1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

10月23日・ジャニー喜多川の握手

2024-10-23 | ビジネス
10月23日は、「サッカーの王様」ペレが生まれた日(1940年)だが、事業家のジャニー喜多川の誕生日でもある。

ジャニー喜多川は、本名をジョン・ヒロム・キタガワといい、1931年に、米国カリフォルニア州ロサンゼルスで生まれた。父親は高野山の僧侶だった。
太平洋戦争中は、彼の一家は日系人の強制収容所に入れられていたこともあった。
戦後、ロサンゼルスの高校に入り、高校卒業後は、ロサンゼルス市立カレッジに進んだ。
19歳のとき、歌手の美空ひばりが米ロサンゼルス公演をおこなった際、ジョンは公演を手伝い、美空ひばりとその関係者の知遇を得た。
ジョンは21歳のとき、来日し、米国大使館員となり、通訳助手や朝鮮戦争の戦災孤児の対応などに従事した。日本の上智大学に入った喜多川は、24歳のころ、音楽のバンド活動をはじめ、31歳の年に芸能プロダクションを興した。
喜多川の愛称である「ジャニー」から、会社の名前をジャニーズ事務所とし、彼は若い少年をスカウトし、歌やダンスの練習をさせ、アイドル歌手として売り出すビジネスをはじめた。ジャニーズ事務所からは、フォーリーブス、郷ひろみ、田原俊彦、近藤雅彦、シブがき隊、少年隊、光GENJI、SMAP、嵐、などの大スターたちが輩出し、喜多川は芸能界、放送業界に隠然たる力をもつジャニーズ王国を築き上げた。
日本芸能誌史に残る大プロデューサー、ジャニー喜多川は、2019年7月、東京都内の病院でクモ膜下出血により没した。87歳だった。

少年への性的虐待で没後に批判かまびすしいジャニー喜多川だが、なかなか魅力的な一面をもつ人だったらしい。
たとえば、田原俊彦がまだデビュー前の高校生だったころ、週末になると甲府から電車で上京してレッスンに通ってくる田原の交通費はすべて喜多川がもち、さらに、田原が帰る際には新宿駅までかならず自分で見送りにいったという。
あるいは、SMAPの中居正広がリズム感が悪いので、喜多川みずからがカスタネットをたたいて、マンツーマンでレッスンした。

ジャニーズ事務所のアイドルグループ、KAT-TUNの亀梨和也が、テレビの歌番組で明かした逸話も興味深かった。身内による暴露話だから、多少の脚色はあるだろうけれど、なかなか味わい深い話だった。
「オレが悪かったんですけど」
と前置きし、亀梨は以下の内容を語った。
あるとき、KAT-TUNがステージを務めている最中に、亀梨が歌か踊りを忘れてしまった。ステージを降りた後で、亀梨はKAT-TUNの同僚に食ってかかった。
「ああいうときは、うまくフォローしてくれよ」
すると同僚は、こう答えた。
「おれは自分のことでいっぱいいっぱいなんだよ」
「なんだよ、それは」
とつかみあいになりかかった。そこへ、わきで見ていたジャニー喜多川が手を差しだした。亀梨に握手を求めて、こう言った。
「仕事でけんか? かっこいいね」
(2024年10月23日)



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『世界大詩人物語』(原鏡介)
詩人たちの生と詩情。詩神に愛された人々、鋭い感性をもつ詩人たちの生き様とその詩情を読み解く詩の人物読本。ゲーテ、バイロン、ハイネ、ランボー、ヘッセ、白秋、朔太郎、賢治、民喜、中也、隆一ほか。彼らの個性、感受性は、われわれに何を示すか?


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10月22日・キャパのセンス

2024-10-22 | 歴史と人生
10月22日は、大女優、サラ・ベルナールが生まれた日(1844年)だが、写真家ロバート・キャパの誕生日でもある。

ロバート・キャパは、1913年、ハンガリーのブダペストで生まれた。本名はフリードマン・エルネー・エンドレ。ハンガリーでは、日本と同様、姓名の順に書くので、彼のファーストネームはエンドレである。ユダヤ系の家系で、母親は婦人服の仕立屋を経営していて、父親はそこの裁縫師だった。エンドレは男ばかりの三人兄弟のまん中だった。
エンドレは早くから政治やジャーナリズムに目覚め、ギムナジウム(中高一貫校)の生徒だった17歳の年に、ゼネストのデモに加わって逮捕された。卒業後は、ドイツ・ベルリンへ行き、写真通信社に暗室係の助手として勤務しだした。19歳のとき、ロシアの革命家トロツキーがデンマークのコペンハーゲンにやってきたとき、エンドレは社命を受け、小型カメラをポケットに隠し持って駆けつけ、演説中のトロツキーを撮影した。この写真は、トロツキー本人が生存中に発表されたトロツキーの唯一の肖像写真となった。
エンドレが20歳になる1933年にナチス党のヒトラーが首相になると、はげしくなったユダヤ人迫害から逃れ、エンドレはフランス・パリへ脱出した。
パリで彼は2歳年上の女性ゲルダ・ポホリレスと出会い、恋に落ちた。ゲルダはドイツ生まれのユダヤ系の金髪美女で、二人は同棲し、エンドレが写真をとり、ゲルダがキャプションをつけて通信社に売り込む、あるいはゲルダも写真を撮るなど、チームを組んで仕事をするようになった。写真をもっと高く売るため、彼らは「ロバート・キャパ」という架空の人物を作り上げ、その有名な米国人カメラマンが撮った写真だとして売り込みはじめた。こうしてロバート・キャパが誕生した。
スペインで内戦がはじまると、キャパとゲルダは戦場へ乗りこんだ。このとき撮った戦場の死を象徴する写真「崩れ落ちる兵士」が雑誌に掲載され、23歳のキャパの名前は一躍世界に鳴り響いた。翌年、ゲルダはスペイン戦線で味方軍の戦車にひかれて死んだ。
ひとりになったキャパは、その後も戦場カメラマンとして、第二次世界大戦の連合軍に同行しノルマンディー上陸作戦の写真を撮り、パリ解放を撮り、戦後は写真家集団「マグナム」を結成し、第一次中東戦争を撮った。1954年5月、第一次インドシナ戦争に取材に行き、ベトナムの戦場で地雷を踏み爆死した。40歳だった。

キャパはピントがブレた、臨場感のある戦争写真だけでなく、画家のピカソや、女優のイングリッド・バーグマンなど、交友のあった著名人の肖像も撮っていて、そういうピントの合った写真も味わいが深い。

キャパが書いた『ちょっとピンぼけ(Slightly out of Focus)』を若いころに読んだ。
「もはや、朝になっても、起上がる必要はまったくなかった。(中略)私には時間など問題ではなかった。有り金といえば五セントのニッケル貨一枚きり──電話のベルでも鳴って、誰かが昼飯に呼んでくれるか、仕事の口でもくれるか、すくなくとも金でも貸してくれそうな話でもないかぎり、ベッドを離れるつもりは毛頭なかった。」(ロバート・キャパ著、川添浩史、井上清一郎訳『ちょっとピンぼけ』文春文庫)
ユーモアのセンス。二枚目だったキャパは、バーグマンほか数々の美女たちとつぎつぎと恋をし、いつもモテモテだった。魅力的な男というのはいるものだ。
(2024年10月22日)



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『映画女優という生き方』(原鏡介)
世界の映画女優たちの生き様と作品をめぐる映画評論。モンローほかスター女優たちの演技と生の真実を明らかにする。


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10月21日・江戸川乱歩の遺産

2024-10-21 | 文学
10月21日は、ダイナマイトを発明したアルフレッド・ノーベルが生まれた日(1833年)だが、推理作家、江戸川乱歩(えどがわらんぽ)の誕生日でもある。名探偵・明智小五郎、怪人二十面相、少年探偵団の生みの親である。

