1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

7月27日・デュマ・フィスの体験

2024-07-27 | 文学
7月27日は、『路傍の石』の作家、山本有三(1887年)が生まれた日だが、仏作家、アレクサンドル・デュマ・フィスの誕生日でもある。小デュマとも呼ばれる。

アレクサンドル・デュマ・フィスは、1824年、フランスのパリで生まれた。父親は『モンテ・クリスト伯(巌窟王)』『三銃士』を書いた文豪アレクサンドル・デュマで、父子が同じ名前なので識別のために、「大デュマと小デュマ」、あるいは「デュマ・ペール(父)とデュマ・フィス(息子)」などと呼ばれる。
デュマ・フィスの母親はお針子で、フィスは私生児だった。
「この世のどこかに五百人からの子どもがいると思う」
と豪語する父親の、数多いる息子のひとりだったが、デュマ・フィスは父親に息子として認知され、かわいがられた。寄宿舎つきの私塾に入り、そこで「私生児」といじめられた彼は、学校を出ると父親に引き取られ、この父ならではの英才教育を受けた。
「お前もアレクサンドル・デュマの息子ともなると、いろいろな世間の体面というものがあるんだぜ。まず、一流の料亭に顔を出さなくてはならない。遊びごとはどんなものでも断ってはならない。誰もがうらやむような情婦たちをもたなくてはならない。つまり、新聞に名の出るような人間の仲間にならなくてはいけないのだ。頼むから、人目につかないような人間になって、おやじに恥をかかしてくれるなよ」(ガイ・エンドア著、河盛好蔵訳『パリの王様』創元社)
デュマ・フィスは父親の期待に応え、父親のくれるお金を湯水のように使い、借金をして放蕩を尽くす遊び人となった。そうして、20歳のとき彼は、劇場でマリー・デュプレシーという同い年の女性と出会い、恋に落ちた。マリーは金持ちや貴族の愛人をへて高齢のロシア貴族に養われていた娘で、二人は恋仲となった。
そのころ、デュマ・フィスは借金返済のために小説を書いては、うまくいかず落胆していた。そして好きあっていたマリーと21歳のとき別れてしまった。彼は別れの手紙に書いた。
「ぼくはじぶんの望むとおりにあなたを愛するほど金持ちでもありませんし、あなたの望まれるとおりにあなたを愛するほど貧乏でもありません」(デュマ・フィス著、西永良成訳『椿姫』「年譜」角川文庫)
彼が22歳のとき、結核のためマリーが危篤となり、それを伝え聞いた彼は旅先から見舞いの手紙を書き送ったが、ほどなくしてマリーは没した。
24歳のときデュマ・フィスは、マリーとの恋を題材にした小説『椿姫』を一カ月で書きあげた。これを発表すると、すなわち、大ベストセラーとなった。
成功した作家となったデュマ・フィスは、『椿姫』を戯曲化し、戯曲『半社交界』『金銭問題』『私生児』『放蕩親父』を書き、レジオン・ドヌール勲章を受け、アカデミー・フランセーズ会員となり、政変のあおりを受けて破産した父親の晩年の面倒をみた。そうして、1895年11月、パリ西方のマルリー=ル=ロワで没した。71歳だった。

『椿姫』は子どものころ読み、感銘を受けた。グレタ・ガルボ主演の映画もみた。みるたびに感動する。デュマ・フィスは言っている。
「ものを書くのはたやすいことだ。二十歳のとき少し辛い体験をする。それだけで充分だ。あとは体験の辛さをそのまま語ればいい」(同前『椿姫』「解説」)
そうはいうものの、無論たやすい業ではない。
(2024年7月27日)



●おすすめの電子書籍!

