1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

2/28・最初の石、ブライアン・ジョーンズ

2013-02-28 | 音楽
2月28日は、世界最初のエッセイスト、モンテーニュ(1533年)、幕末の思想家、佐久間象山の(1811年)が生まれた日だが、ザ・ローリング・ストーンズのリーダーだったブライアン・ジョーンズの誕生日でもある。
自分はブライアン・ジョーンズが好きで、まだコンパクト・ディスクがなかった時代、ローリング・ストーンズから脱退したブライアン・ジョーンズが、ひとりでアフリカのモロッコへ行って、現地のミュージシャンの演奏を録音して作った「ジャジューカの笛」のレコードを持っていて、ときどき聴いていた。
ただ、淡々、延々と、笛と太鼓の音楽が流れるだけの音楽で、退屈ではあった。途中にちょっと人が咳き込む音が入っていて、それが妙にさびしく聴こえた。演奏があまりに淡々と続くので、聴いていて、
「なんで自分はこんなものを聴いているのだろう」
という気持ちになってくる、不思議なレコードだった。
では、こりて、一度聴いたきり、二度と針を落とさなかったかというと、そうでもなく、ときどき聴きたくなる、不思議なレコードなのである。

ルイス・ブライアン・ホプキンス・ジョーンズは、1942年、英国イングランドの、ウェールズに近いグロスターシャー州で生まれた。父親はウェールズ人の航空技師で、ピアノやオルガンを弾き、教会で聖歌隊のリーダーを務めた人で、母親はピアノ教師。中流階級の音楽一家だった。
ブライアンは4歳のとき、喉頭炎にかかり、その後遺症で生涯ずっと喘息をひきずることになった。
十代のころ、両親に買ってもらったサキソフォンとアコースティックギターを弾き、学校の音楽部ではクラリネットを吹いた。
ブライアンは知能指数が135あったが、まったく勉強に興味を示さず、学校や権威に対して反抗的で、ほとんどの教科のテストで0点をとった。それでも、物理、化学、生物など理科系だけは優秀な成績をおさめた。
17歳のとき、14歳のガールフレンドを妊娠させた。ブライアンは堕胎をすすめたというが、娘は男の子を出産し、養子にだした。
フライアンは退学となり、ギターを片手に夏の北欧を放浪してまわった。路上でギターを弾いてはお金を稼ぎ、知り合った人にたかってその日その日をしのぐ旅だった。
ロンドンに出て、デパート店員をしながら音楽活動を続けていたブライアンは、20歳のとき、ジャズクラブで、ミック・ジャガー、キース・リチャーズに出会う。意気投合した3人は、ロンドン市内の安アパートで共同生活をはじめた。
食べるものにこと欠く極貧の生活だったが、それでも音楽に没頭する生活を続けた。
彼ら3人は、ベースギターのビル・ワイマン、ドラムのチャーリー・ワッツを加え、創成期のザ・ローリーング・ストーンズのメンバーがそろった。ストーンズは、あちこちのクラブで演奏をし続けた。
ストーンズは1963年6月にレコードデビューを果たした。彼ら5人は、すでに人気絶頂のスターだったザ・ビートルズと対照的に、不揃いな、不良のイメージを押しだす戦略で、人気バンドとなった。
当初、ストーンズは、すでにあるリズム・アンド・ブルースの楽曲を演奏するコピー・バンドだったが、マネージャーの意向で、ミックとキースの作詩作曲コンビが作ったオリジナル曲を演奏するようになった。それにつれて、バンドの中心だったブライアンは、しだいにすみへ追いやられていく。
バンドの人気が高まるにつれ、麻薬に傾倒していったブライアンは、ついには音楽演奏ができない状態になり、自分が作ったバンドから解雇されることになった。
1969年7月、ブライアン・ジョーンズは、自宅のプールに沈んだ姿で発見された。27歳だった。ブライアンの死は、アルコールとドラッグによる溺死、事故死とされているが、他殺説も存在する。

キース・リチャーズの自伝「Life」には、彼とミック・ジャガーと、ブライアンが3人で極貧の共同生活を送っていたころのことが描かれている。部屋は散らかし放題、キッチンには、積み上がった皿がカビの塔と化した、不衛生きわまりない暮らし。お金がなく、食べるものがなくなり、彼らは困り果てた。すると、ブライアンが、
「よし、あいつにたかろう」
と、友人をつかまえて、彼ら3人におごらせた。ブライアンは、そんな家族を食べさせる家長のような役割を果たしてもいたようだ。
そのころの生活について、キース・リチャーズはこう言っている。
「もしも、おれが、ストーンズの歴史のうちの、どこか3カ月間の日記を見られるとしたら、この時期のを見るだろうな。バンドが卵から孵化しようとしている時期だ」
If I'd had the choice of finding a diary of any three-month period of the Stones' history, it wouuld have been this one, the moment the band was hatching.(Keith Richards with James Fox, Life, A Phoenix.)
どん底の生活だったが、好きな音楽があり、何より、若さがきらめきが、そこにあった。
(2013年2月28日)

著書
『1月生まれについて』

『12月生まれについて』

『コミュニティー 世界の共同生活体』

『こちらごみ収集現場 いちころにころ?』

『ポエジー劇場 ねむりの町』

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2/27・霊の哲学者、ルドルフ・シュタイナー

2013-02-27 | 思想
2月27日は、『エデンの東』を書いた米国作家ジョン・スタインベック(1902年)や、米国の消費者運動家、ラルフ・ネーダー(1934年)が生まれた日だが、神秘思想家、ルドルフ・シュタイナーの誕生日でもある。
世間では、その著書『神智学』や「シュタイナー教育」などによって知られるシュタイナーだけれど、自分の場合は、文豪ヘンリー・ミラー、神秘思想家クリシュナムルティを経由して、シュタイナーを知るようになった。

ルドルフ・シュタイナーは、1861年、オーストリア帝国(現クロアチア)に生まれた。父親は鉄道員だった。
シュタイナーは、幼いころから、物質世界を超えた霊の世界を感じていたらしい。カントの哲学書を読み、自然科学を熱心に学んだ彼は、22歳のとき、ゲーテの自然科学に関する著作を検討、整理し、序文を書く仕事を依頼された。それからゲーテ研究に励みだし、14年後にようやくその仕事を完成させた。
41歳のとき、神智学協会の会員となり、協会のドイツ支部の事務総長となる。
そして、神智学協会が、インドで見いだされた新しい救世主、クリシュナムルティをあがめだすにいたって、反発。51歳のときに協会から脱退。人智学協会を設立し、以後、独自の理論による学校教育に情熱を注いだ。1925年、64歳で没。

