1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

5月31日・ジョン・ボーナムのドラム破り

2014-05-31 | 音楽
5月31日は、米国の国民的詩人、ウォルター・ホイットマンが生まれた日(1819年)だが、ロックバンド「レッド・ツェッペリン」のドラマーのジョン・ボーナムの誕生日でもある。ロック・ミュージック界が生んだ最高のドラマーの一人である。

ジョン・ヘンリー・ボーナムは、1948年、英国イングランドのレディッチで生まれた。
父親は建築会社を経営していた。5歳で空箱やコーヒー缶で自分でドラムセットを創って叩いていたジョンは、10歳のとき、母親にスネアドラム(サイドドラム)を買ってもらい、15歳のとき、父親にドラムセットを贈られた。
16歳で義務教育を終えたジョンは父親の会社で大工の見習いになった。見習いをしながら、地元のいくつかのバンドにドラマーとして参加し、ドラムを叩いた。
ボーナムはドラムのレッスンを受けたことがない自己流のドラマーだった。あまりに激しく叩くので、ドラムヘッド(ドラムの打面の皮)を破ったり、やかましすぎてクラブから出入り禁止になったりし、英国一大きな音で叩くドラマーと呼ばれた。
20歳のとき、新しく結成するいバンドのためのドラマーをさがしていたギタリストのジミー・ペイジと出会い、ペイジに惚れ込まれた。ボーナムは気が進まず、加入を断っていたらしい。ボーカル担当のロバート・プラントは、ボーナムに8通の電報を打って口説き、バンドのマネージャーが、それに追い打ちをかけ、ボーナムに40通の電報を送りつけて口説いた。ついに口説き落とされたジョン・ボーナムと、ベーシストのジョン・ポール・ジョーンズを加え、新バンド「レッド・ツェッペリン」が結成された。
たしか、バンド名「レッド・ツェッペリン(鉛の飛行船)」は、ロックバンド「ザ・フー」のドラマー、キース・ムーンがよく言っていた、
「鉛の飛行船みたいに、どうせすぐ落ちるさ」
というジョークからの命名だったと記憶する。
ボーナムが20歳のとき結成されたツェッペリンは、北欧や米国をライブ・ツアーしてまわり、ライブで評判を高め、アルバムを売っていったライブバンドだった。それまでのシングルヒットを出して有名になっていく方法論とは、まったくちがった売り出し方をしたバンドだった。ツェッペリンは世界的なバンドとなり、世界をツアーしてめぐった。一台のバスドラムで叩いているとは信じられない高スピードで打ち鳴らされるボーナムのドラムは世界のロックファンのあいだで大評判となり、とくに三連符の一拍目を抜かした「頭抜き3連」はボーナムの代名詞となった。
ところで、ボーナムは飛行機恐怖症だった。彼は飛行機に乗る恐怖を忘れるために、アルコールに頼るようになり、飲酒量はしだいに増え、アルコール依存症になった。
1980年9月、ボーナムはウォッカを浴びるほど飲んで練習スタジオ入りし、リハーサルの後に入ったジミー・ペイジの家でも飲みつづけた。正体をなくして寝かされたベッドで翌日、吐瀉物をのどを詰まらせ窒息死した遺体となって彼は発見された。32歳だった。
バンドの柱だったボーナムの死により、伝説のロックバンド「レッド・ツェッペリン」はただちに解散した。

その昔、指揮者の山本直純が、オーケストラの一員として大太鼓を叩いていたとき、強く打ちすぎて、皮を破り、手が太古から抜けなくなったことがあるという話を聞いたことがあるが、やはり、ボーナムも破っていたのであったか。

ツェッペリンの音楽を聴くたびに、ジョン・ボーナムはすごいドラマーだったと、あらためて思う。思えば、彼が亡くなったのは、ジョン・レノンが射殺される3カ月前で、1980年の後半はロックファンにとって悪夢が続いた。悪いことが続く、というのは、ほんとうかもしれない。
(2014年5月31日)



●おすすめの電子書籍!

『5月生まれについて』(ぱぴろう)
ホイットマン、ロバート・オーウェン、フロイト、クリシュナムルティ、ホー・チ・ミン、バルザック、サハロフ、ドイル、エマーソン、吉村昭、中島敦、西東三鬼、美空ひばりなど、5月生まれ31人の人物論。ブログの元になった、より深く詳しいオリジナル原稿版。

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5月30日・ゴミゼロの日と「いちころにころ」

2014-05-30 | 歴史と人生
5月30日・ゴミゼロの日と「いちころにころ」

5月30日は、「キング・オブ・スウィング」ベニー・グッドマンが生まれた日(1909年)だが、この日は、5、3、0のゴロ合わせで「ゴミゼロの日」でもある。
これは愛知の豊橋の山岳会会長の呼びかけから、豊橋市で「530(ゴミゼロ)運動」というのがはじまったのに端を発する。

豊橋は、石巻山の石灰岩地植物群落や、葦毛湿原などの自然遺産があり、これらは天然記念物に指定され、観光地ともなっているけれど、どうもゴミや空き缶が捨てられているのが目立ってきた。そこで、
「自分のゴミは自分で持ち帰りましょう」
という運動が提議され、「530運動」とシャレた運動名を掲げた。1975年のことだった。
数字でしゃれた命名がよかったのか、運動は全国に広がった。連絡会が組織され、ゴミの一斉清掃運動がおこなわれ、以来、この数字にちなんで、毎年5月30日には、全国各地でゴミ拾いなど環境に関連する行事、イベントが開かれるようになった。1993年、厚生省によって、この日から一瞬官が、ごみ減量化推進週間と制定され、1997年にそれが「ごみ減量・リサイクル推進週間」と名前が変わった。
いずれ、名前先行で、ゴロによって日付が選ばれたパターンである。すると、いずれ4月8日は「AKB48」の日となる日がくるのかもしれない。

いわく。
「人間とは、ゴミを作りだす生物である」
自分が住む東京都杉並区は、かつて1970年代に「杉並ゴミ戦争」という戦争を経験し、その後も「ゴミの夜間収集問題」や、なぞの「杉並病」など、ゴミに関しては話題に事欠かないゴミの本場、いわば「日本のゴミの火薬庫」である。(詳しくは『いちころにころ?』を参照のこと)

ゴミの問題は、将来の廃棄場の確保だとか、環境汚染問題とか、どこが管轄するのかとか、昔からいろいろな角度から議論がされていた。でも、実際にゴミを集めてまわる人の苦労、負担については、まったく議論の対象外で蚊帳の外だった。
「夜間収集問題」も、カラスがやってこない夜のうちに集めてしまえという、いわば平成版「生類憐れみの令」で、カラスさまをうやまい、現場の人間の負担を無視した議論だった。
自分は、じつはカラスにも愛着を感じている者なのだけれど、さすがにこの議論には腹が立った。ゴミを集める現場には、汗や涙を流している、切れば血の出る人間がいるのだということを、人びとに思いだしてほしいと自分は思った。それで『こちらごみ収集現場 いちころにころ?』という本を企画、出版した。「いちころにころ」とは、清掃局の職員が、退職後、一年か二年でころりと死ぬという死亡説のことである。
「530(ゴミゼロ)」と聞くと、かつてあったんな熱い気持ちを思いだす。
(2014年5月30日)



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『こちらごみ収集現場 いちころにころ?』(落合三郎述、金原義明記)
ドキュメント。ごみの現場に、ヤクザが、刑事が、死体が? ごみ収拾現場の最前線で働く男たちの壮絶おもしろ実話。「いちころにころ」の真実とは?

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5月29日・ジョン・F・ケネディのバイタリティー

2014-05-29 | 歴史と人生
5月29日は、歌手の美空ひばりが生まれた日(1937年)だが、35代目の合衆国大統領だったジョン・F・ケネディの誕生日でもある。
ジョン・ケネディは、子どものころの自分のヒーローだった。ケネディとその周辺については、小学生のころからいろいろ読んできた。ケネディ著『勇気ある人びと』ももっている。自分が1960年代米国史を専攻したのも、ケネディがきっかけかもしれない。

ジョン・フィッツジェラルド・ケネディは、1917年、米国マサチューセッツ州のブルックラインで生まれた。父親はルーズヴェルト大統領やマフィアともつながりがあり、駐英大使を務めた政商だった。ケネディ家はアイルランド系移民の家系で、ジョンは移民4世だった。ジョンはおおぜいいる兄弟姉妹のなかの次男だった。
ジョン・ケネディは、生まれつき背中に障害があり、小さいときからからだが弱かった。彼はハーバード大学を卒業すると、24歳で海軍に入隊した。当初は陸軍志望だったが、健康診断ではねられ、父親のつてで海軍に入れてもらったのだった。
太平洋戦争中、ケネディは南太平洋で魚雷を搭載した哨戒艇の艇長を務めていた。が、哨戒艇が日本の駆逐艦と衝突して沈没。ケネディは、海に投げだされた部下のからだをロープで結び、数キロメートルを泳いで近くの小島にたどりつき、九死に一生を得た。
大戦後は、ケネディは父親の意向で、政界に進出した。長男のジョゼフ・ジュニアがヨーロッパ戦線で爆撃機で出撃し戦死したため、政界に野心をもつ父親の期待が、次男ジョンの肩の上にのしかかってきたのだった。
ジョンは29歳で下院議員。35歳で上院議員に当選。43歳で合衆国大統領になった。初のカトリック教徒の大統領だった。
当時は、東側の共産圏と、西側の資本主義圏とがにらみ合う冷戦時代で、キューバ危機、ベトナム問題、ベルリンの壁など、外交問題の大事件が頻発し、国内的には公民権運動が盛り上がっていた 激動の混乱期だった。核戦争一歩手前だったキューバ危機を乗り越え、月面着陸を目指すアポロ計画を始動させ、部分的核実験禁止条約に署名したケネディ大統領は、1963年11月、テキサス州ダラスでパレード中に狙撃され、没した。46歳だった。

一説によると、ケネディ陣営は、大統領選挙の際に大がかりな投票操作をおこない、それで大統領になったので、ほんとうは対立候補のニクソン共和党候補が当選していたらしい。しかし、冷戦時代のことで、国際的醜聞を恐れたアイゼンハワー大統領が怒り狂うニクソン候補をなだめ、あえて異を唱えさせなかった経緯があった。

自分より上の世代の人たち、たとえば団塊の世代などは、クルマと冷蔵庫とテレビに代表される1950年代アメリカの豊かさにあこがれたが、自分などは1960年代の熱い混乱するアメリカにあこがれた。ジョン・ケネディはそのシンボルだった。
たった3年足らずの大統領就任期間中に、ケネディ政権はこれでもかというほどたくさんの問題にぶち当たった。ピッグス湾事件など、ケネディ政権による謀略が失敗、露顕した自業自得の案件もあったが、そうした汚点を含めてエネルギッシュだった。

皮肉の意味でなく、こう思う。子どものころからからだが弱く、背中に痛みを抱えながら、そんな素振りをつゆとも見せず、いつもにスポーツマン然としてにこやかに笑い、大統領としての激務をこなしながら、つねに性欲旺盛で、寸暇を惜しんでさまざまな女性との情事を繰り返していた、あのジョン・ケネディのバイタリティー。あの目茶苦茶で若々しいエネルギーこそが、世界中の人を引きつけたのではないか、と。
彼の娘が駐日大使を務めているというのは、ほんとうに感慨深いものがある。
(2014年5月29日)



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『大人のための世界偉人物語』(金原義明)
世界の偉人たちの人生を描く伝記読み物。エジソン、野口英世、ヘレン・ケラー、キュリー夫人、リンカーン、オードリー・ヘップバーン、ジョン・レノンなど30人の生きざまを紹介。意外な真実、役立つ情報が満載。人生に迷ったときの道しるべとして、人生の友人として、この本をぜひお手許に。

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5月28日・中沢新一の行動する知性

2014-05-28 | 思想
5月28日は、007号ジェイムズ・ボンド・シリーズを書いたイアン・フレミングが生まれた日(1908年)だが、宗教学者の中沢新一の誕生日でもある。
中沢新一は自分が若いころに世にでてきた宗教学者だった。俳優かと見まちがう、すらりスマートな二枚目で、なんとかっこいい学者が現れたものだろうと思った。貧弱なからだに大きな頭が載ったガリ勉顔にメガネをかけた浅田彰も同時期に登場し、みごとに好対照だった。
見てくれはともかく、自分はどちらの本もすこし読んだけれど、むずかしくて、よくわからなかった。

中沢新一は、1950年、山梨で生まれた。父親は民族学者の市会議員だった。
東京大学の大学院をへて、中沢は29歳のとき、ネパールへ渡り、チベット仏教の行者に師事し、瞑想の修行をし、チベット密教について学んだ。
帰国し、33歳のとき、チベットでの体験をもとに書いた評論的エッセイ『チベットのモーツァルト』を発表。一躍、新しいアカデミズムの寵児として脚光を浴び、さかんにテレビや雑誌に東条した。
30代後半には、当時マスコミに批判されていた新興宗教団体「オウム真理教」を宗教学の立場から弁護していたが、彼が45歳の年に、オウム真理教が地下鉄サリン事件を起こし、ほかにも同教団による誘拐、拉致、監禁、殺人事件が明るみに出るよおよび、中沢も批判の矢面にさらされた。
2014年現在、私立大学の教授を勤めながら、執筆、言論活動を続けている。
著書に『バルセロナ、秘数3』『森のバロック』『ゲーテの耳』などがある。

『チベットのモーツァルト』の文庫本はずっと以前からもっていて、ときどき開く。この本のなかに、30歳の中沢新一がチベット密教の修行をしたときの体験が書かれていて、そこだけはとても興味をひかれた。
マリワナやLSDなどのドラッグを使わずに、瞑想だけで意識の深層へ入っていこうとする修行で、これを「ポワ」と呼ぶ。
「『ポワ』は『意識を身体の外に送り出し、死の状態をコントロールする』ための激しいテクニックだ。」(中沢新一『チベットのモーツァルト』講談社学術文庫)
オウム真理教の内部では、暗殺指令を下すときに、
「あいつをポワしろ」
などと、隠語として使われていたようだけれど、それはさておき、このポワの修行をしているうちに、中沢の頭のてっぺんの肉がこんもりと盛り上がってきたと書いてあって、驚いた。ああ、やはり、精神的な修行も、いくところまでいくと、その影響を受けて肉体が変化したりするのだ、と。
自分としては、もっと具体的にどのようにしたのか、などの解説をもっと読みたかったのだけれど、もともと著者は修行のインストラクターではなく、思想について語る宗教学者なので、話は自分が望むのとはちがう方向へそれていってしまい、残念だった。
でも、こうやって、自分のからだで体験しながら考える学者というのは、すてきだと思う。
「男は考えるだけではいけない。行動だけでもいけない。考えつつ行動する」(『ジャイアント台風』中のジャイアント馬場のことば)
(2014年5月28日)


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『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句2』(金原義明)
「ロシアより愛をこめて」「ガリヴァ旅行記」から「ダ・ヴィンチ・コード」まで、英語の名著の名フレーズを原文(英語)を解説、英語ワンポイン・レッスンを添えた新読書ガイド。第二弾!

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5月27日・レイチェル・カーソンの闘い

2014-05-27 | 歴史と人生
5月27日は、東郷平八郎率いる日本艦隊が、ロシアのバルチック艦隊を日本海で迎え撃ち、勝利した日本海海戦の日(1905年)だが、海洋生物学者のレイチェル・カーソンの誕生日でもある。『沈黙の春』を書き、化学物質による環境汚染問題を告発した先駆者である。

レイチェル・ルイーズ・カーソンは、1907年、ペンシルベニア州のスプリングデールで生まれた。父親は保険のセールスマンだった。
8歳のときから物語を書いていたレイチェルは、11歳のときには自作を出版していた。
英文学を専攻し、作家志望だったカーソンは、学生のころに志望を変更し、生物学に転じた。
メリーランド州ボルティモアのジョンズポプキンス大学で遺伝学を修めた後、アメリカ連邦漁業局に就職。一般市民に海の生物に親しんでもらうためのラジオ番組「水の下のロマンス」の脚本を書くようになり、新聞や雑誌へも寄稿するようになった。
34歳のとき、海の生物たちの生態を描く『潮風の下で』を発表。
44歳で発表した科学エッセイ『われらをめぐる海』は大ベストセラーとなった。
そして55歳になる年に雑誌「ニューヨーカー」に連載した後、単行本として発表。この書は、環境汚染問題を真正面から提議した歴史的書物で、DDTなど化学物質の農薬散布がいかに環境悪化を招くかを訴えた力作だった。雑誌上に発表時から話題騒然となり、この書を読んだジョン・ケネディ大統領が、諮問機関に調査を命令。行政側は環境問題に注目するところとなり、DDTの使用は全面禁止となった。
『沈黙の春』の執筆中に乳がんを発症したカーソンは、なんとか書物の完成させた後、1964年4月、メリーランド州のシルバースプリングで没した。56歳だった。

ずっと以前、『われらをめぐる海』や『沈黙の春』を自分はすこし読んだことがある。生物学の綿密な調査、分析の上に立ったノンフィクションなのだけれど、感性豊かな文章というのか、読む側の感情を刺激する、香り高い文学作品という感じがした。リンドバーグ夫人の『海からの贈物』もそうだけれど、女性が海のことを書くと、はまる、というのか、しばしばすばらしい作品ができるみたいだ。
カーソンは海つながりで、ドビュッシーの「海」のアルバム解説なども頼まれて書いた。

『沈黙の春』は、おまかにいえば、有機化学製品の除草剤、殺虫剤などが大量に散布された結果、動植物や土壌、河川、海などが汚染され、害虫はかえって増えていまった。汚染された環境は、人体に悪影響を与え、母親は子どもに汚染された水や食料を食べさせることになっている、という主張の本である。
この本が雑誌に連載されたときからすでに、カーソンは、農薬、化学産業界からそうとうな攻撃を受けたらしい。内容を読まずぶつけられた批判が多く、産業界はこぞって、カーソンはたわごとをわめくヒステリー女にすぎないとするネガティブ・キャンペーンを張り、あるいは本に書かれた問題はすでに解決ずみだというたいどをとった。彼女が出演したテレビ番組からは、いく社もの企業がスポンサーを降りた。
出版されたのが1962年。ちょうど日本でも、水俣病による死者の患者認定がされだしたころだった。

彼女のような人がいなかったから、後の世代は、目覚めるのがもっと遅れていたにちがいない。
カーソンは、経済的な困難や、社会の偏見や、産業界の圧力など、さまざまなものと闘い、生涯独身を通して亡くなった。警鐘を鳴らす社会の木鐸となって、批判の矢面に立ってひるまなかった、偉大な先駆者だったと思う。
(2014年5月27日)



●おすすめの電子書籍!

『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句』(越智道雄選、金原義明著)
「海からの贈物」「風と共に去りぬ」から「ハリー・ポッター」まで、英語の名作の名文句(英文)を解説、英語ワンポイン・レッスンを添えた新読書ガイド。

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5月26日・マイルス・デイヴィスの時代

2014-05-26 | 音楽
5月26日は、「ルパン三世」のマンガ家、モンキー・パンチが生まれた日(1937年)だが、ジャズ・トランペッター、マイルス・デイヴィスの誕生日でもある。
自分がジャズという音楽ジャンルを知ったとき、マイルスはすでに「モダン・ジャズの帝王」だった。ジャズといえばマイルス。マイルスは、ジャズの代名詞だった。

マイルス・デューイ・デイヴィス三世は、1926年、米国イリノイ州のアルトンで生まれた。父親は歯医者で、母親は音楽教師だった。
生まれてすぐイーストセントルイスへ引っ越したマイルスは、13歳の誕生日にトランペットを誕生プレゼントとしてもらった。これが彼の人生を決定した。
高校生のころからセントルイスのクラブで演奏していた彼は、18歳のころ、セントルイスややってきた天才サックスプレイヤーのチャーリー・パーカーとはじめて共演。マイルスはニューヨークに出て、パーカーをさがしだした。すると、6歳年上だったパーカーのほうが、裕福なマイルスの部屋に転がりこんで同居をはじめた。そうしてマイルスはジャズ・ミーュージックにいよいよ深くのめりこんでいった。
19歳ではじめてレコーディングに参加し、以後、ドラムのアート・ブレイキー、サックスのジョン・コルトレーンなど、さまざまなジャズ・ミュージシャンと共演した。20代なかばに麻薬中毒のため挫折しかけたが、立ち直り、セッションに復帰。
31歳でフランス映画「死刑台のエレベーター」の音楽を即興演奏で録音。
クール・ジャズ、ハード・バップ、モード・ジャズ、エレクトリック・ジャズ、フュージョンなど、演奏スタイルを変化させ、つぎつぎと新しい境地を切り開き、「クールの誕生」「ウォーキン」「カインド・オブ・ブルー」「マイルス・イン・ザ・カイ」などを発表したマイルスは1991年9月、肺炎のため、ニューヨークで没した。65歳だった。

マイルス・デイヴィスが61歳のとき発表した「TUTU」というアルバムで、このレコード・ジャケットをデザインした日本人デザイナー、石岡瑛子さんが、グラミー賞の最優秀パッケージを受賞した。レコード・ジャケットいっぱいに、マイルスの顔のアップがモノクロ写真であるシンプルかつインパクトのあるデザインだった。それをきっかけに、自分はマイルスをすこしずつ聴くようになった。

マイルスがジャズを新たに展開させた功績のひとつに、モード・ジャズということがある。これは、それまでコード進行によって演奏されていたジャズを、モード(旋法)で演奏していこうとするもので、これによって、独奏がより自由にできる可能性が広がった。コードからモードへ。その記念碑的アルバムが「カインド・オブ・ブルー」だそうで、いま、それを聴きながらこれを書いている。
はじめて聴いたときは、ぜんぜんいいとは思わなかったけれど、久しぶりに聴いてみて、こんなにいい音楽だったとはと驚いた。
自分の場合、ジャズ音楽に親しむのに、何十年もかかった気がする。遅れてやってきた自分にとっては、いよいよこれからがマイルスの時代なのである。
(2014年5月26日)


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『こちらごみ収集現場 いちころにころ?』(落合三郎述、金原義明記)
ドキュメント。ごみの現場に、ヤクザが、刑事が、死体が? ごみ収拾現場の最前線で働く男たちの壮絶おもしろ実話。「いちころにころ」の真実とは?

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5月25日・ソニア・リキエルの傘

2014-05-25 | ビジネス
5月25日は、米国の思想家、エマーソンが生まれた日(1803年)だが、ファッション・デザイナー、ソニア・リキエルの誕生日でもある。人呼んで「ニットの女王」である。

ソニア・リキエルは、1930年、仏国のパリ郊外の町 ヌイイで生まれた。ユダヤ系の家系で、父親はルーマニア人、母親はロシア人だった。ソニアは5人姉妹の長女だった。
17歳のとき、パリの布地屋のショーウィンドウを飾る仕事についた彼女は、知り合った高級ブティックのオーナーと23歳で結婚。
33歳で妊娠しているとき、彼女は自分に合うセーターがないのを不満に思い、夫の店と取り引きのあるヴェニスの衣裳工房に頼んで、自分がデザインした妊婦用の服を作ってもらった。それがデザイナー、ソニア・リキエルの出発点となった。
リキエルははじめ、夫のブランドから、後に自分のブランドとして、妊婦用のセーター、子ども用のセーター、男性用のセーターなどを作った。ふだん着だったニットを、ファッショナブルな服の素材へと変え、「ニットの女王」と呼ばれた。ニット以外の素材の衣服を作った彼女はやがて、香水や傘などの分野にも進出した。
彼女は、衣服の表面に縫い目を見せるようにしたはじめてのデザイナーと言われ、また、セーターに文字をプリントしたはじめてのデザイナーとも言われる。

自分はファッションにはうといのだけれど、その昔、ソニア・リキエルの折りたたみ傘を人からもらって、一時期使っていた。
黒い折りたたみ傘を開くと、外側の端がぐるりと白、赤、青、緑、黄など、色とりどりに色分けされて美しかった。気に入って使っていたのだけれど、どこかへ出先の傘立てに置いて用足しをしているあいだに、誰かにもっていかれてしまい、それきりになった。
傘は天下のまわりものかなあ、とも思うけれど、気に入っている傘にかぎってよく盗まれる気がする。やっぱり、もっていく人も、せっかく失敬するのなら、きれいなものを、と、いちおう選んでいるのかもしれない。
そんなわけで、ソニア・リキエルというと、自分はニットでなく、傘を思いだす。あのカラフルな色の並びはみごとだった。
妊婦やふだん着の女性にもお洒落の楽しみを。日常のちょっとしたものにカラフルな楽しさを。そういう仕事を人だと思う。
(2014年5月25日)



●おすすめの電子書籍!

『ポエジー劇場 笑い』(ぱぴろう)
ストーリーのあるオールカラー絵画集。詩情あふれる49枚の絵画を収録。笑い、デジタル・ボウイの連作ほか。自由な想像力とポエジーの世界。

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5月24日・ファーレンハイトの過冷却

2014-05-24 | 科学
5月24日は、シンガーソングライターのボブ・ディランが生まれた日(1941年)だが、温度計の華氏の名の由来である物理学者、ファーレンハイトの誕生日でもある。
「ファーレンハイト(Fahrenheit)」という単語は、米国で覚えた。向こうは華氏を使うので、「今日は暑いね」などという話をするとき「ファーレンハイト」の語を知っていると、なにかと便利なのである。摂氏はセルシウスという科学者にちなむ単位で「センティグレイド(centigrade)」。これも向こうで覚えた。

ガブリエル・ダニエル・ファーレンハイトは、1686年、現在のポーランドのグダニスクで生まれた。ファーレンハイト家は、ドイツのハンザ同盟に加盟していた商人の家系人だった。ガブリエルは5人きょうだいのいちばん上だった。
ガブリエルが14歳のころ、両親が毒きのこを食べて亡くなったため、彼はネーデルランド(オランダ)へ移り、商人の修行をした。
しかし、しだいに科学に興味を抱くようになり、ガラス器具を製作したり、物理学や気象学の器具を製作、販売するようになった。
21歳のころから、たびたびドイツを中心に各地を旅行し、各地の学者たちと交友を深めた。ファーレンハイトは、科学者で哲学者のライプニッツとも文通をしていた。
そうした科学者たちと親交するにつれ、共通の尺度となる標準温度の必要性を強く感じるようになった。
28歳のとき、アルコール温度計を製作。
35歳のとき、過冷却の水の凝固を発見。
38歳で、水銀温度計を製作。王立協会の会員となり、さらに化学、物理学の実験、研究を進めた。
その後、比熱の概念の元となる、混合物の実験などをおこなった後、1736年9月、ネーデルランドのハーグで没した。

ファーレンハイトは、純度の高い水銀を使った温度計によって、科学実験の精度を高めた。そして、液体ごとに沸点がちがい、それは気圧の影響を受けることを発見した。

「華氏」は「ファーレンハイト」の中国音訳である「華倫海特」から、そう呼ばれるのだそうだ。
ファーレンハイトは、当時、彼が計測できたもっとも低い気温を0度とし、自分の体温を100度にして、目盛りをこしらえたようだ。摂氏と比べると、こうなる。
華氏0度 =摂氏マイナス17.8度
華氏100度=摂氏37.8度
華氏212度=摂氏100度

ファーレンハイトが発見したという過冷却の話は、中学のころ、そういう現象があるということをテレビ番組を見ていてはじめて知った。
たとえば器に水をたたえて、しだいに温度を下げていく。静かに見守っていると、やがて0度を過ぎて、マイナス1度、マイナス2度となる。でも、水は凍らない。
そのとき、器をちょんっとはじくか何かして、小さな刺激を与えてやると、カチンッと水は一瞬にして凍りつくというのだった。
自分はとても不思議な気がした。過冷却現象はいまだに見たことがないし、いまでも不思議な気がする。やっぱり刺激がないと、凍るものも凍らない。刺激って大事だなあ、と思う。
(2014年5月24日)



●おすすめの電子書籍!

『大人のための世界偉人物語』(金原義明)
世界の偉人たちの人生を描く伝記読み物。エジソン、野口英世、ヘレン・ケラー、キュリー夫人、リンカーン、オードリー・ヘップバーン、ジョン・レノンなど30人の生きざまを紹介。意外な真実、役立つ知恵が満載。人生に迷ったときの道しるべとして、人生の友人として、この本をぜひお手許に。

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5月23日・バーディーンのハンバーガー

2014-05-23 | 科学
5月23日は、世界亀の日(World Turtle Day)。亀に敬意を払い、亀の繁栄のためになにかしようという日。この日はまた、物理学者、ジョン・バーディーンの誕生日でもある。トランジスタの発明者である。
自分はトランジスタラジオと鉱石ラジオを長いあいだ混同していて、トランジスタを鉱石の一種だと勘違いしていた時期があった。
おおまかにいって、鉱石から真空管、トランジスタ、そしてIC(集積回路)というのが、精密機器の発展の流れ順だと思う。トランジスタは半導体素子のことで、6つのトランジスタが入っていると「6石ラジオ」などと呼ぶけれど、ほんとうは石ではなかったんですね。

ジョン・バーディーンは、1908年、米国ウィスコンシン州のマディソンで生まれた。 父親は解剖学の大学教授だった。ジョンはまれにみる秀才で、15歳で高校を卒業した。ほんとうはさらに何年か早く卒業できたが、ほかの高校でオプションの授業を受け、母親が亡くなるなどの不幸も重なって、卒業を先のばしにしたらしい。
15歳でウィスコンシン大学に入学。電気工学科を修めた後、いったん就職したが、ふたたび大学へもどり、プリンストンやハーバードなどの大学で数学・物理学を学んだ。
30歳でミネソタ大学の助教授になり、第二次大戦中は、海軍の兵器研究所に勤務し、戦後はベル研究所に勤めた。40歳のとき、トランジスターの開発に成功。
43歳のときイリノイ大学の教授に就任。以後約40年間、同大学に在籍し、超伝道について研究した。
48歳のとき、トランジスタ発明の功績によりノーベル物理学賞を受賞。
64歳のとき、超伝導のBCS理論の功績により、2回目のノーベル物理学賞を受賞。ノーベル物理学賞を2度受賞した唯一の人間になった。
1991年1月、心臓病のため、ボストンの入院先で没した。82歳だった。

超伝道は、ある種の金属や化合物をマイナス200度くらいの低温に冷やしてやると、電気抵抗がゼロになる現象である。電気抵抗がゼロだから、ちょっと電気を流してやると、電気が永遠に流れつづけることになる。これを利用して永久磁石を作り、その上に列車の車両を載せて浮き上がらせ、宙に浮いた車両をちょんっと押してやると、列車は浮いたまま空中をすべっていく。これがリニアモーターカーの仕組みだったと思う。リニアモーターカーは何十年も前にすぐに完成すると騒がれていたけれど、なかなか開通しない。

ノーベル賞は、キュリー夫人が物理学賞と化学賞とで、2度受賞している。バーディーンの2度の物理学賞は、いずれも、共同研究者との共同受賞で、単独ではない。それにしても、頭のいい人というのはいるものだ驚く。

バーディーンは、プライベートでは、ピクニックや、ガーデンパーティーが大好きで、友人を自宅に招いては、屋外でハンバーガーなどを料理して客たちにふるまうのを楽しみとしていたそうだ。ひかえめなタイプで、
「トーストしたパンにはさむハンバーガーは気に入ったかい?」
と尋ねるばかりで、自分の仕事についてはほとんど話題にせず、客たちのなかには彼が何をしている人か知らない人もすくなくなかったらしい。能あるタカは爪を隠す、かぁ。
(2014年5月23日)


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5月22日・リヒャルト・ワーグナーの借金

2014-05-22 | 音楽
5月22日は、国際生物多様性の日。この日は推理作家のアーサー・コナン・ドイルが生まれた日(1859年)だが、作曲家、リヒャルト・ワーグナーの誕生日(1813年)でもある。
自分がワーグナーをはっきりワーグナーとして意識して聴いたのは、フランシス・コッポラ監督の映画「地獄の黙示録」のなかで使われた「ワルキューレ」が最初だった。

ヴィルヘルム・リヒャルト・ワーグナーは、1813年、ドイツ(当時はザクセン王国)のライプツィヒで生まれた。父親は警察勤務の官吏だった。音楽好きの一家のなかで、早くから音楽に親しんだヴィルヘルムは、ベートーヴェンを聴いて音楽家を志した。
18歳でライプツィヒ大学に入学し、音楽を学んだが、やがて中退。合唱や劇団や劇場の指揮者を務めながら、ヴュルツブルク、マグデブルク、ドレスデン、リガ(現在のラトビア)などを転々とした。長く続く貧困生活から逃げだし、26歳のとき、仏国パリへ出た。
パリでは小説を書き、歌劇「さまよえるオランダ人」を書いたが、認められなかった。
29歳でザクセン王国のドレスデンへもどったが、それからも借金取りから逃げまわるような放浪生活が続いた。32歳のとき「タンホイザー」、35歳で「ローエングリン」を作曲したが、なかなか評価と収入は上がらなかった。
36歳のとき、ドレスデンのドイツ三月革命に加担したのが裏目に出て、ワーグナーは指名手配され、スイスへ脱出した。この亡命中に、ワイマールでは「ローエングリン」が演奏され、評価が高まったが、作曲者本人がそれを聴けないのは皮肉だった。
46歳で「トリスタンとイゾルデ」を書き、冒頭の「トリスタン和音」 で和声学の革命を起こしたワーグナーは、50歳のとき、コンサート出演料を得て、ようやく当面の借金を清算した。すると、まだ手元にかなりの大金があった。ワーグナーはウィーンに大邸宅を借り、室内装飾に贅を尽くし、使用人を雇い入れた。足りない費用は高利貸しから借りた。なかには年利200パーセントを超える借入金もあったという。
ふたたび巨大な負債を背負ったワーグナーは、51歳のとき、あてにしていたロシア公演旅行がキャンセルになると、絶望し、恋人への手紙にこう書いた。
「ぼくは苦悩の最後の段階に足を踏み入れた。もうじき終わるだろう。最後にあと一つ残った悲しい骨折りがすめば、この世の苦しみから解放される」(ゲルハルト・ペラウゼ著、畔上司、赤根陽子訳『天才たちの私生活』文春文庫)
しかし彼は自殺せず、逃げた。ウィーンを出、ミュンヘン、シュトゥットガルトへと移った。そしていよいよ奇跡でも起きなければ、自分はもう破滅だ、と覚悟を決めかけたまさにそのとき、バイエルン国王ルートヴィヒ二世の秘書が訪ねてきた。
19歳のルートヴィヒ二世は、52歳のワーグナーをバイエルンに高給で迎え、作曲料や年金を上乗せし、楽劇「ニーベルンゲンの指輪」を完成させるよううながした。かねてからワーグナーの音楽に心酔していた国王は、国庫を傾けてでもワーグナー芸術を実現させようとしたのだった。
序夜「ラインの黄金」、
第1夜「ワルキューレ」、
第2夜「ジークフリート」、
第3夜「神々の黄昏」と、
全部上演するのに4日かかるという巨大な楽劇「指輪」のために、バイロイト祝祭劇場が建設され、ワーグナーが63歳のときに「指輪」が上演された。「ニュルンベルクのマイスタージンガー」「パルジファル」を書いたワーグナーは、1883年2月、イタリアのヴェネツィアを旅行中、心臓発作のため、没した。69歳だった。

ワーグナーが音楽史上に残した足跡は巨大だけれど、その経済生活も豪快な人だった。
それにしても「一寸先は光」ということはあるのだなあ、と感心する。
(2014年5月22日)


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