1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

7月21日・ヘミングウェイの熱狂

2021-07-21 | 文学
7月21日は、「メディアはメッセージだ」と言ったマクルーハンが生まれた日(1911年)だが、米国の文豪、アーネスト・ヘミングウェイの誕生日でもある。

アーネスト・ミラー・ヘミングウェイは、1899年、米国イリノイ州のオークパークで生まれた。父親は医者で、母親はピアノと声楽の教師だった。開業医の父親より、母親のほうが収入が断然多かったらしい。アーネストは6人きょうだいの上から2番目で、ひとつ上の姉と双子のように育てられた。小さいころは服装から髪形まで同じ女の子風で、同じ高校に姉弟いっしょに入学し、同時に卒業した。後にハードボイルドな文体で知られたこの肉体派作家が、女の子のように育てられたのである。自然のなかで釣り、狩猟に親しんだアーネストは、10歳の誕生日のとき、父親から猟銃をプレゼントされた。
18歳の年に高校を卒業したヘミングウェイは、血気盛んな若者で、第一次大戦に従軍したくてうずうずしていたが、父親に反対され、新聞記者になった。しかし、半年後には退社し、イタリア軍付きの赤十字要員として、ヨーロッパ戦線へ出た。死体の収容や兵員への食料支給をしていて砲撃にあい負傷。入院療養した後、今度はイタリア軍に参加した。
20歳で復員した後、カナダのトロントで雑誌の編集をしていたが、22歳のとき、新聞社の特派員としてふたたび渡欧。パリで美術収集家のガートルード・スタインと出会い、彼女の指導を受けながら、文章修行を積み、小説家を目指した。ガートルード・スタインは、小説執筆について、ヘミングウェイにこう諭したという。
「もっと話の展開を早く。小説は作者が意見を言うためのものではない」
26歳のとき、短編集『われらの時代に』を出版。
27歳のとき、長編第一作『日はまた昇る』を発表。簡潔でスピード感のあるハードボイルドな文体で「失われた世代」の代表作家として一躍脚光を浴びた。
スペイン内乱や、第二次世界大戦に際しても、特派員として戦地に渡り、記者の立場を越えて戦争に積極的に参加し、その経験を生かして『武器よさらば』『誰がために鐘は鳴る』『老人と海』などを書き、ノーベル文学賞を受賞した。
晩年はノイローゼに悩み、1961年7月、アイダホ州ケッチャムの自宅で死亡した。7月2日の朝、二階で眠っていた夫人が銃声に驚いて階下へ下りると、階段の下で、ヘミングウェイは猟銃の弾によって顔全体がふっとんだ姿で倒れていたのだった。自殺とされる。

拙著『名作英語の名文句』で『老人と海』をとり上げた。けれど、ヘミングウェイでいちばん好きなのは『日はまた昇る』である。この原題は、The Sun Also Rises で、本来『日もまた昇る』である。『日はまた昇る』なら、The Sun Rises Again である。でも、邦題『日はまた昇る』は名訳である。この作品の終わりで、ヒロインのブレットが、語り手である「ぼく」にこう話しかける。
「『おお、ジェイク』とブレットは言った。『わたしたち、いっしょにもっとすごくいい時を過ごすこともできたんじゃないかしら?』('Oh, Jake,' Brett said,'we could have had such a damned good time together.')」
すると、「ぼく」はこう返す。
「『そうだね』とわたしは言った。『そう考えるのは、美しくないかい?』('Yes.' I said.'Isn't it pretty to think so?')」(Ernest Hemingway, The Sun Also Rises, Arrow Books)
このくだりが好きで、読めばたちまち、胸にスペインの太陽と熱狂がこみあげてくる。
(2021年7月21日)



●おすすめの電子書籍!

『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句』(越智道雄選、金原義明著)
「老人と海」「風と共に去りぬ」から「ハリー・ポッター」まで、英語の名作の名文句(英文)をピックアップして解説。英語ワンポイン・レッスンを添えた新読書ガイド。


●電子書籍は明鏡舎。
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7月20日・アン・ハッチンソンの受難

2021-07-20 | 思想
7月20日は、ビデオ芸術家のナム・ジュン・パイクが生まれた日(1932年)だが、異端審問を受けた女性思想家アン・ハッチンソンの誕生日でもある。

