1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

7月31日・J・K・ローリングの大逆転

2023-07-31 | 文学
7月31日は、『遠野物語』を書いた柳田國男が生まれた日(1875年)だが、英国の女流作家、J・K・ローリングの誕生日でもある。「ハリー・ポッター」シリーズの作者である。

J・K・ローリングは、1965年、英国イングランドのグロスタシャーで生まれた。本名は、ジョアン・ローリング。父親は航空技術者だった。
子どものころから、物語を書くのが好きだったジョアンは、25歳のころ、ロンドンからマンチェスターまで通勤していた。ある日、彼女がロンドンへもどる列車に乗っていると、機械のトラブルで列車が停車した。彼女は窓から牧草地の牛をながめていた。そのとき、魔法使いの少年「ハリー・ポッター」のアイディアがとつぜん頭にひらめいた。ハリーの人となりや、魔法学校の様子などがつぎつぎと浮かんできた。それから彼女は、朝から晩まで、仕事中も「ハリー・ポッター」の構想を練るようになり、たちまち仕事を失った。
28歳のころには、ローリングは赤ちゃんを連れた母子家庭の母親となっていた。彼女はエディンバラで生活保護を受け、魔法使いの小説を書いた。娘を乳母車に乗せてカフェて行き、コーヒー一杯でねばり、乳母車を片手で揺らしながら、片手でペンを走らせた。
そうして書き上げられた『ハリー・ポッターと賢者の石』は、12社の出版社に断られた後に、ようやく出版にこぎつけた。『賢者の石』は、売れに売れ、世界的なベストセラーとなり、ハリウッドで映画化された。ローリングは歴史上もっとも成功した作家となり、大金持ちになり、勲章を授与された。生活保護の母子家庭の大逆転劇である。彼女は「ハリー・ポッター」を完結させた後、大人向けの小説『カジュアル・ベイカンシー』を発表し、また、別のペンネームで探偵小説も書いている。

出版の業界人にとって「ハリー・ポッター」の成功は鮮烈だった。日本国内でも、その翻訳出版によって、傾いていた小出版社、静山社が一気に大発展し、シリーズ新刊が出るたびに日本の出版統計さえも大きく変動した。「ハリー・ポッター」の新刊が出れば出版界は好景気だったことになり、出なければ不景気だったことになった。それくらい巨大な本だった。拙著『名作英語の名文句』でも「ハリー・ポッター」を取り上げた。

ローリングの無名時代のこと。生活保護を受け、娘に貧しい暮らしを強いながら、世に出るかどうかもわからない魔法使いの話の執筆にうつつをぬかしてよいものか、という迷いは、ローリングにもあったようだ。まともな職業に就き地道に働くべきではないか、と。
たとえ、書いたものが本になったとしても、それで大金が転がりこんでくるなどとは、彼女自身、想像していなかった。迷いはとうぜんだったろう。
そんなとき、妹のダイに物語のことを話すと、ぜひ書いたものを見せてほしいと言ってきた。彼女はこれまでに書いた第三章までの原稿を見せた。
「もしもダイが笑ってくれなかったら、何もかも放り出してしまうつもりでした」(ショーン・スミス著、鈴木彩織訳『J.K.ローリングその魔法と真実』メディアファクトリー)
妹は笑った。それで、作品の続きを、彼女は猛然と執筆しだした。とにかく、まずこれを完成させ、それから就職運動をはじめよう、と。
やはりクリエイターというのは孤独なものだ。どんな大傑作も、誰かそばにいる人の温かい励ましがなかったら、作品は完成しないし、大逆転ドラマも起こらない。
(2023年7月31日)



●おすすめの電子書籍!

『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句』(越智道雄選、金原義明著)
「風と共に去りぬ」から「ハリー・ポッター」まで、英語の名作の名文句(英文)を解説、英語ワンポイン・レッスンを添えた新読書ガイド。


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7月30日・新美南吉の詩情

2023-07-30 | 文学
7月30日は、『嵐が丘』を書いた作家、エミリー・ブロンテが生まれた日(1818年)だが、日本の夭逝した作家、新美南吉(にいみなんきち)の誕生日でもある。

