1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

5/31・ホイットマンの大きさ

2013-05-31 | 文学
5月31日は、シャーレ(ペトリ皿)を発明した独国の細菌学者、ユリウス・ペトリ(1852年)、「夕陽のガンマン」クリント・イーストウッド(1930年)が生まれた日だが、米国を代表する詩人、ホイットマンの誕生日でもある。
自分が、ホイットマンを知ったのは学生のころで、米国作家、ヘンリー・ミラーが『わが読書』のなかでホイットマンを絶賛していたからだった。ホイットマンは、両手を大きく広げ、全世界を抱きしめるような自由詩を書いた詩人である。

ウォルター・ホイットマンは、1819年、米国ニューヨーク州のロングアイランドで生まれた。両親はクエーカーの思想に共鳴していた。貧しい家庭の9人きょうだいの2番目の子だったウォルターは、11歳から弁護士事務所の雑用係として働きはじめ、印刷工、新聞記者、学校教師などをへて、19歳のころにはみずから新聞の発行者となった。
そしてまた印刷工や教師、編集者などをしながら、詩や文章を書きつづけた。
36歳のとき、代表作となる詩集『草の葉』を自費出版。最初の版では、12編の詩を収めた薄い詩集だったが、この初版に、ホイットマンは生涯をかけて、詩を追加し、改定し、版を重ねていった。最初、『草の葉』を読んだ彼の弟は、まったく価値を認めなかったというが、ラルフ・エマーソン、ブロンソン・オルコット、ヘンリー・ソローといった人々が絶賛した。
彼が42歳のときにはじまった南北戦争に際しては、北軍側の陸軍病院で看護士として勤務し、戦後は、政府の役所に勤めながら、詩作と推敲を続けた。
49歳になる年に、英国でホイットマンの詩集が出版され、英国先行の形で彼の詩人としての評価が高まっていった。72歳のころ『草の葉』完成。完成版は389編の詩が収められた大詩集となっていた。
1892年3月、ニュージャージー州で、肺炎、腎炎などにより没。72歳だった。

ホイットマンという人は、山や海や川を歌い、田舎を歌い、都会を歌い、原子から宇宙までを歌い、人間については、奴隷や農民から、大工、木こりなどなど、老若男女すべての人々を歌った詩人だった。ヘンリー・ミラーはこう言っている。
「まったく、たぶんこの世に生れて来た人間で、ウォルト・ホイットマンほど沢山のものを好きになり、僅かのものしか嫌わなかった人間はあるまい」(田中西二郎訳「わたし自身の歌」『ヘンリー・ミラー全集(11)わが読書』新潮社)

「ウォルト・ホイットマン、一個の宇宙人、正真正銘のマンハッタン子、
 騒ぎ建てることが好きで、肥り肉で、肉感的で、よく食い、よく飲み、よく種づけるもの、
 メソメソ屋ではなく、男たちや女たちのうえにはだかるものでもなければ、彼らから超然と離れているものでもない、
 不道徳者にくらべて堅造というのでもない。」(富田砕花訳『草の葉』グラフ社)

大地的というか、宇宙的というか、ホイットマンは、おおらかで、大きい。ホイットマンの詩は、ほんの小さなことに気分を害したり、怒ったりしている自分を軽やかに笑い飛ばしてくれる。人間、こうありたい、と思う。自分の好きな彼のことばにこういうのがある。
「知りたがりであれ、決めつけるのでなく」
(Be curious, not judgmental. Walt Whitman)
(2013年5月31日)


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生活保護法改正案に反対します。

2013-05-30 | 日本の未来を憂う
生活保護法を改正する動きが進んでいます。この改正案は、もともと厚生労働省が発案したもので、2013年5月17日に閣議決定されたと報じられました。詳細はいまだヴェールに包まれていますが、つぎのような骨子らしい。
1. 保護の申請を厳格化
2. 不正受給の罰則強化
3. ジェネリック薬品の使用促進
4. 「就労自立給付金」制度を創設
5. 扶養義務のある人への連絡徹底
早い話が、生活保護がほしい者は、自分が困っていることをちゃんとした文書にして証明せよ、親族に連絡して、そちらの家計も調べて、そちらで扶養できないか徹底的に調査した上でないと、申請は受け付けないぞ、という内容で、事実上、生活保護をなくそうとする法案だと言えます。文化的な国家としては、信じられないような改正案だと思います。
これについて、自分は、首相官邸宛てに、下記のような意見メールを提出しました。



