1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

4月30日・クズネッツの警告

2024-04-30 | ビジネス
4月30日は、天才数学者、ガウスが生まれた日(1777年)だが、経済学者、クズネッツの誕生日でもある。

サイモン・スミス・クズネッツは1901年、当時のロシア帝国ピンスクで生まれた。
ロシア革命が起きたのが、クズネッツが16歳だった1917年。その年の三月革命で皇帝ニコライ二世が退位し、ロシア帝国が終わった。同じ年の十一月革命で、レーニン率いるボリシェヴィキ(労働党の多数派)が社会主義政権を樹立し、皇帝一家は惨殺された。
ソヴィエト連邦が始まり、クズネッツはウクライナの統計局長になった。
動乱の時代を統計学の専門家として生き抜いたクズネッツは、21歳のとき、米国へ亡命。米国へ帰化し、コロンビア大学に入った。
大学で経済学を修め、25歳のとき「小売業と卸売業の周期的な変動」の論文で博士号とり、全米経済研究所(NBER)に入局し、国の経済について研究を進めた。
29歳でペンシルベニア大学の教授に就任。このころ、彼はコンドラチェフ、スルツキーなどロシアの経済学者の理論を精力的に欧米に翻訳、紹介した。
40歳のころに始まった第二次世界大戦中は、米国の生産局、統計局で働いた。
戦後は、合衆国の統計学会会長、経済学会会長などを歴任し、1971年、70歳でノーベル経済学賞を受賞した。ジョンズ・ホプキンズ大学、ハーバード大学でも教鞭をとり、世界経済の論客として活躍した彼は「所得ならびに富研究国際協会」を創設した後、1985年7月、マサチューセッツ州ケンブリッジで没した。84歳だった。

マクロ経済学であるケインズ経済学には、経済の回復期、好況期、後退期、不況期の循環を説明する理論として、いくつかの「景気変動の波」説がある。それらはたとえば、

1 キチン循環…40カ月ほどの景気循環。主に企業の在庫変動に起因。

2 ジュグラー循環…10年ほどの景気循環。企業の設備投資に起因。

3 クズネッツ循環…20年ほどの景気循環。建設需要、人口変化に起因。

4 コンドラチェフ循環…50年ほどの景気循環。技術革新に起因。

この4番目がクズネッツの発見である。彼の名は「クズネッツ曲線」としても残っている。

また、彼は、国内総生産(GDP)の精度をあげて、国の経済状況を示す尺度として使いやすくした功労者でもある。GDP(Gross Domestic Product)は、1年間など一定期間内に国内で産出された付加価値の総額で、サービスや商品などを販売したときの価値から、原材料や流通費用などを差し引いた価値のことである。
長く有力な経済指標として重宝されてきたGDPだが、クズネッツは注意を促している。
まず、GDPが社会の狭い部分を測るために作られた指標であるため、家族によるサービスや、救済、慈善、雑用による収入など、社会生活の重要な部分でありながら、正確に評価しにくいために計算から除外された部分を、無視してしまっている点。
次に、GDPが社会の問題を単純化して見せてしまうため、そこから、GDPが大きくなるからよいのだなどと、人々がしばしば誤った錯覚を起こしてしまう点(またはわざと誤った印象を与えて悪用される可能性)。
あるいは、GDPの増進が自然破壊を助長し、お金にならないサービス(人間関係、愛情、奉仕、きずな、余暇など)を減少させ、かえって人の幸福度を減らしてしまう側面。

クズネッツが鳴らした警鐘は21世紀に入り、いよいよ大きく鳴り響いているようである。
(2024年4月30日)



●おすすめの電子書籍!

『大人のための世界偉人物語2』(金原義明)
人生の深淵に迫る伝記集 第2弾。ニュートン、ゲーテ、モーツァルト、フロイト、マッカートニー、ビル・ゲイツ……などなど、古今東西30人の生きざまを紹介。偉人たちの意外な素顔、実像を描き、人生の真実を解き明かす。人生を一緒に歩む友として座右の書としたい一冊。


●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp

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4月29日・中原中也の響き

2024-04-29 | 文学
「昭和の日」の4月29日は、「A列車で行こう」のデューク・エリントンが生まれた日(1899年)だが、詩人の中原中也の誕生日でもある。

