1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

6月30日・スーザン・ヘイワードの脱皮

2022-06-30 | 映画
6月30日は、ハリウッド女優、スーザン・ヘイワードの誕生日である。

スーザン・ヘイワードは、1917年、米国のニューヨーク市ブルックリンで生まれた。本名はイーディス・マーレナー。父親はアイルランド系の運送会社員で、母親はスウェーデン系の速記者だった。上に姉と兄がいる、3人きょうだいの末っ子だった。
父親の血筋から赤い髪を受け継ぎ、母親の血筋から透き通る白い肌を受け継いだイーディスは、女子高校時代から学内の劇で活躍していた。高校を卒業後、しばらくモデルをした後、20歳のときに、西海岸のハリウッドへ引っ越し、女優を目指した。
大作「風と共に去りぬ」のスカーレット役のオーディションを受け、フィルムテストまで受けたが、落選。いくつかの映画のちょい役を務めた後、22歳のとき、映画「ボー・ジェスト」でゲイリー・クーパーの相手役を演じて本格的に映画デビューした。
27歳のとき、俳優のジェス・バーガーと結婚し、双子を出産。この結婚生活時代に「スマッシュ・アップ」「タルサ」「キリマンジャロの雪」「真紅の女」などに出演した。結婚10年目の、彼女が37歳のとき、離婚。彼女は睡眠薬を飲んで自殺未遂をはかったが、一命はとりとめた。
回復後に出演した「明日泣く」でカンヌ国際映画祭女優賞を受賞。
40歳のとき、ジョージア州の牧場主と結婚。この結婚直後の「私は死にたくない」でアカデミー主演女優賞を受賞。彼女は映画出演を続けながら、映画人でない夫との農場暮らしを楽しんだ。その夫が、彼女が49歳のときに没した。
ふたたび独身となったヘイワードはジョージア州を離れた。以後は映画に出演することもすくなくなり、1975年3月、脳腫瘍のため、ハリウッドで没した。57歳だった。

「風と共に去りぬ」と「ジャイアンツ」を合わせたような「タルサ」や、グレゴリー・ペックと共演した「キリマンジャロの雪」もよかったけれど、個人的には、ヘイワードは「真紅の女」の女優である。
ヘイワードが36歳のときの映画「真紅の女」は、彼女のトレードマークである赤毛の髪から、そういう邦題が付けられたのだろうけれど、原題は「The President's Lady」で「大統領の淑女、ファーストレディ」といった意味である。
これは、合衆国第7代大統領アンドリュー・ジャクソン夫妻を描いた伝記映画で、不屈の魂をもった大統領ジャクソンを若きチャールトン・ヘストンが演じ、その妻レーチェルの役をスーザン・ヘイワードが演じた。
アンドリュー・ジャクソンは24歳のとき、レーチェル・ドネルソンと恋に落ち、結婚したが、まだ彼女と前の夫との離婚が成立していなかったことが後になってわかり、離婚成立を待って結婚をやり直した経緯があった。これを重婚、姦通などとして妻を侮辱する者がときどきあり、怒ったジャクソンは妻の名誉のために何度も決闘をおこなった。一度は相手を殺し、彼自身も重傷を負った。後に大統領になったジャクソンのからだには、部位が危険で取り出せない弾丸が3発、生涯入ったままだったという。この熱血漢の大統領の「運命の女」をヘイワードが演じた。米国史専攻で、たまたまこうしたジャクソン大統領の経歴を知っていたので、この映画をとても興味深く観た。
ヘイワードは離婚、結婚の節目ごとに、一皮向けて成長していた大女優で、そういう彼女の経歴とも重なって、二重に興味深く感じる。
(2022年6月30日)



●おすすめの電子書籍!

『映画女優という生き方』(原鏡介)
世界の映画女優たちの生き様と作品をめぐる映画評論。モンローほかスター女優たちの演技と生の真実を明らかにする。


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6月29日・黒田清輝の雅

2022-06-29 | 美術
6月29日は、『星の王子さま』を書いたサン=テグジュペリが生まれた日(1900年)だが、画家、黒田清輝(くろだせいき)の誕生日でもある。

