1日1話・今日の話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『誇りに思う日本人たち』
『ビッグショッツ』
『黒い火』ほか

10月31日・マリー・ローランサンの夢

2015-10-31 | 美術
10月31日は、ハロウィン。この日は、『ねじ式』を描いたマンガ家、つげ義春が生まれた日(1937年)だが、画家のマリー・ローランサンの誕生日でもある。

マリー・ローランサンは、1883年、仏国のパリで生まれた。彼女は、裁縫や刺しゅうで生計を立てている未婚女性が生んだ私生児で、父親は税務関係の役人だった。
マリーは21歳のころ、画塾に入り、本格的に絵画の勉強をはじめ、23歳の年にパブロ・ピカソ、マックス・ジャコブの仲間に加わった。
24歳になる年に、ローランサンは、ピカソの紹介で、詩人のギヨーム・アポリネールに会った。ピカソはアポリネールにこう紹介したという。
「きみのフィアンセに出会ったよ……」(フロラ・グルー著、工藤庸子訳『マリー・ローランサン』新潮社)
ローランサンとアポリネールは恋に落ちた。アポリネールは三歳年下のローランサンに毎日のように詩を書いて送り、彼女の画才をあちこちで宣伝してまわった。ローランサンはアポリネールの部屋へ出かけ、愛を交わしては、母親といっしょに住んでいる家へ帰った。そのうちに、アポリネールは詩人として評価されだし、ローランサンは画家として売れはじめ、ローランサンが29歳のころ、二人は別れた。このときアポリネールが作った詩が、シャンソンにもなった「ミラボー橋」である。
その後、彼女はアポリネールとよりをもどそうとしたこともあったらしいが、二人はすれちがい、彼女は30歳のときドイツ人画家と結婚した。
アポリネールは、第一次大戦に出征し、前線で頭を負傷して帰還した後、彼女が35歳のときに死亡した。そして、彼女は39歳の年に夫と離婚した。
ローランサンは、キュビズムの時代をへて、パステルカラーの淡い色調で、水彩画のように油彩で描く独特の画風に到達し、売れっ子画家となった。彼女は絵を描くときは、いつも白かバラ色のエプロンをつけて描いたという。
上流階級の人々から殺到する肖像画の依頼に応え、彼女は舞台衣裳の分野でも活躍した後、1956年6月、心臓発作のため、パリのアパルトマンで没した。72歳だった。

ローランサンには、風景画もあるが、ほとんどは人物画である。明るい、優しい絵画をたくさん描きながら、画家の心はそんなに楽しいばかりではなかったのでは、そんな気がする。65歳のころ、彼女はノートにこんな詩を書きつけている。
「おまえの恋人たちは みな行ってしまった
 おお美しき女よ じつは美しかったことなど
 一度もなかったのだけれど
 なにがおまえに残されていると言うの?
 ほとんど灰になった髪
 そしておそらくは 夢」(同前)

埋葬の際、ローランサンの遺体は、彼女の遺言にしたがって、純白のドレスをまとい、手に一輪のバラをにぎり、胸にはアポリネールからの手紙が載せられた。
(2015年10月31日)



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『芸術家たちの生涯----美の在り方、創り方』(ぱぴろう)
古今東西の大芸術家、三一人の人生を検証する芸術家人物評伝。彼らがいかにして作品を創造したかに迫り、鑑賞者はその美をどうとらえるべきか解説する美術評論集。会田誠など現代作家から、ローランサン、ウォーホル、岡本太郎、ダリ、棟方志功、シャガール、ピカソ、上村松園、ゴッホ、ルノワール、モネ、レンブラントをへて、ミケランジェロ、ダ・ヴィンチなどルネッサンスの作家までをたどり、通読するとおのずと美の変遷史が把握される「読む美術史」。芸術作品の見方がぐっと深まる目からウロコの書。


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10月30日・クロード・ルルーシュの恋愛映画

2015-10-30 | 映画
10月30日は、天才サッカー選手ディエゴ・マラドーナが生まれた日(1960年)だが、フランス映画のクロード・ルルーシュ監督の誕生日でもある。

