1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

4月30日・ラ・サールの志

2020-04-30 | 歴史と人生
4月30日は、魔女たちの集まるヴァルプルギスの夜。この日は、天才数学者、ガウスが生まれた日(1777年)だが、学校教師の守護聖人ド・ラ・サールの誕生日でもある。

ジャン=バティスト・ド・ラ・サールは、1651年、フランス北東部の街ランスの裕福な家庭で生まれた。いちばん最初の子どもだった彼は、11歳で頭を丸め、15歳でランス大聖堂にの僧侶となった。
学業成績が優秀だったド・ラ・サールは、さらに高等教育を受けるべくカレッジに入学し、学位を取得した後、19歳でパリの神学校に入った。
しかし、20歳のころに、母親と父親があいついで亡くなり、4人の弟と2人の妹の面倒をみるため、神学校を退校して故郷へもどった。
故郷ランスでド・ラ・サールはしだいに、教育に熱を入れはじめた。当時は貧富の差がひどい時代で、貧しい一般庶民の子として生まれた者は将来になにも期待できなかった。ド・ラ・サールは、教育こそ未来を切り開くカギだと考え、同じような理想をもって苦闘している土地の教師たちを自宅に招いて食事をふるまった。食事をしながら、彼らにテーブルマナーを教え、やがて彼らを自宅に住まわせて、いっしょに暮らしながら彼らを指導するようになった。これは身内の猛反発をくらい、ド・ラ・サール一族内での訴訟沙汰になり、一家の当主はついに家を追いだされて、べつに家を借りて教師たちと同居しなくてはならなくなった。
彼の、いっしょに、団体を作り、すべての人に教育を、というやり方は、カトリック教会側の気に入らなかった。さらに当時の学問は僧侶によってラテン語で教えられるのが常識だったが、ド・ラ・サールのラ・サール会(キリスト教学校修士会)は土地土地のことばで授業をした。教会の圧力にもかかわらず、彼のやり方は広まり、34歳のときには、ランスに世界初の師範学校(教師のための学校)を創立した。ド・ラ・サールは生涯、教会からの圧迫に苦しんだ後、1719年4月、ルーアンで没した。67歳だった。

ド・ラ・サールの志は世界各国の修道士に受け継がれて広まり、ローマ教皇もこれを認め、ド・ラ・サールは没した180年後に聖人に列せられ、230年後に教育者の守護聖人ということになった。
現在、ラ・サール会は全世界で千以上の学校を経営していて、日本にも、函館や鹿児島に学校があり、東大などへの高い進学率を誇る進学校として知られている。芸能タレントのラサール石井は鹿児島の私立ラ・サール高校を出ているところからこの芸名があり、また仙台には児童養護施設ラ・サール・ホームがある。

日本でも、昔は学問といえば、比叡山で漢文で教わるものだったけれど、ヨーロッパでも同様で、学問といえばラテン語だった。
それを一般庶民へと開いたのが、ダンテがイタリア語で書いた『神曲』であり、ルターが訳した『ドイツ語版新訳聖書』であり、ラ・サール会の学校である。ひと粒の麦もし死なずば。
(2020年4月30日)



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4月29日・中原中也の響き

2020-04-29 | 文学
「昭和の日」の4月29日は、「A列車で行こう」のデューク・エリントンが生まれた日(1899年)だが、詩人の中原中也の誕生日でもある。

中原中也は、1907年、山口の湯田温泉で生まれた。誕生時の名は柏村中也。中也は長男で、中也が7歳のときに下の弟が没した。父親は陸軍の軍医だった。中也が8歳のとき、父親が開業医の中原家と養子縁組をし、一家は中原姓となった。
小さいころから詩や短歌を書いていた中也は、学校を落第し、16歳の年に単身、京都へ引っ越して立命館中学に転入。下宿に新劇女優の長谷川泰子を連れ込み、同棲をはじめた。中原が18歳になる年に二人は上京。二人の住む部屋に、中原の友人で、東京大学仏文科の学生だった小林秀雄が出入りするようになり、彼らは三角関係におちいった。結局泰子は中原の部屋を出て、小林と同棲することになった。
さまざまな同人誌に関わり、詩を発表していた中原は、26歳のとき、翻訳『ランボオ詩集(学校時代の詩)』を発表。同じ年に遠縁にあたる女性と結婚。
翌年、27歳で長男が生まれ、詩集『山羊の歌』を上梓した。
29歳のとき、長男が死亡したショックで精神を病むようになった。千葉、鎌倉と転居した後、30歳のとき、故郷の山口へ引っ越すことにし、詩集『在りし日の歌』の原稿を小林秀雄に託した直後、結核性脳膜炎を発症し、1937年10月に没した。30歳だった。