アン・ハッチンソンは、1591年、英国イングランドのリンカンシャー州アルフォードで生まれた。出生時の名は、アン・マーベリー。父親は英国国教会の牧師で、教会批判により二年間監獄に入っていた経歴の持ち主だった。彼女が14歳のとき、一家はロンドンへ引っ越した。そして、21歳のとき、彼女は織物商人のウィリアム・ハッチンソンと結婚し、アン・ハッチンソンとなった。彼ら新婚夫婦は、故郷アルフォードに新居をもったが、そのころ近くの街にジョン・コットンという牧師がいて、ハッチンソン夫妻は馬車を走らせては彼の説教を聞きにいった。コットン神父は、信仰心こそ大切で、現在の教会の形骸化し堕落した礼拝儀式は改革する必要があると、ピューリタン(清教徒)の主張を説いた。

ジョン・ウィンスロップが新大陸へ渡る船上で「丘の上の町(city upon a hill)」の説教をおこなった4年後の1634年、ジョン・コットン牧師は迫害から逃れて新大陸アメリカへ渡り、アンたちも師の後を追って船に乗った。

 マサチューセッツの植民地に着いた43歳のアンは、家に人を集めて、聖書を研究し、キリスト教の教義について議論する会を開いた。自由に発言し、意見を交換しあうこの集いは評判を呼び、参加者は80人ほどにふくれあがった。
 植民地のピューリタン教会は、律法と労働の必要を神の御心に沿う道として説いたが、アンは神の恩寵を信じる信仰心だけが魂を救う道だとして教会側に反発した。聖職者たちは彼女と議論したが、聖書を精読している彼女に逆に言い負かされてしまった。
 教会の聖職者たちは、植民地のジョン・ウィンスロップ知事にこれを訴え、ハッチンソンの異端裁判が開かれた。46歳の彼女は妊娠中だったが、ウィンスロップを議長とする法廷は、連日彼女を呼びだしては長時間立たせたまま尋問を浴びせた。
公の場でなく、自宅での発言をとらえて有罪とするのは明らかに無理があり、彼女は聖書を引用しつつ、みごとな弁護をおこなったが、結局、彼女は聖職者たちを侮辱したという罪を押しつけられた。彼女はこう言い放った。
「あなたたちがわたしをどう遇したか思い出すがいい。わたしに何をしようとしているかも。神は滅ぼすだろう、あなたがた、あなたがたの子孫、そしてこの国のすべてを」
彼女は植民地からの追放を言い渡され、続いて開かれた教会側による宗教裁判により、彼女のピューリタン教会からの破門が決まった。
 マサチューセッツの植民地から追放されたハッチンソンは、支持者のつてで、現在のロードアイランド州ナラガンセット湾のポーツマスに移り住んだ。お腹の子どもは、胞状奇胎で生まれず、彼女はその冬じゅうを頭痛と嘔吐で苦しみながら臥せってすごした。このニュースを聞いたマサチューセッツの人々は、おおいに喜んだという。
 その後、夫が没すると、未亡人となったアンはポーツマスを離れ、51歳のとき、現在のニューヨーク市のブロンクスに腰を落ち着けた。そこは当時、ニューネーデルランドと呼ばれていて、侵略者ネーデルランド側と、地元民ネイティブ・アメリカンとの抗争事件が絶えない地域だった。引っ越した翌年1643年8月、ハッチンソンたちが住む集落に、ネイティブ・アメリカンによる襲撃があり、そこにいたアン・ハッチンソンとその子どもたちは、末の娘を除いてすべて殺された。アン・ハッチンソン、享年52歳だった。
 考えを正直に発言した、ただそのことによって歴史に名を残した女性である。
(2021年7月20日)



●おすすめの電子書籍!

『女性解放史人物事典 ──フェミニズムからヒューマニズムへ』(金原義明)
平易で楽しい「読むフェミニズム事典」。女性の選挙権の由来をさぐり、自由の未来を示す知的冒険。アン・ハッチンソン、メアリ・ウルストンクラフトからマドンナ、アンジェリーナ・ジョリーまで全五〇章。人物事項索引付き。フェミニズム研究の基礎図書。また女性史研究の可能性を見通す航海図。


●電子書籍は明鏡舎。
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7月19日・黒沢清のラスト

2021-07-19 | 映画
7月19日は、「踊り子」の画家エドガー・ドガが生まれた日(1834年)だが、映画監督、黒沢清の誕生日でもある。

黒沢清は、1955年、兵庫県神戸で生まれた。高校時代から映画を撮っていた黒沢は、東京の大学に進み、蓮實重彦の映画表現論を受講し、強い影響を受けた。長谷川和彦監督の名作「太陽を盗んだ男」や、相米慎二監督の話題作「セーラー服と機関銃」に関わった後、28歳のとき、ピンク映画「神田川淫乱戦争」で監督デビュー。
以後、「CURE」「大いなる幻影」「カリスマ」「回路」「アカルイミライ」「ドッペルゲンガー」「叫」「トウキョウソナタ」「リアル~完全なる首長竜の日~」「岸辺の旅」「スパイの妻」などを発表。東京芸術大学の大学院映像研究科教授でもある。

現代では「世界のクロサワ」とは、黒沢清のことである。
はじめて観た黒沢清作品は世評高い「CURE」だった。とても怖いサイコ・スリラーなのだけれど、全編になんともいえない緊張感とうっ屈した思いが満ちていて、
「こんな作り手の息づかいを感じさせる映画を撮る監督が日本にもいたのか」
と衝撃を受けた。

「CURE」は、印象に残る名シーンが多い作品で、自分はとくにラストシーンにしびれた。主演の役所広司が黙々とご飯を食べつづけるシーンなのだけれど、あの画面全体からあふれこぼれてくる不穏な緊張感といったらなかった。映画というのは、こんなこともできるのかと感服した。このラストは、世界の映画監督たちに影響を与えた。

黒沢作品の「大いなる幻影」や「回路」には、映画には出て来ない隠された仮定があるそうで、時代は近未来で、ユーラシア大陸は戦争などひどい状況になっていて、その端にある島国、日本は世界から落ちこぼれ、忘れ去られている存在、という隠し前提の上にストーリーが組み立てられているのだという。

黒沢作品「トウキョウソナタ」の、日本人が日本を防衛してくれている米国軍兵士に志願して入隊していくという近未来の事態にも驚かされた。あの仮定は、いまなお衝撃的であり続けている。
「トウキョウソナタ」のラストシーンも、「CURE」とはまたちがった意味で忘れがたい名場面で、そうやって考えていくと、黒沢清という監督は、基本的には「ホラーの監督」ととらえられているようだけれど、実は「ラストシーンの監督」と言うべきなのかもしれない。いずれにせよ、恐るべき感性の人である。
(2021年7月19日)



●おすすめの電子書籍!

『映画監督論』(金原義明)
古今東西の映画監督30人の生涯とその作品を論じた映画人物評論集。人と作品による映画史。チャップリン、エイゼンシュテイン、溝口健二、ウォルト・ディズニー、ハワード・ヒューズ、ヴィスコンティ、黒澤明、パゾリーニ、アラン・レネ、ゴダール、トリュフォー、宮崎駿、ベルトリッチ、北野武、黒沢清……などなど監督論30本を収録。映画人たちの人生を通して「映画を観ることの意味」に迫り、百年間の映画史を総括する知的追求。映画ファン必読の「シネマの参考書」。



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7月18日・リチャード・ブランソンの冒険

2021-07-18 | ビジネス
7月18日は、反アパルトヘイトの英雄ネルソン・マンデラが生まれた日(1918年)だが、ヴァージン・グループの総帥リチャード・ブランソンの誕生日でもある。

サー・リチャード・チャールズ・ニコラス・ブランソンは、1950年、英国ロンドンで生まれた。祖父は裁判所の判事、父親は法廷弁護士という司法一家だった。
リチャードは、ディスレクシア(失読症)で、学業にはまったく興味を示さず、16歳で学校を中退し、商売をはじめた。
16歳のブランソンがはじめたのは、雑誌「ザ・スチューデント」を発行して、そこに広告を載せて、郵便による注文でレコードを売るという通信販売で、これが大成功した。彼は自分の会社を「ヴァージン」と命名し、ロンドンの通りにレコード店をだした。この店も繁盛したが、税金問題で当局の追及を受け、危機におちいった。このときは、追加超税額や罰金を支払うために、リチャードの母親がローンを組んで現金を捻出し息子を援助したという。
リチャードが20歳のとき、レコード・レーベル「ヴァージン・レコード」を立ち上げ、アーティストをレコード・デビューさせた。マイク・オールドフィールド、セックス・ピストルズ、カルチャー・クラブなど、ウァージンと契約したアーティストたちは大ブレイクし、ヴァージンはまたたく間に巨大になった。
34歳のとき、ヴァージン・アトランティック航空を設立し、リースのジェット機を1機購入し、ロンドン=ニューヨーク間に就航させた。その後、機体数、路線数を増やしていき、ヨーロッパのヴァージン・エキスプレス、オーストラリアのヴァージン・ブルー、米国のヴァージン・アメリカなど、格安航空会社を各国につぎつぎに設立した。
彼の事業欲はとどまらず、航空業界のほか、携帯電話、「ヴァージン・コーラ」の飲料水、「ヴァージン・シネマズ」の映画館、「ヴァージン・ギャラクティック」の宇宙旅行事業など、さまざまな異業種へ参入した。
事業家として活躍する一方で、みずから熱気球に乗り込んで太平洋横断に挑む冒険家としても知られ、57歳の年には、「ヴァージン・アース・チャレンジ」賞を創設し、科学と技術分野の功績を顕彰するなど、いよいよグローバルに活躍の幅を広げている。