黒田清輝(本名の読みは「きよてる」)は、慶応2年6月29日(西暦1866年8月9日)、現在の鹿児島県鹿児島市で生まれた。父親は薩摩藩の武士で、清輝は同じく薩摩藩士だった伯父の養子になり、6歳になる年に上京し、東京で育った。
伯父は鳥羽伏見の戦いに参加し、維新後、官僚、議員、子爵になった人物である。
二松學舍大学の前身の学校に進学し、学業と並行して鉛筆画や水彩画を学んでいた清輝は、英語、仏語を学び、東京外国語学校を経て、18歳になる年にフランス・パリへ法律学の学生として留学した。
養父ら家族からは、とうぜん官僚・政治家になるよう期待されていたろうけれど、パリで日本人画家と交わるうちに進路を変更、清輝は画家として立つ決意を固め、古典的な写実と印象派の画風を備えた「外光派」のラファエル・コランの弟子になった。
25歳のとき、窓辺で椅子にすわって本を読んでいるフランス女性を描いた「読書」で、フランスのサロンに入選。
27歳になる年に帰朝し、洋画研究所天心道場を開き、洋画団体「白馬会」を結成。
また、東京美術学校で西洋画科が開設されると、その教員となり、箱根の芦ノ湖湖畔で浴衣の女性(後の黒田清輝夫人)が団扇をつかっている構図の「湖畔」を発表。
32歳で東京美術学校の教授になり、33歳で日本女性裸婦像が3枚セットになった作品「智・感・情」をパリ万博へ出品し銀賞受賞。
続いて、西洋婦人をモデルにした「裸体婦人像」を白馬会展に発表すると、これがわいせつだと官憲の批判を受け、絵の裸婦の腰から下部分が布におおわれて展示され、「腰巻事件」として話題を呼んだ。
以後も黒田清輝は、白馬会や東京美術学校を通じて後進の育成に努めながら、京都の鴨川が見える窓辺に着物姿の娘が腰かけた構図の「舞妓」、草原に裸婦が寝そべる「野辺」、病床の窓から見える樫木を描いた「梅林」などを発表し、貴族院議員、帝国美術院長などの役職を歴任した後、1924年7月、尿毒症のため、東京で没した。57歳だった。

明るい外光派、黒田清輝こそは「日本近代西洋画の父」である。後代の日本人油彩画家は、多かれ少なかれ、先人・黒田清輝の恩恵をこうむっている。
ただ、現代から見ると、さすがに黒田清輝の絵画はやや堅い。おそらく、西洋の技術を輸入し、日本絵画界に寄与するのだという気負いからくるのだろう、傑作「湖畔」にしても、女性の表情がややぎこちない。黒田の画風に比べれば、後輩のパリ留学組、藤田嗣治、梅原龍三郎、岡本太郎らは、ずっと自由だし、個性的である(それも、黒田清輝ら先人の達成があった上での成果である)。
ただし、こうは言えるだろう。藤田、梅原、岡本ら後輩画家たちは自由だけれど、優雅さという点において、後輩たちは、黒田清輝に及ばない、と。「読書」「湖畔」といった絵に漂う典雅は独特のものである。たぶんこれは技術云々とは別の次元のことがらだろう。
黒田清輝の優雅さは、尾崎紅葉の小説にある典雅に通じる。明治の人というのは、後の昭和生まれなどにはない、あるみやびをもっていたようだ。
すると、それは、もはや日本人が失ってしまった性質なのかもしれない。
(2022年6月29日)



●おすすめの電子書籍!

『芸術家たちの生涯----美の在り方、創り方』(ぱぴろう)
古今東西の大芸術家、三一人の人生を検証する芸術家人物評伝。彼らの創造の秘密に迫り、美の鑑賞法を解説する美術評論集。会田誠、ウォーホル、ダリ、志功、シャガール、ピカソ、松園、ゴッホ、モネ、レンブラント、ミケランジェロ、ダ・ヴィンチまで。芸術眼がぐっと深まる「読む美術」。


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6月28日・ジャン=ジャック・ルソーの火

2022-06-28 | 思想
6月28日は、絵本『100万回生きたねこ』を描いた佐野洋子が生まれた日(1938年)だが、啓蒙思想家、ジャン=ジャック・ルソーの誕生日でもある。

ジャン=ジャック・ルソーは、1712年、スイス、ジュネーヴで生まれた。父親は時計職人で、ジャンの上にひとり兄がいた。母親はジャンを産んで9日後に没した。
ジャンは小さいころから、小説や歴史が大好きな子どもだったが、10歳のとき、父親と兄が家出していなくなり、ジャンは孤児同然の身の上となった。叔父の言えに身を寄せた彼は13歳のころ、彫金師のもとに丁稚奉公に出され、主人にいじめぬかれた。16歳の或る夜、遅く帰ってとくると、夕刻に閉じられるジュネーヴの城門が閉まった後で、これをきっかけに、ルソーはそのまま放浪の旅に出た。
音楽教師、楽譜筆写工、従僕などさまざまな職を転々とした後、20代のころには、夫と別居中の男爵夫人の愛人となり、保護を受けながら、哲学や数学の勉強に打ち込んだ。
20代後半のころ、男爵夫人と別れ、リヨンで家庭教師をした後、30歳のころ、フランスのパリへ出た。ルソーは『百科全書』を編集・執筆したドゥニ・ディドロと親交をもつようになり、ルソーも『百科全書』に寄稿した。
38歳のとき、アカデミーの懸賞に応募にした論文『学問および芸術の進歩は道徳の純化と腐敗のいずれに貢献したか』が入選し、彼は一躍文名が高まり、これを機に執筆活動に入った。『人間不平等起源論』『社会契約論』を書き、49歳のときに発表した恋愛小説『新エロイーズ』はベストセラーとなった。
50歳のときに発表した教育論『エミール』が、冒とく的だとして禁書となり、逮捕状が出たため、彼はフランスを逃げだし、スイスへ亡命した。
その後、英国で亡命生活を送った後、ひそかにフランスへもどり、パリで身を隠して執筆を続けた。
自叙伝『告白』や、『孤独な散歩者の夢想』を書き、1778年7月、パリ郊外のエルムノンヴィルで没した。66歳だった。

