1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

5月31日・ジョン・ボーナムの破壊

2024-05-31 | 音楽
5月31日は、米国の国民的詩人、ウォルター・ホイットマンが生まれた日(1819年)だが、ロックバンド「レッド・ツェッペリン」のドラマーのジョン・ボーナムの誕生日でもある。ロック界の最高のドラマーの一人である。

ジョン・ヘンリー・ボーナムは、1948年、英国イングランドのレディッチで生まれた。
父親は建築会社を経営していた。5歳で空箱やコーヒー缶で自分でドラムセットを創って叩いていたジョンは、10歳のとき、母親にスネアドラム(サイドドラム)を買ってもらい、15歳のとき、父親にドラムセットを贈られた。
16歳で義務教育を終えたジョンは父親の会社で大工の見習いになった。見習いをしながら、地元のいくつかのバンドにドラマーとして参加し、ドラムを叩いた。
ボーナムはドラムのレッスンを受けたことがない自己流のドラマーだった。あまりに激しく叩くので、ドラムヘッド(ドラムの打面の皮)を破ったり、やかましすぎてクラブから出入り禁止になったりし、英国一大きな音で叩くドラマーと呼ばれた。
20歳のとき、新しく結成するいバンドのためのドラマーをさがしていたギタリストのジミー・ペイジと出会い、ペイジに惚れ込まれた。ボーナムは気が進まず、加入を断っていたらしい。ボーカル担当のロバート・プラントは、ボーナムに8通の電報を打って口説き、バンドのマネージャーが、それに追い打ちをかけ、ボーナムに40通の電報を送りつけて口説いた。ついに口説き落とされたジョン・ボーナムと、ベーシストのジョン・ポール・ジョーンズを加え、新バンド「レッド・ツェッペリン」が結成された。
たしか、バンド名「レッド・ツェッペリン(鉛の飛行船)」は、ロックバンド「ザ・フー」のドラマー、キース・ムーンがよく言っていた、
「鉛の飛行船みたいに、どうせすぐ落ちるさ」
というジョークからの命名だったと記憶する。
ボーナムが20歳のとき結成されたツェッペリンは、北欧や米国をライブ・ツアーしてまわり、ライブで評判を高め、アルバムを売っていったライブバンドだった。それまでのシングルヒットを出して有名になっていく方法論とは、まったくちがった売り出し方をしたバンドだった。ツェッペリンは世界的なバンドとなり、世界をツアーしてめぐった。一台のバスドラムで叩いているとは信じられない高スピードで打ち鳴らされるボーナムのドラムは世界のロックファンのあいだで大評判となり、とくに三連符の一拍目を抜かした「頭抜き3連」はボーナムの代名詞となった。
ところで、ボーナムは飛行機恐怖症だった。彼は飛行機に乗る恐怖を忘れるために、アルコールに頼るようになり、飲酒量はしだいに増え、アルコール依存症になった。
1980年9月、ボーナムはウォッカを浴びるほど飲んで練習スタジオ入りし、リハーサルの後に入ったジミー・ペイジの家でも飲みつづけた。正体をなくして寝かされたベッドで翌日、吐瀉物をのどを詰まらせ窒息死した遺体となって彼は発見された。32歳だった。
バンドの柱だったボーナムの死により、伝説のロックバンド「レッド・ツェッペリン」はただちに解散した。

ツェッペリンの音楽を聴くたびに、ジョン・ボーナムはすごいドラマーだったと、あらためて痛感する。彼が亡くなったのは、ジョン・レノンが射殺される3カ月前で、1980年の後半はロックファンにとって悪夢が続いた。悪いことは、続く。
(2024年5月31日)



●おすすめの電子書籍!

『ロック人物論』(金原義明)
ロックスターたちの人生と音楽性に迫る人物評論集。エルヴィス、ディラン、レノン、マッカートニー、ペイジ、ボウイ、スティング、マドンナ、ビョークなど31人を取り上げ、分析。意外な事実、裏話、秘話、そしてロック・ミュージックの本質がいま解き明かされる。


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5月30日・ベニー・グッドマンの響き

2024-05-30 | 音楽
5月30日は、芸術家ヒロ・ヤマガタ(1948年)が生まれた日だが、「キング・オブ・スウィング」ベニー・グッドマンの誕生日でもある。

ベニー・グッドマンは、1909年、米国のシカゴで生まれた。本名は、ベンジャミン・デイヴィッド・グッドマン。父親はワルシャワからやってきたユダヤ人移民だった。貧しい家庭の、12人きょうだいの9番目の子として生まれたベニーは、11歳のころからクラリネットを習いだし、やがてバンドで演奏をはじめた。
12歳の年にプロ・デビュー。高校に入学する前の年のことだった。
高校時代も、タンスホールのバンドメンバーとして演奏を続け、17歳のときにはじめてレコーディングに参加した。
そのころ、もともと洋服の仕立屋だった彼の父親は、家畜処理場で精製前のラードをすくう仕事についていて、それはひどいにおいがからだにつく、ひどく消耗する仕事だったので、ベニーは、自分たち子どもが稼げるようになったのだから、その仕事を辞めるように勧めていた。しかし父親は、
「お前は自分のことは自分で面倒みろ。おれも自分のことは自分で面倒みるさ」
と言って、仕事を辞めなかった。そんな矢先、父親は路面電車を降りたところをクルマにはねられ、死亡した。ベニーが17歳のときだった。
ベニーは19歳のころ、所属する楽団とともにニューヨークへ本拠地を移し、その後、ベニーは楽団を離れてソロとなって活動をはじめた。
1929年の大恐慌に際して、20歳のグッドマンは友人であるフレッチャー・ヘンダーソンを助け、彼の楽譜を買いとり、彼のバンドメンバーを雇い入れた。そうして、しだいにヘンダーソンのバンドは、グッドマンのバンドとなっていった。
28歳のとき、グッドマンはバンドを率い、カーネギー・ホールでコンサートを開催。この有名なホールで、ジャズコンサートをおこなった最初のミュージシャンとなった。
ラジオ放送やコンサートなどで人気を博し、スイングの全盛時代を担い、「キング・オブ・スウィング」と呼ばれた。
最晩年まで演奏を続けたグッドマンは、1986年6月、心臓発作により、ニューヨークの自宅で没した。77歳だった。
代表的な楽曲に「シング・シング・シング(Sing Sing Sing)」「身も心も」「サヴォイでストンプ」「素敵なあなた」「可愛い娘をみつけた」「その手はないよ」などがある。
「シング・シング・シング」は、日本人にとって、戦後間もない時代、米国文化、デモクラシーの象徴である。

グッドマンは、大学などの教育機関を資料で検討して、ひそかに寄付を続けていた。なぜ寄付を秘密にするのかと問われると、グッドマンはこう答えたという。
「おおやけにすると、大学関係者が資料を持って殺到してくるからね」

グッドマンが全盛だった1930年代当時の米国では、ジムクロウ法による人種隔離政策をとる南部ではもちろん、北部でも、白人と黒人が同じバンドで演奏をすることはなかった。しかし、グッドマンはその習慣を打ち破り、黒人のドラマーやギタリストを採用して、自分のバンドでいっしょに演奏した。こうした勇気ある行動は、野球のメジャーリーグに初の黒人選手ジャッキー・ロビンソンが登場する10年以上も前で、画期的なものだった。
(2024年5月30日)



●おすすめの電子書籍!

『大音楽家たちの生涯』(原鏡介)
古今東西の大音楽家たちの生涯、作品を検証する人物評伝。彼らがどんな生を送り、いかにして作品を創造したかに迫る。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ショパンから、シェーンベルク、カラヤン、ジョン・ケージ、小澤征爾、中村紘子まで。音の美的感覚を広げるクラシック音楽史。


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5月29日・ジョン・ケネディの活力

2024-05-29 | 歴史と人生
5月29日は、歌手の美空ひばりが生まれた日(1937年)だが、35代目の合衆国大統領だったジョン・F・ケネディの誕生日でもある。

ジョン・フィッツジェラルド・ケネディは、1917年、米国マサチューセッツ州のブルックラインで生まれた。父親はルーズヴェルト大統領やマフィアともつながりがあり、駐英大使を務めた政商だった。ケネディ家はアイルランド系移民の家系で、ジョンは移民4世だった。ジョンはおおぜいいる兄弟姉妹のなかの次男だった。
ジョン・ケネディは、生まれつき背中に障害があり、小さいときからからだが弱かった。彼はハーバード大学を卒業すると、24歳で海軍に入隊した。当初は陸軍志望だったが、健康診断ではねられ、父親のつてで海軍に入れてもらったのだった。
太平洋戦争中、ケネディは南太平洋で魚雷を搭載した哨戒艇の艇長を務めていた。が、哨戒艇が日本の駆逐艦と衝突して沈没。ケネディは、海に投げだされた部下のからだをロープで結び、数キロメートルを泳いで近くの小島にたどりつき、九死に一生を得た。
大戦後は、ケネディは父親の意向で、政界に進出した。長男のジョゼフ・ジュニアがヨーロッパ戦線で爆撃機で出撃し戦死したため、政界に野心をもつ父親の期待が、次男ジョンの肩の上にのしかかってきたのだった。
ジョンは29歳で下院議員。35歳で上院議員に当選。43歳で合衆国大統領になった。初のカトリック教徒の大統領だった。
当時は、東側の共産圏と、西側の資本主義圏とがにらみ合う冷戦時代で、キューバ危機、ベトナム問題、ベルリンの壁など、外交問題の大事件が頻発し、国内的には公民権運動が盛り上がっていた 激動の混乱期だった。核戦争一歩手前だったキューバ危機を乗り越え、月面着陸を目指すアポロ計画を始動させ、部分的核実験禁止条約に署名したケネディ大統領は、1963年11月、テキサス州ダラスでパレード中に狙撃され、没した。46歳だった。