新美南吉は、渡辺正八(わたなべしょうはち)として1913年、愛知県知多郡の半田で生まれた。父親は畳屋で、正八は次男だった。名前は実は、兄が生後18日で亡くなっていたため、2人分生きるようにと兄の名「正八」を名付けられたものだった。
4歳のとき母親が病死し、彼は8歳でいったん産みの母親の実家の養子に出され、ここで彼の姓は「新美」となった。幼子のこと、寂しさ極まりない様子に、正八はすぐに実家へ戻されたが、姓は「新美」のまま残された。
父親は畳屋に学問はいらないという主義だったが、正八は突出した秀才だったため、教師が父親を説得し、正八は進学できることになった。
子どものころから身体が弱いかわりに勉強はよくできた彼は、10代半ばから童話や童謡を作り、ガリ版刷りの同人誌を作っていた彼は、その後、地元で代用教員をし、上京しては東京外国語学校(現在の東京外国語大学)の学生となって、「チチノキ」「赤い鳥」などの文芸雑誌に童謡や童話を投稿していた。
東京で大詩人・北原白秋の知己を得、師事するようになった彼は、童話や小説を精力的に書きつづけた。
19歳のころ「ごん狐」「のら犬」を発表。
そして21歳のころ、喀血した。
外語学校を卒業した後は、不景気の就職難のなか、商工会議所に勤めるかたわら創作を続けたが、23歳のころ、2度目の喀血をして倒れ、帰郷した。故郷に戻って養生し、小学校の代用教員をしたり、女学校の教師をしたりしながら創作を続けた。
良寛の伝記『良寛物語 手毬と鉢の子』を書き、27歳のころには文名も上がってきた。が、外の世界は戦争の暗い時代であり、彼の身体のなかでは病気が進行していた。それでも新美南吉は腎臓炎、喉頭結核のため、血尿を漏らし、喀血するからだをだましだまし、無理を押して創作活動を続けた。
29歳のとき、初の童話集『おぢいさんのランプ』出版。
そして、太平洋戦争中だった1943年3月に没した。29歳だった。

一時期、新美南吉の児童文学を集中して読んだことがある。名品「手袋を買いに」「ごん狐」はもちろんのこと、「おじいさんのランプ」「牛をつないだ椿の木」「でんでんむしのかなしみ」「川」「花のき村と盗人たち」などなど、いずれも興味深く、おもしろく読んだ。駄作がない人、つまり、若くして名人だった。
新美南吉の作品は、当たり前かもしれないが、それぞれの話ごとに趣が異なり、その趣がまたなんとも味わい深い。作品ごとに作者のいろいろな面を見せてくれる、頭のなかに広い世界、深い思想をもっている人である。この、暗い息苦しい時代に、病弱なからだをもって生き、若くして亡くなってしまったのが惜しまれる。豊かで、清冽な詩情の人だった。

「やがて、行手にぽっつりあかりが一つ見え始めました。それを子供の狐が見つけて、
『母ちゃん、お星さまは、あんな低いところにも落ちているのねえ。』とききました。
『あれはお星さまじゃないのよ。』と言って、その時母さん狐の足はすくんでしまいました。
『あれは町の灯なんだよ。』」(新見南吉・作『手ぶくろを買いに』偕成社)

新鮮な感受性をもち続けたいものだ。
(2023年7月30日)



●おすすめの電子書籍!

『世界大詩人物語』(原鏡介)
詩人たちの生と詩情。詩神に愛された人々、鋭い感性をもつ詩人たちの生き様とその詩情を読み解く詩の人物読本。ゲーテ、バイロン、ハイネ、ランボー、ヘッセ、白秋、朔太郎、賢治、民喜、中也、隆一ほか。彼らの個性、感受性は、われわれに何を示すか?


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7月29日・重光葵の日本

2023-07-29 | 歴史と人生
7月29日は、ハンセン病を研究した医学者、アルマウェル・ハンセン(1841年)が生まれた日だが、外交官・政治家の重光葵(しげみつまもる)の誕生日でもある。

