1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

6月30日・チェスワフ・ミウォシュの詩情

2023-06-30 | 文学
6月30日は、プロボクサー、マイク・タイソンが生まれた日(1966年)だが、詩人チェスワフ・ミウォシュの誕生日でもある。

チェスワフ・ミウォシュは、1911年、リトアニアのシェティニェ村(当時はロシア帝国の一部だった)で生まれた。父親は技術者だった。チェスワフは、当時ポーランド領だったヴィリニュスの高校を卒業後、大学では法律学を専攻した。
23歳のとき、処女詩集を出版し、仏国パリに1年間、フェローの資格で滞在した。
帰国後は、ラジオのコメンテイターを務めていたが、そのコメントが左がかっているとして解雇された。
1939年、彼が28歳のとき、ポーランドは、ナチス・ドイツとソビエト連邦の双方から侵略され、ミウォシュはルーマニアに逃れた。
29歳のとき、ナチス・ドイツ占領下のワルシャワに移り、地下組織の活動に従事した。
第二次大戦が終わると、ミウォシュはポーランドの外交官としてパリ大使館に勤務。
40歳のとき、仏国へ亡命。ソ連の衛星国だったポーランドの状況を描いた小説『囚われの魂』を発表。
47歳のとき、米国へ渡り、カリフォルニア大学でポーランド文学の講義をした。
69歳のとき、ノーベル文学賞受賞。これを機に、本国ポーランドで35年ぶりに著作が刊行されはじめた。
70歳のとき、30年ぶりにポーランドへ帰国。当時創設されていた独立自主管理労働組合「連帯」のワレサ議長と会った。
2004年8月、ポーランドのクラクフで没。93歳だった。
英語、仏語、露語に堪能で、英語による著作もあるが、生涯を通じてポーランド語で詩を書きつづけた詩人だった。

ミウォシュは、72歳のとき、来日していて、訪れた京都のことを詩に書いている。

「京都でわたしは幸せだった。なぜならば、過去は消え去り、未来は計画も願望もなくそこにあったから。まるで朝、コウライウグイスの鳴き声を聴きながら目を覚まし、日が暮れるまで駆けまわっている少年の過ごす七月の一日のようだった。」(小山哲訳「(京都でわたしは幸せだった)」『チェスワフ・ミウォシュ詩集』成文社)

「あたかも双眼鏡を逆向きにはめて目の代わりにしたかのように、世界は遠ざかり、人々も、木々も、通りも、何もかもが小さくなるが、姿かたちは明瞭なままで凝縮される。

昔、詩を書いている時に、そういう瞬間があった。だから、距離を置くこと、無私の観照に没入すること、『私』でない『私』を装うことがどういうことかは知っているが、今では絶えずそうした状態になるので、これはどうしたことか、自分はもしや永続的な詩的状態に入ってしまったのかと自問している。」(西野恒夫訳「詩的状態」同前)

ミウォシュの詩には、笑いの詩情がある。彼のきびしい戦いの人生を考えると、それは筋金入りの笑いである。
(2023年6月30日)



●おすすめの電子書籍!

『世界大詩人物語』(原鏡介)
詩人たちの生と詩情。詩神に愛された人々、鋭い感性をもつ詩人たちの生き様とその詩情を読み解く詩の人物読本。ゲーテ、バイロン、ハイネ、ランボー、ヘッセ、白秋、朔太郎、賢治、民喜、中也、隆一ほか。彼らの個性、感受性は、われわれに何を示すか?


●電子書籍は明鏡舎。
http://www.meikyosha.jp


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

6月29日・サン=テグジュペリの金言

2023-06-29 | 文学
6月29日は、画家、黒田清輝が生まれた日(1866年)だが、仏国の作家、サン=テグジュペリの誕生日でもある。『星の王子さま』の作者である。

