1日1話・話題の燃料

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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

7月15日・レンブラントの美

2021-07-15 | 美術
7月15日はプロレスラー、ミル・マスカラスが生まれた日(1942年)だが、至上の画家、レンブラントの誕生日でもある。

至上の画家レンブラント・ハルメンス・ファン・レインは、1606年、ネーデルランド(オランダ)のライデンで生まれた。父親は製粉屋だった。
小さいころから将来を嘱望されたレンブラントは、きょうだいたちが家業を手伝うなか、7歳でラテン語学校に入り、14歳のときにはライデン大学に入学した。しかし、本人は学業には興味がなく、半年ほどで大学をやめ、画家に弟子入りした。
19歳のときには画家として独立し、友人といっしょにアトリエを開いた。肖像画の注文を受けて描き、その評判はたちまち高まり、弟子たちを抱える画家の頭領となった。
25歳のときに、アムステルダムへ移り、28歳の年に、裕福な名門の子女、サスキアと結婚。この結婚により、レンブラントは上流階級とのつながりを得、また最高のモデルと経済的な余裕を手にした。肖像画の注文がつぎつぎと舞い込み、彼はそれをこなしながら、妻にさまざまな衣裳を着せてポーズをとらせた。また収集癖のあるレンブラントは、高価な美術品をせっせと買い集めだした。人気画家レンブラントのアトリエには、最盛期には50人からの弟子たちがひしめいた。
36歳の年に、妻サスキアが没した。また、同じころ、アムステルダム自警団から注文を受けていた団体肖像画の大作「夜警」が、惨憺たる不評を買った。現代では名作中の名作として聞こえるこの絵のなか、中央の二、三人の夜警だけが光を浴び、ほかの多くの者は闇に沈みがちで、さらに自警団と関係のない少女が描かれていることが、注文した自警団側の大きな不満を買った。自警団の17人は均等割りで絵の代金を拠出していたから、それはとうぜんの不満ではあったが、レンブラントの芸術家の魂は、もはやそのようなありきたりの肖像画を描けなくなっていた。
このころからレンブラントの芸術はますます深みを増していったが、彼の経済状況も同様に深く沈んでいき、50歳でレンブラントはついに破産し、彼の財産は競売にかけられた。
それ以後も、レンブラントは経済的な困窮のなかで、芸術上の精進を続けた。そうして生活の困窮と大画家としての名声のなか、1669年10月に没した。63歳だった。

レンブラントは芸術そのもの。「レンブラント」は「芸術」と同義である。レンブラントの、あの光と闇の魔術。そして内面描写。三次元の物体を二次元の平面に写したにすぎない人物画に、内面など描きこめるはずがないかというと、レンブラントはそれをやってのけている。内面描写。これこそが、近代絵画が捨て去り、現代美術に失われてしまった芸術の重要な要素にちがいない。

女好きで、収集好き、散財家だったレンブラントは、人生の絶頂とどん底を行ったり来たりした人だった。生まれた彼の子どもたちの多くは幼くして死んでしまったし、妻には二度先立たれ、当時の法律や訴訟問題には泣かされ通しだった。一時は栄華を極めたが、やがて傾き、破産すると、その後は貧困のまま没した。レンブラントはミューズ(美の女神)に愛された天才だったが、彼が舐めたのは人生の甘露な部分だけではなかった。
レンブラントこそ人類の宝であり、プールいっぱいの金塊を人類はもたなくてもかまわないけれど、人類はレンブラントをぜひとも必要とする。
(2021年7月15日)



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