重光葵は、1887年に大分の大野で生まれた。父親は漢学者で、大分県庁や大野郡の郡長を務めた人物だった。葵は八人きょうだいの上から四番目の次男だった。
父親は学問にのみ関心をもち、家計をかえりみなかったため、家は貧しかったが、葵はなんとか進学し、東京帝国大学の法学部を出た。大学卒業後、外交官試験に合格し、25歳の年にドイツに渡り、外交官補として着任した。以後、欧米の列強国を渡り歩き、第一次大戦集結後のパリ講和会議にも出席した。
1931年、満州で日本の関東軍が暴走し、満州事変がはじまった。45歳の重光は上海に公使として赴任した。すると、上海でも日本軍と中国軍の衝突が勃発。重光は中国側と交渉して、なんとか停戦案をとりまとめるが、その停戦文書調印を目前にした4月29日の天長節の式典会場に爆弾が投げこまれた。爆発により、重光は両足に重傷を負い、病院に担ぎ込まれた。病院へ駆けつけた警察署長に向かって彼は命令した。
「『犯人は取り逃がさぬよう厳重捕縛は必要だが、これに虐待暴行を加うる如きは一切厳重に取り締まってもらいたい』との厳命を下した。私はこのような列国環視の中にあっては日本は飽くまでも大国らしく男性らしく行動したいと考えた。」(重光葵『外交回想録』中公文庫)
重光は、結局右足を切断することになった。重光は、皇后から恩賜された義足をつけ、欧州各国を駆けまわり、各国首脳と意見を交換し、欧州の状況を日本へ伝え、欧州ではじまったヒトラーたちの戦争に日本はけっして巻き込まれてはならない旨を力説したが、一方で、アジアでは日本軍が暴走を続け、外相になった松岡洋右は、外務省の役人を大量にクビをきり、日本の参戦近しと演説をぶち、日独伊三国同盟を結んでしまった。
ナチス・ドイツ軍による空襲下のロンドンで、重光はこれから敵になる英国首相チャーチルと涙の握手をして別れてきた。
53歳の重光が帰ってくると、すぐに日米開戦となった。重光は戦時下の外務大臣となり、軍部主導による冷徹なアジア支配を、穏やかにアジアが共和するものへとすり替えるよう努力し、また終戦工作をおこなった。
58歳で1945年8月の敗戦を迎え、9月には、日本の首席全権としてミズーリ号艦上で降伏文書の調印式に臨んだ。調印式から帰った重光の耳に、連合軍司令部のマッカーサー元帥が日本に軍政を敷く布告を出すとの報を聞き、あわててマッカーサーに面会を求め、軍政は敷かず、日本政府を通して占領政策を実行するべき旨を力説して、ついにマッカーサーを納得させた。戦後の占領体制は、重光の説得によって、ずいぶんやわらかなものになった。
つねに戦争回避、平和を目指した重光だが、かつて駐ソビエト連邦公使時代、満州で日ソが軍事衝突した際にソ連側のうらみを買っていたことから、東京裁判ではA級戦犯として禁固刑7年の実刑判決を受けた。
釈放、公職追放解除後は、国会議員となり、鳩山内閣の副総裁・外務大臣として国際交渉の現場に復帰し、日ソ間の国交正常化交渉や北方領土返還交渉、日本の国際連合加盟に尽力し、69歳のとき、米ニューヨークの国際連合で、日本代表として加盟受諾演説をおこなった。その翌月、1957年1月に没した。69歳だった。
(2023年7月29日)



●おすすめの電子書籍!

『誇りに思う日本人たち』(ぱぴろう)
誇るべき日本人三〇人をとり上げ、その劇的な生きざまを紹介する人物伝集。松前重義、緒方貞子、平塚らいてう、是川銀蔵、住井すゑ、升田幸三、水木しげる、北原怜子、田原総一朗、小澤征爾、鎌田慧などなど。日本人の美点に迫る。


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7月28日・ジャクリーン・ケネディの強

2023-07-28 | 思想
7月28日は、音楽家の大瀧詠一が生まれた日(1948年)だが、米国の大統領夫人ジャクリーン・ケネディの誕生日でもある。駐日米国大使キャロライン・ケネディの母親である。

ジャクリーン・リー・ブーヴィエは、1929年、米国ニューヨークで生まれた。父親はフランス、スコットランド、イングランドなどの系統を受け継ぐ株式仲買人で、母親はアイルランド系で、ジャッキーの母方の祖父は銀行の頭取だった。彼女が11歳のとき、両親が離婚し、母親はスタンダード石油の跡取りと再婚して、2人の異父きょうだいが生まれた。
裕福な環境に育ったジャッキーは、早くから馬に乗り、乗馬を終生の趣味とした。
ニューヨークやマサチューセッツ、仏国パリ大学など、各地の大学で学んだ彼女は、22歳のとき、ワシントンDCの大学でフランス文学を修めて卒業。卒業後は「ワシントン・タイムズ・ヘラルド」紙と契約し、街で会った人の写真を撮り、その人のコメントとともに載せるというカメラマンの仕事をしていた。
22歳のとき、ジャッキーはディナー・パーティーで、当時上院議員選の準備中だったジョン・ケネディ下院議員と知り合い、翌年、23歳で結婚した。彼女の名前は、ジャクリーン・リー・ブーヴィエ・ケネディとなった。
夫ジョン・ケネディが、1961年に米大統領に就任すると、彼女は大統領夫人となったが、31歳の彼女の若さ、華やかさは歴代ファーストレディのなかでも群を抜いていた。ジャッキーはホワイトハウスを改革し、家族用スペースにキッチンや子ども部屋を作り、公務用スペースの家具や調度品を伝統的な米国風でそろえ、ホワイトハウスのガイドブックを出版し、マスコミに内部を公開した。彼女はホワイトハウスを、みんなが誇りに思い、みんなが見に来たくなる場所へと造り替えた。
外遊先のメキシコやフランスなどでは、ジャッキーはその国のことばでスピーチし大歓迎を受けた。米大統領夫妻が訪仏した際、パリの新聞はこう書きたてた。
「彼女はひとり男を連れてきた」
ジョン・ケネディ大統領は笑ってこう応じた。
「わたしはジャクリーン・ケネディのお供でパリにきた男だ。お供は楽しかったよ!」(I am the man who accompanied Jacqueline Kennedy to Paris and I have enjoyed it!)
1963年11月、テキサス州ダラスの通りをオープンカーでパレード中、ケネディ大統領はライフル銃で狙撃された。となりに乗っていたジャッキーは、大統領が頭部を撃たれると、クルマの後部に身を乗りだした。銃撃でふき飛んだ夫の頭蓋骨を拾うためだった。
34歳で未亡人となったジャッキーには、長女キャロライン、長男ジョン・ジュニア、ふたりの子どもが残された。38歳のとき、亡き夫の弟ロバート・ケネディが暗殺されると、つぎは自分の子かもしれないと、米国離脱を決心。39歳のとき、当時、世界一の金持ちと言われたギリシアの海運王アリストテレス・オナシスと結婚した。彼女の名前は、ジャクリーン・リー・ブーヴィエ・ケネディ・オナシスとなった。
オナシスが1975年3月に没し、ジャッキーは45歳にしてふたたび未亡人となった。その後、彼女は編集者となり、ゴシップ・ジャーナリズムに追われながら出版活動をつづけた。そして1994年5月、悪性リンパ腫により、ニューヨークで没した。64歳だった。