小林秀雄は長谷川泰子にこう言った。
「あなたは中原とは思想が合い、ぼくとは気が合うのだ」(長谷川泰子『中原中也との愛』角川ソフィア文庫)
彼ら三人の恋愛事件は有名な話だけれど、怒鳴り合いとか乱闘とかいうものはなく、表面上は淡々としたものだった。
「私はこう言いました。
『私は小林さんとこへ行くわ』
もうそのときは、運送屋さんがリヤカーを持って表で待っていたんです。あのとき、中原は奥の六畳でなにか書きものをしておりました。そして、私のほうも向かないで、
『ふーん』といっただけなんです。」(同前)
中原は、彼女が置いたままにした荷物を後で届けてやり、こう書いた。
「私はほんとに馬鹿だつたのかもしれない」(同前)
「女が盗まれた時、突如として僕は『口惜しい男』に変つた」(小林秀雄「中原中也の思ひ出」『小林秀雄全集第二巻』新潮社)
中原中也が18歳、長谷川泰子が21歳、小林秀雄は23歳だった。

「秋の夜は、はるかの彼方(かなた)に、
 小石ばかりの、河原があつて、
 それに陽は、さらさらと
 さらさらと射してゐるのでありました。」(「一つのメルヘン」『在りし日の歌』青空文庫)
中原中也は、一つひとつのことばの響きに、瑞々しい叙情姓がある独特の詩人だった。もっと長生きした後に書いた老境の詩も読みたかった。夭逝が惜しまれる。
(2020年4月29日)



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『世界文学の高峰たち 第二巻』(金原義明)
世界の偉大な文学者たちの生涯と、その作品世界を紹介・探訪する文学評論。サド、ハイネ、ボードレール、ヴェルヌ、ワイルド、ランボー、コクトー、トールキン、ヴォネガット、スティーヴン・キングなどなど三一人の文豪たちの魅力的な生きざまを振り返りつつ、文学の本質、創作の秘密をさぐる。読書家、作家志望者待望の書。


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4月28日・オスカー・シンドラーの賭け

2020-04-28 | 歴史と人生
4月28日は、画家、東郷青児が生まれた日(1897年)だが、実業家オスカー・シンドラーの誕生日でもある。

オスカー・シンドラーは、1908年、現在のチェコのスヴィタヴィで生まれた。当時はオーストリア・ハンガリー帝国の一部で、父親は農業機械の製造工場の経営者だった。もともとドイツ・オーストリアの家系で、カトリック教徒だったが、オスカーは小さいころから近所のユダヤ人の子らと遊ぶ、宗教的を偏見をもたない子どもだった。
ギムナジウム(中高一貫校)を卒業したシンドラーは、会社勤務やチェコスロバキア陸軍で兵役についた後、20代後半のころ、ドイツ民族主義的な政党に入り、ドイツ側のスパイとなって働くようになった。それが発覚してつかまり、死刑を宣告された。しかし、彼がいたズデーテン地方がドイツにより併合され、死刑執行は中止された。
釈放されたシンドラーは、ナチス党に入党。
31歳のときに、ドイツ軍がポーランドに侵攻すると、自分もポーランドへ渡り、古い容器工場を買い取って経営をはじめた。彼の工場はドイツ軍から厨房用品の受注を受けて、経営を拡大し、しだいに兵器の部品を作る軍需工場となった。シンドラーは、ただ同然で使えるユダヤ人労働者を多く雇い入れた。
当時、すでにナチス・ドイツによるユダヤ人迫害、拉致ははじまっていたが、シンドラーの軍需工場は特権を与えられていて、彼の工場で働く熟練工のユダヤ人には、ナチス親衛隊やゲシュタポも手出しできなかった。
はじめは経済効率のためだったが、シンドラーはしだいにユダヤ人労働者たちの生命も守ろうと考えるようになり、親衛隊側に必要不可欠だとして熟練工リストを提出し、賄賂を渡して雇用を守りつづけた。彼のリストには学生や子どもの名前も含まれていた。戦争末期、ソ連軍が侵攻し、工場のユダヤ人労働者たちがアウシュビッツの絶滅収容所へ移送された際には、みずから収容所へ乗り込んでいって、賄賂をばらまいて労働者を連れもどした。そして第二次大戦中、ナチス・ドイツによるホロコーストから、ユダヤ人約1200人を救った。自分のもっていた全財産を投じてユダヤ人労働者を守ったシンドラーは、終戦近くに工場を離れたときには、1ペニヒももっていなかったという。

戦後、シンドラーは貿易商や工場経営の事業で失敗を続けた。生き延びたユダヤ人たちはそんな彼の救済に努めた。シンドラーはドイツとイスラエルを行ったり来たりして晩年をすごした後、1974年10月、ドイツのヒルデスハイムで没した。66歳だった。