2013年5月に閣議決定されたと聞く生活保護法改正案は、改悪案であって、日本をさらに不穏なすさんだ国にするものだと考えますので、廃案にされるよう、ご再考をおねがいいたします。
現在でも現場職員が生活保護の申請をまともにとりあわず、死亡者が出ている現実の上に、さらに拍車をかけて、書類がそろい、さらに親族関係の収入の調査がなされることを申請の条件とするようでは、申請準備中の段階で、申請者はみな死んでしまいます。
今回の改正案は、左うちわで暮らす生活が保証されている役人が考えた、浮世離れした妄想だと、思われてなりません。弱い者いじめは、やめてくださるよう、お願いいたします。
あわせて、生活保護費を削るのも、やめていただきたく存じます。

蛇足ながら、今回の改正案と、もしも公正を期するならば、先に閣議決定された公務員給与の見直しについても、
・独立行政法人の役員・職員については、ほんとうに給与を受けるに値する業務をおこなっているか、業務日誌と、それを証明する、利害関係のない第三者の文書を添えた申請があって、はじめて給与が支払われるものとし、そうでなければ、年金支給だけでよしとする。
・公務員、公務員OBには、ジェネリック薬品の使用励行を徹底する。
といった条項が加わってしかるべきだと思います。
税金にぶらさがっている公務員にとって天国であるような国には、明るい未来はありません。税金をもらう人でなく、はらってくれている国民をもっと大事にし、もっと元気に活性化してこそ、国の未来は開けます。
何卒、ご検討ほど、よろしくお願いいたします。(2013年5月30日)
(意見メール、終わり)

近ごろは、景気が悪いのが長くつづいたせいか、弱い者、貧しい者をヒステリックにいじめたがる風潮が日本国内にはびこっている気がします。
お金がある、ない、は、運不運により、また、時期によります。ホンダの創始者、本田宗一郎でさえ、事業がうまくいかず自殺しようと思ったときがあるそうですから、うまくいかないときは、なんとか命だけでも長らえて、またいい時がめぐってくるのを待つ必要があります。どうせ、お金をたくさんもっていたって、一時的なもので、いずれ人間は死にます。
生きているうちは、命を大切にするべきだと思います。自分の命も、そして他人の命も。
他人の命を粗末にしているような国の未来が、明るいはずはありません。
人間は、生きていさえすれば、また元気になって活躍するときがくるかもしれません。
そのためにも、生活保護の制度はとても大事なものだと思います。
(2013年5月30日)

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5/30・ベニー・グッドマンの名の響き

2013-05-30 | 音楽
5月30日は、多色刷りのシルクスクリーンで知られる芸術家、ヒロ・ヤマガタが生まれた日(1948年)だが、「キング・オブ・スウィング」ベニー・グッドマンの誕生日でもある。
テレビのドキュメント番組などで、戦後間もないころの東京の風景が映し出されることがあるが、そのときかならずといっていいほど流れるのが、ベニー・グッドマンの「シング・シング・シング(Sing Sing Sing)」である。グッドマンのジャズ音楽は、日本人にとって、暗い軍国主義時代が終わって、自由にものの言えるデモクラシーの時代になった、その象徴だった。

ベニー・グッドマンは、1909年、米国のシカゴで生まれた。父親はワルシャワからやってきたユダヤ人移民だった。貧しい家庭に9番目の子として生まれたベニーは、11歳のころからクラリネットを習いだし、やがてバンドで演奏をはじめた。
12歳の年にプロ・デビュー。高校に入学する前年だった。高校時代も、タンスホールのバンドメンバーとして演奏を続け、17歳のときにはじめてレコーディングに参加した。
ベニーは19歳のころ、所属する楽団とともにニューヨークへ本拠地を移し、その後、ベニーは楽団を離れてソロとなり、23歳のころには自分で楽団を率いるにいたった。
28歳のとき、グッドマンのバンドはカーネギー・ホールでコンサートを開催。この有名なホールで、ジャズコンサートをおこなった最初のミュージシャンとなった。
ラジオ放送やコンサートなどで人気を博し、スイングの全盛時代を担い、「キング・オブ・スウィング」と呼ばれた。
1986年6月、心臓発作により、ニューヨークの自宅で没した。77歳だった。
「シング・シング・シング」のほか、代表的な楽曲に「身も心も」「サヴォイでストンプ」「素敵なあなた」「可愛い娘をみつけた」「その手はないよ」などがある。

グッドマンは、大学などの教育機関を資料で検討して、ひそかに寄付を続けていた。なぜ寄付を秘密にするのかと問われると、グッドマンはこう答えたという。
「おおやけにすると、大学関係者が資料を持って殺到してくるからね」