中原中也は、1907年、山口の湯田温泉で生まれた。誕生時の名は柏村中也。中也は長男で、中也が7歳のときに下の弟が没した。父親は陸軍の軍医だった。中也が8歳のとき、父親が開業医の中原家と養子縁組をし、一家は中原姓となった。
小さいころから詩や短歌を書いていた中也は、学校を落第し、16歳の年に単身、京都へ引っ越して立命館中学に転入。下宿に新劇女優の長谷川泰子を連れ込み、同棲をはじめた。中原が18歳になる年に二人は上京。二人の住む部屋に、中原の友人で、東京大学仏文科の学生だった小林秀雄が出入りするようになり、彼らは三角関係におちいった。結局泰子は中原の部屋を出て、小林と同棲することになった。
さまざまな同人誌に関わり、詩を発表していた中原は、26歳のとき、翻訳『ランボオ詩集(学校時代の詩)』を発表。同じ年に遠縁にあたる女性と結婚。
翌年、27歳で長男が生まれ、詩集『山羊の歌』を上梓した。
29歳のとき、長男が死亡したショックで精神を病むようになった。千葉、鎌倉と転居した後、30歳のとき、故郷の山口へ引っ越すことにし、詩集『在りし日の歌』の原稿を小林秀雄に託した直後、結核性脳膜炎を発症し、1937年10月に没した。30歳だった。

小林秀雄は長谷川泰子にこう言った。
「あなたは中原とは思想が合い、ぼくとは気が合うのだ」(長谷川泰子『中原中也との愛』角川ソフィア文庫)
彼ら三人の恋愛事件は有名な話だけれど、怒鳴り合いとか乱闘とかいうものはなく、表面上は淡々としたものだった。
「私はこう言いました。
『私は小林さんとこへ行くわ』
もうそのときは、運送屋さんがリヤカーを持って表で待っていたんです。あのとき、中原は奥の六畳でなにか書きものをしておりました。そして、私のほうも向かないで、
『ふーん』といっただけなんです。」(同前)
中原は、彼女が置いたままにした荷物を後で届けてやり、こう書いた。
「私はほんとに馬鹿だつたのかもしれない」(同前)
「女が盗まれた時、突如として僕は『口惜しい男』に変つた」(小林秀雄「中原中也の思ひ出」『小林秀雄全集第二巻』新潮社)
中原中也が18歳、長谷川泰子が21歳、小林秀雄は23歳だった。

「秋の夜は、はるかの彼方(かなた)に、
 小石ばかりの、河原があつて、
 それに陽は、さらさらと
 さらさらと射してゐるのでありました。」(「一つのメルヘン」『在りし日の歌』青空文庫)
中原中也は、一つひとつのことばの響きに、瑞々しい叙情姓がある独特の詩人だった。もっと長生きした後に書いた老境の詩も読みたかった。夭逝が惜しまれる。
(2024年4月29日)



●おすすめの電子書籍!

『世界大詩人物語』(原鏡介)
詩人たちの生と詩情。詩神に愛された人々、鋭い感性をもつ詩人たちの生き様とその詩情を読み解く詩の人物読本。ゲーテ、バイロン、ハイネ、ランボー、ヘッセ、白秋、朔太郎、賢治、民喜、中也、隆一ほか。彼らの個性、感受性は、われわれに何を示すか?

●電子書籍は明鏡舎。
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4月28日・オスカー・シンドラーの賭け

2024-04-28 | 歴史と人生

4月28日は、画家、東郷青児が生まれた日(1897年)だが、実業家オスカー・シンドラーの誕生日でもある。

オスカー・シンドラーは、1908年、現在のチェコのスヴィタヴィで生まれた。当時はオーストリア・ハンガリー帝国の一部で、父親は農業機械の製造工場の経営者だった。もともとドイツ・オーストリアの家系で、カトリック教徒だったが、オスカーは小さいころから近所のユダヤ人の子らと遊ぶ、宗教的な偏見をもたない子どもだった。
ギムナジウム(中高一貫校)を卒業したシンドラーは、会社勤務やチェコスロバキア陸軍で兵役についた後、20代後半のころ、ドイツ民族主義的な政党に入り、ドイツ側のスパイとなって働くようになった。それが発覚してつかまり、死刑を宣告された。しかし、彼がいたズデーテン地方がドイツにより併合され、死刑執行は中止された。
釈放されたシンドラーは、ナチス党に入党。
31歳のときに、ドイツ軍がポーランドに侵攻すると、自分もポーランドへ渡り、古い容器工場を買い取って経営をはじめた。彼の工場はドイツ軍から厨房用品の受注を受けて、経営を拡大し、しだいに兵器の部品を作る軍需工場となった。シンドラーは、ただ同然で使えるユダヤ人労働者を多く雇い入れた。
当時、すでにナチス・ドイツによるユダヤ人迫害、拉致ははじまっていたが、シンドラーの軍需工場は特権を与えられていて、彼の工場で働く熟練工のユダヤ人には、ナチス親衛隊やゲシュタポも手出しできなかった。
はじめは経済効率のためだったが、シンドラーはしだいにユダヤ人労働者たちの生命も守ろうと考えるようになり、親衛隊側に必要不可欠だとして熟練工リストを提出し、賄賂を渡して雇用を守りつづけた。彼のリストには学生や子どもの名前も含まれていた。戦争末期、ソ連軍が侵攻し、工場のユダヤ人労働者たちがアウシュビッツの絶滅収容所へ移送された際には、みずから収容所へ乗り込んでいって、賄賂をばらまいて労働者を連れもどした。そして第二次大戦中、ナチス・ドイツによるホロコーストから、ユダヤ人約1200人を救った。自分のもっていた全財産を投じてユダヤ人労働者を守ったシンドラーは、終戦近くに工場を離れたときには、1ペニヒももっていなかったという。

