1日1話・今日の話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『誇りに思う日本人たち』
『ビッグショッツ』
『黒い火』ほか

4月30日・ガウスのラブレター

2015-04-30 | 科学
魔女が集まるヴァルプルギスの夜の4月30日は、独国の数学者ガウスの誕生日でもある。

ヨハン・カール・フリードリヒ・ガウスは、1777年、現在の独国のブラウンシュヴァイクで生まれた。父親は、煉瓦職人だった。貧しい家庭で、母親は読み書きができず、ガウスが生まれた日付けについても、記録はしていず、ただ、キリストの昇天祭より8日前の水曜日に生まれた、と記憶されていて、後でその日付を計算したものだという。
数学の授業を一時間自習にするつもりで出された「1から100までの整数の足し算」をたちどころに片づけてのけたのはガウスが9歳だったとき。学校の先生方は、自分たちに教えられることはもうないと、さじを投げた。これだけ図抜けた神童になると、まわりが放っておかず、校長や貴族に支援者が現れ、ガウスは周囲の援助を受けて大学に通った。
18歳のとき、正一七角形が作図できることを発見。それから、
「正七角形がコンパスと定規では作図不可能である」という証明、
「すべての代数方程式は少なくとも1つの根をもつ」(代数学の基本定理)という証明、
そのほか、数論、解析学、天文学、電磁気学の分野で数多くの発見、発明があった。
当時は、現代のような研究者としての数学者の職がなかったため、ガウスは貴族の援助で生活していたが、30歳のころ、ゲッティンゲンの天文台長に就いた。
1855年2月、ゲッティンゲンで没した。76歳だった。

ガウスの時代には、学会誌や専門誌がなく、学説を発表するためには、自分で論文を本にして印刷せねばならなかった。お金と手間と、発表後の批判や論争をおもんぱかり、ガウスは自分の研究のかなりの部分を発表しないまま亡くなった。彼の研究の多くが日の目を見たのは、20世紀に入ってからだという。

ガウスが27歳のとき、後に妻となる女性ヨハンナに、こんなラブレターを書いている。
「あなたは私の幸福のために、犠牲を払うことはありません。あなた自身の幸福のみがあなたの決定の道しるべです。いとしい人よ、あなたを所有することのみが私を幸福にする、それほど強く私は、あなたを愛しております。ただそれは、あなたが私に同意してくださるという条件づきですが。いとしい人よ、私はあなたに心のうちを打ち明けました。情熱をもって、しかし気がかりを秘めてあなたの決心をお待ちしています。心のありたけをこめて」(ダニングトン著、銀林浩、小島穀男、田中勇訳『ガウスの生涯』東京図書)
二人は婚約し、結婚した。新郎は28歳、新婦は25歳だった。
しかし、彼らの結婚生活は長くは続かなかった。その後、ヨハンナは三人目の子どもを産んだ際に容態が悪くなり、29歳の若さでこの世を去った。
ガウスが没して半世紀以上たった後になって、32歳のガウスが亡き妻にあてて書いた追悼文が発見された。こんな文章である。
「いとしいものよ、私の涙がみえますか。私が君を私のものとよんでいた間中、君は私の苦しみのほかに何の苦しみも知らず、私が幸せでありさえすれば君自身の幸せのためには何一つ必要としなかった! 祝福された日々よ! あわれにも愚かな私は、そんな幸せを永遠のものと思い、君は、おお一度は肉体をそなえた人間の姿であったが、いまや再び姿を変えて天使となってしまった」(同前)
日付はヨハンナが亡くなった2週間後で、紙に涙の跡があったという。
(2015年4月30日)



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4月29日・ウィリー・ネルソンの歌声

2015-04-29 | 音楽
「昭和の日」の4月29日は、「A列車で行こう」のデューク・エリントンが生まれた日(1899年)だが、米国のシンガーソングライター、ウィリー・ネルソンの誕生日でもある。

