1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

1/31・青春の光、ジョン・ライドン

2013-01-31 | 音楽
1月の末日31日は、作曲家、フランツ・シューベルトの誕生日(1797年)だが、いまひとりの偉大な音楽家、ジョン・ライドン(またの名をジョニー・ロットン)の誕生した日でもある。
伝説のパンク・ロック・バンド「セックス・ピストルズ」を率いた、あのジョニー・ロットンこと、ジョン・ライドンである。
ちなみに、ジョン・ライドンは、セックス・ピストルズのボーカリストだったころは、ジョニー・ロットン(「腐ったジョニー」の意味)と呼ばれていた。ピストルズを脱退して、ジョン・ライドンになった。

自分は、セックス・ピストルズが現役のバンドだったころ、リアルタイムでピストルズを聞いていた。
はじめてピストルズを見たときの衝撃はいまでも忘れない。
高校3年の或る日、テレビの海外情報番組で、最新のロンドンの音楽事情を紹介し、そのなかにピストルズの映像も入っていた。ピストルズが映っていたのは、ほんの10秒かそこらだったかもしれない。ただし、その10秒は、まさに衝撃的だった。
すでにセックス・ピストルズの名は耳にしてはいたが、その音も、動く映像もそれまで見たことがなかった。
「これが、うわさの……」というわけだが、見てみると、まさにうわさ以上だった。
翌日、学校へいくと、友人たちのあいだは、ピストルズの話でもちきりだった。
「見た? 昨日の」
「見た見た」
「すごかったなあ」
そういって、昨夜見たばかりのピストルズのジョニー・ロットンのまねをしたものだ。柄の長いほうきをもってきて、それをスタンドマイクに見立てて、歌うまねをする。
両手を重ねてマイクをにぎり、マイクスタンドにすがりつくように、足をふらつかせ、腰をよろめかせながら、目と歯をむき出して、憎々しげに歌う。ジョニーのスタイルは斬新だった。
そして、一語一語の音を誇張して抑揚をつけ、ドイツ人のような巻き舌で歌う英語も特徴的だった。
一週間後には、ピストルズのファースト・アルバム「勝手にしやがれ」を、自分はレコード屋で買って聴いていた。
ほんとうは誰か友だちが買って、貸してくれないかな、と期待していたのだが、誰も買わないので、自分で学校帰りにレコード屋へ寄り、お小遣いをはたいて買ったのだ。
レコードにはじめて針を落とすと、軍靴の行進のような音につづいて、バスドラムが刻まれだし、ものすごくやかましいギターが鳴りはじまった。
あの騒音的なサウンドも衝撃的だった。
ピストルズ以降、デス・メタルとか、インダストリアルとか、もっと騒音じみたロック・ミュージックがでてきたから、いま聴き返してみると穏やかなものだけれど、当時は前代未聞の騒音ミュージックだった。
でも、ピストルズの楽曲には、ちゃんと美しいメロディーがあり、歌詞がていねいに歌われていて、ただの騒音とはまったくちがうものではあった。

ジョン・ライドンは、1956年1月31日、英国ロンドンで、貧しいアイルランド移民の息子として生まれた。
アイルランド系と、ジャマイカ系の貧しい層が暮らす、犯罪の多い地区で育った。
7歳のころ、ジョンは髄膜炎をわずらい1年ほど入院した。その期間、幻覚や吐き気、頭痛に悩まされつづけたという。
学校へ通うようになったジョンは、ひじょうに恥ずかしがりで内気な少年で、体罰がこわくて、授業中「トイレに生きたい」と言いだせず、ズボンのなかに便をもらして、そのまま一日中がまんしていたこともあったという。
19歳のとき、ジョンは、ピンク・スロイドのTシャツに、自分で「おれは嫌いだ」と書き足したものを着ていて、スカウトされ、セックス・ピストルズのボーカリストとなった。
ピストルズは、企画され、メンバーを募集し、作られたバンドである。
ジョンは、ボイス・トレーニングのレッスンに通い、スタジオで練習を重ねた後、20歳のとき、ロック・バンド「セックス・ピストルズ」としてデビュー。その荒々しい演奏スタイルと音楽、反体制的な歌詞で、圧倒的な注目を集めた。
21歳のとき、ピストルズのデビューアルバム「勝手にしやがれ」発表。
収録された楽曲は、これでもかという煽情的、反抗的な歌詞のオンパレードで、作詞はすべてジョニー・ロットン(ジョン・ライドン)による。
シングルカットされた楽曲「アナーキー・イン・ザ・UK」のなかで、ジョンは、
「おれは反キリストだ。おれは無政府主義者だ」と叫び、
同じくシングルカットされた「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」のなかで、
「英国の夢に未来ない。おまえたちに未来はない」と歌い、物議をかもした。
ゲリラライブを敢行し、逮捕されたこともある。
ジョンが歌う反体制的な歌詞は、右翼や保守派の人々を怒り狂わせ、ジョンはロンドンの街を歩いていて、ナイフで切りつけられたり、ナタでひざを割られたりしたこともあったらしい。

当時、パンクといえば、ピストルズであり、ピストルズがパンクだった。
しかし、ピストルズは短命だった。
バンドが米国ツアー中の1978年、ジョンが、22歳になる直前、バンドからの脱退を宣言。バンドは空中分解してしまう。
脱退してジョン・ライドンとなった彼は、パブリック・イメージ・リミテッド(PiL)を結成。パンク・バンド時代とはまったくちがった、斬新な音楽性を追求しだした。

青春の季節にリアルタイムで聴いていた音楽は、いつまでたっても「いいもの」で、ピストルズやPiLは自分にとって、まさにそれである。
昔、レコードで聴いていたピストルズやPiLの楽曲を、いまでもCDで聴いている。
ピストルズの「勝手にしやがれ(原題は『安心しろ、キンタマ』といった意味である)」は、いま聴いても、
「いいなあ」
と思うし、PiLのアルバム「メタル・ボックス」や「ライブ・イン・東京」は、
「やっぱり時代を10年から15年は先取りしたセンスだったよなあ」
とうなってしまう。

ロックとは、反抗的なものである。
パンクとは、反体制的なものである。
そのことを、強烈に意識的にアピールして、ほんとうに反抗するのではなく、そういうイメージをもつ商品として売り出していったのがピストルズで、その役割にぴたりとはまり、才能を遺憾なく発揮したパンク・ロックのヒーローが、ジョン・ライドンだったのだと思う。
しかし、聴衆の多くは、それを商業上の営業戦略だとは受けとらず、熱狂したり憎悪したりした。
それがピストルズのねらいだったのだから、憎まれてとうぜんといえば、とうぜんではあったが。
いずれにせよ、ジョンは見た目とちがって、とても知的でクールな男なのである。

それにしても、年齢というのは残酷だ。
かつて、獣のようにしなやかなからだつきをしていた「ジュリー」こと沢田研二が、いつしか志村けんと変わらない体型になってしまったように、ジョン・ライドンももはや往年のヒョウのようなしなやかさは失ってしまった。
ヒストルズ時代のジョニー・ロットンは、ほんとうにかっこよかった。
(2013年1月31日)

著書
『ポエジー劇場 ねむりの町』

『ポエジー劇場 天使』

『ポエジー劇場 子犬のころ』

『ポエジー劇場 大きな雨』


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1/30・ブローティガンのやさしさ

2013-01-30 | 文学
1月30日は、大恐慌時代の米国大統領FDRことフランクリン・ルーズヴェルトの誕生日(1882年)だが、米国の作家、リチャード・ブローティガンが生まれた日でもある。
「やさしさの作家」ブローティガンは、自分にとって、1960年代の若者文化を象徴する存在で、学生のころから愛読していた。
サンフランシスコのハッシュベリー地区の路上に、全米各地から若者たちが集まってたむろしていたヒッピー全盛のころ、若者たちの集会の席やコンサート会場で朗読されるのが、ブローティガンの詩や小説だった。
自分の専門は1960年代アメリカの文化史だったので、ブローティガンは自分の研究のテーマソングみたいなものだった。
世界的ベストセラー『アメリカの鱒釣り』のほか『ビッグ・サーの南軍将軍』『西瓜糖の日々』『芝生の復讐』『愛のゆくえ』などを自分は読み、それらの本はいまでももっている。

リチャード・ブローティガンは、1935年1月30日、米国ワシントン州タコマで生まれた。
父親は工場労働者で、母親はウェイトレスだったが、両親はリチャードが生まれる8カ月前に別れ、誕生したリチャードはべつの男と暮らす母親といっしょに暮らし、育った。
子どものころ、ブローティガンの家はとても貧しく、生活保護を受けていた。何日も食べ物なしですごしたこともあるという。
しかし、彼は大きくなった。ブローティガンの身長は193センチメートルあり、高校時代は、学校新聞の記者をしながら、バスケットボール部でも活躍した。
20歳のとき、ブローティガンは警察署の窓に石を投げこんで、現行犯逮捕された。これは、刑務所に入って食事にありつこうという魂胆からの犯行だったが、彼の目論見に反して、彼は25ドルの罰金を課された上、病院に入れらた。
精神科の医師は、偏執性の統合失調性と抑鬱症と診断を下し、ブローティガンは電気ショック療法を12回受けたという。
やがて退院したブローティガンは、いったんオレゴンの母親と、母親の再婚相手のもとで、いっしょに暮らした後、ひとり家をでてサンフランシスコに住み着いた。
サンフランシスコで、ミニコミ紙などに記事を書いていたブローティガンは、詩や小説を書きため、22歳のときに最初の詩集を出版した。そして、29歳のとき、小説『ビッグ・サーの南軍将軍』をだした。
32歳のとき、小説『アメリカの鱒釣り』を出版。この作品は全世界で400万部以上を売るベストセラーとなり、ブローティガンの名を一躍高らしめた。
以後、『バビロンを夢見て』『東京モンタナ急行』『ハンバーガー殺人事件』『不運な女』などの作品を発表した。
1984年9月、カリフォルニア州ボリナスで自殺。49歳だった。

1970年代の米国文学の風といえば、やはりカート・ヴォネガットとブローティガンである。
どちらもユーモアと洒落っ気と風刺精神に満ちた「新しい小説」を書く作家だったが、ヴォネガットのほうが、より厭世的、皮肉的であるのに対し、ブローティガンのほうが、より楽観的、感傷的だという気が、自分はする。
どちらも、読んでみると、村上春樹や高橋源一郎らに圧倒的な影響を与えた作家だとわかる。

自分は若いころ、ブローティガンの、軽やかな、やさしい感じのする文章が大好きで、この作者は、やっぱりやさしい、穏やかな人で、自然のなかで静かな生活を送っているのかなあ、などと想像していたのだけれど、じつは本人はアルコール依存と抑鬱症に苦しみ、自殺したいとしょっちゅう口にしていた人だったのだと、彼が死んだ後になって知った。
ブローティガンが拳銃自殺したというニュースを聞いたときは、驚いた。
これは、ひとり暮らししていた自宅で、44口径のマグナム銃で自分の頭を撃ち抜いたもので、遺体が発見されたのは、自殺してひと月以上たってからだった。
あの軽快で明朗なやさしさの文学は、ものすごい重たい気分のなかから生みだされたものだったのである。
そういえば、『愛のゆくえ』は自分のお気に入りの小説だけれど、あの原題は、The Abortinon (堕胎、人口中絶)だった。

ブローティガンは、2度結婚し、2度とも離婚していて、2度目の奥さんは日本人女性だった。
いずれの結婚生活も長くはつづかなかった。やはりブローティガンのアルコール依存と精神面が、障害になったようだ。
しかし、そういうとことがらを頭においた上で、ブローティガンの作品をあらためて読み返してみると、やっぱり、その文章はお洒落だし、気が利いているなあ、と感心してしまうのである。
(2013年1月30日)

著書
『コミュニティー 世界の共同生活体』

『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句』

訳書、キャスリーン・キンケイド著
『ツイン・オークス・コミュニティー建設記』

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1/29・ロマン・ロランの神さま

2013-01-29 | 文学
1月29日は、フランスの作家、ロマン・ロランの誕生日。
自分は若いころからロマン・ロランが好きで、『ベートーヴェンの生涯』『ミケランジェロの生涯』『ラーマクリシュナの生涯』などを読んだけれど、代表作の長編『ジャン・クリストフ』は大学生のときに読んだ。
『ジャン・クリストフ』は、まちがいなく世界文学の最高峰のひとつで、ジャン・クリストフという作曲家の一生を描いた小説である。
読んでみて、ものすごい小説だと思った。
人生のさまざまな局面があり、たくさんの様々な人々がクリストフの人生にからんで登場し、いろいろな事件があって……。
人生そのもの、で、とにかく長い、大作だった。
でも、とてもおもしろかった。
読むのにそれなりに時間はかかったけれど、読み進むのに苦労した覚えはまったくない。
終始楽しみ、胸をどきどきさせながら、何日かで読み通したと思う。
自分もまだ若く、長い読書に耐えうる体力があったのだなあ、と思う。

ロマン・ロランは、1866年1月29日、フランスのクラムシーに生まれた。
父親は公証人で、ロマン・ロランが14歳のとき、一家はパリに引っ越した。
高等師範学校をでたロランは、歴史や美術史、芸術史を学校で教えながら、雑誌に文章を発表。
33歳のとき『ベートーヴェンの生涯』を発表。
好評だったこの評伝を足掛かりに、ベートーヴェンをモデルとした音楽家を主人公に据え、彼の生まれてから死ぬまでの一生を描ききる大長編小説を書くことを決意。それが、38歳から46歳のころにかけて『ジャン・クリストフ』である。
『ジャン・クリストフ』を書き終えた後は、教師をやめ、執筆に専念した。
49歳のとき、ノーベル文学賞受賞。
56歳から67歳にかけて、長編『魅せられたる魂』を執筆。
生涯を通じ一貫して、戦争反対、ファシズム反対、ヒューマニズムを訴え、国際社会に向けて発言しつづけた。
日本の満州侵略はもちろん非難したし、ナチスが台頭していたドイツからのゲーテ賞授与を拒否した。
シュバイツァー、アインシュタイン、ヘルマン・ヘッセらのほか、マハトマ・ガンジーやタゴールなどとも交友があり、ラーマクリシュナや、ヴィヴェカーナンダなどインドの聖人についての評論も書いた。
1944年12月、フランスのヴェズレーで78歳の生涯を終えている。

いま、肝心の『ジャン・クリストフ』の本が手元にないので、何十年か前に読んだ記憶だけでものをいうのだけれど、あの小説のなかの、たしかクリストフの青年時代を描いたくだりに、彼が神さまの声を聞く場面があったと思う。
クリストフが、どうして自分はこんなに苦しまなくてはならないのか、どうしてこんなに悩まなくてはならないのか、と、つらい思いをしていると、そこへ神さまの声が聞こえてくるのである。神さまはたしかこういう意味のことを、クリストフに語りかけていたと思う。
「クリストフ、悩みなさい。苦しみなさい。悩み、苦しむむこと。それこそが、わたしがおまえに望むことなのだ」
表現はちがうかもしれないけれど、そういう内容だったと思う。
このくだりに、自分は衝撃を受けた。
「そ、そうかぁ、神さまは、われわれ人間に、そういうことを望んでいるのかぁ」と。

『ジャン・クリストフ』の、自分はどの部分もおもしろく読んだけれど、なかでもとくに美しい部分があって、それがたしか、クリストフの女友だちの、そのお母さんが若いころの物語、という、主人公にはぜんぜん関係のない話で、それにびっくりした。
でも、この美しさは、いったいなんなのだろう、と思うくらいすばらしい部分で、あまりに美しい話なので、そこだけ切り離し、独立した一冊の本になったりもすると聞いた。

ぼんやりした記憶を頼りに書くと、漠然とした感じで、しまりがなくなってしまいました。
でも、『ジャン・クリストフ』を読んで、ほんとうによかったと思う。
たとえば、あれを読まずに、一生を終えた場合を想像しようとしても、もはや想像できない、それくらい生きることと密接に関係した読書の喜びがそこにあったと思う。
まあ、読まなければ、そのありがたみもわからないのだから、いくら説明しても、わかりっこないのだけれど。
まだ読んでいない方は、おすすめです。
(2013年1月29日)

著書
『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句』

『出版の日本語幻想』

『ポエジー劇場 子犬のころ2』

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1/28・巨人、小松左京

2013-01-28 | 文学
1月28日は、日本SF界の巨匠、小松左京の誕生日。
いまふり返ってみると、小松左京は日本にはめずらしい、世界的なスケールをもった大きな作家だったと、あらためて気づかされる。
アメリカ人として生まれていたら、スティーブン・キングなどよりさらに巨大なベストセラー作家になっていたのではないか、と思う。

小松左京(本名、小松実)は、1931年1月28日、大阪で生まれた。
14歳で敗戦を迎えた小松少年は、その後、京都大学の文学部でイタリア文学を専攻。
大学時代には、マンガを描いて雑誌に投稿し掲載されていたという。
マスコミ志望だったが、就職試験に失敗したため、雑誌の記者や、新聞のレビュー記事、漫才の台本など、さまざまなジャンルの文章を書いて生計を立てた。
SF雑誌の小説コンテストに応募し、それをきっかけにSF小説家としてデビュー。
以後、『日本アパッチ族』『果しなき流れの果に』『日本沈没』『復活の日』『エスパイ』『首都消失』など、話題作、ベストセラーをつぎつぎと発表した。
1970年、39歳のとき、大阪で開かれた万国博覧会において、テーマ館のサブ・プロデューサーを務め、また同年、アーサー・C・クラークほか、海外の著名なSF作家を日本へ招き、「国際SFシンポジウム」を主宰した。
49歳のときには、日本SF作家クラブ会長として「日本SF大賞」の創設に尽力。
2011年7月、肺炎により没。80歳だった。

日本SF作家クラブには、その昔、こういう会則があったと聞いた。
「星新一より背が高い者、筒井康隆よりハンサムな者、小松左京より太っている者は、入会不可」
すこしちがったかもしれないが、いずれにせよジョークで、こうやって日本のSF作家の御三家をたたえたのである。
日本の文学界は伝統的にSF作家には冷たいようで、この3人のビッグネームでさえ、ついに芥川賞も直木賞も受賞していない。

膨大な数の著作があるけれど、小松左京の代表作といえばまず、大ベストセラーとなり、テレビ化、映画化された傑作『日本沈没』。
自分も、当時の『日本沈没』ブームをよく覚えている。誰もがこの書名を知っていた。
日本全国がこの作品といっしょに踊っている感じだった。
それから、長編では『日本アパッチ族』『果しなき流れの果に』『復活の日』などは名作である。
それから短編だと『ゴルディアスの結び目』『霧が晴れた時』『くだんのはは』なども世評が高い。
それにしても、もの知りで、想像力が豊かで、体力と気力が充実した人物だった。
姿が大きい。
天下の京都大学をでていながら、就職できなかったという逸話も(もちろん時代背景もあるけれど)、うなずける気がする。
クラゲの光るタンパク質の発見でノーベル化学賞を受賞した下村脩(もむらおさむ)も、就職の会社面接で、
「きみはサラリーマンには向いていない」
といわれ、大変なショックを受け落胆し、それでしかたなく大学の研究室に残ることになったというが、個性の強くない、ごくふつうの人間を受け入れたいと考える一般企業では、こうしたえらい人たちは、人間的に大きすぎることがすぐにわかってしまい、入社以前の段階で自動的にはじかれてしまうのだ。
だから、就職難の昨今、就職できない者こそ、みどころがある、ということにもなる。
若い小松左京にとっては、就職活動の失敗はつらかったろうけれども、やはり、社会のため、そして本人の巨大な才能を生かすためにも、彼は就職できなくてよかった、という気がする。
まったく、日本人にはめずらしい、スケールの大きな作家だったと思う。
ちょっと自分も一所懸命になって、小松作品を読んでみたいと思います。
(2013年1月28日)

著書
『出版の日本語幻想』

『こちらごみ収集現場 いちころにころ?』

『ポエジー劇場 大きな雨』

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1/27・至上のモーツァルト

2013-01-27 | 音楽
1月27日は、至上の音楽家、モーツァルトの誕生日。
「アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク(小夜曲)」「フィガロの結婚」「魔笛」の作曲家、モーツァルトである。
モーツァルトに関しては、自分はあまり多くを発言したくない。世の多くの人たちのほうが、自分よりよっぽどモーツァルトが好きで、モーツァルトについてよく知っていて、モーツァルトの音楽について言いたいことをたくさんもっていると思うからだ。

評論家の小林秀雄に『モオツァルト』という文章があって、そのなかに、若いころの思い出が書かれている。
たぶん、東京で同棲していた女から逃げ出して関西へいき、すさんだ気持ちで放浪していたときのことだろうが、大阪の道頓堀をさまよっていた若き小林秀雄の頭のなかに、モーツァルトの交響曲第40番の第4楽章のテーマがとつぜん流れだした、というくだりがある。
このテーマは、聴く者を追い立てるような感じのするメロディーで、当時の小林秀雄の切羽詰まった気持ちがよくわかるなぁ、と自分などは思う。おそらく、小林はこのくだりを半分自虐的なギャグのつもりで書いたのだろう、と自分は思うのだが、それはともかく、この文章はとても有名で、この文章によって、モーツァルトの交響曲第40番もまた日本人のあいだでよく聴かれるようになった。
それから何十年かたった後のこと。
日本の某という若い女性ヴァイオリニスト(だったと思う)が、ヨーロッパの何かのコンクールでモーツァルトを弾いて賞をもらったとかで、そのときの新聞のインタビュー記事を読んだことがある。
新聞記者が、そのなかでこう尋ねていた。
「小林秀雄の『モオツァルト』はお読みになりましたか」
すると、その若い女性音楽家はこうコメントしていた。
「えらい人が何か言ってると思った」
読んでいて、自分は思わず大声で笑い出してしまった。実際にモーツァルトを弾いている音楽家の前では、高名な評論家も形無しで、このように、自分は調子はずれな世迷い言をいって笑われる愚を、なるたけおかしたくないのである。

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは、1756年1月27日、神聖ローマ帝国(現在のオーストリア)のザルツブルグで生まれた。
父親は宮廷音楽家で、ヴォルフガングは7人きょうだいの末っ子だった。
音楽家の父親によって、その才能を見いだされたモーツァルトは、幼いころから音楽の英才教育を受け、父親といっしょにヨーロッパ各地を演奏旅行してまわった。
6歳のときには、宮殿で帝国の女王、マリア・テレジアの前で演奏した。演奏後、宮殿内でころんだ彼のところへ、やさしく手を差し伸べてくれた7歳の皇女マリー・アントワネットに、感激したモーツァルトは結婚を申し込んだという。
モーツァルトは、王族や貴族、聖職者からの作曲の依頼や、演奏会、音楽の家庭教師、オペラの作曲、楽譜の出版などで生計を立てて生きた。
本人も天分に恵まれていることを認める、自他ともに許す音楽の天才だった。
彼はいちど聴いた曲を完全に覚えていて、後で楽譜に書きだせた。また、目隠ししてもピアノが演奏できた。
本人は作曲に関しては長い時間の研究と思考を捧げたともいっているが、一方で、作曲する際には、最初から全曲の全パートの譜面が頭のなかに浮かび、あとはそれを紙の上に書き写すだけでよかったともいわれる。
数々の室内楽曲、3大交響曲といわれる交響曲第39番、第40番、第41番のほか、オペラでは「フィガロの結婚」「ドン・ジョヴァンニ」「魔笛」、そして未完成の「レクイエム」などを書いた。
1791年12月、ウィーンで没。共同墓地に埋葬された。35歳だった。

若すぎる死については、ライバルの音楽家による毒殺説もあり、それを映画化したのが、ミロス・フォアマン監督の映画「アマデウス」である。この映画でモーツァルト役を演じた俳優トム・ハルスは、軽薄で快活、冗談好き、猥談好きなモーツァルトを再現しようとして、米国のテニス・プレイヤー、ジョン・マッケンローの試合中の落ち着きのない行動を、テレビ録画で繰り返し見てまねたという。

フランスの文豪バルザックは、モーツァルトを、
「至上の音楽家」
と呼んだ。

指揮者のフルト・ヴェングラーは、
「モーツァルトは水平に広がってゆく」
といった。
自分は、モーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク」がとても好きだけれど、この曲の冒頭の部分を聴くと、フルトヴェングラーのいったことがよくわかる気がする。

日本人は、モーツァルトが大好きである。
それは、その音楽の完璧な感じもさることながら、誰もが認める「天才」ということで、安心して聴ける「安全商品」だからかもしれない。
とくに最近は、モーツァルトを聴くと頭がよくなるとか、頭のいい子に育つとかいう評判もあって、モーツァルトのCDを買いあさって、片っ端から子どもに聴かせている親というのも、すくなからずいるようだ。
自分も、小さいころ、モーツァルトを聴いていたら、もうすこし頭がよくなったかしら?
いや、いまからでも遅くない、かもしれない。今日は、たくさんもっているモーツァルトのCDを、片っ端から聴いてみよう。
(2013年1月27日)


著書
『ポエジー劇場 ねむりの町』

『ポエジー劇場 天使』

『ポエジー劇場 子犬のころ』

『ポエジー劇場 大きな雨』
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1/26・盛田昭夫の楽観主義

2013-01-26 | ビジネス
1月26日は、ソニーの創立者のひとり、盛田昭夫の誕生日。
自分が「盛田昭夫」の名前をはじめて知ったのは、小学校の高学年のころだった。
当時、小学校の図書館には、少年少女世界文学全集とか、怪盗ルパン全集とかいった本に混じって、世界伝記全集といった感じの子ども向け全集本が並んでいた。
本好きの小学生だった自分は、文学やルパンも好きだったけれど、伝記も好きで、エジソン、野口英世、ヘレン・ケラー、キュリー夫人、チャーチル、ケネディ、ガンジーといった定番の子ども向け偉人伝をよく読んでいた。
小学校の図書館にあった伝記の全集は、ぜんぶ読んだかもしれない(文学全集は8割がた、ルパン全集はぜんぶ読んだ)。
現在では、ひょっとするとビル・ゲイツやマーク・ザッカーバーグがとり上げられているのかもしれないけれど、当時は、現役のビジネスマンが伝記の素材としてとりあげられることはまずなかった。
ところが、ある日、学校の図書館の棚を見ると、伝記全集の棚に『世界の松下、ソニー、ホンダ』という本が並んでいた。
「ふうん、なんだろう、これは。ソニーという名前のえらい人がいるのかな」
そんなふうに思って、借りて読んでみた。
お察しの通り、その本のなかでは、松下幸之助、井深大、盛田昭夫、本田宗一郎といった日本の実業家が紹介されていた。このビッグネーム4人を1冊に閉じ込めてしまうという、いま考えるとものすごい企画本だけれど、とにかく、それで自分ははじめて盛田昭夫という名を知ったしだいだった。

盛田昭夫は、1921年1月26日、愛知県の造り酒屋の家に生まれた。昭夫が店を継げば、第15代目当主となるはずの古い家柄だった。
23歳で大阪帝国大学の理学部物理学を卒業した盛田は、海軍の技術中尉となり、24歳のときに、海軍で井深大(まさる)と知り合う。
知り合ってすぐ敗戦となり、その翌年の1946年、井深と盛田は東京通信工業という会社を興す。
これが現在のソニーで、SONYの名前は、英語の「音(sound, sonic)」の語源であるラテン語の「Sonus」と、アメリカで男の子を呼ぶときの「ソニー(Sonny)」をかけ合わせたものらしい。
ソニーの井深と盛田は、海軍時代の経験から、国家プロジェクトと結びついた巨大企業に戦いを挑むことを避け、民間向け、一般消費者向けの製品開発を目指した。
それでも、開発費や社員の給与など、メーカーの研究費、維持費は莫大で、はじめのころは、ソニーの社員の給料は、盛田の実家からでていたともいう。
そうやってやりくりして、ソニーは、日本初のテープレコーダーを作り、日本初のトランジスタラジオを作った。
ソニーは国内企業にとどまることをいさぎよしとせず、アメリカへ進出する。
39歳のとき、盛田はソニー・アメリカの社長となり、日本の企業としてはじめてアメリカで株式を発行した。
そして、42歳のとき、彼は家族を連れてニューヨークへ引っ越した。アメリカの市場開拓に真剣にとりくみだしたのだった。

アメリカ市場開拓当時の有名な逸話に、盛田が下請け製造をことわった一件がある。
いま、手元に資料がないので、アバウトな話になるけれど、大筋はこうだったと思う。
ある日、アメリカの大企業に、自社製品を売り込みにいった盛田は、相手にこういう意味のことをいわれた。
「うちであつかって、うちの販売網で売ってやるから、おたくの製品に、うちのブランド名をつけて納品してほしい」
盛田はことわった。彼は、他社の下請けメーカーにだけはなるまい、と心に決めていたからだった。
すると、相手はこういった。
「しかし、きみの会社の名前では、誰も知らないから、売れないよ」
盛田は、現在はSONYは無名だが、将来にはかならず有名になる、そういって帰ったという。

55歳のとき、いまでも語り種となっているベータマックス裁判が起こる。
ソニーは米国で、家庭用ビデオ録画装置ベータマックスを発売し、
「これで『刑事コロンボ』を見て、裏番組の『刑事コジャック』を見逃すということがなくなります」
という意味のコマーシャルを打った。わかりやすい、キャッチーな宣伝文句だったと思う。
ところが、これにユニバーサル、ディズニーなどのハリウッド勢が文句をつけてきた。映画会社が制作し著作権をもっている映像を、勝手にコピーするのは著作権の侵害だとして、訴えてきたのである。
ソニーの盛田は示談にもちこまず、法廷闘争を受けて立った。
このとき、もしもソニーがハリウッドに譲歩したり、あるいは裁判でハリウッド側の主張が通っていたら、現在の全世界の家庭の風景は、いまとはまったくちがうものになっていたかもしれない。
家庭でのテレビ録画の是非が問われた、歴史の大きなターニング・ポイントだった。
地裁では、ソニー側が勝った。
ところが、高裁では、ハリウッド側が逆転勝訴した。
結局、つぎの連邦最高裁で決着をつけることになったが、米国では、高裁での判決が最高裁でひっくり返される例はわずかしかなく、ほとんどは高裁の判決通りで決まり、というのが常識らしい。
盛田のソニー側と、ハリウッド側は、たがいにロビー運動を起こし、オピニオン広告をだし、国会議員を巻き込んでの全米的な論戦を繰り広げた。
盛田は、この法廷闘争を「ソニー対ハリウッド」でなく、「アメリカ国民対ハリウッド」という構図の裁判として米国民に訴えた。
ソニーは、アメリカ国民のために戦っています、アメリカ国民が自由にテレビ番組を録画できる権利を守るために、と。
そうして、連報最高裁での判決は、5対4でソニー側の勝訴というきわどいものだった。裁判がはじまって8年後の決着だった。
盛田昭夫はソニーの社長、会長を歴任し、1999年10月、肺炎のため没した。78歳だった。

盛田昭夫は、日本国内だけでなく、世界の人々から敬愛されたビジネスマンだった。
理学部物理科出身の技術者なのに、セールスマンとして先陣をきって世界市場を駆けまわった。
スポーツマンで、社交家で、勉強家だった。
生前は、よくテレビのドキュメンタリー番組などで見かけた顔で、いつも快活で、よくしゃべる、スマートな人だった。
自分は、盛田の自伝『MADE IN JAPAN』の文庫本を以前もっていたが、いつの間にかどこかへいってしまった。
その本に書いてあったか、あるいは、盛田の追悼テレビ番組で見たのかわからないけれど、たしか彼は生前、こういう意味のことをいっていたと思う。
「わたしは楽観主義者である。未来を悲観する材料は多々あるけれど、人類はきっと技術でもって、それを乗り越えて、うまくやっていくと思っている」
彼の楽観論は、
「まあ、そのうちなんとかなるだろう」
という「果報は寝て待て」論ではなく、
「知恵をしぼり、技術をもってすれば、かならずよくなる」
という信念である。
ああ、盛田昭夫流の楽観論でもって、前向きにいきたいものだ。
(2013年1月26日)

著書
『新入社員マナー常識』

『ポエジー劇場 ねむりの町』

『ポエジー劇場 天使』

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1/25・日本語の魔術師、北原白秋

2013-01-25 | 文学
1月25日は、詩聖、北原白秋の誕生日。
「白秋」と聞くと、思わずうっとりしてしまう。自分は小さいころから北原白秋が大好きで、その詩や歌をずっと読んだり歌ったりしてきたからだ。
白秋の歌といえば、最初に思い浮かぶのは「雨降り」。ご存じだろうか、こんな歌である。
「あめあめ ふれふれ かあさんが じゃのめでおむかえ うれしいな……」
あるいは、「ちゃっきり節」。
「唄はちやっきりぶし、男は次郎長、花はたちばな、夏はたちばな、茶のかをり。ちやっきり ちやっきり ちやっきりよ、きやァるが啼くから雨づらよ」
自分は静岡県出身で、実家がお茶屋のこともあって、もの心ついたときから、この民謡を口ずさんでいた。もともとは、静鉄(静岡鉄道)のために制作された歌である。

そして、白秋といえば、やはり詩。自分は、たとえば、白秋のこんな詩の調べに、しびれ、酔ってしまう。
「われは思ふ、末世の邪宗、切支丹(きりしたん)でうすの魔法。
黒船の加比丹(かひたん)を、紅毛の不可思議国を、
色赤きびいどろを、匂鋭(にほひと)きあんじやべいいる、
南蛮の桟留縞(さんとめじま)を、はた阿刺吉(あらき)、珍酡(ちんた)の酒を。」(「邪宗門秘曲」『邪宗門』)

あるいは、つぎの詩など、何度読み返したかしれない。
「からまつの林を過ぎて、
からまつをしみじみと見き。
からまつはさびしかりけり。
たびゆくはさびしかりけり。」(「落葉松」『水墨集』)

北原白秋(本名、北原隆吉)は、1885年1月25日、福岡県の柳川で生まれた。
家は江戸時代からつづく海産物問屋の大店で、酒の醸造と米の精米をする地方有数の商家だった。
ほんとうは、白秋の上に長男がいたらしいが、生後間もなく死んだので、白秋は「トンカ・ジョン(良家の長男の意)」と呼ばれ、長男として育てられた。
子どものころから文学好きで、16歳のときに雅号を「白秋」と決めている。
同じく16歳のとき、町の62戸が消失したという大火事に巻き込まれ、白秋の家の酒倉が全焼するという災難に見舞われる。酒だけに、火ははげしく延々と燃えた。北原家では、借金をして、新たに酒倉を再建したが、このときの借財が重くのしかかり、北原家はしだいに傾いてゆく。
白秋は19歳のとき上京。早稲田大学の予科に入り、学報や同人誌などに詩を投稿し、いよいよ詩人としての活動を開始した。
24歳のとき、処女詩集『邪宗門』を出版。官能的、耽美的なこの象徴詩によって文学界に衝撃が走った。
同じ年、柳川の実家が破産。家族は白秋を頼って上京し、一家の家計が、若い白秋の双肩に重くのしかかることになる。
26歳のとき、第二詩集『思ひ出』出版。この詩集は、日本文学史上、もっとも成功した詩集ともいわれ、白秋の名声は一気に高まった。
27歳のとき、同情から人妻と恋愛関係となり、相手の夫から姦通罪で訴えられ、白秋は2週間拘置所に入った。
絶望した白秋は、28歳のとき、自殺をするために神奈川県の三浦三崎へいき、2週間滞在するが、結局自殺は果たせず、生きることに。白秋はこのときの心境についてこう述べている。
「どんなに突きつめても死ねなかつた、死ぬにはあまりに空が温く日光があまりに又眩しかつた」(「ザンボア後記」『新潮日本文学アルバム北原白秋』新潮社)
このどん底の状況から、白秋の復活がはじまる。彼は書きはじめた。
以後、歌集『桐の花』、詩集『白金之独楽』、歌集『雲母集』、詩集『水墨集』、詩集『海豹と雲』などを出版。
並行して数多くの童謡を書き、関西学院大学、大正大学、同志社大学、駒澤大学ほか多数の大学、学校の校歌を作詩した。
52歳のとき、糖尿病と腎臓病の合併症による眼底出血により視力喪失。以後は口述筆記で詩歌を詠んだ。
1942年11月、糖尿病、腎臓病の悪化により死去。57歳だった。

自分は、紀貫之とか、在原業平とか、萩原朔太郎とか、西脇順三郎とか、田村隆一とか、好きな日本の詩人はたくさんいるけれど、そうした詩人のなかで、好き嫌いはさておき、誰が詩人としてえらいかということを、ときどき考えたりする。
すると、つぎの4人の名前が頭のなかに浮かぶ。
藤原定家。
松尾芭蕉。
北原白秋。
宮沢賢治。

松尾芭蕉と宮沢賢治は、その精神性の深さ、広さにおいて、やっぱり飛び抜けている気がする。
藤原定家と、北原白秋は、ことばの使い手として、日本語の魔術師として、最高の達成を収めた人という気がする。
人によって異論はあるだろうけれど、自分はこのように思う。

北原白秋よりひとつ年下の文豪、谷崎潤一郎は、彼の死にあたってこう書いている。
「さうかうするうち、氏が盲目になつたと云ふ悲報が入つたが、実は私は、氏が誰よりもさう云ふ打撃に奮起する底の人であり、それが却つて氏に新天地を打開する機縁を与へることを知つて、あまり氏のために悲観はしなかつた。或る意味では、天が氏に新しい武器を授けたやうにさへ感じた。私は今、生前にもう一度会つて置きたかつたなどと云ふことは考へてゐない。ただ、もう十年、氏を盲目の世界に生かして置いたら、どんな境地まで進展したであらうかと思つて、それを限りなく惜しむのみである」(「白秋氏と私」『谷崎潤一郎全集 第二十二巻』中央公論社)
いいことをいうなぁ、と思いません?
こういうことをいわれる白秋もえらいけれど、いう谷崎もえらいなあ、と自分は思います。

自分は、九州の柳川にある白秋の生家を、いつか訪ねたいものだというのが、子どものころからの長年の夢で、何年か前にようやくそれがかなった。訪ねてみて、まったく、夢心地だった。
自分は、詩集の『邪宗門』と『思ひ出』を、復刻版でもっている。
紙からインクから装丁から、なにからなににいたるまで、初版本とまったく同じに作った本で、どちらもとても美しい。
とくに『邪宗門』のほうは、フランスとじで、本文の紙が裁断されていず、ページのつながった部分がわざと残してある。
時間に余裕があるとき、この詩集のページを、ペーパーナイフで切りながら、開いては、白秋の詩を読む、というのが、自分の至福の時間である。
そうして、読んでいると、ときどき、どうしてだろうと疑問に思う。
紙の上に刷ってある、ただ、インクの線が並んでいるだけなのに、どうしてこんなに見ていると、いい気持ちになるのか、と、詩というものが、ほんとうに不思議な気がしてくる。
ああ、そして、願わくば、自分も「底の人」になりたいものだ、と思う。
(2013年1月25日)

著書
『こちらごみ収集現場 いちころにころ?』

『出版の日本語幻想』

『ポエジー劇場 子犬のころ2』

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1/24・不屈の多才、ホフマン

2013-01-24 | 文学
1月24日は、ドイツ幻想文学の巨匠、ホフマンの誕生日。
自分は若いころから幻想小説というジャンルが好きで、泉鏡花はもちろん、渋沢龍彦とか、ハウプトマンとか、あるいは、このホフマンなどを読んでいた。
ホフマンだと、『黄金の壺』『砂男』『スキュデリー嬢』『くるみ割り人形とねずみの王様』『ブランビラ姫』『牡猫ムルの人生観』などを読んだと思う。でも、昔のことで、いまとなっては内容はほとんど忘れてしまっている。
『黄金の壺』がとてもおもしろく、胸をドキドキさせて読んだことと、『スキュデリー嬢』は若い、深窓の令嬢が登場するのだろうと期待して読み進んでいったら、肩すかしをくらったのをよく覚えている。
ホフマン作品は、まず構想が奇想天外で、その文章に、読者にページをめくらせる腕力のようなものがあると思う。
知力とともに、体力を感じさせる作家である。
奇妙な味わいの『砂男』や、夏目漱石の『吾輩は猫である』の先駆『牡猫ムルの人生観』もいいけれど、自分としてはやはり『黄金の壺』をおすすめしたい。

エルンスト・テオドール・アマデウス・ホフマンは、1776年1月24日、プロイセン王国のケーニヒスベルクに生まれた。出身地は、いわゆる当時のドイツで、現在はロシア領となっている土地である。
法律家の家系に生まれたホフマンは、司法試験に合格し、裁判所の判事となった。転勤していった各地の法廷で、判事の仕事をこなしながら、絵画を描き、オペラを作曲してもいた。
30歳のとき、彼は妻子とともにワルシャワにいたが、そこへフランスのナポレオン軍が進駐してきた。
これによって、プロイセン行政府の役人はみな失職し、ホフマンもとうぜん失業した。
ホフマンは、妻子を縁者のもとに残し、単身ベルリンへでたが、そこもまたナポレオンの支配下にあり、ホフマンの生活は困窮した。
一文なしの彼は、友人に借金を重ね、それでもしばしば飢え死にしそうになった。そして、妻のもとにいた娘が亡くなったという報せを受けたのもこのころだった。どん底の時期である。
32歳のとき、彼は妻をともなってバンベルクへ引っ越し、そこで劇場の音楽指揮者の職についた。
33歳のとき、小説『騎士グルック』を発表し、これによってようやく運が開けてくる。
ホフマンは劇場の音楽の仕事のかたわら、文筆活動も活発におこなうようになる。
この時期にホフマンは彼のオペラの代表作「ウンディーネ」を作曲し、『黄金の壺』を書いている。
その後、音楽の仕事をやめたホフマンは、38歳のとき、ふたたび判事として働きはじめた。
そうして、法律関係の官僚として働きながら著述もつづけ、1882年6月、ベルリンで没している。46歳だった。

こうしてみると、ホフマンの人生は、彼の書いた小説のように幻想的で起伏に富んでいる。
13歳のとき起こったフランス革命のあおりで、社会状況が激変をつづけるなか、 しょっちゅう失業し、無一文の絶望的な状況に追い込まれたこともあった。
それでも、法律、音楽、また法律と業種を変えて働きながら、並行して旺盛な筆力でたくさんの作品を書き残した。
多才で、けっしてくじけない、前へ進む強い意志の人である。
たいした不屈の才人で、まったく、人間こうありたいものである。見習いたいと思います。
ちなみに、ホフマンの名前にある「アマデウス」は、天才音楽家アマデウス・モーツァルトへのオマージュとして、ホフマン自身が自分で付け加えたものだという。
(2013年1月24日)


著書
『出版の日本語幻想』

『ポエジー劇場 子犬のころ』

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1/23・パルムのスタンダール

2013-01-23 | 文学
1月23日は、フランスの作家、スタンダールの誕生日。
あの『恋愛論』『赤と黒』『パルムの僧院』の作者、スタンダール。「書いた、愛した、生きた」スタンダールである。
自分は、スタンダリアンではないけれど、『パルムの僧院』はもっとも好きな小説のひとつである。
小説というのは、結局『パルムの僧院』にとどめをさすのかもしれない、と、ときどき思う。
スタンダリアンの大岡昇平はもちろん、谷崎潤一郎も、小林信彦も、バルザックも、みんな『パルムの僧院』を絶賛している。
否、誰がほめているとかは関係なく、自分はあの小説が、どうしようもなくなつかしいのである。
ずっと以前、『パルムの僧院』を文庫本で読んで、とても感銘を受けた。
でも、長い話だし、ほかに読むべき本もたくさんあり、読み返すことはないだろう。万が一読み返したくなったとしても、これだけの世界的名作はかならずどこの図書館にも並んでいるから、借りにいけばいいのだから。と、そう考えて、引っ越しの際に、部屋に入りきらなくなった本といっしょくたにして古書店に売り払ってしまった。
でも、いざ、あの文庫本がないとなると、さびしい。
そんなにしょっちゅう読み返すわけでもないくせに、ないと思うと、さびしくてたまらない。
それで、また買って、本棚においてある。本の背をながめると、主要登場人物のファブリス、サンセヴェリーナ侯爵夫人、モスカ伯爵などのことを旧友のように思いだし、なつかしくなる。
谷崎潤一郎は、とくにモスカ伯爵の人物造形をほめていた。自分もモスカ伯爵は好きだけれど、やはりサンセヴェリーナ侯爵夫人の魅力がまぶしくてたまらない。

スタンダール(本名、マリ=アンリ・ベール)は、1783年1月23日、フランスのグルノーブルに生まれた。父親は弁護士だった。
フランス革命がはじまったのが、スタンダールが6歳のとき。
青年となったスタンダールは、陸軍に入り、ナポレオンのイタリア遠征に参加した後、退役。
官僚、ジャーナリスト、在イタリアのフランス領事などをしながら、小説や評論を書いた。
39歳のとき、『恋愛論』を発表。
47歳のとき『赤と黒』。
そして56歳のとき『パルムの僧院』を発表。
現在でこそ、スタンダールといえば世界文学の最高峰のひとつとして、全世界で読まれているが、スタンダールの生前は彼の本はまったく売れなかった。その売れなさかげんは、もう伝説的で、1年間で売れたのが3部とか、5部とか、それくらいの数字だったと、どこかで読んだことがある。
1842年3月、パリで没。59歳だった。
墓はパリのモンマルトルにあり、墓碑銘は
「ミラノ人アッリゴ・ベイレ 書いた 愛した 生きた」
と刻まれている。
生粋のフランス人なのだけれど、こよなくイタリアを愛し、イタリア人になりきりたかった人だった。

友人だったメリメによると、スタンダールは、そこに女性がいるのなら、とにかく口説いてみるのがすべての男にとっての義務である、と考え、それをつねに実行していた人物らしい。メリメも、好きな女性がいるなら、とにかく彼女をものにしたまえ、とけしかけられたという。(「スタンダール」『メリメ全集 6』河出書房新社)
この辺は、まさにイタリア人気質そのもので、スタンダールの異性に対する積極性がよくうかがえる挿話である。

ずっと昔、大学生だったころ、自分が所属していた西洋史学科の主任教授は、川口博教授というネーデルランド史の権威で、ヨーロッパ通の先生だった。
その先生に、自分はあるとき、こんな風に尋ねてみたことがある。
「先生、イタリアでは、男女のカップルがデートしていても、いつもべったりくっついて、しょっちゅうキスしていないといけなくって、ちょっとでも離れると、すぐにそこにいる男が『そいつよりおれのほうがいいぞ』と口説きはじめるというのは、ほんとうですか?」
友だちから聞いていたイタリア事情を、そのままぶつけてみたのだが、すると、先生は笑って、こういった。
「そうだなあ。イタリアには、きみみたいのが、たくさんおるからなあ」
スタンダールというと、そんなことも思いだされる。
(2013年1月23年)


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『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句』

『出版の日本語幻想』

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1/22・ロックの原点、バイロン

2013-01-22 | 文学
1月22日は、英国の詩人、バイロン卿の誕生日である。
自分は十代のころから、バイロンの詩が好きで、文庫本のバイロン詩集を買って読んでいた。
なにがよかったのか、いまふり返ってみると、その詩にひかれたというよりも、バイロンが若くして成功したスーパー・スターで、女性にもてまくっていたという事実に憧れていた部分が多分にある。
「ある朝目覚めると、わたしは自分が有名なのに気がついた」
とは、バイロン自身のことばで、彼こそは「元祖オーバー・ナイト・サクセス」。
そういう意味で、バイロン卿は、ブリティッシュ・ロック・スターの先駆者だった、と自分は思うのである。

ジョージ・ゴードン・バイロンは、1788年1月22日、英国ロンドンで生まれた。父親はノルマン系イングランド人の貴族で、母親はスチュワート王家の血をひくスコットランド名門貴族の家系。散財家だった父親は財産目当てに母親と結婚したといわれる。
バイロンの右足は先天性内反足、つまり、生まれつき足の部分が曲がっていて、歩くのが不自由だった。バイロンの肖像画が上半身だけのものが多く、全身が描かれていても右足先が隠されていたりするのは、このためだろう。
バイロンが生まれた翌年は、フランス革命がはじまった年で、このとき母親は彼を連れてスコットランドへ引っ越した。一方、父親は借金とりから逃れるために騒乱のフランスへ旅立ち、バイロンが3歳のときにフランスで没した。
6歳のとき、男爵であるバイロン家の相続人が、コルシカで戦死したため、ジョージが相続人となり、10歳のとき、大伯父の第5代バイロン卿が没し、ジョージは正式に第6代バイロン卿となった。
17歳でケンブリッジ大学に入学したバイロンは、高利貸しからお金を借りて遊びまわり、同性や異性との恋にふけり、また詩集をさかんに出版する学生となった。
21歳のとき、自分の詩集を酷評した批評家を、反対に批判し返す評論を出版し、英国を飛びだした。そうして2年近くをかけてバイロンは、ポルトガル、スペイン、マルタ島、ギリシア、アルバニア、コンスタンチノープルなど地中海沿岸を旅してまわる。旅のなかで、遺跡を訪ね、馬に乗り、海峡を泳いで渡り、さまざまな人々に出会い、恋をし、詩を書きつづけた。
23歳のとき、ロンドンへ帰郷。母親が没。
24歳のとき、旅の途中で書きためた詩集『チャイルド・ハロルドの巡礼』を出版。大反響を巻き起こし、一夜にしてバイロンは有名になった。
「ある朝目覚めると、わたしは自分が有名なのに気がついた」
(I awoke one morning and found myself famous.)
とは、このときのせりふである。
英国社交界の寵児となったバイロンは、さまざまな女性たちと浮名を流し、借金とりに追われたり、ヨーロッパを旅したりしながら、詩を書きつづけ、詩集『邪宗徒』『海賊』『ドン・ジュアン』などを出版した。
ギリシア独立革命に参加することを決意したバイロンは、35歳のとき、ギリシアに出発し、1824年、ギリシアの地で熱病にかかり、36歳で没した。

ゲーテも絶賛したロマン派詩人の代表格、バイロンは、その生きざまも激しくロマンティックなものだった。
バイロンについては昔からいろいろ本を読んでいて、自分は、彼の人生が、華やかな、楽しいばかりのものでなかったことを知っている。
経済面ではかなりきびしいものがあったし、精神的にきつかった時期もすくなくなかったことも承知している。
それでも、なるたけ波風を避けて、家族や親戚を大事にし、平穏無事で安楽な生涯を送るというよりは、バイロン卿のように、強い風に進んで身をさらし、周囲を波瀾に巻き込みながらも、なお自分を貫き、誇り高く生きる、そういう人生にひかれる。
あっちへふらふら、こっちへふらふらと生きてきた自分が、いまさらそういう人生を送れるか、というと、またむずかしいものがありそうだけれど、これでも、なるたけ保身に走らず、流されず、気高く生きようと努めてはいるのです。
自分は以前、バイロンの英語の全作品集をもっていた。けれど、いつのまにか、どこかへいってしまった。
それでも、まだ『チャイルド・ハロルドの巡礼』の英語版と、日本語口語訳版(これは京都の出版社に直接注文して入手した高価な本である)をもっている。
たまに開いては、すこしずつ読んでいる。

バイロン卿には、たくさん名言がある。
「事実は小説よりも奇なり」とは、よくいわれることばだけれど、あれもバイロン卿の詩句から。
「事実はつねに奇妙である。小説よりも奇妙である」
(Truth is always strange, stranger than fiction.)
あるいは、バイロン卿はこんなこともいっている。
「もしも書くことで頭のなかを空っぽにできなかったら、わたしは気が狂ってしまう」
(If I don't write to empty my mind, I go mad.)
そして、こんなことも。
「いつもできるだけ笑っていなさい。それは安上がりな薬ですよ」
(Always laugh when you can. It is cheap medicine.)
(2013年1月22日)

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