こし、没した。74歳だった。

1930年代、ビング・クロスビーは世界でもっとも人気のある歌手だった。その後1940年代にフランク・シナトラ、1950年代にエルヴィス・プレスリー、1960年代ビートルズ、そして1970年代にはデヴィッド・ボウイが出たが、クロスビーは亡くなるまで世界中の歌手が仰ぎみる尊敬の的だった。
彼が晩年に出演したクリスマスのテレビ番組を見た。イヴにクロスビーが家の居間でひとりぼっちでいると、ドアのチャイムが鳴り、不意の来客が現れる。
「すみません、近所に住んでいるデヴィッド・ボウイというものですが」
と、ボウイが入ってきて、二人でクリスマス・ソングをデュエットするのだった。

クロスビーは大恐慌のまっただ中の時代に、ぬくもりのある歌声で歌い、ヒューマニズムあふれる役柄を映画で演じつづけた。映画「我が道を往く」「ホワイト・クリスマス」の心温まる味わい。彼は、貧しい一般大衆に「幸せはお金じゃない。人間はハートだよ」というメッセージを発していた。

ビング・クロスビーは世界的なスターだから、もちろん莫大な資産があっただろうけれど、興味深いことに彼はそれを「隠し信託(blind trust)」という、遺産相続者にわからない形で代理人に委託して亡くなった。
「自分の子たちは、65歳の誕生日がくるまで、この遺産を知らされず相続もできない」
という相続条件が付いていた。
クロスビーは生涯に二度結婚していて、27歳で女優と最初の結婚をした。49歳のとき、妻と死別した後、独身にもどり、54歳でべつの女優と再婚している。彼が最初の妻とあいだにもうけた4人の子どもたちは、長男が62歳で肺がんで没し、次男と四男がそれぞれ56歳と51歳で拳銃自殺した。65歳に達し、遺産を相続できたのは69歳まで生きた三男だけだった。
(2024年5月3日)


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『映画男優という生き方』(原鏡介)
世界の男性映画スターたちの生き様と作品をめぐる映画評論。ヴァレンティノ、マックイーン、石原裕次郎、シュワルツェネッガーなど男優たちの演技と生の真実を明らかにする。

『デヴィッド・ボウイの思想』(金原義明)
デヴィッド・ボウイについての音楽評論。至上のロックッスター、ボウイの数多ある名曲のなかからとくに注目すべき曲をとりあげ、そこからボウイの方法論、創作の秘密、彼の思想に迫る。また、ボウイがわたしたちに贈った遺言、ラストメッセージを明らかにする。ボウイを真剣に理解したい方のために。


●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp


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5月1日・阿木燿子の魅力

2024-05-01 | 音楽
5月1日は、国際的な労働者の日「メーデー」。この日は作家、吉村昭が生まれた日(1927年)だが、作詞家の阿木燿子(あきようこ)の誕生日でもある。

阿木燿子は、1945年の敗戦直前、長野で生まれた。誕生時の本名は、福田広子。横浜で育ち、小中高と横浜の学校に通った。東京の明治大学に入学し、そこの軽音楽部に入部。そこで宇崎竜童(本名、木村修司)と知り合った。以前、テレビ番組で宇崎が語ったところによると、はじめて会ったとき、宇崎は彼女にこう声をかけたという。
「あのー、ぼくたち結婚することになっていると思うんですけど」
すると阿木燿子はこう答えた。
「そういうことにはなっていないはずですけど」
二人は熱烈な恋に落ち、彼女が26歳のときに結婚した。彼女は木村広子となった。
結婚の2年後、夫の宇崎は「ダウン・タウン・ブギウギ・バンド」を結成。阿木は夫のバンドのために「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」の歌詞を書いた。同曲は大ヒットし、歌詞の一節「あんたあの娘のなんなのさ」は当時、大流行した。そのほか「サクセス」「沖縄ベイ・ブルース」「身も心も」「裏切者の旅」をバンドに提供した彼女は、郷ひろみの「ハリウッド・スキャンダル」、キャンディーズの「微笑がえし」、中森明菜の「DESIRE」、水谷豊の「カリフォルニア・コネクション」、南こうせつの「夢一夜」などのヒット曲の詞も手がけた。そして、夫婦で山口百恵の全盛期を作った。
「横須賀ストーリー」
「夢先案内人」
「イミテイション・ゴールド」
「プレイバックPart2」
「絶体絶命」
「しなやかに歌って」
「ロックンロール・ウィドウ」
「さよならの向う側」
これらのヒット曲はすべて阿木燿子作詞、宇崎竜童作曲である。
作詞家として活躍するほか、彼女はレストラン兼ライブハウスを経営し、女優として映画やテレビに出演し、みずから映画監督もこなし、プロデューサーとしてフラメンコと浄瑠璃をミックスさせた演劇の公演をおこなうなど、多方面に活躍している。
63歳のころには、彼女は「新タワー名称検討委員会」の委員となり、捨てられかけた案「東京スカイツリー」を引っ張り上げて最終候補に残した。これが一般投票でタワーの名称に選ばれた。