シンドラーのユダヤ人救済は一歩まちがえば自分が処刑される、命を張った賭けだった。

スティーブン・スピルバーグ監督の「シンドラーのリスト」は、多くの映画関係者がハリウッド映画史のベスト・ワンに挙げる名作で、感動なしには観られない。映画中のユダヤ人虐待の凄惨さはすさまじいが、あれでもまだ水でうすめ味を薄くしてあって、実際のナチスの収容所所長はさらに残虐で、ユダヤ人をつかまえ、くいにしばりつけ、生きたまま犬に食わせることもしたらしい。
映画の終わりのほうで、工場のユダヤ人労働者たちが、金歯をぬき、溶かし、金の指輪を作って、シンドラーに贈る感動的な場面があるが、あれは実話である。まったくすばらしい、映画を観たその夜の夢で見てうなされそうな、苦々しい傑作である。
(2020年4月28日)


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『映画監督論』(金原義明)
古今東西の映画監督30人の生涯とその作品を論じた映画人物評論集。監督論。人と作品による映画史。チャップリン、溝口健二、ディズニー、黒澤明、パゾリーニ、ゴダール、トリュフォー、宮崎駿、北野武、黒沢清などなど。百年間の映画史を総括する知的追求。


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4月27日・アヌーク・エーメの英断

2020-04-27 | 映画
4月27日は、『ローマ帝国衰亡史』を書いたエドワード・ギボンが生まれた日(1737年、ユリウス暦による)だが、フランスの映画女優アヌーク・エーメの誕生日でもある。

戦後ヨーロッパ映画を代表する美貌の花、アヌーク・エーメは、1932年、フランスのパリで生まれた。本名は、フランソワーズ・ソーリャ・ドレフュス。父親がユダヤ人、母親はローマ・カトリック教徒で、両親ともに俳優だった。彼女はカトリック教徒として育ったが、成人後にユダヤ教に改宗している。
第二次大戦中は母方の姓を名乗り、ナチス・ドイツによるフランス占領やユダヤ人迫害をなんとかしのいだフランソワーズは、終戦後の14歳のとき、その美貌を見込まれて映画デビューを果たした。アンリ・カレフ監督の映画「密会」がそれで、この映画で演じた端役の役名「アヌーク」を彼女はそのまま芸名として使うことにした。
そして出演映画第2作目で知り合った詩人ジャック・プレヴェールの提案をいれ、「エーメ」という姓を芸名に付け加えた。「エーメ」はフランス語で「愛されている」意である。
学業のかたわら、ダンスと演劇を学んだアヌーク・エーメは、映画出演を続け、着実にキャリアを積んでいったが、彼女の名を一躍有名にしたのは、悲運の天才画家アメデオ・モディリアーニの生涯を描いたジャック・ベッケル監督の「モンパルナスの灯」だった。伝説の名優ジェラール・フィリップ演じるモディリアーニの後を追って飛び降り自殺する美貌の妻役をエーメは演じた。
一躍その名を広く知られるようになったエーメは、フェデリコ・フェリーニ監督の名作「甘い生活」「8 1/2」に出演し、押しも押されもせぬ世界的大女優となった。
そんな、国際的スターとしてローマにいた彼女のところに、ある日、フランスの無名監督から国際電話がかかってきた。新作映画への出演依頼打診の電話で、映画の筋を聞いて興味をもった彼女は、彼と会ってみて、その無名監督が気に入った。それで、明日つぶれるかもしれない独立プロが制作する映画に、世界的スターが出演することになった。
巨大なセットを組み、大人数で撮っていく巨匠フェリーニ監督の撮影現場とは大ちがいで、そこはスタッフもせいぜい10人程度、お金がないので高価なカメラが買えず、バタバタ大きな音のする安いカメラを毛布でくるんでの撮影、おまけに撮影中なのにまだ配給先が決まっていない、きわめて怪しい映画だった。が、エーメは最後まで素晴らしい演技を続けた。音楽はフランシス・レイがつけ、主題歌もレイが書いた。タイトルは「男と女」。
エーメが34歳のときに公開された映画「男と女」は、カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞し、世界各国で大ヒットを記録した。監督のクロード・ルルーシュにとっても、フランシス・レイやエーメら、この映画の制作に関係したすべての人にとって、この映画が代表作となった。エーメはこの作品で、ゴールデングローブ賞「主演女優賞」と英国アカデミー賞「外国女優賞」を受賞した。
「映画史上最もセクシーな女優の一人」とも評された彼女は、その後も「男と女 2」「百一夜」などに出演し、カンヌ国際映画祭で「女優賞」、ベルリン国際映画祭で「金熊名誉賞」などを受賞している。アヌーク・エーメ、匂いたつ色香の美人女優である。

それにしても、彼女が代表作「男と女」に出演した経緯には驚かされる。そうしてあらためて、人間、過去を振り返っていてはだめで、前を見て生きるべきだと教えられる。
(2020年4月27日)



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『映画女優という生き方』(原鏡介)
世界の映画女優たちの生き様と作品をめぐる映画評論。モンローほかスター女優たちの演技と生の真実を明らかにする。


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4月26日・ドラクロワの挑戦

2020-04-26 | 美術
4月26日は、哲学者、ウィトゲンシュタインが生まれた日(1889年)だが、ロマン派の画家、ドラクロワの誕生日でもある。「民衆を導く自由の女神」を描いた人である。

フェルディナン・ヴィクトール・ウジェーヌ・ドラクロワは、1798年、仏国の現在のサン=モーリスで生まれた。父親は外交官、母親はルイ王朝御用達の家具屋の娘だった。
文学好きだったドラクロワは、画家の叔父に才能を見出され、17歳のときに学校を退学、当時有名だった新古典主義画家ゲランに弟子入りさせられた。「メデューズ号の筏(いかだ)」を描いたテオドール・ジェリコーはそこの兄弟子だった。
ドラクロワは、24歳のとき「地獄のダンテとヴェルギリウス」を発表。これはダンテの『神曲』の「地獄編」に題材をとった作品で、ダンテが案内役の詩人ヴェルギリウスと並んで小舟に乗っていると、湖に沈んでいた亡者たちが寄ってきて、舟にあがろうとしてくるという壮絶な場面を、荒々しいタッチで描いた力作だった。
26歳のときには「キオス島の虐殺」を発表。この作品は、当時、トルコの支配下にあったギリシャのキオス島で、独立運動に立ち上がった島民を、トルコ軍が大虐殺した事件を描いたものだった。この作品が発表された同じ年、英国の詩人バイロンはギリシャ独立戦争に身を投じ、その戦地で没している。
当時は様式美を重んじる新古典主義の時代であり、ドラクロワの画風はいずれも酷評された。しかし、ドラクロワはドラマティックな激情に満ちた作風を貫き「サルダナパールの死」「民衆を導く自由の女神」を発表。34歳のとき、政府の外交使節のお付きの画家としてモロッコへ旅し、現地でエキゾティックな香り高いデッサンをたくさん描いて帰ってきて「アルジェの女たち」を発表した。
その後、ドラクロワは宮殿、役所の庁舎などの大建築の装飾を数多く手がけた後、1863年8月、パリで没した。65歳だった。

ドラクロワ作品でいちばん慄然としたのは「サルダナパールの死」だった。広い寝室のいたるところで王の部下たちが半裸の美女たちをとらえ、剣で刺し殺している。ベッドに寝そべった王が、その殺戮風景を冷やかにながめている、という構図絵である。これは、バイロン作の戯曲「サルダナパール」を題材にしたもので、アッシリアの王サルダナパールが、反乱軍が迫り自分の死が近づいたのを察して、部下に自分の愛妾たちを殺すよう命令した、その場面である。この作品も、発表当時はひどく酷評されたらしい。ただし、詩人のボードレールは賞賛した。

当時、主流だった新古典主義の代表画家は「アルプスを越えるナポレオン」「皇帝ナポレオン1世と皇后ジョゼフィーヌの戴冠式」を描いたジャック=ルイ・ダヴィッドや、「グランド・オダリスク(横たわるオダリスク)」を描いたドミニク・アングルである。ダヴィッドやアングルの整然とした作品もいいけれど、ドラクロワのはげしいタッチに打たれる。もともと新古典主義の師匠のもとで修行をしていたドラクロワが、なぜ写真のように美しく描ける技術を捨て、あえて荒々しい筆づかいで描いたかがわかる。彼の絵を見ていると、既成の芸術観に挑み、乗り越えようとしたドラクロワの気持ちが迫ってくる。

華麗な色使いで知られる画家ドラクロワはこう言った。
「あらゆる絵の敵は、灰色である」
(2020年4月26日)



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『芸術家たちの生涯----美の在り方、創り方』(ぱぴろう)
古今東西の大芸術家、三一人の人生を検証する芸術家人物評伝。彼らの創造の秘密に迫り、美の鑑賞法を解説する美術評論集。会田誠、ウォーホル、ダリ、志功、シャガール、ピカソ、松園、ゴッホ、モネ、レンブラント、ミケランジェロ、ダ・ヴィンチまで。芸術眼がぐっと深まる「読む美術史」。


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4月25日・クロムウェルの意識

2020-04-25 | 歴史と人生
4月25日は、清教徒革命の立役者、クロムウェルの誕生日でもある。

オリバー・クロムウェルは、1599年、英国イングランドのハンティンドンシャーで生まれた。清教徒(ピューリタン)の下級地主の家がらだった。
ケンブリッジ大学を出たオリバーは、29歳で庶民院議員となり、治安判事、牧場経営者などをへて、41歳のとき、ふたたび議員になった。
当時の英国王、チャールズ一世は「王の権利は神様がくださったもので、人間がこれを犯すべからず」という王権神授説を振りかざし、お金に困ると勝手に新税を作って税金を集め、反発する者は投獄し耳をそいだ。
当時の英国はすでに、国王のツケは国民にまわせばそれで済むという時世ではなくなっていた。ツケをまわされた国民の半分は崖っぷちの生活だった。社会構造が変化し、絶対王政が世に合わなくなっていた。クロムウェルたちピューリタンで占められた議会派は、チャールズ一世に立憲君主となってくれることを臨んだが、王様の頭はそれを受け入れなかった。王は自分にたてつく議会をすぐに解散し、ピューリタンを迫害した。
国王側と議会側との内戦がはじまり、そのなかで頭角をあらわしたのがクロムウェルだった。クロムウェルは、国王側の職業軍人の軍隊に対抗するため、私財を投じて「鉄騎隊」を作った。そして劣勢だった戦況を挽回して、ついに国王側を追いつめ、勝利した。
チャールズ一世は処刑された。その翌年、クロムウェルが50歳のとき、イングランド共和国が成立し、清教徒革命は成った。
しかし共和制は長く続かなかった。権力を掌握したクロムウェルは議会の反対派を弾圧して、54歳のときに議会を解散させ、終身護国卿となり、軍事独裁政治をはじめた。
国外的には、フランス、スウェーデン、デンマーク、ポルトガルと結び、スペインと敵対した。ジャマイカを占領し、英仏連合軍でスペインに勝利した。
1658年9月、クロムウェルはマラリアのため没した。59歳だった。

クロムウェルの死後、彼の息子が跡を継いで護国卿に就任したが、すぐに退位。英国は外国へ亡命していたチャールズ二世(一世の息子)を王に迎え、王政にもどった。
王の座についた二世は、清教徒革命の報復をはじめた。父親の処刑命令にサインした議員たちを処刑し、すでに亡くなっていたクロムウェルの墓を掘り起こし、クロムウェルの遺体をあらためて国王殺しの罪で絞首刑に処し、その首をさらした。

クロムウェルが生まれたのは、日本の豊臣秀吉が没した翌年である。だから、案外、秀吉の生まれ変わりなのかもしれない。
クロムウェルの評価は「偉大な指導者」と「軍事力の独裁者」とに真っ二つに分かれる。ただし、その評価はイングランド内でのもので、よそでは異なる。とくに侵略され大勢が虐殺されたアイルランドでは、クロムウェルは悪魔のように忌み嫌われる存在だろう。

ルソーなどが出て、人間は一人ひとり価値があるのだという人権思想が芽をふくのはつぎの世紀のことで、クロムウェルの時代にはそんな考えはなかった。クロムウェルの時代の人間の意識を想像してみるに、案外、当時の支配階級の意識は、現代日本のエリートたちのそれとあまり変わらないのかもしれない。
(2020年4月25日)



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4月24日・ルー・テーズの本物

2020-04-24 | スポーツ
4月24日は、植物学者、牧野富太郎が生まれた日(文久2年・1862年)だが、プロレスの神様「鉄人」ルー・テーズの誕生日でもある。

ルー・テーズは、1916年、米国ミシガン州のバナットで生まれた。父親はハンガリーからやってきた靴修理職人の移民で、セントルイスで靴修理をしていたところ、バナットの田舎へ引っ越して、農場をはじめた。そこの山小屋で生まれたのがルーだった。ルーは4人きょうだいの3番目で、彼のほかはみんな女のきょうだいだった。農地開墾はうまくいかず、ルーが2歳のころ、一家はセントルイスへもどり、父親も靴修理にもどった。
小さいころ、ルーは吃音に悩まされていた。さらに彼は生まれつき左利きで、当時左利きは無理やり右利きに矯正されたため、苦しい少年時代をすごした。
8歳のころから、父親はルーにレスリングを教えだした。数百回の腕立て伏せ、スクワット、ブリッジからはじまるきびしいレッスンだったが、ルーはそれを楽しんだ。彼のおこづかいはすべてプロレスラーの公開練習見学に注ぎ込まれた。
14歳のときに学校をやめ、靴の修理工となり、仕事を5時に終えると、午後9時までレスリングのトレーニングをした。近くの高校のレスリング部といっしょに練習するようになり、テーズはいよいよ熱中した。
15歳からコーチにつき、19歳からプロレス巡業に参加した。当時は大恐慌が尾を引く不況期だったが、生活を節約して転戦し、タイトルマッチへの権利を得、彼は21歳の若さでNWA世界王者となった。通常のチャンピオンより10年若い王者の誕生だった。
第二次大戦中は徴兵され、兵士たちに格闘技を教える教官を務めた。
戦後、軍務から解放されたテーズは、世界王者に返り咲いた。相手を背後から抱え上げ、からだを添えてのけぞりながら、目にも止まらぬ速さで相手の後頭部を後方のマットへ打ちつけるバックドロップで連戦連勝を重ね、30代の全盛期には約8年間にわたって936連勝という大記録を打ち立てた。
テーズは、力道山、ジャイアント馬場、アントニオ猪木といった日本のプロレスラーとも試合をし、何度も来日した。74歳のとき、47歳年下の蝶野正洋と戦った試合を最後に現役を引退し、2002年4月、心臓発作のため、フロリダ州オーランドの病院で没した。86歳だった。

「打倒、ルー・テーズ。わたしを強くしてくれたのは、この悲願、この執念だ」
それが力道山の口ぐせだったという。

ルー・テーズの自伝を読むと、とても同じ人間と思えない。超人とは彼のことである。
自伝によると、テーズが信条にしていたことばはこうである。
「オーセンティック(authentic、正真正銘の、本物の、確実な)」
戦後はテレビ時代となり、派手なガウンをまとい、派手なアクションをするプロレスラーが人気を浴びるようになった。プロのレスラーとして生きていくには、この時代の流れに順応していかなくてはならないが、大事なのは「オーセンティック・レスリング」を忘れずに精進することだと、亡くなった先輩レスラーが彼に言い残した。以来、テーズは「オーセンティック」という形容詞を肝に銘じて忘れないという。
そう、オーセンティック、である。
(2020年4月24日)


●おすすめの電子書籍!

『アスリートたちの生きざま』(原鏡介)
さまざまなジャンルのスポーツ選手たちの達成、生き様を検証する人物評伝。嘉納治五郎、ネイスミス、チルデン、ボビー・ジョーンズ、ルー・テーズ、アベベ、長嶋茂雄、モハメド・アリ、山下泰裕、マッケンロー、本田圭佑などなど、アスリートたちの生から人生の陰影をかみしめる「行動する人生論」。


●電子書籍は明鏡舎。
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4月23日・川上宗薫の誠実

2020-04-23 | 文学
4月23日は「サン・ジョルディ」の日。スペインのカタロニア地方では、女性は男性に本を、男性は女性に赤いバラを贈る日だが、この日は作家の川上宗薫(かわかみそうくん)の誕生日でもある。

川上宗薫は、1924年、愛媛の宇和(現在の西予市)で生まれた。父親はキリスト教のメソジスト派の牧師だった。本名は、漢字表記はペンネームと同じで「むねしげ」。
子どものころから引っ越しを繰り返し、長崎の中学、福岡の高校に通った。17歳のとき日米開戦を迎え、20歳のとき、長崎の陸軍連隊に入隊した。入隊後は肋膜炎を患い、入院したが、その入院中に、長崎への原爆投下によって、母親と二人の妹を失った。
敗戦後、22歳のとき九州大学に入学。はじめ哲学科、後に英文科へ移った。学生結婚をし、大学に通いながら高校で英語の授業を教え、文芸部で小説、俳句を書いた。
大学を卒業後、高校教師となり、千葉へ引っ越して、高校で英語を教えながら、小説を書いた。30歳から36歳にかけて『その掟』『初心』『或る眼醒め』『シルエット』『憂鬱な獣』で5度、芥川賞候補になった。が、受賞は逃しつづけた。その期間の受賞者には吉行淳之介、遠藤周作、石原慎太郎、開高健、大江健三郎、北杜夫がいる。
35歳のころ、友人だった水上勉の小説を、知り合いの編集者に推薦すると、すぐに本になり、水上勉は急に売れっ子になった。川上は追い越された嫉妬を茶化した小説を発表し、水上も恩人の川上を揶揄した小説を書いて応酬し、両者の仲は険悪になった。ケンカの影響で川上は文芸誌に原稿を受けとってもらえなくなり、すでに教師をやめ、執筆業に専念していた川上は窮した。彼は官能小説の分野に本格的に進出した。過去の体験の上に、さらに体験取材を重ねて、実体験に基づく官能小説を書きつづけて、その分野の大家となった。
1985年10月、リンパ腺がんのため、東京の自宅で没した。61歳だった。

