1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

3月31日・大島渚の遺産

2017-03-31 | 映画
3月31日は、「我思う、ゆえに我あり」と言った哲学者デカルトが生まれた日(1596年)だが、映画監督、大島渚の誕生日でもある。

大島渚は、1932年に、京都で生まれた。父親は役人で、水産試験場に勤務していたところから、「渚」と命名されたらしい。
京都大学法学部に入学し、学生時代は、劇団活動のかたわら、京都府学連の委員長として学生運動にも参加した。
22歳のとき、松竹大船撮影所に助監督として入社。
28歳の年には、「青春残酷物語」「太陽の墓場」「日本の夜と霧」と、3本の作品を監督し、吉田喜重、篠田正浩らとともに「松竹ヌーヴェルヴァーグ」の監督して名を馳せた。
これら大島作品は、いずれも社会性が強い、反体制的な作風の映画だったが、とくに「日本の夜と霧」は安保闘争を真正面から扱った政治色の強い映画で、松竹は封切りから4日後に自主的に公開を中止。これに怒った大島渚は、松竹を退社。仲間とともに映画制作会社、創造社を設立し、独立プロダクションの船出となった。
以後、経営的な困難、官憲側との闘争などに苦しみながらも、つねに社会の価値観を揺さぶる刺激的な作品を発表しつづけた。
作品に「天草四郎時貞」「白昼の通り魔」「忍者武芸帳」「日本春歌考」「無理心中日本の夏」「絞死刑」「帰って来たヨッパライ」「愛のコリーダ」「愛の亡霊」「戦場のメリークリスマス」「御法度」などがある。
64歳のとき、「御法度」の制作発表した直後に脳出血で倒れた。治療、リハビリテーションを積んでなお不自由なからだをおして「御法度」を完成させた後、2013年1月、肺炎により没。80歳だった。

世界を見渡しても、大島渚監督ほど個性の強い映画監督はすくない。
作品の一作一作が、体制側に対する闘争宣言であり、観客に突きつけた最後通牒であり、社会正義の訴えだった。
パゾリーニやゴダールよりも、さらにとんがった映画の悪魔だった。
初期の作品の感性のとんがり具合もさることながら、年をとり、いっそう過激になったとんがり具合もすばらしい。
ポルノグラフィーを撮るのなら徹底的にやろうじゃないかと、露骨な性描写を敢行して、いまだに無修正完全版が日本でみられない「愛のコリーダ」や、ビートたけしや坂本龍一といった、後に映画界で世界的に活躍することになる才能を発掘したホモセクシュアルの戦争映画「戦場のメリークリスマス」は、とんがった感性の記念碑的作品である。

「日本の夜と霧」の公開中止に怒って松竹を飛びだした大島監督は、独立プロダクションを興したが、映画が興行的に失敗して莫大な借金を負い、つぎの映画制作費を稼ぐために、主婦志望だった妻の小山明子も女優業を続け、監督もテレビに出て、夫婦共稼ぎで苦労しつづけた。そして、大島が倒れてからは、その介護で妻もうつ病になった。
大島作品のファンである以上に小山明子ファンなので、嫉妬と崇敬が相半ばするが、それにしても、大島渚監督の人生は、闘いにつぐ闘いの人生だった。
その後を生きる自分たちは、彼の作品から、何かを感じ、受け継がなくてはならない。
(2017年3月31日)




●おすすめの電子書籍!

『映画監督論』(金原義明)
古今東西の映画監督30人の生涯とその作品を論じた映画人物評論集。監督論。人と作品による映画史。チャップリン、溝口健二、ディズニー、黒澤明、パゾリーニ、ゴダール、トリュフォー、宮崎駿、北野武、黒沢清などなど。百年間の映画史を総括する知的追求。

