2月28日は、ザ・ローリング・ストーンズのリーダーだったブライアン・ジョーンズが生まれた日(1942年)だが、歌手、田原俊彦の誕生日でもある。かつて絶大な人気を誇ったアイドル「トシちゃん」である。
「いまさらアイドルではないだろう」と思っていた自分に、現代でもアイドル稼業は立派に通用するということを教えてくれたアイドル。それが田原俊彦だった。
田原俊彦は、1961年、神奈川の横須賀で生まれた。4人きょうだいの上から3番目で、俊彦は唯一の男の子だった。俊彦が小学校に入学すると間もなく父親が亡くなり、母親は俊彦ら子どもを連れて実家のある山梨の甲府へ引っ越した。経済的な困難から、俊彦は早くから自分が芸能界で出世して、母親の生活を楽にすると決意していた。
甲府の工業高校に入学してすぐ、東京の芸能プロダクション「ジャニーズ事務所」に入門。平日は高校に通い、週末は上京してレッスンを受けるという高校生活を送った。
高校を卒業するとすぐに上京。18歳で、武田鉄矢主演のテレビドラマ『3年B組金八先生』に出演。近藤真彦、野村義男、杉田かおる、三原じゅん子など、実際に中学生だった共演者たちに混じって、ひとりだけ飛び抜けて年上ながら中学生役を演じた。当時は1歳若く年齢を詐称していたらしい。
19歳で「哀愁でいと」を歌い、ソロ歌手としてデビュー。新曲を発売するごとに大ヒットを飛ばし、同時期にデビューした松田聖子とともに、トップアイドル歌手として活躍した。以後「ハッとして! Good」「ブギ浮ぎI LOVE YOU」「キミに決定!」「君に薔薇薔薇…という感じ」「原宿キッス」「NINJIN娘」「シャワーな気分」「ごめんよ涙」などヒット曲を量産した。26歳のとき、テレビドラマ「教師びんびん物語」に主演。33歳のとき、ジャニーズ事務所から独立。以後、所属事務所を変わりながら、芸能活動を続けている。
自分が若いころは、日本でも長渕剛、ユーミン、RCサクセション、サザンオールスターズといった自作自演のミュージシャンたちが活躍していた。ポップミュージックは、本人が書いた歌を本人が演奏し歌うのが主流になっていた。そんな時代に、他人が描いたセールス方針にしたがって、他人が作った詞を歌い、他人が考えた振り付けで踊る、操り人形のようなアイドル歌手では、いまさらないだろう、と自分は思っていた。そこへ登場してきたのが、松田聖子と、田原俊彦だった。二人とも、かわいこぶりっこで、古典的な優等生を演じる、音楽産業の申し子といった感じだった。
自分ははじめのうちは、田原俊彦を見ていて、なんでそんなに人気があるのかわからなかった。けれど、しだいに見慣れていくうちに、こういうのも極めれば、それはそれですごいことなのだ、と納得するようになった。曲を作る人、詞を書く人、演奏する人、振り付けを考える人、スケジュールを組む人、売り込む人、演出する人などと分業制が徹底した音楽産業のなかで、歌って踊る人ことだけに専念する。学年で4つも年下の連中といっしょになって「たのきんトリオ」を組み、ガキのふりをする。そういうことを仕事と割り切って真摯に打ち込んできたアイドルのプロ、それが彼なのだと理解するようになった。
そうしてみると(郷ひろみと同様に)田原俊彦はどうしてあんなバカみたいな笑い方をするのだろうと疑問を感じていたのも、納得できるようになった。
自分が「SMAP」「嵐」「AKB48」を見ても、とくに反発を感じないで、楽しんで見られるのは、田原俊彦にアイドルという職業をすでに教わって学習してきているからである。
(2014年2月28日)
●おすすめの電子書籍!
『2月生まれについて』(ぱぴろう)
ブライアン・ジョーンズ、ルドルフ・シュタイナー、ジョン・マッケンロー、ジョージ・フェリス、エジソン、トリュフォー、スティーブ・ジョブズ、志賀直哉、村上龍、山本寛斎、志賀直哉、桑田佳佑など、2月誕生の29人の人物評論。人気ブログの元となった、より長く、味わい深いオリジナル原稿版。2月生まれの必読書。
『わたしにそれを言わせないで(一)女子高生の社長秘書』(香川なほこ)
孤児となった女子高生・赤池美奈は、放課後は社長秘書のバイトをすることに。ある夜、社長に意外な事実を告げられた彼女の心は、二人の男のあいだではげしく揺れはじめる。青春官能小説。
http://www.meikyosha.com
「いまさらアイドルではないだろう」と思っていた自分に、現代でもアイドル稼業は立派に通用するということを教えてくれたアイドル。それが田原俊彦だった。
田原俊彦は、1961年、神奈川の横須賀で生まれた。4人きょうだいの上から3番目で、俊彦は唯一の男の子だった。俊彦が小学校に入学すると間もなく父親が亡くなり、母親は俊彦ら子どもを連れて実家のある山梨の甲府へ引っ越した。経済的な困難から、俊彦は早くから自分が芸能界で出世して、母親の生活を楽にすると決意していた。
甲府の工業高校に入学してすぐ、東京の芸能プロダクション「ジャニーズ事務所」に入門。平日は高校に通い、週末は上京してレッスンを受けるという高校生活を送った。
高校を卒業するとすぐに上京。18歳で、武田鉄矢主演のテレビドラマ『3年B組金八先生』に出演。近藤真彦、野村義男、杉田かおる、三原じゅん子など、実際に中学生だった共演者たちに混じって、ひとりだけ飛び抜けて年上ながら中学生役を演じた。当時は1歳若く年齢を詐称していたらしい。
19歳で「哀愁でいと」を歌い、ソロ歌手としてデビュー。新曲を発売するごとに大ヒットを飛ばし、同時期にデビューした松田聖子とともに、トップアイドル歌手として活躍した。以後「ハッとして! Good」「ブギ浮ぎI LOVE YOU」「キミに決定!」「君に薔薇薔薇…という感じ」「原宿キッス」「NINJIN娘」「シャワーな気分」「ごめんよ涙」などヒット曲を量産した。26歳のとき、テレビドラマ「教師びんびん物語」に主演。33歳のとき、ジャニーズ事務所から独立。以後、所属事務所を変わりながら、芸能活動を続けている。
自分が若いころは、日本でも長渕剛、ユーミン、RCサクセション、サザンオールスターズといった自作自演のミュージシャンたちが活躍していた。ポップミュージックは、本人が書いた歌を本人が演奏し歌うのが主流になっていた。そんな時代に、他人が描いたセールス方針にしたがって、他人が作った詞を歌い、他人が考えた振り付けで踊る、操り人形のようなアイドル歌手では、いまさらないだろう、と自分は思っていた。そこへ登場してきたのが、松田聖子と、田原俊彦だった。二人とも、かわいこぶりっこで、古典的な優等生を演じる、音楽産業の申し子といった感じだった。
自分ははじめのうちは、田原俊彦を見ていて、なんでそんなに人気があるのかわからなかった。けれど、しだいに見慣れていくうちに、こういうのも極めれば、それはそれですごいことなのだ、と納得するようになった。曲を作る人、詞を書く人、演奏する人、振り付けを考える人、スケジュールを組む人、売り込む人、演出する人などと分業制が徹底した音楽産業のなかで、歌って踊る人ことだけに専念する。学年で4つも年下の連中といっしょになって「たのきんトリオ」を組み、ガキのふりをする。そういうことを仕事と割り切って真摯に打ち込んできたアイドルのプロ、それが彼なのだと理解するようになった。
そうしてみると(郷ひろみと同様に)田原俊彦はどうしてあんなバカみたいな笑い方をするのだろうと疑問を感じていたのも、納得できるようになった。
自分が「SMAP」「嵐」「AKB48」を見ても、とくに反発を感じないで、楽しんで見られるのは、田原俊彦にアイドルという職業をすでに教わって学習してきているからである。
(2014年2月28日)
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ブライアン・ジョーンズ、ルドルフ・シュタイナー、ジョン・マッケンロー、ジョージ・フェリス、エジソン、トリュフォー、スティーブ・ジョブズ、志賀直哉、村上龍、山本寛斎、志賀直哉、桑田佳佑など、2月誕生の29人の人物評論。人気ブログの元となった、より長く、味わい深いオリジナル原稿版。2月生まれの必読書。
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