戦後、シンドラーは貿易商や工場経営の事業で失敗を続けた。生き延びたユダヤ人たちはそんな彼の救済に努めた。シンドラーはドイツとイスラエルを行ったり来たりして晩年をすごした後、1974年10月、ドイツのヒルデスハイムで没した。66歳だった。

シンドラーのユダヤ人救済は一歩まちがえば自分が処刑される、命を張った賭けだった。

スティーブン・スピルバーグ監督の「シンドラーのリスト」は、多くの映画関係者がハリウッド映画史のベスト・ワンに挙げる名作で、感動なしには観られない。映画中のユダヤ人虐待の凄惨さはすさまじいが、あれでもまだ水でうすめ味を薄くしてあって、実際のナチスの収容所所長はさらに残虐で、ユダヤ人をつかまえ、くいにしばりつけ、生きたまま犬に食わせることもしたらしい。
映画の終わりのほうで、工場のユダヤ人労働者たちが、金歯をぬき、溶かし、金の指輪を作って、シンドラーに贈る感動的な場面があるが、あれは実話である。まったくすばらしい、映画を観たその夜の夢で見てうなされそうな、苦々しい傑作である。
(2024年4月28日)


●おすすめの電子書籍!

『映画監督論』(金原義明)
古今東西の映画監督30人の生涯とその作品を論じた映画人物評論集。監督論。人と作品による映画史。チャップリン、溝口健二、ディズニー、黒澤明、パゾリーニ、ゴダール、トリュフォー、宮崎駿、北野武、黒沢清などなど。百年間の映画史を総括する知的追求。


●電子書籍は明鏡舎。
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4月27日・メアリ・ウルストンクラフトの先見

2024-04-27 | 思想
4月27日は、『ローマ帝国衰亡史』を書いたエドワード・ギボンが生まれた日(1737年、ユリウス暦による)だが、英国のフェミニズム作家メアリ・ウルストンクラフトの誕生日でもある。

メアリ・ウルストンクラフトは、1759年、英国イングランドのロンドンで生まれた。資産家の家庭で、メアリは7人きょうだいの上から2番目だった。
父親は投機的な投資を重ねて、しだいに家の財産を失い、しまいにはメアリが成人した際に受け取るはずの信託財産にも手をつけた。父親は暴力的で、酒に酔っては母親を殴るため、メアリは子どものころ、母親を守るために、親の寝室のドアの前で寝ていたという。
18歳のころ、女性王族の世話をする仕事を得て独立。家を出て暮らすようになり、21歳のときに母親が亡くなった後は、きょうだいや父親の面倒もみた。
28歳のとき、メアリは『少女の教育についての論考』を書き、出版されると好評を得た。以後、彼女は執筆を職業として評論、翻訳などに力を入れた。
ウルストンクラフトが30歳のとき、フランス革命が勃発。
33歳のとき、時代を二百年ほど先取りした代表作『女性の権利の擁護』を発表した。
34歳のとき、フランス革命の状況を見学しに訪ねたフランスのパリで、米国人実業家と恋に落ち、同棲。一女をもうけた。異国の地で子育てをしながら、革命の進行について記録して出版した。しかし、しだいに家庭的になっていくウルストンクラフトに疲れ、米国人の恋人はやがて離れていき、英国ロンドンで新しい女性を見つけた。ウルストンクラフトはロンドンへ追っていき、よりを戻そうとしたが、拒絶され、彼女は36歳のとき、テムズ川に身を投げた。
川から救助され、一命をとりとめたウルストンクラフトは、その後、38歳のとき、アナキストの思想家と恋に落ち、子どもをもうけた。
彼女は娘を産んだが、その際の産褥熱のため、出産から11日後の1797年9月に没した。38歳だった。このとき誕生した娘が、後に詩人シェリーと結婚し、みずからも女流作家として怪奇小説『フランケンシュタイン』を書いたメアリ・シェリーである。

ウルストンクラフトが生まれたのは18世紀の旧体制の時代だった。
まだ王権が君臨していて、ほかの人間の存在は、王のしもべにすぎなかった。
人間の自由と平等を訴え、フランス革命の理論的支柱となったルソーでさえ、主著『エミール』のなかで、男の子には教育が必要で、女の子には従順になるような教育が必要であると、あからさまに男女差別していた。そんな時代に、ウルストンクラフトは、男の言いなりでなく、対等に意見を言う女性の権利を昂然と訴えていた。
なるほど、フランス革命は「自分たちにもパンを」と、台頭してきた市民たちが叫んだ、自分らの生きる権利を訴えた市民革命だったが、こうしてみると、厳密には「男たちの権利のための革命」だったとわかる。
ウルストンクラフトは、現代から考えると、大変な苦労をして若死にした人だけれど、フェミニズムの源流であり、現代に生きる全女性の恩人とも言える。その思想の先見性に脱帽する。
(2024年4月27日)


●おすすめの電子書籍!

