1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

7月23日・幸田露伴の知

2024-07-23 | 文学
7月23日は、推理作家、レイモンド・チャンドラー(1888年)が生まれた日だが、文豪、幸田露伴の誕生日でもある。

幸田露伴は、慶応3年7月23日(1867年8月22日)に江戸で生まれた。本名は幸田成行(しげゆき)。幼名を鉄四郎といった。父親は江戸幕府の家臣だった。
小さいころ、病弱だった成行は、塾に通って素読を学び、草双紙、読本を愛読した。中学では尾崎紅葉と同級生だったが、家計が苦しくなり退学。
後に、現在の青山学院大学の前身である東京英学校に入学したが、これも中退した。
14歳のころ、給費生として入学した電信技術の学校をへて、電信技師の公務員として北海道の余市に勤務した。
しかし、文学への思いやまず、20歳のとき、とつぜん辞職し、蒸発した。
「身には疾あり、胸には愁あり、悪因縁は逐へども去らず、未来に楽しき到着点の認めらるるもなく、目前に痛き刺激物あり、欲あれども銭なく、望みあれども縁遠し、よし突貫して此逆境を井でむと決したり。五六枚の衣を売り、一行李の書を典し、我を愛する人二三にのみ別をつげて忽然出発す。」(「突貫紀行」『露伴全集 第十四巻』岩波書店)
放浪しながら東京にたどりつき、父親がやっていた紙屋を手伝いながら、読書をし、小説を書いた。
22歳のとき海外を舞台にした小説『露団々』を発表。これが出世作となり、続けて『風流佛』『五重塔』など、文学史上に残る名作を書いて、大作家となった。明治の一時期は、かつての同級生、尾崎紅葉とともに絶大な人気を誇り「紅露時代」と呼ばれた。
小説のほか、史伝、評論、注釈書も多く著し、41歳の年から乞われて京都帝国大学で教鞭をとり、国文学を講義したが、辞職。以後、研究と執筆に専念した。
広く尊敬を集めていた幸田露伴は、1937年(昭和12年)に文化勲章が設けられると、その第1回の受賞者に選ばれた。
1947年7月、千葉の市川で没した。80歳だった。

幸田露伴の小説『運命』『連環記』を読み、世の中にはこんな小説もあるのかと驚いた。名文として名高い『五重塔』の嵐の描写なども空前絶後である。
谷崎潤一郎が、現在の日本で文語文を自由自在に書ける人間は幸田露伴だけなのではないかと書いていたけれど、まったくその通りで、露伴の文語文を読むと、まさに自由闊達に、血わき、肉おどる、感情のこもった文章がおもしろく、また、みごとな美しさでもって並んでいるのだった。もしも一字一句訂正するところのない完璧な文章というものがあるとしたら、幸田露伴の文章を指すのだろう。

日本と中国の古典、歴史に精通する博覧強記の上に、露伴の場合は、自分の頭でちゃんと考えて、古典にこうあるけれど、おそらくこれはこちらの文献を写したもので、もとの文献にしても、これこれこういう理由でまちがっていて、おそらく実情はこうだったろうと推定するというレベルまで突き詰める知性の高さに驚かされる。
(2024年7月23日)



●おすすめの電子書籍!

『小説家という生き方(村上春樹から夏目漱石へ)』(金原義明)
人はいかにして小説家になるか、をさぐる画期的な作家論。村上龍、村上春樹から、団鬼六、三島由紀夫、川上宗薫、江戸川乱歩らをへて、鏡花、漱石、鴎外などの文豪まで。新しい角度から大作家たちの生き様、作品を検討。読書体験を次の次元へと誘う文芸評論。


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7月22日・ベッセルの視差

2024-07-22 | 科学
7月22日は、「フォークの神さま」岡林信康が生まれた日(1946年)だが、天文学者、ベッセルの誕生日でもある。宇宙の彼方の恒星までの距離をはじめて計算した人である。

フリードリヒ・ヴィルヘルム・ベッセルは、1784年、ドイツのミンデンで生まれた。父親は役所に務める公務員だった。
14歳でブレーメンの貿易会社に奉公に出たフリードリヒは、そこで貨物船の航行技術に接するうち、数学への興味を深めた。また、船の位置を決定する根拠となる天文学に関心をもつようになった。
貿易会社を辞めたベッセルは、ブレーメンに近い天文台の助手に転職した。彼はそこで3千個以上の恒星の位置を測定する観測、研究に関わった。
この業績が買われ、彼は25歳でケーニヒスベルク天文台の所長に任命された。この天文台で観測、研究を続け、彼は5万個以上の恒星の位置を測定した。
1846年3月、ケーニヒスベルクで後腹膜腫瘍により没した。

ベッセルが、恒星までの距離を算出した方法は、おおよそこういう手順らしい。
彼はまず「大気差」というものを精密に測った。「大気差」とは、恒星からの光が宇宙を伝わってきて、地球の大気圏に入ると、光が屈折し、見かけの高度が、実際の高度より大きくなる現象のことで、この差は水平線近くに見える恒星ほど大きくなる。大気差は大気の温度や気圧などによっても変化するので、現在でも各天文台ごとに観測データをもとに独自の「大気差」を算出しているのが実情だというが、ケーニヒスベルク天文台の所長となったベッセルは、膨大な観測データから求めた「大気差」を発表した。
つぎにベッセルは「視差」を計算した。
たとえば、はくちょう座61番星の位置をある日に観測したとすると、その半年後、地球が太陽のちょうど反対側にまわったときに、いま一度61番星を観測する。すると、2度の観測の角度の差が求められるわけで、この角度に、さらに地球が太陽をまわる軌道の直径を底辺とした三角形を想定すれば、恒星までの距離が計算できる。
こうやって、恒星までの距離は求められた。

もちろんベッセルだけが恒星の距離を計算していたわけではなく、当時の天文学者たちは競争で算出にしのぎを削っていたけれど、ベッセルの業績は突出していた。
現在では、宇宙に打ち上げられたヒッパルコス衛星による観測で、より正確な恒星までの距離が求められているが、ベッセルが算出した値はいい線をいっていたらしい。

ベッセルはまた、天体の運動を観測して得たデータのずれを発見して、そのすぐそばに、まだ見つかっていない星が隠れていると推測していて、それが後に発見されたりもしている。その功績により、小惑星や月面のクレーターに「ベッセル」の名が冠せられている。

日本では江戸幕府の水野忠邦が天保の改革をおこなっていた時代に、こうやって宇宙の彼方の一点をじっと見つめていた人がいるのだと思うと、不思議な心持ちがする。
(2024年7月22日)



●おすすめの電子書籍!

『科学者たちの生涯 第二巻』(原鏡介)
宇宙のルール、現代の世界観を創った大科学者たちの生涯、達成をみる人物評伝。ハンセン、コッホから、ファインマン、ホーキングまで。知的感動のドラマ。


●電子書籍は明鏡舎。
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7月21日・マクルーハンの警鐘

2024-07-21 | 歴史と人生
7月21日は、文豪、アーネスト・ヘミングウェイが生まれた日(1899年)だが、メディア理論のマーシャル・マクルーハンの誕生日でもある。

ハーバート・マーシャル・マクルーハンは、1911年、カナダのアルバータ州エドモントンで生まれた。父親は不動産業者で、第一次大戦中は従軍していた。母親は学校教師で、後に女優になった。ハーバートには二つ年下の弟がいた。
はじめ工学を学んでいたハーバートは、英語学に専攻を変え、22歳のとき、カナダのマニトバ大学を卒業した。そして、英国イングランドへ渡り、ケンブリッジ大学をへて、25歳のとき帰国。カナダで思うような就職口が見つからなかったため、米国のウィスコンシン大学に勤務した。
以後、セントルイス大学、トロント大学などの大学で教鞭をとり、雑誌の編集に関わりながら、メディア論についてマスメディア上で多く発言し、1950年代から1960年代にかけて、メディア理論の論者として有名になった。1960年代米国のジャーナリズム上で活躍した代表的知識人のひとりだった。
68歳のとき脳卒中に襲われ、話すのが困難になり、容態が回復しないまま、翌年の1980年12月にトロントで没した。69歳だった。
著書に『機械の花嫁』『グーテンベルクの銀河系』『人間拡張の原理――メディアの理解』『メディアの法則』などがある。

「メディアはメッセージである」
それがマクルーハンの主張だった。マクルーハンがここで言う「メディア」とは、テレビや新聞などのいわゆるマスメディアだけではなくて、人間が発明、製造した技術すべてを含んでいる。電話、時計、家屋、貨幣などすべて、彼に言わせれば兵器といったものまで、現実世界に満ちている人工物はみんなメディアだ、ということになる。人と人とが意思を伝え合うことばなどは、もっとも基本的なメディアである。
たとえば、電話が人間の耳の機能を外に大きく伸ばした「耳の拡張」であるとするなら、同様に、現実を構成しているメディアはすべて、人間の存在を外に伸ばした「人間の拡張」である。
同じニュースでも、ラジで聴く、テレビで観る、電話で聞く、手紙で読む、とそれぞれ印象がちがうように、情報源は同じでも、メディアがちがえば、そこから伝えられるメッセージはちがったものになる。つまり、メディアとメッセージとは切り離せるものではなく、メディアはメッセージなのである。
それぞれのメディアはそれぞれ固有の文法をもっていて、人間はそれを変えることはできない。したがうしかない。だから、人間はメディアごとの文法を理解しなくてはならない。

われわれがふだん何気なく見聞きしているテレビ、ラジオ、新聞、インターネット情報やSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)などにも、それぞれ固有の文法がある。ツイッターにはツイッターの、ラインにはラインの、首相官邸のフェイスブックページにはそれ独自の文法があるわけで、それを理解せずにただつきあっていると、いつかとんでもない目にあう。マクルーハンが警鐘を鳴らしていたのは、そういうことだ。
(2024年7月21日)



●おすすめの電子書籍!

『心を探検した人々』(天野たかし)
心理学の巨人たちとその方法。心理学者、カウンセラーなど、人の心を探り明らかにした人々の生涯と、その方法、理論を紹介する心理学読本。パブロフ、フロイト、アドラー、森田、ユング、フロム、ロジャーズ、スキナー、吉本、ミラーなどなど。われわれの心はどう癒されるのか。


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7月20日・ナム・ジュン・パイクの日本語

2024-07-20 | 美術
7月20日は、女性思想家アン・ハッチンソンが生まれた日(1591年)だが、ビデオ芸術家のナム・ジュン・パイクの誕生日でもある。

ナム・ジュン・パイクは、1932年、韓国のソウル(当時は日本統治下)で生まれた。名前は漢字では「白南準」と表記する。ファミリーネームが「白(パイク)」なわけである。繊維業で成功した裕福な一家だった。17歳のころ、朝鮮戦争から逃れて香港、さらに日本へ引っ越した。
東京大学に入学したパイクは、美学を専攻し、24歳のとき、無調音楽の作曲家、シェーンベルクをテーマに据えた卒業論文を書いて卒業した。
卒業後は、ドイツの大学に留学し音楽史を学んだ。このドイツ時代に、「4分33秒」という無音の曲を書いたジョン・ケージと知り合い、「ジョン・ケージへのオマージュ」というパフォーマンスをおこなった。
31歳のとき、ナム・ジュン・パイクの代名詞となるビデオ・アートを個展に出品。
32歳で、米国へ本拠地を移し、バリオリンやピアノの独奏を含む、さまざまなパフォーマンス、作品展示をおこなった。
以後、ドイツ、日本、韓国、イタリアなど、世界各地で展示、パフォーマンスをおこなった後、2006年1月、米国フロリダ州のマイアミで没した。73歳だった。

ナム・ジュン・パイクは、どんな場所へもビデオを持ち込んだ。
1980年代前半だったか、東京、上野の美術館で、ナム・ジュン・パイクの展覧会があって、見に行ったことがある。熱帯植物がいちめんに置かれた暗い庭の葉陰に点々とブラウン管のビデオモニターが置かれて刻々と移り変わる映像を映し出している「TVガーデン」、テーブルの上ににわとりの卵が置かれていて、それをビデオカメラが映していて、その映像が卵のとなりのモニターに映し出されている「三個の卵」、テレビ受像機が積み上げられた「ヴィラミッド」などの作品がよく記憶に残っている。まだ液晶画面がない時代だった。とくに「TVガーデン」は、不思議と心を引き寄せられる魅力的な作品だった。

ナム・ジュン・パイクは日本に縁が深い人で、福井の永平寺にも参禅して作品を作っているし、奥さんも日本人だし、また、高橋悠治、坂本龍一、細野晴臣といった錚々たる顔ぶれといっしょにパフォーマンスをおこなっていて、その映像も観たことがある。スマートホンやタブレット端末が街中にあふれている現代では、ナム・ジュン・パイクの芸術は、どうということもなく感じられるかもしれない。けれど、じつは、ナム・ジュン・パイクが21世紀のイメージを先取りして表現し、時代がようやく追いつきつつある、とも言える。

ナム・ジュン・パイクが書いた東大の卒業論文の実物を見たことがある。分厚い原稿用紙の束の表紙に「白南準」と署名があった。論文は日本語で書かれていて、彼の字は、明らかに自分より上手だった。未来を創造するセンスとともに、日本語の字の上手さも、高く仰ぎ見るアーティストだった。
(2024年7月20日)



●おすすめの電子書籍!

