1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

2月28日・田原俊彦論

2014-02-28 | 音楽
2月28日は、ザ・ローリング・ストーンズのリーダーだったブライアン・ジョーンズが生まれた日(1942年)だが、歌手、田原俊彦の誕生日でもある。かつて絶大な人気を誇ったアイドル「トシちゃん」である。
「いまさらアイドルではないだろう」と思っていた自分に、現代でもアイドル稼業は立派に通用するということを教えてくれたアイドル。それが田原俊彦だった。

田原俊彦は、1961年、神奈川の横須賀で生まれた。4人きょうだいの上から3番目で、俊彦は唯一の男の子だった。俊彦が小学校に入学すると間もなく父親が亡くなり、母親は俊彦ら子どもを連れて実家のある山梨の甲府へ引っ越した。経済的な困難から、俊彦は早くから自分が芸能界で出世して、母親の生活を楽にすると決意していた。
甲府の工業高校に入学してすぐ、東京の芸能プロダクション「ジャニーズ事務所」に入門。平日は高校に通い、週末は上京してレッスンを受けるという高校生活を送った。
高校を卒業するとすぐに上京。18歳で、武田鉄矢主演のテレビドラマ『3年B組金八先生』に出演。近藤真彦、野村義男、杉田かおる、三原じゅん子など、実際に中学生だった共演者たちに混じって、ひとりだけ飛び抜けて年上ながら中学生役を演じた。当時は1歳若く年齢を詐称していたらしい。
19歳で「哀愁でいと」を歌い、ソロ歌手としてデビュー。新曲を発売するごとに大ヒットを飛ばし、同時期にデビューした松田聖子とともに、トップアイドル歌手として活躍した。以後「ハッとして! Good」「ブギ浮ぎI LOVE YOU」「キミに決定!」「君に薔薇薔薇…という感じ」「原宿キッス」「NINJIN娘」「シャワーな気分」「ごめんよ涙」などヒット曲を量産した。26歳のとき、テレビドラマ「教師びんびん物語」に主演。33歳のとき、ジャニーズ事務所から独立。以後、所属事務所を変わりながら、芸能活動を続けている。

自分が若いころは、日本でも長渕剛、ユーミン、RCサクセション、サザンオールスターズといった自作自演のミュージシャンたちが活躍していた。ポップミュージックは、本人が書いた歌を本人が演奏し歌うのが主流になっていた。そんな時代に、他人が描いたセールス方針にしたがって、他人が作った詞を歌い、他人が考えた振り付けで踊る、操り人形のようなアイドル歌手では、いまさらないだろう、と自分は思っていた。そこへ登場してきたのが、松田聖子と、田原俊彦だった。二人とも、かわいこぶりっこで、古典的な優等生を演じる、音楽産業の申し子といった感じだった。

自分ははじめのうちは、田原俊彦を見ていて、なんでそんなに人気があるのかわからなかった。けれど、しだいに見慣れていくうちに、こういうのも極めれば、それはそれですごいことなのだ、と納得するようになった。曲を作る人、詞を書く人、演奏する人、振り付けを考える人、スケジュールを組む人、売り込む人、演出する人などと分業制が徹底した音楽産業のなかで、歌って踊る人ことだけに専念する。学年で4つも年下の連中といっしょになって「たのきんトリオ」を組み、ガキのふりをする。そういうことを仕事と割り切って真摯に打ち込んできたアイドルのプロ、それが彼なのだと理解するようになった。
そうしてみると(郷ひろみと同様に)田原俊彦はどうしてあんなバカみたいな笑い方をするのだろうと疑問を感じていたのも、納得できるようになった。
自分が「SMAP」「嵐」「AKB48」を見ても、とくに反発を感じないで、楽しんで見られるのは、田原俊彦にアイドルという職業をすでに教わって学習してきているからである。
(2014年2月28日)



●おすすめの電子書籍!

『2月生まれについて』(ぱぴろう)
ブライアン・ジョーンズ、ルドルフ・シュタイナー、ジョン・マッケンロー、ジョージ・フェリス、エジソン、トリュフォー、スティーブ・ジョブズ、志賀直哉、村上龍、山本寛斎、志賀直哉、桑田佳佑など、2月誕生の29人の人物評論。人気ブログの元となった、より長く、味わい深いオリジナル原稿版。2月生まれの必読書。

『わたしにそれを言わせないで(一)女子高生の社長秘書』(香川なほこ)
孤児となった女子高生・赤池美奈は、放課後は社長秘書のバイトをすることに。ある夜、社長に意外な事実を告げられた彼女の心は、二人の男のあいだではげしく揺れはじめる。青春官能小説。

http://www.meikyosha.com
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2月27日・スタインベックのおもしろさ

2014-02-27 | 文学
2月27日は、神秘思想家、ルドルフ・シュタイナーが生まれた日(1861年)だが、ノーベル賞作家、ジョン・スタインベックの誕生日でもある。
スタインベックというと『エデンの東』『怒りの葡萄』などが映画化されて有名で、自分も学生のころ、両作品をすこしだけ読んだ。下宿のとなりの住人が文庫本をもっていたので、彼の部屋でぱらぱら拾い読みした。『エデンの東』が、映画では扱われていない部分がとてもおもしろいのに驚いた。