自分はシュタイナーの『血はまったく特製のジュースだ』(高橋巌訳、イザラ書房)という本を持っている。
書名は、ゲーテの『ファウスト』のなかで、悪魔メフィストフェレスがファウスト博士に、
「血はまったく特製のジュースだ」
と、血で署名した誓約書を求めたところからきているそうだが、この本はシュタイナーの講演をまとめたもので、これを読むと、彼がどういう考え方をしていたのかが、うっすらとうかがわれる。それは、おおよそこんな風である。

物や、動植物、そして人間は、まず物質的な存在としての肉体をもっている。
単なる物とちがって、動植物と人間は、生命的存在としてのエーテル体をもっている。
さらに、動植物とちがって、人間は、感覚的な存在としてのアストラル体をもっている。
人間は、このアストラル体としての存在であるために、快感や苦痛を感じたり、喜び、また悲しんだりできるのである。
多くの人は、肉体的な存在は見えても、エーテル体やアストラル体の存在は見えないかもしれない。しかし、見える人には見える。
人間は、物質的な肉体と、生命的なエーテル体、そして感覚的なアストラル体をもち、さらに自身の内的生命である「私」をもっている。
そして、「私」のなかには、霊性が宿っている。
太古の同族内の純潔が守られていた時代には、人はこの霊を見る力があったが、別の部族との混血が進むと、しだいにその能力は失われてしまった。その代わりに、混血によって、知性や論理性が備わった。
肉体が物質の表現であり、神経組織がエーテル体の表現であるように、血は「私」の表現である。人間の血のなかには「私」の本質が生きている。
だから、悪魔は、血の誓約書を書かせ、血を支配することで、「私」という自我を支配できるのである。
と、そういうことらしい。

「わけがわからん」
人によっては、そう思われるかもしれないけれど、自分は、けっこうおもしろい考えだなあ、と思う。
東洋的な霊魂の、ヨーロッパ的な分析的アプローチというか。
おもしろいだけでなく、そうかもしれないなぁ、とも思う。

こういう考え方をするシュタイナーは、とうぜん「私」や、その内に宿っている霊性を重んじるわけで、彼は、
「現代人はスズメバチのようだ」
と言ったそうだ。頭ばかり発達して、意志がない、と。
子ども向けのシュタイナー教育では、音楽に合わせてからだを動かしたり、色の塗り重ねや、にじみ具合を楽しむことをするらしい。そうやって、肉体、エーテル体、アストラル体、そして「私」を刺激し、霊性を育てようとするのだろう。

現在の自分には霊は見えないのだけれど、いつか見えるようになりたいものだと、ぼんやり期待している。
「血はまったく特製のジュースだ」
自分は、このことばに、悪魔メフィストフェレスの、或る誠実さを感じる。
(2013年2月27日)

著書
『12月生まれについて』

『新入社員マナー常識』

『ポエジー劇場 子犬のころ』

『ポエジー劇場 大きな雨』
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2/26・アマチュアの匂い、桑田佳祐

2013-02-26 | 音楽
1936年に、2.26事件があった2月26日は、芸術家、岡本太郎(1911年)、作家の李恢成(1935年)が生まれた日だが、シンガー・ソング・ライターの桑田佳祐の誕生日でもある。
サザンオールスターズを率いる桑田佳祐、いわゆる「サザンのクワタ」である。
サザンオールスターズ、そして桑田佳祐は、自分にとって青春時代のヒーローであり、デビュー当時からずっと聴いてきたミュージシャンだけれど、自分よりももっと熱烈なファンが巷にはごろごろしているので、自分などがサザン、桑田について、あまり書くべきではないという気がする。
学生のころ、サザンのファンの女のコに、テレビで見かけた桑田のパフォーマンスがすばらしかった旨を言うと、彼女は、こう言った。
「どうも、ありがとう」
これが、本来のサザン・ファンがもっているメンタリティーというもので、当時はそういうメンタリティーをもった女子大生やOL、青年男子がいたるところにいて、彼らが力を合わせて「サザン」というロケットを打ち上げたのである。

桑田佳祐は、1956年、神奈川県茅ヶ崎で生まれた。高校卒業後、青山学院大学に進み、大学の音楽サークルでバンド活動を開始。「脳卒中」「青学ドミノス」など、さまざまにバンド名を変え、メンバーが入れ替わった後、バンド名「サザンオールスターズ」で落ち着き、22歳のとき、「勝手にシンドバッド」でデビュー。サザンは、桑田の抜群の作詞作曲能力を武器に、またたく間に時代をリードするスーパー・バンドとなった。結局、桑田は大学を卒業できなかった。
サザンは以後、「いとしのエリー」「C調言葉に御用心」「いなせなロコモーション」「栞のテーマ」「メロディ」「真夏の果実」「マンピーのG・SPOT」「LOVE AFFAIR」「TSUNAMI」などの名曲を発表し、日本のポピュラー音楽をリードしつづけてきている。

桑田は、どうしても「勝手にシンドバッド」を超える曲が書けないと言うが、自分は、はじめて「勝手にシンドバッド」を聴いたときの衝撃は、いまでもはっきり覚えている。
「すごい曲だ」
と思った。
タイトルにも驚いたが、「ラララ……」と、乗りのいいメロディーもいいし、歌詞も信じられないほど斬新だった。あの不埒者の感じがすばらしかった。
「勝手にシンドバッド」のほか、「女呼んでブギ」「タバコ・ロードにセクシーばあちゃん」「恋するマンスリー・デイ」「C調言葉に御用心」「マンピーのG・SPOT」といった曲も、自分には衝撃的だった。
サザンのように、あれだけメジャーになってしまうと、なかなか過激な歌は歌いづらくなるし、また、過激なものを作れなくなってくるとも思うけれど、メジャーながら過激でありつづけようとする桑田の姿勢は立派だと思う。
また、キャリアが長いベテラン・ミュージシャンとなっても、なお、ある種の素人っぽさ、アマチュアの匂いを大切にしつづけているところも、素敵だと思う。

桑田の奥さんの原由子さん(特別に敬称付き)が、以前テレビ番組で言っていたことだけれど、学生時代、原さんはよく、青山通り沿いにあるスタジオに、桑田たちのバンドの練習を聴きに行っていたらしい。いわば「取り巻き」「追っかけ」である。それで、よく来ているので、バンドのメンバーが原さんに、
「なんか楽器できる?」
と声をかけて、それで、原さんはそこにあったキーボードかピアノをちょっと弾いて見せた。
それが、デレク・アンド・ドミノスの「いとしのレイラ」の後半部分だった。
その番組で、原さんはちょっと弾いて見せて笑った。
「それで、やればできるじゃん、みたいな感じで……」
それでバンドに加わるようになったのだと言っていた。
そのときの原さんの「レイラ」が、音がたくさん入っていて、なんだか豪華絢爛な感じで、すばらしく、自分はそれから楽譜を買ってきて、一所懸命「レイラ」を練習しだした。
練習の甲斐あって、「いいかげんな自己流ヴァージョン」ではあるけれど、なんとか「いとしのレイラ」を弾けるようになった。
それもこれも、みな、サザンのおかげである。
(2013年2月26日)