ルソーこそ、現代人の生きる支えであり、同時に、現代人の抱える問題の元凶である。

フランス革命前夜に生きたルソーは、児童教育、自由、平等を訴えた思想家で、政治だけでなく、美術や文学など他分野に大きな影響を与えた。
ルソー以前には、王侯や貴族も司教などには価値があったろうけれど、一般庶民にはたいした価値はなかった。けれども、ルソーは、人間はそれぞれ異なってはいるけれど、人間一人としての価値は、みんな同じだけあるのだと唱えた。そして彼は『告白』を書いた。これは私小説の出発点で、それ以降、世界中でおびただしい数の私小説が書かれ、いまでも書かれているけれど、それら私小説はすべて、
「どんな人にも同じ、人間としての価値がある」
というルソーの思想を存在根拠としている。

「一般大衆の一人になってはいけない。近代市民であれ」
学生のころ、西洋史の担当教官によくそう言われたけれど、これもルソーが源流である。ルソーは、人間に「尊厳」という火を与えてくれた第二のプロメテウスである。
(2022年6月28日)



●おすすめの電子書籍!

『思想家たちの生と生の解釈』(金原義明)
「生」の実像に迫る哲学評論。ブッダ、カント、ニーチェ、ウィトゲンシュタイン、フーコー、スウェーデンボルグ、シュタイナー、クリシュナムルティ、ブローデル、丸山眞男など大思想家たちの人生と思想を検証。生、死、霊魂、世界、存在について考察。わたしたちはなぜ生きているのか。生きることに意味はあるのか。人生の根本問題をさぐる究極の思想書。


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6月27日・ヘレン・ケラーの打開

2022-06-27 | 歴史と人生
6月27日は、女性活動家、エマ・ゴールドマンが生まれた日(1869年)だが、ヘレン・ケラーの誕生日でもある。聞く、見る、話すができないという三重苦を乗り越えた人である。

ヘレン・アダムス・ケラーは、1880年6月27日、米国南部のアラバマ州タスカンビアで生まれた。ヘレンの父親は、スイスからやってきた移民の子孫で、地元の新聞を編集し、南軍の隊長を務めていた。
ヘレンは、2歳のとき、高熱にうなされ、聴力と視力を失った。その影響で、ことばを話すこともできなくなった。彼女の教育について、両親はお手上げの状態となり、ヘレンは粗暴でわがままな子どもになっていった。
両親は、電話の発明者として有名なアレクサンダー・グラハム・ベルに相談した。ベルは当時、聴覚障害児教育の研究家としても有名だったからである。ベルの紹介を受け、両親は北部のマサチューセッツ州に手紙を出し、家庭教師の派遣を要請した。その依頼を受け、はるばる南部のアラバマ州へやってきたのは、20歳になるアン・サリヴァンという女性家庭教師だった。アン・サリヴァンも5歳のときにトラホームにかかり、長いなあいだ目が見えなくなった経験をもっていた。その後、サリヴァンは目の手術を受けて回復したが、視力は弱く、サングラスで目を保護していた。
到着したサリヴァンははじめ、既存の手順でヘレンにことばを教えようとした。が、すぐにそれをやめ、ヘレンの興味が向く方向に沿って教えるやり方に変更した。ヘレンのてのひらに文字を書いて教えることで、半年間に575語を習得させることに成功した。
長いあいだことばを失っていたヘレンは、ふたたびしゃべられるようになり、勉強に励みだし、現在のハーヴァード大学を卒業した。さまざまな社会福祉活動にたずさわり、自伝を口述し、各地を講演してまわり、世界中の障害者の心に希望の火を灯した。サリヴァンはその間、ずっとケラーに付き添い、その活動を助けた。
ヘレン・ケラーは22歳のとき、自伝『わたしの生涯』を発表。彼女の名前は世界的に有名になり、各国から招待の手紙が舞い込んだ。日本からも、障害者支援の促進のために訪日してくれるよう要請があった。しかし、そのころ、サリヴァンは病床に伏していた。先生を心配して日本からの来日要請を無視していたケラーに、サリヴァンは日本へ行くようすすめる遺言を残した後、1936年10月、ニューヨークのフォレストヒルズで没した。70歳だった。その翌年、ヘレン・ケラーの来日が実現した。
船で初来日したケラーは、日本各地をまわり、昭和天皇にも拝謁し、希望して秋田犬二頭を贈られて帰国した。その後も、ケラーは世界各国をまわって障害者支援を訴え、福祉活動に尽力した。日本には、68歳のときに再来日し、日本にも福祉法人のヘレン・ケラー財団が関東と関西に設立されている。1968年6月、ヘレン・ケラーはコネチカット州イーストンの自宅で没した。87歳だった。