ウィリー・ヒュー・ネルソンは、1933年4月29日に米国テキサス州アボットで生まれた(記録上は4月30日生まれ)。イングランド、アイルランド、チェロキーの血を引くウィリーの両親は、大恐慌時代のなか、職を求めてアーカンソー州からやってきた。
ウィリーが生まれると母親、父親が相次いで出ていき、ウィリーと二つ年上の姉ボビーは、鍛冶屋をする祖父に育てられた。祖父は幼い孫たちに音楽を教えた。ウィリーは6歳のときにギターをプレゼントされ、コードを教わり、7歳ではじめて作曲し、教会で歌った。
ウィリーは9歳で地元のバンドのギター弾きになったが、夏場になると綿摘みに駆りだされ、この重労働がいやで、ウィリーはよけいに音楽にのめりこんだ。
高校時代の彼は、アルバイトをしながら、町のバンドでギターを弾いた。
高校卒業後は、空軍で9カ月間軍務に就いた後、除隊し、21歳でベイラー大学に入学し、農業を学んだ。しかし、2年ほどで退学し、音楽の世界へもどった。それから、クラブの用心棒や植木屋、油田作業員など職を転々としながら音楽活動を続けた。
彼はテキサス州のプレザントンへ引っ越し、ラジオのディスクジョッキーの仕事にありついた。22歳のとき、デモテープを作り、レコード会社に送ったが、採用されなかった。
それからも彼はカリフォルニア州、オレゴン州、ワシントン州、ミズーリ州など土地を転々と変え、ラジオのアナウンサー、聖書や掃除機の訪問販売、皿洗いなどをしながら曲を作り、デモテープを送りつづけたが、反響はなかった。
27歳のときテネシー州ナッシュヴィルへ引っ越したころから運が向いてきた。彼が作った曲をロイ・オービソンやパスティ・クラインらの歌手が歌い、ヒットしだした。
28歳のとき、ネルソンはレコード会社と契約を結び、翌年にはカントリーソング「喜んで(Willingly)」「タッチ・ミー(Touch Me)」がヒットし、彼の音楽キャリアは軌道に乗りはじめた。ネルソンはレコード会社を移籍しながら、音楽活動を続けた。
一時は嫌気がさして、レコード業界から離れたこともあったが、やがて復帰し、42歳のときに発表した「雨の別離(Blue Eyes Crying in the Rain)」は、カントリー・チャートで1位となり、グラミー賞のベスト・カントリー・ボーカルの男性部門を受賞した。
その後も「My Heroes Have Always Been Cowboys」「If You've Got the Money I've Got the Time」「Blue Skies」など数々のヒット曲を放ち、1985年にはマイケル・ジャクソンらが呼びかけた「USAフォー・アフリカ」に参加。また、同年、困窮する米国の農家のため、ボブディランらとともに「ファーム・エイド」を開いた。カントリーから出発し、カントリーのジャンルを越えて活躍するシンガーソングライターである。

ローリング・ストーンズのキース・リチャーズはネルソンについてこう言っている。
「ウィリーはすばらしい。ひっくり返ったフリスビーさ、回って回って回って。美しき麻薬常用者とはウィリーのことだよ。ベッドから起きだすとすぐ一服するんだ。おれでさえ朝起きて10分間は待つのに。なんて作曲家だ。彼は最高のひとりだよ。」 (Keith Richards with James Fox, Life, Phoenix, 2011.)

ウィリー・ネルソンの歌う「オールウェイズ・オン・マイ・マインド(Always on My Mind)」など、彼の澄んだ、よく通る歌声を聴くと、世のすべての雑音を忘れ、うっとりとなる。心が洗われる気がする。
(2015年4月29日)



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『ロック人物論』(金原義明)
ロックスターたちの人生と音楽性に迫る人物評論集。エルヴィス・プレスリー、ボブ・ディラン、ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ミック・ジャガー、キース・リチャーズ、ジミー・ペイジ、デヴィッド・ボウイ、スティング、マドンナ、マイケル・ジャクソン、ビョークなど31人を取り上げ、分析。意外な事実、裏話、秘話、そしてロック・ミュージックの本質がいま解き明かされる。

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4月28日・ランボルギーニの意地

2015-04-28 | ビジネス
4月28日は、実業家オスカー・シンドラーが生まれた日(1908年)だが、スーパーカーを作ったフェルッチオ・ランボルギーニの誕生日でもある。

イタリアの自動車メーカー「ランボルギーニ」の創立者、フェルッチオ・ランボルギーニは、1916年、レナッツォで生まれた。父親は、ぶどう栽培を営む農家だった。
栽培よりも機械に興味があったフェルッチオは、工科大学を出た後、イタリア空軍に召集された。軍の運搬車両の整備管理者になったが、英国の捕虜となり、終戦の翌年まで抑留された。
解放され、帰国したランボルギーニは、トラクターの製造販売をはじめた。そうして、しだいに金まわりがよくなると、フィアット、ベンツ、マセラッティ、ジャガーなどのスポーツカーを買いそろえ、曜日ごとにちがうクルマを乗りまわすようになった。
42歳のときからフェラーリに乗りはじめた。乗っているうち、フェラーリはいいクルマだとは思いつつも、騒音が大きく、室内装備が安っぽい、また、クラッチの品質がよくないなどの欠点が気になりだした。そして、フェラーリは販売後のアフターケアがよくないことに気づいた。そこで、彼は、フェラーリの総帥であるエンツォ・フェラーリを訪ねていき、自分の懸念を伝えにいったのだが、プライドの高いフェラーリに相手にされなかった。
そこで、ランボルギーニは、自分のフェラーリ250GTを改良し、ついでに、自分の手で完璧なスポーツカーを作ってやろうと決意。47歳のとき、自動車製造に乗りだした。こうしてスーパーカー「ランボルギーニ」が誕生した。
もちろん、フェラーリの対応に「カチン」ときた勢いだけではなく、そこには、自分ならもっといいクルマが作れるという自信や、そのノウハウをトラクターにも生かせるといったビジネス上の計算もあったろう。
1970年代に、南アフリカや、中米ボリビアに輸出する予定だったトラクターが急にキャンセルされるなどして、ランボルギーニ社は資金繰りが苦しくなった。また、1973年のオイル危機によって、世界的に燃費のよいクルマが好まれるようになり、ガソリンを食う大排気量のクルマがうとんじられるようになってきた。ランボルギーニはしだいにクルマの事業に興味を失い、ランボルギーニ社の持ち株を手離して、自分の名前が冠せられたトラクターや自動車の事業から身を引いた。58歳のときだった。
自動車業界からの引退後も、ランボルギーニは、ワイン製造、みずから設計したゴルフコース開設など、さまざまなビジネスを手がけた。
そうして、1993年2月、心臓発作のため入院していたペルージアの病院で没した。76歳だった。