『世界文学の高峰たち』(金原義明)
世界の偉大な文学者たちの生涯と、その作品世界を紹介・探訪する文学評論。ゲーテ、ユゴー、ドストエフスキー、ドイル、プルースト、ジョイス、カフカ、チャンドラー、ヘミングウェイなどなど。文学の本質、文学の可能性をさぐる。


●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

7月26日・カール・ユングの夢

2024-07-26 | 科学
7月26日は、劇作家、バーナード・ショーが生まれた日(1856年)だが、心理学者、カール・ユングの誕生日でもある。

カール・グスタフ・ユングは、1875年、スイス、ボーデン湖畔のケスヴィルで生まれた。父親はプロテスタントの牧師だった。
バーゼル大学の医学部に進んだカールは、ゲーテ、カント、ニーチェなど著作を読みふける学生だった。彼は精神医学を専攻し、チューリッヒ大学のブルクヘルツリ精神病院の助手になり、27歳のころ『いわゆるオカルト現象の心理と病理』を出版。
病院の精神科医局長だった31歳のとき、当時、批判の的だったジクムント・フロイトを弁護する論文を発表し、学者たちから非難されたが、これをきっかけにフロイトとの文通がはじまった。
その後、ユングはフロイトといっしょにアメリカ旅行をする親しい間柄となったが、やがてユングはフロイトの学説に異を唱えだし、37歳で『リビドーの変容と象徴』を出版。精神病の原因を性欲に求めるフロイトの解釈を、原因の一部にすぎないと批判。
38歳のとき、ユングはフロイトから訣別状を受けとり、二人の決裂は決定的となった。
ユングは精神病者の妄想と神話との類似性を比較し、アフリカを旅行し、易や道教など中国の思想に触れ、ヨーロッパ以外の文化に触れることで、無意識の領域について研究を深めていった。スイス連邦工業大学やバーゼル大学の教授を務め、ハーバード大学やジュネーヴ大学の名誉博士号を受け、1961年6月、チューリッヒで没した。85歳だった。

フロイトはそれまで意味がないとされていた夢を検討し、無意識の世界に光をあてたが、ユングはそれを発展させ、無意識の領域を広げた。ユングによれば、わたしたちは無意識の領域で、人類の太古の記憶や未来ともつながっているという。

「グレート・マザー」「シンクロニシティ」など、ユングが提議した問題には興味深いものが多いけれど、読んだなかでは、つぎのエピソードがいちばん強く印象に残っている。

「私の同僚の医師の場合です。彼は私よりもすこし年上で、たまに一緒になると、きまって私の『夢判断』をからかっておりました。ある日街で出会いますと、彼は私にこう話しかけました『やあ、お元気ですか。相変らず夢判断ですか。ときに、ぼくはこの間馬鹿馬鹿しい夢を見ましたよ。こいつもなにかの意味があるんですかな。』彼が見た夢は次のようなものでした。『私は高山の険しい雪渓の上を登っていた。だんだん上へ登ってゆく。すばらしい快晴だ。登るにつれて、いよいよ気分がよくなる。こうしていつまでも登りつづけられたらなあ、と私は思った。頂上へへたどりついたときの幸福感と優越感は実に大したもので、天まで登れそうな気がしてきた。事実、私は空中を登っていった。わたしは完全な恍惚感の中で目がさめた。』
 私は彼にこう答えました。『困りましたね。あなたはどうやら登山は止められないようです。今後独りでゆくことだけは、ぜひとも止めて下さいよ。ゆくときには、案内人を二人連れていって下さい。案内人には絶対服従を誓うことですね。』彼は笑い出して、『むずかしい相談ですね。』といって別れました。」(カール・グスターフ・ユング著、江野専次郎訳『ユング著作集3 こころの構造』日本教文社)
同僚は、ユングから忠告を受けた三カ月後、案内人を連れずに登山して転落死した。
(2024年7月26日)



●おすすめの電子書籍!