聴覚と視覚が閉ざされた身で、名門ハーヴァード大学に入学、卒業し、ヘレン・ケラーは人間の不屈の知性を示した。彼女に比べれば、たいていの人間の陥っている苦境などはたいしたことではない。彼女はそれ以前の人類史上に存在しなかった、まったく新しいタイプの英雄である。ヘレン・ケラーは言っている。
「人生は興奮に満ちている。もっとも興奮が高いのは、他人のために生きるときだ。(Life is an exciting business and most exciting when it is lived for others.)」
(2022年6月27日)



●おすすめの電子書籍!

『大人のための世界偉人物語』(金原義明)
世界の偉人たちの人生を描く伝記読み物。エジソン、野口英世、ヘレン・ケラー、キュリー夫人、リンカーン、オードリー・ヘップバーン、ジョン・レノンなど30人の生きざまを紹介。意外な真実、役立つ知恵が満載。人生に迷ったときの道しるべとして、人生の友人として。

『大人のための世界偉人物語2』(金原義明)
人生の深淵に迫る伝記集 第2弾。ニュートン、ゲーテ、モーツァルト、フロイト、マッカートニー、ビル・ゲイツ……などなど、古今東西30人の生きざまを紹介。偉人たちの意外な素顔、実像を描き、人生の真実を解き明かす。人生を一緒に歩む友として座右の書としたい一冊。


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6月26日・トムソンの絶対

2022-06-26 | 科学
6月26日は、作家パール・バックが生まれた日(1892年)だが、物理学者のウィリアム・トムソンの誕生日でもある。絶対温度の提案者である。

ウィリアム・トムソンは、1824年、英国北アイルランドのベルファストで生まれた。父親は大学の数学教授で、ウィリアムは2人兄弟の下のほうだった。
ウィリアムはまれにみる秀才で、わずか10歳のとき、父親が教授を務めるグラスゴー大学への入学を許可された。
同大学をへて、ケンブリッジ大学などで学んだ後、22歳の若さでグラスゴー大学の教授に就任。英国の大学で初となる物理学実験室を作った。
トムソンは、24歳のとき、絶対温度目盛を導入し、27歳で熱力学の第二法則を定式化し、28歳でジュール=トムソン効果を発見し、42歳のときには、大西洋横断電信ケーブルを敷設した。
この大事業を成し遂げた功績により、トムソンはナイトの称号を受け、サー・ウィリアム・トムソンとなった。
68歳のとき、男爵の爵位を受け、「ケルヴィン卿」となった。絶対温度の単位を「ケルヴィン(K)」というのは、これに由来する。
古典物理学のほぼすべての分野に業績を残したトムソンは、グラスゴー大学の総長を務めた後、1907年12月、スコットランドのラーグスで没した。83歳だった。

絶対零度というのは、摂氏マイナス273.15度のことで、温度はこれ以上下がることはない。
この絶対零度を0度として、目盛りをつけたのがトムソンが使った絶対温度(単位はK、ケルヴィン)で、目盛りは摂氏と同じ幅なので、273.15Kが摂氏0度になる。

古典力学の範囲内で言えば、絶対零度のとき、すべての熱運動は止まってしまう。
高校生のとき、物理の先生が液体窒素を魔法瓶に入れてもってきて見せてくれた。バラの花をそのなかにちょっとつけて取り出すと、もうカチンカチンで、軍手をはめた手でさわると、かわききったクロワッサンの皮のように、花びらがパリパリと砕けるのだった。
液体窒素の沸点が77K、摂氏マイナス196度だというから、絶対零度の世界というのは、これよりまだ77度低い世界なのである。

もちろんかなわない夢だけれど、絶対零度の世界に放りこまれて、まったく運動のない世界というのを、一度体験してみたい。
いったいどんな感じがするだろう。想像するだけで、甘美な心持ちになる。
トムソンのような頭のいい人は、逆に想像的な夢に欠けているようで、「空気より重たい機械が空を飛ぶはずがない」と飛行機の可能性を否定し、X線はうそだと言い切っていたというから、人の頭には向き不向きがあるのだ。
(2022年6月26日)



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『科学者たちの生涯 第一巻』(原鏡介)
人類の歴史を変えた大科学者たちの生涯、達成をみる人物評伝。ダ・ヴィンチ、コペルニクスから、ガロア、マックスウェル、オットーまで。知的探求と感動の人間ドラマ。


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6月25日・ガウディとユーザー

2022-06-25 | 美術
6月25日は、漫画家、本宮ひろ志が生まれた日(1947年)だが、アントニ・ガウディの誕生日でもある。

アントニ・ガウディは、1852年、スペインのカタルーニャ地方、タラゴナで生まれた。父親は銅製の鍋や釜を作る銅細工師で、アントニは、5番目の子だった。
小さいころ病弱だったアントニは、絵を描き、学校の演劇の際に大道具や小道具を作るのが好きな子どもだった。
彼は21歳からバルセロナで建築を学び、いくつかの建築事務所で働き、26歳のとき建築士の免許を得、パリ万博に出典する手袋の店のためにショーケースをデザインした。それがたまたま実業家エウセビオ・グエルの目に止まった。グエルは、グエル邸、コロニア・グエル教会地下聖堂、グエル公園などの設計をガウディに依頼した。そして1883年、31歳のとき、サグラダ・ファミリア(聖家族教会)の専任建築家に推薦された。
サグラダ・ファミリアは、すべて個人の寄付によって建設費を集めて建てようと計画された教会で、すでにべつの建築士が無償で引き受け、着工していた。でも、意見がぶつかり、建築士が下りてしまっていた。その後任として使命されたのがガウディで、彼は設計を一からやり直し、巨大な教会建築に取り組んだ。
1926年6月、バルセロナでホームレスらしい風体の男が路面電車にはねられた。男は、その3日後に死亡した。それがガウディだった。73歳だった。生涯独身だったガウディは、身なりに気をつかわず、彼と気づかれず、手当てが遅れたのだった。
彼がすべてを注ぎ込んで没頭したサグラダ・ファミリアは、着工から百年以上たった現在なお建造中である。

ひもに重りをつけてたらした形を、上下さかさにひっくり返した造形。
その土地の地形をなるかけ生かし、石などその場所でとれた材料を生かした建造。
角のない、すべてが曲面で構成された建築物。
ガウディの建築は、それまでに類を見ない、強烈に個性的なものだった。
いまでは日本でもガウディは有名で、ガウディの作品と聞けば、みんながこぞってちやほやほめるけれど、はじめて見たとき、とてもそういう感想はもたなかった。
個性的ではあるけれど、異様で気味が悪かった。レンガがいまにも崩れてきそうな感じで組み合わされた教会の天井など、悪趣味ではないか、と。
ガウディが造ったバルセロナの「カサ・ミラ」アパートなど、おどろおどろしい感じで、なかに住んでいる人はどんな気持ちかしら、といぶかっていた。日々不安定な気持ちでいたりしないかしらと。埴谷雄高も同じ疑念を漏らしていた。
先日、テレビを見ていたら、「カサ・ミラ」賃貸アパートにテレビカメラが入り、住人にインタビューしているのが映った。
その住人は品のよさそうな老婦人で、とても住み心地がいいと言っていた。天井にガウディが描いた絵があったりして、芸術に囲まれていて、気持ちがよい、と。テレビが映し出す室内も、明るくて、なかなか感じがよかった。現在は世界遺産に登録されているそうだ。
外見は異様でも、ガウディ建築は案外暮らしやすいのかもしれない。
(2022年6月25日)



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『ブランドを創った人たち』(原鏡介)
ファッション、高級品、そして人生。世界のトップブランドを立ち上げた人々の生を描く人生評論。エルメス、ティファニー、ヴィトン、グッチ、シャネル、ディオール、森英恵、サン=ローランなどなど、華やかな世界に生きた才人たちの人生ドラマの真実を明らかにする。


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6月24日・エルテール・デュポンの瞬間

2022-06-24 | ビジネス
6月24日は、米国のデュポン財閥の礎を築いたエルテール・デュポンの誕生日である。

エルテール・イレネー・デュポンは、1771年、フランスのパリで生まれた。彼が生まれる前年には、ルイ16世とマリー・アントワネットの婚姻があった。
エルテールの父親は印刷業を営む政商で、エルテールが13歳のときに、ルイ16世から証書など公文書の特許を受け、貴族に列せられた。
エルテールは王立のカレッジに学んだが、いずれの学科にも興味がわかなかった。ただ、唯一、爆発物については強く関心を覚えた。エルテールは父親のつてで、火薬の研究を扱っている政府機関の化学研究所で、質量保存の法則を発見した天才科学者アントワーヌ・ラヴォアジエの生徒になり、火薬作りに欠かせない化学知識を学んだ。
エルテールが18歳のとき、バスティーユ監獄が襲撃され、フランス革命がはじまった。
22歳のとき、ルイ16世、マリー・アントワネットが処刑され、23歳になる年には、恩師ラヴォアジエが処刑され、エルテールの父親も逮捕された。父親はかろうじて処刑をまぬがれたが、デュポン家は混乱のフランスから逃げだすことに決めた。
エルテールが28歳のとき、一家は大西洋を渡る船に乗った。そうして1800年1月1日に、米国東海岸のロードアイランド州に到着した。
デュポン家は、ニュージャージー州に居を構え、すぐにニューヨークに事務所を開いて、どんな商売をはじめるか検討しだした。
エルテールは当初、火薬を商売にしようなどと考えてはいなかったという。
あるとき、エルテールは、米陸軍の軍人といっしょに猟銃をもって山へ狩りに出かけた。その軍人は、たまたま軍の弾薬供給に以前関わっていた人物だったのだけれど、ハンティングをしていて、エルテールが鳥に狙いをつけて引き金を引くと、不発だった。
「米国製の火薬は、質が悪いようだね」
エルテールは、米国製の火薬製造技術が未熟なのを知ると、師ラヴォアジエに教わった技術や知識を思いだした。火薬製造の計画を話すと、父親は大賛成した。
デュポン家は資本を集中投下し、工場を建設した。そしてエルテールが32歳のとき、最初の火薬製品ができあがった。
品質管理と安全対策の管理会計に力を入れた結果、デュポン社の高品質の黒色火薬は米国政府の信頼を得て、政府御用達の兵器メーカーとなり、デュホン社は発展していった。
エルテール・イレネー・デュポンは、1834年10月、デラウェア州のエリュセリアンミルズで没した。63歳だった。死因は、コレラか心臓発作だと言われている。

その後、デュポンは南北戦争、第一次、第二次世界大戦と、戦時に発展し、21世紀の現代でも、エルテールの子孫たちは繁栄していて、デュポン財閥は、メロン財閥、ロックフェラー財閥と並ぶ米国の三大財閥とされている。

ライターのデュポン。管理会計の教科書デュポン。
ハンティングのエピソードは、なかなか象徴的な話である。お金になればなんでもいいというのは、大成しないのであって、やはりなにごとかで大成する人には、いずれ、自分のなかにある可能性に気づく「気づきの瞬間」がくるのである。
(2022年6月24日)



●おすすめの電子書籍!

『ビッグショッツ』(ぱぴろう)
伝記読み物。ビジネス界の大物たち「ビッグショッツ」の人生から、生き方や成功のヒントを学ぶ。フェイスブックのマーク・ザッカーバーグ、ソフトバンクの孫正義から、デュポン財閥のエルテール・デュポン、ファッション・ブランドのココ・シャネル、金融のJ・P・モルガンまで、古今東西のビッグショッツ30人を収録。大物たちのドラマティックな生きざまが躍動する。