牧師だった川上宗薫の父親は、原爆によって妻子を失ったため、キリスト教への信仰を捨てたそうだ。牧師の子だった川上と、寺の小僧だった水上勉が友人同士で、二人ともひじょうに女好きで、性欲が旺盛だったのは、とても興味深い。
一方は何度も候補にあがりながらついに芥川賞をとれず、一方は直木賞をとった。受賞の有無が大きくその後の方向性を分け、一方はやわらかい小説を、一方はかたいものを書くようになった。ただ、どちらも流行作家で、プライベートでモテモテで女性関係が忙しかったのは共通していた。

川上宗薫と水上勉の両作家とも好きで、自伝的な川上の『わが好色一代』や水上の『フライパンの唄』なども楽しく読んだ。水上が川上を皮肉って書いた『好色』も読んだ。そのほか、吉行淳之介や小林秀雄がらみの逸話もすこし知っていて、二人の人生経緯をながめると、感慨深いものがある。
どちらも小説家だからうそつきにはちがいないが、文章から、川上宗薫のほうが誠実で、より信頼できる人とわかる。仲たがいしていた二人は後、川上が45歳のころには仲直りしたそうだ。ちょっとジョン・レノンとポール・マッカートニーに似ている。
(2020年4月23日)



●おすすめの電子書籍!

『小説家という生き方(村上春樹から夏目漱石へ)』(金原義明)
人はいかにして小説家になるか、をさぐる画期的な作家論。村上龍、村上春樹から、団鬼六、三島由紀夫、川上宗薫、江戸川乱歩らをへて、鏡花、漱石、鴎外などの文豪まで。新しい角度から大作家たちの生き様、作品を検討。読書体験を次の次元へと誘う文芸評論。


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4月22日・オッペンハイマーの意図

2020-04-22 | 科学
4月22日は、至上の哲学者イマヌエル・カントが生まれた日(1724年)だが、天才物理者ロバート・オッペンハイマーの誕生日でもある。

ジュリアス・ロバート・オッペンハイマーは1904年、米国のニューヨークで、両親ともにユダヤ人の家庭に生まれた。
ジュリアスの父親は、ドイツから無一文で、学歴もなく、英語も話せないながら渡ってきた貧乏移民だったが、織物業界で成功し、ジュリアスが生まれたころには裕福な織物輸入業者になっていて、ジュリアスが8歳のときに引っ越したマンハッタンのマンションにはピカソやゴッホの絵が飾られていたという。ジュリアスの母親は画家で、ジュリアスには弟がいて、弟も後に物理学者になった。
「信教より行動を」とモットーとする倫理文化系の学校教育を受けたジュリアスは、飛び級して進学し、ハーバード大学に入学、化学を専攻したが、歴史、哲学、文学、数学も学び、また、物理学にも造詣が深かった。このころは実験物理学に興味をもっていた。
オッペンハイマー青年はハーバード大学を卒業すると、英国ケンブリッジ大学に留学した。
「原子物理学の父」ラザフォードが率いるケンブリッジ大は実験物理学の牙城だったが、担当教官とそりが合わず、オッペンハイマーは抑鬱状態におちいり、たばこをたくさん吸い、しばしば自暴自棄になった。そして、22歳のとき、英国を離れ、ドイツのゲッティンゲン大学に留学した。ここで彼は今度は理論物理学の研究に没頭し、「ボルン=オッペンハイマー近似」を発表し、23歳という若さで物理学の博士号をとった。
米国へもどったオッペンハイマーは、25歳でカリフォルニア大学バークレー校やカリフォルニア工科大学で物理学を教えた。
彼が35歳のときに第二次大戦が始まり、37歳のときに日米開戦、戦時となり、米国は原子爆弾を開発するマンハッタン計画を開始し、ニールス・ボーア、ジョン・フォン・ノイマン、リチャード・ファインマンなど優秀な物理学者たちがいっせいに狩り集められた。その陣頭指揮をとったのが、オッペンハイマーだった。彼は39歳でニューメキシコ州ロスアラモス国立研究所の初代所長となり、原爆製造研究チームを主導、優れた統率力を発揮し、世界初の原子爆弾を作りあげ、核実験をおこなった。原爆は空路日本へ運ばれ、ヒロシマとナガサキに投下された。オッペンハイマーが41歳のときだった。
日本への原爆投下をオッペンハイマーは支持したが、その結果起きた惨状を知ると、ただちに後悔しだし、戦後は核兵器の国際的な管理を呼びかけ、核兵器開発競争に反対した。
オッペンハイマーはマッカーシーの赤狩り旋風が吹き荒れた1950年代に追及され、公職から追いだされ、以後もその日常をFBIなど体制側によって監視された。
ヘビースモーカーだったオッペンハイマーは、61歳で喉頭ガンと診断され、放射線治療を受けた後、1967年2月、ニュージャージー州プリンストンの自宅で没した。62歳だった。

被爆国民である日本人の耳には「原爆の父」オッペンハイマーの名は苦く響く。しかし、戦中は日本も、独米に比べだいぶ遅れていたとはいえ、核兵器開発にいそしんでいたいたのであり、もしもまかりまちがって日本が先に原爆製造に成功し、実戦で使っていたとして、その結果を見て、開発者たちがどれだけ悔いただろうか、ということを考えるとき、オッペンハイマーやアインシュタインの後悔の貴重さを思わざるを得ない。
(2020年4月22日)



●おすすめの電子書籍!