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3月30日・ゴッホの扉

2017-03-30 | 美術
3月30日は、英国のギタリスト、エリック・クラプトン(1945年)が生まれた日だが、炎の画家、ゴッホの誕生日でもある。

フィンセント・ファン・ゴッホは、1853年、ネーデルランド(オランダ)の南部、ベルギー国境に近いズンデルトで誕生した。父親は牧師だった。
フィンセントは子どものころから絵画を描くのが好きだったらしい。
市民学校を出たゴッホは、16歳のとき、絵画を扱う商店の店員となり、英国ロンドン支店、仏国パリ支店などに勤務した後、23歳で退職。聖職者を志すようになった。
25歳のとき、ベルギーの炭坑の村プティ=ヴァムで、ゴッホは伝道活動を始めた。しかし、貧しい村の人々に同情したゴッホが、自分の衣服を彼らに与え、自分がボロを着ていると、教会側に「権威を損なう行為」だとして非難され、伝道師の仮免許が剥奪された。
聖職者の道を断たれたゴッホは、27歳のころ、画家になることを決意。画商をしている弟のテオの仕送りを受けながら、デッサンや油彩を描き、ベルギー、ネーデルランド、フランスなどを転々とした。
29歳のときには、ネーデルランドのハーグで、モデルを頼んだ身重の売春婦に同情して援助し、彼女と彼女が産んだ子どもと共同生活をしている。
仏国では、パリ暮らしをへて、35歳のとき、地中海に面したアルルへ越した。ゴッホの傑作と言われる作品群は、ほとんどがこの地へ来て以降のものである。そのアルルでゴッホは、同じく画家のゴーギャンを迎え、共同生活をはじめた。創作に励む二人の画家の共同生活はしだいに緊張関係を生み、ついにゴッホが剃刀でゴーギャンに切り付けようとして失敗し、逆上して自分の耳を切り落とすという事件に発展する。ゴーギャンはアルルを去り、共同生活は2カ月ほどで決裂した。
ゴッホは精神病院に入退院した後、1890年7月、オーヴェルで自分の胸をピストルで撃ち、死亡した。37歳だった。

ゴッホの死んだ翌年、弟のテオも没した。
ゴッホの絵は、生前は一枚しか売れず、その絵が高く評価されだしたのは、没後のことである。兄弟の死後、テオの妻が、ゴッホの回顧展や、兄弟の書簡集を出版するなど尽力したことが、画家ゴッホの再評価につながったとされる。
ゴッホが画家だったのは、10年間ほどで、傑作は最晩年の2年間に集中している。それを考えれば、ゴッホは比較的早く評価された画家だったとも言える。もしもゴッホが50歳まで生きていたら、鬱然たる大家として世界美術界に君臨していたかもしれない。

ゴッホ以前の画家も個性的ではあったが、ゴッホほど明確ではない。ゴッホの作品を見ると、見た人はすぐに「あ、ゴッホだ」とわかる。それほど個性際立つ描き方をしている。
ゴッホ以前の画家たちは、そこに美が生まれることを念じて絵を描いていた。
ゴッホ以降の画家たちは、そこに自分の描き方が出ることを念じて描くようになった。
現代人は、誰が描いたかわからない、ただ美しい傑作にはありがたみを感じない。
「ああ、この人の作風だ」という個性を崇拝する。
厚塗りによる発色のよさと、骨太な点描画法による強いインパクト。ゴッホは美術界に個性の時代を開いた先駆者である。現代の美意識の扉を開いた、美の革命家だった。
(2017年3月30日)



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『芸術家たちの生涯----美の在り方、創り方』(ぱぴろう)
古今東西の大芸術家、三一人の人生を検証する芸術家人物評伝。彼らの創造の秘密に迫り、美の鑑賞法を解説する美術評論集。会田誠、ウォーホル、ダリ、志功、シャガール、ピカソ、松園、ゴッホ、モネ、レンブラント、ミケランジェロ、ダ・ヴィンチまで。芸術眼がぐっと深まる「読む美術」。


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3月29日・バンク-ミッケルセンの提議

2017-03-29 | 歴史と人生
3月29日は、世界最大の小売業者「ウォルマート」の創業者サム・ウォルトンが生まれた日(1918年)だが、「ノーマリゼーションの父」バンク-ミッケルセンの誕生日でもある。