ランボルギーニのエンブレムを飾る闘牛のマークは、自動車製造に乗りだすすこし前、ランボルギーニがスペインのセビリヤにある闘牛用の牛の牧場を訪ねた際、そこの牛に強い印象を受け、それで雄牛のデザインをエンブレムに採用したのだという。

長いものに巻かれるのをいさぎよしとせず、意地を張って、
「自分を満足させるものがない。それなら、自分が作ってやろうじゃないか」
というその意気に共感する。いいじゃないか、と思う。
(2015年4月28日)



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『ビッグショッツ』(ぱぴろう)
伝記読み物。ビジネス界の大物たち「ビッグショッツ」の人生から、生き方や成功のヒントを学ぶ。フェイスブックのマーク・ザッカーバーグ、ソフトバンクの孫正義から、デュポン財閥のエルテール・デュポン、ファッション・ブランドのココ・シャネル、金融のJ・P・モルガンまで、古今東西のビッグショッツ30人を収録。大物たちのドラマティックな生きざまが躍動する。


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4月27日・ギボンの興奮

2015-04-27 | 歴史と人生
4月27日は、仏映画「男と女」の主演女優アヌーク・エーメが生まれた日(1932年)だが、歴史家エドワード・ギボンの誕生日でもある。

エドワード・ギボンは、1737年4月27日(ユリウス暦による)、英国のパトニーで生まれた。父親は荘園領主の政治家だった。エドワードには、6人のきょうだいがいたが、みんな幼くして死んでしまい、彼ひとりが残った。
裕福な資産家の子息として育ったエドワードは、子ども時代は病弱だったため、学校を途中でやめ、自宅にひきこもって、もっぱら歴史の古典を読んですごした。
15歳の年に、オクスフォード大学に入学。
16歳のとき、ロンドンでローマ・カトリックに改宗。これは一代決心があってのことで、当時の英国では、英国国教の信徒でないと、一般の教育機関には籍をおけない決まりだった。改宗が知れると、エドワードはただちに大学から追放された。
エドワードは、父のはからいでスイスのローザンヌのプロテスタントの牧師宅へ預けられた。そして、その地で今度は、プロテスタントに改宗した。
英国へもどったギボンは、23歳のとき、国民軍に参加。軍には2年半ほど所属した。
除隊後は、ヨーロッパ各地を旅行したり、土地や屋敷の整理をしたりしてすごした。
36歳のとき、『ローマ帝国衰亡史』の執筆をはじめ、37歳のとき、下院議員になった。
39歳になる年に、『ローマ帝国衰亡史』の第一巻出版。第一刷はたちまち売り切れとなり、増刷が続いた。
50歳のとき、『ローマ帝国衰亡史』の第四、五、六巻が刊行され、『衰亡史』完結。
自伝を書いた後、1794年1月、痛風や急性腹膜炎など他の病気を併発して没。56歳だった。

『ローマ帝国衰亡史』は、その題名の通り、あの長い歴史をもつ巨大なローマ帝国が、いかに衰え、滅亡していったかをテーマに書き進められた歴史書である。だから、ローマ帝国の歴史のはじめからを扱っているわけではなく、途中の、ローマ帝国の領土が最大だった五賢帝の時代から書きだされ、帝国が衰亡していく兆候をさぐっている。だから、『衰亡史』には、その前の時代のキケロとかカエサルとかは出てこない。
小さいときから歴史書を耽読していたギボンにしてみれば、カエサルの時代など書きたかったろうと思う。でも、彼が据えたテーマは「いかにローマは衰亡したか」だったのであり、「ローマ帝国通史」ではない。だから、不要なカエサルの時代は書かなかった。
この素材選択に、自分などは、ギボンが物語作者ではなくて、歴史学者だったことを強く感じる。