アントワーヌ・マリー・ジャン=バティスト・ロジェ・ド・サン=テグジュペリは、1900年、仏国のリヨンで生まれた。貴族の子息で、アントワーヌは5人きょうだいのまん中だった。
18歳のとき、第一次世界大戦の休戦を迎えたサン=テグジュペリは、建築学の聴講生などをした後、21歳のとき、志願して陸軍の軽騎兵連体に入隊した。彼は派遣された駐屯地で、個人的に飛行機の操縦を習い、これをもって後に陸軍から空軍へ移り、飛行機のパイロットとなった。しかし、飛行機事故を起こしたことから、家族に飛行機乗り稼業を反対され、空軍をやめ、しばらく地上で職についた。
26歳のとき、郵便輸送飛行パイロットの先駆けのひとりとなり、29歳のとき、みずからの飛行体験をもとに書いた小説『南方郵便機』を発表。
31歳のとき『夜間飛行』、39歳のとき『人間の土地』を発表して、筆名は一気に高まった。
39歳のとき、第二次世界大戦がはじまり、召集を受けて飛行教官を務めた後、偵察機に乗るようになった。ナチス・ドイツに屈し講和を結んだ仏国の動員解除によって、サン=テグジュペリもいったんは空軍を離れ、米国へ亡命したが、43歳のとき、亡命先の米国からふたたび志願して前線の偵察部隊に参加した。
1944年7月、仏国内部を偵察するため、コルシカ島の基地を飛び立ったが、彼の偵察機は地中海上で行方不明となった。44歳だった。

サン=テグジュペリが行方不明になってから54年後、地中海のマルセイユ沖で、サン=テグジュペリの名と、妻の名を刻んだ銀のブレスレットが発見された。また、ドイツ軍のメッサーシュミットのパイロットが、おそらく自分が撃墜した機がそれだろうと名乗り出ていることから、サン=テグジュペリの偵察機は敵に撃墜された可能性がある。

一説に「世界の三大ベストセラー」と言われる三冊の書があって、それは『聖書』、マルクスの『資本論』、それからサン=テグジュペリの『星の王子さま』である。では、『コーラン』や『毛沢東語録』はどうなのか、という疑問もあるが、それはさておき、『星の王子さま』はそれほど世界じゅうで読まれているらしい。
『星の王子さま』は、第二次大戦中、サン=テグジュペリが43歳のときに英語圏で発売されたもので、彼の母国、仏国で出版されたのは、終戦後の1945年11月だという。そのとき著者はすでにいなかった。

『星の王子さま』は、大人にはむずかしすぎる。子どものころに読んでおかなくてはならない本である。

サン=テグジュペリは、多くの人が剽窃した、この有名なことばを吐いた人である。
「行動を起こす時は、いまである。なにかをするのに、遅すぎることはない」
(2023年6月29日)



●おすすめの電子書籍!

『心を探検した人々』(天野たかし)
心理学の巨人たちとその方法。心理学者、カウンセラーなど、人の心を探り明らかにした人々の生涯と、その方法、理論を紹介する心理学読本。パブロフ、フロイト、アドラー、森田、ユング、フロム、ロジャーズ、スキナー、吉本、ミラーなどなど。われわれの心はどう癒されるのか。


●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

6月28日・佐野洋子の率直

2023-06-28 | 文学
6月28日は、思想家ジャン=ジャック・ルソーが生まれた日(1712年)だが、絵本作家、佐野洋子の誕生日でもある。名作『100万回生きたねこ』の作者である。

佐野洋子は、1938年、中国の北京で生まれた。父親は満州鉄道の調査部員で、洋子は7人きょうだいの上から2番目で、長女だった。
洋子は7歳で終戦を迎え、一家は終戦後、日本へ引き揚げてきた。父親は学校教師になり、一家は官舎に住んだ。
洋子が19歳のとき、父親が没した。佐野一家は家もなく、貧乏だったが、亡き父親の友人が、父親の知己をまわって募金し、娘の洋子の学資を作ってくれた。佐野洋子は美術大学に進学した。大学を卒業後、いったんデパートに就職したが、デザイン、イラストの仕事をはじめ、絵本作家としてデビューし、後にエッセイストとしても活躍した。
50代で、詩人の谷川俊太郎と結婚し、6年ほどいっしょにいた後、別れた。
2010年11月、乳がんにより没。72歳だった。
絵本に『おじさんのかさ』『おぼえていろよおおきな木』、エッセイに『ラブ・イズ・ザ・ベスト』『私はそうは思わない』『覚えていない』『シズコさん』などがある。

絵本『100万回生きたねこ』は、ため息の出るような名品で、何度読んだか知れない。その物語もさることながら、佐野洋子の絵に感心した。きれいに見せようとか、うまく描こうとかいう野心をなるたけ排除した、どかんっとページに居すわった絵。最初にまず、強いインパクトがある。なんだこれは、という違和感もあるが、しだいに慣れ、見れば見るほど味わいが出てくる。
こういう絵を見ると、作者がどういう絵をいい絵だと考えているか、その芸術観が察せられる。佐野洋子はエッセイのなかで、こう書いている。
「私は美術学校行って、遠近法なんかもデッサンなんかも習って、構成なんかも理屈をこねたりしたので、きっと生意気になっちゃっていると思う。そして、どっかのおばあさんが描いた、遠近法なんかなくてデッサンなんかも知らなくて、ただ描きたいから描いているのよという絵を見ると、ぎくっとして、胸の中ニコニコしながら、すごく反省してしまい、本当に絵が好きというもとのところにぐいーっと引き戻されて、本当は絵を描くことは嬉しくて楽しくてやめられないものだと思って、オロオロもするのである」(「拙いという美徳」『覚えていない』新潮文庫)