ジャッキーは世界最強国の上流階級。自分から見ると別世界の住人である。彼女は知性と美貌を兼ね備え、世界一の権力者と世界一の富豪の両方を手に入れた。しかし、その生涯は悲劇的な場面が多かった。美しさのなかに、人生を生き抜く強さを秘めた人だった。
(2023年7月28日)



●おすすめの電子書籍!

『映画の英語名ゼリフ』(金原義明)
英語映画の名作から、元気になる名ゼリフ、癒される名文句の数々をピックアップして原語(英語)を解説。英語ワンポイン・レッスンを添えた新スタイルの映画紹介。「アナと雪の女王」「ハリー・ポッター」「バック・トゥ・ザ・フューチャー」「ブレードランナー」「燃えよドラゴン」「ローマの休日」「シェーン」「カサブランカ」「風と共に去りぬ」などなど歴代の名作が目白押し。これだけは聞き取りたいという輝く英語フレーズが満載。これであなたも映画英語の通人。


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7月27日・山本有三の石

2023-07-27 | 文学
7月27日は、ハンガリーの物理学者ロラーンドが生まれた日(1848年)だが、作家、山本有三の誕生日でもある。

山本有三は、1887年、栃木県の栃木で生まれた。本名は、勇造といった。父親は宇都宮藩の足軽で、母親は製菓、製茶業をいとなむ家の娘だった。勇造の二つ上に姉が生まれていたが、すぐに亡くなったため、彼は事実上の一人っ子となった。勇造自身も生まれつきひ弱で、生後3週間後に、医師から死を宣告されたという。
15歳の年に高等小学校を卒業した勇造は、東京の呉服屋へ丁稚奉公に出された。約1年後、彼は呉服屋から逃げだして、実家へ帰った。勉強をしたい旨を訴えたが、父親は聞き入れず、やむなく彼は家の手伝いをしてすごした。
18歳になる年、母親のとりなしで、東京の予備校に通いだした。
その後、高校入試を受け、何度か合格したが、そのたびに、父親が没したり、身体検査で落とされたりして入学できずにいたところ、22歳の年にようやく一高に入学し、25歳で東京帝国大学に入学した。専攻は独文で、在学中には演劇活動で名をあげるとともに、芥川龍之介、菊池寛、久米正雄らと同人誌「新思潮」(第三次)を創刊した。
大学卒業後、しばらく演劇一座の脚本家として地方を巡業してまわっていたが、30歳のころ、旅芝居から足を洗い、早稲田大学のドイツ語講師の職につき、戯曲を書いては雑誌に発表した。
36歳のころ、大学講師をやめて、演劇雑誌の編集をしながら、戯曲を書きつづけた。
39歳のころ、はじめて書いた小説『生きとし生けるもの』を新聞に連載。以後、『女の一生』『真実一路』『路傍の石』などを書き、59歳になる年に貴族院議員となり、貴族院廃止後、参議院議員に立候補して当選し、政治家としても活躍した。
1974年1月、脳梗塞と心不全により没。86歳だった。

代表作『路傍の石』は、未完の小説である。左翼を取り締まっていた当時の官憲から横やりが入り、いやになって放りだしたのだった。未完ながら、作品は映画化されて大ヒットし、本も版を重ねてロングセラーとなり、世代を超えて読みつがれる名作となった。
しかし、作者、山本有三が当初意図していた半分にも満たないところで終わりになったとも言われ、この後、いよいよ主人公、吾一のほんとうの人生の闘いがはじまるのにちがいなく、とても惜しい小説である。
山本有三は「あとがき」でこう書いている。
「『路傍の石』は、ついに路傍の石に終わる運命をになっているものとみえる。この作品は、作中の主人公と同じように、絶えず何ものかにけとばされる。」(同前)
けとばされ、けとばされながらも、たった一度の人生、である。
(2023年7月27日)



●おすすめの電子書籍!