ギボンがローマを訪れたのは27歳のときで、後年、彼はそのときをこう振り返っている。
「元来私はあまり熱狂に動かされない性質であり、そして自分が実際に体験しない熱狂を気取ることを今まで常に軽蔑してきた。しかし二十五年を経た今日なお私は、自分が初めて永遠の都へ近づいてそこへ足を踏み入れた時に私の心を揺さぶった、あの強烈な感激を忘れることも表現するすべも知らない。寝つけない一夜を明かした翌日、私は昂然たる歩度でフォールムの遺跡を踏んだ。その昔ロムルスが立ちキケロが弁じカエサルが倒れた一つ一つの記憶すべき場所が、直ちに私の目に焼きついた」(中野好之訳『ギボン自伝』ちくま学芸文庫)
(2015年4月27日)


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『コミュニティー 世界の共同生活体』(金原義明)
ドキュメント。ツイン・オークス、ガナス、ヨーガヴィル、ロス・オルコネスなど、世界各国にある共同生活体「コミュニティー」を実際に訪ねた経験をもとに、その仕組みと生活ぶりを具体的に紹介する海外コミュニティー探訪記。人と人が暮らすとは、どういうことか?

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4月26日・ウィトゲンシュタインの刺激

2015-04-26 | 思想
4月26日は、ロマン派絵画の巨匠、ドラクロワが生まれた日(1798年)だが、哲学者ウィトゲンシュタインの誕生日でもある。

ルートヴィヒ・ヨーゼフ・ヨハン・ウィトゲンシュタインは、1889年に、オーストリアのウィーンで生まれた。ユダヤ系の家系だったが、ルートウィヒはユダヤ教徒でなく、洗礼を受けたカトリックだった。父親は、オーストリアの鉄鋼王で、米国で言えばカーネギー、独国で言えばクルップにあたる大富豪である。ルートヴィヒは、4人の兄と、3人の姉をもつ、きょうだいのいちばんの末っ子だった。
14歳まで家庭で教育を受けたルートヴィヒは、リンツの高校へ入ったが、そこの同学年の生徒にアドルフ・ヒトラーがいた。高校卒業後、17歳で工科大学へ入学。大学では、モーターやプロペラなど飛行機関連の研究をしていた。
23歳の年に、英国ケンブリッジ大学に入学。このケンブリッジ在学中に父が没し、ウィトゲンシュタインは莫大な財産を相続した。彼は相続した資産の一部を、オーストリアの芸術家の助成基金に寄付した。この寄付の恩恵にあずかった詩人にリルケがいる。
英国を出たウィトゲンシュタインは、ノルウェイの人里離れた山中に小屋を建て、そこに引きこもってひとり思索して哲学論文を書いた。それが『論理哲学論考』の原稿だった。
1914年、25歳のとき、第一次世界大戦がはじまると、彼はヘルニアのため、兵役を免除されていたのを、志願してオーストリア軍に加わった。戦闘にでた後、イタリア軍の捕虜となった彼の背のうには、『論理哲学論考』の原稿が入っていた。彼は哲学論文の草稿を肌身離さず抱えて戦場を走りまわっていたのだった。
戦後、捕虜の身から釈放されてウィーンに帰った彼は、相続した遺産をすべてきょうだいに譲り、無一文になった。これは、大戦中に読んだトルストイに大きく影響を受けてのことだと言われる。30歳のときのことだった。
貧乏になった彼は、小学校の教師をしたり、修道院の庭師をした。
そして32歳のとき、『論理哲学論考』を出版。
彼はこの本で、言語というものの性質を考えていくことによって、哲学の範囲の限界線を引いて見せた。『論理哲学論考』は、こんな命題で終わる。
「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」(『論理哲学論考』岩波文庫)
こう書いて、哲学の問題をすべて片づけてしまった彼は、哲学の世界から遠ざかった。姉の家の設計などをしていた後、39歳のとき、数学の講義を聴いて、急に哲学の世界に帰る決意を固め、40歳のとき、英国ケンブリッジ大学へもどった。以後、ケンブリッジで教鞭をとり、58歳のときに退任するまで教授職にあった。1951年4月、ケンブリッジで前立腺ガンのため、没した。62歳だった。

「中国人がしゃべるのをきくと、わたしたちはそれを、ガラガラゴロゴロという、分節化されていないうがいの音かと思ってしまう。中国語のわかる人がきけば、それは言語であるとわかることだろう。わたしはしばしば、人間のなかに人間の姿をみつけることができない」(ヴィトゲンシュタイン著、岳沢静也訳『反哲学的断章』青土社)

ほんの一、二行読むだけで、たちまち頭のあちこちの部分が刺激を受け、脳細胞が急に活発に活動しはじめる。そんな文章は、ウィトゲンシュタイン以外に、そうはない。
(2015年4月26日)