ジョン・アーンスト・スタインベックは、1902年、米国カリフォルニア州のサリナスで生まれた。父親はドイツ系の製粉業者で郡役場の収入役をしていた。母親はアイルランド系の元小学校教師だった。ジョンは4人きょうだいの上から3番目で、唯一の男の子だった。
子どものころから読書好きで、聖書をよく読んでいたというジョンは、高校時代はバスケットボールの選手として活躍した。
17歳で高校を卒業したスタインベックは、さまざまな職業に就いた。製糖の試験所の助手になったり、農場や道路の工事現場、ビル建設現場などで働いたり、貨物船の水夫になったり、山荘の番人をしたりした。職業を転々とする途中、スタンフォード大学に入り、休学、また復学と、出たり入ったりしていたが、結局、23歳のときに大学を退学した。
退学した彼は作家を志し、ポケットに3ドルだけをもって貨物船に乗り、ニューヨークへ出た。そして小説を書いては、出版社にもちこみ、突っ返されることを繰り返した後、27歳のときにようやく『黄金の杯』が出版された。その直後にニューヨークの株式市場が大暴落し、世界恐慌がはじまった。
スタインベックの小説の売れ行きはかんばしくなく、その後も作品を出版社から突っ返されることは多かったが、32歳のとき、短編『殺人』でO・ヘンリー賞を受けたのを契機に風向きが変わった。数社から出版を断られていた『トーティーヤ大地』が、33歳のときに出版されると、これがベストセラーとなり、映画化権が売れた。
以後、『二十日鼠と人間』『怒りの葡萄』『エデンの東』などを書き、60歳のときにノーベル文学賞を受賞。1968年12月、ニューヨークの自宅で心臓発作のため没した。66歳だった。

スタインベックの『エデンの東』は、拙著『名作英語の名文句』でも取り上げた。聖書の「カインとアベル」の話を下敷きにした小説『エデンの東』は映画化され、テーマ音楽も有名で、ジェームズ・ディーンが主演して大ヒットしたけれど、映画になったのは、小説全体のごく一部であって、ディーンが演じた役の母親の若いころの話のほうが、自分としては映画よりずっとおもしろかった。なんだ、『怒りの葡萄』の印象が強くて、こむずかしいことを言う作家だとばかり思っていたけれど、じつは魅力的な女性を描く、通俗的な魅力をもった作家じゃないか、と。
スタインベックはノーベル賞作家のわりには、あまり評価の高くない作家だけれど、もっと読まれてもいい人だという気がする。
(2014年2月27日)




●おすすめの電子書籍!

『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句』(越智道雄選、金原義明著)
「エデンの東」「風と共に去りぬ」から「ハリー・ポッター」まで、英語の名作の名文句(英文)を解説、英語ワンポイン・レッスンを添えた新読書ガイド。

『2月生まれについて』(ぱぴろう)
ルドルフ・シュタイナー、ジョン・マッケンロー、ジョージ・フェリス、ジョルジュ・シムノン、エジソン、トリュフォー、スティーブ・ジョブズ、ロベルト・バッジョ、志賀直哉、村上龍、山本寛斎、志賀直哉、桑田佳佑など、2月誕生の29人の人物評論。人気ブログの元となった、より長く、味わい深いオリジナル原稿版。2月生まれの必読書。

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2月26日・岡本太郎「だめなほうに賭ける」

2014-02-26 | 美術
2月26日は、サザンオールスターズの桑田佳祐が生まれた日(1956年)だが、芸術家、岡本太郎の誕生日でもある。
自分がはじめて岡本太郎の名を知ったのは、1970年の大阪万国博覧会のシンボル「太陽の塔」の作者としてだった。岡本作品のトレードマーク「顔」で太陽を表した。わかりやすく象徴で、かつ時代を痛烈に風刺したデザインに衝撃を受けた。

岡本太郎は1911年、現在の神奈川の川崎市で生まれた。父親は有名な漫画家、岡本一平で、母親は作家、岡本かの子だった。父親は家計をかえりみない放蕩者で、母親は家事や育児を放棄し、夫公認の若い恋人をいっしょに住まわせるという壮絶な家庭で太郎は育った。小さいころから絵を描くのが好きだった太郎は、学校で授業を受けること自体がいやで、学校を始終変わった後、中学を出るとすぐ美術学校に進んだ。
18歳のとき、家族といっしょに船で仏国パリへ渡った。パリの町を5日間、市内観光すると、両親は太郎をひとり残して、英国へ旅立った。ロンドンで開かれる軍縮会議を傍聴する取材のためで、以後10年間、太郎はひとりパリで暮らした。
当時、絵を描くことに疑問を抱き、絵が描けなくなっていた。絵が描けないのなら、せっかくやってきたパリの文化を吸収するべきだとして、彼はフランス語を身につけ、ソルボンヌ大学で哲学や民俗学を学んだ。そんなとき彼は、パリでバプロ・ピカソを発見した。
「ピカソの絵の前で泣くほど感激するのには、二ヵ月半の迷いの生活が必要だった。」(岡本太郎『青春ピカソ』新潮文庫)
岡本太郎はピカソに挑戦し、ピカソを乗り越えることを目標として、芸術に取り組みだし「傷ましき腕」を描いた。29歳のとき、ドイツ軍のパリ侵攻を避けて帰国。展覧会に入賞し、個展を開いた。第二次世界大戦中は召集されて兵役につき、中国戦線で戦った。敗戦後も、半年ほど中国で抑留生活を送った後、復員。
37歳のとき「夜の会」を結成し、前衛芸術について論じ、挑発的な発言をした。
59歳のとき、大阪万博のシンボル・タワーとして「太陽の塔」を製作。芸術作品制作のかたわら、本を書き、テレビ番組や広告にも出演し、流行語を作った。
「芸術は爆発だ」
「どんなものにも顔がある。グラスの底に顔があったっていいじゃないか」
岡本は、縄文式土器の美術性を高く評価し、古代土器に対する日本人の見方を一変させ、するどい文明批評で日本文化に潜む欺瞞をあばいた。1996年1月、パーキンソン病による急性呼吸不全のため、東京の入院先で没した。84歳だった。