ニルス・エリク・バンク-ミッケルセンは、1919年、デンマーク、ユトランド半島のスキャンで生まれた。生家は紳士服屋だった。
彼の姓「バンク-ミッケルセン」は、父方の姓「バンク」と、母方の姓「ミッケルセン」をハイフンでつないだもの。
16歳のとき、ニルスはシェラン島にある首都コペンハーゲンの高校に入学。高校2年生のとき、合唱団で知り合った女生徒ビヤタと恋に落ち、これが周知の仲となると、二人はともに退学処分にあった。
バンク-ミッケルセンは大学入学検定試験を受け、コペンハーゲン大学の法学部に入学。大学在学中に、ビヤタと結婚した。
21歳の大学生だったとき、ドイツが不可侵条約を破ってデンマークに侵入。デンマークは降伏し、ドイツの占領下に入った。
バンク-ミッケルセンは、レジスタンスの地下新聞の編集発行をしていたが、逮捕され強制収容所に入れられた。約5カ月後に釈放され、彼はふたたびレジスタンス活動に入った。
ナチス・ドイツの占領が解けた戦後は、知人のつてをたどって、社会省(日本の厚労省に相当)に入省。希望に反して、精神薄弱福祉課に配属された。そこで施設行政を担当することになった彼は、知的障害者のおかれた環境の劣悪さに驚き、知的障害者の親の会とともに、行政府、立法府に改善を求めて働きかけた。彼らは「ノーマリゼーション」ということばを掲げ、
「知的障害者も人格があり、ノーマルな人々と同じように生活する権利を持つ人間」
と訴えた。この訴えは、1959年、彼が40歳のときに法制化された。
以後、バンク-ミッケルセンは、国内外にノーマリゼーションを訴えて広く活動。
48歳のときには米国カリフォルニア州の知的障害者の施設を見学し、
「デンマークでは、家畜でもこのように取り扱いません」(花村春樹『「ノーマリゼーションの父」N・E・バンク-ミッケルセン』ミソルヴァ書房)
と批判し、当時カリフォルニア州知事だったロナルド・レーガンを激怒させた。が、その後、州が派遣した調査委員会の調査によって、批判がもっともであることが明らかになると、レーガン知事はしぶしぶ負けを認め、施設改善に着手した。
49歳のとき、バンク-ミッケルセンはケネディ国際賞を受賞。日本にも来訪し講義をした後、1990年9月、大腸ガンにより没。71歳だった。高校をいっしょに退学させられた恋人ビヤタとは、結婚して死別するまで、約50年間、伴侶として連れ添った。

ノーマリゼーションとは、知的障害者も、ふつうの人と同様、教育を受け、仕事をし、日常を過ごすといった、ごくふつうの生活を送る権利を持っているのであり、そういう生活が送れるようにする、ということである。人々はそれを認めるべきだし、行政府はそれを補助しなくてはならない、というのがバンク-ミッケルセンの主張である。

以前、知的障害者のグループホームを手伝ったことがある。隔離、差別はもちろん、特別視、意識的に扱うのでなく、同じ社会で暮らし、困ってる人を見かけたら、近くにいる人がごく自然に手を貸してやる。そういう社会でありたい。
(2017年3月29日)




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『おひつじ座生まれの本』~『うお座生まれの本』(天野たかし)
おひつじ座からうお座まで、誕生星座ごとに占う星占いの本。「星占い」シリーズ全12巻。人生テーマ、ミッション、恋愛運、仕事運、金運、対人運、幸運のヒントなどを網羅。最新の開運占星術。


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3月28日・色川武大の訓

2017-03-28 | 文学
3月28日は、作家、邱永漢(1924年)が生まれた日だが、色川武大(いろかわたけひろ)の誕生日でもある。色川武大、またの名を、阿佐田哲也(あさだてつや)。

色川武大は、1929年、東京で生まれた。父親は元海軍の軍人だった。
色川は、小学生時代から授業をサボっては映画や演劇に通っていたという不良少年で、中学のとき停学処分を受けたまま終戦を迎え、そのままうやむやになって、結局中学は中退という経歴になった。
闇市の商売や博打打ちなどをした後、24歳のころ、雑誌社の編集者となった。
雑誌社を辞めた後、本名、色川武大の名で書いた『黒い布』で文学雑誌の新人賞を受賞。三島由紀夫に激賞され、文壇にデビュー。
39歳のころ、文章中に麻雀牌の図柄が登場する麻雀小説を書きだし、その後、週刊誌に連載した自伝的小説『麻雀放浪記』が爆発的な人気を呼んだ。
難病のナルコレプシー(眠り病)に生涯つきまとわれながら、麻雀や競輪のギャンブルと執筆を続けた。
色川武大の名で『怪しい来客簿』で泉鏡花文学賞、『離婚』で直木賞、『百』で川端賞などの文学賞を受賞。
1989年4月、心筋梗塞により入院した宮城県の病院で没。60歳だった。

ずっと以前、麻雀(マージャン)をやっていて、九蓮宝燈(ちゅうれんぽうとう)という珍しい手役に、二度振り込んだことがある。若いころは「雀聖」阿佐田哲也は神さまのような存在だった。

色川武大については、生前に親交のあった人の何人かから話を聞いたことがある。ナルコレプシーというのは大変な病気で、すぐとなりで話をしているうちにも寝入ってしまうらしい。色川が眠りだすと、仕方がないので、起きるまで待っているのだ、と、その芥川賞作家は言っていた。
また、奥さんが書いた回想記も読んだ。奥さんの本のなかでは、こんな記述が強く印象に残っている。色川が大病をして生死の境をさまよった後、なんとか快復して病院から退院してきた、その日に悪い友だちが連れ立って家に遊びにやってきて、徹夜麻雀になったという。奥さんはその人たちを恨んだと書いていた。ギャンブラーとは、大変な稼業である。