『心を探検した人々』(天野たかし)
心理学の巨人たちとその方法。心理学者、カウンセラーなど、人の心を探り明らかにした人々の生涯と、その方法、理論を紹介する心理学読本。パブロフ、フロイト、アドラー、森田、ユング、フロム、ロジャーズ、スキナー、吉本、ミラーなどなど。われわれの心はどう癒されるのか。


●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

7月25日・バイエルの影響

2024-07-25 | 音楽
7月25日は、ピアニスト、中村紘子(なかむらひろこ)が生まれた日(1944年)だが、ドイツのピアニスト、フェルディナント・バイエルの誕生日でもある。

フェルディナント・バイエルは、1806年、当時ザクセン王国であったドイツのクヴェアフルトで生まれた。
父親は仕立て屋の親方で、母親はパイプオルガン演奏者だった。
祖父が教会のパイプオルガン演奏者で、母親もオルガニストという音楽エリートの家系に生まれたフェルディナントは、ライプツィヒの神学校で神学を学び、聖職者のコースを進んだが、神学と並行して和声学やオルガン、ピアノの教育も受けた。
16歳のとき、父親が没し、これを機に父系から母系へ、音楽のほうへ身を入れ出した。
20代のころは、作曲家と演奏者として、各地を演奏してまわっていた。
28歳のころ、マインツに引っ越し、結婚したために経済的安定をはかる必要もあり、ピアノ教師になった。
その後、音楽出版社と契約して、そこの専属の作曲家となった。
バイエルは、オリジナル作品の楽譜を書くとともに、既存の楽曲をアレンジ(編曲)して、子どものピアノレッスン用の楽譜など、一般向けに編曲したピアノ曲の楽譜をたくさん書いた。
軽音楽、大衆音楽をピアノに取り入れた彼は成功した編曲者として生き、1863年5月に没した。56歳だった。

バイエルは、ショパン、シューマン、ワーグナーといった音楽家たちと同時代の人である。すると、ロマン派の時代にポピュラーを志向した音楽家ということなる。
バイエルが40代半ばのころに発表した「バイエル教則本」は、子どもなど、はじめてピアノを学ぶ初心者のための楽譜が100曲以上収められた本だった。
これが米国に伝わり、それが明治時代に米国人によって紹介され、「バイエル教則本」として日本に伝えられた。
おそらくこの時点ですでに、バイエルがドイツで出版したものからだいぶ内容が変わり、アメリカナイズされていたであろうが、これが日本人音楽家たちによってさらに、さまざまに編集され、曲が削られたり、別の曲が加えられるなどして日本仕様となって進化しつつ「バイエル」は極東の島国に普及していった。
第二次大戦後の復興時代から日本が立ち上がり、高度成長期となり、ピアノが普及していくのと並行して「バイエルピアノ教本」も日本列島に浸透していった。
教則本はほかにもあるが、やはりピアノをはじめて学ぶ日本人は、バッハでもモーツァルトでもベートーヴェンでもショパンでもなく、「バイエル」から、ということになった。
そういう意味では、日本のピアニストにもっとも影響力があった西洋音楽家は、じつはフェルディナント・バイエル、その人なのかもしれない。

ちゃんと「バイエル」で習ったことがない。
そんな自己流で弾く自分でも(家がせまいのと、お金がないので)電子ピアノをもっていて、ときどき弾く、というよりは触るのだけれど、おびただしい回数のミスタッチでポピュラーを弾きながら、自分もバイエルの影響下にあるのかなぁなどとぼんやり考える。
左手で伴奏、右手でメロディーを引くスタイルは、バイエル教本の特徴だそうである。
いや、いまの自分にバイエルを語る資格はない。ちゃんと語れるよう、バイエルからはじめなくては。
(2024年7月25日)



●おすすめの電子書籍!