才媛。才色兼備。天が三物も四物も与えた美女。阿木燿子を讃えることばは多い。
「港のヨーコ」「身も心も」「プレイバックPart2」の歌詞は、何度聴いてもため息が漏れる名品である。ことばを組み合わせるセンスが抜群で、趣向がお洒落。そして、イメージ喚起力と、ことばの造形力が圧倒的である。

人気絶頂にあったころ、彼女ら夫婦はときどきバイクの二人乗りでツーリングにでかけていた。当時、雑誌の「危なくないですか?」との質問に、彼女はこう答えていた。
「のろけるわけじゃないんですけど、彼といっしょだったら、いつ死んでもいいんです」
いい女、というのは、いる。
(2024年5月1日)



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4月13日・西城秀樹の迫力

2024-04-13 | 音楽

4月13日は、『ゴドーを待ちながら』を書いたサミュエル・ベケットが生まれた日(1906年)だが、歌手の西城秀樹の誕生日でもある。

「ヒデキ」こと西城秀樹は1955年、広島で生まれた。本名は木本龍雄。小学生のころから柔道、水泳をするスポーツ少年だった彼は、ジャズスクールに通うドラマー志望でもあった。
高校のとき、ジャズ喫茶で演奏していたところをスカウトされ、親の反対を押し切り、なかば家出する形で上京。東京の定時制高校へ通いながら、芸能プロダクションに所属し、歌や踊りのレッスンを受けた。
17歳になるすこし前にシングル「恋する季節」で、西城秀樹としてデビュー。「ワイルドな17歳」として売り出した。
18歳で「情熱の嵐」がヒット。当時の若手アイドル、郷ひろみ、野口五郎とともに「新御三家」と呼ばれた。以後「薔薇の鎖」「激しい恋」「傷だらけのローラ」「恋の暴走」「君よ抱かれて熱くなれ」「若き獅子たち」「ラストシーン」「ブルースカイブルー」などヒット曲を連発し、派手なステージアクションで歌う情熱的肉体派の歌手として君臨した。また、カレールーのテレビCMに登場し「ヒデキ、感激」のセリフで親しまれた。
48歳のとき、脳梗塞になり、うまくしゃべられなくなった。再起が危ぶまれたが、懸命のリハビリの結果、またステージ活動に復帰した。
60歳になり「ヒデキ、還暦」とジョークを飛ばし、元気なところを見せたが、2018年4月下旬に自宅で倒れ、緊急入院し、月が替わって5月、急性心不全のため、入院先の横浜の病院で没した。63歳だった。

西城秀樹が24歳のときに歌った大ヒット曲「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」は、その振り付けとともに、日本全国老若男女、知らぬ者はないというくらいに広く知られた。
洋楽ファンで、米国のヴィレッヂ・ピープルの原曲「YMCA」を知っていたので、ヒデキが日本語版を歌うと聞いたとき、椅子からすべり落ちるほど驚いた。英語版の「YMCA」は、お金がなくても落ち込むなよ、安く泊まれるYMCAへおいでよ、ここに滞在すれば楽しい時を過ごせるよ、というゲイを匂わせる内容の歌詞だったからだ。
でも、ヒデキは原曲のゲイ色を一掃し、高校野球にふさわしい青春応援歌風の日本語訳で歌い、大ヒットさせた。ヒデキの日本語版だと、なぜYMCAなのか脈絡がわからない。
ヒデキは、この原曲をラジオかなにかで聴き、これは絶対にいけるとピンときて、すぐに権利をおさえてもらい、つぎに発売予定が決まっていたレコードをキャンセルして、急きょ「YMCA」を録音、販売した経緯があったらしい。すべて、ヒデキ本人が、24歳の若さと情熱で周囲を動かして作り上げた大ヒットだった。