色川武大は、こう教訓している。
「9勝6敗をねらえ」
これは、相撲の星とりで、15日ある開催場所中、はじめから8勝7敗でぎりぎり勝ち越しをねらうのはさびしいが、逆に、10勝をねらうと、どこかに無理が出る。そこで「9勝6敗」を目指しなさい、という心である。
あまり志が低いのも考えものだが、大きく出すぎるのもよくない、という心がけである。
心から納得するのに年数がいる金言である。
(2017年3月28日)



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『マネーマントラ』(天野たかし)
つぶやくだけでグングン金運が上昇、ウホウホお金が儲かってしまうという魅惑の呪文「マネーマントラ」の本。成功する呪文の本。貧富の原因は口ぐせにあった。あなた向きのマントラをさぐる診断テスト付き。


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3月27日・小林克也の懐

2017-03-27 | 音楽
3月27日は、浪速の女流作家、田辺聖子が生まれた日(1928年)だが、日本を代表するディスクジョッキー、小林克也の誕生日でもある。

小林克也は、1941年、広島県福山市で生まれた。12歳ごろからFENなどのラジオ放送を聴きだし、英語とロック・ミュージックに浸るようになった。
慶應義塾大学経済学部中退。外国人の観光案内や、ナイトクラブの司会などをへて、ラジオ番組のDJデヴュー。
1981年にスタートした米国の音楽チャートを紹介するテレビ深夜番組「ベストヒットUSA」の司会をはじめたのは40歳のころで、このころには「ザ・ナンバーワン・バンド」や「スネークマン・ショー」名義で「うわさのカム・トゥ・ハワイ」「六本木のベンちゃん」「死ぬのは嫌だ、恐い。戦争反対!」などの爆笑レコードも出している。
以後、抜群の英語力と軽妙なユーモアセンス、そして時代を見抜く鋭い風刺精神を発揮し、日本を代表する洋楽紹介者となった。

小林克也は、「ロッキングオン」誌編集長だった渋谷陽一と並ぶ、わが洋楽のグルー(導師)だった。
ラジオだけを聞きかじって鍛えられたという小林克也の英語力は、まったくみごとなもので、彼に多くの英語発音を教えられた。たとえば、マリファナを吸いながら聴くのにいい楽曲を作る女性ミュージシャン、エンヤ(Enya)は、
「エーニャ」
英国のロック・バンド「オアシス(Oasis)」は、
「オエイシス」
と「エイ」の部分にアクセントをおいて発音するのだと彼に教わった。

以前、米国の女性アーティスト、シンディ・ローパーを「ベストヒットUSA」の番組に迎えて話しているとき、小林克也が、
「あなたの『トゥルー・カラー』という曲のビデオクリップにこんな歌詞があって……」
と話しだしたのを、聞いていたシンディが途中でそれをさえぎって、
「それは『トゥルー・カラー』じゃないわ。『タイム・アフター・タイム』よ」
と訂正するひと幕があった。
あるいは、べつの英国のアーティストを迎えて、デヴィッド・ボウイの「フェイム」という曲について話しているとき、小林克也が、
「これはボウイがベルリンで録音した曲で……」
と言いかけたのを、ゲスト・ミュージシャンが訂正した。
「いや、あれはベルリン時代より前の、『ヤング・アメリカンズ』という米国で録音したアルバムの曲だよ」
みていた自分はどちらも、すぐまちがいに気づいたけれど、あれはたぶん小林克也がわざとまちがえて、会話にちょっとしたあやをつけようとしたのだろう。いや、純粋な勘違いかもしれないけれど、いずれにせよ、その後の小林がみごとだった。まちがいを指摘された彼は余裕で「ああ、そうだったかな」くらいの感じで、淡々と笑顔でなごやかに話を続ける。来日した大物を前にして、さすが大人だった。人間はミスをする生き物、という前提を共通認識としているわけで、あの懐の深さをぜひとも見習いたい。
(2017年3月27日)


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『ロック人物論』(金原義明)
ロックスターたちの人生と音楽性に迫る人物評論集。エルヴィス・プレスリー、ボブ・ディラン、ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ミック・ジャガー、キース・リチャーズ、ジミー・ペイジ、デヴィッド・ボウイ、スティング、マドンナ、マイケル・ジャクソン、ビョークなど31人を取り上げ、分析。意外な事実、裏話、秘話、そしてロック・ミュージックの本質がいま解き明かされる。