著書
『ポエジー劇場 子犬のころ』

『ポエジー劇場 子犬のころ2』

『新入社員マナー常識』

『出版の日本語幻想』

『こちらごみ収集現場 いちころにころ?』

『12月生まれについて』


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2/25・美しい、ルノワール

2013-02-25 | 美術
2月25日は、南米諸国独立のために戦った英雄、ホセ・デ・サン=マルティン(1778年)や、『時計じかけのオレンジ』を書いた小説家、アンソニー・バージェス(1917年)が生まれた日だが、仏国の画家、ルノワールの誕生日でもある。
印象派といえば、モネ、そしてこのルノワールである。どちらも、まばゆいばかりの光があふれる名画を描いた巨匠だが、モネが巨大なキャンバスにもっぱら風景を描いたのに対して、ルノワールはモネほどは大きくないキャンバスに人物を多く描いた、というちがいがある。
だから、モネは美術館向きの画家、ルノワールは家庭の応接間向きの画家、といえるかもしれない。とはいえ、値段が高いから、その辺の家庭ではちょっと手が出ないけれど。
ルノワールは、日本人には人気があるようで、美術館でルノワール展が開かれると、おおぜいの美術ファンが詰めかける。それを見て、自分は、
「なんだ、日本人の趣味もなかなか悪くないじゃないか」
とつぶやいたりする。やれやれ、自分は、自分と同じ好みの人を見かけると「いい趣味をしている」と考えだす「上から目線のやつ」なのである。

ピエール=オーギュスト・ルノワールは、1841年、仏国リモージュで生まれた。労働者階級出身で、子どものころ、陶磁器工房で働いていて、その技量を認められ、陶器に彩色デザインを施していたという。
21歳のとき、パリの美術学校に入学。同時に画家シャルル・グレールのもとで絵画を学びだした。シスレーやモネと知り合ったのもそのころだった。
それにしても、ルノワールが生きていた時代のフランスは、なにかと物騒だった。
ルノワールが29歳のとき、対プロイセンの戦争(普仏戦争)がはじまった。すると、彼は召集され、騎兵隊に配属された。しかし、赤痢にかかり、間もなく除隊となり帰ってきた。
翌年、普仏戦争が終わると、武装解除に抵抗するパリ国民軍の反乱が起きて、パリコミューンの臨時政府ができた。30歳のルノワールは、セーヌ川の岸辺で絵を描いていて、パリコミューン支持派の人々によって、敵方のスパイとまちがえられ、あやうくセーヌ川に投げこまれそうになったこともあったという。その後、盛り返してきた共和政権側によって、パリコミューン派の大虐殺がおこなわれた。
そんな時代を、ルノワールはもっぱら絵画に打ち込んでくぐりぬけたが、サロンに出品する絵画作品はよく落選した。
そんな彼が、同じ落選組のモネ、ドガたちといっしょに開いた絵画展が、有名な第一回印象派展で、これに33歳のルノワールは「桟敷」など数点を出品した。
第二回印象派展には「ぶらんこ」「陽光を浴びる裸婦」などの傑作を出品。ルノワール独特の木漏れ日の光が人物の上にこぼれ散っている、美しい人物画だったが、当時の批評家にはまったく理解されず、酷評された。
そして第三回印象派展には、名作「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」を出品。モンマルトルにあったダンス・ホールの風景を、ルノワールは、あ然とするほどに明るく、にぎやかに描いている。
ルノワールは生涯、絵筆を離さなかった人だった。
50歳をすぎたころから、進行性のリューマチ性関節炎にかかり、66歳には、より暖かい気候を求めて、地中海に近い土地へ移った。車椅子による生活を余儀なくされ、右肩や手の硬直が進んだが、それでもルノワールは描く技術を鍛え、キャンバスが動くよう工夫したりして、描きつづけた。晩年の豊満な裸婦像は、そうして磨かれた技術の上に築き上げた新境地である。
ルノワールは、1919年12月、78歳で没している。映画監督のジャン・ルノワールは彼の息子である。

あのまばゆい輝きを放つルノワールの絵画が、当初、まったく評価されず、
「あるのは印象だけだ」とか、
「腐った肉のようだ」
などと、けなされたというのは、いまではまったく信じがたいことである。
モネが理解されるまでには、いくぶん時間もかかったろうが、ルノワールの美しさなら、すぐにわかりそうなものだろう、と。
でも、同じように、現在まったく認められず、無視されている何かが、百年後の世で、
「すばらしい、美しい。なぜ当時の人たちはこれを理解できなかったのか」
と言われることもあり得るわけで、そういうことを考えると、ちょっと怖いものがある。
とくに日本人などは、自分の目で本質を見ることは二の次で、作者が有名だとか、誰か有名な人がほめていた、とか、そんなことで群がりたがる傾向が強い民族性をもっていると、よくいわれる。
たぶん、その通りなのだろう。
果たして、もしも自分が1870年代のパリにいたとして、印象派展に行って、ルノワールの「ぶらんこ」や「陽光を浴びる裸婦」を見て、
「美しい」
と、まっすぐにつぶやくことができるかどうか。
そう考えていくと、ルノワールが描いた、あのまばゆい光に満ちた人物たちは、ただ美しいだけでない、何ものかをもってこちらに迫ってくるようで、ちょっと怖い気もするのである。
(2013年2月25日)

著書
『新入社員マナー常識』

『12月生まれについて』

『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句』

『ポエジー劇場 天使』
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2/24・人生わくわく、スティーブ・ジョブズ

2013-02-24 | ビジネス
2月24日は、りんごに縁の深い日である。ザ・ビートルズのメンバー、ジョージ・ハリスンが生まれた日(1943年)で、コンピュータのアップル社の創立者、スティーブ・ジョブズの誕生日でもある。
自分は編集作業でも作画、デザインでも、ずっとウィンドウズOS上で動くパソコンばかり使ってきていて、ケータイのOSはグーグルのアンドロイドと、アップル・コンピュータは使ったことがないのだけれど、それでも出版業界のデザイナーはほとんどがアップルPCを使っており、身近な存在ではあった。ウィンドウズはもともと、アップルのコンセプトを、マイクロソフトがまねをしたものだということも、昔からよく知っていた。
スティーブ・ジョブズは、まったくたいした実業家である。
車庫(ガレージ)でのコンピュータ作りからはじめて、パーソナル・コンピュータ(PC)を世のなかに普及させた。
「各個人一人ひとりにコンピュータ」という概念は、1970年代半ばには存在しなかったし、当時のヒューレット・パッカードの社員でさえ理解できなかった。それを、ジョブズが新たに打ちだして、伝道師となって世界に布教し、世界を変えてしまったのである。