佐野洋子のエッセイの魅力は、率直にほんとうのことを言ってくれるところにある。
「お金ってすごいものだ。これなしでは現代人は一日たりとも生きて行けない。世の中で人が自分のものでありながら明らさまに口にしないのが自分の貯金額で、もう一つは自分の愛の生活だと思う。ペラペラしゃべる奴がいたら少し変な奴で、絶対に馬鹿にされる。遠まわしに言ったけど『愛の生活』ってセックスライフの事である。つきつめたら、世の中金と愛の生活が二本柱と言っていい」(「『お金』の問題」同前)
この「ほんとうのこと」を軽々と言ってのける大胆さ。
(2023年6月28日)



●おすすめの電子書籍!

『世界大詩人物語』(原鏡介)
詩人たちの生と詩情。詩神に愛された人々、鋭い感性をもつ詩人たちの生き様とその詩情を読み解く詩の人物読本。ゲーテ、バイロン、ハイネ、ランボー、ヘッセ、白秋、朔太郎、賢治、民喜、中也、隆一ほか。彼らの個性、感受性は、われわれに何を示すか?


●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

6月27日・エマ・ゴールドマンの痛烈

2023-06-27 | 思想
6月27日は、「奇跡の人」ヘレン・ケラーが生まれた日(1880年)だが、女性活動家エマ・ゴールドマンの誕生日でもある。

エマ・ゴールドマンは、1869年、リトアニアのカウナスで生まれた。一家はユダヤ系で、エマの母親は前夫とのあいだにもうけた二人の娘を連れての再婚だった。再婚して、最初に誕生したのがエマで、彼女の下に弟が3人いた。
エマの父親は、子どもが言うことを聞かないとすぐに暴力をふるう男で、子どものなかでもとくに反抗的だったエマに対してはムチも使ったという。エマは後年、この父親の暴力を、夫婦仲の不和からくる性的な欲求不満が原因だと分析している。
エマの父親は、妻の所持金を投資して大穴をあけ、一家の家計は傾いた。一家は、エマが7歳のとき、プロシアへ引っ越し、13歳のとき、ロシアのサンクトペテルブルグへ移った。エマは学校へ行かせてほしいと父親に訴えたが、父親は、女は家庭にいるべきで、教育など必要ないとして、娘を下着屋で働かせ、15歳で結婚させようとした。エマは愛のない結婚はいやだと拒絶したが、それでも、ロシア軍人の求婚者たちと無理やり引き合わせられ、男たちのなかには彼女をホテルへ連れ込み暴行した者もいた。
15歳のとき、エマは父親から逃れ、異父姉といっしょに米国へ渡った。
縫製工場で働きだしたエマは、しだいに階級闘争に目覚めていった。
20歳のころには、アナキストの活動家として、労働者の集会出で演説するようになっていた。労働争議を応援し、スト破りする者を殺害しようとして未遂に終わり、投獄されたこともあった。また、仲間とともに機関紙を発行し、女性の自由を訴え、社会の矛盾を糾弾する論陣を張った。
その後も、労働運動や反戦運動のために逮捕、投獄されたエマは、50歳のとき、米国から国外追放処分にあった。エマはソビエト連邦へ身を寄せ、その後、英国、仏国、カナダへと渡り、67歳のときには、内戦の勃発したスペインへ渡り、フランコ政権に抵抗するアナキストたちを支援した。
1940年5月、カナダのトロントで脳卒中のため没した。70歳だった。

強烈なアナキスト兼フェミニスト、エマ・ゴールドマンの生涯は、まさに世界をまたにかけ、痛烈である。東欧の貧しい境遇に育ったユダヤ人の一少女が、米国と欧州を広く駆けめぐって生きた。その影響は西洋にとどまらず、日本にも影響を与えた。彼女が米国で開いた、大逆事件(幸徳秋水らを処刑した事件)に対する抗議集会は、日本政府をあわてさせ、彼女が書いた論文は、伊藤野枝に啓示を与え、日本の女性解放運動に刺激を与えた。