その昔「イカすバンド天国」という番組があって、若者のバンドコンテストをやっていたのだけれど、その参加者たちに「もっとも影響を受けた日本人アーティストは?」というアンケートをとると、第1位が沢田研二、第2位が西城秀樹だったという。
西城秀樹は、歌謡曲の歌手というより、ロック・ヴォーカリストという感じが強く、歌への情熱を、180センチある長身全体にみなぎらせてぶつかってくるその迫力は、ちょっとほかの歌手にはないものだった。いまだにヒデキを超える肉体派のヴォーカリストは出ていない。やっぱり、なにかことを成すときは、ヒデキみたいな迫力がなくては。
(2024年4月13日)



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4月11日・森高千里の実力

2024-04-11 | 音楽

4月11日は、評論家、小林秀雄が生まれた日(1902年)だが、シンガーソングライターの森高千里の誕生日でもある。

森高千里は、1969年、大阪の茨木で生まれた。幼いころに九州は熊本へ引っ越し、熊本で育った。音楽に熱中し、ギター弾き、ドラムをたたくなど、バンド活動に打ち込んでいた彼女は、ショッピングモールの食堂でウェイトレスのアルバイトをして、楽器購入費を捻出するという、典型的なバンド・ミュージシャンの青春を送っていた。
17歳のとき、コマーシャルのイメージガールコンテストでグランプリをとったのをきっかけに上京。東京の高校に編入してタレント活動を開始した。
18歳で映画「あいつに恋して」に主演。その後は歌手活動に力を入れだした。
19歳のとき、みずからの体験をもとに作詞した「ザ・ストレス」を発表。素朴で斬新な歌詞とダルな曲調、ミニスカートのウェイトレス姿でお盆をもって踊る「モリタカ」は一躍コスプレ系アイドルとして人気が沸騰した。
「ミーハー」「非実力派宣言」「臭いものにはフタをしろ!!」「雨」「勉強の歌」「この街」「ファイト!!」「私がオバさんになっても」「ハエ男」など、実感をそのまま歌にする生活詩人のシンガーソングライターとして活躍。はじめは美貌とスタイルのよさ、とくに脚線美を協調したコスプレで男性ファンが多かったが、その素朴な生活感のにじむ歌詞への共感から、しだいに女性へもファン層が広がった。
30歳のとき結婚、出産を機に芸能活動を休業。40歳ごろからドラマーとして、また歌手として、公の場に姿を見せるようになってきた。

「モリタカ」は、女性アイドルが苗字で呼ばれるようになったハシリである。
そして、「モリタカ」といえば、ミニスカートであり、脚だった。
1990年ごろ、女性月刊誌の、
「脚と聞いて、あなたが思い浮かべる有名人は?」
というアンケートでも、森高千里は断トツの一位だった。

いまでも「ザ・ストレス」の振り付けが踊れる。
この曲も衝撃的だったが、「臭いものにはフタをしろ!!」「ザ・バスターズ・ブルース」「うちにかぎってそんなことはないはず」といった歌にも驚かされた。「バスターズ・ブルース」など、OLが自室に現れたゴキブリと延々と対決する歌詞で、それをモリタカがセクシーなコスプレで歌うのである。

モリタカは「非実力派宣言」のなかで、こう歌った。
「始めから私はこんなもんよ。期待をしてたのね、ごめん」
「実力は人まかせなの。実力ないわ」
彼女はいまも、細野晴臣などベテラン・ミュージシャンたちとコラボレーションし、ボーカル以外にもドラマーとしてレコーディングセッションに加わる実力派ミュージシャンである。森高は、その美貌とスタイルのために、あえて実力をないものとして、それを看板に掲げるという、とても屈折した売り出し方をしたアーティストで、ほかにちょっといない、ユニークな存在である。
(2024年4月11日)



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