●電子書籍は明鏡舎。
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6月23日・チューリングの翻弄

2022-06-23 | 科学
6月23日は作家、リチャード・バックが生まれた日(1936年)だが英国の天才数学者、アラン・チューリングの誕生日でもある。

アラン・マシスン・チューリングは、1912年、英国はロンドンのメイダヴェールで生まれた。祖父はケンブリッジ大学出、父親がオックスフォード大出というインテリの家系で、アランの父親は英国植民地インドの官吏だった。
幼くしてすぐに文字が読めるようになったアランは、初等教育を受けるころから、校長がすぐに気づくほど優秀で、習っていない数学問題を自力で公式を発案して解いていた。彼、ケンブリッジ大学のキングス・カレッジへ進み、フェロー(特別研究員)となった。
米国のプリンストン大時代に留学し、「コンピュータの父」フォン・ノイマンと親交を結んだチューリングは、25歳で論文「計算可能数について」を書き、すべての論理的作業をおこなう理想上の機械(後のコンピュータ)を提案し、世界の数学界に衝撃を与えた。こんな機械があれば、数学者は膨大な単純計算やまわり道をしないで、純粋に数学の進歩に専念できる。いわば夢の機械だった。チューリングが英国ケンブリッジ大へ戻ると、そこへ第二次大戦が勃発した。
英国の対独宣戦布告に際し、27歳のチューリングは、召集され、ドイツの暗号解読チームに入った。当時敵国のドイツはエニグマという、解読不能と言われる暗号機を使っており、英国はこれを読み解こうと躍起になっていた。
自分のマグカップが盗まれないように鎖でつないでいたチューリングは、チーム内でも変人として際立っていたが、山のような試行錯誤の後、彼はついにエニグマの暗号解読に成功した。このときにチューリングが作った、1500個の真空管を用いた暗号解読機が、もっとも初期のコンピュータとされる。
英国はドイツ軍の裏をかけるようになり、ロンドンやリバプールに雨あられと爆弾が投下され、近海で英国船が次々と沈められていた戦況はがらりと変わった。
戦争は英国を含む連合国側の勝利に終わり、チューリングは戦勝国の英雄だったが、彼の功績は戦後も長らく国家機密とされた。なんとなれば、英国は解読成功を隠し、エニグマは解読不可能だとして、戦後、ドイツから没収したエニグマをアフリカやアジアの旧植民地に使わせ、ひそかに各国の国家機密を盗んでいたからである。
戦後、大学の研究室にもどり、まだ誰も知らないコンピュータのプログラムを書いていたチューリングは、40歳のとき、男色の罪で起訴された。英国では、第二次大戦後も男色は違法だった。チューリングは裁判で有罪を宣告され、投獄かホルモン治療かの二者択一を迫られた。彼は後者を選び、胸がふくらみ性的能力を失い、うつ状態に苦しんだ後、1954年6月、自殺した。青酸カリを入れたリンゴを食べた結果で、42歳だった。

機械が「人間的」かどうかを判定するためのテスト「チューリングテスト」は、もともとアラン・チューリングが38歳のときに提案したものである。

チューリングの生涯を描いた映画「イミテーション・ゲーム」を見た。なんとも言えない、重たい感慨が残る名画である。
人は時と空間の子であり、その人生は時と空間によって翻弄される。その冷徹な事実を、チューリングの悲劇的な生は再確認させる。
(2022年6月23日)

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6月22日・山本周五郎の訓戒

2022-06-22 | 文学
6月22日は、女流飛行家で作家のアン・リンドバーグ(リンドバーグ夫人)が生まれた日(1906年)だが、作家、山本周五郎の誕生日でもある。

山本周五郎は、1903年、山梨の現在の大月で生まれた。本名は、清水三十六(しみずさとむ)。清水家はマユの仲買や馬喰などをしていた。
三十六が4歳のとき、大雨による水害にあい、これを機に三十六の家族は東京へ出た。
7歳のとき、一家は東京から横浜へ引っ越し、三十六は横浜の小学校に通った。
小学校四年生のとき、教師にその文才を認められ、
「きみは小説家になれ」
と言われ、これが三十六の心の支えとなった。
13歳で小学校を卒業すると、三十六は東京の質屋に住みこみで働く徒弟となった。その質屋の名前が「山本周五郎商店」といった。
20歳のとき、関東大震災で被災して、山本周五郎商店は解散。
清水三十六は関西へ逃げて、転々としながら新聞や雑誌の記者をした後、21歳のころ、東京へもどり、雑誌社の編集記者になった。
23歳のとき、文芸誌に小説『須磨寺附近』が載り、これが出世作となり、その後、専業作家となって時代小説を書いた。
40歳のときには『日本婦道記』で直木賞に選ばれたが、これを辞退。それ以後も「すでに読者から賞をもらっているから」として、数々の文学賞を辞退した。
『樅の木は残った』『赤ひげ診療譚』『青べか物語』『ながい坂』など名作を山のように書き、1967年2月、肝炎のため没した。63歳だった。

ペンネームの「山本周五郎」は、丁稚奉公時代の主人が、彼に働きながら英語や簿記の学校に通わせてくれた、その感謝をこめて、店の名前を名乗ったものである。

人間味のある人物を時代小説に書いた山本周五郎だが、本人は「曲軒(きょくけん)」とあだ名されるへそ曲がりだった。作家、尾崎士郎がつけたあだ名らしい。
山本周五郎がまだ駆けだしのころ、文藝春秋社の創業者である菊池寛のところへ原稿をもちこんだことがあった。文壇の大御所だった菊池寛が、原稿を批評すると、
「小説について貴方の教えを乞いたいとは思いません」(早乙女貢『わが師山本周五郎』第三文明社)
と、原稿を持ち帰った。
後の山本の直木賞受賞辞退は、このときの嫌悪感が尾を引いていたのかもしれない。

狷介をもって鳴る山本周五郎は、あまり人を近寄らせず、とうぜん弟子をとらなかったが、唯一、出入りを許された弟子が早乙女貢だった。たまたま知り合って、早乙女貢が生前、師匠について語るのを聞いた。
師・山本周五郎は、時代小説を書くのなら、ユーゴーやデュマなど外国作家のものを読んで勉強するべきだとすすめ、早乙女に本を貸してくれたそうだ。
山本周五郎はこんなストリンドベリーのことばをよく引用した。
「苦しみ働け、常に苦しみつつ常に希望を抱け、永久に定着を望むな、此の世は巡礼なればなり……」(同前)
(2022年6月22日)



●おすすめの電子書籍!