ゴールドマンの文章は、辛辣で刺激的な表現に富んでいる。
「結婚は元来経済的の取り極めであり、保険の契約の如きものである。普通の生命保険の契約と違ふところは、ただそれが一層結合的で精確だと云ふにとどまつてゐる。その払ひ戻しは掛金に比べてお話しにならない程僅少である」(伊藤野枝訳『結婚と恋愛』)

「一般の娘等は大抵幼少から結婚が彼女の最終目的であると語られる。だから彼女の訓練と教育とはその目的に向つて導かれなければならない。口のきけない動物が屠殺の為めに肥らせられるやうに、彼女はその為めに用意される」(同前)
(2023年6月27日)



●おすすめの電子書籍!

『女性解放史人物事典 ──フェミニズムからヒューマニズムへ』(金原義明)
平易で楽しい「読むフェミニズム事典」。女性の選挙権の由来をさぐり、自由の未来を示す知的冒険。アン・ハッチンソン、メアリ・ウルストンクラフトからマドンナ、アンジェリーナ・ジョリーまで全五〇章。人物事項索引付き。フェミニズム研究の基礎図書。また女性史研究の可能性を見通す航海図。


●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

6月26日・パール・バックの体験

2023-06-26 | 文学
6月26日は、ゴロ合わせで「露天風呂の日」。この日は、戦闘機設計者メッサーシュミットが生まれた日(1898年)だが、女流作家パール・バックの誕生日でもある。

パール・サイデンストリッカー・バックは、1892年、米国ウェスト・ヴァージニア州ヒルスボロで生まれた。父親は長老派教会の宣教師で、それまで10年間、中国で伝道活動をしていて、10年ぶりの休暇をもらって帰郷していた、そのときにパールが誕生した。
パールが生後3カ月のころ、家族は中国へ引き返した。パールは中国の江蘇省で、中国語と英語を話すバイリンガルの環境で育った。彼女をかわいがり大事に育てた中国人の乳母は、纏足をしていて、足の長さが7・5センチメートルほどだったという。乳母のほか、家に出入りする中国人やインド人医師、日本人、ビルマ、タイ、インドネシアなど、さまざまな人たちから、身の上話を聞きながらパールは大きくなった。
18歳のとき、米国ヴァージニア州へ引っ越し、大学に入学。この大学在学中に、短編小説と詩で、2度文学賞を受賞した。
22歳のとき、大学を卒業し、同大学の助手となったが、中国にいる母親が病気になり、その看護のため中国へもどった。
25歳のとき、米国人の農業経済学者と結婚。
29歳のとき、女児を出産したが、この子が先天的に障害があって、後に米国の施設預けることになった。母親のパールはひとつには、この娘の養育費を捻出するためもあって、評論や小説に力を入れた。
35歳のとき、中国国民党軍が、彼女のいた南京に侵入してきて、彼女たち一家は、日本の長崎の雲仙に疎開した。
38歳のころ、長篇小説『大地』を発表。戦乱の近代中国を背景に、王一族の生きざまが描かれるこの作品はピュリッツァー賞を受賞した。
また、彼女は、46歳のとき、ノーベル文学賞を受賞。受賞理由は、両親の伝記執筆に対してだった。彼女の受賞は『さまよえる湖』の著者、スヴェン・ヘディンの推薦によるものだという。彼女は1973年3月、米国ヴァージニア州ダンビーで、胆のう炎の手術後に没した。80歳だった。

「中国共産党」という米国製テレビ・ドキュメントを見た。清朝末期から、義和団事件、軍閥の群雄割拠、日本軍の侵略、中国国民党と中国共産党の対立、抗日戦争、日本敗戦後の中国の内戦までの歴史が貴重な記録入れで語られるのだけれど、このなかにパール・バックのインタビューが入っていて、子供のころの思い出を語っていた。
西太后の命令で、中国国内にいる白人がいっせいに殺されたことがあって、とくに山東省ではひどく、女、子ども、宣教師や商人まで殺された。しかし、彼女がいた江蘇省では、総督が勇気をもって命令にそむき殺さなかった。それで彼女らは命が助かった。
中国軍閥のおかしな戦争風景や、蒋介石の印象など興味深い証言をしていた。

パール・バックは日米混血の浮浪児の救済に尽力した親日派で、鋭い指摘がある。
「一般に日本人は集団本能が強く、他人と違うことを恐れるようです。これは大体あたっています。日本人は個人主義に強い緊張を感じます。作家や芸術家にとくにその傾向が強く、全体的には他人がするようにしたがります」(小林政子訳『私の見た日本人』国書刊行会)
(2023年6月26日)



●おすすめの電子書籍!