かつて岡本太郎はメキシコの古代美術に触れ、こう激賞した。
「けしからん。何百年も前にわたしのマネをしているとは!」

自分は岡本太郎のことばには、いく度も励まされ、救われ、勇気づけられてきた。

「自分はだめな人間なんだとか、こうやったらきっとだめになるだろう、それならそのマイナスの方に賭けてみるんだ。」(岡本太郎『自分の中に毒を持て』青春文庫)

「貧しいということは、苦しいかもしれないが、逆にその苦しいことが素晴らしい。だから一般には苦しい生き方をしていると、自分をみじめに思ってしまうが、これは大きなまちがいだ。」(同前)

岡本太郎は、ほんとうことを言ってくれる人だった。現代こそ彼の発言が望まれる時代だが、彼はもういない。生きている自分たちが、ほんとうのことを言わなくては。
(2014年2月26日)


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『ポエジー劇場 子犬のころ2』(ぱぴろう)
絵画連作によるカラー絵本。かつて子犬だったころ、彼は泣いているリスに出会って……。友情と冒険の物語。

『ポエジー劇場 子犬のころ』(ぱぴろう)
絵画連作によるカラー絵本。かつて子犬だったころ、彼は、ひとりの女の子と知り合って……。愛と救済の物語。

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2月25日・ジョージ・ハリスンの繊細な個性

2014-02-25 | 音楽
2月25日は、印象派の画家、ルノワールが生まれた日(1841年)だが、20世紀最大の音楽グループ「ザ・ビートルズ」のジョージ・ハリスンの誕生日でもある。
独特の繊細さで知られる「三人目のビートル」である。

ジョージ・ハリスンは、1943年、英国イングランドのリヴァプールで生まれた。父親はバスの運転手で、母親は食料品店を手伝っていた。母親は歌を歌うのが好きで、ジョージがお腹にいるとき、よくラジオでインド音楽を聴いていたらしい。
小さいころから音楽好きだったジョージは、洗濯板をギターがわりにかき鳴らしていた。それが友人にもらった中古ギターになり、母親に買ってもらったエレキギターになった。ギターの練習に熱中し、彼は仲間とスキッフル・バンドを組んだ。
14歳のころ、ジョージは一歳年上のポール・マッカートニーと出会い、ポールに紹介されて三歳年上のジョン・レノンに会った。ポールは、ジョンと組んでいる自分たちのバンドにジョージを引き入れようとした。ジョージは二人の前でギターを弾いて見せた。ジョンは彼の腕前に感心したが、若すぎるとして加入を認めなかった。それからジョージは、ジョンの後をくっついて歩くようになり、ついにジョンは加入を認めた。
ジョン、ポール、ジョージ、そしてリンゴ・スターをドラマーに迎えて、4人となったザ・ビートルズは1962年、ジョージが19歳のときにレコードデビューした。彼らはたちまち全英の人気者となり、やがて全世界の若者たちを熱狂させる人気グループとなった。
ビートルズには、ポールとジョンという二人の天才がいて、二人三脚で作詞作曲をしていたため、ジョージ・ハリスンが楽曲を発表する機会は限られていたが、それでもジョージはしだいに頭角をあらわした。彼は「タックスマン」「アイ・ウォント・トゥ・テル・ユー」「恋をするなら」「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」などの名曲を書いた。とくにビートルズの最高傑作ともされるアルバム「アビイ・ロード」は、彼の代表作「サムシング」「ヒア・カムズ・ザ・サン」が中心的な位置に収められ、「ジョージのアルバム」とも呼ばれる。
27歳のとき、ビートルズが解散。以後、ソロとなり、「マイ・スウィート・ロード」「美しき人生」「二人はアイ・ラヴ・ユー」「セット・オン・ユー」などのヒットを放った後、2001年11月、肺ガンと脳腫瘍のため、米国ロサンゼルスで没した。58歳だった。

ジョージは、ビートルズではリードギタリストを務め、インド精神世界への興味を持ち込んで、バンドに新趣向をもたらした。ビートルズの面々をインドへヨガの旅に連れだしたのも、「ノルウェーの森」や「ウィズイン・ユー・ウィズアウト・ユー」の楽曲にシタール演奏を入れたのはジョージの功績である。彼のインド音楽は、年をへるしたがって輝きをいよいよ増してきた気がする。時代がようやく追いついた。

ビートルズがデビューしたころ、インタビューで、いつまでこの人気が続くと思うかと問われ、たしかジョージがこう答えていた。これを自分はときどき懐かしく思いだす。
「そんなに長続きするなんて思っていない。お金を貯めて美容院でもやるつもりだよ」