『小説家という生き方(村上春樹から夏目漱石へ)』(金原義明)
人はいかにして小説家になるか、をさぐる画期的な作家論。村上龍、村上春樹から、団鬼六、三島由紀夫、川上宗薫、江戸川乱歩らをへて、鏡花、漱石、鴎外などの文豪まで。新しい角度から大作家たちの生き様、作品を検討。読書体験を次の次元へと誘う文芸評論。


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7月26日・ミック・ジャガーの筆力

2023-07-26 | 音楽
7月26日は、映画監督スタンリー・キューブリックが生まれた日(1928年)だが、ザ・ローリング・ストーンズのミック・ジャガーの誕生日でもある。

ミック・ジャガーこと、マイケル・フィリップ・ジャガーは、1943年、英国イングランドの、ロンドンの南東にあるケント州ダートフォードで生まれた。ナチス・ドイツによって英国が爆撃されていたころのことで、父親は師範学校の体育講師で、母親は美容師だった。ミックには4歳年下の弟がいた。
ミックは小学校を卒業し、グラマー・スクールに進んだ12歳のころ、駐留米軍兵士を通じて黒人音楽にはじめて触れた。
14歳の時分からミックは学業をさぼりだし、しだいに反抗的になった。学校ではバスケットボール選手で、男友だちと性行為にふけり、チャック・ベリーのレコードを聴き、アマチュア・バンドで歌った。受験前に猛勉強し、名門ロンドン・スクールオブ・エコノミックスに入ったが、ある冬の朝、通学途中に、小学校のとき同級生だったキース・リチャーズとばったり再会し、音楽の話で意気投合した。二人は、ブライアン・ジョーンズが募集した新バンドに加わり、ミックはバンドのボーカリストとなった。
マリリン・モンローを見て研究したという、髪を振り乱し、唇を突き出し、観客を挑発するように歌うミックのステージパフォーマンスは斬新なもので、拒絶する聴衆も多かったが、悲鳴をあげて絶賛する聴衆の声がブーイングの声を上回った。
彼らのバンド「ザ・ローリング・ストーンズ」は、営業戦略上、先にデビューしていた「ザ・ビートルズ」と対照的に不良のイメージを前面に押し出し、人気バンドとなった。ストーンズのステージは、少女たちの悲鳴が鳴り響く一方で、客席から棒切れが飛んできて、若者がステージに上がり殴りかかってきたりする殺伐とした側面があった。
「サティスファクション」「悪魔を憐れむ歌」「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」などの大ヒットを放ち、当初バンドのリーダーだったブライアン・ジョーンズが亡くなり、名実ともにミックとキースの2枚看板のバンドとなったローリング・ストーンズは、その後「ブラウン・シュガー」「ダイスをころがせ」「悲しみのアンジー」「ミス・ユー」「エモーショナル・レスキュー」「スタート・ミー・アップ」などのヒット曲を放ち、21世紀に入った現代も現役をなお続ける長寿バンドとなった。

ミック・ジャガーはスタジオで集中力を発揮し、短時間で曲の歌詞を書き上げるらしい。
ミックはバイセクシュアルで、ブライアン・ジョーンズやデヴィッド・ボウイと関係をもつ一方で、寸暇を惜しまず女体を求めてきた漁色家で、若いころから女性にラブレターをたくさん出していた。彼の元恋人クレオ・シルベスターは言っている。
「あのころでも、男の子があんなにいっぱいラブレターを書くなんてめずらしかった。しかも私たちは週に二回は会ってたのよ。」(クリストファー・アンダーセン著、小澤瑞穂訳『ミック・ジャガーの真実』福武書店)
ミックが何度も婚約しては破棄し、エンゲージリングをいくつも贈った女性クリッシー・シュリンプトンは、彼からラブレターを六〇〇通受け取ったという。短時間で歌詞を書くミック・ジャガーの筆力は、ラブレター書きによって培われたのにちがいない。
(2023年7月26日)



●おすすめの電子書籍!

『ロック人物論』(金原義明)
ロックスターたちの人生と音楽性に迫る人物評論集。エルヴィス・プレスリー、ボブ・ディラン、ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ミック・ジャガー、キース・リチャーズ、ジミー・ペイジ、デヴィッド・ボウイ、スティング、マドンナ、マイケル・ジャクソン、ビョークなど31人を取り上げ、分析。意外な事実、裏話、秘話、そしてロック・ミュージックの本質がいま解き明かされる。