『女性解放史人物事典 ──フェミニズムからヒューマニズムへ』(金原義明)
平易で楽しい「読むフェミニズム事典」。女性の選挙権の由来をさぐり、自由の未来を示す知的冒険。アン・ハッチンソン、メアリ・ウルストンクラフトからマドンナ、アンジェリーナ・ジョリーまで全五〇章。人物事項索引付き。フェミニズム研究の基礎図書。また女性史研究の可能性を見通す航海図。


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4月26日・ドラクロワの挑戦

2024-04-26 | 思想
4月26日は、哲学者、ウィトゲンシュタインが生まれた日(1889年)だが、ロマン派の画家、ドラクロワの誕生日でもある。「民衆を導く自由の女神」を描いた人である。

フェルディナン・ヴィクトール・ウジェーヌ・ドラクロワは、1798年、仏国の現在のサン=モーリスで生まれた。父親は外交官、母親はルイ王朝御用達の家具屋の娘だった。
文学好きだったドラクロワは、画家の叔父に才能を見出され、17歳のときに学校を退学、当時有名だった新古典主義画家ゲランに弟子入りさせられた。「メデューズ号の筏(いかだ)」を描いたテオドール・ジェリコーはそこの兄弟子だった。
ドラクロワは、24歳のとき「地獄のダンテとヴェルギリウス」を発表。これはダンテの『神曲』の「地獄編」に題材をとった作品で、ダンテが案内役の詩人ヴェルギリウスと並んで小舟に乗っていると、湖に沈んでいた亡者たちが寄ってきて、舟にあがろうとしてくるという壮絶な場面を、荒々しいタッチで描いた力作だった。
26歳のときには「キオス島の虐殺」を発表。この作品は、当時、トルコの支配下にあったギリシャのキオス島で、独立運動に立ち上がった島民を、トルコ軍が大虐殺した事件を描いたものだった。この作品が発表された同じ年、英国の詩人バイロンはギリシャ独立戦争に身を投じ、その戦地で没している。
当時は様式美を重んじる新古典主義の時代であり、ドラクロワの画風はいずれも酷評された。しかし、ドラクロワはドラマティックな激情に満ちた作風を貫き「サルダナパールの死」「民衆を導く自由の女神」を発表。34歳のとき、政府の外交使節のお付きの画家としてモロッコへ旅し、現地でエキゾティックな香り高いデッサンをたくさん描いて帰ってきて「アルジェの女たち」を発表した。
その後、ドラクロワは宮殿、役所の庁舎などの大建築の装飾を数多く手がけた後、1863年8月、パリで没した。65歳だった。

ドラクロワ作品でいちばん慄然としたのは「サルダナパールの死」だった。広い寝室のいたるところで王の部下たちが半裸の美女たちをとらえ、剣で刺し殺している。ベッドに寝そべった王が、その殺戮風景を冷やかにながめている、という構図絵である。これは、バイロン作の戯曲「サルダナパール」を題材にしたもので、アッシリアの王サルダナパールが、反乱軍が迫り自分の死が近づいたのを察して、部下に自分の愛妾たちを殺すよう命令した、その場面である。この作品も、発表当時はひどく酷評されたらしい。ただし、詩人のボードレールは賞賛した。

当時、主流だった新古典主義の代表画家は「アルプスを越えるナポレオン」「皇帝ナポレオン1世と皇后ジョゼフィーヌの戴冠式」を描いたジャック=ルイ・ダヴィッドや、「グランド・オダリスク(横たわるオダリスク)」を描いたドミニク・アングルである。ダヴィッドやアングルの整然とした作品もいいけれど、ドラクロワのはげしいタッチに打たれる。もともと新古典主義の師匠のもとで修行をしていたドラクロワが、なぜ写真のように美しく描ける技術を捨て、あえて荒々しい筆づかいで描いたかがわかる。彼の絵を見ていると、既成の芸術観に挑み、乗り越えようとしたドラクロワの気持ちが迫ってくる。

華麗な色使いで知られる画家ドラクロワはこう言った。
「あらゆる絵の敵は、灰色である」
(2024年4月26日)



●おすすめの電子書籍!