クロード・バリュック・ジョゼフ・ルルーシュは、1937年、フランスのパリで生まれた。
父親は、アルジェリアからやってきたユダヤ系移民だった。
クロードは、バカロレア(大学入学資格試験)に失敗したとき、失意をなぐさめようとした父親に、はじめて撮影用カメラを買い与えられた。クロードはこれでルポタージュ作品を撮った。そして23歳のころ、初の長編監督作品「人間の本質」を発表した。しかし、作品は酷評され、興行的にも失敗した。ルルーシュはほぼ破産状態へ追い込まれた。
打開策に詰まった彼はひとりでクルマに乗り、考えにふけりながらひたすら運転し、英仏海峡に面したドービルの海岸に午前2時に着いた。疲れ切った彼はそのままクルマのなかで眠った。目を覚ますと、海岸を散歩している人影に気づいた。女と子どもと犬が、引き潮の波打ち際を、午前六時の早朝に散歩しているのだった。
「どういう事情をもった人なのだろう」
ルルーシュは自分の悩みを忘れて、彼女らの背負った事情、生活を想像した。すると、夫を失い、わが子を寄宿学校に預けている母親、というイメージが浮かんできた。さらに、彼女と同じような境遇の、子連れの男が、子どもの寄宿舎で彼女と出会い、恋に落ちるというストーリーが頭のなかにできあがった。
彼は1カ月半で脚本を書き、1カ月で俳優やスタッフ、資金を集め、配給会社も決まらないまま、3週間で撮影、3週間で編集を仕上げ、長編映画「男と女」を作り上げた。
29歳の年に発表されたこの作品は、カンヌ映画祭でグランプリをとり、アカデミー賞の外国語映画賞に輝き、世界中で大ヒットした。
破産寸前だった無名のルルーシュは、一躍引っ張りだこの人気監督となり、新鮮なみずみずしさに満ちた映像表現で、恋の映画をつぎつぎと作り、世界的巨匠となった。
作品に「白い恋人たち」「パリのめぐり逢い」「あの愛をふたたび」「続・男と女」「夢追い」「愛と哀しみのボレロ」「レ・ミゼラブル」などがある。

ルルーシュ監督は、自分がもっとも敬愛する映画監督のひとりで、彼の作品は、
「観ておいてほんとうによかった」
と思わなかったことがない。日本で「フランス映画みたいな」とか「映画みたいな恋」とか言うとき、要するにそれは「ルルーシュ監督作品のような」という意味である。
「男と女」「夢追い」を自分はとくにおすすめする。

ルルーシュは、撮影の前に音楽の録音をすませておく珍しい監督で、その音楽を出演者に聴かせて、そのシーンのイメージをもってもらうのだという。そして、セリフは決めず、俳優たちにはそのシーンの意味だけを伝え、彼らが好きにしゃべるのにまかせ、恋人たちが語らうシーンとして、望遠レンズで遠くから撮る。撮影直前のリハーサルはおこなわず、同じシーンを2度撮ることもしない。それで、ああいう、新鮮な感動に満ちた、一期一会的な、生き生きとした恋の映画ができあがるのである。

ルルーシュは、映画撮影についてとても味わい深いことを言っている。
「映画は、物語と同じ時間で撮影されるべきだ。たとえば、3週間の物語は、3週間で撮る、というように」
(2015年10月30日)



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『映画監督論』(金原義明)
古今東西の映画監督30人の生涯とその作品を論じた映画人物評論集。人と作品による映画史。ルルーシュ、チャップリン、エイゼンシュテイン、溝口健二、ウォルト・ディズニー、ハワード・ヒューズ、ヴィスコンティ、黒澤明、パゾリーニ、アラン・レネ、ゴダール、トリュフォー、宮崎駿、ベルトリッチ、北野武、黒沢清……などなど監督論30本を収録。映画人たちの人生を通して「映画を観ることの意味」に迫り、百年間の映画史を総括する知的追求。映画ファン必読の「シネマの参考書」。


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10月29日・エドモンド・ハレーの予言

2015-10-29 | 科学
10月29日は、実業家「ホリエモン」こと堀江貴文が生まれた日(1972年)だが、ハレー彗星の出現を予言した天文学者、エドモンド・ハレーの誕生日でもある。

エドモンド・ハレーは、1656年、英国イングランドのロンドンで生まれた。父親は石けんを製造していて、裕福な家庭だった。
エドモンドは、セント・ポール・スクールをへて、17歳の年にオックスフォード大学に入学した。大学在学中に彼は、太陽系惑星と黒点に関する論文を書いた。
19歳のころ、グリニッジ天文台の天文学者の助手になった。
20歳になる年から、後にナポレオンの流刑地として有名になる南大西洋のセントヘレナ島に滞在して天体観測をおこない、帰国後にその南半球で観測した三百以上の恒星のある天球図を発表した。この功績により、ハレーは王立学会のフェローに選ばれた。
ハレーは天文学だけでなく、物理学、気象学、数学、統計学など、幅広い分野でめざましい足跡を残した。死亡統計から割り出した終身年金の論文を書き、大西洋を航海、観測して地磁気の海図を作り、海底調査用の潜水器具を発明した。
49歳のころ、彼は彗星の周期に関する論文を発表した。これは過去の観測記録を綿密に検討した結果、ハレーが26歳だった1682年に天空に現れたほうき星は、1456年、1531年、1607年に現れたほうき星と同じもので、周期が約76年であるため、つぎは1758年に現れるであろう、と予言したものだった。
64歳の年に、ハレーグリニッジ天文台長となった。そうして生涯にわたって天文観測を続けた後、1742年1月に没した。85歳だった。
そして、彼が没した16年後、ハレーの予言した通り、空に彗星が現れた。