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3月26日・グッチの冒険

2017-03-26 | ビジネス
3月26日は、『夜と霧』を書いた精神分析医ヴィクトール・フランクルが生まれた日(1905年)だが、実業家グッチオ・グッチの誕生日でもある。ファッションブランド「グッチ」の創業者である。

グッチオ・グッチは、1881年、イタリアのフィレンツェで生まれた。父親は麦藁帽子の製造会社の経営者だった。
当時、世界に植民地をもち栄華を誇っていた英国でチャンスをつかもうと決心したグッチオは、蒸気船に機関助手として乗りこみ、19歳のときに英国ロンドンにたどりついた。
彼は最高級ホテルのサヴォイに皿洗いとして採用され、やがてウェイターに昇格した。一流ホテルの客から、彼はチップと、上流階級のよいたしなみを吸収した。
グッチオは20歳のとき、イタリアのフィレンツェへ帰った。
帰国後は、商店勤めをしたり、戦争で徴兵され兵役についたりした後、38歳のころから、フィレンツェの高級革製品店に就職し、皮革について学んだ。
40歳のときに独立し、皮革製品を扱う会社を興した。そして、41歳で自分の店を出し、42歳のとき「グッチ(GUCCI)」を店名とした。
グッチははじめ、英国から輸入したカバンの販売と、その修理をしていて、そこで培ったノウハウを生かして、使いやすく丈夫な、自分のブランドのカバンを製造、販売しだした。
グッチは、カバンのほか、トランク、手袋、靴、ベルトなどの商品を手がけ、商売をしだいに広げていった。
グッチには息子が5人いた。そのうち、父親の稼業を手伝った三男アルドと五男ルドルフォが、グッチ・ブランドの発展に大きく貢献した。
三男アルドは稼業の引き継ぐと、父親のイニシャルをブランド・マークとしてデザイン化し、父親の反対を押し切って拡大路線を進め、米国ニューヨークに出店、米国での成功によってグッチ・ブランドを世界的なものとした。
一方、五男ルドルフォは、映画俳優になったが、なかなか芽が出ず、身をもちくずしかけていた。父親はそんな彼を呼び寄せて、家業を手伝わせた。ルドルフォは自分の家のブランド商品を、ソフィア・ローレン、オードリー・ヘップバーンといった大スターに使ってもらうことに成功し、グッチの名は世界に広まった。
グッチオ・グッチは、1953年1月、ミラノで没した。71歳だった。

グッチオの死後、グッチ社の株は遺族に分割され、それがもとで家族内の内紛、権力闘争が起き、1995年には暗殺者が雇われ、家業を継いだグッチオの孫が射殺されるという殺人事件にまで発展した。

ずっと昔、ニューヨークのグッチの店で、グッチのロゴ入りの紙製折りたたみ式マッチ25個入り(10ドル)をひと箱買ってきて、小分けし、おみやげとして友人に配ったことがある。とても好評だった。グッチは人気がある。すべては、若きグッチオの冒険からはじまったことだと思うと、感慨深い。
(2017年3月26日)



●おすすめの電子書籍!

『ビッグショッツ』(ぱぴろう)
伝記読み物。ビジネス界の大物たち「ビッグショッツ」の人生から、生き方や成功のヒントを学ぶ。フェイスブックのマーク・ザッカーバーグ、ソフトバンクの孫正義から、デュポン財閥のエルテール・デュポン、ファッション・ブランドのココ・シャネル、金融のJ・P・モルガンまで、古今東西のビッグショッツ30人を収録。大物たちのドラマティックな生きざまが躍動する。


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3月25日・スタイネムの救済

2017-03-25 | 歴史と人生
3月25日は、テニスプレイヤー清水善造が生まれた日(1891年)だが、米国のフェミニスト、グロリア・スタイネムの誕生日でもある。