『大音楽家たちの生涯』(原鏡介)
古今東西の大音楽家たちの生涯、作品を検証する人物評伝。彼らがどんな生を送り、いかにして作品を創造したかに迫る。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ショパンから、シェーンベルク、カラヤン、ジョン・ケージ、小澤征爾、中村紘子まで。音の美的感覚を広げるクラシック音楽史。


●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

7月24日・アレクサンドル・デュマの決算

2024-07-24 | 文学
7月24日は、日本の文豪、谷崎潤一郎が生まれた日(1886年)だが、フランスの文豪「パリの王様」アレクサンドル・デュマの誕生日でもある。

アレクサンドル・デュマは、1802年に、フランスのヴィレール・コトレで生まれた。
クレオール(白人と黒人の混血)だった父親は、その腕力と勇敢さを軍隊で発揮し、折からのフランス革命で、将軍にまで出世した。しかし、ナポレオンに反乱分子とみなされ、元将軍の父親は不遇のうちに、アレクサンドルが4歳のとき、世を去った。
アレクサンドルの母親はタバコと塩の販売店を営んで子どもたちを養った。
勉強は苦手だったが、本好きで活発な少年だったアレクサンドルは、17歳のとき、ソワッソンの街で「怪奇ハムレット」という芝居を観て感動。戯曲家になることを決意。役場の見習いをしながら、デュマは文学や歴史を勉強した。
20歳のとき、50フランの全財産をポケットに入れて、デュマはパリに出た。頼りは、持参してきた生前の父親宛ての手紙の束で、その手紙の送り主をさがし、訪ねては就職を頼んだ。熱心な就活の甲斐あって、デュマは貴族の秘書の仕事にありつき、書類の清書をしながら、歴史と演劇の勉強をし、時間を見つけては戯曲を書いた。
27歳のとき、戯曲『アンリ三世とその宮廷』が劇場にかかり、デュマは喝采を浴びた。続いて『クリスティーヌ』『アントニー』を書き、演劇界で彼は大成功を収めた。
一方でデュマは、新聞紙上に『モンテ・クリスト伯(巌窟王)』『三銃士』『王妃マルゴ』『王妃の首飾り』などを連載し、彼の小説が載った新聞はどれも飛ぶように売れた。
デュマはべつの執筆者に原稿を書かせ、自分が手を入れて仕上げるという共同作業によって膨大な作品群を生産していった。彼はまたみずから劇場経営にも乗りだし、莫大な収入を得たデュマは、豪邸を建て、そこに毎夜おおぜいの客を呼んでは、贅の限りをつくした料理と酒とでもてなし「パリの王様」と呼ばれた。
しかし、やがて政情が変化し、演劇が下火になると、金回りは急に悪化し、巨額の負債を抱えるようになり、49歳の年には裁判所から破産宣告を受けた。
58歳のころ、出版契約で思わぬ大金を手にすると、彼はそのお金で船を建造し、19歳の愛人を連れて地中海をイタリアへ向けて出航した。彼らはシシリア島でガリバルディ軍の歓迎を受け、もともと人民解放主義者だったデュマは感激し、船と大金をガリバルディ軍に提供し、みずからガリバルディの赤シャツ隊に加わった。その後、ガリバルディが、自分の治世下にあったナポリやシシリアを王に献上し、王政の下にイタリア統一が成ると、デュマは裏切られた失意のうちに、追われるようにフランスへ帰国した。
ほとんど無一文になったデュマは息子の家に身を寄せた。息子は、父親と区別するために「小デュマ」と呼ばれる『椿姫』の作者である。外出しなくなった大デュマは、外出用の服のポケットにナポレオン金貨一枚と小銭があるのを見つけ、息子にこう言った。
「いいかい、それは五十年前にお父さんがパリにやってきたときに持っていたのと同じ金額なんだよ。だから、五十年間さんざんぜいたくをしてきたが、一文も減らなかったことになる。昔も今も同じだけ財産があるんだ。そのおれを浪費家などといって非難するやつは誰だ!」(ガイ・エンドア著、河盛好蔵訳『パリの王様』講談社)
1870年12月、デュマは没した。68歳だった。

小学校のころ『三銃士』『鉄仮面』などを愛読していた。胸をわくわくさせながらページをめくったあの感覚は、いまでも忘れない。でも作者デュマの人生はそれ以上だった。デュマほど魅力的な生き方をした人はめったにいない。
(2024年7月24日)



●おすすめの電子書籍!