ハレー彗星の話は、小学校の低学年のころからいろいろ聞いていた。ずっと昔、ハレー彗星が近づいてきたとき、一時的に地球の空気が吸い取られ、またもどるといううわさが広まり、その空気がない時間帯をやりすごすため、タイヤのチューブが売れた(チューブ内の空気を吸って生き延びるという魂胆らしい)とか。

1986年にハレー彗星が接近したとき、自分はそれを見るためにオーストラリアへ行くことを真剣に検討した。で、結局、妥協して八丈島まで行き、泊まった旅館のご主人の双眼鏡を借りて、夜明け前の水平線ぎりぎりに見えるほうき星を、ようやく見ることができた。つぎにハレー彗星がやってくるのは、2061年の夏だそうで、それを見ることは、おそらく自分にはかなわないだろう。

自分の死後に起こることを、確信をもって言い当てて死ねる、というのは、すごいことだと思う。神さまみたいである。
『ハックルベリイ・フィンの冒険』を書いたマーク・トウェインは、ハレー彗星が現れたときに生まれ、自分はハレー彗星が現れたときに死ぬだろうと予言して、その通りになったのだった。
(2015年10月29日)



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『おひつじ座生まれの本』~『うお座生まれの本』(天野たかし)
おひつじ座からうお座まで、誕生星座ごとに占う星占いの本。「星占い」シリーズ全12巻。人生テーマ、ミッション、恋愛運、仕事運、金運、対人運、幸運のヒントなどを網羅。最新の開運占星術。

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10月28日・ビル・ゲイツの構想力

2015-10-28 | ビジネス
10月28日は、柔道家の嘉納治五郎が生まれた日(1860年)だが、実業家、ビル・ゲイツの誕生日でもある。Windowsの米マイクロソフト社の創業者で世界一の長者である。

ビル・ゲイツこと、ウィリアム・ヘンリー・ビル・ゲイツ三世は、1955年、米国ワシントン州のシアトルで生まれた。父親は英国系の血をひく弁護士だった。
13歳で、はじめて三目並べゲームのプログラムを書いたゲイツは、高校生のとき、二つ上級のポール・アレンらと組んで、企業からデータ集計や給与計算用ソフトなどのプログラミングを請け負う仕事をはじめた。
17歳のとき、ハーバード大学に入学。大学性になっても、アレンら仲間とともにプログラム開発を続けていたが、19歳のとき、大学に休学届けを出し、アレンとともにマイクロソフト社を設立した。
会社を立ち上げたゲイツたちは、昼夜兼行でプログラムを書きつづけ、ピザやハンバーガーをかじって、その辺でごろ寝し、また起きてパソコンに向かうというハードなスタイルで働きつづけ、商談に向かうにもぎりぎりまでパソコンにしがみついていて、猛スピードでクルマを飛ばして、空港までの最短時間記録に挑戦するといった調子だった。
ゲイツのマイクロソフト社は、MS-DOS、Wndowsなどのオペレーション・システムだけでなく、Word、Excel、Power Point、Internet Explorerといったアプリケーション・ソフトも自社製品をそろえ、しばしば強引な商法も交えながら他社を圧倒し、各分野の市場で圧倒的シェアを確立した。
ゲイツの資産の評価額は莫大なものにふくれあがった。時給計算すると一秒に150ドル以上稼いだ計算になる彼は20世紀の終わりからずっと世界一の大金持ちでありつづけ、52歳でビジネスの第一線からは身を引き、夫人とともに設立した慈善基金を通じて、数々の慈善事業に力を注ぐようになり、近年は伝染病予防に力を入れている。

マイクロソフトのビル・ゲイツは、アップルの創始者スティーブ・ジョブズと並び、まさに世界を変えてしまった男である。
マイクロソフト社のWindows95が発売された1995年は、世界史のターニングポイントである。世は端末とネットの時代となり、それ以前の情報源は過去のものとなった。日本の出版界の売り上げは、その時点をピークに反落、以降、下降の一途をたどることになった。

Windows95の入ったパソコンを買ってから自分は、ビル・ゲイツの本を何冊か読んだ。『ビル・ゲイツ未来を語る』という彼の著書も読んだが、そのモーレツ・ビジネスマンぶりと、当時すでに情報ハイウェイや電子化社会といった未来イメージを構築していた、その構想力に脱帽した。

ビル・ゲイツはいいことを言っている。
「世界の誰とも自分を比べてはならない。もし比べるなら、 それは自分自身を侮辱することになる。(Don't compare yourself with anyone in this world...if you do so, you are insulting yourself.)」
(2015年10月28日)



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『ビッグショッツ』(ぱぴろう)
伝記読み物。ビジネス界の大物たち「ビッグショッツ」の人生から、生き方や成功のヒントを学ぶ。フェイスブックのマーク・ザッカーバーグ、ソフトバンクの孫正義から、デュポン財閥のエルテール・デュポン、ファッション・ブランドのココ・シャネル、金融のJ・P・モルガンまで、古今東西のビッグショッツ30人を収録。大物たちのドラマティックな生きざまが躍動する。

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10月27日・リキテンスタインの分析

2015-10-27 | 美術
10月27日は、ミシンの改良者、アイザック・シンガーが生まれた日(1811年)だが、芸術家、ロイ・リキテンスタインの誕生日でもある。

ロイ・リキテンスタインは、1923年、米国のニューヨークで生まれた。ユダヤ系の家庭で、父親は不動産屋だった。ロイには、姉がひとりいた。
ロイが通学した高等中学には美術の授業がなかったため、彼は十代になると、デッサンや油彩画を独学で学んだ。
リキテンスタインは画家志望だったが、芸術で生計を立てていけるか危ぶんだ両親が教職免許をとるよう勧めたこともあって、17歳になる年に、美術学士課程のあるオハイオ州立大学の美術学部に入学。22歳で卒業。修士課程をへて、25歳で大学の美術講師になった。
グループ展や個展で作品を発表する一方で、大学での教鞭もとりつづけ、27歳のとき、ニューヨーク州立大学の助教授に就任した。
33歳の年に、リトグラフ「10ドル紙幣」を発表。
37歳のとき、ミッキー・マウスとドナルド・ダックを描いた油彩画「ごらん、ミッキー」、広告写真をデフォルメした油彩画「ボールをもつ少女」を発表。広告イメージを作品化し、また、マンガをひとコマを拡大、変形し、くっきりした輪郭線と、写真製版のような丸い網点、そして少ない色数で表現する作画法を確立し、ひと目見ればリキテンスタインの作品とわかるポップ・アートを創り出した。
同様の作画法で、マンガを題材にした作品のほか、絵の具の絵筆の軌跡をデザイン化した「ブラッシュストローク」や、ゴッホやピカソ、モネなどの名作をいかに機械的に描くかに挑戦した模写的作品群、あるいは、反射光をポップ・アートで表現した「鏡」シリーズなどを制作した。
1997年9月、肺炎のため、ニューヨークで没した。73歳だった。

東京都現代美術館にあるリキテンスタインの「ヘア・リボンの少女」を見た。1990年代に東京都が約6億円で購入し、「マンガに6億円」「相場より高値で買った」などと物議をかもした作品である。
122センチ四方の正方形のキャンバスいっぱいに、金髪女性が振り向いた顔が米国マンガ風にアップで描かれた絵で、画面のすみに髪のリボンが見えている。構図といい、色調といい、リキテンスタインの最高傑作のひとつかもしれないと思った。使われている色彩は、黒、赤、黄、青、白の5色のみ。シンプルさと、強いインパクト。顔の傾きも絶妙の角度だと思う。

リキテンスタインの生前に作られたドキュメンタリー映画を見たことがある。68歳のリキテンスタインは、こういう意味のことを言っていた。
「わたしは自分描いた絵を、誰かににもって、飾っていてもらいたいのです」
そのことばを聞いて、自分はリキテンスタインがどうしてああいう作品を作るのか、すこしわかった気がした。彼の絵は、オフィスやホテル、家の壁にかけておくにふさわしい明るさ、洗練、デザイン性に富んでいる。
リキテンスタインは、大衆性と洗練、そして明快な個性という現代芸術に求められるポイントを押さえた、まさに現代的な巨匠だったと思う。
(2015年10月27日)




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『芸術家たちの生涯----美の在り方、創り方』(ぱぴろう)
古今東西の大芸術家、三一人の人生を検証する芸術家人物評伝。彼らがいかにして作品を創造したかに迫り、鑑賞者はその美をどうとらえるべきか解説する美術評論集。会田誠など現代作家から、リキテンスタイン、ウォーホル、岡本太郎、ダリ、棟方志功、シャガール、ピカソ、上村松園、ゴッホ、ルノワール、モネ、レンブラントをへて、ミケランジェロ、ダ・ヴィンチなどルネッサンスの作家までをたどり、通読するとおのずと美の変遷史が把握される「読む美術史」。芸術作品の見方がぐっと深まる目からウロコの書。


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10月26日・織田作之助の才筆

2015-10-26 | 文学
10月26日は、フランス革命の政治家、ジョルジュ・ダントンが生まれた日(1759年)だが、作家、織田作之助の誕生日でもある。『夫婦善哉』を書いた人である。

織田作之助は、1913年、大阪で生まれた。作之助は5人きょうだいの唯一の男の子で、姉が三人、妹が一人いた。生家は魚屋を営んでいたが、作之助が4歳のころには、店舗を失い、一家は長屋暮らしとなり、父親は銭湯の前に屋台の魚屋を出していたという。
作之助は成績優秀で、第三高等学校(現在の京大教養部)に入学した。貧困家庭の彼の学費は、嫁にいった長姉夫婦が負担してくれた。
20歳のとき、織田は三高の卒業試験の最中に喀血して倒れた。結核を発症したのである。療養後に復学したが、急激に勉学への興味を失い、結局中退して卒業しなかった。
22歳のころ、カフェのウェイトレスと同棲をはじめ、女の収入に頼って暮らしながら、小説を書きだした。スタンダール、西鶴に影響を受けた作之助は、25歳のころから同人誌に小説を発表し、同棲相手と結婚。このころ同人誌に発表した『俗臭』が芥川賞候補となり、注目を集めだし、26歳で発表した『夫婦善哉』で認められ、作家生活に入った。
織田は大阪に縁のある小説を多く書き、無頼派の作家「オダサク」として活躍したが、33歳のときに大量喀血し、1947年1月、結核のため、入院先の東京の病院で没した。33歳だった。

若いころに自分は『六白金星』『勝負師』など「オダサク」を読み、とても感心した。名人芸の文章だと感服した。

織田作之助というと、太宰治とともに「小説の神様」志賀直哉に嫌われたので有名で、二人とも「神様」に反発し、志賀直哉批判の文章を書いている。
「志賀直哉とその亜流その他の身辺小説家は一時は『離れて強く人間に即(つ)く』やうな作品を作つたかも知れないが、その後の彼等の作品がますます人間から離れて行つたのは、もはや否定しがたい事実ではあるまいか。彼等は人間を描いてゐるといふかも知れないが、結局自分を描いてゐるだけで、しかも、自分を描いても自分の可能性は描かず、身辺だけを描いてゐるだけだ。」(織田作之助「心境小説的私小説を駁す」「文芸 臨時増刊号」1956年4月)

自分は、志賀直哉も太宰治も織田作之助も、みんな好きなので、こういう対立を見ると、アンビバレントな気持ちになる。それぞれの言うことはすべてもっともだとわかるし、各自の好悪の感情もよくわかるので、困ってしまう。

織田作之助が書いたものは平易で、しかも、どれもそのときどきの書き手の気持ちがまっすぐに述べられていて、とても読みやすい。また、その時代の庶民の視線で書かれていて、その時代の世情、風俗のひじょうにわかりやすい記録となっている。「小説」がもともと「正史」に対する「稗史」であるなら、織田作之助の小説は、小説道のまさに王道を行った作品だと思う。
織田作之助は一代の文章家だった。『夫婦善哉』の文章の運びなど、彼独特のもので、絶品である。もっと長生きして、あの文章スタイルで、彼が賞賛する「アラビアンナイト」や「デカメロン」のような大伽藍を築き上げてほしかった。早世が惜しまれる才筆だった。
(2015年10月26日)




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『小説家という生き方(村上春樹から夏目漱石へ)』(金原義明)
人はいかにして小説家になるか、をさぐる画期的な作家論。村上龍、村上春樹らの現代作家から、団鬼六、三島由紀夫、川上宗薫、川端康成、江戸川乱歩ら昭和をへて、泉鏡花、夏目漱石、森鴎外などの文豪まで。平成から明治へと時間をさかのぼりながら、新しい角度から日本の大作家たちの生き様を検討していきます。あわせて、これを読まずに死んだらせっかく生まれてきた甲斐が半減するという珠玉の小説作品を厳選し、実体験に基づき愛をもって解説。既成の文学評価を根底からくつがえし、あなたの読書体験を次の次元へと誘う禁断の文芸評論。

