時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

仕事の世界を考える

2005年04月02日 | 書棚の片隅から
 4月2日のNHK特集「どう思いますか 格差社会」を見て、一度はお蔵入りさせた旧原稿を引っ張り出した。読書の際のメモをもとに手を加えたものである。長いので、時間のない方やテーマにご関心のない方にはお勧めしません。

変わりゆく仕事の世界~~リチャード・セネット『人格の侵蝕』を読む~~

フリーターはなぜ増えたのか
 「フリーター」という妙な日本語・英語が時の言葉となってから、かなりの年月が経過した。激動の新世紀を迎えた頃から、それまで若者の行動に冷淡であった日本社会も、ようやく事の深刻さに気づいたようだ。実のところ、この問題の兆候でもあった10代から20代初めの層のいわゆる若年者失業は、バブルの進行していた80年代中頃から着実に進行していたのだが、指摘する人も少なく放置されてきた。中高年者の失業ばかりに目が向いて、若年層については政府の対策も完全に後手にまわっていた。西欧社会では「若年者失業」は、長らく中高年の失業と並ぶ深刻な課題であった。

 近年の大学生の就職行動を見ていて気がつくことがある。いくら機会があふれる社会になったからといわれても、なにをしたらよいのか分からない若者が急速に増加していることだ。多数のフリーター、そして最近では「ニート」と呼ばれる実態の掌握しがたい若年層の出現は、単に労働市場が停滞していることだけが理由ではない。現代の産業社会が急激に変化しており、職業選択の尺度が大きく揺れ動いているからでもある。その中で「自分探し」という表現に象徴的に示されるように、自分自身がいかなる存在であるかよく分からなくなり、なにをすべきか自信をもてない若者が増えている。

どこに問題があるのか
 この点については、最近ようやく社会の側も気づいてきたようだが、本人ばかりでなく教育側にも問題が多い。学生の多くは、高校、大学を通して、ほとんど職業や人生設計について考える場を持つことなく過ごしてきており、自分を見つめて考える暇もないままに、労働市場に放り出されてきた。どんな職業を選択してよいのか、自分はなにを支えにこれからの人生を過ごして行くのか、考える心の余裕がない、あるいは考えるための枠組みや材料を持っていない。マスコミの無責任な「選職の時代」「起業の勧め」などといった言説にもまどわされて安易な選択をして、とんでもない苦労を背負い込む可能性も高い。

 労働市場が新卒者にとって良好な環境であった時には、学校側は卒業後の職業やキャリアの問題について多くの場合、冷淡な態度をとってきた。卒業後の人生は学生自身が考えればよい問題として、突き放してきた。しかし、大学の「製造者責任」が問われる時代となり、状況は急激に変化してきた。「学校」から「仕事」への移行をいかに行うかという問題は、教育や職業のあり方を考えるに際して大変重要なテーマなのだ。

 日本の大学卒業生のおよそ3分の1は、卒業後3年間に転職するといわれる。若年者の転職行動のある部分は、自分にもっと適した仕事がないか、機会を求めての「仕事探し」、ジョッブ・ショッピングの性格を持っている。不確かな情報の下で最初に選んだ仕事が、多くの点で自分にぴったり合っているという可能性はむしろ少ない。その意味で、こうした動機からの転職は正常な行動といえる(実際、日本でも80年代後半の頃から15-24歳層の失業率は、全年齢平均の2倍以上だった)。他方、多くの人々は、不満を抱えながらも、仕事を続ける。結婚して家庭を持つ、仕事での責任や地位・報酬があがるなど、「定職」を選択する必要も生まれ、転職は30代にかけて減少する。これが、西欧社会に見られた典型的なパターンであった。しかし、こうした特徴にも変化の兆しがある。

日本はアメリカ型を目指すのか
 ある調査によると、今日のアメリカの大卒者は生涯で11回転職し、3回スキル・ベース(熟練の基幹部分)を変えるといわれている。きわめて流動性の高い社会である。新しい世紀に向けて、日本もこうした社会を目指すのだろうか。市場経済化へ向かっての滔々たる流れの中で、労働力も流動化の必要が唱えられ、転職や自営を奨励する論調がいたるところにみられる。確かに、企業や組織に依存、埋没する人間から自立した個人への変化を促すことは望ましいことだろう。

 しかし、同時に、現在進行している資本主義の別の側面にも十分注目する必要がある。繁栄を続けるアメリカにおいても、人々は必ずしも自ら望んで転職し、自営業化しているわけではないのだ。すでに過ぎ去った世紀末のことになるが、アメリカで大変話題となり、イギリスの「エコノミスト」賞(1998)を初めとして、いくつかの賞を得た社会学者リチャード・セネットの『人格の侵蝕:新資本主義における仕事の個人への影響』(注1)を読むと、繁栄を続けるアメリカ社会において、リストラクチュアリングやリエンジニアリングという経営基盤の再編の進行に伴い、どのように職場が変化し、労働者の仕事の内容が変容・細分化された仕事になっていくかが、いくつかの実例を通して生き生きと描かれている。息をつかせず、読ませてしまう。

 IT技術の急速な進展もあり、「柔軟な資本主義」の名の下で、産業や労働のパターンが大きく変化している。アメリカ社会を例にとると、そこではいくつかの象徴的な変化が進行している。転職の増加、フリーランスの増加、家庭での仕事の増加、労働時間の増加、機会は増加するが不安も増加するという一連の変化である。使用者と労働者の古い社会的契約は切断されているが、それを代替するものがなになのかも、ほとんどみえていない。こうした側面にはあまり目を向けることなく、日本のジャーナリズムに登場する論者の多くは、日本もこの方向に移行すべきであることを強調している。しかし、アメリカにおいても、こうした変化が人間性にいかなる影響をもたらすかという点については、注目されることも少なく、体系的な指摘がなされなかった。

リコの場合
 本書の冒頭に登場するリコの場合も(注2)、父親はビルの清掃係であったが、息子であるリコはカレッジを卒業し、結婚して夫妻ともに職業を持つ社会人である。いくつかの企業を経験した後、夫はコンサルタント会社を経営、妻は会計監査ティームの長として、いわば「アメリカン・ドリーム」を体現したかのように思われた。しかし、傍目には成功はしたかに見えるが、現実には二人とも人生の途上で途方に暮れる精神状態におかれている。
    
 アメリカ産業社会が作り出した短期的思考を重視する風潮が、地域や人的なきずなを弱化させ、二人に確固とした拠り所がない「漂流する」人生、それがもたらす恐怖を生み出しているのだ。これまでの彼らの人生は、アメリカ全土を流動的に移動することによって形作られた。そこには、仕事のチャンスはあっても、長期にわたる人間の関係や信頼のきずなが生まれない。そして、彼らにみかけ上は成功をもたらした流動的な人生が、人間性を弱化させ、精神を蝕んでいる。いつになっても、心の安定が得られないのだ。アメリカが追求している新しい資本主義の影の側面ともいえよう。

キャリアの変化
 アメリカ社会においても、1950年代から80年代までは「組織の人間」(organization man)が、産業社会のアイコンであった。仕事が人生を定義していた。職業経歴(キャリア)の初期段階で選択した職業がその後の人生を定めていた。セネットがいうように、「キャリア」とは道に残された馬車のわだちのように、はっきりと前方が見渡しうるものであった。そこには、相対的に安定した技術を背景に、秩序づけられた職務の体系が成立していた。しかしながら、いまや、キャリアは分断化された仕事をいくつかつなぎあわせた、見通しのきわめてつけがたい職業経路に変化しつつある。結果として、これまでのようなひとつの企業に勤務し、昇進の階梯を上る古いキャリアのモデルは稀になっている。大企業はそれでもいくつかの階層があるが、小企業では階層もほとんどない。

 グローバル化した経済活動と技術変化のスピードが速いために、製品のプロダクト・サイクルが短くなっており、競争相手は地球の思わざるところからやってくるため、企業は以前より敏捷でなければならない。そのため、企業は戦略上重要な従業員を残すとともに、基幹部分以外の労働者は専門企業へコントラクトアウトするか、テンポラリーな労働者を使用する。

流動化の裏で高まる不安
 こうした変化は職場を変え、労働の質を激変させている。労働者は現在ついている仕事の先があるか、いつレイオフされるか、などを常に考えていなければならない。特に、アメリカ型の社会では、繁栄期といえどもリストラは行われ、レイオフは日常的に実施され、労働者の流動性は高い。労働者には絶えず、今の仕事がなくなるのではないかという不安が付きまとっている。この点は、あまり注目されていないが、バブル崩壊後の日本社会でも見出されている(注3)。

 1950年代、アメリカ人労働者の5人中3人は不熟練労働者だった。経済的発展と労働組合の組織力にも支えられ、彼らの地位はおしなべて維持されていた。教育はボーナスと考えられた。しかし、今は不熟練でいることは、職がないことを意味している。継続的な教育の必要性は、労働生活のすべての段階に及んでいる。技術変化の早さは一度得た熟練を短い期間に陳腐化してしまう。かつて『中央公論』にも一部が掲載されたが、労働者側に立つカプシュタイン(注4)は、技術の変化、グローバル化、サービス化の進展は、新たな無慈悲な資本主義の中に労働者を投入したとして、この点についてセネットよりもっと悲観的な見通しを示している。

フレキシビリティの実態
 熟練ばかりでなく、働く場所自体が流動的に変わってしまうのだ。企業は、コストの高低を求めて、グローバルな観点から生産や販売の「場所」を簡単に動かしてしまう。しかし、それでも「場所」は、それぞれの国や地域が持つ社会的・文化的立地条件が特定の投資案件にかなり重要な要因となっており、一定の抑制力を持っている。

 新資本主義の下での経営は、「フレキシビリティ」を特徴としているが、そこには組織の非連続的見直し、フレキシブルな生産方式、中央集権なき権限集中という構造的な側面がある。われわれの社会は、これらをいかに制御していくことができるだろうか。セネットの実態についての分析は鋭いが、なにがなしうるかという政策面については、あまり具体的ではない。彼は、この注目すべき新著の最後で次のように述べている。「この内なる必要がどのような政策に結びつくか、私には分からない。しかし、私は人間同士が互いを気遣うということに深い思慮を払わない体制は、正統性を長く保ち得ないということをよく知っている」。

どこへ行くか:答えはまだない
  社会学者であるセネットの提示したアングロ・アメリカン型新資本主義の展開に伴う労働、とりわけキャリアの変容については、総じて高い評価が与えられているが、反論も少なくない。特にセネットの挙げるケースが全体の労働市場像を描くには十分ではない、社会学者は市場の暗い側面だけを強調しているなど、多くの問題も指摘されている。経済学者の目から見ても、不満な点は少なくない。しかし、セネットの新著は、学術的著作というよりは、現代社会批判と見るべき内容である。その点において、セネットは現代資本主義の持つ一面を鋭く抉り出したといってよい。叙述は平明で、迫力がある。

  先が見通しがたく、キャリアの設計が難しい時代を迎えて、現代社会の内包する問題を理解しておくことは、難局に直面した時にも心の支えとなってくれるだろう。本書に描かれたような状況が、日本でも生まれる可能性はきわめて高いのだから。これからの時代を生きる若い世代にぜひ一読を勧めたい。


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注1)Richard Sennett. The Corrosion of Character. New York: W.W.Norton, 2000, (リチャード・セネット、斉藤秀正訳『それでも新資本主義についていくか:アメリカ型経営と個人の衝突』ダイヤモンド社、1999年)

注2: 1972年、SennettはJonathan Cobbとともに、The Hidden Injuries of Class(「階級の隠された傷」)と題する名著を出版している。この本はエンリコという名の清掃係(janitor)を題材としてとりあげている(これも読み応えのある作品である)。エンリコの仕事は単純で、精神的にも報われることの少ない内容であった。それでも、彼が、自分の仕事に満足していたのは、子供たちの生活向上に役立っているという思いが支えとしてあるからであった。自分が果たし得なかった夢を「子に託す」といってもよいだろう。この思いが、彼の仕事の肉体的・精神的な荒涼を埋め合わせていたのだ。新著は、冒頭で15年ぶりに筆者が空港で偶然出会ったエンリコの息子リコとの話から始まっている。リコは父親が息子にそうなってほしいと思ったほとんどすべてを手中にしていた。物語はそこから出発する。

注3)桑原靖夫・連合総合生活開発研究所編『労働の未来を創る』、第一書林、1997年.

注4)Ethan Kapstein. Sharing the Wealth, Norton, 2000.

Copyright(C)2000 Yasuo Kuwahara
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