『芸術家たちの生涯──美の在り方、創り方』(ぱぴろう)
古今東西の大芸術家、三一人の人生を検証する芸術家人物評伝。会田誠、ウォーホル、ダリ、志功、シャガール、ピカソ、松園、ゴッホ、モネ、レンブラント、ミケランジェロ、ダ・ヴィンチまで。彼らの創造の秘密に迫る「読む美術」。


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7月19日・エドガー・ドガの青

2024-07-19 | 美術
7月19日は、映画監督、黒沢清が生まれた日(1955年)だが、画家のエドガー・ドガの誕生日でもある。「踊り子」の画家である。

エドガー・ドガこと、イレール・ジェルマン・エドガー・ドガは1834年、フランスのパリで生まれた。ドガの祖父は、もともとパリのパン屋の息子として生まれ、成長して穀物取引所で投機をしていた。しかし、フランス革命の混乱のなかで、反革命的だと命を狙われだし、間一髪でイタリアのナポリに逃げ延びた。そしてナポリで株式仲買人として成功し、銀行を設立した。そのナポリの銀行のパリ支店を任されたのが、エドガーの父親だった。エドガーは5人きょうだいのいちばん上だった。
銀行家の父親は、長男のエドガーを跡取りとして期待したが、エドガーは中学を卒業すると、ルーヴル美術館での模写の許可を得て、毎日通って名作の模写に没頭しだした。いったんは大学の法科に入ったが、模写を続け、ある日、父親にこう宣言した。
「もう、法律の勉強をつづけることはできない」
エドガーは、21歳のころ「グランド・オダリスク」を描いた新古典主義の画家アングルに会った。アングルは、自分を崇拝している若い画家を励まし、こうアドバイスした。
「線を描きなさい……。線をたくさん描くんです。記憶にもとづいてもいいし、実物を前にしてもいい」(ポール・ヴァレリー著、清水徹訳『ドガ ダンス デッサン』筑摩書房)
ドガはデッサンを山のように描き、それらデッサンの積み重ねの上に作品を描いていった。
3年ほどイタリアで画家の修行をして帰国したドガは、マネと知り合い、モネやルノワールら印象派の画家たちと合流して、印象派展に数多くの作品を出品した。風景や光を描こうとする印象派のなかにあって、ドガの画風はまったく異なり、ドガはもっぱらダンスをする踊り子や、入浴をする裸婦など人物画を描いた。
「ダンス教室」「ダンスのレッスン」「バレエ──エトワール」「浴槽」「入浴後」などを描き、1917年9月、パリで没した。83歳だった。

ドガは、評論家のポール・ヴァレリーによると、すぐに怒りだす、つきあいにくい男だったようだ。でも、絵画については真摯だった。彼は、ハエがガラス窓を這い回るときのように鉛筆を紙の上で微妙に動かしてデッサンを描いた。パステル画も描いたし、写真もたくさん撮った。デッサンをこれでもかと積み重ねた上に作品を描いた。そして、あえて完璧にせず、かならず観る者が想像で補うべき余地を残した絵画。それがドガの芸術である。

ドガの踊り子の衣裳や裸婦の肌上に、やや唐突な感じで青い色が載っているのが、好きである。ゴッホの自画像などもそうで、なんでこんなところに青を、といぶかられる青。けれど、この青があるから味がある。この青がドガ作品の凄味を支えている。

ヴァレリーはあるとき、ドガといっしょにべつの人の絵画作品を観ていた。そして、その絵が細部にわたって、ほとんど終わりがない多くの労働によって丹念に描かれているのを認め、二人はこんな会話を交わした。
「『すばらしい絵です』と、わたしはドガに言った、『でも、これだけの葉を全部描くのは大変だ……。辛くていやになるでしょうね……』
『何を言うんだ』と、ドガがわたしに言った。『いやになるほどじゃなかったら、面白くも何ともない』」(同前)
(2024年7月19日)



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『芸術家たちの生涯----美の在り方、創り方』(ぱぴろう)
古今東西の大芸術家、三一人の人生を検証する芸術家人物評伝。彼らの創造の秘密に迫り、美の鑑賞法を解説する美術評論集。会田誠、ウォーホル、ダリ、志功、シャガール、ピカソ、松園、ゴッホ、モネ、レンブラント、ミケランジェロ、ダ・ヴィンチまで。芸術眼がぐっと深まる「読む美術」。


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