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10月25日・パブロ・ピカソの生命力

2015-10-25 | 美術
10月25日は、夭逝した天才数学者、エヴァリスト・ガロアが生まれた日(1811年)だが、画家、パブロ・ピカソの誕生日でもある。

パブロ・ピカソは、1881年、スペインのマラガで生まれた。本名は「パブロ」と「ピカソ」のあいだにたくさん聖人や血族の名が入る長いものである。父親は画家で、美術教師だった。パブロは3人きょうだいのいちばん上で、下に妹が2人いた。
小さいころから絵を描いていたピカソは、10歳になる年に美術学校に入学したが、そのころには、すでにプロの画家レベルの正確なデッサンを描いていた。
ピカソが13歳になったとき、父親は息子の偉大な才能に脱帽し、絵画の道具をすべて息子に譲った。そうして以後、生涯絵筆を握らなかったという。
バルセロナ、マドリードで美術を学んだピカソは、授業に失望し、16歳のとき、王立の美術アカデミーをやめた。
19歳のとき、仏国のパリで初の個展を開き、パリで暮らしはじめた。このころがピカソの「青の時代」と呼ばれる時期で、彼は青を基調とする、貧しい人々の絵を描いた。
その後、明るい色調で統一された「ばら色の時代」をへて、25歳のとき、アフリカの民芸美術に影響を受けた「ガートルード・スタインの肖像」を発表。
26歳で、「アビニヨンの娘たち」を発表した。この作品は、いろいろな視点から見た画像をひとつにまとめて表現する手法、キュビズムの出発点となり、
「これが芸術か?」
と世界の美術界に大論争を巻き起こした。
それから、モデルの形のおもしろさと、豊かな量感に特徴のある「新古典主義」の後、物を単純化し象徴的に描いた「シュルレアリスム」の時代に突入した。
56歳のとき、スペイン内戦に介入したドイツ空軍がスペインの町、ゲルニカを爆撃した事件に触発された大作「ゲルニカ」を発表。
生涯にわたって、つぎつぎと作風を変え、それがそのまま20世紀美術の革命となった。彼は絵画のほかにも、彫刻や版画など、さまざまな表現手段で亡くなる寸前まで意欲的に創作を続け、1973年4月、南仏のムージャンで、肺水腫により没した。91歳だった。

ジャン・コクトーが「美よりも早く走る」と評したピカソ。ピカソが自分は大好きで、美術館に行けば、ピカソ展があればかならず観に行く。両手でないと持てない重たい画集も持っている。ピカソが好きなのは、絵を観ていると「人間っていいなあ」と思われてくるところである。生きていると、つまらない失敗や後悔や、つらいこと、悲しいこともあるけれど、そうしたもろもろを踏み越えて、なお前へ歩きつづけるピカソの生命力のようなものが、彼の作品を通して感じられ、その人間としてのたくましさに打たれるのである。逆に言えば、ある程度気力が充実しているときでないと、ピカソ鑑賞はつらい。ピカソの作品は、自分にとって、元気がないときはこちらが打ち負かされてしまう、元気なときにはこちらの元気が倍増させられる、そんな不思議な力をもった芸術だと思う。
(2015年10月25日)




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10月24日・ブルーノ・ムナーリの問い

2015-10-24 | 美術
10月24日は、作家、渡辺淳一が生まれた日(1933年)だが、イタリアの芸術家、ブルーノ・ムナーリの誕生日でもある。ムナーリは絵画、彫刻、仕掛け絵本、家具や工業製品など、いろいろなものを作った人で、ひと言でいえば、前衛芸術家だった。

ブルーノ・ムナーリは、1907年、イタリアのミラノで生まれた。
20歳のころ、芸術家フィリポ・マリネッテが率いる未来派芸術運動に加わり、展覧会で作品を発表しはじめ「役に立たない機械」のいくつものバリエーションを発表した。
26歳のころには、仏国のパリで、シュールレアリスムの詩人であるルイ・アラゴンやアンドレ・ブルトンと会った。
28歳からグラフィック・デザイナーとして活動しはじめ、32歳のころからは出版社のブックデザイナー、雑誌のアート・ディレクターを務めるようになった。また彼は息子が生まれたことをきっかけに、子どものための仕掛け絵本も作るようになった。
30代以降、ムナーリは工業デザインを多く手がけるようになり、照明器具、灰皿、テレビ、コーヒーメーカー、おもちゃなど、さまざまなものをデザインした。
42歳のとき「読めない本」。44歳で「ぎくしゃくした機械」。52歳のとき「2000年の化石」を発表した。50代のころにはしばしば来日したムナーリは、美術評論家の瀧口修造と親交をもち、日本文化への造詣を深めた。そうして、世界各国で子どものための造形ワークショップを開催し、最後まで創作意欲を失わず作品を作りつづけた後、1998年9月、ミラノで没した。90歳だった。