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7月25日・中村紘子の挫折

2023-07-25 | 音楽
7月25日は、『眩暈』の作家カネッティが生まれた日(1905年)だが、ピアニスト中村紘子(なかむらひろこ)の誕生日でもある。
いまでこそ、日本にはいたるところでクラシックが盛んに演奏されているけれど、以前はそうではなかった。日本の一般庶民には、クラシックは縁遠い存在だった。そんな日本国民に西洋音楽を聴かせ、啓蒙し、根付かせた功労者が、芥川也寸志、團伊玖磨、黛敏郎といった人々であり、中村紘子だった。

中村紘子は、1944年に山梨で生まれた。出生時の本名は野村紘子で、父親は軍人だった。疎開先で生まれた彼女は、3歳のころからピアノを習いだし、10歳のときには、全日本学生音楽コンクールピアノ部門小学生の部で第1位となった。
中学2年生のとき東京で、来日していたウクライナ出身のピアニスト、エミール・ギレリスのリサイタルを聴き、衝撃を受けた。
「ピアノとはこういう音が出るものなのか。ピアノとはこう弾くものなのか」(中村紘子『チャイコフスキー・コンクール』中央公論社)
以来、彼女はギレリスに教えてもらう日を夢見てピアノレッスンにいっそう励みだし、15歳のとき、日本音楽コンクールで第1位を獲得した。
16歳でピアニストとしてデビューしていた彼女は、小澤征爾や諏訪内晶子を輩出した音楽の名門、桐朋学園に在籍していたが、18歳のとき同校を中退して、奨学金を獲得し、ニューヨークのジュリアード音楽院に留学した。
21歳のとき、ショパン国際ピアノコンクールで第4位に入賞。以後、国内外でリサイタルを開き、ショパン・コンクールや、チャイコフスキー・コンクールなどの審査員を務めながら、作家としても活躍を続けている。
30歳のとき、作家の庄司薫(本名、福田章二)と結婚し、本名が福田紘子となった。
45歳のとき、エッセイ集「チャイコフスキー・コンクール」で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。64歳で紫綬褒章を受章した後、2016年7月、大腸がんにより没した。72歳だった。

中村紘子の足跡は、天才ピアニストの順風満帆の人生と見えるけれど、実情はそうばかりでもないらしい。彼女自身の回想によれば、18歳で渡米し、ジュリアード音楽院に入ったとき、彼女はボロボロになったという。幼少時から教わってきて、全国で1位になり、ソリストとしても活躍し「天才少女」の名をほしいままにしてきた自分の、これまでの演奏法をすべて忘れて、基礎からやり直そうと教師に言われたからだった。
「それこそもうショックで無気力になって、壁を見つめて一日ボーッという感じで、ピアノにも触れないという状態が半年ほど続きましたね。十八歳だったからよかったけれど、三十八歳だったらほんとうに久野久と同じ投身自殺だったでしょう。」(中村紘子『アルゼンチンまでもぐりたい』文藝春秋)
それから3年後、ショパン・コンクールに出たときも、中村紘子はいまだに精神的にも技術的にもショックから立ち直っていなかった。風邪と下痢で38度の高熱をおしてコンクールのピアノを弾いた。それで4位入賞、最年少者賞受賞になった。
やはり人は、逆境でこそ、真価を問われ、真価を発揮するもの。
(2023年7月25日)



●おすすめの電子書籍!

『大音楽家たちの生涯』(原鏡介)
古今東西の大音楽家たちの生涯、作品を検証する人物評伝。彼らがどんな生を送り、いかにして作品を創造したかに迫る。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ショパンから、シェーンベルク、カラヤン、ジョン・ケージ、小澤征爾、中村紘子まで。音に関する美的感覚を広げる「息づかいの聴こえるクラシック音楽史」。


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7月24日・谷崎潤一郎の道

2023-07-24 | 文学

7月24日は「パリの王様」アレクサンドル・デュマが生まれた日(1802年)だが、日本の文豪、谷崎潤一郎の誕生日でもある。

谷崎潤一郎は、1886年、東京の日本橋で生まれた。祖父が、活版所や洋酒を扱って成功した実業家で、父親はそこへ入った婿養子だった。潤一郎は次男だったが、長男が早産で死んだため、事実上、長男になった。潤一郎の下に弟が3人、妹が3人いた。
成績はつねに優秀で「神童」と呼ばれ、小学校時代の教師の影響で、早くから文学に関心をもった。17歳のとき「学友雑誌」に彼はこう書いた。
「われ幼きより、最も嫌ひしは軍人にて、次は商人なりき。たとへ名声を世界にふるひ、功名を天下にたつとも、他人の生命を奪ひ、刃をふるひて血を流すは、これをしも人の道にかなへりとやいはむ。たとへ巨万の富を重ね、栄華の春にふけるとも、ただ夢の世を夢とすぐすは、あはれ人と生れし甲斐ぞなき」(「春風秋雨録」『新潮日本文学アルバム7 谷崎潤一郎』新潮社)
東京帝国大学の国文科に入学した谷崎は、仲間と同人誌「新思潮」(第二次)を創刊し、その雑誌に小説『刺青』を発表した。この耽美主義の傑作が作家の永井荷風に激賞され、注目の新進作家となった。以後、『痴人の愛』『蓼食ふ虫』『吉野葛』『蘆刈』『春琴抄』『細雪』『少将滋幹の母』『鍵』『瘋癲老人日記』など名作を書き、生涯を通じて絶大な人気と存在感を示しつづけた。一文一文が長い、王朝風を感じさせる華麗な文章を書いた名文家だが、その文章の論理はひじょうにすっきりと整っていて、その本質はじつは西洋的な作家だとも言われる。
1965年7月、腎不全から心不全を併発し没した。79歳だった。