ジョージの曲「サムシング」にはうっとりとするような詩情があって、何度聴いても自分は陶然となる。あれは不思議なもので、レノン=マッカートニーから出て来ない種類の詩情にちがいなく、壊れやすい、線の細い繊細さだけれど、やはりジョージ・ハリスンは強い個性をもった作曲家だったのだなあ、と思う。
(2014年2月25日)


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『おひつじ座生まれの本』~『うお座生まれの本』(天野たかし)
おひつじ座からうお座まで、誕生星座ごとに占う星占いの本。「星占い」シリーズ全12巻。人生テーマ、ミッション、恋愛運、仕事運、金運、対人運、幸運のヒントなどを網羅。最新の開運占星術。

『ポエジー劇場 天使』(ぱぴろう)
絵画連作によるカラー絵本。いたずら好きな天使たちの生活ぶりを、詩情豊かな絵画で紹介。巻末にエッセイを収録。

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2月24日・チェスター・ニミッツの明確な目標

2014-02-24 | 歴史と人生
2月24日は、コンピュータのアップル社の創立者、スティーブ・ジョブズが生まれた日(1955年)だが、米軍人、チェスター・ニミッツの誕生日でもある。第二次世界大戦時、米国海軍の太平洋艦隊司令長官で、米国を勝利に導き、戦艦「ミズーリ」号上での降伏調印で米国代表として署名した人物である。日本は要するにニミッツに負けた。
自分は学生のころから、ニミッツ元帥の名は知っていた。陸軍側のトップ、ダグラス・マッカーサー元帥のライバルで、男前で聡明で謙虚さをそなえた立派な人物だった。

チェスター・ウィリアム・ニミッツは、1885年、米国テキサス州フレデリックスバーグで生まれた。ドイツ系の家系で、家はホテルを経営していた。チェスターの父親は彼が生まれる前に没し、チェスターは祖父から強い影響を受けた。祖父は若いころ、ドイツの商船に乗り込んでいた元船乗りで、孫にこう教えたという。
「海はまるで人生そのもの、きびしい教師だ。もっともいいのは、学べることをすべて学び、ベストを尽くし、後悔しないことだ、とくに不可抗力のことについては」
祖父のホテルを手伝いながら育ったチェスターは、はじめウェストポイント(アメリカ陸軍士官学校)を希望していたが、同校への推薦が得られず、推薦が得られたアメリカ海軍兵学校へ16歳で入学した。こうしてテキサス生まれの彼は海へ出ることになった。
兵学校を卒業した20歳のとき、乗り込んだ戦艦が日本に寄港。ニミッツは、ロシア・バルチック艦隊を破ったばかりの連合艦隊司令長官、東郷平八郎と会って話したという。
第一次世界大戦中は潜水艦司令部の参謀だったニミッツは、1941年の日本軍によるハワイ真珠湾攻撃のニュースを、自宅のラジオで知った。46歳の彼は、ただちに米国海軍の太平洋艦隊司令長官に任命され、少将から飛び級で大将に昇格。彼は、マッカーサー陸軍大将が指揮する南西太平洋方面を除く太平洋方面の全軍を指揮することになった。
彼は空母、航空機の戦力増強に務め、潜水艦を含めた太平洋のゲリラ攻撃を推進し、また、本国政府からの意見よりも、現場の意見を重視して人事をおこなった。
1942年、47歳のとき、日本海軍がミッドウェー島を攻略しようとして奇襲攻撃をしかけたのをニミッツは先に読んで戦力増強して対応し、日本艦隊の主力を壊滅させた。これによって、戦局は大きく連合国側に傾き、日本は敗戦への道をたどりだした。
49歳で元帥に昇進。日本の降伏調印式をへて、戦後、52歳で引退した。
引退後は、日米関係の修復と、東郷平八郎に関連する施設の復興に協力した後、1966年2月、脳卒中と肺炎により没した。81歳になる4日前だった。

ニミッツは、ヒロシマ、ナガサキへの原爆投下にも当初は反対していたが、結局周囲に説得されたらしい。日本の降伏を知ったニミッツは、ただちに麾下の全軍に対して、日本人をののしったり、虐待したりしないよう厳命を下したという。

ミッドウェー沖海戦で勝利したニミッツは、日本軍の敗因を、敵に勝る大軍を率いて奇襲の必要がないのに奇襲を試みたことと、目標をひとつにしぼらなかったことだと分析した。ニミッツは、自軍の攻撃目標を、日本の機動部隊の空母と明確にしていた。
そういえば、日露戦争の行方を決定づけた日本海海戦で、東郷平八郎は、自軍の砲撃目標を敵バルチック艦隊の旗艦に集中させた。
ニミッツは39歳のとき、東郷平八郎の国葬にも立ち会っている。彼の目標明確化の戦術方針は、尊敬する東郷を見習ったものかもしれない。
いったいなにを目指しているのかとブレがちな昨今の自分には、ニミッツの明確な指揮ぶりは、胸を刺して痛い。目標を明確にしぼること。そうだよなあ、と思う。
(2014年2月24日)



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『2月生まれについて』(ぱぴろう)
スティーブ・ジョブズ、ジョン・マッケンロー、ジョージ・フェリス、ジョルジュ・シムノン、エジソン、トリュフォー、ロベルト・バッジョ、ルドルフ・シュタイナー、志賀直哉、村上龍、山本寛斎、志賀直哉、桑田佳佑など、2月誕生の29人の人物評論。人気ブログの元となった、より長く、味わい深いオリジナル原稿版。2月生まれの必読書。