グロリア・スタイネムは、1934年、米国オハイオ州のトレドで生まれた。骨董品のセールスマンだった父親は、ドイツ、ポーランドから米国にやってきたユダヤ人移民の息子だった。グロリアの母親は、ドイツ、スコットランド系である。
スタイネムが3歳のとき、母親が深刻な神経症にかかった。そして、10歳のとき、両親が離婚。父親は西海岸へ行ってしまい、残されたスタイネムさんは、それから17歳のころまで、幻覚症状におびえる母親をほとんどひとりで面倒をみた。このときの経験が彼女に、社会の不公正さを教えた。
大学を出た後、チェスター・ボウルズ・アジアン・フェローの資格を得て、インドに2年間滞在した。
帰国後は、政府系機関などで働いた後、ジャーナリズムの世界に飛び込み、28歳のころ「エスクワイア」誌で書いた記事を皮切りに、フリーのライターとして活躍。
29歳のとき、プレイボーイクラブにバニーガールとして入り込み、みずからバニーの衣裳を身につけて働き、その内部事情を暴露した「プレイボーイクラブ潜入記」を発表。一躍、世界的に有名なジャーナリストとなった。
「コスモポリタン」にジョン・レノンへのインタビューを載せ、「ニューヨーク」誌上で活躍した後、1969年、35歳のとき、「ニューヨーク・マガジン」誌の企画で、妊娠中絶について語る会を開催。彼女自身、22歳のとき中絶手術を受けたことがあることを告白した。これは、当時、米国で一般に否定的に扱われていた人工中絶手術を、もっと開かれたものとし、子どもを生む、産まないの選択権を女性に与え、女性を自由にしようとする議論で、大論争を巻き起こした。
38歳になるすこし前に「ミズ」創刊。男性は未婚でも既婚でも「ミスター(Mr.)」なのに、女性だけが未婚は「ミス(Miss)」、既婚は「ミセス(Mrs.)」と変わるのはおかしいと、新たに「ミズ(Ms.)」を掲げ、一般に定着させた。
スタイネムは、避妊や出産、性教育、衛生指導、平等な労働条件、女性が生き方を選ぶ権利などについて積極的に発言し、米国をはじめ全世界の人々の意識を変えていった。
52歳のとき、乳ガンの診断を受けた彼女は、治療のかたわら、なお活動を続け、58歳のとき、若者の衛生教育や性教育の普及を支援するNPOを設立した。
2000年、66歳のとき、7歳年下の実業家の男性と結婚し、「あのスタイネムが結婚」と世界的に話題になった。その3年後、夫と死別した。

スタイネムは、映画女優マリリン・モンローの伝記を書いている。
「彼女の伝記作家の大半は、彼女が独学しようとする努力をけなすか、もしくはばかにしてきた。たとえばノーマン・メイラーの言葉によると、『教養がない(美しい金髪に共通するこの悩み)うえに、彼女にはまったく文化というものもなかった……』」(道下匡子訳『マリリン』草思社)
スタイネムのおかげで、マリリン・モンローの魂もようやく救われた。
(2017年3月25日)


●おすすめの電子書籍!

『女性解放史人物事典 ──フェミニズムからヒューマニズムへ』(金原義明)
平易で楽しい「読むフェミニズム事典」。女性の選挙権の由来をさぐり、自由の未来を示す知的冒険。アン・ハッチンソン、メアリ・ウルストンクラフトからマドンナ、アンジェリーナ・ジョリーまで全五〇章。人物事項索引付き。フェミニズム研究の基礎図書。また女性史研究の可能性を見通す航海図。


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3月24日・ウィリアム・モリスの英断

2017-03-24 | 文学
3月24日は、映画俳優スティーブ・マックイーンが生まれた日(1930年)だが、英国の詩人兼デザイナー、ウィリアム・モリスの誕生日でもある。

ウィリアム・モリスは、1834年、英国イングランドのウォールサムストーで生まれた。父親はシティ(ロンドン株式市場)の株式仲買人で、家は裕福だった。ウィリアムは10人きょうだいの上から4番目で、彼らのうち、成長したのは3人だけだった。
ウォルター・スコットの小説を愛読する少年ウィリアムは、6歳のとき、ウッドフォードの大邸宅へ引っ越すと、屋敷のまわりの広大な森のなかを駆けまわり、釣りし、ポニーにまたがってあちこちへ遠出し、自然に親しんだ。
彼が13歳のとき、父親が没した。ウィリアムは聖職者を志してオックスフォード大学に入学したが、成人し父親のばく大な遺産を相続すると、急に芸術家志望に変わった。
建築家を手伝い、画家ロセッティと知り合って画家を目指した彼は25歳のとき、ロセッティの絵のモデルだった女性と結婚し、設計から装飾まですべてを友人と彼自身で手がけた邸宅「レッド・ハウス」を作って、そこを新居とした。
絵描きをやめた彼は、仲間と装飾工芸品を制作する会社を興し、壁紙や壁掛け、ガラス製品、家具など工芸美術品を作りだした。草花をデザイン化してあしらったカーテンやソファーが、無味乾燥だった英国家庭に様式美をもたらした。それは、前世紀の産業革命によって職人たちが仕事を追われ、いまは工場で機械の歯車のひとつとなって、煙突と煙の街に押し込められている人間疎外の社会に対する反逆だった。
30代のころ、モリスは叙事詩『地上の楽園(The Earthly Paradise)』を発表。これは、ペストの流行を避けて旅立った者たちが、旅の途中でさまざまな物語に出会う内容の物語詩で、この作品によってモリスの名声は英国中にとどろいた。
モリスは、絹などの布地を自分でデザインして染めてテキスタイル販売をしたり、ステンドグラスを作っていたが、49歳のころにマルクスの『資本論』を読んで共感し、社会主義活動にも精を出すようになった。
56歳のとき、小説『ユートピアだより(News from Nowhere)』を発表。これは、眠りについた主人公が目を覚ましてみると、そこは百数十年後、21世紀のロンドンで、煙突も、お金も存在しない社会主義のユートピアが実現されていた、という話だった。
テキスタイル・デザインのほか、本のデザインも手がけたモリスは、英国王室御用達の桂冠詩人に推されたが辞退し、1896年10月、結核のため、ロンドンで没した。62歳だった。
作品に『世界のかなたの森(The Wood Beyond the World)』『世界のはての泉(The Well at the World's End)』などがある。

夏目漱石はモリスの『地上の楽園』を愛読、絶賛した。漱石の弟子、芥川龍之介の東大の卒業論文は『ウイリアム・モリスの研究』だった。

「モダンデザインの父」モリスは、ファンタジー小説の開祖でもある。『指輪物語』のトールキンも大きく影響を受けた。グラフィックデザイナーで詩人で作家で社会運動家。創造性のかたまりのような人で、「器用貧乏」ならぬ「器用富豪」である。若くして遺産をもらうと、急に坊主になるのをやめた、その英断の賢明さに脱帽する。
(2017年3月24日)



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『おひつじ座生まれの本』~『うお座生まれの本』(天野たかし)
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3月23日・黒澤明のリアル

2017-03-23 | 映画
3月23日は、精神分析学者エーリヒ・フロムが生まれた日(1900年)だが、映画監督、黒澤明の誕生日でもある。

黒澤明は、1910年に東京で生まれた。4男4女の末っ子で、父親は元軍人の体育教師だった。
中学時代にロシア文学に傾倒した黒澤明は、画家志望だったが、その道を断念し、映画制作会社に入社。助監督をへて、33歳のとき、「姿三四郎」で監督デビュー。以後、「わが青春に悔なし」「素晴らしき日曜日」「醉いどれ天使」「羅生門」「生きる」「七人の侍」「蜘蛛巣城」「隠し砦の三悪人」「椿三十郎」「天国と地獄」「デルス・ウザーラ」「影武者」「夢」など名作を発表。
1998年9月、脳卒中により没。88歳だった。準備していた次回予定作は「雨あがる」だった。

黒澤明は41歳のころ、大好きだったドストエフスキー原作の「白痴」を日本を舞台にして映画化した。しかし、完成版は4時間半近い大作で、映画会社の意向によって2時間近くがカットされ、ぶつ切りになって公開された。するとこれが大不評で、あちこちの映画評でたたきにたたかれ、この映画に関わったスタッフはみな左遷され、黒澤が予定していたつぎの映画の仕事も、ことごとくキャンセルされた。
仕事がなくなった黒澤は、多摩川に釣りに出かけた。川岸に着いて釣り竿を振った。ところが、仕掛けがなにかに引っかかって切れてしまった。ついていないときは、なにをやってもだめだ、と思ったという。
それで、釣りをしないまま家に帰ってきた。すると、「白痴」の前年に公開した「羅生門」がヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞したとの報せが届いて、自宅にマスコミが押し寄せ、大騒ぎになっていた。事態は一変した。黒澤には次回作をぜひとのオファーが殺到し、左遷されていたスタッフはみな呼び戻された。黒澤明は言っている。
「世の中、ずいぶんはっきりしてやがる、と思ったね」

数ある黒澤映画の名作のなかで、どれが最高傑作かと問うてみると、「生きる」をあげる人もいるし、やっぱり「七人の侍」だと言う人、あるいは「影武者」、いやいやシェークスピア原作の「蜘蛛巣城」だろう、「スター・ウォーズ」の元になった「隠し砦の三悪人」にちがいない……などなど、人によってまちまちである。