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『思想家たちの生と生の解釈』(金原義明)
古今東西の思想家の生涯を紹介し、各思想家が考えた「生」の実像に迫る哲学評論。ブッダ、道元、ルターなどの宗教家から、デカルト、カント、ニーチェ、ベルクソン、ウィトゲンシュタイン、ミシェル・フーコーといった哲学者、スウェーデンボルグ、シュタイナー、オーロビンド、クリシュナムルティなどの神秘思想家、さらにマキャヴェリ、ルソー、マックス・ヴェーバー、トインビー、ブローデル、丸山眞男などなど、幅広い分野の思想家の思想を検討。生、死、霊魂、世界、存在、社会、歴史、認識について考えていきます。わたしたちはなぜ生きているのか。生きていることに意味はあるのか。そんな人生の根本問題をさぐる、生の奥にあるものを知りたい人必携の一冊です。


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4月25日・チャイコフスキーの絢爛豪華

2015-04-25 | 音楽
4月25日は、トータルフットボールの英雄ヨハン・クライフが生まれた日(1947年)だが、露国の作曲家、チャイコフスキーの誕生日でもある。バレエ音楽「白鳥の湖」「くるみ割り人形」の作者である。

ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーは、1840年4月25日(ユリウス暦による)、露国の鉱山都市ヴォトキンスクで生まれた。父親は、製鉄所の所長だった。ピョートルは子どものころから音楽好きで、5歳のころからピアノを習いだし、すぐに譜面が読めるようになった。
14歳のときに母親をコレラで亡くした。彼は法律科へ進み、19歳のとき、法律学校を卒業し、法務省に入省した。
その後、22歳の年に、一大決心をして、ペテルブルク音楽院に入学。しばらく役人生活と音楽学生と、二足のわらじをはいていたが、やがて役所のほうをやめ、音楽ひと筋に人生を賭けた。
25歳で音楽院を卒業したチャイコフスキーは、モスクワ音楽院の音楽理論の教授に就任。以後、ピアノ曲、室内楽曲、交響曲、歌劇など、さまざまな作曲を手がけた。バレエ音楽では、
36歳で「白鳥の湖」、
49歳で「眠れる森の美女」、
51歳の年には「くるみ割り人形」を発表した。そして、同年、訪米し、ニューヨークのカーネギー・ホールのこけら落としに出演。
1893年10月(ユリウス暦)、作曲した第6交響曲の初演をみずから指揮した9日後に没した。53歳だった。死因は、母親と同じコレラで、数日前に飲んだ生水が原因とされている。

チャイコフスキーは、おそらく世界の音楽史に名を残している作曲家では唯一の、法学を修めた役人出身者である。

チャイコフスキーは、バイセクシュアルだったようだ。同性の音楽家たちと友情以上のつきあいをし、また、女性に恋をしたし、実際に結婚もした。
チャイコフスキー国賓の豪華絢爛さは、彼のそうした性癖にすこし関係があるかもしれない。オスカー・ワイルド、デヴィッド・ボウイ、ミック・ジャガー、三島由紀夫、そういった人たちにも通じる、ある華やかさ、けばけばしさがあるように思う。
自分はそういうけばけばしさが大好きだけれど、天才ショスタコーヴィチは、チャイコフスキーを評価しなかったそうだ。彼はそうした性質が生理的に合わなかったのかもしれない。

組曲「くるみ割り人形」は、九つの部分に部分に分けられるけれど、どの部分のメロディーもよく知られている。「小序曲」「行進曲」「トレパーク」「中国の踊り」「花のワルツ」、それから「こんぺい糖の踊り」。
チャイコフスキーが、もしもいま生きていたら、ポピュラーや映画音楽の世界でも活躍して、世界的大ヒットを連発していたかもしれない。すごいメロディー・メイカーである。
(2015年4月25日)


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『おひつじ座生まれの本』~『うお座生まれの本』(天野たかし)
おひつじ座からうお座まで、誕生星座ごとに占う星占いの本。「星占い」シリーズ全12巻。人生テーマ、ミッション、恋愛運、仕事運、金運、対人運、幸運のヒントなどを網羅。最新の開運占星術。