『ポエジー劇場 大きな雨』(ぱぴろう)
カラー絵本。43枚の絵画による絵物語。ある日降りだした雨。あたりは大洪水に。女の子は舟に乗り、不思議な旅に出るのでした。

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2月23日・中島みゆきの想像力

2014-02-23 | 音楽
2月23日は、ロック・ミュージシャン、宇崎竜童が生まれた日(1946年)だが、シンガーソングライターの中島みゆきの誕生日でもある。
自分は、「時代」を歌っていたころから中島みゆきを知っていたし、まわりの友人たちは彼女の歌をよく聴いていたけれど、長らくどこがいいのだかピンとこなかった。でも最近、遅ればせながら、その魅力がすこしわかってきた。

中島みゆきこと本名・中島美雪は1952年、北海道の札幌で生まれた。父親は産婦人科医で、子どものころは、岩内、帯広、山形、ふたたび帯広と引っ越しが多かった。
帯広の高校を出、札幌の女子大で国文学を専攻した。高校時代から自作の歌を歌うようになり、大学時代はあちこちの音楽コンテストに出場し「コンテスト荒らし」と呼ばれた。
大学卒業後も、帯広を活動の拠点として音楽活動を続け、23歳のとき、音楽コンテストで「傷ついた翼」を歌い入賞。「アザミ嬢のララバイ」でレコード・デビューした。
同じ年におこなわれたコンテストで「時代」を歌い、グランプリ受賞。「中島みゆき」の名前はこの楽曲とともに一躍全国に知れ渡った。
以後「わかれうた」「悪女」「空と君のあいだに/ファイト!」「旅人のうた」「地上の星/ヘッドライト・テールライト」などを発表。ユーミンこと松任谷由美と並んで、ニューミュージック界の女王と呼ばれ、ユーミンが「純愛の神さま」であるのに対して、中島は「失恋の神さま」と、その歌の内容に陽と陰との対照があるとされる。
ほかの歌手に提供した楽曲も多く、研ナオコ「あばよ」、桜田淳子「しあわせ芝居」、工藤静香「黄砂に吹かれて(作詞のみ)」、吉田拓郎「永遠の嘘をついてくれ」、TOKIO「宙船(そらふね)」などのヒット曲がある。

自分が最初、中島みゆきの曲を聴いたときは、テーマと真摯に向き合った、やや暗い感じの内容を、若い声で朗々と太く歌い上げる変わった女性、という印象だった。
その後、ラジオの深夜番組をやっているのを聴いたら、軽く明るい、はじけたキャラクターで、そのギャップに驚いた。
彼女の写真を見たのはその後だった。いわゆるかわいこちゃんタイプの女性で、そのギャップに三たび驚いた。だから、自分にとって中島みゆきは、ばらばらなイメージをつぎはぎした感じの人である。でも、どの面の印象も、それはそれで悪くなかった。

ご覧になった方も多いかもしれないけれど、以前、タレントのマツコ・デラックスがテレビ番組のなかで、中島みゆき論を語っていた。中島みゆきの「タクシードライバー」の歌詞とそっくりな体験をしたことがあるとマツコは言っていた。失恋して、仕事も失い、心がボロボロの状態でタクシーに乗り、後部シートで泣いていると、タクシーの運転手が野球の話ばかりを延々と繰り返していた、と、歌詞そのままの体験談だった。
それを聞き、ああ、と、自分は納得するものがあった。
心がボロボロにくずれているのが、明らかに見てとれるとき、想像力を働かせて相手の心の内を察し、あえて相手の気持ちに触れないでおこうという思いやりがある。中南米や欧米人に、そういう心の遣い方は見たことがないので、ひょっとするとこれは日本人独特の気遣いかもしれない。一般に諸外国の人々は、あまり他人の心に想像力を働かせない。
そうしてみると、この歌に関して、中島みゆきの魅力は、とても日本的なものだという気がする。また、歌詞から、苦労人こそそういう想像力のある思いやりを発揮するものだと中島みゆきが考えているとわかる。これも芭蕉に通じる考え方で、日本的だと思う。
(2014年2月23日)



●おすすめの電子書籍!

『わたしにそれを言わせないで(一)女子高生の社長秘書』(香川なほこ)
孤児となった女子高生・赤池美奈は、放課後は社長秘書のバイトをすることに。ある夜、社長に意外な事実を告げられた彼女の心は、二人の男のあいだではげしく揺れはじめる。青春官能小説。

『ポエジー劇場 子犬のころ』(ぱぴろう)
絵画連作によるカラー絵本。かつて子犬だったころ、彼は、ひとりの女の子と知り合って……。愛と救済の物語。

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女子フィギュアの問題点

2014-02-22 | スポーツ
ロシア・ソチ五輪の女子フィギュア・スケートを見ていて、思ったことを書きます。
最初に言っておくと、自分は、出場したほとんどすべての選手を応援していました。日本の浅田真央、村上佳菜子、鈴木明子の各選手はもちろん、韓国のキムヨナや、イタリアのカロリナ・ コストナー、ロシアのアデリナ・ソトニコワ、ユリア・リプニツカヤ、中国の李子君といった各選手も、みんな応援していました。みんな、ベストのすべりを見せてもらいたい、と。
ただ強いて言えば、チェコの15歳、エリザベータ・ウコロワ選手と、米国のグレーシー ゴールド選手をいちばん応援していたかもしれません。ウコロワ選手がフリーの演技ではすこし元気がなかったのと、ゴールド選手の化粧がケバすぎて、ちょっと「バットマン」に出てくるジョーカーみたいで、せっかくの大会屈指の美人がかえって悪くなり、あれならすっぴんで出たほうが彼女の場合きれいだったのではと思われたのが気になったといえばなりました。

優勝したソトニコワ、2位のキムヨナ、3位のコストナーの各選手は、どの選手が1位になってもおかしくないと自分には思われました。
ソトニコワ選手の演技は躍動感があったし、キムヨナ選手は相変わらずしなやかで完璧だったし、コストナー選手はさすが世界ランキング1位のすばらしい貫祿の演技だったと思います。彼女が使ったラヴェルの「ボレロ」もよかったです。
これだと、2位韓国のファンや、3位イタリアのファンのあいだでは、順位に不満が出るのはとうぜんかもしれない、と思いました。判定についてはいろいろなところでいろいろな批判が出ていて、それに対し、五輪委員会の側でもあらためて判定は正確だったとコメントを出したようです。

自分には、フィギュア・スケートの審査基準については、細かなことはよくわからないのですが、ひとつだけ言えると思うのは、浅田選手の技術点より、ソトニコワ選手の技術点が上だったのは、おかしいのではいなか、ということです。
フリーの得点全体でなく、演技構成点でもなく、技術点だけについてです。
浅田選手は、3回転半のトリプルアクセルを決め、そのほか、2連続の3回転ジャンプを含むすべての3回転ジャンプをノーミスで決めています。あきらかに、ソトニコワ選手より内容、質ともに上回っているにもかかわらず。
でも、これは、ソトニコワ選手や審判が悪いのではなく、いまのルール、審査基準が悪いのだと思います。
これは4年前のバンクーバー大会のときから言われていたことですが、浅田選手の3回転半のトリプルアクセルと、キムヨナ選手の2連続3回転が同じような点数というのは、どうかという問題です。今回のソチ大会では、上位選手は(浅田選手を含めて)みんな2連続の3回転ジャンプを跳んできました。しかし、トリプルアクセルに挑んだのは浅田選手だけです。ということは、どの選手も、トリプルアクセルは難度が高いわりに点数が低く、わりに合わないジャンプだと考えているということで、ということは、トリプルアクセルの基礎点はもっと高くしないと適性でない、ということだと思います。

フィギュア・スケートの多回転ジャンプは、柔道の一本勝ちのようなもので、フィギュアのひとつの夢だと思います。みんなが効果だとか警告だとかのポイントだけをねらって勝ちにいくようなら柔道に柔道の魅力はなくなるのと同様、よりたくさん回ろうとするジャンプがフィギュアの魅力を支えているのだと思います。

今回の浅田真央選手のフリーの演技には「感動」のひと言以外、ことばありません。ショート・プログラムが終わった後は、
「もう、彼女には、無事に日本へ帰ってきてくれれば、それでいい」
とさえ思っていましたが、さすが浅田選手で、それでは終わらず、世界のトップ・スケーターの意地を見せてくれました。メダルをとる以外の部分で、こんなに感動したのは、1988年カルガリー五輪で「フライング・フィッシュ」と呼ばれた伊藤みどり選手のフリー演技以来でした。感動をありがとう、です。
(2014年2月22日)



●おすすめの電子書籍!

『おひつじ座生まれの本』~『うお座生まれの本』(天野たかし)
おひつじ座からうお座まで、誕生星座ごとに占う星占いの本。「星占い」シリーズ全12巻。人生テーマ、ミッション、恋愛運、仕事運、金運、対人運、幸運のヒントなどを網羅。最新の開運占星術。

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2月22日・ショーペンハウエルの偏屈

2014-02-22 | 思想
2月22日は、映画監督、ルイス・ブニュエルが生まれた日(1900年)だが、哲学者のショーペンハウエルの誕生日でもある。
自分は若いころは、ショーペンハウエルをよく読んだ。『自殺について』『読書について』などなつかしい。皮肉屋でペシミスティックという印象が強くある。

アルトゥール・ショーペンハウエルは、1788年、ドイツのダンツィヒで生まれた。ドイツ貴族の家系で、父親は裕福な商人で、母親は作家だった。
アルトゥールが5歳のとき、一家はハンブルクへ引っ越した。
17歳のとき、父親が(おそらく自殺で)没し、 母親はヴァイマールへ越していった。アルトゥールはハンブルクに残って商人の修行を続けていたが、1年でそれをやめ、母親のもとに身を寄せた。
21歳のとき、大学に入学。最初は医学を専攻したが、後に哲学科へ転じた。
30歳のとき、主著 『意志と表象としての世界』を完成し、翌年に出版。
32歳でベルリン大学の講師となった。そのころ、同大学では、ショーペンハウエルが大嫌いなヘーゲルが講義をしていたが、そちらに学生をとられて、ショーペンハウエルの講義にはたった5人の学生しか集まらなかった。怒った彼は、すぐに大学を辞めてしまった。
43歳のころ、ベルリンにコレラが流行し、ショーペンハウエルはそれを避けてフランクフルトへ越し、そこで生涯を過ごした。 1860年9月、猫といっしょに長椅子にすわっているとき、心不全を起こし、没した。72歳だった。

ショーペンハウエルは、世界の根本は「盲目的な存在意志」だとして、厭世哲学を説いた。この世の中がもともと生命を求める意志で動く本能的で衝動的なものなので、この世はどうしても対立と闘争の絶えない世界となる。それを調整するために、人は国家や法律を作るけれど、それでも個人的エゴイズムが集団的エゴイズムに代わるのがせいぜいで、根本的な解決にはならない。解決方法は、意志の否定しかない。具体的には、禁欲、清貧、粗食による解脱、聖者の生活である。と、ショーペンハウエルの思想はまさにペシミズムで、仏教に近い。

ショーペンハウエルは悲観的で心配性だったそうだ。いつも、だまされないかとか、盗まれないかとか、いつも神経をとがらせていて、夜寝るときはピストルと剣をいつもそばにおいていたらしい。そうかと思うと、かんしゃくもちで、自分の本など読む人はいない、と母親に言われると、こう言い返した。
「わたしの本はあんたが書いたくずのような本が消えてなくなったころに、長く読み継がれる本なのだ」
彼の『意志と表象としての世界』は、出版後1年半で百部も売れなかったという。

「女性は、個体としてよりも、種族としてより多く生きている」
「孤独は、すぐれた精神の持ち主の運命である」
そう言ったショーペンハウエルは、熱烈な恋に落ちたこともあったらしいが、
「結婚するとは、男の権利を半分にして、義務を二倍にすることである」
として生涯独身を通した。偏屈な変わり者の哲学者だったが、自分としては共感する部分もひじょうに多い。
(2014年2月22日)


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『コミュニティー 世界の共同生活体』(金原義明)
ドキュメント。ツイン・オークス、ガナスなど、世界各国にある共同生活体「コミュニティー」を具体的に説明、紹介。

『ポエジー劇場 大きな雨』(ぱぴろう)
カラー絵本。43枚の絵画による絵物語。ある日降りだした雨。あたりは大洪水に。女の子は舟に乗り、不思議な旅に出るのでした。

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2月21日・ジバンシィと友情

2014-02-21 | ビジネス
2月21日は、南インドにあるコミュニティー「オーロヴィル」の創設者ミラ・アルファサが生まれた日(1878年)だが、ファッションデザイナー、ジバンシィの誕生日でもある。
自分は、ジバンシィのライターをもっている。毎朝、起きて顔を洗うと、ご先祖さまや、亡くなった友人や先輩など、鬼籍に入ったゆかりある人々の霊にお線香をあげる。20秒くらいしか拝まないけれど、そのとき、ジバンシィでお線香に火をつける。百円ライターでつけるよりなんとなく気分がよく、故人も気分がいいかもしれないと思うからだ。

ユベール・ド・ジバンシィは、1927年、仏国、パリの北にある町、ボヴェで生まれた。ジバンシィ家は、イタリア貴族を先祖にもつ侯爵家で、ユベールはその次男として生まれた。ユベールが3歳のとき、父親がインフルエンザで没し、彼は兄や母親とともに母方の祖母のもとで暮らした。母方の祖父は、タペストリーをデザイン、製造する工房の経営者だった。侯爵の爵位は後に兄が継いだ。
ユベールは10歳のとき、パリで開催された万国博覧会を見て、ファッション・デザインの世界で生きることを決意。パリの美術学校をへて、18歳のころからファッション・デザイナー、ジャック・ファットのもとで商業デザインをはじめた。
25歳のとき、独立。自分の会社を興して、コレクションを発表した。ジバンシィのデザインはエレガントではあったが、当時の主流派だったディオールの保守的なデザインとは対照的に、斬新で個性的だった。シャツ素材で、開襟、ワッフル袖のベッティーナ・ブラウスを作り、世界のファッション界をあっと言わせた。経済的な理由から、初期のジバンシィの服は、コットンなど比較的安価な素材で作られていたが、デザインの先進性がそれを補って余りあった。
26歳のとき、ハリウッド映画「麗しのサブリナ」の衣裳を担当した。二つ年下の主演女優オードリー・ヘップバーンは、その映画の後「おしゃれ泥棒」「シャレード」「ティファニーで朝食を」などでもジバンシィを着た。
ジバンシィはその後、ウエストもヒップもない「自由なライン」のシュミーズドレスを発表して話題を集め、香水、紳士服、装身具などにも進出した後、1995年、68歳のとき、後任デザイナーを指名して引退した。

ジバンシィが映画「麗しのサブリナ」の衣裳を引き受けたとき、彼は主演女優を、名女優のキャサリン・ヘップバーンだと勘違いしていたらしい。主演がオードリーだとわかると、ジバンシィは落胆し、断ろうとした。しかし、以前からジバンシィのデザインを気に入っていたヘップバーンにほだされ、結局彼は衣裳を作った。その後、ジバンシィとヘップバーンの友情は終生続いた。

オードリー・ヘプバーンは亡くなる前、米国ロサンゼルスで悪性腫瘍の治療を受けていた。1992年の暮れになると、周囲の者はヘップバーンをスイスの自宅で最期のときを迎えさせたいと考え、本人もそれを希望した。ロサンゼルスの滞在先には「ローマの休日」で共演したグレゴリー・ペックも付き添っていた。
衰弱したヘップバーンを、空港の人ごみに連れだすことがはばかられたが、このときジバンシィがジェット機を手配した。彼は資産家の友人に連絡をとり、プライベート・ジェット機をチャーター。それで、ヘップバーンは人ごみを避けてこっそりと、花がいっぱいに飾られたジェット機に乗り込み、スイスへ飛ぶことができた。そうして、年が明けた1993年の1月にスイスの自宅で亡くなった。
自分は、ペックやジバンシィがずっとヘップバーンのよき友人でいつづけた話がとても好きだ。
(2014年2月21日)


●おすすめの電子書籍!

『オーロビンドとマザー』(金原義明)
インドの神秘思想家オーロビンド・ゴーシュと、「マザー」ことミラ・アルファサの思想と生涯を紹介。オーロビンドはヨガと思索を通じて、生の意味を追求した人物。その同志であるマザーは、南インドに世界都市のコミュニティー「オーロヴィル」を創設した女性である。われわれ人間の「生きる意味」とは? その答えがここに。

『オーロヴィル』(金原義明)
南インドの巨大コミュニティー「オーロヴィル」の全貌を紹介する探訪ドキュメント。オーロヴィルとは、いったいどんなところで、そこはどんな仕組みで動き、どんな人たちが、どんな様子で暮らしているのか? 現地滞在記。あるいはパスポート紛失記。南インドの太陽がまぶしい、死と再生の物語。

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2月20日・長嶋茂雄の魅力

2014-02-20 | スポーツ
2月20日は「燃える男」が生まれる日である。たしか落語家の立川談志が生前、石油危機が叫ばれていたころ、こんなことを言っていた。
「石油がなくなるって世の中で騒いでますがねぇ、もしも石油がなくなったら、アントニオ猪木とか、長嶋茂雄とか、燃える男を燃しゃあいいんですよ」
2月20日は「小説の神様」志賀直哉(1883年)、プロレスのアントニオ猪木(1943年)、そして、プロ野球界の「ミスター」長嶋茂雄の誕生日でもある。

長嶋茂雄は、1936年、千葉の、現在の佐倉市で生まれた。父親は町役場に勤める役人で、茂雄は4人きょうだいの末っ子だった。
野球少年だった茂雄は、「物干し竿」と呼ばれた長いバットで打ちまくる強打者、藤村富美男の大ファンで、藤村の所属する阪神タイガースのファンだったという。彼は手縫いのボールとグローブ、手製のバットで野球の練習をした。
高校時代には野球部の4番打者として活躍した。卒業にあたり、社会人野球やプロ野球の読売ジャイアンツからも誘いがあったが、父親がすべて断り、茂雄を大学へ進学させた。
立教大学に入学した長嶋は、野球部に入部。六大学リーグのホームラン記録を作った。
卒業後、22歳で読売ジャイアンツに入団。大型新人だったが、開幕デビュー戦では、国鉄の金田正一投手に完全に抑えられ、4打席すべてを連続三振した。その後はヒットとホームランを量産しだし、プロ野球の新人ホームラン記録を作った。
「4番、サード、長嶋」とアナウンスされる長嶋は、サードゴロを猛ダッシュしてとりにいき、フルスイングで空振りする「見せる野球」で人気者になった。ジャイアンツの主軸メンバーとなり、3番打者「一本足打法」の王貞治とともに「ON砲」と呼ばれた。
38歳のとき、現役選手を引退。引退セレモニーのスピーチで、
「我が巨人軍は永久に不滅です」
とあいさつした。彼の背番号「3」は永久欠番となった。現役引退後は、読売の監督、オリンピック代表チームの監督などを務め、77歳のときに国民栄誉賞を受賞した。

自分は野球にはうといので、ひいきの球団をめぐってファンがケンカしたニュースなどを聞くと、どうして他人の商売をあれだけ熱心に応援できるのか不思議な気がする。野球というスポーツは、すわっているだけの時間も多く、腹の出た選手もいたりするので、余計にそう思う。のだけれど、そんな自分でも、王貞治、長嶋茂雄、野茂英雄、イチローといった選手たちのレベルになると、さすがにその魅力もわかる気がしてくる。

その昔、江夏豊投手が村上龍のテレビトーク番組に出演しているのを見た。江夏投手は当時、米国のメジャー球団の入団テストを受けてきたところだったのだけれど、彼が、米国の選手たちは、練習前のロッカールームで音楽を大音響で鳴らして、素っ裸になって踊りはじめ、びっくりした、というような話をした。すると、村上龍が、
「長嶋茂雄選手だったら、そういうのにも入っていけますかね?」
と尋ねた。すると、江夏投手は、すこし考えてから、こう答えた。
「うん、ミスターだったら、裸になって、いしょに踊りだすかもしれない」
これを聞いたとき、自分ははじめて長嶋茂雄の魅力が、すこしわかった気がした。
(2014年2月20日)



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『新入社員マナー常識』(金原義明)
メモ、電話、メールの書き方から、社内恋愛、退職の手順まで、新入社員の常識を、具体的な事例エピソードを交えて解説。

『2月生まれについて』(ぱぴろう)
志賀直哉、村上龍、山本寛斎、志賀直哉、桑田佳佑、ジョン・マッケンロー、ジョージ・フェリス、ジョルジュ・シムノン、エジソン、トリュフォー、スティーブ・ジョブズ、ロベルト・バッジョ、ルドルフ・シュタイナーなど、2月誕生の29人の人物評論。人気ブログの元となった、より長く、味わい深いオリジナル原稿版。2月生まれの必読書。

http://www.meikyosha.com


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