『世界文学の高峰たち 第二巻』(金原義明)
世界の偉大な文学者たちの生涯と、その作品世界を紹介・探訪する文学評論。サド、ハイネ、ボードレール、ヴェルヌ、ワイルド、ランボー、コクトー、トールキン、ヴォネガット、スティーヴン・キングなどなど三一人の文豪たちの魅力的な生きざまを振り返りつつ、文学の本質、創作の秘密をさぐる。


●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

7月23日・幸田露伴の知

2024-07-23 | 文学
7月23日は、推理作家、レイモンド・チャンドラー(1888年)が生まれた日だが、文豪、幸田露伴の誕生日でもある。

幸田露伴は、慶応3年7月23日(1867年8月22日)に江戸で生まれた。本名は幸田成行(しげゆき)。幼名を鉄四郎といった。父親は江戸幕府の家臣だった。
小さいころ、病弱だった成行は、塾に通って素読を学び、草双紙、読本を愛読した。中学では尾崎紅葉と同級生だったが、家計が苦しくなり退学。
後に、現在の青山学院大学の前身である東京英学校に入学したが、これも中退した。
14歳のころ、給費生として入学した電信技術の学校をへて、電信技師の公務員として北海道の余市に勤務した。
しかし、文学への思いやまず、20歳のとき、とつぜん辞職し、蒸発した。
「身には疾あり、胸には愁あり、悪因縁は逐へども去らず、未来に楽しき到着点の認めらるるもなく、目前に痛き刺激物あり、欲あれども銭なく、望みあれども縁遠し、よし突貫して此逆境を井でむと決したり。五六枚の衣を売り、一行李の書を典し、我を愛する人二三にのみ別をつげて忽然出発す。」(「突貫紀行」『露伴全集 第十四巻』岩波書店)
放浪しながら東京にたどりつき、父親がやっていた紙屋を手伝いながら、読書をし、小説を書いた。
22歳のとき海外を舞台にした小説『露団々』を発表。これが出世作となり、続けて『風流佛』『五重塔』など、文学史上に残る名作を書いて、大作家となった。明治の一時期は、かつての同級生、尾崎紅葉とともに絶大な人気を誇り「紅露時代」と呼ばれた。
小説のほか、史伝、評論、注釈書も多く著し、41歳の年から乞われて京都帝国大学で教鞭をとり、国文学を講義したが、辞職。以後、研究と執筆に専念した。
広く尊敬を集めていた幸田露伴は、1937年(昭和12年)に文化勲章が設けられると、その第1回の受賞者に選ばれた。
1947年7月、千葉の市川で没した。80歳だった。

幸田露伴の小説『運命』『連環記』を読み、世の中にはこんな小説もあるのかと驚いた。名文として名高い『五重塔』の嵐の描写なども空前絶後である。
谷崎潤一郎が、現在の日本で文語文を自由自在に書ける人間は幸田露伴だけなのではないかと書いていたけれど、まったくその通りで、露伴の文語文を読むと、まさに自由闊達に、血わき、肉おどる、感情のこもった文章がおもしろく、また、みごとな美しさでもって並んでいるのだった。もしも一字一句訂正するところのない完璧な文章というものがあるとしたら、幸田露伴の文章を指すのだろう。

日本と中国の古典、歴史に精通する博覧強記の上に、露伴の場合は、自分の頭でちゃんと考えて、古典にこうあるけれど、おそらくこれはこちらの文献を写したもので、もとの文献にしても、これこれこういう理由でまちがっていて、おそらく実情はこうだったろうと推定するというレベルまで突き詰める知性の高さに驚かされる。
(2024年7月23日)



●おすすめの電子書籍!

『小説家という生き方(村上春樹から夏目漱石へ)』(金原義明)
人はいかにして小説家になるか、をさぐる画期的な作家論。村上龍、村上春樹から、団鬼六、三島由紀夫、川上宗薫、江戸川乱歩らをへて、鏡花、漱石、鴎外などの文豪まで。新しい角度から大作家たちの生き様、作品を検討。読書体験を次の次元へと誘う文芸評論。


●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする