中田英寿 29歳 現役引退
日本サッカー界は大きな"力"を失ったのかもしれない。
nakata.net
画像:yahooスポーツ時事通信社より引用
このニュースを聞いた時、ガックリと力が抜けました。
ヒデを失う事の大きさ、失って初めて知る中田英寿という選手の存在感
それらはこれから日を追うごとにファンの胸に焼き付いていく事だろう。
人一倍信念を曲げず、人一倍ファンを大切にし、
そして人一倍サッカーを愛していた。
だからこそボールへの想いが薄れてしまったこの29歳という若さでの
現役引退なのかもしれない。
それは彼がブラジル戦前から語っていた"誇りを守る"に通じるのである。
ヒデがこのドイツワールドカップにどれだけの思いをもって挑んだのか
これだけは断言する、
決して彼は自分が引退するからドイツでガムシャラに走り続けたわけではない。
そうドイツだけでない、そして日韓大会でもフランス大会でもなく
その前からサッカーの世界ではいつだって彼は中田英寿として走り続けた。
孤高のサッカー人生と人は言う。
しかし彼を"孤高"にしたのはメディアであり、それに左右された世論である。
そして人は孤高と称しておきながらどこかで"ズレている"とあざ笑う。
それでも彼は自分を信じてくれるファンの為に闘った。
でも、彼について来る・・・
いやついて来れる選手はドイツに居なかった。
彼はある時から宮本にキャプテンを譲った。
たまにしかこない自分がやるよりもツネがやった方がいいと。
彼なりに日本代表を想うがゆえの決断だった。
自分がキャプテンではチームの統率が取れないことに気付いていたのかもしれない。
それくらい誰もヒデについていけなくなっていた。
でも勘違いしないで欲しい。
決してヒデが独りよがりだった訳ではない。
ヒデほどの"誇り"をピッチ上で体現できる選手が殆ど居なかったのだ。
メディアは分裂した日本代表をこう称した
孤立する中田
イチローになれなかった中田
中田代表不要論
全てを中田英寿に押し付けた。その方が楽だからだ。
W杯本番前のマルタ戦で、
左サイドの中田浩二へのパスは確かに優しいパスとはいえなかった。
そういうパスは試合中しばしば続いた。
「走らなければサッカーはできない」
このパスにはそんな"想い"がこめられていた。
本来ならそんな事は練習の時点でするべきだろう。
それを親善試合の中で示すしかなかった所に中田英寿の苦悩はあった。
だがこの優しくないパスは決してこのドイツで始まった事ではない。
彼が中心となって闘った五輪時代、いやその前からも"想い"をこめたパスはあった。
そしてその"想い"をこめたパスはチームの熟成とともに影を潜めた。
いや、ある意味その"想い"は良い意味の"想い"に変わったのだろう。
ひょっとすると彼が全権を握っていたならば
このドイツでの彼の涙はまた違った意味になったかもしれない。
彼はチームと監督とサッカーへの誇りの間で挟まれ続けたのだ。
今後の彼の旅の行方は彼自身が決めること。
でも決して彼は日本のサッカーに背を向ける事はしないだろう。
第一そんな情のかけらも無いような男が
イタリアセリエAという世界の舞台に渡った後に
「自分を育ててくれたチームだから」と
古巣湘南ベルマーレ(旧平塚)のスポンサーになったりするだろうか。
今までにそんな選手はいただろうか?
彼はきっといつの日か日本のサッカーの舞台に帰ってきてくれる。
その時再び声を大にして言いたい
ヒデ、ありがとう
今でも脳裏に焼きついている
遠く離れたイタリアの地で誇り高き彼の名前が満場の観衆に叫ばれたその時を
"SHOGUN"
HIDETOSHI
NAKATA
過去記事
中田英寿の涙に思う~ジーコ日本代表総括~
日本サッカー界は大きな"力"を失ったのかもしれない。
nakata.net
画像:yahooスポーツ時事通信社より引用
このニュースを聞いた時、ガックリと力が抜けました。
ヒデを失う事の大きさ、失って初めて知る中田英寿という選手の存在感
それらはこれから日を追うごとにファンの胸に焼き付いていく事だろう。
人一倍信念を曲げず、人一倍ファンを大切にし、
そして人一倍サッカーを愛していた。
だからこそボールへの想いが薄れてしまったこの29歳という若さでの
現役引退なのかもしれない。
それは彼がブラジル戦前から語っていた"誇りを守る"に通じるのである。
ヒデがこのドイツワールドカップにどれだけの思いをもって挑んだのか
これだけは断言する、
決して彼は自分が引退するからドイツでガムシャラに走り続けたわけではない。
そうドイツだけでない、そして日韓大会でもフランス大会でもなく
その前からサッカーの世界ではいつだって彼は中田英寿として走り続けた。
孤高のサッカー人生と人は言う。
しかし彼を"孤高"にしたのはメディアであり、それに左右された世論である。
そして人は孤高と称しておきながらどこかで"ズレている"とあざ笑う。
それでも彼は自分を信じてくれるファンの為に闘った。
でも、彼について来る・・・
いやついて来れる選手はドイツに居なかった。
彼はある時から宮本にキャプテンを譲った。
たまにしかこない自分がやるよりもツネがやった方がいいと。
彼なりに日本代表を想うがゆえの決断だった。
自分がキャプテンではチームの統率が取れないことに気付いていたのかもしれない。
それくらい誰もヒデについていけなくなっていた。
でも勘違いしないで欲しい。
決してヒデが独りよがりだった訳ではない。
ヒデほどの"誇り"をピッチ上で体現できる選手が殆ど居なかったのだ。
メディアは分裂した日本代表をこう称した
孤立する中田
イチローになれなかった中田
中田代表不要論
全てを中田英寿に押し付けた。その方が楽だからだ。
W杯本番前のマルタ戦で、
左サイドの中田浩二へのパスは確かに優しいパスとはいえなかった。
そういうパスは試合中しばしば続いた。
「走らなければサッカーはできない」
このパスにはそんな"想い"がこめられていた。
本来ならそんな事は練習の時点でするべきだろう。
それを親善試合の中で示すしかなかった所に中田英寿の苦悩はあった。
だがこの優しくないパスは決してこのドイツで始まった事ではない。
彼が中心となって闘った五輪時代、いやその前からも"想い"をこめたパスはあった。
そしてその"想い"をこめたパスはチームの熟成とともに影を潜めた。
いや、ある意味その"想い"は良い意味の"想い"に変わったのだろう。
ひょっとすると彼が全権を握っていたならば
このドイツでの彼の涙はまた違った意味になったかもしれない。
彼はチームと監督とサッカーへの誇りの間で挟まれ続けたのだ。
今後の彼の旅の行方は彼自身が決めること。
でも決して彼は日本のサッカーに背を向ける事はしないだろう。
第一そんな情のかけらも無いような男が
イタリアセリエAという世界の舞台に渡った後に
「自分を育ててくれたチームだから」と
古巣湘南ベルマーレ(旧平塚)のスポンサーになったりするだろうか。
今までにそんな選手はいただろうか?
彼はきっといつの日か日本のサッカーの舞台に帰ってきてくれる。
その時再び声を大にして言いたい
ヒデ、ありがとう
今でも脳裏に焼きついている
遠く離れたイタリアの地で誇り高き彼の名前が満場の観衆に叫ばれたその時を
"SHOGUN"
HIDETOSHI
NAKATA
過去記事
中田英寿の涙に思う~ジーコ日本代表総括~