スティーブン・ポール・ジョブズは、1955年、米国カリフォルニア州サンフランシスコで誕生した。父親はシリア人。母親はアメリカ人で、出産当時、大学院生だった。母方の父親(ジョブズの祖父)が、結婚を認めなかったため、母親はひとりで子供を育てることの困難から、ジョブズは養子に出された。
育て親の両親のもとで育ち、オレゴン州のリード大学に進んだジョブズは、半年ほどで大学を中退。大学の講義をもぐりで聴講したり、インドを放浪したり、禅の修行をしたりした後、コンピュータ業界へ。
高校生のときに知り合ったスティーブ・ウォズニアックと組み、ウォズニアックが作ったコンピュータ、Apple I を販売。この成功を足掛かりに、ジョブズとウォズニアックは、アップル社を設立する。
以後、ジョブズが陣頭指揮をとり、開発したMacintosh、iMac、iTunes、iPad、iPhone、iPadなどを発表。そうしたコンピュータ、音楽機器、電話機は、世界の産業をリードし、世界の人々を魅了し、人間の生活スタイルを大きく変えるものとなった。
そして、2011年10月、ジョブズはカリフォルニア州パロアルトの自宅で没した。56歳だった。

ジョブズは、武田信玄みたいな人だったようで、怒ると、相手を汚いことばで罵倒し、その場で部下にクビを言い渡すことがよくあったらしい。
自分の見込みちがいで在庫が増え、会社の業績が悪くなると、どんどん社員のクビを切って、急場をしのごうとした。
完璧主義者で、部下がもってきた企画や試作品を、満足のいくまで、気が遠くなるような回数やり直させた。かと思うと、一方では、提案それ自体でない、べつの理由から、平気で案を却下したりした。大ヒット商品となった「iPod」の名称は、2度却下され、3度目に提案されて採用されたものだという。
アップル社のiPhoneに対抗して、グーグルがアンドロイドOSを公開すると、ジョブズは激怒し、こう言ったそうだ。
「アンドロイドは抹殺する。盗みでできた製品だからだ。水爆を使ってでもやる」
こういうカリスマといっしょに仕事をするのは、おもしろいだろうけれど、振りまわされて大変だろうなぁ、と思う。
きっと、ジョブズが原因で、うつ状態になったり、引きこもりになったりした社員も、けっこういるのでは、と想像する。
平凡でいいから、穏やかで、不安のない、そこそこの生活を送りたい、と考える人は、こういう人とはいっしょに仕事はできない。
でも、もしも、おもしろい、わくわくするような時間をもちたいと思ったなら、彼のような人といっしょに働くにしくはない。意気投合してうまくいくかもしれないし、衝突して後で恨みつづける相手になるかもしれないけれど、いずれにせよ、わくわくした人生の時がもてることはまちがいない。

自分がジョブズに感心したのは、2005年のスタンフォード大学の卒業式での、彼のスピーチを聞いたからである。
卒業生を前にして、ジョブズはいろいろ語ったなか、自分の出生についても触れた。
彼は生まれるとすぐ養子に出される約束になっていたが、受け入れる側の両親は、じつは女の子を望んでいた。それで、ジョブズが生まれると、彼らに連絡がいった。
「生まれたのは男の子でした。それでも子どもが欲しいですか?」
両親は答えた。
「もちろんですとも」
それで、ジョブズは彼らの子どもとなった、そういう話だった。
あるいは、ジョブズが大学を早々と退学したのは、大学で学ぶ意義が感じられなかったこともあるが、ひとつには、自分の学費で両親の貯えがすっかりなくなってしまうことがつらかったからでもある、と、そんな話も披露した。
こうした感動的なエピソードを淡々と話すジョブズに、自分は好感をもった。
そのスピーチを、彼はこういうことばで締めくくった。
「Stay Hungry. Stay Foolish. (ハングリーでありつづけなさい、愚か者でありつづけなさい)」
しびれた。ありがたい、と思った。自分などはまったく、いくつになっても、お腹をすかせ、バカのままなので、そんな自分にとって、こんなに励まされることばはないのである。
(2013年2月24日)


著書
『ポエジー劇場 子犬のころ』

『ポエジー劇場 子犬のころ2』

『新入社員マナー常識』

『出版の日本語幻想』

『こちらごみ収集現場 いちころにころ?』

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2/23・カッコイイ人、宇崎竜童

2013-02-23 | 音楽
2月23日は、名作『出家とその弟子』を書いた倉田百三の誕生日(1891年)だが、ロック・ミュージシャン、宇崎竜童(敬称略)が生まれた日でもある。
ダウン・タウン・ブギウギ・バンドを率いた宇崎竜童。山口百恵の「プレイバックPart2」を作曲した、あの宇崎竜童である。
自分がはじめて宇崎竜童を知ったのは、中学生のころだった。
それ以前にも、ダウン・タウン・ブギウギ・バンドの「スモーキン・ブギ」がヒットしていたのは知っていた。高校生が朝から晩までたばこを吸いつづけるという内容の歌詞で、全国の若者を中心に受けに受けていた。
が、ダウン・タウン・ブギウギ・バンドが世間をあっと言わせたは、やはり「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」である。曲自体が斬新だった。ドラム、ベース、ギターが刻む強いビートをバックに、ボーカルの宇崎竜童が、歌うというより語る楽曲で、世界でもっとも初期のヒップ・ホップのひとつだと思う。曲のなかで繰り返し登場する「あんたあの娘のなんなのさ」のせりふは、大人から子どもまで、当時日本中で大流行したものだった。
およそNHK好みのバンドではなかったが、圧倒的な勢いで、年末のテレビ番組、紅白歌合戦にも、ダウン・タウン・ブギウギ・バンドは出演した。「紅白」に出演する歌手たちがみな、ほかの歌手より目立とうと、競って派手な衣裳を用意するなか、ダウン・タウン・ブギウギ・バンドは、いつもと同じ、シンプルな白いつなぎ、サングラスという扮装で登場し、「港のヨーコ~」を演奏した。出演者たちのなかで、いちばん目立っていたのがよく記憶に残っている。
自分はダウン・タウン・ブギウギ・バンドのCDをもっていて、いまでもときどき「港のヨーコ~」を聴くけれど、いま聴いてみても、古さをまったく感じない。サウンドがシャープで、演奏が洗練されている。数十年たってなお、新鮮でありつづける、あの曲づくりと演奏のセンスは、いったいなんなのだろう、と思う。