「羅生門」が好きで、あの映画のなかで、世界ではじめて太陽にカメラレンズを向けたと言われる有名なシーンがまず美しいし、そしてなにより、森のなかで三船敏郎と森雅之が一対一で殺し合うシーンの緊張感がことばもないほどにすばらしかった。二人だけしかいない場所で、やるかやられるか、延々と戦う、その怖さといったらなかった。
それまでの映画では、「えい、やあ」「やられたぁ」で、かんたんに人を殺していたけれど、人の命をあやめるというのは、ほんとうはそんなものじゃない、ものすごく恐ろしいことなのだ、と黒澤明のリアリズムに教わった。
リアル。これこそが、黒澤明が世界映画に衝撃を与えた核心である。
(2017年3月23日)



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『映画監督論』(金原義明)
古今東西の映画監督30人の生涯とその作品を論じた映画人物評論集。監督論。人と作品による映画史。チャップリン、溝口健二、ディズニー、黒澤明、パゾリーニ、ゴダール、トリュフォー、宮崎駿、北野武、黒沢清などなど。百年間の映画史を総括する知的追求。


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3月22日・丸山眞男の看破

2017-03-22 | 思想
3月22日は、仏国のパントマイマー、マルセル・マルソーが生まれた日(1923年)だが、政治学者、丸山眞男(まるやままさお)の誕生日でもある。

丸山眞男は、1914年に大阪で生まれた。父親は新聞記者だった。
7歳のころ、東京に引っ越し、旧制一高生だった19歳のとき、唯物論研究会の集会に出て逮捕、拘束され、取り調べを受けた。当時、特高警察に目をつけられていたマルクス主義の運動とは丸山は無縁だったが、その集会に出ていたのは大学生や社会人ばかりで、高校生の出席者は2人だけだったために、かえって大物と勘違いされたのだった。
東京大学法学部を卒業した丸山は、同学部に残り、研究者の道を進んだ。
30歳のとき、同学部助教授だった丸山は召集され、陸軍二等兵として出征。広島に原爆が投下されたときは、投下直下から約4キロメートルの地点にいて被爆。原爆爆発のときは、戸外に整列して部隊参謀の朝の訓話を聞いている最中だった。放射能については無知で、投下の翌々日には爆心地を丸山は歩いたという。
戦後は、東京大学教授として、日本政治思想史を研究しながら、戦後民主主義を代表する知識人として、ジャーナリズムの舞台でも発言を続けた。
マックス・ヴェーバーの影響を受けた近代主義者の学者で、戦後の天皇制を批判し、安保闘争を支持し、果敢に論戦の矢面に立った。
1996年8月15日に没。82歳だった。ちなみに、彼の母親は終戦の日、1945年8月15日に亡くなっており、母子は同じ日に息を引き取ったことになる。著書に『日本政治思想史研究』『現代政治の思想と行動』『日本の思想』など。

丸山眞男はこう書いている。
「大日本帝国における天皇の地位についての面倒な法理はともかくとして、主権者として『統治権を総攬』し、国務各大臣を自由に任免する権限をもち、統帥権をはじめ諸々の大権を直接掌握していた天皇が──現に終戦の決定を自ら下し、幾百万の軍隊の武装解除を殆ど摩擦なく遂行させるほどの強大な権威を国民の間に持ち続けた天皇が、あの十数年の政治過程とそのもたらした結果に対して無責任であるなどということは、およそ政治倫理上の常識が許さない」(「戦争責任の盲点」『丸山眞男セレクション』平凡社)

丸山眞男は、日本人の自己欺瞞とリアリズムの欠如を指摘し、グルー元駐日大使のつぎのようなことばを紹介している。
「日本人の大多数は、本当に彼ら自身をだますことについて驚くべき能力を持っている。……日本人は必ずしも不真面目なのではない。このような義務(国際的な)が、日本人が自分の利益にそむくと認めることになると、彼は自分に都合のいいようにそれを解釈し、彼の見解と心理状態からすれば全く正直にこんな解釈をするだけのことである」(「軍国支配者の精神形態」同前)

日本人にとっては耳が痛い意見だけれど、丸山眞男の言う通りである。
(2017年3月22日)



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『誇りに思う日本人たち』(ぱぴろう)
誇るべき日本人三〇人をとり上げ、その劇的な生きざまを紹介する人物伝集。松前重義、緒方貞子、平塚らいてう、是川銀蔵、住井すゑ、升田幸三、水木しげる、北原怜子、田原総一朗、小澤征爾、鎌田慧などなど。日本人の美点に迫る。


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