米国の前衛芸術家にアレクサンダー・カルダーという人がいて、「モビール」と呼ばれる、大きな造形作品を作った。なかにモーターが入っていて、作品の部分がゆっくりとまわるものだった。
ムナーリの「役に立たない機械」は、これに似ていて、天井から細い糸で吊るされた棒や薄い板に、また糸で板が吊るされていて、風に吹かれて揺れ、まわる。それぞれの板は互いに触れ合わないように設計されている。
カルダーのほうは、
「彫刻が動いたらどんなに楽しいだろう」
という衝動が作品の前面で出ているのに対して、ムナーリのほうは、
「役に立つ、立たないとはどういうことか」
「機械とはいったい何か」
という問いを発することが、作品の存在意義になっていると思う。タイトルによって、作品が作品を見る者に、考えることを要求してくるのである。

前衛芸術は、それ以前の芸術、たとえばダ・ヴィンチの「モナ・リザ」や、フェルメールの「窓辺で手紙を読む女」のような作品がもっていたたくさんの要素のなかの「謎」の部分だけを抜き出し、デフォルメ、図形化して作品にしたものだという気がする。
こういう前衛作品は、目先のにんじんに振りまわされがちな日常生活に、レモンのひとしぼりをふりかけてくれる。時折は、ムナーリの作品をながめ、ふだん考えていなかったことについて考えたりする機会を、ぜひもちたいものである。
(2015年10月24日)




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10月23日・ペレの苦手克服

2015-10-23 | スポーツ
10月23日は、世界ではじめて全身麻酔を使って外科手術をした江戸の医師、華岡青洲が生まれた日(宝暦10年、1760年)だが、「サッカーの王様」ペレの誕生日でもある。

ペレは、1940年、ブラジルのトレス・コラソンエスで生まれた。本名は、エドソン・アランチス・ドゥ・ナシメント。「エドソン」の名は、米国の発明王、トマス・エディソンにちなんで名付けられたものだという。彼の父親はアフリカ系のブラジル人で、サッカー選手だった。
貧しい家計を助けるため、小さいころ靴磨きをしていたエドソンは「ペレ」という愛称で呼ばれ、父親にサッカーの手ほどきを受け、14歳のときに地元クラブチームの下部組織に入団。15歳のとき、ブラジルを代表する名門サッカークラブのひとつ、サントスFCに入団した。デビューした親善試合でいきなり初得点するなど、すぐに活躍しだした。相手チームの選手6人をドリブルで抜いてゴールを決める、ボールを落とさず、空中で操りながら相手のマークをかわしシュート、ゴールするなど、華麗なテクニックで勝利に貢献し、南米王者、クラブ世界一など、チームを数々の栄冠に導いた。
ペレは34歳の年に引退するまで、サントスの主力選手として、ずっとブラジル国内でプレイしつづけた。欧州のビッグクラブからの誘いもあったが、ペレをはこれを断り、これがブラジル国内での彼の人気をさらに高めた。
35歳になる年に、「サッカー不毛の地」と言われた米国のサーカーリーグのチームに移籍。西ドイツからはフランツ・ベッケンバウアーもやってきて、米国のサッカーリーグを盛り上げた。
国の代表がぶつかるサッカー・ワールドカップは4年ごとにおこなわれるが、ペレはブラジル代表として4度のワールドカップに出場し、3度優勝した。
現役選手を引退した後は、国際サッカー連盟(FIFA)の大使、国際連合児童基金(ユニセフ)の親善大使を務め、55歳のころから3年間、ブラジル政府のスポーツ大臣を務め、スポーツ施設や、スポーツ選手の権利を守る法律の整備に尽力した。

現代では、ペレ以上のテクニックをもったサッカー選手は世界にたくさんいると思うけれど、そうした現代のテクニックは、ペレが編み出し、やって見せ、それが広まり、さらに進化していった結果だと言える。
味方からきたパスを胸でトラップ(受け止め)し、そのボールが落ちる前に蹴ってゴールを決めるとか、蹴ったボールが大きく曲がった軌道を描くバナナ・シュートなど、ペレがやって見せた技は、当時のサッカーファンの度肝をぬく斬新なものだった。
彼の肉体には俊敏さと強さがあったが、とくにしなやかさがずば抜けていたと思う。