宇崎竜童は、1946年、京都で誕生した。デヴィッド・ボウイやビートたけしの一年先輩にあたる。
東京で育った宇崎は、明治大学の法科を出た後、27歳のころ、ダウン・タウン・ブギウギ・バンドを結成し、上記の曲のほか、「知らず知らずのうちに」「カッコマン・ブギ」「裏切者の旅」「涙のシークレット・ラヴ」「沖縄ベイ・ブルース」「サクセス」「身も心も」「欲望の街」など名曲を発表。以後、竜童組のバンドや、あるいはソロとしても演奏活動を続けた。
自身で演奏活動をつづける一方、作曲家としても活躍。作詞家である奥さんの阿木燿子さん(特別に敬称付き)とコンビを組み、「横須賀ストーリー」「夢先案内人」「イミテイション・ゴールド」「プレイバックPart2」「絶体絶命」「美・サイレント」「しなやかに歌って」「ロックンロール・ウィドウ」「さよならの向う側」など一連の山口百恵のヒット曲をはじめとして、さまざまな歌手に楽曲を提供。1970年代を代表するヒットメイカーとなった。

宇崎竜童は、奥さんの燿子さんとは、同じ大学に通っていて知り合った仲で、はじめて見かけたとき、宇崎竜童はピンとくるものがあって、初対面の彼女にこう言ったという。
「あのー、あなたは、ぼくと結婚することになっているんですけど」
彼女はこう答えたそうだ。
「そういうことにはなっていないはずですけど」

それからだいぶたった後、二人がおしどり夫婦として、山口百恵のヒット曲を量産していたころ、阿木燿子さんが雑誌のインタビューに答えているのを読んだことがある。当時、彼女は才色兼備の女性として、世間の注目の的だったが、そんな彼女が、いまでも宇崎竜童がハンドルを握るバイクの後ろに乗って、ふたり乗りでツーリングに出かけるというのを聞き、インタビュアーが「危なくないですか?」と心配すると、彼女は笑ってこう答えた。
「のろけるわけじゃないんですけど、彼といっしょなら、いつ死んだっていいんです」
いい女だなあ、と、自分は思った。
まったく、この夫婦は、カッコイイ夫に、カッコイイ妻、なのである。

自分は、宇崎竜童に「カッコイイ」とはどういうことかを教わった気がする。
これは宇崎竜童がそう言ったというのではなく、自分が彼を見ていて、勝手にそう感じただけなのだけれど、いわく、
「『カッコイイ』とは、流行をまねしたり迎合したりするのでなく、自分の個性をストレートに押し出すことであり、いま自分が立っている場所にまっすぐに立っていることである」
もちろん自分も、カッコイイ存在になるべく、努力してきたし、また、しているのだが、なかなかカッコよくなりきれないままに、時間はすぎてゆく。
「カッコマンになりたくって、カッコマンになりきれない、カッコマンになりきれなきゃ、それが悩みの種じゃん」
と歌う「カッコマン・ブギ」は、「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」のレコードの裏面の曲だった。
(2013年2月23日)

著書
『こちらごみ収集現場 いちころにころ?』

『新入社員マナー常識』

『出版の日本語幻想』

『12月生まれについて』

『ポエジー劇場 子犬のころ2』

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2/22・聖域の人、ブニュエル

2013-02-22 | 映画
「ニャンニャンニャン」の2並びから「猫の日」である2月22日は、「遠山に日の当たりたる枯野かな」の句を詠んだ俳人、高浜虚子の誕生日(1874年)だが、映画監督、ルイス・ブニュエルの誕生日でもある。
自分が若いころは、東京の名画座で、よくブニュエルの映画がかかっていた。それで、「ブニュエル2本立て」とかいう新聞広告を見ると、せっせと足を運んではみたものだった。
ずいぶんみてきた気がするのだけれど、作品リストを見てみると、まだブニュエルが撮った半分もみていないし、その代表作のいくつかを見逃しているので、熱心なファンだとはとても言えない。
ブニュエルの作品は、見ると、胸に痛く響くものがあって、なんだか知らない人のような気がしない。シュールレアリズムの作品もそうだし、リアリズムの作品もそうで、なんともいえない、苦い味が、みた後もずっと心のなかに残って、忘れがたい。縁を感じる。
「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」「欲望のあいまいな対象」など、とくに身につまされる。
ほかの人なら、一笑に付しておしまいなのかもしれないけれど、自分にとって、向こうがなぜか自分をよく知っていて、「ほら、ここは感じるだろう?」と、こちらの弱みを針で的確に突いてくる、そういう怖い映画作家なのである。
それで、自分は、いくつかもっているブニュエル作品のDVDをときどき見返しては、また胸が痛むのを楽しむのである。ちょうど、サボテンをさわってみて「痛っ」と手をひっこめた後に、またさわってみようとする少年のように。

ルイス・ブニュエルは、1900年、スペインのアラゴン地方、カラダンで生まれた。17歳で、マドリードに出て、そのころ、詩人のガルシーア・ロルカ、画家のサルバドール・ダリらと友だちになった。
20代半ばのころ、ダリといっしょに話をしているうちに、夢で見た光景の話で盛り上がり、ついに二人で一本の短編映画を撮りあげた。それがシュールレアリズム映画の金字塔「アンダルシアの犬」である。
その後、スペイン、メキシコ、フランスと国を変えながら映画を撮りつづけ、「糧なき土地」「忘れられた人々」「昼顔」「哀しみのトリスターナ」「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」「自由の幻想」「欲望のあいまいな対象」などの作品を発表した後、1983年7月に没した。

以上にあげた映画は、自分が実際にみたなかで、とくに印象深かった作品である。
ダリと共同監督した「アンダルシアの犬」は、冒頭の有名な目をカミソリで切るシーンとか、最後の「春」の風景とか、まったく夢にでてきてうなされそうな印象強い傑作である。
「糧なき土地」や「忘れられた人々」の、ドキュメンタリー・タッチの、荒涼とした救いのない感じにも、しびれた。
「昼顔」と「哀しみのトリスターナ」は、大好きなカトリーヌ・ドヌーヴが主演していて、それだけでもいいのだけれど、二作品のドヌーヴが、まったく異なるタイプの女性を演じているのが興味深かった。
「自由の幻想」は、ブニュエルらしさがもっともよく出た作品なのかもしれない。みんなでひとつテーブルを囲んで下着をおろして便器にすわり楽しく話しながら排泄をして、食事をするときはせまい個室に隠れてひとりこそこそと食べるという有名なシーンが入っているのは、この映画である。「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」や「欲望のあいまいな対象」もそうだけれど、こういう映画をみると、自分はなんだか身を切られるような気がしてくる。

自分がまだみていないなかに、問題作、話題作もすくなくない。
30歳のときに発表した「黄金時代」は、右翼が上映中のスクリーンに爆弾を投げる事件があって、上映禁止になった問題作だという。
53歳のときの「嵐が丘」は、ブロンテ原作の設定をメキシコにおき換えた自信作らしい。
54歳のときの作品「ロビンソン漂流記」は、ブニュエルがどんなものを作ったのか興味津々である。
60歳のころに撮った「ビリディアナ」は、カンヌ映画祭でパルム・ドールを受賞したが、内容が過激で上映禁止になった国もあるとか。
このあたりは、なるたけ早くみておきたいと思っている。

