1日1話・今日の話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『誇りに思う日本人たち』
『ビッグショッツ』
『黒い火』ほか

8月31日・青木功のことば

2016-08-31 | スポーツ
8月31日は、教育者マリア・モンテッソーリが生まれた日(1870年)だが、プロゴルファー、青木功(あおきいさお)の誕生日でもある。

青木功は大戦中の1942年、千葉の我孫子で生まれた。生家は小さな畑をもつ貧しい農家だった。家族のなか、ひとりだけからだが大きかった功は、元気な田舎のわんぱく少年で、中学時代には百メートルを11秒台で走った。理科と数学が得意だった青木は、家庭の経済的事情から高校進学をあきらめ、地元のゴルフクラブのキャディになった。その時点で、ゴルファーになろうとはまったく考えていなかった。それが、ゴルフバッグを背負って見ているうち、プロゴルファーの仕事がお金になるらしいと知った。彼は人のクラブを借りて、見よう見まねでゴルフを練習しはじめた。
父親に、当時は高級品だったゴルフクラブを買ってもらい、19歳のとき、はじめてプロテストを受けた。惨憺たる結果で、青木は酒を飲んで荒れた。
22歳のとき、再挑戦した2度目のプロテストで合格。
しかし、プロの資格を得てからも、長らく泣かず飛ばずが続いた。トーナメントに出場しても、予選が通過できない。自分にはゴルフの才能がないのではないかと泥酔し、二日酔いになり、さらに自己嫌悪におちいる日々が続いた。
3年続けて予選落ちしていた関東プロの大会に4年目ではじめて予選通過し、本戦に出場。そして、28歳のとき、同じ大会で優勝し、プロ入り7年目で初優勝を果たした。
その翌年の同大会で、ゴルフ人気を一身に背負っていたスーパースター「ジャンボ」尾崎将司と同点でプレーオフとなり、この一騎討ちを制して2勝目をあげ、青木功の名は一気に有名になった。
38歳の年には、全米オープンで「帝王」ジャック・ニクラスと4日間いっしょにラウンドして死闘を繰り広げた。結果、ニクラウス優勝、青木2位と破れたが、その名を世界に知らしめた。
41歳の年に、米ハワイアン・オープンと、欧州のヨーロッパオープンに優勝。
47歳の年に、豪州コカ・コーラクラシックに優勝し、世界四大ツアー (日米欧豪) 優勝を達成。その後も、年配者向けのシニアツアーやゴルフ解説者として活躍している。

以前、テレビの英語番組に出演した青木功が、英語がほとんどわからないと告白し、こんな風に言っていた。
「こんなときは、ナイス・トゥ・ミーチュとか言うんだろう?」
あれで、ジャック・ニクラウスと和気あいあいと交際し、オーストラリアのグレッグ・ノーマンの家に泊まりに行く、人間・青木の偉大さである。

青木功は言っている。
「人間というものが、過去の教訓に学んであまりに早く自己改造をして、お利口になっていってしまったのでは、世の中、賢人ばかりになってひとつもおもしろくないのではないか。そう思うのだ。いつまでたっても利口になれず、同じ過ちを繰り返しておれは馬鹿かと悩んだり、いくら努力してもひとつもうまくいかずに自分の才能に疑いを抱いたりするからこそ、人間は人間なのではないだろうか」(『青木功 ゴルフ自伝』小学館文庫)
(2016年8月31日)



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『女性解放史人物事典 ──フェミニズムからヒューマニズムへ』(金原義明)
平易で楽しい「読むフェミニズム事典」。女性の選挙権の由来をさぐり、自由の未来を示す知的冒険。アン・ハッチンソン、メアリ・ウルストンクラフトからマドンナ、アンジェリーナ・ジョリーまで全五〇章。人物事項索引付き。フェミニズム研究の基礎図書。また女性史研究の可能性を見通す航海図。


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8月30日・キャメロン・ディアスの嫉妬

2016-08-30 | 映画
8月30日は、シンガーソングライターの井上陽水が生まれた日(1948年)だが、映画女優キャメロン・ディアスの誕生日でもある。

キャメロン・ミシェル・ディアスは、1972年、米国カリフォルニア州のサンディエゴで生まれた。父親はキューバ系で石油会社の現場監督、母親はネイスィブ・アメリカンのチェロキー族、黒人、イングランド人、オランダ人などの血を引いていた。キャメロンは2人姉妹の妹で、男の子がほしかった父親は妹に男の子のような名前をつけ、育てた。
キャメロンは高校ではチアリーダーとして活躍した。動物学者か海洋生物学者志望だったが、16歳の女子高生のとき、ロサンゼルスのハリウッドのパーティーにはじめて顔を出し、そこでカメラマンにスカウトされて、雑誌のモデルになった。しだいに売れっ子になり、モデル業のかたわら、21歳のとき映画「マスク」のオーディションを受け、映画デビュー。大胆で濃厚なキスシーンを演じて注目された。
25歳のとき、ジュリア・ロバーツ主演の映画「ベスト・フレンズ・ウェディング」に助演し、音痴で歌いはじめ、終わりには大喝采を浴びる奇跡的なカラオケシーンを演じ、この映画は彼女の出世作となった。
その後、自分がなにをしたいのかわからなくなり、仕事を休んで1年ほどたったころ、代理人から脚本が送られてきた。ベッドに寝ころがって脚本を開いた彼女は、3ページ読んだところで、笑いすぎ、ベッドから転げ落ちたという。即座に出演を決めたその脚本がラブコメディ「メリーに首ったけ」だった。結果、この映画は大ヒットし、彼女の代表作となったが、脚本を送った時点で代理人は周囲から、この役は女優にとって命取りになるから出演させるべきでないと忠告されていたという。
28歳のときの映画「チャーリーズ・エンジェル」では、香港の武道家の指導のもと、毎日8時間、3カ月間にわたってカンフーの修行をした。
そのほか「マルコヴィッチの穴」「バニラ・スカイ」「ギャング・オブ・ニューヨーク」などの映画に主演し、40歳を過ぎた女優には急に出演依頼がこなくなると言われるハウッドで、いよいよ真価を問われる年齢にさしかかった個性的な演技派女優である。

かつて「メイキング・オブ・ギャング・オブ・ニューヨーク」というような大型本が出版されて、自分は一部を訳した。翻訳を担当した部分のなかに、キャメロン・ディアスのインタビューが入っていて、それ以来、彼女をひいきして見るようになった。

キャメロン・ディアスの出演作品を、自分は半分くらい観ていると思う。存在感が大きい、白い歯のほこぼれる笑顔がすてきである。ファラ・フォーセット以来のネイティブ・アメリカンの血を引く大女優で、存在感が圧倒的、かつ演技力があると思う。セクシーな美女から、軽薄な不良娘、性格異常者まで、どんな役でもみごとにこなす。彼女は言う。
「役作りとは、想像力によって役を理解し、物語を語る一員になること」

以前、女優の釈由美子が、来日したキャメロン・ディアスに英語でインタビューするのをテレビで見た。そのとき釈が、
「どうしたら、あなたみたいになれるんでしょうか?」
と訪ねると、ディアスはこう答えていた。
「わたしをうらやましがらないで(Don't envy me.)。キャメロン・ディアスでいることで、つらい思いをすることもあるのだから」
Never envy others.
(2016年8月30日)



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『おひつじ座生まれの本』~『うお座生まれの本』(天野たかし)
おひつじ座からうお座まで、誕生星座ごとに占う星占いの本。「星占い」シリーズ全12巻。人生テーマ、ミッション、恋愛運、仕事運、金運、対人運、幸運のヒントなどを網羅。最新の開運占星術。


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8月29日・アングルの超現実

2016-08-29 | 美術
8月29日は、歌手、マイケル・ジャクソンが生まれた日(1958年)だが、画家アングルの誕生日でもある。世界でもっとも有名な裸婦像「グランド・オダリスク」の作者である。

ジャン・オーギュスト・ドミニク・アングルは、1780年、フランス南西部のムースティエで生まれた。父親は装飾職人だった。
ジャンは12歳でトゥールーズのアカデミーに入学し、19歳のとき、パリに出て、ジャック=ルイ・ダヴィッドの弟子になった。ダヴィッドは新古典派の巨匠で、ルーブル美術館に飾られたあの巨大な絵画「皇帝ナポレオン1世と皇后ジョゼフィーヌの戴冠式」の作者である。
アングルは21歳で留学用の奨学金がもらえる国のコンテスト「ローマ賞」を絵画で受賞し、26歳から44歳までイタリアのローマやフィレンツェですごした。イタリア時代には、28歳で「浴女」、34歳で名画「グランド・オダリスク」を描き、彼はイタリアにいながら、フランスのサロンへも作品を出品した。
44歳でフランスへもどり、アカデミー会員となり、巨匠として創作活動を続けた。
1867年1月、肺炎のため、パリで没した。86歳だった。

アングルの「グランド・オダリスク」は、小学校のころから、カレンダーやポスターでよく目にしていた。近所の駄菓子屋にもこの絵のカレンダーが貼ってあった。アングルの名を知らなくても、この絵は知っているという人は多いと思う。
おそらくトルコのハレムの寝室で、ベッドの上に女が全裸で横たわっている絵である。ターバンを巻いた女が頭を向かって左に、足を右にして横たわっている。女はからだの左側を下にし、こちらに背中を見せながら、振り向いて横顔を見せている。クッションの上、女の背中は長く、下側になった左足のふくらはぎが交差して右ひざの上に組まれている。
とても印象的な構図で、写真のようにきれいな絵だけれど、この絵の女性が現実にはおよそあり得ない肉体の持ち主だということを、大人になるまで自分は知らなかった。
ご存じの方もいるかもしれないけれど、まず、女の背中が長すぎる。絵の女性は背骨の数が二本か三本多いと言われているそうだ。それから、現実の人体は、構造上、彼女のように足を組むことができない。
だから「グランド・オダリスク」は、写実的な絵のようでいて、その実、あり得ない人体を描いた超現実的な、20世紀を先取りした絵画作品である。アングルは、現実世界で見たものをそのまま描かず、自分が美しいと思うように変形し、再構成してキャンバスに定着した。でも、うかつ者はその再構成の妙に気がつかない。

アングルは、当時の新発明だった写真を、絵画制作の際に使っていたらしい。でも、写真は画家の生活をおびやかす悪い発明だとして、政府に禁止するよう訴えたそうだ。この辺も興味深く感じる。
(2016年8月29日)



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『ポエジー劇場 ねむりの町』(ぱぴろう)
絵画連作によるカラー絵本。ある日、街のすべての人が眠りこんでしまった。その裏には恐るべき秘密が……。サスペンス風ファンタジーの世界。

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8月28日・シェリル・サンドバーグの功績

2016-08-28 | ビジネス
8月28日は、シェリル・サンドバーグの誕生日である。ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)のフェイスブックの最高執行責任者(COO)である。

シェリル・カラ・サンドバーグは、1969年、米国ワシントンDCで生まれた。ユダヤ系の家庭で、父親は眼科医、母親は元フランス語の教師で博士号の持ち主。シェリルは3人きょうだいのいちばん上だった。2歳のとき、一家はフロリダ州の北マイアミビーチに引っ越し、彼女はそこで育った。高校時代にはエアロビクスを教えていた。
18歳でハーヴァード大学に入った彼女は、経済学専攻の学生のうちでトップの成績を修め、ジョン・ウィリアム賞を受賞。卒業後、同大学のビジネススクールで学び、26歳でMBA(経営管理学修士)を取得した。
その後、ビル・クリントン政権時代の合衆国財務省で首席補佐官として働いた後、32歳の年に、世界最大の検索サイトであるグーグルに入社。 グーグルのグローバル・オンラインセールス部門の副社長となり、社の生命線である広告部門の指揮をとった。
38歳の彼女は、グーグルのストックオプションによって、すでに数百万ドル(数億円)の資産をもつ億万長者だった。彼女はグーグルを辞め、シリコンバレーにあるべつの会社へ移籍しようとしていたが、フェイスブックの創業者・最高経営責任者(CEO)であるマーク・ザッカーバーグに誘われた。ザッカーバーグは彼女の家まで押しかけて延々と口説いた。そのときのことについて彼女はこう言っている。
「『彼は帰らないんです。』と彼女がインタビューで話した。『このことは本に書いてね。とにかく私の家から出ようとしなかったわ』」(デビッド・カークパトリック著、小林弘人訳『フェイスブック 若き天才の野望』日経BP社)
熱心な誘いに屈した彼女はフェイスブックの「ナンバー2」COOとして迎えられた。すでに巨大な国際的サービスとなりながら、まだろくに収益を上げていなかったフェイスブック社を、彼女は収入のあるまともな会社へと変身させた。2012年、彼女は経済誌「タイム」が選ぶ「世界でもっとも影響力のある100人」に選ばれた。彼女のもつストックオプションは、時価10億ドル(約1000億円)以上と評価されている。

ネット上に、米国の証券取引所委員会が公開している上場企業の資料があって、そこにあったサンドバーグの給料がおもしろかった。
2012年の基本給が、CEOのザッカーバーグが50万ドル、COOのサンドバーグが34万ドル。
夏のボーナスは、ザッカーバーグが7万5446ドル、サンドバーグが6万4230ドル。
冬のボーナスは、ザッカーバーグ19万0655ドル、サンドバーグが21万2500ドル。
と、トータルではザッカーバーグのほうが給料はいいけれど、ボーナスだけを見ると、サンドバーグのほうがたくさんもらっている。フェイスブックで彼女がいかに大事にされているかがわかる。(http://www.sec.gov/Archives/edgar/data/1326801/000119312513178090/d493645ddef14a.htm)

サンドバーグがフェイスブック社に入ったとき、まだ同社は何によってお金を得るか意見がばらばらだった。フェイスブックの全会員から月1ドルずつ会費を募るという案もあった。そんな状態の社内をサンドバーグが説得し、ネット広告に意志統一をし、フェイスブックはようやくオタクのウェブサイト会社から、利益が出るふつうの企業になった。
(2016年8月28日)



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『ビッグショッツ』(ぱぴろう)
伝記読み物。ビジネス界の大物たち「ビッグショッツ」の人生から、生き方や成功のヒントを学ぶ。フェイスブックのマーク・ザッカーバーグ、ソフトバンクの孫正義から、ファッション・ブランドのココ・シャネル、金融のJ・P・モルガンまで、古今東西のビッグショッツ30人を収録。大物たちのドラマティックな生きざまが躍動する。

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8月27日・ヘーゲルのアウフヘーベン

2016-08-27 | 思想
8月27日は、詩人、宮沢賢治が生まれ日(1896年)だが、哲学者ヘーゲルの誕生日でもある。アウフヘーベン(止揚)、弁証法のヘーゲルである。

ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルは、1770年、ドイツのシュトゥットガルトで生まれた。当時はヴュルテンベルク公国の首都で、父親はその国の財務官だった。
ゲオルクは、6歳のころ、天然痘で死にかけ、8歳のときにはシェークスピア全集を読んでいた。彼がテュービンゲン大学の学生だったころ、フランス革命が起こった。ヘーゲルは自由と平等の思想に感動し、友人といっしょに「自由の樹」を植え、革命歌を歌い踊り、禁書に指定された革命関係の書物をひそかに読む秘密読書クラブを作った。
啓蒙活動に熱中し、大衆にわかる哲学を志したヘーゲルは、貴族の家庭教師などをへて、31歳でイェーナ大学の講師になった。同大学の助教授だった36歳のとき、代表作『精神現象学』を書き上げた。この論文の最後を書き上げたとき、ちょうど、進軍してきたナポレオンが彼の家の前を通り、ヘーゲルはこの英雄を見たという。ナポレオンのイェーナ入城によって、大学は閉鎖となった。
48歳のとき、ゲーテに推薦され、ヘーゲルはベルリン大学の教授となった。同大学でのヘーゲルの講座は、学生たちのあいだで絶大な人気を誇った。
1831年、ベルリンでコレラが発生して、ヘーゲルはこれに感染して没した。61歳だった。