昔、小学校のころの担任教師があるとき、こんなことを言った。
「サッカーの王様、ペレが子どものころ、サッカーをはじめて、最初に練習したのは、きき足でない、左足でもボールを蹴られるようにすることだったんだって」
それを聞いて自分は、
「ペレというのは、えらい少年だったのだなあ」
と感心したものだった。
(2015年10月23日)




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10月22日・カトリーヌ・ドヌーヴの二面性

2015-10-22 | 映画
10月22日は、稀代の大女優サラ・ベルナールが生まれた日(1844年)だが、同じくフランスの女優カトリーヌ・ドヌーヴの誕生日でもある。

カトリーヌ・ドヌーヴは、1943年、フランスのパリで生まれた。本名は、カトリーヌ・ファビエンヌ・ドルレアック。父親は元俳優で、外国映画の吹き替え声優や映画スタジオの管理者をしていた。母親も俳優で、カトリーヌは3人姉妹の真ん中だった。
俳優一家に育った彼女は、13歳のときから子役として映画に出演し、19歳のとき、家を出て、「危険な関係」の映画監督ロジェ・ヴァディムと同棲をはじめた。同時に栗色の髪をブロンドに染め、映画女優の仕事をスタートさせた。彼女は先にデヴューしすでに有名女優だった姉のキャリアを邪魔しないよう、母親の旧姓ドヌーヴから、芸名をカトリーヌ・ドヌーヴとした。
そして、20歳のときに出演した、セリフがすべて歌で歌われるというジャック・ドゥミ監督の異色作「シェルブールの雨傘」で一躍注目される若手女優となった。彼女はインタビューのなかでこう発言している。
「わたしは、それまで、女優になることに、それほど熱心ではありませんでした。まだとても若かったし、『自分』というものについての認識がまったく欠けていました。わたしは、映画の問題ばかりでなく、ものの見かた、生きることとは何か、というようなことについて、それまでまったく考えたことがなかったんですね。(中略)わたしは、初めて、女優としてのわたしに全的な信頼をおいてくれる映画人に出会い、この出会いがわたしに女優としての認識と自信を与えてくれたのです。『シェルブールの雨傘』は、わたしにとって、決定的な人生の曲がり角、出発点でした。そういう点で、この映画は、わたしのキャリアのなかで最も重要な作品です。」(山田宏一「映画とは何か」草思社)
その後、彼女は「昼顔」「哀しみのトリスターナ」「終電車」「インドシナ」など数々の名作に主演し、フランスのみならず世界の映画を代表する大女優となった。
ドヌーヴは、私生活では、ヴァディム監督、イタリアの名優マルチェロ・マストロヤンニとのあいだに子どもをもうけ、子らはふたりとも俳優になっている。

彼女が17歳から21歳頃までいっしょだったヴァディム監督は言っている。
「当時のカトリーヌは、その後広く知られるようになる長所をすでに具えていた。カトリーヌは聡明な女で、辛辣なユーモアを見せるところが私を強く惹きつけ、そしてかなり冷ややかな外観の持主でありながら非常に情熱的だった。ジャック・ドゥミの『シェルブールの雨傘』とルイス・ブニュエルの『昼顔』が、彼女にとって画期的な作品となったのは偶然ではない」(ロジェ・ヴァディム著、吉田暁子訳『我が妻バルドー、ドヌーヴ、J・フォンダ』中央公論社)

昼だけ娼婦の顔を持つ人妻を演じた「昼顔」、撮影中恋愛関係にあったトリュフォー監督の作品「暗くなるまでこの恋を」、恋愛映画の巨匠クロード・ルルーシュ監督の逃避行映画「夢追い」、デヴィッド・ボウイと共演した「ハンガー」、一大歴史叙事詩「インドシナ」、そして死期の迫った元恋人マストロヤンニとの最後の共演を果たした「百一夜」などなど、彼女の映画に思いをめぐらせると、あっという間に半日がすぎてしまう。たしかな演技力、恵まれた美貌。自分というものをしっかりと把握した強い内面性。そしてなにより、クールさと情熱の同居。これが彼女の魅力の核心にちがいない。ため息の出るような美神である。
(2015年10月22日)


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『映画監督論』(金原義明)
古今東西の映画監督30人の生涯とその作品を論じた映画人物評論集。人と作品による映画史。チャップリン、エイゼンシュテイン、溝口健二、ウォルト・ディズニー、ハワード・ヒューズ、ヴィスコンティ、黒澤明、パゾリーニ、アラン・レネ、ゴダール、トリュフォー、宮崎駿、ベルトリッチ、北野武、黒沢清……などなど監督論30本を収録。映画人たちの人生を通して「映画を観ることの意味」に迫り、百年間の映画史を総括する知的追求。映画ファン必読の「シネマの参考書」。

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