自分の心の奥の、ほかの人がまず立ち入らない敏感なところに、ずかずかと入り込んできて、きれいな傷をつけてゆく。ブニュエルはそういう表現者である。
自分は、傷つき、刺激を受けて、自分がどう反応し、変化していくのか、見てみたいのである。
(2013年2月22日)



著書
『12月生まれについて』

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『ポエジー劇場 子犬のころ』

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2/21・「マザー」ミラ・アルファサ

2013-02-21 | 歴史と人生
2月21日は、毎日新聞の前身、日刊「東京日日新聞」が創刊された日(明治5年)だが、南インドにあるコミュニティー「オーロヴィル」の創設者「マザー」こと、ミラ・アルファサの誕生日でもある。
ミラ・アルファサは、1878年、仏国パリで生まれた。父親はトルコ人の銀行家、母親はエジプトのカイロ出身で、ミラは両親がパリにやってきて一年後に誕生した娘だった。
ミラは4歳のころから独学でヨガをはじめ、よく瞑想した少女で、12歳のころには、フォンテンブローの森へ出かけ、森のなかで瞑想するのが日課になっていた。そのころには、樹木の声が聞き取れるようになっていたという。
13歳のときミラは、はじめて幽体離脱を体験した。夜ベッドで寝ていると、彼女の幽体が肉体を離れて浮かび上がり、天井を通り抜けて空高く上がっていき、夜空に浮かんだ彼女のからだが輝きだすのだった。
ミラは大人になるといよいよ心霊研究に邁進し、オカルト研究会を主催し、降霊術の会を開き、霊力開発のトレーニングをつづけた。そうして、自分の意志で幽体離脱し、霊体となって自由に飛びまわれるまでになったという。
46歳のころ、ミラは南インドのポンディチェリーに、インドの神秘思想家オーロビンドを訪ね、いっしょに暮らすようになる。
当時、ポンディチェリーのその界隈には、オーロビンドを慕って集まり、居ついた弟子がしだいに増えて、何軒かの家に分かれて住むようになっていたが、師であるオーロビンドは書斎にこもり、執筆と個人的な修行にふけるばかりで、弟子たちを顧みる気配は一向になかった。弟子たちはただ師の周囲で思い思いの修行をして日々を送っていた。
ミラは、オーロビンドの手伝いがしたくて、弟子たちの指導は本意ではなかったが、そんなばらばらの状況を見かね、しだいに家のなかのことについて指示を出しはじめた。そうして、早朝に瞑想室へ集まり全員で瞑想し、食事当番を決め、決まった時間にいっしょに食事をとるよう一日のスケジュールが整えられていった。強力な霊能者であるミラが歩くと、そこに光が射したように明るくなったという。オーロビンドの家はミラを中心にしてまわりはじめ、ホームレスの寄り集まりのような状態から、しだいに修行道場らしい体裁が整えられていった。
ミラを、オーロビンドは「マザー」と呼び、弟子たちもそれにならった。
ミラはこの家を「オーロビンド・アシュラム(修行道場)」と名付け、表に表札を掲げた。グルと呼ばれるのを嫌うオーロビンドは、この名称を嫌ったが、表札はそのままにされた。
オーロビンドは、自分にない指導力を発揮する協力者の出現を喜び、彼女を頼りにし、利用した。オーロビンドは、以後、自分への質問は、すべて「マザー」を通すようにと一同に言い渡し、自分はいよいよ執筆と精神修養に専念しだした。
ミラはオーロビンドが修行に集中できるよう配慮するとともに、修行者たちが快適に修行に集中できるよう環境を整えた。とはいえ、彼女は、アシュラムの基本ルールを「なるたけシンプルに」と示し、とくに規則は定めなかった。
アシュラム内での喫煙、アルコール、セックス、政治活動は禁止されたが、そのほかは自由だった。こうした道場にありがちな坊主頭だとか、そろいの法衣、聖歌の合唱、読経、困難なポーズ、苦行などのたぐいは一切なかった。
やがて、オーロビンドは引退を宣言し、ミラ以外の人との面会を拒否し、いよいよ瞑想三昧の生活に埋没していった。
オーロビンド・アシュラムの運営は完全にマザーに任された。入門希望者は途絶えず、アシュラムの規模はしだいにふくれ、1926年に24人だった修行者は、1929年には85人、1930年には百人を超えた。アシュラムは、あたり一帯に20軒ほどの住居に分かれて住み、自動車5台、図書館、パン焼き工房、乳加工場を持つ一大コミュニティーとなった。
第二次世界大戦下、インド北東部の住民たちが難民となり、大挙してこの南インドへ押し寄せてくると、マザーはただちにアシュラムに難民を受け入れ、援助することを決定。マザーは難民の家族に食事を与え、子どもたちのために学校を作り、修行者たちを教師に仕立て、みずからも教壇に立った。
1950年12月に、オーロビンドが没した。
オーロビンド亡き後のアシュラムは、引き続きマザーが率いた。彼女はアシュラムの学校でフランス語や講話の授業を受け持ち、子どもたちに花を使って遊ぶゲームや、卓球、テニスなどを教えた。子どもを教えるかたわら、教師たちを集めて檄を飛ばし、自分の教育方針を徹底させた。マザーの教育方針とは、こういうものだった。
「青白い顔をした画一的な生徒などいらない。個性を尊重し、楽しんで学ぶことを尊び、子どもたちの直覚、直感を発展させることが肝要である。大切なのは、地球で何が起きてきたかを教えることではなく、生徒自身が自分が何者であるか知り、自分の運命を自分で選び、自分がなりたいものになる意志を持つ人間となるよう指導することである」
この学校はその後アシュラムから独立、発展し、「聖オーロビンド国際教育センター」として大学レベルまでの教育カリキュラムを整えて現在も続いている。
そして、ミラが提唱して創設されたのが、巨大なコミュニティー「オーロヴィル」である。
これは、いずれ人類がかつての恐竜のように衰えた、その後にあらわれるであろう、次の種の出現への準備として、世界市民の街をインドに作ろうという彼女の呼びかけに、インド政府や国連のユネスコなどが応じて創立されたもので、ポンディチェリーから北へ約12キロ行った地に、約800ヘクタールの広さをもって敷地が広がっている。
「オーロヴィル」はフランス語で「夜明けの街」という意味だが、無論オーロビンドの名をかけている。1968年に世界124カ国の代表が参加して落成式がおこなわれたオーロヴィルには、現在、世界45カ国から集まってきた約2,200人のメンバーが住んでいる。広大な森のなかに点在する集落には、日本人も数人いる。
人類の進化に備えるこのオーロヴィルを残し、ミラは1973年11月に没した。彼女の遺体は、オーロビンド・アシュラムの中庭にあるオーロビンドと同じ石棺に安置されている。