『芸術家たちの生涯----美の在り方、創り方』(ぱぴろう)
古今東西の大芸術家、三一人の人生を検証する芸術家人物評伝。彼らの創造の秘密に迫り、美の鑑賞法を解説する美術評論集。会田誠、ウォーホル、ダリ、志功、シャガール、ピカソ、松園、ゴッホ、モネ、レンブラント、ミケランジェロ、ダ・ヴィンチまで。芸術眼がぐっと深まる「読む美術史」。


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4月25日・坂東玉三郎の感性

2024-04-25 | ビジネス
4月25日は、清教徒革命の立役者、オリバー・クロムウェルが生まれた日(1599年)だが、歌舞伎の五代目・坂東玉三郎(ばんどうたまさぶろう)の誕生日でもある。

五代目・坂東玉三郎こと、本名・守田伸一(もりたしんいち)は1950年、東京に生まれた。実家は料亭だった。
伸一は小さいころ、小児麻痺を患い、その後遺症のリハビリにと、日本舞踊を習いだした。すると、伸一少年はこれが気に入った。夢中になった。
6歳のころ、踊りの稽古に通った縁で、歌舞伎役者の十四代目・守田勘弥の部屋子となった。部屋子とは、役者と同じ楽屋を使う子どものことである。ほかにも歌舞伎の舞台に出演する子どもたちの楽屋があるなか、あえて部屋子として迎え、同じ楽屋で歌舞伎役者の立ち居振る舞いを学ぶ機会を与える、つまり、才能ありと認められたのである。
伸一は7歳のとき「菅原伝授手習鑑・寺子屋」で初舞台を踏んだ。そして、14歳で守田勘弥の芸養子として迎えられ、五代目坂東玉三郎を襲名し「心中刃は氷の朔日」に出演した。
以後、「椿説弓張月」や「鳴神」といった作品にお姫様役で出演し、女形(おやま)として絶大な人気を得た。
24歳のときには、守田勘弥と正式に養子縁組し、戸籍上の親子となった。
以後、「与話情浮名横櫛」のお富さん、「義経千本桜」の静御前、「番町皿屋敷」のお菊などをはじめとする、歌舞伎の女役を演じ、変わったところでは、シェイクスピア劇の「マクベス」のマクベス夫人を演じた。
また、29歳のとき、泉鏡花原作の映画「夜叉ヶ池」に出演し、人間の娘・百合と、池に棲む魔物・白雪姫のヒロイン二役を一人で演じた。
36歳のとき、舞台「ロミオとジュリエット」の演出を担当し、41歳で泉鏡花原作の映画「外科室」を監督し、映画監督デビューを果たした。
歌舞伎俳優として活躍するかたわら、海外の舞台関係者や映像作家たちとのコラボレーションも多く、62歳のときに人間国宝となった。歌舞伎の世界にとどまらず、偉大な舞台芸術家として世界的に評価の高い、絶大な人気を誇る演技者である。

ずっと昔、玉三郎がテレビ番組の取材を受けて、こんなコメントをしていた。
「疲れたときは、某(という長唄)を聴いて癒されます」
それが自分のまったく知らない歌で、(ああ、この人は、自分とはまったく異なった感性の持ち主なのだ。上品で、繊細で、自分のようながさつな者とは住む世界がちがうのだ)と理解した。
でも、自分は泉鏡花ファンであり、玉三郎は泉鏡花作品を演じる、鏡花のよき理解者であり、無縁なはずの両者はそこでかろうじてつながっている。
玉三郎は鏡花作品の、みずから演じる作品については、すごくくわしく知っていて、多くを教えられた。そして、玉三郎でも、わからないこともあるのだと共感できた。次の玉三郎の意見に同感である。
「『高野聖』なんかでも、鏡花先生って、こういうふうに読んできたらこういうふうになるんだってわかるんだけど、一瞬こう、ある部分だけがものすごく飛躍してて、そこがもう摩訶不思議な言葉で埋めつくされちゃってて、もう訳わからない」(坂東玉三郎、郡司正勝「対談・鏡花劇をめぐって」『国文学 鏡花幻想文学誌』学灯社)
(2024年4月25日)



●おすすめの電子書籍!