江戸川乱歩は、1894年、三重の名張で生まれた。本名は平井太郎(ひらいたろう)。武士の家系で、父親は役所の書記係で、太郎はその長男だった。一家は父親の転勤にともない、引っ越しが多かった。
押川春浪の冒険小説や、黒岩涙香の探偵小説を愛読していた太郎は、中学を出ると、東京の早稲田大学に進学した。政治経済学部で学び、大学卒業後は、貿易会社、古本屋、ラーメン屋などさまざまな職業を転々としながら探偵小説を書いた。
29歳のとき、雑誌に投稿した『二銭銅貨』で作家デビュー。米国作家エドガー・アラン・ポーに漢字をあてた奇抜なペンネームで、欧米の探偵小説や科学、心理学をよく研究し、少年愛、女装、人形愛、残虐趣味など独特の趣味性を加味した推理小説を書いた。
推理作家として活躍しながら、探偵小説誌「宝石」の経営にたずさわり、日本探偵作家クラブを立ち上げ、私財を投じて推理作家の登竜門である江戸川乱歩賞を創設するなど、日本の推理小説の隆盛に尽力した。
晩年は、動脈硬化、パーキンソン病にかかりながらも、口述で著作を続けたが、1965年7月、クモ膜下出血のため、没した。70歳だった。
作品に『D坂の殺人事件』『屋根裏の散歩者』『人間椅子』『鏡地獄』『一寸法師』『陰獣』『押絵と旅する男』『黒蜥蜴(くろとかげ)』などがある。

はじめて読んだ乱歩作品『押絵と旅する男』の味わいは忘れられない。冒頭の一文から乱歩独特の猟奇の世界へすっと読者をさらっていってしまう傑作である。椅子のなかに人間が潜んでいて、すわった人を感じるという『人間椅子』の触覚の味わいは、川端康成の『眠れる美女』に通じる異常さで、しびれた。

昔、映画『黒蜥蜴』を見た。これは乱歩の原作を、作家の三島由紀夫が戯曲化し、それを映画化したもので、二度映画になったうちの、二度目のほうだった。
監督が深作欣二、音楽が冨田勲。明智小五郎役を木村功、黒蜥蜴役を美輪明宏が演じていた。黒蜥蜴がコレクションしている美しい人間の肉体標本のなかに、ボディービルをやっていた三島由紀夫本人がポーズをとっていた。

西村京太郎、森村誠一、東野圭吾、桐野夏生、池井戸潤などはみな乱歩賞作家であり、江戸川乱歩が残した遺産の大きさは計り知れない。
(2024年10月21日)



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人はいかにして小説家になるか、をさぐる画期的な作家論。村上龍、村上春樹から、団鬼六、三島由紀夫、川上宗薫、江戸川乱歩らをへて、鏡花、漱石、鴎外などの文豪まで。新しい角度から大作家たちの生き様、作品を検討。読書体験を次の次元へと誘う文芸評論。

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10月20日・坂口安吾の堕落

2024-10-20 | 文学
10月20日は、フランスの詩人アルチュール・ランボーが生まれた日(1854年)だが、日本の作家、坂口安吾の誕生日でもある。

坂口安吾は、1906年、新潟で生まれた。本名は坂口炳五(さかぐちへいご)。父親は衆議院議員で、炳五は13人きょうだいの下から2番目だった。
忍者ごっこを好むやんちゃなガキ大将だった炳五は、中学生時代には授業をさぼってよく海辺で寝ていた。落第したため、東京の私立中学に編入し、東京で暮らした。
文学や思想書を読み、運動しては走り高跳びの全国大会で優勝する中学生だった。
父親が借金を残して亡くなったため、炳五は中学卒業後、尋常小学校の代用教員となり働いた。が、仏教に興味をもちだし、20歳のとき、教員を辞めて東洋大学に入り、インド哲学、仏教学などを勉強した。サンスクリット語、パーリ語、チベット語、ラテン語、フランス語などを猛烈な勢いで学んだ。
24歳で大学を卒業した後は、ポール・ヴァレリーやジャン・コトクーなどのフランス語作品の翻訳などをしながら、同人誌に小説を発表した。
敗戦直後の40歳のとき、評論『堕落論』、小説『白痴』を発表し、社会に衝撃を与えた。織田作之助、石川淳、太宰治らとともに「無頼派」と呼ばれ、一躍人気作家となった。
40代前半のころには、ヒロポン(覚醒剤)や睡眠薬などの薬物依存や、うつ病、神経衰弱を起こした。
1955年2月、脳出血のため没した。48歳だった。
作品に『桜の森の満開の下』『不連続殺人事件』『風と光と二十の私と』などがある。

坂口安吾の作品は、若いころに読んだ。仲間だった太宰治が情緒的な魔性の文章家であるのに対して、同じデカダンスの無頼派でも、坂口は知性的で高い精神性をもつ思想家だった。「堕落せよ」というけれど、坂口安吾が薦める道は困難な、とてもきびしい道である。

「戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱(ぜいじゃく)であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。(中略)そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。」(坂口安吾『堕落論』青空文庫)
戦後の貧しい焼け跡のなかで、こういう発言をする精神の強さは敬服に値する。
実際、中途半端に堕ちている。いよいよ坂口安吾の言う通りに時代は進んでいる。
(2024年10月20日)



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10月19日・リュミエール兄弟の遺産

2024-10-19 | 映画
10月19日は、メリルリンチを創設したチャールズ・メリルが生まれた日(1885年)だが、フランスの発明家、オーギュスト・リュミエールが生まれた日でもある。映画を発明した「映画の父」リュミエール兄弟の兄のほうである。

オーギュスト・リュミエールは、1862年、フランス東部の町ブザンソンで生まれた。父親は肖像画を描く画家で、写真館の経営者でもあった。オーギュストが生まれた2年後、弟のルイ・リュミエールが生まれた。
オーギュストは19歳のころから父親の仕事を手伝いはじめ、写真の感光剤や乾板を改良した。父親は有能な息子の協力を得て、写真乾板の工場をはじめ、感光剤を販売した。
32歳のとき、パリに出向いた父親は、そこで米国の発明王エジソンが作ったキネトスコープを見た。キネトスコープは箱をのぞきこんで動画を見る仕組みの映画装置である。
父親に勧められ、オーギュストとルイの兄弟は動画の研究をはじめ、キネトスコープを改良して、映像を大きなスクリーンに投影することによって、おおぜいがいっしょに見られるシネマトグラフ・リュミエールを開発した。
リュミエール兄弟は、映画を撮影し、1895年、オーギュストが33歳のとき、パリで世界初の映画を公開した。50秒ほどの短編映画が10本上映され、スクリーンに映し出された汽車が、こちらに向かって突進してくる映像に、場内は大騒ぎになった。
5年後の1900年開催のパリ万博でも、リュミエール兄弟の映画が公開され、その動く映像の迫力は世界に衝撃を与えた。
米国のエジソンは、彼ら兄弟の映画に刺激を受け、劇場映画製作に乗りだしていき、こうして、大西洋をはさんで、米仏の発明家が影響を与えあって、映画は育っていった。
リュミエール兄弟はグレタ・ガルボやマレーネ・ディートリッヒ、ジャン・ギャバンといったスターを輩出した映画産業の隆盛をながめ、第二次世界大戦後まで生き、兄のオーギュスト・リュミエールは、1954年4月に没した。91歳だった。弟のルイは、兄より早く1948年6月に83歳で亡くなっている。

インドやアフリカでも映画は盛んだし、もちろん日本や、米国ハリウッドもあるけれど、映画の国といえば、やはりフランスである。甲斐バンドも歌っていた。
「映画を見るならフランス映画さ」(甲斐よしひろ「ポップコーンをほおばって)」

世界に映画祭は数多くあるけれど、やはり頂上に位置するのはフランスのカンヌ映画祭である。映画祭のにぎわいのほか、カルネ、ルルーシュ、トリュフォー、ゴダールといった監督たち、またあるいはベルモンド、バルドー、ドヌーヴ、ソフィ・マルソー、エマニュエル・ベアールといった映画スターたちの活躍も、リュミエール兄弟の達成の上に築かれたものだと思い返すと、彼らがフランスに残した遺産の大きさをあらためて感じる。その遺産は、極東の島国、日本にもちゃんと届いていて、その恩恵を我々はずいぶんこうむっている。
(2024年10月19日)



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『映画監督論』(金原義明)
古今東西の映画監督30人の生涯とその作品を論じた映画人物評論集。監督論。人と作品による映画史。チャップリン、溝口健二、ディズニー、黒澤明、パゾリーニ、ゴダール、トリュフォー、宮崎駿、北野武、黒沢清などなど。百年間の映画史を総括する知的追求。


●電子書籍は明鏡舎。
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