自分は、米国のコミュニティーを研究している延長のつもりで、以前、オーロヴィルを訪ねた。それで、ミラ・アルファサのことを知った。日本ではほとんど知られていない人物だと思う。
オーロヴィルへ行くと、家の玄関に、居間に、タクシーのダッシュボードに、と、あらゆるところに「マザー」ことミラ・アルファサの写真が飾られている。
でも、彼女を信仰しているということではなくて、ただ、親愛、尊敬しているのである。
オーロヴィルでは、宗教は自由で、いろいろな宗教を信仰する人が入りまじっている。オーロヴィルでは、
「真理はひとつ。しかし、そこへ至る道は、たくさんある」
という考え方をしているから、宗教はなんでもOKなのである。
この「道はたくさんある」という融通のきくところが、インドらしいと思うし、自分は好きである。
また、ミラ・アルファサの言った、
「大切なのは、自分が何者であるか知り、自分の運命を自分で選び、自分がなりたいものになる意志を持つこと」
ということばに、強い共感を覚える。まったくその通りだと思う。
(2013年2月21日)




●おすすめの電子書籍!

『オーロビンドとマザー』(金原義明)
インドの神秘思想家オーロビンド・ゴーシュと、「マザー」ことミラ・アルファサの思想と生涯を紹介する人物伝。オーロビンドはヨガと思索を通じて、生の意味を明らかにした人物で、その同志であるマザーは、南インドに世界都市のコミュニティー「オーロヴィル」を創設した女性である。

『オーロヴィル』(金原義明)
南インドの巨大コミュニティー「オーロヴィル」の全貌を紹介する探訪ドキュメント。オーロヴィルとは、いったいどんなところで、そこはどんな仕組みで動き、どんな人たちが、どんな様子で暮らしているのか? 現地滞在記。あるいはパスポート紛失記。南インドの太陽がまぶしい、死と再生の物語。

『コミュニティー 世界の共同生活体』(金原義明)
ドキュメント。ツイン・オークス、ガナスなど、世界各国にある共同生活体「コミュニティー」を具体的に説明、紹介。


www.papirow.com

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2/20・小説の神様、志賀直哉

2013-02-20 | 文学
2月20日は、「はたらけど はたらけど 猶(なお)わが生活(くらし) 楽にならざり ぢつと手を見る」と歌った石川啄木(1886年)や、「ミスター野球」長嶋茂雄(1936年)の生まれた日だが、小説家、志賀直哉の誕生日でもある。
自分は二十代のころに志賀直哉全集を買って以来、ときどき開いては読んでいる。志賀直哉は大好きで、子どものころからかなり読んできたつもりだけれど、まだまだ読んでいないものも多く、あまり熱心な読者とはいえない。
自分の本棚には、芥川龍之介全集と、志賀直哉全集が仲良く並んでおいてある。芥川と志賀は同時代に生きた作家で、芥川のほうが九つだけ年下である。芥川は、志賀より後で生まれて先に死んでいった。二人とも人気作家で、短編の名手で、どちらの作家も、読んでおもしろくない作品が皆無である。
この両雄のちがいを、谷崎潤一郎はこう述べている。
「同じ短編作家でも芥川君と志賀君との相違は、肉体的力量の感じの有無にある。深き呼吸、逞しき腕、ネバリ強き腰、――短編であつても、優れたものには何かさう云ふ感じがある」(谷崎潤一郎『饒舌録』)
さすが谷崎、的確な指摘である。自分もまったく同感で、志賀直哉の文章を読むと、そこに志賀直哉のからだつきなど説明してないのにもかかわらず、この文章を書いた人はきっと、骨の太い、腕力の強い、ひきしまった筋肉質の、たくましい肉体をもっているにちがいないと感じる。読む者をして、そう思わせる「肉体的力量の感じ」が、志賀直哉の文章にはある。こんな文章を書く人は、大昔から現代までを通して、ほかにいなかったように思う。

志賀直哉は、1883年、宮城県石巻町に生まれた。父親は銀行マンで、後、高校や鉄道会社などに勤務した。直哉は2歳のとき東京へ引っ越し、祖父母のもとで育った。小学校から高校まで学習院に通った。スポーツと歌舞伎、女義太夫にいれこみ、東大の英文科に入学。大学にはほとんど行かず、小説を書き、遊び、旅をしてすごし、やがて退学している。
武者小路実篤、里見、有島武郎らと、同人誌「白樺」を創刊。この雑誌に『網走まで』『剃刀』『老人』『濁った頭』など、名作を次々と発表。作品はほかに『城の崎にて』『和解』『焚火』『暗夜行路』など。「小説の神様」と言われ、日本ペンクラブ会長を務め、文化勲章を受賞し、1971年、88歳で亡くなっている。葬儀は、青山で無宗教の式が営まれた。

やはり好きな作家について書こうとすると、いろいろなことが頭の底からわきあがってくる。善きにつけ悪しきにつけ志賀直哉と、なんらかの関係があったいろいろな人たち、芥川のほか、泉鏡花、武者小路、小林多喜二、太宰治、織田作之助、菊池寛、川端康成、横光利一、小林秀雄、中島敦、三島由紀夫、サイデンステッカーなどなど、いろいろな作家たちの顔が思い浮かんできて、収拾がつかなくなり、結局、何も書けなくなってしまう。
困ったものだ。

志賀直哉の作品に「沓掛にて」という短い文章がある。これは、長野県の沓掛にいたときに、芥川龍之介が自殺した報せを聞いて書いたもので、「芥川君のこと」という副題がついている。
生前の芥川龍之介と会って話した思い出を、いつもながらの簡潔で、力のこもった文体でつづったものだけれど、心打たれる名文である。
川端康成は、この文章を読むと、芥川のことを思って涙する、と言った。
志賀自身も、べつのところで、「沓掛にて」を書いたときは、そうとうに強い気持ちがあった、ということを書いていた。噴きだしてきそうになる情緒的なものを、あえて押し殺し、強い気持ちで書いた、そういう文章である。
機会があったら、ぜひ一読をおすすめします。

志賀直哉にはまた、「泉鏡花の思い出」という随筆がある。こちらは、生前の泉鏡花に会ったときの記憶を書いたもので、そのなかに、訪ねていった泉鏡花の自宅で、将棋をさしたときの様子が書いてあって、それはこんな風である。
「将棋をされるといふので、私はあまりうまくなかつたが、駒を並べ、さて始めようとすると、こつちの飛車と向ふの飛車と、こつちの角と向ふの角とが向ひ合つてゐた。注意するのは何となく悪いやうな気がして拘泥したが、そのままでは指せないので、遠慮しながら、注意した。泉さんはあわてて飛車と角とを置きかへられた。ところが、やつてみるとどうもへんなので、よく見ると間違つてゐたのは私の方だつた。これには、自分ながら驚いた」(「泉鏡花の思い出」『志賀直哉全集9』岩波書店)
泉鏡花は志賀直哉の大先輩だが、たがいにその才能を認め、尊敬の念をもち合っている作家同士で、その二人の性質がよく出ている場面で、おもしろいなぁ、と思う。こちらも、おすすめです。
(2013年2月20日)