『映画女優という生き方』(原鏡介)
世界の映画女優たちの生き様と作品をめぐる映画評論。モンローほかスター女優たちの演技と生の真実を明らかにする。

●電子書籍は明鏡舎。
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4月24日・ルー・テーズの本物

2024-04-24 | スポーツ

4月24日は、植物学者、牧野富太郎が生まれた日(文久2年・1862年)だが、プロレスの神様「鉄人」ルー・テーズの誕生日でもある。

ルー・テーズは、1916年、米国ミシガン州のバナットで生まれた。父親はハンガリーからやってきた靴修理職人の移民で、セントルイスで靴修理をしていたところ、バナットの田舎へ引っ越して、農場をはじめた。そこの山小屋で生まれたのがルーだった。ルーは4人きょうだいの3番目で、彼のほかはみんな女のきょうだいだった。農地開墾はうまくいかず、ルーが2歳のころ、一家はセントルイスへもどり、父親も靴修理にもどった。
小さいころ、ルーは吃音に悩まされていた。さらに彼は生まれつき左利きで、当時左利きは無理やり右利きに矯正されたため、苦しい少年時代をすごした。
8歳のころから、父親はルーにレスリングを教えだした。数百回の腕立て伏せ、スクワット、ブリッジからはじまるきびしいレッスンだったが、ルーはそれを楽しんだ。彼のおこづかいはすべてプロレスラーの公開練習見学に注ぎ込まれた。
14歳のときに学校をやめ、靴の修理工となり、仕事を5時に終えると、午後9時までレスリングのトレーニングをした。近くの高校のレスリング部といっしょに練習するようになり、テーズはいよいよ熱中した。
15歳からコーチにつき、19歳からプロレス巡業に参加した。当時は大恐慌が尾を引く不況期だったが、生活を節約して転戦し、タイトルマッチへの権利を得、彼は21歳の若さでNWA世界王者となった。通常のチャンピオンより10年若い王者の誕生だった。
第二次大戦中は徴兵され、兵士たちに格闘技を教える教官を務めた。
戦後、軍務から解放されたテーズは、世界王者に返り咲いた。相手を背後から抱え上げ、からだを添えてのけぞりながら、目にも止まらぬ速さで相手の後頭部を後方のマットへ打ちつけるバックドロップで連戦連勝を重ね、30代の全盛期には約8年間にわたって936連勝という大記録を打ち立てた。
テーズは、力道山、ジャイアント馬場、アントニオ猪木といった日本のプロレスラーとも試合をし、何度も来日した。74歳のとき、47歳年下の蝶野正洋と戦った試合を最後に現役を引退し、2002年4月、心臓発作のため、フロリダ州オーランドの病院で没した。86歳だった。

「打倒、ルー・テーズ。わたしを強くしてくれたのは、この悲願、この執念だ」
それが力道山の口ぐせだったという。

ルー・テーズの自伝を読むと、とても同じ人間と思えない。超人とは彼のことである。
自伝によると、テーズが信条にしていたことばはこうである。
「オーセンティック(authentic、正真正銘の、本物の、確実な)」
戦後はテレビ時代となり、派手なガウンをまとい、派手なアクションをするプロレスラーが人気を浴びるようになった。プロのレスラーとして生きていくには、この時代の流れに順応していかなくてはならないが、大事なのは「オーセンティック・レスリング」を忘れずに精進することだと、亡くなった先輩レスラーが彼に言い残した。以来、テーズは「オーセンティック」という形容詞を肝に銘じて忘れないという。
そう、オーセンティック、である。
(2024年4月24日)


●おすすめの電子書籍!

『アスリートたちの生きざま』(原鏡介)
さまざまなジャンルのスポーツ選手たちの達成、生き様を検証する人物評伝。嘉納治五郎、ネイスミス、チルデン、ボビー・ジョーンズ、ルー・テーズ、アベベ、長嶋茂雄、モハメド・アリ、山下泰裕、マッケンロー、本田圭佑などなど、アスリートたちの生から人生の陰影をかみしめる「行動する人生論」。


●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp

 

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4月23日・川上宗薫の誠実

2024-04-23 | 文学

4月23日は「サン・ジョルディ」の日。スペインのカタロニア地方では、女性は男性に本を、男性は女性に赤いバラを贈る日だが、この日は作家の川上宗薫(かわかみそうくん)の誕生日でもある。

川上宗薫は、1924年、愛媛の宇和(現在の西予市)で生まれた。父親はキリスト教のメソジスト派の牧師だった。本名は、漢字表記はペンネームと同じで「むねしげ」。
子どものころから引っ越しを繰り返し、長崎の中学、福岡の高校に通った。17歳のとき日米開戦を迎え、20歳のとき、長崎の陸軍連隊に入隊した。入隊後は肋膜炎を患い、入院したが、その入院中に、長崎への原爆投下によって、母親と二人の妹を失った。
敗戦後、22歳のとき九州大学に入学。はじめ哲学科、後に英文科へ移った。学生結婚をし、大学に通いながら高校で英語の授業を教え、文芸部で小説、俳句を書いた。
大学を卒業後、高校教師となり、千葉へ引っ越して、高校で英語を教えながら、小説を書いた。30歳から36歳にかけて『その掟』『初心』『或る眼醒め』『シルエット』『憂鬱な獣』で5度、芥川賞候補になった。が、受賞は逃しつづけた。その期間の受賞者には吉行淳之介、遠藤周作、石原慎太郎、開高健、大江健三郎、北杜夫がいる。
35歳のころ、友人だった水上勉の小説を、知り合いの編集者に推薦すると、すぐに本になり、水上勉は急に売れっ子になった。川上は追い越された嫉妬を茶化した小説を発表し、水上も恩人の川上を揶揄した小説を書いて応酬し、両者の仲は険悪になった。ケンカの影響で川上は文芸誌に原稿を受けとってもらえなくなり、すでに教師をやめ、執筆業に専念していた川上は窮した。彼は官能小説の分野に本格的に進出した。過去の体験の上に、さらに体験取材を重ねて、実体験に基づく官能小説を書きつづけて、その分野の大家となった。
1985年10月、リンパ腺がんのため、東京の自宅で没した。61歳だった。

牧師だった川上宗薫の父親は、原爆によって妻子を失ったため、キリスト教への信仰を捨てたそうだ。牧師の子だった川上と、寺の小僧だった水上勉が友人同士で、二人ともひじょうに女好きで、性欲が旺盛だったのは、とても興味深い。
一方は何度も候補にあがりながらついに芥川賞をとれず、一方は直木賞をとった。受賞の有無が大きくその後の方向性を分け、一方はやわらかい小説を、一方はかたいものを書くようになった。ただ、どちらも流行作家で、プライベートでモテモテで女性関係が忙しかったのは共通していた。

川上宗薫と水上勉の両作家とも好きで、自伝的な川上の『わが好色一代』や水上の『フライパンの唄』なども楽しく読んだ。水上が川上を皮肉って書いた『好色』も読んだ。そのほか、吉行淳之介や小林秀雄がらみの逸話もすこし知っていて、二人の人生経緯をながめると、感慨深いものがある。
どちらも小説家だからうそつきにはちがいないが、文章から、川上宗薫のほうが誠実で、より信頼できる人とわかる。仲たがいしていた二人は後、川上が45歳のころには仲直りしたそうだ。ちょっとジョン・レノンとポール・マッカートニーに似ている。
(2024年4月23日)



●おすすめの電子書籍!

『小説家という生き方(村上春樹から夏目漱石へ)』(金原義明)
人はいかにして小説家になるか、をさぐる画期的な作家論。村上龍、村上春樹から、団鬼六、三島由紀夫、川上宗薫、江戸川乱歩らをへて、鏡花、漱石、鴎外などの文豪まで。新しい角度から大作家たちの生き様、作品を検討。読書体験を次の次元へと誘う文芸評論。


●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp

 

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4月22日・オッペンハイマーの意図

2024-04-22 | 科学

4月22日は、至上の哲学者イマヌエル・カントが生まれた日(1724年)だが、天才物理者ロバート・オッペンハイマーの誕生日でもある。

ジュリアス・ロバート・オッペンハイマーは1904年、米国のニューヨークで、両親ともにユダヤ人の家庭に生まれた。
ジュリアスの父親は、ドイツから無一文で、学歴もなく、英語も話せないながら渡ってきた貧乏移民だったが、織物業界で成功し、ジュリアスが生まれたころには裕福な織物輸入業者になっていて、ジュリアスが8歳のときに引っ越したマンハッタンのマンションにはピカソやゴッホの絵が飾られていたという。ジュリアスの母親は画家で、ジュリアスには弟がいて、弟も後に物理学者になった。
「信教より行動を」とモットーとする倫理文化系の学校教育を受けたジュリアスは、飛び級して進学し、ハーバード大学に入学、化学を専攻したが、歴史、哲学、文学、数学も学び、また、物理学にも造詣が深かった。このころは実験物理学に興味をもっていた。
オッペンハイマー青年はハーバード大学を卒業すると、英国ケンブリッジ大学に留学した。
「原子物理学の父」ラザフォードが率いるケンブリッジ大は実験物理学の牙城だったが、担当教官とそりが合わず、オッペンハイマーは抑鬱状態におちいり、たばこをたくさん吸い、しばしば自暴自棄になった。そして、22歳のとき、英国を離れ、ドイツのゲッティンゲン大学に留学した。ここで彼は今度は理論物理学の研究に没頭し、「ボルン=オッペンハイマー近似」を発表し、23歳という若さで物理学の博士号をとった。
米国へもどったオッペンハイマーは、25歳でカリフォルニア大学バークレー校やカリフォルニア工科大学で物理学を教えた。
彼が35歳のときに第二次大戦が始まり、37歳のときに日米開戦、戦時となり、米国は原子爆弾を開発するマンハッタン計画を開始し、ニールス・ボーア、ジョン・フォン・ノイマン、リチャード・ファインマンなど優秀な物理学者たちがいっせいに狩り集められた。その陣頭指揮をとったのが、オッペンハイマーだった。彼は39歳でニューメキシコ州ロスアラモス国立研究所の初代所長となり、原爆製造研究チームを主導、優れた統率力を発揮し、世界初の原子爆弾を作りあげ、核実験をおこなった。原爆は空路日本へ運ばれ、ヒロシマとナガサキに投下された。オッペンハイマーが41歳のときだった。
日本への原爆投下をオッペンハイマーは支持したが、その結果起きた惨状を知ると、ただちに後悔しだし、戦後は核兵器の国際的な管理を呼びかけ、核兵器開発競争に反対した。
オッペンハイマーはマッカーシーの赤狩り旋風が吹き荒れた1950年代に追及され、公職から追いだされ、以後もその日常をFBIなど体制側によって監視された。
ヘビースモーカーだったオッペンハイマーは、61歳で喉頭ガンと診断され、放射線治療を受けた後、1967年2月、ニュージャージー州プリンストンの自宅で没した。62歳だった。

2023年、映画「オッペンハイマー」が米国で公開され、8カ月遅れで被爆国・日本でも公開された。

被爆国民である日本人の耳には「原爆の父」オッペンハイマーの名は苦く響く。しかし、戦中は日本も、独米に比べだいぶ遅れていたとはいえ、核兵器開発にいそしんでいたのであり、もしもまかりまちがって日本が先に原爆製造に成功し、実戦で使っていたとして、その結果を見て、開発者たちがどれだけ悔いただろうか、ということを考えるとき、オッペンハイマーやアインシュタインの後悔の貴重さを思わざるを得ない。
(2024年4月22日)



●おすすめの電子書籍!

『科学者たちの生涯 第二巻』(原鏡介)
宇宙のルール、現代の世界観を創った大科学者たちの生涯、達成をみる人物評伝。ハンセン、コッホから、ファインマン、ホーキングまで。知的感動のドラマ。


●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp

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4月21日・マックス・ウェーバーの倫理

2024-04-21 | 思想

4月21日は、『ジェーン・エア』を書いたシャーロット・ブロンテが生まれた日(1816年)だが、社会学者、マックス・ウェーバーの誕生日でもある。

マックス・ウェーバーこと、カール・エミール・マクスィミリアン・ヴェーバー は、1864年、プロイセン王国のエルフルト(現在のドイツ中央部にある)で生まれた。父親は政治家で、母親は哲学者で婦人運動家でもあった。マックスは長男だった。
12歳のころからマキャベリ、スピノザ、カントを読み、15歳のころには民族史の論文を書いていたマックスは、18歳でハイデルベルク大学に入学し、法律学を修めた。
19歳で軍務についた後、ベルリン大学、ゲッティンゲン大学で学んだ。
28歳のとき、ベルリン大学の講師となり、法律学の講義を担当した。
31歳でフライブルク大学の教授に就任。33歳でハイデルベルク大学の教授に就任したが、39歳のとき、神経症のため退職、名誉教授となった。以後しばらく教職を離れ、学術雑誌を編集し、論文を書いた。
41歳のとき、代表作『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を発表。同年に第一次ロシア革命が起きると、ウェーバーはただちにロシア語を勉強し『ロシアにおける市民的民主主義の状態』を書いた。
50歳のとき、第一次世界大戦が勃発。ウェーバーは野戦病院で働いた。敗戦の色が濃くなった53歳のとき、ミュンヘンの学生に向かって、学問への甘い幻想を叩き斬る講演をぶち、これが本にまとめられ『職業としての学問』となった。
第一次大戦後は、ウィーン大学、ミュンヘン大学などの教壇に立ったが、1920年6月、ミュンヘンで、当時世界的に流行したインフルエンザ(スペインかぜ)のため、肺炎を起こし、没した。56歳だった。

彼の大著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は、もともと禁欲主義で清貧をモットーとするプロテスタント(清教徒)が、なぜヨーロッパやアメリカで成功して大金持ちになれるのかという、重要な疑問に真正面から取り組んだ労作で、とても興味深い作品だった。これを読んで、カーネギーやロックフェラー、ビル・ゲイツら成功者がなぜ慈善事業に走るのかがあらためて腑に落ちたし、また、ウェーバーの言う「天職義務」の語にも強く感じた。日本人について、あらためて考えさせられた。
「ピュウリタンは天職職人たらんと欲した──われわれは天職人たらざるをえない。というのは、禁欲は修道士の小部屋から職業生活のただ中に移されて、世俗内的道徳を支配しはじめるとともに、こんどは、非有機的・機械的生産の技術的・経済的条件に結びつけられた近代的経済秩序の、あの強力な秩序界を作り上げるのに手を貸すことになったからだ。(中略)今日では、禁欲の精神は──最終的にか否か、誰が知ろう──この鉄の檻から抜け出してしまった。ともかく勝利をとげた資本主義は、機械の基礎の上に立って以来、この支柱をもう必要としない。」(大塚久雄訳『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波文庫)

資本主義はさらに進み、倫理は過去のものとなり、もはや人間の手にはおえない、システムが自動運動で世界を動かす高度産業社会に突入した。
(2024年4月21日)



●おすすめの電子書籍!

『思想家たちの生と生の解釈』(金原義明)
「生」の実像に迫る哲学評論。ブッダ、カント、ニーチェ、ウィトゲンシュタイン、フーコー、スウェーデンボルグ、シュタイナー、クリシュナムルティ、ブローデル、丸山眞男など大思想家たちの人生と思想を検証。生、死、霊魂、世界、存在について考察。わたしたちはなぜ生きているのか。生きることに意味はあるのか。人生の根本問題をさぐる究極の思想書。


●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp

 

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