ビジネス成功者として、リチャード・ブランソンほどかっこいい実業家はなかなかいない。川に浮かべたボートに住んで、そこから指示を出し、気球で冒険旅行をし、コーラから航空会社にまで事業を広げた。

その昔は「英国病」などと言われたもので、英国は景気が悪く、音楽業界以外はパッとしなかった。多くの人々が失業したままでいたり、長引く貧困に甘んじていた。でも「揺りかごから墓場まで」の福祉があって、発奮しなくても、国が食べさせてくれるのだった。そこへ登場したのが、マーガレット・サッチャー首相であり、リチャード・ブランソンだった。ブランソンは言っている。
「ビジネスの世界で、ひとつだけたしかなことがある。それは、あなたを含めて、誰もがかならずミスを犯すだろうということだ。(One thing is certain in business. You and everyone around you will make mistakes.)」(Brainy Quote)
(2019年7月18日)



●おすすめの電子書籍!

『ビッグショッツ』(ぱぴろう)
伝記読み物。ビジネス界の大物たち「ビッグショッツ」の人生から、生き方や成功のヒントを学ぶ。フェイスブックのマーク・ザッカーバーグ、ソフトバンクの孫正義から、デュポン財閥のエルテール・デュポン、ファッション・ブランドのココ・シャネル、金融のJ・P・モルガンまで、古今東西のビッグショッツ30人を収録。大物たちのドラマティックな生きざまが躍動する。


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7月17日・ガードナーの腕

2021-07-17 | 文学
7月17日は、『ビルマの竪琴』を書いた竹山道雄が生まれた日(1903年)だが、推理作家、ガードナーの誕生日でもある。「弁護士ペリー・メイスン」シリーズの作者である。

アール・スタンリー・ガードナーは、1889年、米国マサチューセッツ州モールデンで生まれた。父親は鉱山技師で、アールは子どものころ、転勤する父親に連れられて、カナダを含む北米各地を転々とした。しだいに荒くれ者の若者となったアールは、違法の賭けボクシングの興行を開いたりしていたが、そのなかで、生きていく上で法律の知識が役立つことに気がついた。
カリフォルニア州の高校を卒業したアールは、インディアナ州の大学のロースクールに入学した。が、一カ月で退学した。その後、カリフォルニアの法律事務所にタイピストとして就職し、働きながら法律を独学し、22歳のときに司法試験に合格、弁護士となった。
駆け出し時代には弁護士稼業をいったんやめ、べつの商売をしていたこともあったが、ふたたび法律事務所に勤め出したガードナーは、今度は弁護士として働きながら、法律の知識を生かした犯罪小説、推理小説を書きだした。
ひと晩に4000語という猛烈なスピードで彼は短編を書きまくり、ざら紙に刷った安いパルプ雑誌に30以上のキャラクターを送り出し、大不況時代まっただなかの43歳のころには、全米でもっとも成功した作家のひとりとなっていた。ガードナーは言う。
「わたしはお金をのために書く。そして、読者を純粋に楽しませるために書く」
44歳のとき、ハードボイルドな弁護士「ペリー・メイスン」を主人公とした初の長編小説『ビロードの爪』を発表。この「ペリー・メイスン」シリーズの成功により、彼は弁護士の仕事をやめ、45歳のころから以後推理小説作家の仕事に専念するようになった。
ガードナーは多作の作家で、「ペリー・メイスン」シリーズだけでも80編、それ以外のミステリーが40編以上、ノンフィクションが十数編、それと短編が450編はあるという。
1970年3月、カリフォルニア州テメキュラにて没。80歳だった。彼の遺体は荼毘に付され、灰は、メキシコの バハ・カリフォルニアにまかれた。

その昔「弁護士ペリー・メイスン」という米国製のテレビ場組が日本で放送され、とても人気を博していた。当時は、病気で困ったらベン・ケーシーに頼め、裁判沙汰ならペリー・メイスンに頼め、というのが日本人の合いことばだった。

ペリー・メイスンものをはじめて読んだのは、小学校6年生のときだった。最近は日本でも、法廷審理を派手に演出したテレビ番組が作られているけれど、日本の法廷では、法廷内を動きまわり、派手な身ぶりや劇場的な言いまわしをすることはあり得ない。しかし、米国だと、いいか悪いかはべつにして、法廷がだいぶ劇場的要素を帯びてくる。それは陪審員制度があるからである。これを見せ場としたのが、ガードナーだった。

ガードナーは言っている。
「生まれつき、わたしは楽天主義者ではない。わたしとしては、そうであるかのように振る舞おうとしてはいるのだけれど」(By nature, I am not an optimist, though I try to act as if I am. Howard Gardner)
(2021年7月17日)



●おすすめの電子書籍!

『世界文学の高峰たち 第二巻』(金原義明)
世界の偉大な文学者たちの生涯と、その作品世界を紹介・探訪する文学評論。サド、ハイネ、ボードレール、ヴェルヌ、ワイルド、ランボー、コクトー、トールキン、ヴォネガット、スティーヴン・キングなどなど三一人の文豪たちの魅力的な生きざまを振り返りつつ、文学の本質、創作の秘密をさぐる。読書家、作家志望者待望の書。


●電子書籍は明鏡舎。
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7月16日・松本隆の詞

2021-07-16 | 音楽
7月16日は、南極点に到達した探検家アムンゼンが生まれた日(1872年)だが、作詞家、松本隆の誕生日でもある。「白いパラソル」「風立ちぬ」「赤いスイートピー」「渚のバルコニー」「秘密の花園」「制服」の詞を書き、松田聖子のイメージを創った人である。

松本隆は、1949年、東京都で生まれた。父親は大蔵省の役人だった。隆は小学校は公立、中学から大学までを慶応義塾で通した。高校時代からバンドを組んで、音楽コンテストに出場していた。
18歳のとき、ベーシストの細野晴臣と知り合い、20歳の年に、彼ら二人は大瀧詠一、鈴木茂を加えて、日本語で歌うロックバンド「はっぴいえんど」を結成した。松本は作詩とドラムを担当した。細野晴臣が、こう言ってすすめたという。
「松本は本を読んでるから、詞を書いたら」
23歳での「はっぴいえんど」解散後は、歌謡曲の作詞家となり、アイドル歌手に歌詞を提供。この転身について松本は、三島由紀夫の割腹自殺と、連合赤軍のあさま山荘事件を見て、衝撃を受け、こう考えたためだと言っている。
「時代は変わる。じゃあ、作詞家になろうかな」(『松本隆対談集 KAZEMACHI CAFE』ぴあ)
ロックから歌謡曲に引っ越した松本は、昔つきあいのあった細野、大瀧、松任谷由実らを歌謡曲の世界へ引っぱり込みつつ、ヒット曲を連発し、日本の音楽シーンでもっとも成功した作詞家のひとりとなった。作詞した楽曲に「ポケットいっぱいの秘密」「木綿のハンカチーフ」「東京ららばい」「セクシャルバイオレットNo.1」「スニーカーぶる~す」「君は天然色」「ルビーの指環」「冬のリヴィエラ」「硝子の少年」などがある。

松本隆がはじめて歌謡曲の作詞をしたのは、アグネス・チャンの「ポケットいっぱいの秘密」で、この歌詞に彼は或る仕掛けを忍ばせていた。
「あなた草の上
 ぐっすり眠ってた
 寝顔やさしくて
 好きよってささやいたの」(松本隆『風街詩人』新潮文庫)
各行の頭の一音を並べると「アグネス」となる。王朝時代の伊達男、在原業平が「唐衣きつつなれにしつましあれば……」と、和歌に「かきつばた」を歌いこんだ技巧の現代歌謡曲版で、松本はひそかにヒット曲にこういう遊びを忍ばせた。

松本隆は、ひとつの曲を或るイメージで統一するのが上手で、それはたとえば「海」「渚」「水着」「ディンギー」「マーメイド」といったことばをちりばめた「海のイメージ」。あるいは、「月明かり」「三日月」「夜」「秘密」「人目を盗んで」といった「夜の密会イメージ」。
そうやって、曲ごとに或るイメージを敷いておいて、聴く者を安心させ、そこへいろいろなくすぐりを入れてくる。「海に咲くユリ」「裸足のマーメイド」「赤いスイートピー」といった矛盾した語句である。ユリは一般に山に育つ植物で、マーメイド(人魚)には足がなく、当時、スイートピーには赤の種類はなかった。(その後、品種改良により赤いスイートピーができたらしい)

松本隆は言っている。
「書き言葉の場合、理解への到達の手段として繰り返し読むという事態が生ずる。しかし歌にあっては、理解が最終目標でなく、繰り返し聞き、繰り返し歌うということにこそ、その快楽が存在してくるのだ。」(『風街詩人』同前)
(2021年7月16日)



●おすすめの電子書籍!

『デヴィッド・ボウイの思想』(金原義明)
デヴィッド・ボウイについての音楽評論。至上のロックッスター、ボウイの数多ある名曲のなかからとくに注目すべき曲をとりあげ、そこからボウイの方法論、創作の秘密、彼の思想に迫る。また、ボウイがわたしたちに贈った遺言、ラストメッセージを明らかにする。ボウイを真剣に理解したい方のために。


●電子書籍は明鏡舎。
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7月15日・レンブラントの美

2021-07-15 | 美術
7月15日はプロレスラー、ミル・マスカラスが生まれた日(1942年)だが、至上の画家、レンブラントの誕生日でもある。

至上の画家レンブラント・ハルメンス・ファン・レインは、1606年、ネーデルランド(オランダ)のライデンで生まれた。父親は製粉屋だった。
小さいころから将来を嘱望されたレンブラントは、きょうだいたちが家業を手伝うなか、7歳でラテン語学校に入り、14歳のときにはライデン大学に入学した。しかし、本人は学業には興味がなく、半年ほどで大学をやめ、画家に弟子入りした。
19歳のときには画家として独立し、友人といっしょにアトリエを開いた。肖像画の注文を受けて描き、その評判はたちまち高まり、弟子たちを抱える画家の頭領となった。
25歳のときに、アムステルダムへ移り、28歳の年に、裕福な名門の子女、サスキアと結婚。この結婚により、レンブラントは上流階級とのつながりを得、また最高のモデルと経済的な余裕を手にした。肖像画の注文がつぎつぎと舞い込み、彼はそれをこなしながら、妻にさまざまな衣裳を着せてポーズをとらせた。また収集癖のあるレンブラントは、高価な美術品をせっせと買い集めだした。人気画家レンブラントのアトリエには、最盛期には50人からの弟子たちがひしめいた。
36歳の年に、妻サスキアが没した。また、同じころ、アムステルダム自警団から注文を受けていた団体肖像画の大作「夜警」が、惨憺たる不評を買った。現代では名作中の名作として聞こえるこの絵のなか、中央の二、三人の夜警だけが光を浴び、ほかの多くの者は闇に沈みがちで、さらに自警団と関係のない少女が描かれていることが、注文した自警団側の大きな不満を買った。自警団の17人は均等割りで絵の代金を拠出していたから、それはとうぜんの不満ではあったが、レンブラントの芸術家の魂は、もはやそのようなありきたりの肖像画を描けなくなっていた。
このころからレンブラントの芸術はますます深みを増していったが、彼の経済状況も同様に深く沈んでいき、50歳でレンブラントはついに破産し、彼の財産は競売にかけられた。
それ以後も、レンブラントは経済的な困窮のなかで、芸術上の精進を続けた。そうして生活の困窮と大画家としての名声のなか、1669年10月に没した。63歳だった。

レンブラントは芸術そのもの。「レンブラント」は「芸術」と同義である。レンブラントの、あの光と闇の魔術。そして内面描写。三次元の物体を二次元の平面に写したにすぎない人物画に、内面など描きこめるはずがないかというと、レンブラントはそれをやってのけている。内面描写。これこそが、近代絵画が捨て去り、現代美術に失われてしまった芸術の重要な要素にちがいない。

女好きで、収集好き、散財家だったレンブラントは、人生の絶頂とどん底を行ったり来たりした人だった。生まれた彼の子どもたちの多くは幼くして死んでしまったし、妻には二度先立たれ、当時の法律や訴訟問題には泣かされ通しだった。一時は栄華を極めたが、やがて傾き、破産すると、その後は貧困のまま没した。レンブラントはミューズ(美の女神)に愛された天才だったが、彼が舐めたのは人生の甘露な部分だけではなかった。
レンブラントこそ人類の宝であり、プールいっぱいの金塊を人類はもたなくてもかまわないけれど、人類はレンブラントをぜひとも必要とする。
(2021年7月15日)



●おすすめの電子書籍!

『芸術家たちの生涯----美の在り方、創り方』(ぱぴろう)
古今東西の大芸術家、三一人の人生を検証する芸術家人物評伝。彼らの創造の秘密に迫り、美の鑑賞法を解説する美術評論集。会田誠、ウォーホル、ダリ、志功、シャガール、ピカソ、松園、ゴッホ、モネ、レンブラント、ミケランジェロ、ダ・ヴィンチまで。芸術眼がぐっと深まる「読む美術」。