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4月24日・牧野富太郎の大人物

2015-04-24 | 科学
4月24日は、プロレスの神様「鉄人」ルー・テーズが生まれた日(1916年)だが、日本の植物学者、牧野富太郎の誕生日でもある。

牧野富太郎は、文久2年(1862年)4月24日、現在の高知県の佐川町に生まれた。幼名は、誠太郎といい、酒造りと雑貨店をする家に生まれたひとりっ子だった。
3歳のとき、婿養子だった父親が没し、5歳のとき母親が亡くなった。両親を失った誠太郎は、店を切り盛りしていた祖母の手で育てられた。
6歳のとき、富太郎と改名。10歳のころ、富太郎は寺子屋に入った。そして、12歳のとき、村に開校された小学校に入学した。が、しばらく通った後、行くのが嫌になって退学した。退学後は、家で本を読んだり、それ以前から大好きだった植物採集をして過ごした。
15歳のとき、退学したその小学校に乞われ、教師としてもどった(西南の役のころ)。
22歳のとき、学問をするには、こんな山奥に引っ込んでいてはいけないと考え、上京。現在の東大の理学部の植物学教室を訪ね、そこの教授たちに気に入られて、大学に籍をおかないまま、植物学教室に自由に出入りする身分となった。
26歳のとき、『日本植物志図篇』を出版。
31歳のとき、東京帝国大学理科大学の助手となった。以後、77歳で辞任するまで、東大の講師として勤務しながら、各地の山野に植物収集に出かけ、多くの植物学書を出版し、論文を書いた。日本の山で登らない山はなく、みずから発見した新種が600種以上、命名は2500種以上に及ぶという。
86歳のとき、皇居にて、昭和天皇に植物を御進講。
89歳のとき、第一回の文化功労者に選ばれた。
1957年1月に没。94歳だった。没後、文化勲章が贈られた。

図書館で『牧野日本植物図鑑』という重たい本を開いてみると、牧野の見事な絵が見られる。草や花の様子や種などがカラーでみごとに微細に描かれていて、ため息が出る。
筆者は、牧野が植物の花をことを「生殖器」と露骨に叙述するところが好きである。

粘菌学の南方熊楠や、民俗学の宮本常一と同様に、牧野富太郎は通常のアカデミックなコースをとらなかった研究者である。ふつうの学者のコースをはずれて生きたため、勤めていた東大でも、教授職はおろか、助教授にもなっていない。最後まで講師のままだった。大学ではほかの学者からのいやがらせや、やっかみがあり、給料も安かった。とくに東大の助手になったばかりのころは、実家のほうが傾いたこともあって、生活もかなり大変だったようだ。牧野は子どもが13人いて、かなりの借金を背負って暮らしていた。
それでも、植物研究ひと筋で、毎日深夜2時か3時まで勉強し、野山を駆けめぐって植物採集して帰った日は、標本作りのためにたいてい徹夜だったという。

商家に生まれた人とはとても思われない、すごい神経の持ち主だと思う。凡人では、こうはいかない。大人物というのは、いるものだ。
4月24日は、牧野富太郎の誕生日を記念して「植物学の日」とされている。
(2015年4月24日)


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『誇りに思う日本人たち』(ぱぴろう)
誇るべき日本人三〇人をとり上げ、その劇的な生きざまを紹介する人物伝集。松前重義、緒方貞子、平塚らいてう、是川銀蔵、住井すゑ、升田幸三、水木しげる、北原怜子、田原総一朗、小澤征爾、鎌田慧、島岡強などなど、戦前から現代までに活躍した、あるいは活躍中の日本人の人生、パーソナリティを見つめ、日本人の美点に迫る。すごい日本人たちがいた。


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4月23日・上村松園の気魄

2015-04-23 | 美術
4月23日は「サン・ジョルディ」の日。スペインのカタロニア地方ではこの日、女性は男性に本を、男性は女性に赤いバラを贈るならわしだが、この日は、日本画家、上村松園の誕生日でもある。

上村松園は、1875年に京都で生まれた。本名は、上村津禰(うえむらつね)。父親は彼女が母親の胎内にいるときに没し、写真もないことから、松園は父親の顔を知らなかったが、
「(父親は)あんたとそっくりの顔やった」
と言われた。彼女は、葉茶屋を営む母親の女手ひとつで育てられた。
松園は小さいころから、人物画を描くのが好きだった。馬琴の読み本に載った北斎の挿絵が好きで、それを模写していたという松園は、12歳のとき、京都府立画学校に入学。同校の教師だった鈴木松年(しょうねん)に学校で教わりながら、同時に、松年の塾にも通うようになった。そして、松年が画学校を退職すると、松園も学校をやめ、松年の塾の塾生となった。
15歳のとき、内国勧業博覧会に「四季美人図」を出品。一等褒状を受賞した。さらに、来日中の英国王子がこの絵を購入し、話題となった。
18歳のころ、上村松園は、より広い絵の世界を見るため、師の松年の承諾を得て、幸野楳嶺(ばいれい)の門下へ移った。
そして、松園が20歳の年に楳嶺が没すると、竹内栖鳳(せいほう)に師事した。真剣に絵画で身を立てようと考えたのはこのころだったという。
25歳のとき、「花ざかり」が日本美術院連合絵画共進会の銀牌を受賞。同年、パリ万国博覧会に出品した「母子」が、銅牌を受賞。
27歳のとき、男の子(信太郎、後の上村松篁)を、私生児として出産。父親は、最初の師、鈴木松年だと言われている。
以後、「月蝕の宵」「花がたみ」「焔」「楊貴妃」「序の舞」「鼓の音」「夕暮」「牡丹雪」などの名作を発表し続けた。
1948年、73歳のとき、女性としてはじめて 文化勲章を受章。
1949年8月、肺ガンのため、奈良で没。74歳だった。

