1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

4月10日・ピュリツァーの変容

2021-04-10 | ビジネス
4月10日は、映画評論家の淀川長治が生まれた日(1909年)だが、新聞王ピュリツァーの誕生日でもある。

ジョーゼフ・ピュリツァーは、1847年、ハンガリーのマコで生まれた。父親は穀物取引業を営むユダヤ人で、母親はオーストリア・ドイツ系だった。
ジョーゼフは南北戦争のとき米国へ渡り、戦争が終わってみると、18歳の、ドイツ語しかしゃべれない、長身の、ほとんど無一文の青年となってニューヨークを歩いていた。彼は、持っていたハンカチを売り、そのお金を旅費にしてセントルイスに向かった。セントルイスは、ドイツ人がたくさんいる街だからである。
セントルイスでピュリツァーは、いろいろな職業に就いて働きながら、図書館で英語を猛勉強。20歳になるすこし前に、米国の国籍を取得した彼は、新聞社の記者となり、猛烈に働いた。午前10時から翌日の午前2時まで、1日16時間働いた。
彼は新聞記者としては、政治や起業の腐敗を糾弾することに熱意を燃やし、しだいに彼の存在は人々に知られるところとなっていった。そんなとき、たまたま州議会の議員の辞職、選挙への出馬辞退が重なり、ピュリツァーは共和党の候補に指名され、当選した。新聞記者として籍をおいたまま、州の議員となったのは、22歳のときだった。
ピュリツァーは31歳のとき、赤字続きで倒産寸前だった地元紙セントルイス・ディスパッチを、競売で競り落とし、ついに自分の新聞をもつことになった。
ピュリツァーは、政治や行政の腐敗を徹底的に糾弾するキャンペーン主義を、自分の新聞に採用した。大儲けしていながら税金をほとんど払っていない金持ちの財務申告書を紙面にでかでかと載せたり、政治と起業の癒着、富くじのいんちき、独占企業を糾弾するなど、つぎつぎとキャンペーンを張り、あるいは、市民のプライベートな事件を暴露してセンセーショナルな見出しであおった。ピュリツァーは、護身用につねにピストルを持ち歩いていた。実際に殺し屋に遭遇して、危機一髪で難を逃れたこともあったという。そうして彼の新聞は部数を伸ばしていった。
36歳のとき、ニューヨークの赤字でつぶれかかっていたニューヨーク・ワールド紙を買い取った。ピュリツァーは、他紙がお高くとまった読みにくい文章で記事を書いているなかで、自分の新聞を読みやすい平易な文章の記事にし、富豪たちのあくどい富の蓄積のしかたとか、その派手な生活ぶりだとか、政治の腐敗ぶりをセンセーショナルに書き立てた。
記事にされた相手やライバル紙による、ピュリツァー個人、あるいは彼の新聞に対する中傷、攻撃も激しく、大統領に訴訟を起こされたこともあったが、彼は信念を押し通し、彼はニューヨーク・ワールド紙を全米で最大の部数を誇る新聞にまで押し上げた。
大金持ちとなった「新聞王」ピュリツァーは、1911年、サウスカロライナ州チャールストンの湾上に浮かんだ自分のヨットの船室で没した。64歳だった。

ピュリツァーは「新聞王」というより「新聞の鬼」である。若いころはもちろん、社主となってからも、ものすごい長時間働いていた。批判や中傷に屈しなかった立派な人で、ユダヤ人であることネタにずいぶん中傷を受けた。

それにしても、19歳で将来への展望が皆無の無一文の青年が、夢中になれるものを見つけ、40歳のときには希望を達成し、押しも押されぬ大富豪の実業家になっていた、というのは驚きである。人間、20年たてば、どんな人になっているか、誰もわからない。
(2021年4月10日)



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『ビッグショッツ』(ぱぴろう)
伝記読み物。ビジネス界の大物たち「ビッグショッツ」の人生から、生き方や成功のヒントを学ぶ。「新聞王」ピュリツァー、フェイスブックのマーク・ザッカーバーグ、ソフトバンクの孫正義から、デュポン財閥のエルテール・デュポン、ファッション・ブランドのココ・シャネル、金融のJ・P・モルガンまで、古今東西のビッグショッツ30人を収録。大物たちのドラマティックな生きざまが躍動する。


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4月9日・ボードレールの真実

2021-04-09 | 文学
4月9日は、映画俳優ジャン=ポール・ベルモンドが生まれた日(1933年)だが、詩人ボードレールの誕生日でもある。

シャルル・ボードレールは、1821年、仏国パリで生まれた。父親は司祭で、シャルルの誕生したとき、すでに62歳だったという。母親は28歳だった。
シャルルが5歳のとき、父親が没した。
母親は、シャルルが7歳のときに、軍人と再婚し、リヨンへ引っ越していった。
ボードレールは、放蕩好きの不良少年となり、中学を退学処分となった。女優と同棲をはじめ、亡き父親から相続した遺産を景気よくつかう生活をはじめた。この浪費ぶりをとがめられ、彼は23歳のとき、準禁治産者と認定された。
以後は、それまでのような放蕩の生活を送ることがむずかしくなり、彼は詩や評論を書き、政治運動に身を投じ、みずから新聞を発行して政論陣を張った。
36歳のとき、詩集『悪の華』を出版。この詩集は、風紀上問題ありとして、6編の詩の削除が命ぜられ、罰金刑をも課せられた。
窮乏した生活のなか、39歳のとき、アヘン体験をつづった『人工楽園』出版。
43歳のとき、エドガー・アラン・ポーの『ユーレカ』の翻訳を出版。その後も、ポーの短編小説を仏訳したり、散文詩を書いたりしていたが、しだいに梅毒によりからだをむしばまれだした。
45歳のとき、ベルギーのナミュールの寺院を見物中、卒倒。駆けつけた母親に伴われて、仏国パリにもどり入院。
その翌年、1867年8月、パリにて没。46歳だった。没後、散文詩集『パリの憂鬱』が出版された。

ボードレールを好きなのは、彼が身をもって知った「真実」を言ってくれるところである。たとえば、没後に発表された散文詩集『パリの憂鬱』中の詩「酔え」はこうはじまる。

「常に酔っていなければならぬ。すべてはそこにある。これこそ唯一無二の問題である。君の肩をめりこませ、地上へと身を傾がせるかの「時間」の怖るべき重荷を感じないためには、休みなく酔っていなければならぬ。
 しかし何によって? 酒であろうと、詩であろうと、徳であろうと、それは君にまかせる。ただひたすらに酔いたまえ。」(福永武彦訳『パリの憂鬱』岩波文庫)

これは、人生の、ほとんど唯一と言っていい真実ではないか?
芥川龍之介は『或阿呆の一生』の冒頭で言っている。
「人生は一行のボオドレエルにも若(し)かない」(『芥川龍之介全集 第8巻』岩波書店)
そうだろうか? そうかもしれない。
(2021年4月9日)



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『世界文学の高峰たち 第二巻』(金原義明)
世界の偉大な文学者たちの生涯と、その作品世界を紹介・探訪する文学評論。サド、ハイネ、ボードレール、ヴェルヌ、ワイルド、ランボー、コクトー、トールキン、ヴォネガット、スティーヴン・キングなどなど三一人の文豪たちの魅力的な生きざまを振り返りつつ、文学の本質、創作の秘密をさぐる。読書家、作家志望者待望の書。


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4月8日・ブッダの決意

2021-04-08 | 思想
4月8日は、『悪魔のトリル』の作曲家タルティーニが生まれた日(1692年)だが、仏教の開祖ブッダ(お釈迦さま)の誕生日でもある。この日、各地のお寺では、お釈迦さまの降誕をお祝いして花祭り(浴仏会)がおこなわれる(別の日におこなうところも)。

「ブッダ」こと、ゴータマ・シッダルタは、紀元前463年(異説あり)の旧暦4月8日に、現在のネパールのルンビニで誕生した。父親はシャーキャ族(釈迦族)の王さまで、ブッダは王子として生まれた。ブッダを産んだ母親のマーヤー(摩耶夫人、まやぶにん)は、出産の7日後に没した。そのため、母親の妹が、王の後妻に入り、ブッダの育ての親となった。
シッダルタは、王家の跡継ぎとして、なんの苦も知らない環境に育ったにもかかわらず、少年時代の彼は、内向的な、憂鬱に沈みがちな性格だった。それで父親の王は、息子の気がふさがないようにと、おおぜいの若い娘たちを息子のまわりにはべらせて、毎日がパーティーといった感じの環境を整えた。
16歳のとき、シッダルタは、13歳の娘を后に迎えて結婚した。
その後、シッダルタは城外へ出て、「老い」「病気」「死」という苦しみが人間にはあることを知り、また、煩悩を断ち切って、悟りを得て輪廻から解脱した「比丘(びく)」に出会った。以来、シッダルタは出家したいと願うようになった。
29歳のとき、シッダルタは王子の身分も、妻子をも捨て、城を飛びだし出家した。
各地の行者に教えを乞い、呼吸を止めたり、断食をしたりする苦行をした。そうして、苦行を重ねた末、どんな苦痛にも耐えられる自信がついたところで、
「こんなことをいくらしても、肝心の、苦痛を起こさない心を得ることはできない」
と考え、苦行をやめた。
35歳のシッダルタは、ブッダガヤの菩提樹の下で座禅を組み、瞑想していて、ついに悟りを得た。ここに彼は、人生の究極の真理を見極め、「目覚めた人」=「ブッダ」となった。
ブッダは、菩提樹の下で、5週間のあいだ、解脱の境地を味わいつづけた。
彼は、自分が得た真理は、あまりに深淵で、難解なため、それをほかの人に伝えることの困難を思って、当初は説法することをためらっていたという。しかし、説法を決意し、各地を歩いては、人々に自分の得た真理について説いてまわった。
ブッダのまわりには、しだいに彼を信奉する弟子たちが集まり、弟子たちの集団はしだいに大きくなっていった。出家せず、在家のままで、ブッダの教えに帰依する王や富豪もでてきた。
そうした富豪の在家信者のひとりから寄進されたのが祇園精舎で、そこはブッダと弟子たちの修行場となった。
高齢になってもブッダは諸国を説法をして歩きつづけ、紀元前383年(異説あり)、旅先で病に倒れ、クシナーラーの町の郊外の沙羅双樹の下で没した。80歳だった。

ブッダは、生きることを「苦しみ」ととらえ、さらにその生が輪廻して延々と続くと考えていた。その苦しみの繰り返しから、脱却する方法が、悟りを得ることで、仏教では究極的な悟りのことを「涅槃(ねはん、ニルヴァーナ)」と呼ぶ。ニルヴァーナとは、もともと火の吹き消された状態を指すことばで、煩悩の火が吹き消された、平安な心の状態をあらわす。と、その教えもさることながら、彼が快楽に満ちた王宮の生活を捨て、出家、つまり乞食にすすんでなろうとした、その強烈な決意に驚かされる。
(2021年4月8日)



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『思想家たちの生と生の解釈』(金原義明)
古今東西の思想家の生涯を紹介し、各思想家が考えた「生」の実像に迫る哲学評論。ブッダ、道元、ルターなどの宗教家から、デカルト、カント、ニーチェ、ベルクソン、ウィトゲンシュタイン、ミシェル・フーコーといった哲学者、スウェーデンボルグ、シュタイナー、オーロビンド、クリシュナムルティなどの神秘思想家、さらにマキャヴェリ、ルソー、マックス・ヴェーバー、トインビー、ブローデル、丸山眞男などなど、幅広い分野の思想家の思想を検討。生、死、霊魂、世界、存在、社会、歴史、認識について考えていきます。わたしたちはなぜ生きているのか。生きていることに意味はあるのか。そんな人生の根本問題をさぐる、生の奥にあるものを知りたい人必携の一冊です。

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4月7日・フーリエの夢

2021-04-07 | 思想
4月7日は、「奇妙な果実」を歌ったビリー・ホリディが生まれた日(1915年)だが、社会思想家シャルル・フーリエの誕生日でもある。

フランソワ・マリー・シャルル・フーリエは、1772年、仏国ブザンソンで誕生した。父親は商人だった。
フランソワは、もともと技術者志望だったが、当時の軍事工学の学校が貴族の子弟のみを受け入れていたこともあって、彼は技術者の道をあきらめた。
彼が9歳のときに、父親が亡くなった。フーリエは、20万フラン以上の遺産を相続し、彼はそのお金でヨーロッパを旅行してまわった。
19歳のときに、フーリエはブザンソンからリヨンへ引っ越し、そこの商人の下で働いた。その後、彼は知識を増やし、経験を積むためにパリ、ルーアン、リヨン、マルセイユ、ボルドーなどでも働いた。
フーリエは、商人は不正や堕落に鈍感であるとして、商業の利益のために働くのを嫌い、人類全体に奉仕したいと考えるようになった。そして本を書きはじめた。
36歳のとき、主著となる最初の本『四運動および一般運命の理論』を出版。これは、四つの運動理論と、情念引力など、フーリエ独特の理論によって、森羅万象の存在、歴史を説明しつくすという壮大なテーマをもった書物だった。
以後、この書で示した体系を理論づける著作を続けたフーリエは、1837年10月、パリで没した。65歳だった。

フーリエの思想は、米国人アルバート・ブリスベインによって米国へ伝えられ、1830年代から40年代にかけて、米国でフーリエ主義が流行した。ボストン近郊に設立されたブルック農場をはじめとする「ファランクス」という理想主義的なコミュニティー(共同生活体)が全米各地に建設された。
ファランクスとは、400人から2000人の男女が一単位となって、大きな中心となる建物に住んで共同生活をするもので、フーリエの計算によれば、ここに住めば人はおのずと善良で、自由で、退屈しない、生き生きとした生活を営むようになり、ファランクスでは生産性が通常の5倍に向上するので、人間は18歳から28歳までの10年間を働けば、あとは働かずに余生を気ままに暮らせる、という理想郷だった。
米国のファランクスは最盛期には34団体を数えたが、不慮の事故や資金の枯渇などさまざまな理由により、1850年代半ばには消滅した。

晩年、フーリエはこう呼びかけた。
「理想郷的な生活集落を作るために、100万フランを提供する慈善事業家がいたら、名乗り出てほしい」
それからフーリエは、毎日、正午になると、慈善家が現れるのを待って、かならず自宅に待機していた。それを12年間続けた。彼が期待した慈善家はついに現れなかったが、ときどき彼のような理想主義者が出て来ないと、人類はだめになってしまう。
(2021年4月7日)



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『コミュニティー 世界の共同生活体』(金原義明)
ドキュメント。ツイン・オークス、ガナス、ヨーガヴィル、ロス・オルコネスなど、世界各国にある共同生活体「コミュニティー」を実際に訪ねた経験をもとに、その仕組みと生活ぶりを具体的に紹介する海外コミュニティー探訪記。人と人が暮らすとは、どういうことか?

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4月6日・谷川浩司の底

2021-04-06 | 歴史と人生
4月6日は、夭逝の天才画家ラファエロが生まれた日(1483年。別の日生まれの説もあり)だが、将棋棋士、谷川浩司の誕生日でもある。

谷川浩司は、1962年、兵庫県神戸市で生まれた。実家は、浄土真宗の寺である。
浩司が5歳のころ、兄との兄弟げんかがおさまるようにと、親が将棋盤と駒を買い与え、彼は将棋をはじめた。以来、将棋に目のない子どもとなり、小学校2年生のときには、神戸の地下街で開催された将棋祭りに参加し、招待棋士の内藤國雄(当時八段)と対戦して、勝ったことがあるという(もちろんこれはハンディ戦で、内藤八段は、飛車、角の二枚落ちで、しかも同時に40人を相手にするという四十局同時指しだった)。
将棋の世界では、プロを目指す子どもは、日本将棋連盟のプロ棋士養成機関である奨励会というものに入会して、腕をみがくのだが、谷川は小学校5年生のときから奨励会で将棋を指した。
中学2年のとき、四段になり、プロ入り。
21歳のとき、初タイトルの「名人」を獲得。
35歳のときに5期目の名人となり、十七世名人の資格を得た。
終盤に一気にスピード感をもって相手の玉を詰めていく「光速流」と言われる棋風で知られる。
2012年、50歳で日本将棋連盟会長に就任。
2017年、54歳のとき、将棋タイトル戦でのコンピュータソフト使用疑惑問題の収拾をはかるため会長職を辞任した。

1996年、33歳のとき、王将のタイトルをもっていた谷川は、8歳年下の羽生善治に敗れ、王将の位を羽生に明け渡した。羽生はこれによって名人、竜王、棋聖、王位、王座、棋王、王将の七タイトルを独占し、谷川は無冠となった。それまで色紙にサインを求められると「王将 谷川浩司」と書いていた谷川は、以後「谷川浩司」とだけ書くようになった。
そんな無冠になった敗北者の谷川に、長野県の中学校から、「飛翔」揮毫の依頼が舞い込んだ。谷川が書いた「飛翔」を、学校に飾りたい、と。
負けた谷川になぜ? その校長は意図をこう説明した。
現代の子どもは、一度つまずくと、折れて立ち直れないもののように思いがちである。挫折した経験を、転じてプラスにして、ふたたび立ち上がっていく経験を、子どもたちに示したい。そこで、いま無冠となった谷川が書いた「飛翔」の文字こそ、これからふたたび復活する谷川の姿と重なり、子どもたちに強い説得力をもって響くであろう、と。
このことばが谷川を奮起させ、無冠となった同じ年の11月、谷川は竜王戦の挑戦権を得て、竜王・羽生と対局。谷川は四勝一敗で勝ち、みごと竜王に返り咲いた。
その後、谷川は名人にも返り咲き、十七世名人の資格を得た。

調子のいいとき、羽振りのいいときは、誰でもいい顔をしていられる。まわりの人もちやほやしてくれる。でも、落ち目になったとき、どん底にいるとき、平然としているのはむずかしい。苦しいときは、みんな知らんぷりだったり。でも、そういうときこそ、「底の人」かどうかが問われるときである。
(2021年4月6日)



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『誇りに思う日本人たち』(ぱぴろう)
誇るべき日本人三〇人をとり上げ、その劇的な生きざまを紹介する人物伝集。松前重義、緒方貞子、平塚らいてう、是川銀蔵、住井すゑ、升田幸三、水木しげる、北原怜子、田原総一朗、小澤征爾、鎌田慧、島岡強などなど、戦前から現代までに活躍した、あるいは活躍中の日本人の人生、パーソナリティを見つめ、日本人の美点に迫る。すごい日本人たちがいた。


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