『世界文学の高峰たち』(金原義明)
世界の偉大な文学者たちの生涯と、その作品世界を紹介・探訪する文学評論。ゲーテ、ユゴー、ドストエフスキー、ドイル、プルースト、ジョイス、カフカ、チャンドラー、ヘミングウェイなどなど。文学の本質、文学の可能性をさぐる。


●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

6月25日・ジョージ・オーウェルの予言

2023-06-25 | 文学
6月25日は、スペイン・カタルーニャの建築家、アントニ・ガウディが生まれた日(1852年)だが、英国作家、ジョージ・オーウェルの誕生日でもある。

ジョージ・オーウェルこと、本名エリック・アーサー・ブレアは、1903年に英国の植民地だったインドのベンガル地方で生まれた。父親は役人で、インドの高等文官だった。
生まれてほどなくして、エリックは母親と英国へ引っ越し、成績優秀な彼は名門のイートン校に進んだ。その後、彼はインド帝国警察の職員としてビルマで5年間ほど勤務した。
宗主国の官吏として植民地で働くわが身を嫌ったエリックは、辞表を出し、ビルマを離れるが、このときの経験を生かし、後に『ビルマの日々』を書いた。
その後、仏パリで2年ほど暮らした後、イギリスへ戻り、家庭教師や学校教師をし、雑誌に記事を書きはじめた。下層階級に身をおいた見聞をもとに、ルポタージュ『パリ・ロンドン放浪記』を書き、このころから彼はジョージ・オーウェルの筆名を使いはじめた。
彼がヨーロッパへ戻ったのは世界的な不況の時期であり、ロシアに世界初の共産主義国が誕生し、世界的に社会主義の機運が高まっていた時期だった。このことがオーウェルに重要な影響を与えた。
33歳のころ、スペインへ渡り、スペイン内戦に兵士として加わったが、撃たれ重傷を負い、戦線を離脱、フランスに逃れ、35歳のとき、スペインでの体験に基づくルポタージュの金字塔『カタロニア讃歌』を発表した。
その後、評論、エッセイなどを書く文筆家となり、第二次大戦に英国軍の兵士として従軍し、終戦の年、42歳でスターリンやトロツキーの時代のソ連にヒントを得た小説『動物農場』を発表して文名は高まった。
42歳のころ、結核に冒され、スコットランドの島へ移ったり、本土の病院に入院したりしながら、暗澹たる管理社会を描いた未来小説『1984年』を書いた。
冷戦時代だった1949年に発表された『1984年』は、彼の文名をいよいよ高らしめたが、発表して間もない1950年1月、オーウェルは喀血し、ロンドンで没した。46歳だった。

ロックスターのデヴィッド・ボウイはオーウェルの作品にイメージを触発されて「1984年」という曲を書いた。ボウイは『1984年』をミュージカル化しようと計画したこともあったが、著者の未亡人に拒否され、実現しなかった。

名作『1984年』は学生のころ読み強い印象を受けた。強烈なオリジナリティーのオベリスクで、通読し、作者の頭脳の優秀さと熱いヒューマニスティックな心に感服した。現代、世界でまかり通っている権力者側による記録改ざんや糊塗、強弁、マスメディアへのうそつきよばわりを見ると、この本が予言の書だったとわかる。小説中のビッグブラザーのスローガンは、米ロ中や北朝鮮で、また日本で、今日も繰り返されている政府見解と同工異曲で、こういうものである。
「WAR IS PEACE
FREEDOM IS SLAVERY
IGNORANCE IS STRENGTH」(George Orwell, 1984, george-orwell.org)
(戦争は平和である
 自由は奴隷状態である
 無知こそ力である)
(2023年6月25日)


●おすすめの電子書籍!