世界のあらゆる分野で応用されているといっていい、ヘーゲルの弁証法とは、かんたんに言うと、こういう考え方である。
植物のつぼみがある。このつぼみは、花が咲くと、花によって否定されたと言える。
その花は、実がなると、実によって否定されたと言える。
つぼみ、花、実は、それぞれ両立しない。たがいに否定しあっているけれど、全体としては有機的統一をもっていて、それぞれが必然的に全体を構成している。このように、
つぼみ……「正」
花……「反」
実……「合」
というように、世界のあらゆるものは、その内部に矛盾と対立の契機を含んでいて、それらがたがいに作用しあって、より高い次元へと止揚(アウフヘーベン)していく。
まず「正」があり、それに反対する「反」がある。その矛盾・対立する「正」と「反」をまとめて、一段高い次元へ引き上げられて総合したものが「合」であり、こうした「正、反、合」の総合によって社会は、つねにとどまることなく動き、発展しつづける、と考えるのである。

こういうがっしりとした組み立て、構築していく意志がドイツ的である。ゲーテ、カント、ベートーヴェンなど「ドイツらしさ」は数多あるけれど、ヘーゲルこそ、その神髄という気がする。

ヘーゲルは、カントの哲学を発展させた、ドイツ観念論の完成者である。ヘーゲルはカントの認識批判を、
「泳ぐに先立って水泳を習うもの」(山下太郎『西洋哲学史』明玄書房)
と批判したそうだ。
(2016年8月27日)



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『思想家たちの生と生の解釈』(金原義明)
「生」の実像に迫る哲学評論。ブッダ、カント、ニーチェ、ウィトゲンシュタイン、フーコー、スウェーデンボルグ、シュタイナー、クリシュナムルティ、ブローデル、丸山眞男など大思想家たちの人生と思想を検証。生、死、霊魂、世界、存在について考察。わたしたちはなぜ生きているのか。生きることに意味はあるのか。人生の根本問題をさぐる究極の思想書。

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8月26日・ラヴォアジエの頭脳

2016-08-26 | 科学
8月26日は、詩人アポリネールが生まれた日(1880年)だが、化学者ラヴォアジエの誕生日でもある。質量保存の法則を発見した「近代科学の父」である。

アントワーヌ=ローラン・ド・ラヴォアジエは、1743年に仏国パリで生まれた。父親は裕福な弁護士だった。アントワーヌが5歳のとき、母親が没し、彼は莫大な遺産を相続した。
彼はパリ大学の法学部に進み、21歳で弁護士の試験に合格、高等法院の弁学士になった。
法律を専攻しながら、ラヴォアジエは学生時代から地質学、鉱物学、化学、天文学などを積極的に学び、地図の作成に協力したり、各地の石膏の比較研究をしたりしていた。
23歳のとき、フランスの科学アカデミーが「都市の街路にもっとも適する夜間照明の方法」という懸賞論文に応募し、一等を受賞。ルイ15世から金メダルを授与された。
24歳の若さで科学アカデミーの会員となったラヴォアジエは、国王に納める税金を市民から取り立てるという徴税請負人の仕事をはじめ、この仕事から得られる高収入を自分の実験費用にあて、化学実験を繰り返した。そうして、正確な実験により、当時信じられていた学説をつぎつぎと打ち破り、新しい科学理論を打ち立てた。
27歳のころ、お金を支払って貴族となったラヴォアジエは、28歳で同じ徴税請負人仲間の娘と結婚。30歳のとき、化学反応の前と後とで質量は変化しないことを実験で証明し、「質量保存の法則」を発見した。
32歳の年に火薬硝石公社の火薬管理監督官となり、そこに多くの化学者を集めて、さまざまな実験をおこなった。
1789年、46歳のラヴォアジエは『化学原論』を出版し、現在の元素表に相当する物質のリストを発表した。それより長く、この本はヨーロッパの科学の教科書となったが、同じ年、バスティーユ監獄が襲撃され、フランス革命がはじまった。
50歳のとき、ラヴォアジエは革命政府によって指名手配され、自首した。市民から税金を取り立てる徴税請負人として憎まれた彼は革命裁判所で有罪とされ、1794年5月、35分間に26人の首が切り落とされるという流れ作業のギロチンの犠牲者のひとりとなった。50歳だった。同時代の科学者は、
「この頭を切り落とすのは一瞬だが、これと同じ頭脳が現れるに、人類は百年は待たなければならないだろう」
と嘆いた。

その昔、米国の3大財閥の一角、デュポン家のことを調べていて、ラヴォアジエにぶつかった。火薬実験室でラヴォアジエが教えた弟子のひとりがエルテール・デュポンで、デュポンは騒乱のフランスから米国へ逃げだし、新大陸で師ラヴォアジエから教わった火薬技術を生かして弾薬生産会社を創業し、兵器産業のデュポン財閥を築いた。

また、英国の科学者ジョン・ドルトンの伝記を読んでいて、同時代の科学者ラヴォアジエに行き当たった。ラヴォアジエは若くしてヨーロッパ中に名を知られた華やかな天才科学者だったが、革命騒ぎに巻き込まれて処刑されてしまった。一方、ドルトンはおよそ派手とは縁のない、地道な観測を続け、生涯独身を通し、地味ながら穏やかな人生を送った科学者だった。二人はとても対照的で、この対照にいろいろ考えさせられる。
(2016年8月26日)



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『ビッグショッツ』(ぱぴろう)
伝記読み物。ビジネス界の大物たち「ビッグショッツ」の人生から、生き方や成功のヒントを学ぶ。フェイスブックのマーク・ザッカーバーグ、ソフトバンクの孫正義から、デュポン財閥のエルテール・デュポン、ファッション・ブランドのココ・シャネル、金融のJ・P・モルガンまで、古今東西のビッグショッツ30人を収録。大物たちのドラマティックな生きざまが躍動する。


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8月25日・ルートヴィヒ2世の夢

2016-08-25 | 歴史と人生
8月25日は、作曲家で指揮者のレナード・バーンスタインが生まれた日(1918年)だが、バイエルン国王だったルートヴィヒ2世の誕生日でもある。

ルートヴィヒ2世は、1845年、現在のドイツであるバイエルン国の王家に生まれた。祖父がルートヴィヒ1世で、父親がマクシミリアン2世だった。
小さいころ、ゲルマン神話や騎士物語を読んで空想にふける夢見がちな少年だったルートヴィヒ2世は、美しい青年をもっぱら愛した。18歳のとき、父王が没したため、即位してバイエルン王となった。
国王になると彼は、ファンだった作曲家ワーグナーを宮廷に招いて、特別待遇でもてなし、騎士物語に出てくるような中世風の美城「ノイシュヴァンシュタイン城」を建設し、バイエルン国の財政をおおいに傾けた。
21歳のとき、プロイセンとオーストリアとのあいだに戦争が勃発し、戦争嫌いの王は気が進まぬまま、この戦争に巻き込まれた。バイエルンはオーストリア側として参戦したが、結局敗戦となり、バイエルン国はプロイセンに対して多額の賠償金を支払う羽目となった。
25歳のときには、フランスとプロイセンのあいだに戦争がはじまり、バイエルンは今度はプロイセン側に立って参戦。このころから、ルートヴィヒ2世はいよいよ自分の殻に閉じこもるようになり、昼寝て夜起きていて、見えない誰かに話しかけながらたったひとりで食事をとった。
1886年6月、事態を憂慮した宮廷の側近たちによって、ルートヴィヒ2世は退位させられ、湖のほとりにあるベルク城に送られた。その翌日の1886年6月13日、ルートヴィヒ2世は、付き添いの医師とともに、湖で水死体となって発見された。40歳だった。

ルートヴィヒ2世は「狂王」と呼ばれるけれど、彼と唯一親しかった女性であるオーストリーのエリーザベト皇后は、ルートヴィヒ2世は精神異常ではなく、ただ夢見がちな人だったのだと言っている。ルキノ・ヴィスコンティ監督の映画「ルートヴィヒ/神々の黄昏」のなかで、ロミー・シュナイダーが演じたのがエリーザベトである。

森鴎外の小説『うたかたの記』で、ルートヴィヒ2世のことを知った。
この小説では、夕暮れの湖に浮かんだ小舟に少女を見かけ、妄想にとりつかれ、湖にどんどん歩み入っていくルートヴィヒ2世を、侍医が引きもどそうとして揉み合いになり、ルートヴィヒ2世は大男で力があるので、医者の力は及ばず、ついに二人とも溺死してしまったという解釈だった。
ルートヴィヒ2世が死んだのは、ちょうど鴎外がドイツに留学していたときで、鴎外がリアルタイムの身近で起きた事件としてこれを伝えた。とにもかくにも、強烈な個性の王だった。
(2016年8月25日)



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『ポエジー劇場 救世主』(ぱぴろう)
大人向け絵本。環境破壊により人類は自滅寸前。そこへ宇宙から救世主が派遣され……。生命の原理に迫る絵画連作。


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8月24日・ポンペイ最後の日

2016-08-24 | 歴史と人生
8月24日は、『地中海』を書いた歴史学者フェルナン・ブローデルが生まれた日(1902年)だが、「ポンペイ最後の日」でもある。

西暦79年のこの日に、イタリアのナポリの近くにあるヴェスビアス火山が大噴火した。火山は大量の火山灰を噴き上げ、火山のふもとにあったポンペイの町に火山灰が降りそそいだ。噴火がはじまった翌日から、山頂の火口付近から火砕流が発生した。火砕流は、高温ガス、灰、岩石などがなだれとなって流れていくもので、時速百キロメートルほどの速度がポンペイを襲い、たちまち街全体を呑みこみ、街は埋もれた。
ポンペイの街には当時2万人ほどの人が住んでいて、そのなかの約1割り、2千人の人々が、あえてとどまったか逃げ後れたかして埋もれたらしい。

18世紀になってポンペイの発掘が開始され、きれいに区画された街路や、テーブルの上に整然と並んだ食器、焼きたてのパンなど、古代ローマの生活風景がそのまま現れた。生き埋めになった人間の遺体部分は腐ってなくなり、その部分は空洞になっていたという。

19世紀、英国の作家、エドワード・ブルワー=リットンがこの事件を題材にして小説『ポンペイ最後の日』を書いていて、自分は小学校のとき、児童向けの文学全集でこれを読んだ。
澁澤龍彦の短編集『唐草物語』のなかの一遍『火山に死す』も、この事件を扱っている。
自分の家や財産をそのまま置いて逃げだすのに忍びず、そのうちに噴火もおさまるだろう、明日になれば風向きが代わるだろう、と踏んで残った人が、降り積もっていく火山灰に埋もれていく景色というのは、なんとも形容しがたい味わいがある。
逃げるも人生、残るもまた人生、である。
いろいろな灰に埋もれ、沈没しつつある母国から逃げだしていくべきか否か?
(2016年8月24日)



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『ポエジー劇場 大きな雨』(ぱぴろう)
カラー絵本。43枚の絵画による絵物語。ある日降りだした雨。あたりは大洪水に。女の子は舟に乗り、不思議な旅に出るのでした。

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8月23日・三好達治の詩情

2016-08-23 | 文学
8月23日は、ロックバンド「ザ・フー(The Who)」の天才ドラマー、キース・ムーンが生まれた日(1946年)だが、詩人、三好達治(みよしたつじ)の誕生日でもある。たった二行の詩「雪」の作者である。

「太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
 次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。」

三好達治は、1900年、大阪で生まれた。父親は印刷業を営んでいて、達治は長男だった。
小さいころはからだが弱く、神経衰弱だった達治は、中学のころから俳句に熱中していた。
家業の印刷屋が傾いたため、学校をやめ、陸軍の幼年学校、士官学校と軍隊の学校に通ったが、20歳のとき、士官学校を脱走し、退学処分となった。
22歳のとき、京都の第三高等学校に入り、その後、東京帝国大学の仏文科に進み、ボードレールの詩集『巴里の憂鬱』を訳し、自分でも詩を書いた。
30歳の年に、処女詩集『測量船』を出版。抒情的な詩で人気を博した。
翻訳、詩、評論を書き、学校の校歌の作詞などをした後、1964年4月、心臓発作のため、東京で没した。63歳だった。

たしか河盛好蔵が書いていた。三好達治という人は、和文和訳をよくやったらしい。つまり、フランス語の詩を自分で訳す仏文和訳でなく、すでに日本人の誰かが日本語に訳してあるのをべつの日本文に書き換えて、あたかも自分で訳したように発表するのである。
三好達治に限らず、現代でもこういうことをする例はけっこうあって、なかには、大学の英語教授が和文和訳している例さえある。

それはそれとして、三好達治の詩集『測量船』は美しい。ときどき開き、「春の岬」「雪」「峠」「夜」「草の上」など、音読したりする。
現代的でありつつ夢幻的で、放浪の旅をする魂の詩といった感じがする。

「太郎を眠らせ~」の詩「雪」は、たしか井伏鱒二が独特の解釈をしていて、それによると、太郎と次郎の兄弟は一日じゅう、青い鳥をさがして野山を歩きまわり、結局みつからず、疲れて帰ってきて、いまふとんで寝ている。夜で雪が振っていて、はりの上に青い鳥がとまっていて、その寝顔を見下ろしている、というものだった。奇抜な名解釈である。
読んだ人の心に、いろいろに想像させるイメージ喚起力が、三好達治の詩にはある。
(2016年8月23日)


●おすすめの電子書籍!

『心をいやす50の方法』(天野たかし)
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8月22日・ドビュッシーの自由

2016-08-22 | 音楽
8月22日は、社会奉仕家、北原怜子(きたはらさとこ)が生まれた日(1929年)だが、印象派の作曲家、クロード・ドビュッシーの誕生日でもある。

クロード=アシル・ドビュッシーは、1862年、仏国パリで生まれた。父親は元海軍兵で陶器店の経営者だった。
8歳のころから伯母にピアノを習っていたクロードは、わずか10歳でパリ音楽院に合格。このとき、音楽院は受験生157名中、合格者33名という難関だった。
音楽院でピアノ、和声学、作曲などを学び、ピアノ演奏で数々の賞を受賞し、19歳のとき前奏曲「亜麻色の髪の乙女」を書いた。23歳から25歳のころまでイタリアのローマへ留学した。
依頼された作曲、楽譜出版による原稿料、音楽の家庭教師、ピアノ演奏などで生計を立てたが、つねに生活は貧窮し、高利貸からよくお金を借りた。とはいえ、とくに節約をするわけではなかった。
40歳のとき、ベルギーの詩人モーリス・メーテルリンクの戯曲「ペレアスとメリザンド」をオペラ化し、成功。以後はピアノ演奏と並行して指揮者としても活躍したが、生涯を通じて経済的な不安が念頭を去ったためしはなかった。
ドビュッシーは、ワーグナー、ストラヴィンスキーを尊敬していた。彼はまた、エリック・サティのピアノ独奏曲「ジムノペティ」をオーケストラ用に編曲して、みずから指揮して喝采を浴びたりした。
ピアノ曲「月の光」、
管弦楽曲「牧神の午後への前奏曲」、
夜想曲「雲」「祭」「シレーヌ」、
交響詩「海」、
舞台用楽曲「聖セバスティアンの殉教」、
歌曲「マラルメの3つの詩」、
バレエ音楽「遊戯」などを書いた後、第一次世界大戦末期の1918年3月に、大腸ガンのため没した。55歳だった。

ドビュッシーは社交的な男ではなかったようだが、女性にはもてた。出会った女性にすぐにふらふらと寄っていき恋愛関係におちいるので、彼の心変わりを知った女性がピストルで自殺未遂を起こす事件を2度引き起こしている。ドビュッシーは、自分を結婚に不向きで、結婚は芸術的な自由をはばむと避けていたらしいが、それでも45歳でできちゃった再婚をした後は、ようやく腰を落ち着けた。

モーツァルトやベートーヴェンを聴いた後、ドビュッシーを聴くと、決まりごとから解放された自由を感じる。どこが主題でどこが主題でないのかわからないような、とりとめのなさがのびやかで、心地よい。
ドビュッシーは、公園のベンチにすわってぼんやりと、刻々と形を変え流れていく空の雲をながめているのが好きだったそうだ。ドビュッシーの音楽は、現代人が失くした大切ななにかを思い出させてくれる。
(2016年8月22日)



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