姓名判断の世界には「音波姓名学」という分野があって、これは、名前の字の画数で運勢を占おうとするものではなく、その名を呼んだ音の響きから、性格や運勢を推し量ろうとする占い法である。わかりやすい例を挙げるならば、たとえば「まるみ」と名付けられた子どもは、ずっと「まるみ、まるみ」と呼ばれて成長していくので、しだいに人当たりのやわらかい人物になっていくにちがいない、というような考え方である。
この「音波姓名学」を考えたとき、「グッドマン」は、文字通り「いい人」という意味で、この上なくいい名前である。
グッドマンが全盛だった1930年代当時の米国では、ジムクロウ法による人種隔離政策をとる南部ではもちろん、北部でも、白人と黒人が同じバンドで演奏をすることはなかった。しかし、グッドマンはその習慣を打ち破り、黒人のドラマーやギタリストを採用して、自分のバンドでいっしょに演奏した。こうした習慣打破は、野球のメジャーリーグに、初の黒人選手、ジャッキー・ロビンソンが登場する10年以上も前のことで、このグッドマンの勇気ある改革は、画期的なものだった。
ベニー・グッドマンを、偉大なミュージシャンにした要因のひとつとして、彼自身の苗字も加えていいのではないかと、自分は思うのだけれど、どうだろうか。
(2013年5月30日)


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5/29・「ディーヴァ」美空ひばり

2013-05-29 | 音楽
5月29日は、米国大統領、ジョン・ケネディ(1917年)が生まれた日だが、日本の歌手、美空ひばり(敬称略、以下同)の誕生日でもある。
「あの人は歌が上手い」「いや、上手くない、声がいいだけだ」「あいつの歌には味がある」などと、歌手に関する議論はつきないが、美空ひばりほど歌の上手い人は、ちょっといない。自分は、ポップス歌手としては松田聖子などはすごい歌い手だと思うけれど、美空ひばりとなると、演歌でもジャズでもシャンソンでも、なにを歌わせても上手かった。まさに「ディーヴァ(歌姫)」と呼ぶにふさわしい人だったと思う。

美空ひばりは、1937年、横浜で生まれた。本名は、加藤和枝。父親は、魚屋だった。
彼女は幼いころから歌が上手で、彼女の母親は、娘の才能を開花させるべく、戦時中からひばりの歌による慰問活動や、公演をおこない、娘を世に出すために尽力した。
ひばりは、戦後間もない10歳のころから地方巡業の一座に前座歌手として加わった。
11歳のころには、国際劇場などの大舞台に立つようになり、レコードデビュー。
12歳のとき、映画「悲しき口笛」に主演。シルクハットに燕尾服という扮装でひばりが歌う主題歌とともに映画も大ヒットし、国民的スターとなった。
以後、歌手として、映画、公演など幅広く活躍し、18歳のころには、江利チエミ、雪村いづみとともに「三人娘」と呼ばれた。
50歳の年に、大腿骨骨頭壊死で入院。再起不能がささやかれたが、退院、リハビリに励み、足腰の痛みを抱えたまま、翌年の1988年、東京ドームのこけら落とし「不死鳥コンサート」のステージを務め、奇跡の復活を国民に印象づけた。
1989年6月、肺炎のため没。52歳だった。
ヒット曲に「リンゴ追分」「柔」「悲しい酒」「真赤な太陽」「愛燦燦」「川の流れのように」などがある。

某歌謡ショーのリハーサルのとき、歌手の近藤真彦が、舞台の袖で美空ひばりのリハーサルを聞いていて感心し、歌い終えた彼女にこう声をかけた。
「おばさん、歌、上手いねえ」
美空ひばりは、
「真彦ちゃんに褒められちゃった」
と喜んでいたという。

かつて美空ひばりが契約していたレコード会社に勤めていた人に聞いた話だけれど、美空ひばりは、ふつうの歌手がレコード録音を何度も歌い直すところ、一回目の録音で完璧に歌いきる。それだけではなく、こういう歌い方はどうだろう、こういう歌い方もある、と、ほかにもいくつか歌って見せ、それがどれも完璧だったという。
ひばりの実妹の証言によれば、彼女は家で何百回となく練習し、完璧に歌えるようにしてから本番に臨んでいたそうだ。天才というのは、陰で練習している人のことである。