●電子書籍は明鏡舎。
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7月14日・クリムトの煽情

2021-07-14 | 美術
7月14日は、映画監督イングマール・ベルイマンが生まれた日(1918年)だが、絢爛の画家グスタフ・クリムトの誕生日でもある。

グスタフ・クリムトは、1862年、オーストリアのウィーン郊外のバウムガルテンで生まれた。父親は金銀の細工をする彫金師で、グスタフは、男3人、女4人の7人きょうだいの上から2番目の子だった。
貧しい境遇に育ったグスタフは、14歳のとき、ウィーンの美術工芸学校へ入学し、そこで建築物の装飾を学んだ。学校に通いながら、友人や弟といっしょに「芸術家カンパニー」を設立して、主として劇場の装飾を請け負う仕事をはじめた。
21歳で美術工芸学校を卒業。劇場の装飾画や室内風景画の依頼を受けて描き、描くごとに高い評価を受けた。
20代のころ、細密リアリズムの画家だったクリムトは、30歳前後からしだいに、死とエロスを感じさせる、妖しい雰囲気をもった画風へと移行していった。しかし、彼の新しい境地は、当時ウィーンで展示会を仕切っていた芸術団体の保守的な芸術観は相容れず、クリムトは仲間と、古い様式にとらわれない新しい芸術団体「ウィーン分離派」を結成した。クリムト35歳のときのことで、彼はこの団体の初代会長に選出された。
この前後から、クリムトは油彩の作品に金箔を用い出し、「黄金様式の時代」と呼ばれる彼独特の豪華絢爛で煽情的な作風が展開されるようになり、「ユーディット」「金魚」「水蛇」「期待」「成就」「ダナエ」「接吻」など抽象的な画題の傑作が生まれた。
1918年、脳卒中で倒れたクリムトは肺炎を併発し、2月に没した。55歳だった。

裸婦を数多く描いたクリムトは生涯独身を通したが、多くのモデルと愛人関係にあって、彼女らに子どもを産ませたりしている。「愛、性、生、死」を鋭敏な感覚で表現したクリムトは、肥り気味のがっしりした体格の、首の太い、精力がみなぎった感じの男だった。たいした芸術作品を次々と作り上げていくためには、まず体力のあるからだが欠かせない。

日本の美術の最高峰のひとつは尾形光琳にある。金箔をふんだんに用い、物体を思いきり単純な模様に変形して、絵全体をあるリズムとして表現した、あの様式美こそ、日本の美術の特色であり、日本の美意識が到達したひとつの頂点である。
そうしたジャポニズムの特色を受け入れ、かつ、そこに西洋絵画の技術と、アールヌーボーの様式、そして世紀末ウィーンの感性を溶け合わせてできた傑作が、クリムト作品である。この融合実験は惨憺たる失敗がふつうであり、これは奇跡的な成果である。
(2021年7月14日)



●おすすめの電子書籍!

『芸術家たちの生涯----美の在り方、創り方』(ぱぴろう)
古今東西の大芸術家、三一人の人生を検証する芸術家人物評伝。彼らの創造の秘密に迫り、美の鑑賞法を解説する美術評論集。会田誠、ウォーホル、ダリ、志功、シャガール、ピカソ、松園、ゴッホ、モネ、レンブラント、ミケランジェロ、ダ・ヴィンチまで。芸術眼がぐっと深まる「読む美術」。

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http://www.meikyosha.jp

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7月13日・堺屋太一の大人

2021-07-13 | 歴史と人生
7月13日は、歌手の中森明菜が生まれた日(1965年)だが、評論家、堺屋太一の誕生日でもある。「巨人・大鵬・卵焼き」「団塊の世代」という流行語を作った人である。

堺屋太一は、1935年、大阪に生まれた。本名は池口小太郎で、父親は弁護士だった。小太郎は、高校時代はボクシングで活躍した理科系で、東京大学の工学部に入った後に、文系の経済学部へ移った。
国家公務員の上級試験に合格し、入った通産省で大阪万博を企画し、1970年、35歳のときに実現させた。
1975年、40歳のとき、沖縄海洋博を担当。同年、堺屋太一のペンネームで処女小説『油断!』を発表。これは日本が石油が輸入できなくなった事態を想定した綿密な調査に基づく近未来シミュレーション小説だった。『油断!』出版後、日本の石油備蓄量は約三倍に増えた。
41歳で小説『団塊の世代』を発表した後、43歳のころ役人をやめ、以後、評論家、イベント・プロデューサーとして、マスメディアや国際博覧会で活躍した。
63歳のとき、民間人閣僚として小渕内閣の経済企画庁長官となり、退任後は、学者として、また政治運動家としても活動している。75歳のとき、上海万博で日本産業館を経営し、高級和食とたこ焼きを出展した後、2019年2月、多臓器不全のため、東京都内の病院で没した。83歳だった。