「西の松園、東の清方」と鏑木清方と並び賞される美人画の双璧の一方、上村松園の美人画には、凛とした気品がある。日本画家の平山郁夫も、こう言っている。
「松園の前に松園はなく、松園の後に松園なしです。傑出しています。
日本画というのは品格といいますか、画品を重んじますが、松園さんの作品には格調があります。抑制がきいているのです」(河北倫明、平山郁夫監修『巨匠の日本画 [5] 上村松園』学習研究社)

上村松園自身は、こんなことを言っている。
「よいものを描くには、さまざまな研究をしなくてはならないことはいうまでもございませんが、一番に必要なのは『信念』というか一つの『気魄』であろうと私は思っております。どんなものを描きます時も、いえ、描く前の構想、それを練る時から、
『これは、必ずよいものができる』
という信念を、私はもちます」(『上村松園全随筆集 青眉抄・青眉抄その後』求龍堂)
(2015年4月23日)


●おすすめの電子書籍!

『誇りに思う日本人たち』(ぱぴろう)
誇るべき日本人三〇人をとり上げ、その劇的な生きざまを紹介する人物伝集。松前重義、緒方貞子、平塚らいてう、是川銀蔵、住井すゑ、升田幸三、水木しげる、北原怜子、田原総一朗、小澤征爾、鎌田慧、島岡強などなど、戦前から現代までに活躍した、あるいは活躍中の日本人の人生、パーソナリティを見つめ、日本人の美点に迫る。すごい日本人たちがいた。


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4月22日・カントの高さ

2015-04-22 | 思想
4月22日は、地球環境について考える日「アースデイ」だが、この日は哲学者イマヌエル・カントの誕生日でもある。

イマヌエル・カントは、1724年、東プロイセンのケーニヒスベルク(現在のロシア領カリーニングラード)で生まれた。父親は馬具職人で、イマヌエルは9人きょうだいの4番目の子どもだった。
カントは、貧しい境遇のなかで、教会の牧師や、親戚から援助を受けながら学校に通い、ケーニヒスベルク大学に入学した。大学時代にも友だちから服を援助してもらったりした。
22歳のとき、父親が没した。貧しく、葬式代がないため、公費で葬式を出した。カントは教会のノートにこう書いたという。
「寂し、貧し」
カントは、大学をやめ、それから家庭教師などをしながら生活していたが、31歳のとき、同大学の私講師となった。以後、大学で教えながら、哲学の研究生活に入った。
カントは生来、虚弱な体質だったため、本人もそれを意識して、規則正しい生活に努め、健康に留意しつづけた。彼の講義は大学ではとても人気が高かったそうだが、カントはとうぜん、講義に遅れるようなことはなかった。生涯を通じて、時計の針のような規則正しい生活を送ったカントだが、唯一、38歳のころ、ルソーの『エミール』を読んだときだけは、読書に熱中して散歩の時間を忘れたという。彼は『エミール』によって、人間の尊厳を敬うことに目覚めた。そして『美と崇高なるものの感情にかんする観察』を書いた。
いくつかの大学からの教授就任の誘いを断っていたカントは、46歳のとき、ケーニヒスベルク大学の論理学・形而上学の正教授に就任した(62歳のとき、同大学の総長に就任し、その職を72歳まで務めた)。
57歳のとき『純粋理性批判』を出版。以後、『実践理性批判』『判断力批判』『永久平和のために』などを書いた後、1804年2月に没。79歳だった。

カントは、人間の認識についての立場を従来の哲学とは逆転させ、いわゆる「コペルニクス的転回」をおこなった人である。カントは、人間の認識の方法を「ア・プリオリ」と「ア・ポステリエリ」に仕分けして、哲学の範囲を確定した。そしてまた、カントは、人間の自由や、道徳について、崇高な、ひじょうにきびしい定義をした人でもある。

カントは、人間が欲望や本能にしたがって行動することは「自由」でないと見た。お腹がすいたから食べたいとか、いい服が着たいとか、いい家に住みたいとか、そんなものは「自由」でもなんでもない、ただ、欲望に突き動かされているだけで、本能の奴隷になっているにすぎない、と。そうではなくて、「これが、人間として自分のなすべき義務だ」と考えて自律的に行動してこそ、はじめて「自由」な行動になるのだ、と。
道徳についても、個人的に、無条件に「なすべきだ」と考える行為が、そのまますべての人がなすべき行為と一致して、はじめて道徳的な善と言える、と、とてもきびしい考え方をしている。カントに言わせれば、現代日本人のほとんどは「自由な人間」でも「徳のある人間」でもなくて、ただ、抜け目なく、利にさとい、そろばん勘定にたけた、欲望に支配された奴隷、ということになるのかもしれない。