『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句』(越智道雄選、金原義明著)
「1984年」「風と共に去りぬ」から「ハリー・ポッター」まで、英語の名作の名文句(英文)をピックアップして解説。英語ワンポイン・レッスンを添えた新読書ガイド。


●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

6月24日・ジェフ・ベックの前進

2023-06-24 | 音楽
6月24日は、『悪魔の辞典』を書いた作家アンブローズ・ビアスが生まれた日(1842年)だが、英国のギタリスト、ジェフ・ベックの誕生日でもある。

ジェフ・ベックこと、ジェフリー・アーノルド・ベックは、1944年に英国ロンドンのウォリントンで生まれた。6歳のとき、ジェフはラジオから流れてくる、レス・ポールが弾くエレキギターの音を聞いて、母親に尋ねた。
「これはなに?」
「エレキギターっていうくだらないものよ」
すると、ジェフはこう言ったという。
「これは、ぼくのためのものだ」
10歳で教会の合唱隊に入っていたベックは、やがて、葉巻の箱をボディにして弦を張り、ギターを自作しては弾くようになり、見るに見かねた母親に、ついに本物のエレキギターを買ってもらった。
16歳でウィンブルドン芸術カレッジに入学したベックは、学校の仲間とバンドを組み、地元のクラブで演奏するようになった。
18歳のころ、姉を通じて、同い歳のギター少年ジミー・ペイジと知り合い、意気投合した。
カレッジを出て、塗装・内装作業員、ゴルフコースの作業員、自動車塗装員などをした後、19歳のとき、本格的にバンドのリードギタリストとして活動をはじめ、レコード録音のセッションに参加するようになった。
20歳のとき、ヤードバーズというバンドに加入した。これは、以前そのバンドのギタリストだったエリック・クラプトンが脱退したため、ベックがその後釜として入ったもので、
その後、彼はヤードバーズや、ジェフ・ベック・グループのリードギタリスト、あるいはソロのギタリストとして録音、ライブ活動を続け、様々なアーティストとのセッションに参加し、ロック・ミュージック界最高のギタリストのひとりとして、広く尊敬を集める存在となった。英国内の複数の芸術大学から、名誉博士の称号を受けた後、2023年1月、細菌性髄膜炎のためロンドンで没した。78歳だった。

アルバムに「ブロウ・バイ・ブロウ」「ゼア・アンド・バック」「ギター・ショップ」「ジェフ」「エモーション・アンド・コモーション」などがある。
「孤高のギタリスト」ジェフ・ベックのストイックなかっこよさは、独特である。「ワイアード」など、数えきれない回数聴いた。

ジェフ・ベックには、つねに前進しようとする姿勢があった。たしか1980年代だと思うが、すでにギタリストとして神格化されていた彼が、30代後半にいたりそれまでピックを使って弾いていたのを急に指で弾きはじめた。その理由を彼はこう語っていた。
「五本の指を使うことで、ギター演奏の可能性がさらに広がると思うから」

ジェフ・ベックはクルマいじりが大好きで、いつも爪が油汚れで真っ黒だったそうだ。世界的なロックスターの爪が油汚れでまっ黒。すてきな人だった。
(2023年6月24日)



●おすすめの電子書籍!

『ロック人物論』(金原義明)
ロックスターたちの人生と音楽性に迫る人物評論集。ジェフ・ベック、エルヴィス・プレスリー、ボブ・ディラン、ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ミック・ジャガー、キース・リチャーズ、ジミー・ペイジ、デヴィッド・ボウイ、スティング、マドンナ、マイケル・ジャクソン、ビョークなど31人を取り上げ、分析。意外な事実、裏話、秘話、そしてロック・ミュージックの本質がいま解き明かされる。


●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

6月23日・リチャード・バックの空

2023-06-23 | 文学
6月23日は、サッカー選手ジネディーヌ・ジダンが生まれた日(1972年)だが、米国の作家、リチャード・バックの誕生日でもある。『かもめのジョナサン』の作者である。

リチャード・バックは、1936年、米国イリノイ州のオークパークで生まれた。当地はヘミングウェイの生誕地でもある。バック本人は、自分は音楽の父ヨハン・ゼバスティアン・バッハの末裔だと主張していた。
学校を出た後、バックは米空軍の予備役に入り、24歳のころには仏国に駐屯していた。
彼は根っからの飛行機好きで、空軍予備役や、その後に入ったニュージャージー・ミリシャ(国民軍)でさまざまな戦闘機を操縦した。曲芸飛行気乗りをしていた時期もあり、飛行機会社の技術書を書いたり、飛行機雑誌の編集をしたりと、さまざまな職を転々とした。
1970年、彼が34歳のとき、『かもめのジョナサン(Jonathan Livingston Seagull)』を発表。これはジョナサンというかもめが、食べ物を求めて生きる生き方に飽きて、純粋に飛ぶことを追求することに目覚めるという寓話で、著者の飛行体験や人生哲学がそのなかに凝縮されている。
この短い本は、ハードカバーとして出版されると、驚異的な売り上げを示し、それまで『風と共に去りぬ』がもっていたハードカバーの売り上げ記録を塗り替えてしまった。
その後、バックは『ぼくの複葉機』『イリュージョン』『ワン』『僕たちの冒険』などを発表。
2012年、76歳のバックは、飛行機を着陸させようとして事故を起こした。天地さかさまに着陸して、頭部と肩に重傷を負ったが、生命に異状はなかった。彼は、この事故によって『かもめのジョナサン』の続編のインスピレーションを得たという。2013年には『パフとの旅(Travels with Puff)』を発表した。