たしかNHKの紅白歌合戦だったと思う。美空ひばりが和服姿で、ハンドマイクを片手に持ち、音楽に合わせてツイストを踊って見せたことがあった。自分は衝撃を受けた。からだ全体から発せられる、あのわくわくするようなリズム感。和服を着て、草履をはいて、あんなに粋にツイストを踊れる人なんて、世界中さがしても、彼女以外にいない。
歌もさることながら、ちょっとしたときに見せる洒落た身のこなし、パッとその場の雰囲気を明るく(または悲しく)変えてしまう表情やしぐさなど、ショービジネスの現場で鍛えられた技量の光るものをたくさん持っていた人だと思う。
(2013年5月29日)



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5/28・イアン・フレミングの生きる流儀

2013-05-28 | 文学
5月28日は、「また逢う日まで」「木綿のハンカチーフ」「ギンギラギンにさりげなく」の作曲家、筒美京平が生まれた日(1940年)だが、英国の作家、イアン・フレミングの誕生日でもある。007号の作者である。
自分は、小学6年のとき『ドクター・ノオ』を読んで以来の愛読者で、007シリーズは翻訳版と英語版の両方を全巻そろえ、日本語訳がないフレミングの英書も何冊かもっている。

イアン・フレミングは、1908年、英国ロンドンで生まれた。彼の祖父、ロバート・フレミングは、ロバート・フレミング銀行を創立者で、孫のイアンは、客室が25室、使用人が70人いる大邸宅で育った。イアンの父親は、第一次世界大戦中、西部戦線で戦死している。
名門出のイアンは、8歳から寄宿学校に入り、名門イートン校卒、士官学校を中退して、ロイター通信社の記者となった。記者として外国を渡り歩いた後、金融会社に入社。第二次世界大戦中は海軍の情報局に所属し、スパイ活動にたずさわり、37歳で終戦を迎えた後は「サンデー・タイムズ」紙の外信部長を務めた。
44歳のときに結婚。それまで優雅なプレイボーイ生活を謳歌してきたフレミングは、結婚を機に、本の執筆を決意。休暇を利用してジャマイカの別荘にこもり、毎年一作ずつ本を書き上げた。それが英国諜報部員のジェイムズ・ボンドが活躍するスパイ小説だった。『カジノ・ロワイヤル』『死ぬのは奴らだ』『ロシアから愛をこめて』『女王陛下の007号』『007号は二度死ぬ』など、「007号シリーズ」は世界的ベストセラーとなった。フレミングは、007号シリーズのほか、童話『チキチキバンバン』などを書いた後、1964年8月、心臓麻痺で没した。56歳だった。

イアン・フレングは、文章の名手として有名で、本国では『宝島』を書いたスティーブンソンの再来と言われた。洗練された、切れ味がいい文章を書く人だと思う。
007号シリーズは、傑作ぞろいでどれもおすすめだけれど、強いて選ぶのなら、長編では『ロシアから愛をこめて』『女王陛下の007号』『007号は二度死ぬ』を自分はおすすめしたい。拙著『名作英語の名文句2』でも取り上げたが、いずれの作品も、映画とは異なる、知的で非情な、独特の味わいがあって、映画しか知らない人は、読むと驚かれるかもしれない。
短編には、『007号の冒険』中の一編で「ナッソーの夜(原題は『Quantum of Solace』で『慰めの分け前』の意)」という傑作がある。

フレミングは、そのエッセイのなかで、こう言っている。
「ものを書くということは、人を周囲の状況に対して生き生きと敏感にさせる。そして生きるということの主な要素は──多くの人たちの様子を見ていると、そうは思えないかもしれないが──生き生きとしているということにある以上、これは書くということのまさに骨折りがいのある副産物である」(井上一夫訳「エッセイ スリラー小説作法」『007号/ベルリン脱出』早川書房)
(Writing makes you more alive to your surroundings and, since the main ingredient of living, though you might not think so to look at most human beings, is to be alive, this is quite a worthwhile by-product of writing.)
このことばは、中学生のとき以来、自分の生きる指針になっていて、それはいまも変わらない。長く生きていると、惰性に流され、つい生まれたついでに生きているようになりがちだけれど、それでも、生き生きとしていることを思い出しては心がけている。自分は、イアン・フレミングという人の生きる流儀を、とても尊敬している。
(2013年5月28日)



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5/27・アメリア・ブルーマーの女性解放ファッション

2013-05-27 | 歴史と人生
5月27日は、『沈黙の春』を書き環境汚染の意識革命を起こしたレイチェル・カーソンが生まれた日(1907年)だが、米国の女性解放運動家、アメリア・ブルーマーの誕生日でもある。女性の運動着「ブルマー」の名は、彼女に由来するという。

アメリア・ジェンクス・ブルーマーは、1818年、米国ニューヨーク州、ホーマーで生まれた。ブルーマーは、学校教師や住みこみの家庭教師をし、22歳で弁護士と結婚した後、31歳のとき、週2回発行される新聞「ザ・リリー(ユリの意)」を発行しだした。「ザ・リリー」は、セネカ・フォールズという町の女性禁酒協会の会員向けの家庭向け配布紙で、その紙面に彼女は、結婚法の改正や、女性参政権、女性のための高等教育などについての記事を載せ、発行部数は4000部を超え、後世の女性参政権運動の見本となった。
ブルーマーは彼女の新聞「ザ・リリー」について言っている。
「女性のための新しい福音となる真実を報せる媒体が必要とされていたのです。いったんそれを始めたら、もう後には引けませんでした」
彼女が33歳のときのこと。ニュー・イングランド地方に住むエリザベス・ミラーという女性が、足首のところで裾をつぼめた、ゆったりした女性用のズボンを考案した。それを見たブルーマーはひと目で気に入った。動きやすいし、からだにいい、と。さっそく自分もそれをはくとともに、自分の新聞でも取り上げた。すると、彼女の名をとって「ブルマー」と呼ばれたそのスタイルは、たちまち社会のはげしい非難の的となった。
南北戦争前夜の当時は、女性にズボンはあり得なかった。女性は、ウエストをきつくコルセットでしめつけ、広がった長いスカートをはくものであり、そうやってバストとヒップを強調し、男の目から見た「女らしさ」を装うもの、とされていた。動きにくさや、腹をしめつけすぎて卒倒するとか、食事がとりづらいなど、女性の便宜や健康への配慮は、いっさい度外視されていた。そこへ出現した「ブルマー」は、社会の風紀を乱すハレンチな装束以外の何者でもなかった。
米国に一時広まり、ヨーロッパへも飛び火したブルマー・スタイル「ブルーメリズム」は、当時はその上に短いスカートをはいて用いられたそうだが、まだデザインが洗練されていなかったこともあって、それほど流行らなかった。
女性解放運動の先駆者、ブルーマーは、1894年12月に、76歳で没している。

ココ・シャネルが、女性のスカートにポケットをつけたとき、それは女性の日常生活にとって画期的な事件だったらしいけれど、ブルマーの採用は、もっと革命的なできごとだったと思う。当時、通りでブルマーをはいて歩くと、ののしられ、石やトマトをぶつけられたというから、それをはくこと自体、相当な勇気がいることだった。そのスタイルは細々と受け継がれて、しだいに洗練され、現代の女性のパンツ・ルックとなり、また短くスポーティーな運動用ブルマーとなりして生きている、と言っていいだろう。
だから、現代の東京の原宿や秋葉原を、トマトをぶつけられることもなく、思い思いのファッションで歩いている女性たちも、ブルーマーら先駆者の恩恵をすこしはこうむっていると言えると思う。
(2013年5月26日)


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カラー絵本。ある日、降りはじめた雨は、いつまでもやまずに……。不思議な雨の世界。


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5/26・モンキー・パンチのにがみ

2013-05-26 | マンガ
5月26日は、「モダン・ジャズの帝王」マイルス・デイヴィスが生まれた日(1926年)だが、「ルパン三世」の作者、モンキー・パンチの誕生日でもある。
自分がはじめて買ったレコードは「ルパン三世のテーマ」だった。A面が、
「ルパン・ザ・サード、ルパン・ザ・サード、ルパン、ルパン……」
という単純な歌詞が延々と続く曲で、B面は、テレビアニメのエンディング・テーマで、暗い、もの悲しい歌だった。いま思うと、どうして買ったのだか不思議だけれど、はじめて買ったレコードのことで、そのときは興奮してうれしくて、繰り返し繰り返し聴いた。

モンキー・パンチこと、本名、加藤一彦は、1937年に、北海道厚岸郡浜中町で生まれた。
高校時代から漫画を描いていた彼は、高校卒業後、上京し、東海大学の電気科に入学した。が、アルバイトの漫画に熱中して大学を中退。本格的に漫画家を目指した。28歳のとき、「がむた永二」のペンネームでデビュー。
29歳のとき、ペンネーム「モンキー・パンチ」を名乗った。
30歳のとき、雑誌に「ルパン三世」の連載を開始。この「ルパン三世」がヒットし、テレビ・アニメ化され、映画化され、ゲーム・ソフト、パチンコ台にまでなり、時代を越えて愛される彼の代表作となった。
2003年、65歳のとき、東京工科大学の修士課程に入学。自分がさらに進歩するため、現代の情報メディアを勉強し直す必要を感じたためという。
2010年、73歳で、東工大の客員教授に就任した。

テレビもアニメも漫画本も、「ルパン三世」は、いろいろな人が脚色して描いたものが出ている。原作者のモンキー・パンチは「基本的なキャラクターだけ変えなければ、自由にいじってくれてけっこう」というスタンスで、任せきりにしている。ある意味で、その放任主義が、「ルパン三世」をあれだけ大きなものにしたわけである。
自分はどの「ルパン三世」も好きだけれど、やはり強烈な魅力を感じるのは、雑誌「漫画アクション」に連載されていた元祖「ルパン三世」である。
自分は以前、最初の「ルパン三世」のシリーズを全巻もっていた。いつの間にか散逸してしまったけれど、いまでも何冊か持っている。
モンキー・パンチ自身が描いていた元祖漫画版のほうは、エロチックで、サディスティックで、いかがわしくて、ギャグの精神を忘れない、大人の味わいを持った漫画作品である。たぶんあの形のままでは、テレビや映画でのメジャー展開はむずかしかっただろうけれど、あそこにこそ「ルパン三世」の本質がある、という気がする。けっしてヒューマニズムのきれいごとで終わらせない、非情な部分をもった、理に落ちない、不可解な部分を平気で残し、或るいい加減さを失わない、遊びの精神が、そこにはある。

自ら映画「ルパン三世」を監督した際、モンキー・パンチはこういう意味の発言をした。
「女性をほっぽりだしても自分は逃げると。そういう冷たさみたいなものをルパンはもっている。戦うときも女の子をかばわない。ハードボイルドタッチと、ゲーム的なおもしろさを出したい」
小説のアルセーヌ・ルパンもそうだけれど、元祖漫画版の「三世」にも、独特のにがにがしさがある。この「にがみ」こそが、漫画でも音楽でもなんでも、秀逸な作品を、凡庸な作品から隔てている、表現のつぼだという気がする。
(2013年5月26日)


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『ポエジー劇場 ねむりの町』
カラー絵本。ある日、街のすべての人が眠りこんでしまった。その裏には恐るべき秘密が……。サスペンス風ファンタジーの世界。


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5/25・「人間信頼者」エマーソン

2013-05-25 | 歴史と人生
5月25日は、「ニットの女王」ソニア・リキエルが生まれた日(1930年)だが、米国の思想家兼詩人、エマーソンの誕生日でもある。
エマーソンは、南北戦争のころに生きた詩人である。
自分はときどき米国の歴史書を読む。すると、エマーソンの詩が引用されているのによくぶつかる。それで、エマーソンという、精神的に大きな、えらい人がいたと知った。

ラルフ・ウォルド・エマーソンは、1803年、米国マサチューセッツ州ボストンで生まれた。父親はユニテリアン派の牧師だった。
14歳のとき、 ハーヴァード大学に入学。大学生のころから詩を書きだした。大学卒業後、エマーソンは女学校の校長を務めたり、自分の私塾を開いたりしたが、23歳のころ、体調をくずし、暖かいフロリダへ転地療養に向かった。その地ではじめて奴隷のオークションを目撃した。
マサチューセッツにもどったエマーソンは、26歳のころから教会の牧師として働きはじめた。が、やがて古い儀式を墨守するだけの教会に疑問を持つようになり、29歳のとき、牧師を辞めた。
彼はヨーロッパ旅行に出発し、J・S・ミル、ワーズワース、カーライル、コールリッジなどと交流を深め、30歳で米国に帰ってきた。帰国後、エマーソンは、講演家となった。一回の講演に10ドルから50ドルの講演料をとって、自然、人生、社会などさまざまな演題で話してまわった。そして、講演会での話を本にして出版した。
33歳のときから、彼はマサチューセッツの、志向を同じくする知識人の仲間で「トランセンダリスト(超越主義者)」のクラブを作り、定期的に集まるようになった。『ウォールデン』を書いたヘンリー・ソロー、ブロンソン・オルコット(『若草物語』の作者の父親)、ジョージ・リプリーらが顔を見せ、女性運動家のマーガレット・フラーも参加した。フラーは、彼らの雑誌「ダイヤル」の編集者としても活躍した。
講演家、著述家として有力だったエマーソンだったが、60代の後半から記憶力が衰えだし、しだいに物忘れがひどくなり、やがて自分の名前も忘れるようになった。公衆の面前に出なくなった彼は、1882年4月、肺炎により没した。78歳だった。

エマーソンは、『バガヴァッド・ギーター』を読み、インド思想に深く共鳴していた。彼は、人間一人ひとりの内にある魂、精神に絶対の信頼を置き、それを型にはめてゆがめようとする社会の制度や組織を批判的に見た。もちろん奴隷解放論者だった。
自分は、エマーソンら、トランセンダリストの考え方には、強い共感を覚える。彼らの考え方は、私心がなく、洗練されていて、人間としてとても進化していると感じる。
だから、何について考えても、つい、民族主義的、血縁主義的な傾向がにじみでてしまう、島国根性の強い日本人一般には、彼の思想は共鳴しづらい部分があるかもしれない。
エマーソンのことばに、つぎのようなものがある。

「あなた自身でいること。絶えずあなた以外の何かにならせようとしてくるこの世界で、あなた自身でいることは、最高の偉業である」
(To be yourself in a world that is constantly trying to make you something else is the greatest accomplishment.)

「きみがいったん決心する。すると、全宇宙がそれを実善しようと画策しだすのだ」
(Once you make a decision, the universe conspires to make it happen.)
力強いことばで、励まされる。
(2013年5月25日)


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『1月生まれについて』
村上春樹、三島由紀夫、モーツァルトなど1月誕生の31人の人物評論。短縮版のブログの元となったオリジナル・ロング原稿版。1月生まれの教科書。


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5/24・ボブ・ディランの耳

2013-05-24 | 音楽
5月24日は、『犬神家の一族』の作家、横溝正史が生まれた日(1902年)だが、シンガーソングライター、ボブ・ディランの誕生日でもある。
自分がボブ・ディランを聴き出したのは、学生時代だった。大好きなデヴィッド・ボウイが「ボブ・ディランに捧げる歌」を歌い、ザ・ビートルズのジョン・レノンが「悲しみをぶっとばせ」でディランの歌い方をまねしているので、聴いてみた。すごかった。

ボブ・ディランは1941年、米国ミネソタ州、ダルースで生まれた。本名は、ロバート・アレン・ジマーマンで、祖父の代にロシアからやってきたユダヤ人移民の三世である。
ラジオでブルースやカントリー、ロックを聴いて育ったロバート(ボブ)は、高校生のころからバンドを組んでいた。
18歳でミネソタ大学に入学。このころ「ボブ・ディラン」と名乗るようになった。
19歳のとき、彼は大学をドロップアウトし、ニューヨークに出た。グレニッチヴィレッジのクラブに出演しだした。自作の曲を、フォークギターを弾き、フォルダーで支えたハーモニカを吹きながら、独特のだみ声で歌う。ディランの音楽スタイルは常識破りに斬新で、個性的だった。それまで、歌い手には「美声」が求められたが、ディランはそれを「ハートのこもった声」に置き換えた。これは音楽シーンの革命的事件で、ジミー・ヘンドリックスも、ディランの歌声に励まされて、歌うようになったと言っている。
20歳のとき、最初のアルバム「ボブ・ディラン」を発表。
22歳で発表したセカンド・アルバム「フリーホイーリン・ボブ・ディラン」は歴史的な名盤となった。アルバム中の曲「風に吹かれて」は大ヒットし、公民権運動を象徴するプロテスト・ソングとなった。以後「時代は変る」「はげしい雨が降る」「ライク・ア・ローリング・ストーン」「ガッタ・サーヴ・サムバディ」など、メッセージ性の強い名曲を発表しつづけ、2013年現在も曲を作り、コンサートツアーを続けている。現役で、かつ伝説的。生ける音楽の神さまである。

自分はディランが好きで、CDもたくさん持っている。ディランの歌は、やはり歌詞が秀逸だと思う。彼の書く歌詞は、シンプルか難解かの両極端で、聴き手に多面的な解釈を許し、強い共感を呼ぶ。そこが魅力だと思う。「自由の鐘」「アイ・シャル・ビー・リリースト」「コーヒーもう一杯」「ラヴ・シック」など、自分は好きである。
ディランの方法論、スタイルは画期的で、ビートルズやボウイ、吉田拓郎はもちろんのこと、現代のミュージシャンで、彼になんらかの影響を受けていない人はいない、それくらい影響力のあった人だと思う。近年はノーベル賞候補とささやかれている。