カントの墓の墓碑銘には、彼自身のこういうことばが刻まれているそうだ。
「我が上なる星空と、我が内なる道徳法則、我はこの二つに畏敬の念を抱いてやまない」
(2015年4月22日)



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『思想家たちの生と生の解釈』(金原義明)
古今東西の思想家の生涯を紹介し、各思想家が考えた「生」の実像に迫る哲学評論。ブッダ、道元、ルターなどの宗教家から、デカルト、カント、ニーチェ、ベルクソン、ウィトゲンシュタイン、ミシェル・フーコーといった哲学者、スウェーデンボルグ、シュタイナー、オーロビンド、クリシュナムルティなどの神秘思想家、さらにマキャヴェリ、ルソー、マックス・ヴェーバー、トインビー、ブローデル、丸山眞男などなど、幅広い分野の思想家の思想を検討。生、死、霊魂、世界、存在、社会、歴史、認識について考えていきます。わたしたちはなぜ生きているのか。生きていることに意味はあるのか。そんな人生の根本問題をさぐる、生の奥にあるものを知りたい人必携の一冊です。

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4月21日・シャーロット・ブロンテの闘い

2015-04-21 | 文学
4月21日は、社会学者マックス・ウェーバー(1864年)が生まれた日だが、女流作家シャーロット・ブロンテの誕生日でもある。小説『ジェーン・エア』を書いた人である。

シャーロット・ブロンテは、1816年、英国ヨークシャーのソーントンで生まれた。父親はアイルランド系の牧師だった。シャーロットは、6人きょうだいの3番目の子どもだった。上に2人の姉がいて、下に1人の弟と2人の妹がいた。
彼女が5歳のとき、母親が没した。結婚後9年間で6人の子を産み、38歳の若さで亡くなったのである。すると、亡き母親の姉がやってきて、残された6人の子どもたちの面倒をみるようになった。
シャーロットが9歳のとき、2人の姉が結核にかかって相次いで亡くなった。これにより、彼女が、母親のいない一家の長女役となった。
寄宿学校などをへて、シャーロットは19歳のときから、私立校の教師や家庭教師をして家計を支えた。そうして、彼女はやがて、同じく学校や家庭の教師をするようになった妹たちと、私立の学校を興そうと画策したが、父親が体調をくずし、白内障をおこして失明寸前となり、彼女たちは父親の面倒をみながら、収入を得る方法を考える必要に迫られた。姉妹は小説を書いて、これを売ろうと考えついた。彼女らは原稿を書き、アドバイスし合い、励まし合って小説を書き上げた。でき上がった原稿を出版社に送り、拒絶されては、送り返されてきた原稿をまた別の出版社に送ることを繰り返した。
そうした努力が実り、ついに、シャーロットの書いた小説『ジェーン・エア』が、「カラ・ベル」というペンネームで出版された。すると『ジェーン・エア』は、たちまちベストセラーとなり、その勢いを借りて、エミリの『嵐が丘』、アンの『アグネス・グレイ』といった小説も出版された。シャーロットが31歳のときだった。
しかし、たったひとりの弟がからだを壊して31歳で没し、続けて妹のエミリが結核により30歳で亡くなり、末の妹のアンも結核にかかり29歳で死亡した。きょうだいがいなくなり、シャーロットはひとりぼっちになった。
シャーロットは『シャーリー』『ヴィレット』などの小説を発表し、38歳で牧師と結婚した。が、新婚旅行中に雨に濡れて風邪をひき、それがよくならぬまま、1855年3月に死亡した。享年38歳だった。
生前のシャーロットが「自分が世話をしなくては」と、つねに念頭においていたという病弱な父親は、シャーロットの没した7年後に、84歳で亡くなっている。

シャーロット・ブロンテの生きた時代の英国の田舎では、女性には基本的に仕事はなかった。女性が生活を立てていこうと思えば、結婚するなどして男に養ってもらうか、家庭教師をするしかなかった。
当時の家庭教師は、尊敬や敬意をもって遇されず、召使とまったく同等で、シャーロット・ブロンテも家庭教師をしていて、そうとう屈辱的な思いをしたらしい。それがいやで、ブロンテ姉妹は私塾や小説書きを試みたのである。
『小公女』を書いたバーネットもそうだけれど、お金が動機となって、しばしば世界的な名作が生まれるのだと、納得させられる。
(2015年4月21日)


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『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句』(越智道雄選、金原義明著)
「ジェーン・エア」「風と共に去りぬ」から「ハリー・ポッター」まで、英語の名作の名文句(英文)をピックアップして解説。英語ワンポイン・レッスンを添えた新読書ガイド。


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