著書
『12月生まれについて』

『新入社員マナー常識』

『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句』

『ポエジー劇場 天使』
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2/19・勇気! 村上龍

2013-02-19 | 文学
2月19日は、屋島の合戦の際、源氏方の那須与一(なすのよいち)が鏑矢(かぶらや)を射て、船上に揺れる平家方の女官が差し掲げた扇を射抜いた日(1185年)で、また、地球が太陽をまわっていると見抜いたコペルニクスが生まれた日(1473年)だが、日本の作家、村上龍(敬称略)の誕生日でもある。
 村上龍が芥川賞を受賞した夏のことは、いまでも鮮やかに記憶に残っている。
 高校一年生の夏だった。夏休み、高校に泊り込んでの、テニス部の合宿があって、自分はそれに参加していた。時を同じくして、村上龍の芥川賞受賞作『限りなく透明に近いブルー』が発売された。それで自分は、毎日、何軒かの書店をまわって、その本をさがしていた。そのころは、書店で予約するという習慣がなかった。目当ての本は、なかなか見つからなかった。地方の田舎町のことで、そういう売れ筋の新刊本は、おいそれとはまわってこないのかもしれなかった。
 合宿中も、こっそり抜け出して、近くの書店へ自転車を走らせた。すると、ある本屋に一冊だけ、その単行本が置かれてあった。いまでもよく覚えているけれど、本棚にずらりと並んだ、高い列に紛れこませるように差してあった。話題作だけれど、一冊しかないので、平積みにしなかったのかもしれない。自分は幸福を感じた。
 買い求めて、合宿にもどった。そして、合宿を終え、家に帰ると、ただちにむさぼり読んだ。
 すごい、と思った。やられた、と思った。ロックとファックをメイン・テーマに据えた文学が、いま登場するべきだとの考えが、そのころ、頭のなかにあって、誰も書かないのなら、自分がそういうものを書こうなどと計画しつつあった矢先に、ガツンッと、大型のプレス機で押しつぶされた感じだった。
 村上龍の登場は、自分にとって、まさに「出現」だった。「啓示」だった。

 村上龍は、1952年、長崎県佐世保市で生まれた。本名は、村上龍之介。両親はともに教師。龍は、武蔵野美術大学在学中に書いた小説『限りなく透明に近いブルー』で群像新人文学賞し、同じ作品で芥川賞を受賞。以後、『海の向こうで戦争が始まる』『コインロッカー・ベイビーズ』『テニスボーイの憂鬱』『69』『愛と幻想のファシズム』『トパーズ』『五分後の世界』『ヒュウガ・ウイルス』などつねに時代を揺さぶる話題作を発表してきた。作家としての活動のほか、ラジオやテレビのパーソナリティー、映画監督、ウェブ・マガジン編集、キューバ・ミュージシャンの公演プロモーションなど、幅広い分野で活躍している。

 村上龍のデビュー作『限りなく透明に近いブルー』は、百万部以上売れた大ベストセラーだが、これを読んでおもしろかったと言う人に、自分はいまだ出会ったことがない。
「わからなかった」
「むずかしかった」
 という人は、いた。
 自分は、とてもおもしろかった。一度目に読んだときは、もう熱に浮かされている感じで、刺激的な表現に胸をドキドキさせ、目がチカチカして、頭で理解せず、ただひたすら感じながら、興奮して読んだのだったが、二度目に読み返してみて、作者の文の書き方に慣れてきてみると、スキャンダラスな内容とは裏腹に、意外に整然と整った行儀のいい文章だという気がした。それから三度、四度と読み返すたびに、
「おもしろいなあ」
といつも感嘆している。一つひとつのエピソードが刺激的でおもしろく、次々に飛びだしてくる作者のイメージが新鮮で、胸にジュワァッとしみこんでくる。こういうみずみずしい作品に、リアルタイムで出会えて、ほんとうに幸福だと思う。

一方、長編『コインロッカー・ベイビーズ』は、これを読んで、おもしろくなかったという人に、自分はいまだ会ったことがない。読んだ人はみんな、
「あれは、すごい」
「最高だった」
 と、興奮ぎみに語るのである。

自分も『コインロッカー・ベイビーズ』は「すごい」と思っている。
以下はあやしい記憶を頼りに書くのだけれど、あの小説は、たしか村上龍が、デビュー作で得たお金をつかい果たし、講談社に二千万円くらい借金をして、長編を書いてその印税で返すからと、講談社の山荘に泊り込んで書いたものだったと思う。そして、三百枚くらい書いた時点で、李恢成の『見果てぬ夢』を読んで反省し、書いた原稿をすべて捨て、また最初から書きはじめた、そうしてでき上がった作品だった、とそう記憶する。そういう作者の作家人生がかかった、全身全霊を打ち込んだ自身の存在証明で、三島由紀夫でいえば『仮面の告白』にあたる重要な作品だと思う。そういう作品だから、作者の熱が読者に伝わらずにいないのだろう。

そのほか、この文章中に書名をあげた作品は、すべで、自分が読んで、しびれた傑作で、おすすめです。読んで、おもしろいのはもちろん、読んだ、そのことがそのまま、人生の重要な体験になる、人によっては人生が変わるかもしれない、そういう希有な小説だと思います。

余談ながら、自分は、ずっと以前、村上龍にサインをもらったことがある。
村上龍が35歳だったとき、新宿の紀伊國屋書店でサイン会が開かれるのを知り、本をもっていって並んだのだった。
「ぜひ、座右の銘をお願いします」
本を差しだしてお願いすると、彼は、
「ええ? そんなものないよ」
と困った顔をした。が、すぐに、
「そうだ。、坂本のまねをして、『勇気』と書こう」
そういって、『勇気! Ryu 村上龍』と書いてくれた。
「勇気」とは、およそ文人の揮毫らしくない、スポーツ選手などが色紙に書きそうな、短いことばだなあ、と思った。
でも、「勇気」は大切だ。ゲーテも、言っている。勇気を失うくらいなら、いっそ生まれてこなければよかった、と。
そのサインを、いま、あらためてながめている。
それにしても、「勇気」の後に、感嘆符が付いているのが、ふつうではない。すごい。さすが、村上龍だ。
(2013年2月19日)


著書
『12月生まれについて』

『新入社員マナー常識』

『コミュニティー 世界の共同生活体』

訳書、キャスリーン・キンケイド著
『ツイン・オークス・コミュニティー建設記』
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