『かもめのジョナサン』『イリュージョン』などの傑作を読んで、もしもリチャード・ブローディガンが分裂的でなかったら、こういう現代の神話と呼ぶべき物語を書いただろうと想像した。

リチャード・バックは、空を飛ぶことに、人生の意味を投影して、物語を編んでいく、独特の軽みをもった作家である。
彼は自分の日常生活をおおやけにせず、露出を避け、なるたけ読者から距離を置き、正体を隠そうとしてきた作家である。しかし、その作品は、とても暖かく人間的で、逆に読者にとてもやさしく、近しい。彼の作品には、生を愛する心があり、自由への憧れがあり、人を許す包容力がある。
(2023年6月23日)



●おすすめの電子書籍!

『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句2』(金原義明)
「ガリヴァ旅行記」から「ダ・ヴィンチ・コード」まで、英語の名著の名フレーズを原文(英語)を解説、英語ワンポイン・レッスンを添えた新読書ガイド。好評シリーズ!


●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

6月22日・アン・リンドバーグの心

2023-06-22 | 歴史と人生
6月22日は、作家、山本周五郎が生まれた日(1903年)だが、女流飛行家アン・リンドバーグの誕生日でもある。大西洋横断飛行のリンドバーグの夫人である。

アン・スペンサー・モロウは、1906年、米国のニャージャージー州エングルウッドで生まれた。父親はJPモルガンの共同経営者で、母親は詩人で教師だった。アンは4人きょうだいの2番目だった。
アンたちが子どものころは、母親が毎日1時間、夜寝る前に本を読んでくれ、そのおかげでアンたちは読むことや書くことに早く親しむようになったという。
米国東部の名門七女子大のひとつ、スミス・カレッジに入学したアンは、在学中の21歳のとき、大西洋横断飛行を成功させたばかりの25歳のチャールズ・リンドバーグに出会った。彼女は背の高いこの世界的な英雄に心を奪われた。彼女はこう言っている
「彼に対する気持ちの前では、世界のすべてが浅薄ではかない、ばかげたことのように感じられた」
1929年5月に、二人は結婚し、彼女はアン・モロウ・リンドバーグ(リンドバーグ夫人)となった。彼女が23歳になる直前のことだった。
結婚後、アンは空を飛びだした。グライダー免許を取得した初の米国女性となり、夫の副操縦士として、また、ナビゲーター、通信係、航空地図作成者として活躍した。リンドバーグ夫妻は単発エンジンの飛行機で、まだ未知の航空路だったカリブ海域のルートを切り開き、「カナダ・アラスカ・日本・中国」ルートを飛び、北大西洋と南大西洋の航空地図を作った。
夫とのあいだに6人の子をもうけたアンは、飛行機乗り稼業のほか、大戦後は欧州の戦地の罹災者の救援活動に従事し、また、紀行やエッセイ、小説を書く文筆家としても活躍した。彼女の日記・手紙を収めた『輝く時、失意の時』には、日本人についての記述や、アンが25歳のときに起きた長男の誘拐事件についての記述があり、エッセイ『海からの贈物』は名エッセイとして世界的なベストセラーとなった。
夫のチャールズは、ハワイのマウイ島で1974年8月に72歳で没した。アン・リンドバーグはその後、米国東部へもどり、2001年2月、脳卒中のためバーモント州で没した。94歳だった。

アン・リンドバーグが書いたエッセイ『海からの贈物(Gift from the Sea)』は、まるで澄んだ冷たい水のなかから取り上げた水晶を思わせる名品で、拙著『名作英語の名文句』でも取り上げた。
『海からの贈物』は、40代のなかばだったアン・リンドバーグが、フロリダ州のカプティバ島で休暇をすごした際、浜辺の貝に話しかけるように、生き方、恋、結婚、平穏、孤独についてのかなり抽象的な思考をつづった随想録である。

「他人の愛、或いは他人が差出してくれる鏡の中にさえも、自分というものがあるだろうか。私はエックハルトがかつて言ったように、本当の自分というものは、『自分自身の領分で自分を知ること』によってしか得られないのだと思う」(吉田健一訳『海からの贈物』新潮文庫)

1955年に発表されたこの本のあちこちに、60年代、70年代に花開くことになる女性解放運動の芽が、すでにほころびはじめているのを感じる。
(2023年6月22日)



●おすすめの電子書籍!

