7月27日は、『路傍の石』の作家、山本有三(1887年)が生まれた日だが、仏作家、アレクサンドル・デュマ・フィスの誕生日でもある。小デュマとも呼ばれる。
アレクサンドル・デュマ・フィスは、1824年、フランスのパリで生まれた。父親は『モンテ・クリスト伯(巌窟王)』『三銃士』を書いた文豪アレクサンドル・デュマで、父子が同じ名前なので識別のために、「大デュマと小デュマ」、あるいは「デュマ・ペール(父)とデュマ・フィス(息子)」などと呼ばれる。
デュマ・フィスの母親はお針子で、フィスは私生児だった。
「この世のどこかに五百人からの子どもがいると思う」
と豪語する父親の、数多いる息子のひとりだったが、デュマ・フィスは父親に息子として認知され、かわいがられた。寄宿舎つきの私塾に入り、そこで「私生児」といじめられた彼は、学校を出ると父親に引き取られ、この父ならではの英才教育を受けた。
「お前もアレクサンドル・デュマの息子ともなると、いろいろな世間の体面というものがあるんだぜ。まず、一流の料亭に顔を出さなくてはならない。遊びごとはどんなものでも断ってはならない。誰もがうらやむような情婦たちをもたなくてはならない。つまり、新聞に名の出るような人間の仲間にならなくてはいけないのだ。頼むから、人目につかないような人間になって、おやじに恥をかかしてくれるなよ」(ガイ・エンドア著、河盛好蔵訳『パリの王様』創元社)
デュマ・フィスは父親の期待に応え、父親のくれるお金を湯水のように使い、借金をして放蕩を尽くす遊び人となった。そうして、20歳のとき彼は、劇場でマリー・デュプレシーという同い年の女性と出会い、恋に落ちた。マリーは金持ちや貴族の愛人をへて高齢のロシア貴族に養われていた娘で、二人は恋仲となった。
そのころ、デュマ・フィスは借金返済のために小説を書いては、うまくいかず落胆していた。そして好きあっていたマリーと21歳のとき別れてしまった。彼は別れの手紙に書いた。
「ぼくはじぶんの望むとおりにあなたを愛するほど金持ちでもありませんし、あなたの望まれるとおりにあなたを愛するほど貧乏でもありません」(デュマ・フィス著、西永良成訳『椿姫』「年譜」角川文庫)
彼が22歳のとき、結核のためマリーが危篤となり、それを伝え聞いた彼は旅先から見舞いの手紙を書き送ったが、ほどなくしてマリーは没した。
24歳のときデュマ・フィスは、マリーとの恋を題材にした小説『椿姫』を一カ月で書きあげた。これを発表すると、すなわち、大ベストセラーとなった。
成功した作家となったデュマ・フィスは、『椿姫』を戯曲化し、戯曲『半社交界』『金銭問題』『私生児』『放蕩親父』を書き、レジオン・ドヌール勲章を受け、アカデミー・フランセーズ会員となり、政変のあおりを受けて破産した父親の晩年の面倒をみた。そうして、1895年11月、パリ西方のマルリー=ル=ロワで没した。71歳だった。
『椿姫』は子どものころ読み、感銘を受けた。グレタ・ガルボ主演の映画もみた。みるたびに感動する。デュマ・フィスは言っている。
「ものを書くのはたやすいことだ。二十歳のとき少し辛い体験をする。それだけで充分だ。あとは体験の辛さをそのまま語ればいい」(同前『椿姫』「解説」)
そうはいうものの、無論たやすい業ではない。
(2024年7月27日)
●おすすめの電子書籍!
『世界文学の高峰たち』(金原義明)
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アレクサンドル・デュマ・フィスは、1824年、フランスのパリで生まれた。父親は『モンテ・クリスト伯(巌窟王)』『三銃士』を書いた文豪アレクサンドル・デュマで、父子が同じ名前なので識別のために、「大デュマと小デュマ」、あるいは「デュマ・ペール(父)とデュマ・フィス(息子)」などと呼ばれる。
デュマ・フィスの母親はお針子で、フィスは私生児だった。
「この世のどこかに五百人からの子どもがいると思う」
と豪語する父親の、数多いる息子のひとりだったが、デュマ・フィスは父親に息子として認知され、かわいがられた。寄宿舎つきの私塾に入り、そこで「私生児」といじめられた彼は、学校を出ると父親に引き取られ、この父ならではの英才教育を受けた。
「お前もアレクサンドル・デュマの息子ともなると、いろいろな世間の体面というものがあるんだぜ。まず、一流の料亭に顔を出さなくてはならない。遊びごとはどんなものでも断ってはならない。誰もがうらやむような情婦たちをもたなくてはならない。つまり、新聞に名の出るような人間の仲間にならなくてはいけないのだ。頼むから、人目につかないような人間になって、おやじに恥をかかしてくれるなよ」(ガイ・エンドア著、河盛好蔵訳『パリの王様』創元社)
デュマ・フィスは父親の期待に応え、父親のくれるお金を湯水のように使い、借金をして放蕩を尽くす遊び人となった。そうして、20歳のとき彼は、劇場でマリー・デュプレシーという同い年の女性と出会い、恋に落ちた。マリーは金持ちや貴族の愛人をへて高齢のロシア貴族に養われていた娘で、二人は恋仲となった。
そのころ、デュマ・フィスは借金返済のために小説を書いては、うまくいかず落胆していた。そして好きあっていたマリーと21歳のとき別れてしまった。彼は別れの手紙に書いた。
「ぼくはじぶんの望むとおりにあなたを愛するほど金持ちでもありませんし、あなたの望まれるとおりにあなたを愛するほど貧乏でもありません」(デュマ・フィス著、西永良成訳『椿姫』「年譜」角川文庫)
彼が22歳のとき、結核のためマリーが危篤となり、それを伝え聞いた彼は旅先から見舞いの手紙を書き送ったが、ほどなくしてマリーは没した。
24歳のときデュマ・フィスは、マリーとの恋を題材にした小説『椿姫』を一カ月で書きあげた。これを発表すると、すなわち、大ベストセラーとなった。
成功した作家となったデュマ・フィスは、『椿姫』を戯曲化し、戯曲『半社交界』『金銭問題』『私生児』『放蕩親父』を書き、レジオン・ドヌール勲章を受け、アカデミー・フランセーズ会員となり、政変のあおりを受けて破産した父親の晩年の面倒をみた。そうして、1895年11月、パリ西方のマルリー=ル=ロワで没した。71歳だった。
『椿姫』は子どものころ読み、感銘を受けた。グレタ・ガルボ主演の映画もみた。みるたびに感動する。デュマ・フィスは言っている。
「ものを書くのはたやすいことだ。二十歳のとき少し辛い体験をする。それだけで充分だ。あとは体験の辛さをそのまま語ればいい」(同前『椿姫』「解説」)
そうはいうものの、無論たやすい業ではない。
(2024年7月27日)
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