『科学者たちの生涯 第二巻』(原鏡介)
宇宙のルール、現代の世界観を創った大科学者たちの生涯、達成をみる人物評伝。ハンセン、コッホから、ファインマン、ホーキングまで。知的感動のドラマ。


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4月21日・マックス・ウェーバーの倫理

2020-04-21 | 思想
4月21日は、『ジェーン・エア』を書いたシャーロット・ブロンテが生まれた日(1816年)だが、社会学者、マックス・ウェーバーの誕生日でもある。

マックス・ウェーバーこと、カール・エミール・マクスィミリアン・ヴェーバー は、1864年、プロイセン王国のエルフルト(現在のドイツ中央部にある)で生まれた。父親は政治家で、母親は哲学者で婦人運動家でもあった。マックスは長男だった。
12歳のころからマキャベリ、スピノザ、カントを読み、15歳のころには民族史の論文を書いていたマックスは、18歳でハイデルベルク大学に入学し、法律学を修めた。
19歳で軍務についた後、ベルリン大学、ゲッティンゲン大学で学んだ。
28歳のとき、ベルリン大学の講師となり、法律学の講義を担当した。
31歳でフライブルク大学の教授に就任。33歳でハイデルベルク大学の教授に就任したが、39歳のとき、神経症のため退職、名誉教授となった。以後しばらく教職を離れ、学術雑誌を編集し、論文を書いた。
41歳のとき、代表作『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を発表。同年に第一次ロシア革命が起きると、ウェーバーはただちにロシア語を勉強し『ロシアにおける市民的民主主義の状態』を書いた。
50歳のとき、第一次世界大戦が勃発。ウェーバーは野戦病院で働いた。敗戦の色が濃くなった53歳のとき、ミュンヘンの学生に向かって、学問への甘い幻想を叩き斬る講演をぶち、これが本にまとめられ『職業としての学問』となった。
第一次大戦後は、ウィーン大学、ミュンヘン大学などの教壇に立ったが、1920年6月、ミュンヘンで、当時世界的に流行したインフルエンザ(スペインかぜ)のため、肺炎を起こし、没した。56歳だった。

彼の大著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は、もともと禁欲主義で清貧をモットーとするプロテスタント(清教徒)が、なぜヨーロッパやアメリカで成功して大金持ちになれるのかという、重要な疑問に真正面から取り組んだ労作で、とても興味深い作品だった。これを読んで、カーネギーやロックフェラー、ビル・ゲイツら成功者がなぜ慈善事業に走るのかがあらためて腑に落ちたし、また、ウェーバーの言う「天職義務」の語にも強く感じた。日本人について、あらためて考えさせられた。
「ピュウリタンは天職職人たらんと欲した──われわれは天職人たらざるをえない。というのは、禁欲は修道士の小部屋から職業生活のただ中に移されて、世俗内的道徳を支配しはじめるとともに、こんどは、非有機的・機械的生産の技術的・経済的条件に結びつけられた近代的経済秩序の、あの強力な秩序界を作り上げるのに手を貸すことになったからだ。(中略)今日では、禁欲の精神は──最終的にか否か、誰が知ろう──この鉄の檻から抜け出してしまった。ともかく勝利をとげた資本主義は、機械の基礎の上に立って以来、この支柱をもう必要としない。」(大塚久雄訳『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波文庫)

資本主義はさらに進み、倫理は過去のものとなり、もはや人間の手にはおえない、システムが自動運動で世界を動かす高度産業社会に突入した。
(2020年4月21日)



●おすすめの電子書籍!

『思想家たちの生と生の解釈』(金原義明)
「生」の実像に迫る哲学評論。ブッダ、カント、ニーチェ、ウィトゲンシュタイン、フーコー、スウェーデンボルグ、シュタイナー、クリシュナムルティ、ブローデル、丸山眞男など大思想家たちの人生と思想を検証。生、死、霊魂、世界、存在について考察。わたしたちはなぜ生きているのか。生きることに意味はあるのか。人生の根本問題をさぐる究極の思想書。


●電子書籍は明鏡舎。
http://www.meikyosha.jp

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