1日1話・話題の燃料

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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

7月6日・フリーダ・カーロの独創

2021-07-06 | 美術
7月6日は、俵万智が「この味がいいねと君が言ったから七月六日はサラダ記念日」と歌った「サラダ記念日」。この日は、ダライ・ラマ14世が生まれた日(1935年)だが、メキシコの女流画家、フリーダ・カーロの誕生日でもある。

マグダレーナ・カルメン・フリーダ・カーロ・イ・カルデロンは、1907年、メキシコの首都メキシコシティに近いコヨアカンで生まれた。父親はユダヤ系ドイツ人の写真家で、母親はネイティブ・アメリカンとスペイン人の血を引いていた。
6歳のとき、フリーダは小児麻痺にかかり、右足の発育が遅れ、左足に比べて細くなってしまった。このため、彼女はずっと長いスカートを愛用しつづけた。
15歳の年に、フリーダは、国立予科高等学校へ入学した。このメキシコ最高の教育機関に女性が入学したのは、彼女らの学年がはじめてだった。この学校在学中に、フリーダは、政治や絵画に傾倒するようになった。
18歳のとき、彼女は乗っていたバスが路面電車と衝突するという大事故に遭遇した。この事故で、彼女のからだは押しつぶされ、脊柱、鎖骨、肋骨が折れ、右足の骨が11カ所で砕け、鉄製の手すりが腹部に突き刺さり、彼女の子宮を貫くという重傷を負った。一命はとりとめたものの、3カ月の入院生活を余儀なくされ、35回の外科手術を受けることになった。ふたたび歩けるようにはなったが、彼女は後遺症による激痛に生涯つきまとわれることになり、子どもが産めなくなった。
21歳のときメキシコ共産党に入党したフリーダは、巨漢の壁画画家、ディエゴ・リベラと知り合い、恋に落ちた二人は結婚した。フリーダ22歳、リベラ43歳、21歳の歳の差婚で、その見た目から、二人は「美女と野獣カップル」と呼ばれた。
リベラは漁色家として有名な男で、結婚してからもその癖は治らず、間なしに女性と関係をもちつづけ、フリーダの妹にまで手を出した。一方、フリーダはバイセクシュアルで、同性とも異性とも関係をもった。彼女が同性と関係をもつことには、リベラは目をつぶったが、男との関係については嫉妬したと言われる。フリーダは、アメリカ人彫刻家のイサム・ノグチや、ソビエト連邦から追われてきた革命家のトロツキーとも関係があった。フリーダは子を身ごもったこともあったが、流産した。
フリーダの絵画が評価されだし、画家としての活動が忙しくなってくると、彼らの夫婦仲は疎遠になっていき、フリーダが32歳のとき、二人は離婚した。
彼女の体調が悪化し、創作活動が困難になってくるに及び、彼女はリベラに再婚を打診し、リベラはそれを受け入れた。二人は、離婚した翌年、ふたたび結婚した。
46歳のとき、フリーダは、壊疽が進んだ右足を切断。義足を使用するようになった。
生涯を病気と事故による激痛に苦しめられつづけたフリーダは、1954年7月に没した。47歳だった。死因は肺炎による病死とされているが、自殺説も存在する。検屍はおこなわれていない。

見る者に強烈な印象を与えるフリーダの絵画は、ピカソも絶賛し、こう言った。
「彼女の絵は、ほかの者にはけっして描けない」
まったくその通りで、フリーダ・カーロは、まったくの個人的な事情を、超現実主義的な自画像にして芸術にまで昇華させた画家で、いわば「自分へこだわり」が美術史上にそびえ立っているのである。
(2021年7月6日)



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