ザ・ビートルズの4人が、はじめてマリファナを吸ったのは、二回目の訪米の際、ボブ・ディランに会ったときだという。初対面のとき、ディランのほうでは、ビートルズの面々は、とうにマリファナなど経験ずみだろうと勘違いしていたそうで、なぜかというと、ビートルズの大ヒット曲「抱きしめたい」の歌詞のなかに「I get high, I get high(ぼくはハイになる、ハイになる)」という一節があるからだった。これについてジョン・レノンがディランに説明した。「いや、あそこは、I can't hide, I can't hide と言ってるんだよ」(Barry Miles, Paul McCartney: Many Years from Now, Henry Holt Company)
自分は、この話を聞いて愉快だった。そして、ふだんから英語を話している音楽の神さま、ディランの耳でさえ、聞きまちがいはあるんだぁ、と、なんとなくほっとした。
(2013年5月24日)


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5/23・マーガレット・フラーの先進性

2013-05-23 | 歴史と人生
5月23日は、「ちいさい秋みつけた」の詩人、サトウハチローが生まれた日(1903年)だが、米国の女性運動の先駆、マーガレット・フラーの誕生日でもある。
マーガレット・フラーは、米国初の女性編集者である。
自分は米国のコミュニティー史が専門で、その延長で彼女のことを知った。彼女は、彼女が生きた時代よりずっと先を走っていた女性だった。

サラ・マーガレット・フラーは、1810年、マサチューセッツ州ケンブリッジポートで生まれた。父親は後に国会議員になった人で、娘にきびしく、みずから教育をほどこした。彼女が5歳のころから英語とラテン語、さらにギリシャ語、古代ローマ史などを教えた。きびしい家庭学習のストレスで、彼女は悪夢にうなされ、眠ったまま歩きまわったという。
9歳のころから、彼女は学校へ通ったが、16歳のとき、学校をやめ、家で独学しだした。
26歳のころから学校教師をした後、30歳のときに、詩人のラルフ・エマーソンが出していた、トランセンダリスト(超越主義者)の雑誌「ダイヤル」の編集者になった。
35歳のときに著書『一九世紀の女性』出版。
「自分の真実のありったけをこれに注ぎ込んだ。わたしは足跡を地面に残したと思う」
と彼女自身が語ったこの書は、米国の民主主義のなかで女性が果たしてきた役割について述べ、今後の改善を提案したものだった。この書は、世界のフェミニズム(男女同権主義)の最先端をゆく米国で出た、最初のフェミニズムの本とされている。
彼女は34歳のとき、ニューヨークへ出て「ニューヨーク・トリビューン」紙の編集者になり、彼女はそこで文芸批評を担当した。
36歳のとき、フラーは、トリビューン社史上最初の女性海外特派員として、ヨーロッパに派遣された。ヨーロッパで彼女は、イタリア人の革命家と知り合い、恋に落ちた。彼女は38歳で男の子を産んだ。
1950年5月、彼女ら夫妻は、まだ2歳にならない息子を連れ、米国行きの船に乗った。その船がニューヨークの沖合にさしかかったとき、座礁した。ニューヨークのロング・アイランドの大西洋側にファイヤー・アイランドという細長い土地がある。そのファイヤー・アイランドから百メートルも行かない、目と鼻の先で起きた海難事故だった。
乗客や乗組員の一部は、船を捨て、泳いで岸にたどりついた。が、フラーたちは船に残っていた。そこへ大波が襲い、彼女ら家族三人は船上から消えた。1850年6月、フラーが40歳のときのことだった。

マーガレット・フラーが生きた南北戦争前夜の時代の一般的な風潮は、
「女に学校教育は必要なく、家事と子育てをしていればいい。女に投票権など論外」
というものだった。そんななか、フラーは、女性にも教育が必要で、参政権が必要だし、もっと女性が社会進出するべきだと訴え続けた。彼女は言っている。
「女性にどんな仕事ができるのかと問われたなら、わたしは答えます、なんでもと……船長だって。女性がその仕事を立派にこなすことを、わたしはまったく疑いません」

日本はフェミニズムについては、先進国のなかでも、ひじょうに遅れている。となりの韓国では、女性大統領が誕生しているというのに、日本の男性政治家連中の頭のなかは、
「女は風俗で働いて、外国人兵士の息抜きとなればいい」
というレベルでとどまっているようだ。
一部日本人男性のフェミニズムに関する意識は、ひょっとすると、南北戦争ごろの米国人一般のレベルより、さらに遅れているのかもしれない。
(2013年5月23日)


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