『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句』(越智道雄選、金原義明著)
「海からの贈物」「風と共に去りぬ」から「ハリー・ポッター」まで、英語の名作の名文句(英文)をピックアップして解説。英語ワンポイン・レッスンを添えた新読書ガイド。


●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

6月21日・ライプニッツの頭脳

2023-06-21 | 思想
6月21日には、哲学者ジャン=ポール・サルトルが生まれた日(1905年)だが、万能の天才ライプニッツの誕生日でもある(ユリウス暦による)。

ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツは、1646年、独国のライプツィヒで生まれた。父親は倫理哲学の大学教授だった。父親はゴットフリートが6歳のときに没し、息子は母親に教育を受けて育った。彼は父親が残した膨大な蔵書を、7歳から読みはじめた。多岐の分野にわたる蔵書の多くはラテン語で書かれていたが、12歳のころにはなんの苦もなく読めるようになっていたという。
神童として知られたライプニッツは、15歳の年に、ライプツィヒ大学に入学し、哲学を専攻した。後に法学も修めたが、学者にはならず、官吏、外交官の道を選んだ。哲学や数学、論理学、形而上学など、幅広い分野で著作をしつつ、マインツ、ハノーヴァーなどの宮廷に仕えた。ヨーロッパを広く行き来し、ニュートンやスピノザとも親交があり、微積分法の発見については、ニュートンと、その第一発見者の名誉を争った。
晩年には貴族に列せられたが、政治的な後ろ楯を失い、冷遇され、1716年11月、70歳のとき、ハノーファーで没した。葬儀は近しいものだけでひっそりとおこなわれ、没後50年以上、彼の墓には墓碑銘がなかったという。

ライプニッツは「単子論」で有名である。宇宙のすべては、モナド(単子)という最小単位のものが集まってできている。モナドは、物質の最小単位であるアトム(原子)とはちがう。モナドは、生命や精神の原理をも含む概念である。そういうところから話を進めて、ライプニッツは、宇宙や神といった大きな存在まで、この世にあるものすべてを定義づけ、体系づけていく。この考えにとても親しみを感じる。

論理学の分野では、ラッセルやホワイトヘッドが、数式のように論理を処理する記号論理学を体系化したが、それも、もともとはライプニッツのアイディアだった。

人類史上で、誰がいちばん頭がよかったか? 回答として、アリストテレス、ダ・ヴィンチ、ゲーテ、ニュートン、アインシュタインなど、いろいろな案が浮かぶけれど、正答はやはりライプニッツだろうか。なんとなれば、ほかの偉人たちの頭脳がおおよそこれくらいかなと推し量られるのに対して、ライプニッツのはいまだ誰にも見当がつけられないほど大きいから。
ライプニッツは、自分の多岐にわたる研究を、ひとつの大きな学問体系にまとめようとしたかったようだが、多忙のため、まとめきれなかった。で、書きかけのまま未完となった著作が多く、また、18世紀からずっと刊行が続けられている彼の全集は、現在いまだに刊行中で、まだ知られていない著作が山のようにあって、ライプニッツの全貌は、いまだ誰にもわからないのである。

ライプニッツが生きた時代、とくに哲学や科学の分野では、英仏が先行していて、独国は後進国扱いされていた。それで余計に、周囲に理解者がなく、苦しんだ面もあるようだ。彼を評価したのは、同国の学者より、むしろフランスの学者たちだった。
ライプニッツが、このインターネット時代に生きていたら、どんなことをしでかしただろうか、と想像すると、楽しくなる。
(2023年6月21日)



●おすすめの電子書籍!

『科学者たちの生涯 第一巻』(原鏡介)
人類の歴史を変えた大科学者たちの生涯、達成をみる人物評伝。ダ・ヴィンチ、コペルニクスから、ガロア、マックスウェル、オットーまで。知的探求と感動の人間ドラマ。

『思想家たちの生と生の解釈』(金原義明)
「生」の実像に迫る哲学評論。ブッダ、カント、ニーチェ、ウィトゲンシュタイン、フーコー、スウェーデンボルグ、シュタイナー、クリシュナムルティ、ブローデル、丸山眞男など大思想家たちの人生と思想を検証。生、死、霊魂、世界、存在について考察。生の根本問題をさぐる究極の思想書。


●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする