1月の末日31日は、作曲家、フランツ・シューベルトの誕生日(1797年)だが、いまひとりの偉大な音楽家、ジョン・ライドン(またの名をジョニー・ロットン)の誕生した日でもある。
伝説のパンク・ロック・バンド「セックス・ピストルズ」を率いた、あのジョニー・ロットンこと、ジョン・ライドンである。
ちなみに、ジョン・ライドンは、セックス・ピストルズのボーカリストだったころは、ジョニー・ロットン(「腐ったジョニー」の意味)と呼ばれていた。ピストルズを脱退して、ジョン・ライドンになった。
自分は、セックス・ピストルズが現役のバンドだったころ、リアルタイムでピストルズを聞いていた。
はじめてピストルズを見たときの衝撃はいまでも忘れない。
高校3年の或る日、テレビの海外情報番組で、最新のロンドンの音楽事情を紹介し、そのなかにピストルズの映像も入っていた。ピストルズが映っていたのは、ほんの10秒かそこらだったかもしれない。ただし、その10秒は、まさに衝撃的だった。
すでにセックス・ピストルズの名は耳にしてはいたが、その音も、動く映像もそれまで見たことがなかった。
「これが、うわさの……」というわけだが、見てみると、まさにうわさ以上だった。
翌日、学校へいくと、友人たちのあいだは、ピストルズの話でもちきりだった。
「見た? 昨日の」
「見た見た」
「すごかったなあ」
そういって、昨夜見たばかりのピストルズのジョニー・ロットンのまねをしたものだ。柄の長いほうきをもってきて、それをスタンドマイクに見立てて、歌うまねをする。
両手を重ねてマイクをにぎり、マイクスタンドにすがりつくように、足をふらつかせ、腰をよろめかせながら、目と歯をむき出して、憎々しげに歌う。ジョニーのスタイルは斬新だった。
そして、一語一語の音を誇張して抑揚をつけ、ドイツ人のような巻き舌で歌う英語も特徴的だった。
一週間後には、ピストルズのファースト・アルバム「勝手にしやがれ」を、自分はレコード屋で買って聴いていた。
ほんとうは誰か友だちが買って、貸してくれないかな、と期待していたのだが、誰も買わないので、自分で学校帰りにレコード屋へ寄り、お小遣いをはたいて買ったのだ。
レコードにはじめて針を落とすと、軍靴の行進のような音につづいて、バスドラムが刻まれだし、ものすごくやかましいギターが鳴りはじまった。
あの騒音的なサウンドも衝撃的だった。
ピストルズ以降、デス・メタルとか、インダストリアルとか、もっと騒音じみたロック・ミュージックがでてきたから、いま聴き返してみると穏やかなものだけれど、当時は前代未聞の騒音ミュージックだった。
でも、ピストルズの楽曲には、ちゃんと美しいメロディーがあり、歌詞がていねいに歌われていて、ただの騒音とはまったくちがうものではあった。
ジョン・ライドンは、1956年1月31日、英国ロンドンで、貧しいアイルランド移民の息子として生まれた。
アイルランド系と、ジャマイカ系の貧しい層が暮らす、犯罪の多い地区で育った。
7歳のころ、ジョンは髄膜炎をわずらい1年ほど入院した。その期間、幻覚や吐き気、頭痛に悩まされつづけたという。
学校へ通うようになったジョンは、ひじょうに恥ずかしがりで内気な少年で、体罰がこわくて、授業中「トイレに生きたい」と言いだせず、ズボンのなかに便をもらして、そのまま一日中がまんしていたこともあったという。
19歳のとき、ジョンは、ピンク・スロイドのTシャツに、自分で「おれは嫌いだ」と書き足したものを着ていて、スカウトされ、セックス・ピストルズのボーカリストとなった。
ピストルズは、企画され、メンバーを募集し、作られたバンドである。
ジョンは、ボイス・トレーニングのレッスンに通い、スタジオで練習を重ねた後、20歳のとき、ロック・バンド「セックス・ピストルズ」としてデビュー。その荒々しい演奏スタイルと音楽、反体制的な歌詞で、圧倒的な注目を集めた。
21歳のとき、ピストルズのデビューアルバム「勝手にしやがれ」発表。
収録された楽曲は、これでもかという煽情的、反抗的な歌詞のオンパレードで、作詞はすべてジョニー・ロットン(ジョン・ライドン)による。
シングルカットされた楽曲「アナーキー・イン・ザ・UK」のなかで、ジョンは、
「おれは反キリストだ。おれは無政府主義者だ」と叫び、
同じくシングルカットされた「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」のなかで、
「英国の夢に未来ない。おまえたちに未来はない」と歌い、物議をかもした。
ゲリラライブを敢行し、逮捕されたこともある。
ジョンが歌う反体制的な歌詞は、右翼や保守派の人々を怒り狂わせ、ジョンはロンドンの街を歩いていて、ナイフで切りつけられたり、ナタでひざを割られたりしたこともあったらしい。
当時、パンクといえば、ピストルズであり、ピストルズがパンクだった。
しかし、ピストルズは短命だった。
バンドが米国ツアー中の1978年、ジョンが、22歳になる直前、バンドからの脱退を宣言。バンドは空中分解してしまう。
脱退してジョン・ライドンとなった彼は、パブリック・イメージ・リミテッド(PiL)を結成。パンク・バンド時代とはまったくちがった、斬新な音楽性を追求しだした。
青春の季節にリアルタイムで聴いていた音楽は、いつまでたっても「いいもの」で、ピストルズやPiLは自分にとって、まさにそれである。
昔、レコードで聴いていたピストルズやPiLの楽曲を、いまでもCDで聴いている。
ピストルズの「勝手にしやがれ(原題は『安心しろ、キンタマ』といった意味である)」は、いま聴いても、
「いいなあ」
と思うし、PiLのアルバム「メタル・ボックス」や「ライブ・イン・東京」は、
「やっぱり時代を10年から15年は先取りしたセンスだったよなあ」
とうなってしまう。
ロックとは、反抗的なものである。
パンクとは、反体制的なものである。
そのことを、強烈に意識的にアピールして、ほんとうに反抗するのではなく、そういうイメージをもつ商品として売り出していったのがピストルズで、その役割にぴたりとはまり、才能を遺憾なく発揮したパンク・ロックのヒーローが、ジョン・ライドンだったのだと思う。
しかし、聴衆の多くは、それを商業上の営業戦略だとは受けとらず、熱狂したり憎悪したりした。
それがピストルズのねらいだったのだから、憎まれてとうぜんといえば、とうぜんではあったが。
いずれにせよ、ジョンは見た目とちがって、とても知的でクールな男なのである。
それにしても、年齢というのは残酷だ。
かつて、獣のようにしなやかなからだつきをしていた「ジュリー」こと沢田研二が、いつしか志村けんと変わらない体型になってしまったように、ジョン・ライドンももはや往年のヒョウのようなしなやかさは失ってしまった。
ヒストルズ時代のジョニー・ロットンは、ほんとうにかっこよかった。
(2013年1月31日)
著書
『ポエジー劇場 ねむりの町』
『ポエジー劇場 天使』
『ポエジー劇場 子犬のころ』
『ポエジー劇場 大きな雨』
伝説のパンク・ロック・バンド「セックス・ピストルズ」を率いた、あのジョニー・ロットンこと、ジョン・ライドンである。
ちなみに、ジョン・ライドンは、セックス・ピストルズのボーカリストだったころは、ジョニー・ロットン(「腐ったジョニー」の意味)と呼ばれていた。ピストルズを脱退して、ジョン・ライドンになった。
自分は、セックス・ピストルズが現役のバンドだったころ、リアルタイムでピストルズを聞いていた。
はじめてピストルズを見たときの衝撃はいまでも忘れない。
高校3年の或る日、テレビの海外情報番組で、最新のロンドンの音楽事情を紹介し、そのなかにピストルズの映像も入っていた。ピストルズが映っていたのは、ほんの10秒かそこらだったかもしれない。ただし、その10秒は、まさに衝撃的だった。
すでにセックス・ピストルズの名は耳にしてはいたが、その音も、動く映像もそれまで見たことがなかった。
「これが、うわさの……」というわけだが、見てみると、まさにうわさ以上だった。
翌日、学校へいくと、友人たちのあいだは、ピストルズの話でもちきりだった。
「見た? 昨日の」
「見た見た」
「すごかったなあ」
そういって、昨夜見たばかりのピストルズのジョニー・ロットンのまねをしたものだ。柄の長いほうきをもってきて、それをスタンドマイクに見立てて、歌うまねをする。
両手を重ねてマイクをにぎり、マイクスタンドにすがりつくように、足をふらつかせ、腰をよろめかせながら、目と歯をむき出して、憎々しげに歌う。ジョニーのスタイルは斬新だった。
そして、一語一語の音を誇張して抑揚をつけ、ドイツ人のような巻き舌で歌う英語も特徴的だった。
一週間後には、ピストルズのファースト・アルバム「勝手にしやがれ」を、自分はレコード屋で買って聴いていた。
ほんとうは誰か友だちが買って、貸してくれないかな、と期待していたのだが、誰も買わないので、自分で学校帰りにレコード屋へ寄り、お小遣いをはたいて買ったのだ。
レコードにはじめて針を落とすと、軍靴の行進のような音につづいて、バスドラムが刻まれだし、ものすごくやかましいギターが鳴りはじまった。
あの騒音的なサウンドも衝撃的だった。
ピストルズ以降、デス・メタルとか、インダストリアルとか、もっと騒音じみたロック・ミュージックがでてきたから、いま聴き返してみると穏やかなものだけれど、当時は前代未聞の騒音ミュージックだった。
でも、ピストルズの楽曲には、ちゃんと美しいメロディーがあり、歌詞がていねいに歌われていて、ただの騒音とはまったくちがうものではあった。
ジョン・ライドンは、1956年1月31日、英国ロンドンで、貧しいアイルランド移民の息子として生まれた。
アイルランド系と、ジャマイカ系の貧しい層が暮らす、犯罪の多い地区で育った。
7歳のころ、ジョンは髄膜炎をわずらい1年ほど入院した。その期間、幻覚や吐き気、頭痛に悩まされつづけたという。
学校へ通うようになったジョンは、ひじょうに恥ずかしがりで内気な少年で、体罰がこわくて、授業中「トイレに生きたい」と言いだせず、ズボンのなかに便をもらして、そのまま一日中がまんしていたこともあったという。
19歳のとき、ジョンは、ピンク・スロイドのTシャツに、自分で「おれは嫌いだ」と書き足したものを着ていて、スカウトされ、セックス・ピストルズのボーカリストとなった。
ピストルズは、企画され、メンバーを募集し、作られたバンドである。
ジョンは、ボイス・トレーニングのレッスンに通い、スタジオで練習を重ねた後、20歳のとき、ロック・バンド「セックス・ピストルズ」としてデビュー。その荒々しい演奏スタイルと音楽、反体制的な歌詞で、圧倒的な注目を集めた。
21歳のとき、ピストルズのデビューアルバム「勝手にしやがれ」発表。
収録された楽曲は、これでもかという煽情的、反抗的な歌詞のオンパレードで、作詞はすべてジョニー・ロットン(ジョン・ライドン)による。
シングルカットされた楽曲「アナーキー・イン・ザ・UK」のなかで、ジョンは、
「おれは反キリストだ。おれは無政府主義者だ」と叫び、
同じくシングルカットされた「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」のなかで、
「英国の夢に未来ない。おまえたちに未来はない」と歌い、物議をかもした。
ゲリラライブを敢行し、逮捕されたこともある。
ジョンが歌う反体制的な歌詞は、右翼や保守派の人々を怒り狂わせ、ジョンはロンドンの街を歩いていて、ナイフで切りつけられたり、ナタでひざを割られたりしたこともあったらしい。
当時、パンクといえば、ピストルズであり、ピストルズがパンクだった。
しかし、ピストルズは短命だった。
バンドが米国ツアー中の1978年、ジョンが、22歳になる直前、バンドからの脱退を宣言。バンドは空中分解してしまう。
脱退してジョン・ライドンとなった彼は、パブリック・イメージ・リミテッド(PiL)を結成。パンク・バンド時代とはまったくちがった、斬新な音楽性を追求しだした。
青春の季節にリアルタイムで聴いていた音楽は、いつまでたっても「いいもの」で、ピストルズやPiLは自分にとって、まさにそれである。
昔、レコードで聴いていたピストルズやPiLの楽曲を、いまでもCDで聴いている。
ピストルズの「勝手にしやがれ(原題は『安心しろ、キンタマ』といった意味である)」は、いま聴いても、
「いいなあ」
と思うし、PiLのアルバム「メタル・ボックス」や「ライブ・イン・東京」は、
「やっぱり時代を10年から15年は先取りしたセンスだったよなあ」
とうなってしまう。
ロックとは、反抗的なものである。
パンクとは、反体制的なものである。
そのことを、強烈に意識的にアピールして、ほんとうに反抗するのではなく、そういうイメージをもつ商品として売り出していったのがピストルズで、その役割にぴたりとはまり、才能を遺憾なく発揮したパンク・ロックのヒーローが、ジョン・ライドンだったのだと思う。
しかし、聴衆の多くは、それを商業上の営業戦略だとは受けとらず、熱狂したり憎悪したりした。
それがピストルズのねらいだったのだから、憎まれてとうぜんといえば、とうぜんではあったが。
いずれにせよ、ジョンは見た目とちがって、とても知的でクールな男なのである。
それにしても、年齢というのは残酷だ。
かつて、獣のようにしなやかなからだつきをしていた「ジュリー」こと沢田研二が、いつしか志村けんと変わらない体型になってしまったように、ジョン・ライドンももはや往年のヒョウのようなしなやかさは失ってしまった。
ヒストルズ時代のジョニー・ロットンは、ほんとうにかっこよかった。
(2013年1月31日)
著書
『ポエジー劇場 ねむりの町』
『ポエジー劇場 天使』
『ポエジー劇場 子犬のころ』
『ポエジー劇場 大きな雨』