『小説家という生き方(村上春樹から夏目漱石へ)』(金原義明)
人はいかにして小説家になるか、をさぐる画期的な作家論。村上龍、村上春樹から、団鬼六、三島由紀夫、川上宗薫、江戸川乱歩らをへて、鏡花、漱石、鴎外などの文豪まで。新しい角度から大作家たちの生き様、作品を検討。読書体験を次の次元へと誘う文芸評論。


●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp

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6月21日・サルトルの参加

2022-06-21 | 思想
6月21日は万能の天才、ライプニッツが生まれた日(1646年)だが、フランスの哲学者、サルトルの誕生日でもある。

ジャン=ポール・サルトルは、1905年、フランスのパリで生まれた。父親は海軍士官だった。ジャンが2歳のころ、父親は熱病で亡くなった。夫の看病疲れと死別のショックが母親を襲い、ジャンは母方の祖父母のもとへ預けられた。祖父はドイツ語の教授で、たくさんの蔵書をそろえていた。祖父の書斎で、ジャンはよく本を読んだ。
サルトルは、ルイ大王学院でポール・ニザンに出会い、高等師範学校でメルロー=ポンティと知り合った。そして、教授資格認定試験の受験準備をしていた24歳のころ、同じ資格試験を受験しようとしていたシモーヌ・ド・ボーヴォワールと知り合い、二人は2年間の契約結婚を結んだ。サルトルは、こう言ったという。
「2年間のリース契約にサインしようじゃないか」
これは、正式には結婚しない、たがいに相手を束縛せず、自由恋愛を認め合うという特殊な恋人関係の契約で、結局2年だけでなく、生涯にわたってつづいた。
26歳で高等中学の哲学科の教師になったが、第二次世界大戦がはじまると、サルトルは召集され、気象班に配属された。そしてフランスがドイツに降伏し、捕虜となった。
サルトルは生まれつきひどい斜視で、彼はこれを利用し、平衡障害の病気があるといつわって釈放されパリに帰ってきた。
戦時中の38歳のとき『存在と無』を発表。戦後は教師を辞めて、著作活動に専念した。
大戦後は、世界的に実存主義哲学が流行し、サルトルはその代表的哲学者として世界各国を飛びまわり、行った先々で大歓迎を受けた。無神論的実存主義を標榜し、キューバ革命政府を支持し、中国の学生たちの毛沢東主義を擁護するなど、政治的な発言も積極的にした。59歳のとき、ノーベル文学賞を辞退。
68歳のとき、右目を失明。そして1980年4月、肺水腫のため、没した。74歳だった。
評論に『実存主義とは何か』『シチュアシオン』、戯曲に『汚れた手』『悪魔と神』、 小説に『嘔吐』や未完の大作『自由への道』などがある。

サルトルの「参加(アンガジェ)」。それはずっと最重要問題だった。
サルトルの説をわかりやすくいえば、こうである。
仮にあなたが昼にラーメンを食べるか、カレーをカレーを食べるかで迷い、結局、ラーメンを食べたとする。すると、あなたはラーメンを選び、ほかのすべての食べ物を昼食として拒否したことになる。「昼食にはラーメンを」という方向へ世界を押し進めるのに加担したことになる。このように、ひとつを選ぶことは、ほかのすべてを拒絶することであり、選択と拒絶は表裏一体であり、自由にはつねに責任がつきまとう。
歴史学、とくに現代史を学ぶ上で、この「アンガジェ」は重要で、研究者として現代の歴史の流れを見極めながら、一方で自分もその現代史のなかに生きて歴史を作っている当事者でもある。すると、行動はなかなかむずかい意味を帯びてくる。
サルトルは、そのことを教えてくれた。
世界に対する自分の責任だとか、自分も歴史の作り手だとかいう意識のない人には、なんのことやら? かもしれないけれど、いまこそ「アンガジェ」は重要な問題である。
(2022年6月21日)



●おすすめの電子書籍!

『思想家たちの生と生の解釈』(金原義明)
「生」の実像に迫る哲学評論。ブッダ、カント、ニーチェ、ウィトゲンシュタイン、フーコー、スウェーデンボルグ、シュタイナー、クリシュナムルティ、ブローデル、丸山眞男など大思想家たちの人生と思想を検証。生、死、霊魂、世界、存在について考察。わたしたちはなぜ生きているのか。生きることに意味はあるのか。人生の根本問題をさぐる究極の思想書。


●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp


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