9月8日は、サンフランシスコ平和条約が調印され(1951年)日本の独立国復帰の決まった日だが、チェコの国民的作曲家、アントニン・ドヴォルザークの誕生日でもある。
アントニン・レオポルト・ドヴォルザークは、1841年、チェコのネラホゼヴェスで生まれた。家は肉屋兼宿屋で、アントニンは長男だった。父親はツィター(弦楽器)の名手で、伯父も名トランペッターと、音楽に親しい一族だった。
6歳でヴァイオリンの手ほどきを受けたアントニンは、9歳からアマチュア楽団でヴァイオリンを弾いた。が、父親は彼を親戚の肉屋へ修行に送り出した。当時、現地の肉屋の免許取得にはドイツ語が必修だったので、アントニンもドイツ語を習った。教師である専門学校の校長は彼にドイツ語のみならず、ヴィオラなどの演奏法、和声学をも教えた。
ドヴォルザークが15歳のころ、家運がにわかに傾いた。父親は長男に学業の断念と家業肉屋の手伝いを命じた。しかし、周囲の者が息子の音楽的才能を惜しみ、反対した。協議の末、伯父が学資を出し、ドヴォルザークはプラハのオルガン学校へ入学できた。
節約と友人たちの助けに支えられて18歳で同校を卒業したドヴォルザークは、楽団のヴィオラ奏者として就職した。25歳のころには、楽団指揮者にベドルジハ・スメタナが就任し、その指導を受けた。スメタナは「モルダウ」を含む交響詩「わが祖国」の作者である。
楽団の演奏や音楽の家庭教師として生計を立てながら交響曲やオペラを書いたが、ドヴォルザークはなかなか評価されなかった。一大決心をした彼は、30歳のとき楽団員を辞め、音楽の家庭教師だけをし、作曲に専念する時間を作った。そして、32歳になる年に旧友の指揮で初演された賛歌「白山の後継者たち」が好評を博し、彼の出世作となった。
このころから彼の作風はワーグナーの影響下から脱したと言われる。彼は書き上げた交響曲で奨学金を獲得し、芸術家賞を得るなど評価が高まり、大作曲家ブラームスに認められるところとなった。
彼はオペラ「いたずら農夫」で成功を収め、英国ロンドンに出張してロイヤル・アルバート・ホールで指揮棒を振り、喝采を浴びた。また、チャイコフスキーと親交を結び、ロシアへも行き来するようになり、51歳のころには、高額の報酬をもって米国に迎えられ、ニューヨーク・ナショナル音楽院院長に就任した。この米国時代に彼は交響曲第9番「新世界より」を書いた。が、米国を襲った不況のあおりを受け、54歳のころ彼は米国を去った。
ヨーロッパへ戻ったドヴォルザークは、60歳でオーストリア貴族院の終身議員となり、プラハ音楽院院長に就任した。そうして数々の称賛と栄誉に包まれながら、1904年5月、脳出血により没した。62歳だった。
「スラヴ舞曲集」のドヴォルザークは、スメタナと並び、ボヘミア楽派の代表である。
ドヴォルザークといえば、交響曲第9番「新世界より」を思い出す。この第2楽章ラルゴのテーマが歌曲「家路」となった。「遠き山に日は落ちて」として筆者は認識していた。ドヴォルザークは「ユーモレスク」の作曲家でもある。これは筆者が通った小学校では毎日流れていた。彼のメロディーは極東の島国で、世界中で今日も流れている。
ボヘミアの田舎の肉屋の息子が、民族を代表する作曲家となり、ポップな世界的なメロディーメーカーとなった。そんな彼の偉大な達成は、彼自身の才能と精進の賜物にちがいないが、同時に、家族、親族ほか、周囲の多くの友人、師に助けられたおかげでもあると、その人生経緯を眺めるとよくわかる。彼の音楽に、そういう深さを感じる。
(2024年9月8日)
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『大音楽家たちの生涯』(原鏡介)
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アントニン・レオポルト・ドヴォルザークは、1841年、チェコのネラホゼヴェスで生まれた。家は肉屋兼宿屋で、アントニンは長男だった。父親はツィター(弦楽器)の名手で、伯父も名トランペッターと、音楽に親しい一族だった。
6歳でヴァイオリンの手ほどきを受けたアントニンは、9歳からアマチュア楽団でヴァイオリンを弾いた。が、父親は彼を親戚の肉屋へ修行に送り出した。当時、現地の肉屋の免許取得にはドイツ語が必修だったので、アントニンもドイツ語を習った。教師である専門学校の校長は彼にドイツ語のみならず、ヴィオラなどの演奏法、和声学をも教えた。
ドヴォルザークが15歳のころ、家運がにわかに傾いた。父親は長男に学業の断念と家業肉屋の手伝いを命じた。しかし、周囲の者が息子の音楽的才能を惜しみ、反対した。協議の末、伯父が学資を出し、ドヴォルザークはプラハのオルガン学校へ入学できた。
節約と友人たちの助けに支えられて18歳で同校を卒業したドヴォルザークは、楽団のヴィオラ奏者として就職した。25歳のころには、楽団指揮者にベドルジハ・スメタナが就任し、その指導を受けた。スメタナは「モルダウ」を含む交響詩「わが祖国」の作者である。
楽団の演奏や音楽の家庭教師として生計を立てながら交響曲やオペラを書いたが、ドヴォルザークはなかなか評価されなかった。一大決心をした彼は、30歳のとき楽団員を辞め、音楽の家庭教師だけをし、作曲に専念する時間を作った。そして、32歳になる年に旧友の指揮で初演された賛歌「白山の後継者たち」が好評を博し、彼の出世作となった。
このころから彼の作風はワーグナーの影響下から脱したと言われる。彼は書き上げた交響曲で奨学金を獲得し、芸術家賞を得るなど評価が高まり、大作曲家ブラームスに認められるところとなった。
彼はオペラ「いたずら農夫」で成功を収め、英国ロンドンに出張してロイヤル・アルバート・ホールで指揮棒を振り、喝采を浴びた。また、チャイコフスキーと親交を結び、ロシアへも行き来するようになり、51歳のころには、高額の報酬をもって米国に迎えられ、ニューヨーク・ナショナル音楽院院長に就任した。この米国時代に彼は交響曲第9番「新世界より」を書いた。が、米国を襲った不況のあおりを受け、54歳のころ彼は米国を去った。
ヨーロッパへ戻ったドヴォルザークは、60歳でオーストリア貴族院の終身議員となり、プラハ音楽院院長に就任した。そうして数々の称賛と栄誉に包まれながら、1904年5月、脳出血により没した。62歳だった。
「スラヴ舞曲集」のドヴォルザークは、スメタナと並び、ボヘミア楽派の代表である。
ドヴォルザークといえば、交響曲第9番「新世界より」を思い出す。この第2楽章ラルゴのテーマが歌曲「家路」となった。「遠き山に日は落ちて」として筆者は認識していた。ドヴォルザークは「ユーモレスク」の作曲家でもある。これは筆者が通った小学校では毎日流れていた。彼のメロディーは極東の島国で、世界中で今日も流れている。
ボヘミアの田舎の肉屋の息子が、民族を代表する作曲家となり、ポップな世界的なメロディーメーカーとなった。そんな彼の偉大な達成は、彼自身の才能と精進の賜物にちがいないが、同時に、家族、親族ほか、周囲の多くの友人、師に助けられたおかげでもあると、その人生経緯を眺めるとよくわかる。彼の音楽に、そういう深さを感じる。
(2024年9月8日)
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