1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

3月31日・大島渚の遺産

2023-03-31 | 映画
3月31日は、「我思う、ゆえに我あり」と言った哲学者デカルトが生まれた日(1596年)だが、映画監督、大島渚の誕生日でもある。

大島渚は、1932年に、京都で生まれた。父親は役人で、水産試験場に勤務していたところから、「渚」と命名されたらしい。
京都大学法学部に入学し、学生時代は、劇団活動のかたわら、京都府学連の委員長として学生運動にも参加した。
22歳のとき、松竹大船撮影所に助監督として入社。
28歳の年には、「青春残酷物語」「太陽の墓場」「日本の夜と霧」と、3本の作品を監督し、吉田喜重、篠田正浩らとともに「松竹ヌーヴェルヴァーグ」の監督して名を馳せた。
これら大島作品は、いずれも社会性が強い、反体制的な作風の映画だったが、とくに「日本の夜と霧」は安保闘争を真正面から扱った政治色の強い映画で、松竹は封切りから4日後に自主的に公開を中止。これに怒った大島渚は、松竹を退社。仲間とともに映画制作会社、創造社を設立し、独立プロダクションの船出となった。
以後、経営的な困難、官憲側との闘争などに苦しみながらも、つねに社会の価値観を揺さぶる刺激的な作品を発表しつづけた。
作品に「天草四郎時貞」「白昼の通り魔」「忍者武芸帳」「日本春歌考」「無理心中日本の夏」「絞死刑」「帰って来たヨッパライ」「愛のコリーダ」「愛の亡霊」「戦場のメリークリスマス」「御法度」などがある。
64歳のとき、「御法度」の制作発表した直後に脳出血で倒れた。治療、リハビリテーションを積んでなお不自由なからだをおして「御法度」を完成させた後、2013年1月、肺炎により没。80歳だった。

世界を見渡しても、大島渚監督ほど個性の強い映画監督はすくない。
作品の一作一作が、体制側に対する闘争宣言であり、観客に突きつけた最後通牒であり、社会正義の訴えだった。
パゾリーニやゴダールよりも、さらにとんがった映画の悪魔だった。
初期の作品の感性のとんがり具合もさることながら、年をとり、いっそう過激になったとんがり具合もすばらしい。
ポルノグラフィーを撮るのなら徹底的にやろうじゃないかと、露骨な性描写を敢行して、いまだに無修正完全版が日本でみられない「愛のコリーダ」や、ビートたけしや坂本龍一といった、後に映画界で世界的に活躍することになる才能を発掘したホモセクシュアルの戦争映画「戦場のメリークリスマス」は、とんがった感性の記念碑的作品である。

「日本の夜と霧」の公開中止に怒って松竹を飛びだした大島監督は、独立プロダクションを興したが、映画が興行的に失敗して莫大な借金を負い、つぎの映画制作費を稼ぐために、主婦志望だった妻の小山明子も女優業を続け、監督もテレビに出て、夫婦共稼ぎで苦労しつづけた。そして、大島が倒れてからは、その介護で妻もうつ病になった。
大島作品のファンである以上に小山明子ファンなので、嫉妬と崇敬が相半ばするが、それにしても、大島渚監督の人生は、闘いにつぐ闘いの人生だった。
後を生きるわたしたちは、彼の作品から何かを感じ、受け継ぐべき義務があると考える。
(2023年3月31日)



●おすすめの電子書籍!

『映画監督論』(金原義明)
古今東西の映画監督30人の生涯とその作品を論じた映画人物評論集。監督論。人と作品による映画史。チャップリン、溝口健二、ディズニー、黒澤明、パゾリーニ、ゴダール、トリュフォー、宮崎駿、北野武、黒沢清などなど。百年間の映画史を総括する知的追求。


●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp

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3月30日・ゴッホの扉

2023-03-30 | 美術
3月30日は、英国のギタリスト、エリック・クラプトン(1945年)が生まれた日だが、炎の画家、ゴッホの誕生日でもある。

フィンセント・ファン・ゴッホは、1853年、ネーデルランド(オランダ)の南部、ベルギー国境に近いズンデルトで誕生した。父親は牧師だった。
フィンセントは子どものころから絵画を描くのが好きだったらしい。
市民学校を出たゴッホは、16歳のとき、絵画を扱う商店の店員となり、英国ロンドン支店、仏国パリ支店などに勤務した後、23歳で退職。聖職者を志すようになった。
25歳のとき、ベルギーの炭坑の村プティ=ヴァムで、ゴッホは伝道活動を始めた。しかし、貧しい村の人々に同情したゴッホが、自分の衣服を彼らに与え、自分がボロを着ていると、教会側に「権威を損なう行為」だとして非難され、伝道師の仮免許が剥奪された。
聖職者の道を断たれたゴッホは、27歳のころ、画家になることを決意。画商をしている弟のテオの仕送りを受けながら、デッサンや油彩を描き、ベルギー、ネーデルランド、フランスなどを転々とした。
29歳のときには、ネーデルランドのハーグで、モデルを頼んだ身重の売春婦に同情して援助し、彼女と彼女が産んだ子どもと共同生活をしている。
仏国では、パリ暮らしをへて、35歳のとき、地中海に面したアルルへ越した。ゴッホの傑作と言われる作品群は、ほとんどがこの地へ来て以降のものである。そのアルルでゴッホは、同じく画家のゴーギャンを迎え、共同生活をはじめた。創作に励む二人の画家の共同生活はしだいに緊張関係を生み、ついにゴッホが剃刀でゴーギャンに切り付けようとして失敗し、逆上して自分の耳を切り落とすという事件に発展する。ゴーギャンはアルルを去り、共同生活は2カ月ほどで決裂した。
ゴッホは精神病院に入退院した後、1890年7月、オーヴェルで自分の胸をピストルで撃ち、死亡した。37歳だった。

ゴッホの死んだ翌年、弟のテオも没した。
ゴッホの絵は、生前は一枚しか売れず、その絵が高く評価されだしたのは、没後のことである。兄弟の死後、テオの妻が、ゴッホの回顧展や、兄弟の書簡集を出版するなど尽力したことが、画家ゴッホの再評価につながったとされる。
ゴッホが画家だったのは、10年間ほどで、傑作は最晩年の2年間に集中している。それを考えれば、ゴッホは比較的早く評価された画家だったとも言える。もしもゴッホが50歳まで生きていたら、鬱然たる大家として世界美術界に君臨していたかもしれない。

ゴッホ以前の画家も個性的ではあったが、ゴッホほど明確ではない。ゴッホの作品を見ると、見た人はすぐに「あ、ゴッホだ」とわかる。それほど個性際立つ描き方をしている。
ゴッホ以前の画家たちは、そこに美が生まれることを念じて絵を描いていた。
ゴッホ以降の画家たちは、そこに自分の描き方が出ることを念頭に描くようになった。
現代人は、誰が描いたかわからない、ただ美しい傑作にはありがたみを感じない。
「ああ、この人の作風だ」という個性を崇拝する。
厚塗りによる発色のよさと、骨太な点描画法による強いインパクト。ゴッホは美術界に個性の時代を開いた先駆者である。現代の美意識の扉を開いた、美の革命家だった。
(2023年3月30日)



●おすすめの電子書籍!

『芸術家たちの生涯----美の在り方、創り方』(ぱぴろう)
古今東西の大芸術家、三一人の人生を検証する芸術家人物評伝。彼らの創造の秘密に迫り、美の鑑賞法を解説する美術評論集。会田誠、ウォーホル、ダリ、志功、シャガール、ピカソ、松園、ゴッホ、モネ、レンブラント、ミケランジェロ、ダ・ヴィンチまで。芸術眼がぐっと深まる「読む美術」。


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3月29日・バンク-ミッケルセンの提議

2023-03-29 | 歴史と人生
3月29日は、世界最大の小売業者「ウォルマート」の創業者サム・ウォルトンが生まれた日(1918年)だが、「ノーマリゼーションの父」バンク-ミッケルセンの誕生日でもある。

ニルス・エリク・バンク-ミッケルセンは、1919年、デンマーク、ユトランド半島のスキャンで生まれた。生家は紳士服屋だった。
彼の姓「バンク-ミッケルセン」は、父方の姓「バンク」と、母方の姓「ミッケルセン」をハイフンでつないだもの。
16歳のとき、ニルスはシェラン島にある首都コペンハーゲンの高校に入学。高校2年生のとき、合唱団で知り合った女生徒ビヤタと恋に落ち、これが周知の仲となると、二人はともに退学処分にあった。
バンク-ミッケルセンは大学入学検定試験を受け、コペンハーゲン大学の法学部に入学。大学在学中に、ビヤタと結婚した。
21歳の大学生だったとき、ドイツが不可侵条約を破ってデンマークに侵入。デンマークは降伏し、ドイツの占領下に入った。
バンク-ミッケルセンは、レジスタンスの地下新聞の編集発行をしていたが、逮捕され強制収容所に入れられた。約5カ月後に釈放され、彼はふたたびレジスタンス活動に入った。
ナチス・ドイツの占領が解けた戦後は、知人のつてをたどって、社会省(日本の厚労省に相当)に入省。希望に反して、精神薄弱福祉課に配属された。そこで施設行政を担当することになった彼は、知的障害者のおかれた環境の劣悪さに驚き、知的障害者の親の会とともに、行政府、立法府に改善を求めて働きかけた。彼らは「ノーマリゼーション」ということばを掲げ、
「知的障害者も人格があり、ノーマルな人々と同じように生活する権利を持つ人間」
と訴えた。この訴えは、1959年、彼が40歳のときに法制化された。
以後、バンク-ミッケルセンは、国内外にノーマリゼーションを訴えて広く活動。
48歳のときには米国カリフォルニア州の知的障害者の施設を見学し、
「デンマークでは、家畜でもこのように取り扱いません」(花村春樹『「ノーマリゼーションの父」N・E・バンク-ミッケルセン』ミソルヴァ書房)
と批判し、当時カリフォルニア州知事だったロナルド・レーガンを激怒させた。が、その後、州が派遣した調査委員会の調査によって、批判がもっともであることが明らかになると、レーガン知事はしぶしぶ負けを認め、施設改善に着手した。
49歳のとき、バンク-ミッケルセンはケネディ国際賞を受賞。日本にも来訪し講義をした後、1990年9月、大腸ガンにより没。71歳だった。高校をいっしょに退学させられた恋人ビヤタとは、結婚して死別するまで、約50年間、伴侶として連れ添った。

ノーマリゼーションとは、知的障害者も、ふつうの人と同様、教育を受け、仕事をし、日常を過ごすといった、ごくふつうの生活を送る権利を持っているのであり、そういう生活が送れるようにする、ということである。人々はそれを認めるべきだし、行政府はそれを補助しなくてはならない、というのがバンク-ミッケルセンの主張である。

以前、知的障害者のグループホームを手伝ったことがある。隔離、差別はもちろん、特別視、意識的に扱うのでなく、同じ社会で暮らし、困ってる人を見かけたら、近くにいる人がごく自然に手を貸してやる。そういう社会でありたい。
(2023年3月29日)



●おすすめの電子書籍!

『心を探検した人々』(天野たかし)
心理学の巨人たちとその方法。心理学者、カウンセラーなど、人の心を探り明らかにした人々の生涯と、その方法、理論を紹介する心理学読本。パブロフ、フロイト、アドラー、森田、ユング、フロム、ロジャーズ、スキナー、吉本、ミラーなどなど。われわれの心はどう癒されるのか。


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3月28日・色川武大の訓

2023-03-28 | 文学
3月28日は、作家、邱永漢(1924年)が生まれた日だが、色川武大(いろかわたけひろ)の誕生日でもある。色川武大、またの名を、阿佐田哲也(あさだてつや)。

色川武大は、1929年、東京で生まれた。父親は元海軍の軍人だった。
色川は、小学生時代から授業をサボっては映画や演劇に通っていたという不良少年で、中学のとき停学処分を受けたまま終戦を迎え、そのままうやむやになって、結局中学は中退という経歴になった。
闇市の商売や博打打ちなどをした後、24歳のころ、雑誌社の編集者となった。
雑誌社を辞めた後、本名、色川武大の名で書いた『黒い布』で文学雑誌の新人賞を受賞。三島由紀夫に激賞され、文壇にデビュー。
39歳のころ、文章中に麻雀牌の図柄が登場する麻雀小説を書きだし、その後、週刊誌に連載した自伝的小説『麻雀放浪記』が爆発的な人気を呼んだ。
難病のナルコレプシー(眠り病)に生涯つきまとわれながら、麻雀や競輪のギャンブルと執筆を続けた。
色川武大の名で『怪しい来客簿』で泉鏡花文学賞、『離婚』で直木賞、『百』で川端賞などの文学賞を受賞。
1989年4月、心筋梗塞により入院した宮城県の病院で没。60歳だった。

ずっと以前、麻雀(マージャン)をやっていて、九蓮宝燈(ちゅうれんぽうとう)という珍しい手役に、二度振り込んだことがある。若いころは「雀聖」阿佐田哲也は神さまのような存在だった。

色川武大については、生前に親交のあった人の何人かから話を聞いたことがある。ナルコレプシーというのは大変な病気で、すぐとなりで話をしているうちにも寝入ってしまうらしい。色川が眠りだすと、仕方がないので、起きるまで待っているのだ、と、ある芥川賞作家は言っていた。
また、奥さんが書いた回想記も読んだ。奥さんの本のなかでは、こんな記述が強く印象に残っている。色川が大病をして生死の境をさまよった後、なんとか快復して病院から退院してきた、その日に悪い友だちが連れ立って家に遊びにやってきて、徹夜麻雀になったという。奥さんはその人たちを恨んだと書いていた。ギャンブラーは、大変な稼業である。

色川武大は、こう教訓している。
「9勝6敗をねらえ」
これは、相撲の星とりで、15日ある開催場所中、はじめから8勝7敗でぎりぎり勝ち越しをねらうのはさびしいが、逆に、10勝をねらうと、どこかに無理が出る。そこで「9勝6敗」を目指しなさい、という心である。
あまり志が低いのも考えものだが、大きく出すぎるのもよくない、という心がけである。
心から納得するのに年数がいる、味わい深い金言である。
(2023年3月28日)



●おすすめの電子書籍!

『マネーマントラ』(天野たかし)
つぶやくだけでグングン金運が上昇、ウホウホお金が儲かってしまうという魅惑の呪文「マネーマントラ」の本。成功する呪文の本。貧富の原因は口ぐせにあった。あなた向きのマントラをさぐる診断テスト付き。

『小説家という生き方(村上春樹から夏目漱石へ)』(金原義明)
人はいかにして小説家になるか、をさぐる画期的な作家論。村上龍、村上春樹から、団鬼六、三島由紀夫、川上宗薫、江戸川乱歩らをへて、鏡花、漱石、鴎外などの文豪まで。新しい角度から大作家たちの生き様、作品を検討。読書体験を次の次元へと誘う文芸評論。


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3月27日・小林克也の懐

2023-03-27 | ビジネス
3月27日は、浪速の女流作家、田辺聖子が生まれた日(1928年)だが、日本を代表するディスクジョッキー、小林克也の誕生日でもある。

小林克也は、1941年、広島県福山市で生まれた。12歳ごろからFENなどのラジオ放送を聴きだし、英語とロック・ミュージックに浸るようになった。
慶應義塾大学経済学部中退。外国人の観光案内や、ナイトクラブの司会などをへて、ラジオ番組のDJデヴュー。
1981年にスタートした米国の音楽チャートを紹介するテレビ深夜番組「ベストヒットUSA」の司会をはじめたのは40歳のころで、このころには「ザ・ナンバーワン・バンド」や「スネークマン・ショー」名義で「うわさのカム・トゥ・ハワイ」「六本木のベンちゃん」「死ぬのは嫌だ、恐い。戦争反対!」などの爆笑レコードも出している。
以後、抜群の英語力と軽妙なユーモアセンス、そして時代を見抜く鋭い風刺精神を発揮し、日本を代表する洋楽紹介者となった。

小林克也は、「ロッキングオン」誌編集長だった渋谷陽一と並ぶ、わが洋楽のグルー(導師)だった。英米のロックミュージシャンを知るきっかけはたいてい彼らの紹介だった。
ラジオだけを聞きかじって鍛えられたという小林克也の英語力は、まったくみごとなもので、彼に多くの英語発音を教えられた。たとえば、マリファナを吸いながら聴くのにいい楽曲を作る女性ミュージシャン、エンヤ(Enya)は、
「エーニャ」
英国のロック・バンド「オアシス(Oasis)」は、
「オエイシス」
と「エイ」の部分にアクセントをおいて発音するのだと彼に教わった。

以前、米国の女性アーティスト、シンディ・ローパーを「ベストヒットUSA」の番組に迎えて話しているとき、小林克也が、
「あなたの『トゥルー・カラー』という曲のビデオクリップにこんな歌詞があって……」
と話しだしたのを、聞いていたシンディが途中でそれをさえぎって、
「それは『トゥルー・カラー』じゃないわ。『タイム・アフター・タイム』よ」
と訂正するひと幕があった。
あるいは、べつの英国のアーティストを迎えて、デヴィッド・ボウイの「フェイム」という曲について話しているとき、小林克也が、
「これはボウイがベルリンで録音した曲で……」
と言いかけたのを、ゲスト・ミュージシャンが訂正した。
「いや、あれはベルリン時代より前の、『ヤング・アメリカンズ』という米国で録音したアルバムの曲だよ」
みていて、どちらもすぐまちがいに気づいたけれど、あれはたぶん小林克也がわざとまちがえて、会話にちょっとしたあやをつけようとしたのだろう。いや、純粋な勘違いかもしれないけれど、いずれにせよ、その後の小林の対応がみごとだった。まちがいを指摘されても余裕で「ああ、そうだったかな」くらいの感じで、淡々と笑顔でなごやかに話を続ける。来日した大物を前にして、さすが大人だった。人間はミスをする生き物、という前提を共通認識としているわけで、あの懐の深さをぜひとも見習いたい。
(2023年3月27日)



●おすすめの電子書籍!

『デヴィッド・ボウイの思想』(金原義明)
デヴィッド・ボウイについての音楽評論。至上のロックッスター、ボウイの数多ある名曲のなかからとくに注目すべき曲をとりあげ、そこからボウイの方法論、創作の秘密、彼の思想に迫る。また、ボウイがわたしたちに贈った遺言、ラストメッセージを明らかにする。ボウイを真剣に理解したい方のために。


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3月26日・エリカ・ジョングの性欲

2023-03-26 | 文学
3月26日は、歌手のダイアナ・ロス(1944年)が生まれた日だが、米国の作家、エリカ・ジョングの誕生日でもある。

エリカ・マン・ジョングは、1942年、米国ニューヨーク市で生まれた。両親はともに東欧系のユダヤ人で、父親は陶器人形の製作会社の経営者だった。母親は画家で織物デザイナー。エリカは三人姉妹のまん中だった。
エリカは、コロンビア大学で18世紀英国文学を専攻し、卒業後、ニューヨーク市立大学で美術史を教え、詩集を出版した。
彼女は4度結婚していて、「ジョング」の姓は、2度目の夫だった中国系米国人の精神科医の姓からきたものである。彼女はこの2番目の夫と、1966年から約3年間、ドイツのハイデルベルクで暮らしている。このとき、英国人男性と不倫関係におちいり、その経験が彼女の自伝的小説『飛ぶのが怖い』となった。
1973年、31歳のときに発表された『飛ぶのが怖い』は、女性解放を志向した、セックスや不倫関係などスキャンダラスな内容によって一大センセーションを巻き起こし、600万部以上を売る世界的ベストセラーとなった。文豪ヘンリー・ミラーは、この本を出版直後から絶賛し、みずからすすんで外国の出版社に翻訳をすすめる手紙を書き送ったという。
著書はほかに『あなた自身の生を救うには』『ブルースはワイルドに』『五十が怖い』『セックスとパンと薔薇──21世紀の女たちへ』『エリカ・ジョング詩集』などがある。

米国を文化史的に見るのなら、エリカ・ジョングは、1970年前後に華やかだった米国の若者文化のスターのひとりである。
『アメリカの鱒釣り』を書いたブローディガン、
『いちご白書』を書いたクネン、
『緑色革命』を書いたライク、
そういった人たちと並んで立つ時代のヒロインである。

エリカ・ジョングのベストセラー小説『飛ぶのが怖い』は、ボーヴォワール、アナイス・ニンといった先駆者たちが、そこまで書くとさすがに自分が軽んぜられるとしてためらったタブーの領域まで、あえて裸足で踏み込み、全裸になって見せた書である。
「女にも性欲はある。そしてそれは悪いことではなく、当たり前のことだ」
と、声高らかに訴えた女性、それが彼女である。「王さまは裸だ」と叫んだのである。

エリカ・ジョングの名は若いころからよく知っていたが、その著作は長らく読まなかった。1990年代、米ヴァージニア州のコミュニティーで知り合った若い女性が『飛ぶのが怖い』を読んでいた。「ああ、いまでも、読む人がいるんだぁ」と、おもしろいか尋ねてみると、
「おもしろい、とっても」
と彼女がいう。それで帰国してから、読んでみた。果たして、すごくおもしろかった。『名作英語の名文句2』でも取り上げた。『五十が怖い』も、とても読み進みやすく、おもしろかった。文章がうまい。
男性である自分が「うんうん、そうだよなあ」と共感できる部分が多かった。
知的なのだけれど、セクシャル。セクシャルなのだけれど、俗に落ちない。ピュアでいつづける自由な魂。それがエリカ・ジョングである。
(2023年3月26日)



●おすすめの電子書籍!

『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句2』(金原義明)
「ポール・マッカートニー/メニー・イヤーズ・フロム・ナウ」「ガリヴァ旅行記」から「ダ・ヴィンチ・コード」まで、英語の名著の名フレーズを原文(英語)を解説、英語ワンポイン・レッスンを添えた新読書ガイド。好評シリーズ!


『女性解放史人物事典 ──フェミニズムからヒューマニズムへ』(金原義明)
平易で楽しい「読むフェミニズム事典」。女性の選挙権の由来をさぐり、自由の未来を示す知的冒険。アン・ハッチンソン、メアリ・ウルストンクラフトからマドンナ、アンジェリーナ・ジョリーまで全五〇章。人物事項索引付き。フェミニズム研究の基礎図書。また女性史研究の可能性を見通す航海図。


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3月25日・スタイネムの救済

2023-03-25 | 歴史と人生
3月25日は、テニスプレイヤー清水善造が生まれた日(1891年)だが、米国のフェミニスト、グロリア・スタイネムの誕生日でもある。

グロリア・スタイネムは、1934年、米国オハイオ州のトレドで生まれた。骨董品のセールスマンだった父親は、ドイツ、ポーランドから米国にやってきたユダヤ人移民の息子だった。グロリアの母親は、ドイツ、スコットランド系である。
スタイネムが3歳のとき、母親が深刻な神経症にかかった。そして、10歳のとき、両親が離婚。父親は西海岸へ行ってしまい、残されたスタイネムさんは、それから17歳のころまで、幻覚症状におびえる母親をほとんどひとりで面倒をみた。このときの経験が彼女に、社会の不公正さを教えた。
大学を出た後、チェスター・ボウルズ・アジアン・フェローの資格を得て、インドに2年間滞在した。
帰国後は、政府系機関などで働いた後、ジャーナリズムの世界に飛び込み、28歳のころ「エスクワイア」誌で書いた記事を皮切りに、フリーのライターとして活躍。
29歳のとき、プレイボーイクラブにバニーガールとして入り込み、みずからバニーの衣裳を身につけて働き、その内部事情を暴露した「プレイボーイクラブ潜入記」を発表。一躍、世界的に有名なジャーナリストとなった。
「コスモポリタン」にジョン・レノンへのインタビューを載せ、「ニューヨーク」誌上で活躍した後、1969年、35歳のとき、「ニューヨーク・マガジン」誌の企画で、妊娠中絶について語る会を開催。彼女自身、22歳のとき中絶手術を受けたことがあることを告白した。これは、当時、米国で一般に否定的に扱われていた人工中絶手術を、もっと開かれたものとし、子どもを生む、産まないの選択権を女性に与え、女性を自由にしようとする議論で、大論争を巻き起こした。
38歳になるすこし前に「ミズ」創刊。男性は未婚でも既婚でも「ミスター(Mr.)」なのに、女性だけが未婚は「ミス(Miss)」、既婚は「ミセス(Mrs.)」と変わるのはおかしいと、新たに「ミズ(Ms.)」を掲げ、一般に定着させた。
スタイネムは、避妊や出産、性教育、衛生指導、平等な労働条件、女性が生き方を選ぶ権利などについて積極的に発言し、米国をはじめ全世界の人々の意識を変えていった。
52歳のとき、乳ガンの診断を受けた彼女は、治療のかたわら、なお活動を続け、58歳のとき、若者の衛生教育や性教育の普及を支援するNPOを設立した。
2000年、66歳のとき、7歳年下の実業家の男性と結婚し、「あのスタイネムが結婚」と世界的に話題になった。その3年後、夫と死別した。

スタイネムは、映画女優マリリン・モンローの伝記を書いている。
「彼女の伝記作家の大半は、彼女が独学しようとする努力をけなすか、もしくはばかにしてきた。たとえばノーマン・メイラーの言葉によると、『教養がない(美しい金髪に共通するこの悩み)うえに、彼女にはまったく文化というものもなかった……』」(道下匡子訳『マリリン』草思社)
スタイネムのおかげで、マリリン・モンローの魂もようやく救われた。
(2023年3月25日)



●おすすめの電子書籍!

『女性解放史人物事典 ──フェミニズムからヒューマニズムへ』(金原義明)
平易で楽しい「読むフェミニズム事典」。女性の選挙権の由来をさぐり、自由の未来を示す知的冒険。アン・ハッチンソン、メアリ・ウルストンクラフトからマドンナ、アンジェリーナ・ジョリーまで全五〇章。人物事項索引付き。フェミニズム研究の基礎図書。また女性史研究の可能性を見通す航海図。


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3月24日・マックイーンの華

2023-03-24 | 映画
3月24日は、1185年に壇ノ浦の合戦があった日だが、この日は米国の映画スター、スティーブ・マックイーンの誕生日でもある。

スティーブ・マックイーンは、1930年インディアナ州で生まれた。本名は、テレンス・スティーブン・マックイーン。父親は曲芸飛行のパイロットだった。生後間もなく父親と別れたマックイーンは、3歳のとき母親にも捨てられ、母方の祖父母と大伯父のもとで育った。4歳のとき、大伯父に三輪車をプレゼントされ、マックイーンがレースに興味をもちはじめたのはそれ以来のことだという。
8歳のとき、再婚した母親に引き取られたが、義父とそりが会わず、マックイーンは街の非行グループに入った。盗みを働いて警察に捕まった。家で義父にさんざん殴られた彼は、義父にこうののしったそうだ。
「お前のくさいその手で、このつぎおれに触れたときには、かならずお前を殺してやるからな」
そして、14歳で彼はカリフォルニア州チノにある少年感化院へ入れられた。
16歳のとき、施設を出たマックイーンは、やがてひとり暮らしをはじめた。タンカーの乗組員、ドミニカ共和国で大工の助手、テキサス州で油田作業員、カナダで森林伐採員など職業を転々とした後、17歳で海兵隊に志願入隊。
20歳で除隊した後はトラック運転手の助手、タクシー運転手、テレビの修理工、ボールペンのセールスマン、サーカスの呼び込み、スタントマンなどをした後、21歳のころ、つきあっていた恋人の勧めにしたがって、演劇学校のオーディションを受けた。3000人のなかから72人の入学者に選ばれ、復員者奨学資金をもらいながら、演技を勉強しだした。
テレビや映画の端役を務める下積み時代の後、マックイーンは28歳のとき、西部劇のテレビ番組「拳銃無宿」の主役に抜擢され、この番組で一躍人気者となった。そして、30歳のとき、ユル・ブリンナー主演の映画「荒野の七人」の準主役に選ばれ、この作品の大ヒットによって一気に世界的スターとなった。
以後、強力な観客動員力をもつ人気アクションスターとして「ガールハント」「大脱走」「シンシナティ・キッド」「ネバダ・スミス」「砲艦サンパブロ」「華麗なる賭け」「ブリット」「栄光のル・マン」「ゲッタウェイ」「パピヨン」「タワーリング・インフェルノ」などの名作に出演した。
バイクやクルマが大好きなスピード狂で、バイクとクルマのコレクションは膨大だった。
パーティーや有名人との交際を嫌い、一般の人々と、自分が大スターであることを知られずに交際することを好んだ。ふつうの家庭の家族がふだんどんな様子なのか、ひじょうに興味をもっていた。家庭の団らんというものを、彼は知らなかったからである。
1980年11月、メキシコのフアレスで、中皮腫により没。50歳だった。

マックイーンといえば、死後もその人気が衰えない代表格である。「フォーブス」誌によると、スティーブ・マックイーンは、亡くなった後も彼の肖像権が広告などに使われて、2012年度で約800万ドル(約6億4000万円)の収入があったそうだ。

マックイーンは独特の華のある映画スターだった。その華は、陰の部分があるからこそ映えるという特殊な華で、誰もが持てる代物ではない。否、彼以外は無理だろう。
(2023年3月24日)



●おすすめの電子書籍!

『映画男優という生き方』(原鏡介)
世界の男性映画スターたちの生き様と作品をめぐる映画評論。ヴァレンティノ、マックイーン、石原裕次郎、シュワルツェネッガーなど男優たちの演技と生の真実を明らかにする。

●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp

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3月23日・フォン・ブラウンのベクトル

2023-03-23 | 科学
3月23日は映画監督・黒澤明が生まれた日(1910年)だが、ロケットの天才・ヴェルナー・フォン・ブラウンの誕生日でもある。

ヴェルナー(ヴェルンヘル)・マグヌス・マクシミリアン・フライヘル(男爵)・フォン・ブラウンは、1912年、ドイツ帝国の東部にあったヴィルジッツで生まれた。家は貴族で、男爵だった父親はヴァイマル共和政下で大臣を務めた。
フォン・ブラウンが子どものとき、母親が彼に望遠鏡を贈った。これが彼の宇宙に対する興味を芽生えさせ、生涯を貫く彼のベクトルが決まった。
彼が8歳のころ、故郷ヴィルジッツがヴェルサイユ条約によりポーランド領となり、ブラウン一家はドイツ領へ引っ越した。
フォン・ブラウンは数学や物理学が苦手だったが、ヘルマン・オーベルト著『惑星間宇宙へのロケット』を読むとが然理数系に打ち込みだし、物理、数学が得意科目になった。
ベルリン工科大学に入学し、ドイツ宇宙旅行協会に入会した彼は、ベルリン大学へ進み、ロケットの研究に打ち込んだ。
ヒトラーのナチス党が政権をとると、フォン・ブラウンはナチス党員、親衛隊員となり、更にロケット研究に邁進し、V2号ロケット兵器製作を指揮した。
第二次大戦の戦況がドイツ敗北濃厚となると、フォン・ブラウンは指揮下の技術者数百人を率いて書類を偽造し列車を盗み、大脱走し連合軍へ投降した。
大戦後は米国でロケット研究を続け、陸軍弾道ミサイル局(ABMA)で責任者としてロケット兵器開発に関わり、アメリカ航空宇宙局(NASA)のアポロ計画のロケット製造に従事し、また民間ではウォルト・ディズニーの宇宙探検もののテレビ映画に技術監督として協力した。
「われわれは月へ行くことを選ぶ」と宣言したジョン・F・ケネディ大統領と志を一にしたフォン・ブラウンは、人を月へ運べるサターンロケットを開発し、航空機メーカー・フェアチャイルド社の副社長となり、米国宇宙研究所を創立し、数々の賞を受賞したが、腎臓ガンにかかった。彼は治療と仕事を両方続けたが、すい臓ガンとなり、1977年6月、バージニア州アレクサンドリアで没した。65歳だった。

アニメ『機動戦士ガンダム』に月面都市「フォン・ブラウン市」が登場する。

戦時中のナチ政権下のドイツ時代、フォン・ブラウンはゲシュタポ(国家秘密警察)に国家反逆罪で逮捕されたことがある。罪状は「より大型のロケット爆弾作成に集中すべき時に、個人的な願望(人工衛星や月ロケット)について語りすぎる」。この逮捕には、彼がいなくてはロケット兵器開発に支障が出てその責任を問われる、という技術系司令官の脅しもきかず、結局ヒトラー総統が直接ゲシュタポを苦労して説得し釈放させたという。

フォン・ブラウンは、しばしば非難される自分の経歴についてこう言った。
「宇宙に行く為なら悪魔に魂を売り渡してもよいと思った」

宇宙の虚空へ向けた希望のベクトルのためには、損得だとか倫理だとか愛国心だとか人命だとかいった世俗の価値の一切を顧みなかった、みごと一貫した人生だった。
(2023年3月23日)



●おすすめの電子書籍!

『科学者たちの生涯 第二巻』(原鏡介)
宇宙のルール、現代の世界観を創った大科学者たちの生涯、達成をみる人物評伝。ハンセン、コッホから、ファインマン、ホーキングまで。知的感動のドラマ。


●電子書籍は明鏡舎。
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3月22日・丸山眞男の看破

2023-03-22 | 思想
3月22日は、仏国のパントマイマー、マルセル・マルソーが生まれた日(1923年)だが、政治学者、丸山眞男(まるやままさお)の誕生日でもある。

丸山眞男は、1914年に大阪で生まれた。父親は新聞記者だった。
7歳のころ、東京に引っ越し、旧制一高生だった19歳のとき、唯物論研究会の集会に出て逮捕、拘束され、取り調べを受けた。当時、特高警察に目をつけられていたマルクス主義の運動とは丸山は無縁だったが、その集会に出ていたのは大学生や社会人ばかりで、高校生の出席者は2人だけだったために、かえって大物と勘違いされたのだった。
東京大学法学部を卒業した丸山は、同学部に残り、研究者の道を進んだ。
30歳のとき、同学部助教授だった丸山は召集され、陸軍二等兵として出征。広島に原爆が投下されたときは、投下直下から約4キロメートルの地点にいて被爆。原爆爆発のときは、戸外に整列して部隊参謀の朝の訓話を聞いている最中だった。放射能については無知で、投下の翌々日には爆心地を丸山は歩いたという。
戦後は、東京大学教授として、日本政治思想史を研究しながら、戦後民主主義を代表する知識人として、ジャーナリズムの舞台でも発言を続けた。
マックス・ヴェーバーの影響を受けた近代主義者の学者で、戦後の天皇制を批判し、安保闘争を支持し、果敢に論戦の矢面に立った。
1996年8月15日に没。82歳だった。ちなみに、彼の母親は終戦の日、1945年8月15日に亡くなっており、母子は同じ日に息を引き取ったことになる。著書に『日本政治思想史研究』『現代政治の思想と行動』『日本の思想』など。

丸山眞男はこう書いている。
「大日本帝国における天皇の地位についての面倒な法理はともかくとして、主権者として『統治権を総攬』し、国務各大臣を自由に任免する権限をもち、統帥権をはじめ諸々の大権を直接掌握していた天皇が──現に終戦の決定を自ら下し、幾百万の軍隊の武装解除を殆ど摩擦なく遂行させるほどの強大な権威を国民の間に持ち続けた天皇が、あの十数年の政治過程とそのもたらした結果に対して無責任であるなどということは、およそ政治倫理上の常識が許さない」(「戦争責任の盲点」『丸山眞男セレクション』平凡社)

丸山眞男は、日本人の自己欺瞞とリアリズムの欠如を指摘し、グルー元駐日大使のつぎのようなことばを紹介している。
「日本人の大多数は、本当に彼ら自身をだますことについて驚くべき能力を持っている。……日本人は必ずしも不真面目なのではない。このような義務(国際的な)が、日本人が自分の利益にそむくと認めることになると、彼は自分に都合のいいようにそれを解釈し、彼の見解と心理状態からすれば全く正直にこんな解釈をするだけのことである」(「軍国支配者の精神形態」同前)

日本人にとっては耳が痛い意見だけれど、丸山眞男の言う通りである。
(2023年3月22日)



●おすすめの電子書籍!

『誇りに思う日本人たち』(ぱぴろう)
誇るべき日本人三〇人をとり上げ、その劇的な生きざまを紹介する人物伝集。松前重義、緒方貞子、平塚らいてう、是川銀蔵、住井すゑ、升田幸三、水木しげる、北原怜子、田原総一朗、小澤征爾、鎌田慧などなど。日本人の美点に迫る。


●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp

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