堺屋太一が日本人の性質について、こんなことを書いている。
「日本人の変わり身の早さは、私自身も体験しました。一九六四年、当時二八歳の通産省係長だった私は、『万国博覧会の開催』を提唱、地を這う努力を重ねました。これが二年ほどで周辺に知られると、通産省の内外から非難の声が上がりました。
 ところが、いよいよ万国博が実現しそうになると、反対していた人たちが『私がはじめた』『俺の案だ』と手柄顔で触れ回るのです。(中略)
 私は『あとから来る賛成者』を歓迎することにしています。反対論者が賛成に転向して来るのは、そのプロジェクトが成功しそうだからです。あとから乗り込んで来て手柄顔をする人も、事業の推進力となるのです」(『「維新」する覚悟』文藝春秋)
いろいろな場面で日本人の変わり身の早さに直面し、そのたびに辟易とさせられてきたけれど、彼のように歓迎する気持ちにはなかなかなれない。鋭い議論で斬り込んでくる一方で、こうやって敵を受け入れ、清濁合わせ呑むふところの深さも持っていて、さすが「大人」である。
(2021年7月13日)



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『ブランドを創った人たち』(原鏡介)
ファッション、高級品、そして人生。世界のトップブランドを立ち上げた人々の生を描く人生評論。エルメス、ティファニー、ヴィトン、グッチ、シャネル、ディオール、森英恵、サン=ローランなどなど、華やかな世界に生きた才人たちの人生ドラマの真実を明らかにする。


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7月12日・石岡瑛子の不惑

2021-07-12 | ビジネス
7月12日は、思想家ヘンリー・ソローが生まれた日(1817年)だが、日本のデザイナー、石岡瑛子(いしおかえいこ)の誕生日でもある。

石岡瑛子は、1938年、東京で生まれた。父親は広告のデザイナーだった。
瑛子が5歳のとき、父親が結核で没した。にわかに家計は苦しくなり、母親は娘の瑛子さんにこう言った。
「大きくなったら、仕事を持ちなさい。ひとりでも生きていけるように」
東京芸大を卒業した瑛子は、広告のデザイナーになった。力強い女性像を前面に出したパルコや角川書店の広告が話題となり、彼女は30代のころには日本を代表する広告デザイナーのひとりになっていた。しかし「不惑」40歳のとき、彼女は急に「さむざむしい気持ち」に襲われた。仕事の依頼はひっきりなしにあって引っ張りだこで、評判もよく、すべて順風満帆だったが、仕事に充実感が感じられなくなってしまった。
「クリエイトしてみたいっていう衝動がなかからほんとうにわき起こるまで、表現を志してもしょうがないっていう風にわたしは思ったの」(NHKテレビ番組「プロフェッショナル」)
彼女は、事務所を閉め、仕事を全部やめて、単身米国ニューヨークへ渡った。なにかあてがあるわけではなかった。そうしてニューヨークでぶらぶら暮らして1年がすぎたある日、街の映画館で、黒澤明監督の「七人の侍」がかかっていたので、入った。彼女は映画に感銘を受けるとともに、上映が終了した後に、観客たちが口々に感想を述べあう様子を見て驚いた。自分もこういう仕事がしたいと、思ったという。それが石岡さんの再出発地点になった。
47歳のとき、三島由紀夫の生涯を描いた映画「ミシマ」の美術監督を担当し、カンヌ映画祭で美術貢献賞を受賞。
49歳のとき、マイルスのレコード・ジャケットで、グラミー賞を受賞。
54歳のとき、映画「ドラキュラ」の衣裳を担当し、アカデミー賞衣装デザイン賞を受賞。
音楽や映画以外の分野でも、ネーデルランド(オランダ)で歌劇「ニーベルングの指輪」の舞台衣裳、サーカス団「シルク・ドゥ・ソレイユ」の衣裳、ブロードウェイ・ミュージカル「スパイダーマン」の衣裳を担当するなど、活躍した。
64歳のときには、ソルトレイクシティ五輪のカナダ、スイス、スペイン、日本チーム の競技ウェアをデザインし、70歳で、北京オリンピック開会式の衣裳を担当し、出演する2万着ぶんをデザインした後、2012年1月、すい臓がんで没した。73歳だった。

「四十にして惑わず(自分は四十歳になったら、迷わなくなった)」
と孔子は言ったが、これを逆説として,
「四十歳になって惑わないようなやつはだめだ」
の意だと理解している。四十年も生きていれば、惑うのが当たり前で、その歳にもなって惑わないようなやつは、たいした人間ではない。そこで惑い、悩んで、それを突き抜けて「不惑」にいたってこそ、一人前の人間である、と。
石岡瑛子は、文字通り、ひとかどの人物だった。
(2021年7月12日)



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