ジョン・ケネディは、子どものころのヒーローだった。ケネディとその周辺については、小学生のころからいろいろ読んできた。ケネディ著『勇気ある人びと』ももっている。

一説によると、1960年の大統領選挙の際にケネディ陣営は大がかりな投票操作をおこない、それで大統領になったので、ほんとうは対立候補のニクソン共和党候補が当選していたらしい。しかし、冷戦時代のことで、国際的醜聞を恐れたアイゼンハワー大統領が怒り狂うニクソン候補をなだめ、あえて異を唱えさせなかった経緯があった。

上の世代の、たとえば団塊の世代などは、クルマと冷蔵庫とテレビに代表される1950年代アメリカの豊かさにあこがれたが、むしろ1960年代の混乱する熱いアメリカにあこがれる世代には、ジョン・ケネディがそのシンボルだった。
たった3年足らずの大統領就任期間中に、ケネディ政権はこれでもかというほどたくさんの問題にぶち当たった。ピッグス湾事件など、ケネディ政権による謀略が失敗、露顕した自業自得の案件もあったが、そうした汚点を含めてエネルギッシュだった。

皮肉でなく、こう考えたい。子どものころからからだが弱く、背中に痛みを抱えながら、そんな素振りをつゆとも見せず、いつもにスポーツマン然としてにこやかに笑い、大統領としての激務をこなしながら、つねに性欲旺盛で、寸暇を惜しんでさまざまな女性との情事を繰り返していた、あのジョン・ケネディのバイタリティー。あの目茶苦茶で若々しいエネルギーこそが、世界中の人を引きつけたのだ、と。
彼の娘が駐日大使を務め、恋ダンスを踊ったのも、感慨深かった。
(2024年5月29日)



●おすすめの電子書籍!

『大人のための世界偉人物語2』(金原義明)
人生の深淵に迫る伝記集 第2弾。ニュートン、ゲーテ、モーツァルト、フロイト、マッカートニー、ビル・ゲイツ……などなど、古今東西30人の生きざまを紹介。偉人たちの意外な素顔、実像を描き、人生の真実を解き明かす。人生を一緒に歩む友として座右の書としたい一冊。


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5月28日・中沢新一の参加

2024-05-28 | 思想
5月28日は、007号ジェイムズ・ボンド・シリーズを書いたイアン・フレミングが生まれた日(1908年)だが、宗教学者の中沢新一の誕生日でもある。

中沢新一は、1950年、山梨で生まれた。父親は民族学者の市会議員だった。
東京大学の大学院をへて、中沢は29歳のとき、ネパールへ渡り、チベット仏教の行者に師事し、瞑想の修行をし、チベット密教について学んだ。
帰国し、33歳のとき、チベットでの体験をもとに書いた評論的エッセイ『チベットのモーツァルト』を発表。一躍、新しいアカデミズムの寵児として脚光を浴び、さかんにテレビや雑誌に東条した。
30代後半には、当時マスコミに批判されていた新興宗教団体「オウム真理教」を宗教学の立場から弁護していたが、彼が45歳の年に、オウム真理教が地下鉄サリン事件を起こし、ほかにも同教団による誘拐、拉致、監禁、殺人事件が明るみに出るよおよび、中沢も批判の矢面にさらされた。
アカデミズムの世界での活動のほか、近年ではエネルギー問題、政治問題についての発言、活動もする日本を代表する知性のひとりである。
著書に『バルセロナ、秘数3』『森のバロック』『ゲーテの耳』など。

『チベットのモーツァルト』のなかに、30歳の中沢新一がチベット密教の修行をしたときの体験が書かれていて、とても興味をひかれた。
マリワナやLSDなどのドラッグを使わずに、瞑想だけで意識の深層へ入っていこうとする修行で、これを「ポワ」と呼ぶ。
「『ポワ』は『意識を身体の外に送り出し、死の状態をコントロールする』ための激しいテクニックだ。」(中沢新一『チベットのモーツァルト』講談社学術文庫)
かつて、オウム真理教の内部では、暗殺指令を下すときに、
「あいつをポワしろ」
などと、隠語として使われていたようだけれど、それはさておき、このポワの修行をしているうちに、中沢の頭のてっぺんの肉がこんもりと盛り上がってきたと書いてあって、驚いた。ああ、やはり、精神的な修行も、いくところまでいくと、その影響を受けて肉体が変化したりするのだ、と。
もっと具体的にどのようにしたのか、などの解説をもっと読みたかったのだけれど、もともと著者は修行のインストラクターではなく、思想について語る宗教学者なので、話はちがう方向へそれていってしまう。

でも、こうやってみずから参加する、自分のからだで体験しながら考える、そういう学者はすてきである。
「男は考えるだけではいけない。行動だけでもいけない。考えつつ行動する」(『ジャイアント台風』中のジャイアント馬場のことば)
(2024年5月28日)



●おすすめの電子書籍!

『思想家たちの生と生の解釈』(金原義明)
「生」の実像に迫る哲学評論。ブッダ、カント、ニーチェ、ウィトゲンシュタイン、フーコー、スウェーデンボルグ、シュタイナー、クリシュナムルティ、ブローデル、丸山眞男など大思想家たちの人生と思想を検証。生、死、霊魂、世界、存在について考察。わたしたちはなぜ生きているのか。生きることに意味はあるのか。人生の根本問題をさぐる究極の思想書。

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5月27日・レイチェル・カーソンの闘い

2024-05-27 | 科学
5月27日は、東郷平八郎率いる日本艦隊が、ロシアのバルチック艦隊を日本海で迎え撃ち、勝利した日本海海戦の日(1905年)だが、海洋生物学者のレイチェル・カーソンの誕生日でもある。化学物質による環境汚染問題を告発した先駆者である。

レイチェル・ルイーズ・カーソンは、1907年、ペンシルベニア州のスプリングデールで生まれた。父親は保険のセールスマンだった。
8歳のときから物語を書いていたレイチェルは、11歳のときには自作を出版していた。
英文学を専攻し、作家志望だったカーソンは、学生のころに志望を変更し、生物学に転じた。
メリーランド州ボルティモアのジョンズポプキンス大学で遺伝学を修めた後、アメリカ連邦漁業局に就職。一般市民に海の生物に親しんでもらうためのラジオ番組「水の下のロマンス」の脚本を書くようになり、新聞や雑誌へも寄稿するようになった。
34歳のとき、海の生物たちの生態を描く『潮風の下で』を発表。
44歳で発表した科学エッセイ『われらをめぐる海』は大ベストセラーとなった。
そして55歳になる年に『沈黙の春』を雑誌「ニューヨーカー」に連載した後、単行本として発表。この書は、環境汚染問題を真正面から提議した歴史的書物で、DDTなど化学物質の農薬散布がいかに環境悪化を招くかを訴えた力作だった。雑誌上に発表時から話題騒然となり、この書を読んだジョン・ケネディ大統領が、諮問機関に調査を命令。行政側は環境問題に注目するところとなり、DDTの使用は全面禁止となった。
『沈黙の春』の執筆中に乳がんを発症したカーソンは、なんとか書物を完成させた後、1964年4月、メリーランド州のシルバースプリングで没した。56歳だった。

ずっと以前、『われらをめぐる海』や『沈黙の春』を読んだ。生物学の綿密な調査、分析の上に立ったノンフィクションだけれど、感性豊かな文章で、読む側の感情を刺激する、香り高い文学作品の印象があった。

『沈黙の春』は、おまかにいえば、有機化学製品の除草剤、殺虫剤などが大量に散布された結果、動植物や土壌、河川、海などが汚染され、害虫はかえって増えていった。汚染された環境は、人体に悪影響を与え、母親は子どもに汚染された水や食料を食べさせることになっている、という主張の本である。
この本が雑誌に連載されたときからすでに、カーソンは、農薬、化学産業界からそうとうな攻撃を受けたらしい。内容を読まずぶつけられた批判が多く、産業界はこぞって、カーソンはたわごとをわめくヒステリー女にすぎないとするネガティブ・キャンペーンを張り、あるいは本に書かれた問題はすでに解決ずみだという態度をとった。彼女が出演したテレビ番組からは、いく社もの企業がスポンサーを降りた。
出版されたのが1962年。ちょうど日本でも、水俣病による死者の患者認定がされだしたころだった。

彼女人がいなかったから、後の世代は、目覚めるのがもっと遅れていた。
カーソンは、経済的な困難や、社会の偏見や、産業界の圧力など、さまざまなものと闘い、生涯独身を通して亡くなった。警鐘を鳴らす社会の木鐸となって、批判の矢面に立ってひるまなかった、偉大な先駆者だった。
(2024年5月27日)



●おすすめの電子書籍!

『科学者たちの生涯 第一巻』(原鏡介)
人類の歴史を変えた大科学者たちの生涯、達成をみる人物評伝。ダ・ヴィンチ、コペルニクスから、ガロア、マックスウェル、オットーまで。知的探求と感動の人間ドラマ。


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