日本人で最初にノーベル文学賞候補に名がのぼったのは、谷崎潤一郎だった。

全集のほか、谷崎についての資料をたくさんもっているが、谷崎文学の魅力はまず、その文章にある。とにかく文章が平易でわかりやすい。論理が明晰に通っている。それでいて流麗で、文章の上手さに酔ってしまう。それから、趣向が凝っていて、題材と筋立てがひじょうにおもしろい。読み出すと、止まらなくなる。ページを繰っていると、読者の首根っこをつかんで離さない、谷崎の強い腕力を感じる。

日本の古代から現代にいたる文学の歴史を通じて、谷崎こそはいちばん姿の大きな作家かもしれない。紫式部や滝沢馬琴より大きい。「大谷崎」という自分の運命をしっかりと見据え、大作家の道を若いときから信じて歩き、その道をまっすぐ歩いて世界の谷崎になった。そんな巨大さを感じる。
三島由紀夫がうまいことを言っている。
「八十年の生涯を通じて、氏がほとんど自己の資質を見誤らなかったということはおどろくべきことである。横光利一氏のように、すぐれた才能と感受性に恵まれながら、自己の資質を何度か見誤った作家のかたわらに置くと、谷崎氏の明敏は、ほとんど神のように見える」(「谷崎潤一郎」『作家論』中公文庫)
(2023年7月24日)



●おすすめの電子書籍!

『小説家という生き方(村上春樹から夏目漱石へ)』(金原義明)
人はいかにして小説家になるか、をさぐる画期的な作家論。村上龍、村上春樹から、団鬼六、三島由紀夫、川上宗薫、江戸川乱歩らをへて、鏡花、漱石、鴎外などの文豪まで。新しい角度から大作家たちの生き様、作品を検討。読書体験を次の次元へと誘う文芸評論。


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7月23日・チャンドラーの粋

2023-07-23 | 文学
7月23日は、たきぎを背負って本を読む二宮金治郎こと二宮尊徳が生まれた日(天明7年・1787年)だが、米国の推理作家、レイモンド・チャンドラーの誕生日でもある。「私立探偵フィリップ・マーロウ」の生みの親である。

レイモンド・ソーントン・チャンドラーは、1888年、米国イリノイ州のシカゴで生まれた。両親ともクエーカー教徒で、父親は鉄道技師で、酒飲みだった。レイモンドがまだ少年だったころ、両親は離婚し、レイモンドは12歳のとき、母親とともに英国へ渡った。母親は英国で息子にちゃんとした教育を受けさせようと思ったのだった。
レイモンドは高校を出ると、仏国パリ、独国ミュンヘンなどに留学した後、イギリスへ戻り、19歳のとき、英国国籍を取得した。海軍に勤務した後、新聞や雑誌に文章を発表。23歳のときにアメリカへもどった。石油会社役員などを務め、35歳のとき、18歳年上にあたる53歳の女性ピアニストと結婚した。
不況中の1932年、44歳で失業。その頃読んだアール・ガードナーやダシール・ハメットなどのハードボイルド探偵小説に強く影響され、一念発起して探偵小説を書きはじめた。
51歳の年に、私立探偵フィリップ・マーロウ・シリーズの第一作『大いなる眠り』を発表。独特の美学を持ったこのタフガイ探偵マーロウの創造と、洒落た警句や比喩のちりばめられた華麗な文章によって、一躍人気作家になった。
『さらば愛しき女よ』『かわいい女』『長いお別れ』などシリーズは映画化され、私立探偵マーロウは、ハンフリー・ボガードや、ロバート・ミッチャムらによって演じられた。
チャンドラーが66歳のとき、年上の妻が闘病の末に没した。最愛の妻を失ったチャンドラーは酒びたりの生活を送りだし、うつ状態に沈み、自殺未遂を起こしたりした。その後、周囲の励ましもあって、70歳の年、久々にマーロウが登場する新作『プレイバック』を発表して復活したが、71歳の日を迎えることなく、1959年3月に没した。

007号シリーズの作者イアン・フレミングは、チャンドラーを目標にして書いていると公言している。彼は、ジェイムズ・ボンド・シリーズが巻を重ねても、作者がなかなか上手にならないと批判されたとき、こう反論した。
「自分をチャンドラーのような才能のある作家と勘違いしてもらっては困る。自分はとぼしい自分の才能を使って、精一杯やっている」

拙著『名作英語の名文句』の1、2集の両方で、チャンドラー作品を取り上げた。チャンドラー作品には、粋なせりふが目白押しである。米文学のひとつの頂点かもしれない。
チャンドラーは言う。
「But the only salvation for a writer is to write. If there is anything good in him, it will come out.(作家を救済する唯一の方法は、書くことだ。作家のなかにいいものがあれば、それはいずれ現れる)」(Raymond Chandler, The Long Good-bye, Three Novels, Penguin Books)
(2023年7月23日)



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『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句2』(金原義明)
「長いお別れ」「ガリヴァ旅行記」から「ダ・ヴィンチ・コード」まで、英語の名著の名フレーズを原文(英語)を解説、英語ワンポイン・レッスンを添えた新読書ガイド。好評シリーズ!


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7月22日・岡林信康の無縫

2023-07-22 | 音楽
7月22日は、ストレプトマイシンを発見したワクスマンが生まれた日(1888年)だが、「フォークの神様」岡林信康の誕生日でもある。

岡林信康は、1946年、滋賀の近江八幡市で生まれた。父親は、牧師だった。
岡林の父親は30歳まで新潟で農家の五男として、ふだんは農業、冬は出稼ぎという生活をしていたが、太平洋戦争中の30歳のとき、とつぜん思い立ち、村を出て、滋賀県の紡績工場で働きだし、そこで今度は宗教に目覚め、大阪の神学校に通いだし、牧師になったという経歴の持ち主だった。信康は、父親が34歳のときの子どもだった。
小さいころの信康は、教会で賛美歌を歌うまじめな少年だった。しかし、本人はその「牧師の息子」という境遇を居心地悪く感じていた。京都の大学に入り、神学を学んでいた彼は「牧師の殻」を破るため、ボクシングをはじめた。また、東京の山谷で活動している牧師がいると聞いて訪ねていった山谷で、簡易宿泊所で寝起きし、日雇いの肉体労働をする生活をはじめた。大学はやめた。「受験生ブルース」を歌った高石友也のコンサートを聴いて、歌手になろうと決意。質屋でギターを買い、彼は曲を書き、歌い出した。
22歳のとき「山谷ブルース」でレコードデビュー。以後、「チューリップのアップリケ」「友よ」「私たちの望むものは」などの名曲を発表し、「フォークの神様」と呼ばれた。
フォークからロックへ移行しかけていた25歳のとき、彼はとつぜん音楽活動から身を引き、京都の山村に引きこもり農耕生活をはじめた。27歳のころ、ふたたび音楽活動をはじめたが、35歳のとき、ロック界の神ロバート・フィリップから、
「いいかげんに俺たちの真似はやめたらどうだ。日本のロックを聞かせてみろよ」(岡林信康『バンザイなこっちゃ!』ゴマブックス)
と言われ、一念発起して日本の民謡を生かした独特な和製ロック「エンヤトット」を創り出した。和太鼓や尺八、三味線にフォークギターとハーモニカを合わせるという独特の演奏スタイルでコンサート活動を続けている。

岡林の「私たちの望むものは」をはじめて聴いたときの衝撃は忘れられない。この曲を、発表されたリアルタイムで聴いていた若き日の渋谷陽一は、
「そうだ。いまある状況にとどまってはならないのだ」
と、この曲を励みにして、音楽ジャーナリズムに変革をもたらす雑誌「ロッキングオン」を立ち上げたというが、遅れて後の時代に聴いても、その熱さはよく伝わってくる。聴くたびに、行動に駆り立てられる。
現代にも応援ソングは数多あれど、「私たちの望むものは」はそういうものとはちがう。「がんばって」でなく、「いまに見ていろ」と世の中をひっくり返す革命ソングである。
知人の音楽評論家によれば、この曲の歌詞は、1968年の仏国パリの五月革命のときに、パリの学生によって落書きされていた詩がもとになっているそうだ。

岡林を師と仰ぐ泉谷しげるは、山奥の岡林の家まで押しかけた。そうして、3週間のあいだ田植えを手伝わされた。美空ひばりは田舎に引っ込んだ岡林を非難した。
「その才能を、どうして世のためひとのために使おうとしないのか」(同前)
歌もさることながら、そのゴーイング・マイウェイぶりがすばらしい。
(2023年7月22日)



●おすすめの電子書籍!

『ロック人物論』(金原義明)
ロックスターたちの人生と音楽性に迫る人物評論集。エルヴィス、ディラン、レノン、マッカートニー、ペイジ、ボウイ、スティング、マドンナ、ビョークなど31人を取り上げ、分析。意外な事実、裏話、秘話、そしてロック・ミュージックの本質がいま解き明かされる。


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